« 郷土資料館前庭の石仏(後列) | トップページ | 渋谷宮益坂御嶽神社の石仏(渋谷区渋谷) »

2019年11月20日 (水)

渋谷小学校跡地の庚申塔(渋谷区渋谷)

今を時めく渋谷、しかし夏目漱石の時代には蛍が飛び、メダカが泳いでいた川の流れの周りに出来た街である。ディベロッパーのCMに「ホタルのいる渋谷」などというキャッチコピーがあるが、つい最近までいたのに彼らの仲間がその環境を壊してしまったためにホタルが居なくなっただけである。自分で壊しておいて元に戻すのに金を儲けるというどうも許しがたいことになっている。

Dscn1015

渋谷小学校は最初は東横デパートの辺り、そして明治時代後期に東急文化会館の場所(現在の渋谷ヒカリエ)へ移転。坂下はJR山手線の線路と宮下公園。坂下を流れた渋谷川は新宿御苑辺りから現在の原宿キャットストリートを流れて渋谷で宇田川と合流していた。近年、渋谷小学校は平成9年(1997)に大向小学校と共に神南小学校に統合された。ちなみに神南小学校は渋谷区役所の傍、大向小学校は当初は東急本店の場所。そんな渋谷小学校の校庭には以前から庚申塔があったようである。梨本宮邸時代のあった明治期の地図にはこの場所に鳥居マークがあるので、元はそこにあったのかもしれない。

Dscn1014

庚申塔は板碑型で高さは76㎝ほど。上部に二鶏、下部に二猿の珍しい図柄で、中央は文字が彫られている。区の史料によると、この庚申塔は江戸時代に大名屋敷に仕えた奴と呼ばれる身分の低い人々により造立されたらしい。造立年は延宝8年(1680)である。江戸時代末期まで、ここから青山通り、そして骨董通りのある南青山5丁目、原宿のネッコ坂までの約5万坪は京都藩稲葉家10万石の下屋敷だった。ただ1680年頃も京都藩だったかどうかは調べ切れていない。庚申塔の願主銘には、「奴平 久蔵 多十 奴十 長藤」とあるが、それも何を表すのか分からない。

場所  渋谷区渋谷1丁目18-21

| |

« 郷土資料館前庭の石仏(後列) | トップページ | 渋谷宮益坂御嶽神社の石仏(渋谷区渋谷) »

コメント

大規模工事中で庚申塔は跡形もなかったです。この庚申塔が見たかったです。
大昔、渋谷駅と交差点辺りは川の底で、宮益坂と道玄坂は川を見下ろすように人々が住んでいたといいますね。
この辺りにも多くの石仏が存在していたかもしれないですね。

投稿: HAPPYMAN | 2024年11月29日 (金) 11時29分

HAPPYMANさん

ありがとうございます。渋谷は100年の変化を数年で遂げてしまうような変貌が続いていますね。私が上京したころは、タワーレコードの場所は国鉄の小荷物取扱所でした。昔は小学校も多く、今ヒカリエがあるかつての東急文化会館も小学校、たしか今はなき東急本店も小学校だったと聞きました。もう誰にも止められない街の変貌なのかもしれません。

投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2024年11月29日 (金) 20時16分

僕が18歳で上京したのが1979年。国鉄の小荷物取扱所は現存していたんですね。

投稿: HAPPYMAN | 2024年12月 1日 (日) 03時09分

HAPPYMANさん

私とほぼ同時期ですね。私は1976年に上京しています。国鉄が初乗り30円でした。当時は中目黒に住んでいたので渋谷はいつもの遊び場でした。

投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2024年12月 1日 (日) 14時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 郷土資料館前庭の石仏(後列) | トップページ | 渋谷宮益坂御嶽神社の石仏(渋谷区渋谷) »