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2019年12月31日 (火)

交通危除地蔵境内の石仏(中野区白鷺)

中杉通りの西武新宿線の踏切を南に渡るとすぐに妙正寺川を渡る。この橋を八幡橋という。すぐ南東に鷺宮八幡神社があり、これが鷺宮の地名の由来である。康平7年(1064)に前九年の役に勝利して東北を平定した源頼義が建立とされ、当時周りは鬱蒼とした林で鷺の巣が集まっていたことから鷺宮大明神と呼ぶようになった。その周辺の土地として鷺宮という地名が生まれたと言われる。

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交通危除地蔵そのものは新しく、昭和12年(1937)に造られたものだが、説明碑によると日本で最初の交通安全の地蔵尊だという。ただ願主が交通事故防止安全会地蔵講とあり、今も地蔵講が生きていることは素晴らしいと思う。この境内には、近くにあった石仏や道標が集められている。

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まず庚申塔が1基。駒型で青面金剛像に邪鬼、三猿が描かれたもの。造立年は寛保2年(1742)9月で、元あった場所は踏切の北の方、新青梅街道の手前の三差路(鷺宮4丁目415というから、現住所は鷺宮4丁目44-1)。「奉造立庚申尊像 武州多摩郡上鷺宮村 講中男女15人」と書かれている。施主は篠家で、この辺りの名家である。

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その隣にある地蔵2体だが、右の大きい方は庚申塔と同じ場所にあったもの。享保16年(1731)10月の造立。台石に「奉供養地蔵大菩薩 念仏講中為二世安樂  願主 篠勘三郎 他信男信女67人」とあるので、なかなか大きな地蔵講だったようだ。元の場所には現在三角形の敷地にビルが建っているが、以前は普通の民家兼店舗が並び、地蔵と庚申塔があったのは少なくとも昭和中期だろう。70年前の国土地理院の地図にはこの三差路に立像のマークが付いている。

場所  中野区白鷺2-48-1

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2019年12月30日 (月)

御嶽神社と子育地蔵(中野区鷺宮)

笠の落ちた庚申塔と上半身欠損の地蔵尊の向かいにあるのが御嶽神社。とても小さな神社でまるで屋敷守のように小さい。この神社は武州御嶽神社(青梅)の分社で、鷺宮4丁目(旧地名:中内)と6丁目(旧地名:大境)に住む約30人の講員によって維持管理されている。川崎の梨農家が御嶽神社へお参りする話は知っていたが、この地域にも同じ風習があったのかと驚いた。

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この御嶽神社の前に地蔵尊がある。地元では「子育地蔵」と呼ばれている。丸彫の地蔵尊は宝暦9年(1759)10月の造立。「武州多摩郡上鷺宮村 施主 大野弥三郎」の銘がある。施主の大野弥三郎は子供が育たないので、祈願してこの地蔵を建立したと伝えられる。

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そして御嶽神社の方はというと、明治41年(1908)の建立。地蔵よりもずっと新しい。上記御嶽講中によって建てられたわけだが、それには事情があった。御嶽神社は昔から農家の作神様として多くの信者が武蔵野に居た。もとは鷺宮3丁目30番地というから鷺ノ宮駅の少し北側に御嶽神社があった。元亀3年(1572)に地域に悪疫が流行った折、青梅の御嶽神社にお参りしたところ悪疫は収まり、篠源左衛門によって創建されたものである。ところが後に管理されなくなり無くなってしまった。この御嶽神社と上鷺宮2丁目の北原神社は、もとはこの鷺宮3丁目の御嶽神社から講中により分祀されたもので、そっちの方が現在も残っているという訳である。

場所  中野区鷺宮5丁目12-4

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2019年12月29日 (日)

鷺宮5丁目の庚申と地蔵(中野区鷺宮)

鷺宮4丁目の庚申塔で旧新青梅街道と交差した鷺宮村から井荻村への古道を南西に進むと、5分ばかり歩けばまた同じように辻に植込みがあり野仏がある場所に差し掛かる。そのまま進むと西武鉄道の変電所のある辺りに出るが、そこには昔、西鷺ノ宮駅があった。昭和17年(1942)に開業したが、2年後に閉鎖され、9年間放置された後、昭和28年(1953)に正式に廃止されたという謎の駅である。

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ブロック塀が凹んだところに庚申塔と地蔵が並んでいる。塀の向こう側は今となっては希少な畑になっている。近づいてみると右側の地蔵は上半身がない。台石は道標を兼ねているらしいが左面は塀側で読めず、右面は「いくさ道」(井草道)とある。造立年は元文3年(1738)11月。「奉供養地蔵尊 講中36人  武州多麻郡上鷺宮村」とある。

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むかって左側の庚申塔は本来は唐破風笠付の角柱型だが、笠は後ろに落ちていた。青面金剛像に邪鬼・二鶏・三猿の図柄で、造立年は延享2年(1745)10月である。「奉造立庚申尊像  武刕多摩郡上鷺宮村 講中28人」とある。この辺りはかつては大境と呼ばれた地域で、妙正寺川流域の水田と台地の畑を使った農家が散らばっていた。開発されたのはほんの数十年前の高度経済成長期、それまではのどかな農村風景だった。

場所  中野区鷺宮5丁目11-1

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2019年12月28日 (土)

つげの木地蔵(中野区上鷺宮)

ここも新青梅街道からちょっと外れた旧道にある地蔵尊である。この辺りは昔、上鷺宮村の中でも北原と呼ばれていた地域。南に流れる妙正寺川の対岸には原という地域があるのでそれと対応しているのであろう。つげの木地蔵の名前の由来だが、昭和20年頃までは大きなツゲの木がこの地蔵を覆い、祠の役目を果たしていたことからそう呼ばれるようになったらしい。

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現在ツゲの木はないが、後ろのアパートの敷地にあるみかんのような柑橘系の樹木が雰囲気を出している。地蔵の造立年は寛政3年(1791)10月で、台石の右側面に年号が彫られている。台石正面には鷺宮村の銘があり、念仏講中27人が願主となっている。

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手前の自然石には「つげの木地蔵尊」と彫られ、「右 目白道 左 田無道」とある。この石がいつからあるかは分からない。そして残念なことに、台石は江戸時代のものだが、地蔵本体は終戦間もない頃、何者かの盗難に遭い見つかっていないという。現在の地蔵は昭和29年(1954)に再建されたものである。仏を盗む輩は許せない。多くの信者が傷ついたことだろう。罰が当たっていることを望むばかりである。

場所  中野区上鷺宮2丁目10-1

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2019年12月27日 (金)

鷺宮4丁目の庚申塔(中野区鷺宮)

都立家政駅と鷺ノ宮駅はとても近くホームの端から隣駅のホームの端まで300mしかない。野方と都立家政の間も近いがそれでも600mはある。電車を待つなら間違いなく歩く距離である。これは昔、中野高等家政女学校(現在は鷺宮高校)の要請で都立家政の駅を作ったからである。鷺宮は中野区でも最も開発の遅れたエリアで、妙正寺川の流域の低地には水田が広がっていた。この流域の開発が進んだのは高度経済成長期以降で、都営アパートなどが沢山作られた。

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西武新宿線の北側を並行して東西に走るのは新青梅街道である。「新」とつくのにこの道は江戸時代からある古い道である。そしてこの道筋には時代に応じた野仏が残されている。中杉通りの交差点の西からまっすぐな新道と旧道が分岐しているが、この旧道筋の途中に古い庚申塔が立っている。植込みに紛れている様子だが、唐破風笠付角柱型の立派な庚申塔である。

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青面金剛像は無く、下部に三猿が浮彫になっている。正面には「奉供養庚申二世祈所」とあり、造立年は元禄10年(1697)2月である。東西の旧道と交差する北東から南西に延びる道は、上鷺宮村から井荻村へのメインルート。この小さな辻には昔から多くの人々が往来していたのである。

場所  中野区鷺宮4丁目6-5

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2019年12月26日 (木)

上鷺宮の願掛け地蔵尊(中野区上鷺宮)

西武新宿線鷺ノ宮駅から中杉通りを北へ600mほど歩くと路傍に2基の地蔵が立っている。地元では「子連れ願掛け地蔵」と呼ばれている。中杉通りは江戸時代からあった道筋。阿佐ヶ谷村から下鷺宮村、上鷺宮村を繋ぐ街道であった。当時この辺りは中村、上鷺宮村、下鷺宮村のそれぞれの村境が近く、現在も上鷺宮と中村東の町境である。どちらも北向であることから、おそらくは上鷺宮村にとっての塞ノ神だったのだろう。

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左側の大きい方の地蔵は正徳5年(1715)10月の造立。「奉供養念仏講中」とあり、台座に「上鷺宮村 願主 篠氏」とある。いっぽうの小さい方の地蔵は造立年不詳、「奉造立菩提念仏供養念仏中二世安樂」とあり、こちらも台座には「多摩郡上鷺宮村篠丈右衛門」の銘がある。このふたつの地蔵には面白い言い伝えがある。

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祈願する人が白装束で夜中に念仏を唱えながら小さい方の地蔵を倒すと、大きい方の地蔵は倒された小さい地蔵を起こしてもらいたいために願い事を叶えるというのである。成就すると、祈願した人は自分が倒した小さい方の地蔵を起こしに行くという風習である。なかなか面白い村人の風習だと思う。

場所  中野区上鷺宮1丁目2-13

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2019年12月25日 (水)

鷹番馬頭観音(目黒区鷹番)

目黒区に鷹番という住居表示がある。現在は学芸大学駅の西側も含む広いエリアを指すが、昔は鷹番小学校の周辺の小字だった。江戸時代将軍の鷹狩場があったのは主に江戸城から5里(20㎞)の範囲内で、目黒のこの辺りは頻繁に将軍の鷹狩が行われた地域である。周辺は碑文谷原と呼ばれ、広大な原野や水鳥の多い池が散在した。鷹番というのは、鷹狩り場(鷹場)の番人を指すことが多い。そんな人々が住んでいたのがこの辺りで、明治末期までは家も20軒ほどしかなかったという。

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そんな鷹番小学校の南側、目黒通りに出るすこし手前の辻に馬頭観音の堂宇がある。実はこの辻、江戸時代から重要な交差点で、どの道も古道で何百年も使われてきた道である。東西の道は目黒からは二子道、反対からは目黒道と呼ばれた街道筋。また南北の道は祐天寺から南下して円融寺を経て等々力へ伸びた道であった。現在はこんな路地だが、今でいうと環七と目黒通りの柿の木坂交差点のような場所であった。

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馬頭観音は摩滅が進み細部が分からなくなっている。目黒区の資料によると、造立年は嘉永3年(1850)らしい。台石には「武州比企郡諏訪山妙安寺」とあることから、目黒銀座の馬頭観音と同じく、埼玉県東松山市の妙安寺から勧請されたと思われる。中目黒駅の西側の小高い丘で現在は高級住宅地になっているところを諏訪山と昔から呼んでいた。東松山の諏訪山妙安寺と中目黒の諏訪山の関係が気になるが、それについて書かれた資料はまだ見たことがない。

場所  目黒区鷹番1丁目5-15

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2019年12月24日 (火)

清水庚申尊(目黒区目黒本町)

目黒通りの目黒郵便局から武蔵小山方面に250m進むと斜めに円融寺通りと交差する。現在はピザ店があるその角に清水庚申尊がある。近くのバス停の名前も「清水庚申」であり、地元では広く知られた場所。この斜めの交差点は江戸時代からこの角度で交差している。現在の目黒区役所は中目黒の元千代田生命本社の場所にあるが、2000年に千代田生命が倒産した時に目黒区が購入した。それまで区役所があったのは目黒区中央町2丁目4の区画で、現在は大きなマンションになっている。そのためこの辺りは本町とか中央とかいった地名になっている。

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その清水庚申尊だが、脇に従えている燈籠は一見して切支丹燈籠である。ところがこれが近年の創作なのか昔からどこかにあったものか、全く情報がない。目黒区にはいくつも切支丹燈籠が現存していて、本物の可能性もゼロではないと期待はしているが、どうも見た感じ薄そうである。

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主役の庚申塔は角柱型、前面に「南無妙法蓮華経 庚申講中」とある。造立は嘉永7年(1854)10月と意外に新しいが一応江戸末期。道標を兼ねており、右面には「向テ右 いけかみ まりこ 左 めくろ ゑど みち」、左面には「向テ 右 せたかや ふちう 左 しな川 みち」とある。 学芸大学駅からここを通って中原街道平塚への道は品川用水沿いにできた道である。ところがこのあたりだけは品川用水から離れている。おそらく品川用水掘削以前から円融寺道があり、その為にここだけ離れてしまったのではないかと推測する。

場所  目黒区目黒本町1丁目10-18

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2019年12月23日 (月)

碑文谷鬼子母神堂の石仏(目黒区目黒本町)

目黒本町なのに碑文谷なのは昭和後半で味気ない地名で住所を決めたからだろう。もともとこの辺りも碑文谷村の一部だった。高度成長期以前は学芸大学駅あたりを水源とする川が鬼子母神堂の前を流れ、区立向原小学校の前で立会川の本流に合流していた。上流にあった川を堰き止めたため池は今も残っていて清水池公園の池になっている。この鬼子母神堂は元和2年(1616)に安藤藤八郎という人物が建立したらしい。

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この場所は「法華塚」と呼ばれ、江戸時代から除地として租税を免れた土地になっていたらしく、円融寺との深い関係があったのではないかと思われる。またこの土地は5世紀~6世紀の古墳跡であるという説もあり、千数百年もの間聖なる一角として扱われてきた。境内にある石碑石塔はまるでストーンヘンジのように周りを囲んでいる。

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手前にも右奥にも石塔石碑が並んでいるが、区の資料に残されているのは手前の5基のうちの中央の角柱に近い駒型の馬頭観音のみ。「十羅刹下馬頭観音」と言われ、元はここではなく目黒本町5丁目24にあったというから、前述の川が立会川に合流する辺りである。造立は明治14年(1881)3月で、道標を兼ね「右 東京目黒みち 左 丸子奥沢みち」と側面に彫られている。

ただし5基の中ではこの馬頭観音が最も新しく、左端の板碑型供養塔は寛文4年(1664)、左から2番目の角柱は寛保3年(1743)、右から2番目の角柱は文政10年(1827)などとかなり古いものが多い。この塚は改めてじっくり調べたい場所である。

場所  目黒区目黒本町6丁目24-11

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2019年12月22日 (日)

碑小前の庚申塔(目黒区碑文谷)

東京の町名はほぼ悪化の一途を辿ってしまい、かつての土地の名前が消えてしまったケースが極めて多い。「丘」「台」をつければ不動産価値が上がるなどと愚かなことを考えるので、窪地なのに自由が丘などと付けてしまう。そんな中でバス停と小学校名は土地の記憶を残していることが多く、いつも有難く思っている。23区内でいうと、港区の笄(コウガイ)小学校、目黒区の菅刈(スゲカリ)小学校、そしてこの碑(イシブミ)小学校などは何百年あるいはそれ以上の歴史をまとった名前である。

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目黒区立碑小学校は円融寺と並んでいる。円融寺の東門を出て右に小学校があるが、すぐに屋根付きの石塔が見つかる。「碑小前の庚申塔」と呼ばれている。しかしかなり新しいもののようである。見ると角柱型の文字塔庚申塔で、昭和31年(1956)7月の再建とある。私とほとんど変わらない。

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以前の庚申塔は、円融寺の東門の前にあったというから、10mも動いていないはずである。たった60年余りで記録がないのが残念でならない。僅かに目黒区の資料には、道標を兼ねた庚申塔があったとある。この辺りの昔の地名は「門前」という。円融寺の正門は南側だが、東門周辺の方が遥かに民家も集まり利用者が多かったのではないだろうか。

場所  目黒区碑文谷1丁目18-2

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2019年12月21日 (土)

円融寺と石仏(目黒区碑文谷)

碑文谷八幡宮の北東200mばかりのところに円融寺がある。とても広い寺院で幼稚園を含めると表から裏まで250mほどある。この円融寺は目黒不動や祐天寺に押されてあまり知られていないがなかなかの名刹である。山門と釈迦堂がとくに素晴らしい。創建は平安時代の仁寿3年(853)で慈覚大師が天台宗法服寺として開山。

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山門の向こうに見えるのが釈迦堂。山門の両側には東京都の指定文化財である黒仁王像が対に立っている。作られたのは永禄2年(1559)で江戸時代には庶民の人気が高かったという。山門(仁王門)も同時期のものかと思われる。天台宗の法服寺は、弘安6年(1283)に日蓮の高弟日源上人により日蓮宗に改宗され法華寺となった。従って江戸時代は法華寺で、江戸後期の天保5年(1834)から再び天台宗に戻り円融寺と改名した。

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釈迦堂は都内で2番目に古い木造建築。この建物は国の指定重要文化財になっているが、さりげないたたずまいである。室町時代初期の建築とされる。鎌倉の寺院を訪ねたかのような錯覚に陥る風情がある。その釈迦堂から西に進むと墓所になるが、その手前にいくつかの石仏が並んでいる。

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右のほうの小さい石仏は墓石、その中でも大きな舟形光背型の如意輪観音像は宝暦14年(1764)の廻国供養塔である。六十六部廻国とあるが、この六十六部というのは四国八十八ヶ所とか、西国三十三ヶ所というように寺が決まっているわけではない。日本全国から比較的自由に六十六ヶ所を決めて巡るのである。なかなか興味深い。

中央の大きいものは金竜地蔵と呼ばれ、三界万霊の供養塔で、明治27年(1894)のもの。左の堂宇らしきものに入っているのが出世地蔵尊とあったが、どうも寛文10年(1670)と古い物らしいが、文字が良く読めなかった。墓所に行くとまだまだいろんな石仏があるのだが、きりがないのでこれくらいにしておいた。

場所  目黒区碑文谷1丁目22-22

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2019年12月20日 (金)

碑文石(目黒区碑文谷)

目黒区の環七内側に碑文谷というところがある。江戸時代は碑文谷村という村で、昭和7年に東京市目黒区に入った。かつては竹林の多い土地で筍が名産であった。民話『すずめのお宿』に因む竹林も古民家と共に残されている。碑文谷八幡神社の西にあるすずめのお宿という区の施設である。旧衾村の栗山家の母屋をに移築復元している。

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碑文谷八幡宮はマンションの多い環七沿いからすぐの場所でありながら豊かな樹木が林立している。環七筋が尾根だと以前に書いたが、その尾根から立会川に向かって少し下った斜面上に神社があるので、参道から入ると徐々に上っていく形になる。鎌倉時代の源頼朝の家臣である畠山氏が勧請して創建したと伝えられる古い神社である。

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神社の境内にガラスの堂宇に入った「碑文石」がある。これが碑文谷の地名の由来と言われている。碑文を彫った石のある里という意味で碑文谷の地名になったらしい。梵字が刻まれ、自然石の板碑のようなものと考えられる。昔、神社の西側を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたもので、時代は室町時代とされている。鎌倉街道については下道のルートの一つのようで、代官山猿楽町から目切坂を下り、蛇崩川を渡って葦毛塚を通り、碑文谷池の傍から環七筋に走っていたのが鎌倉古道のひとつであった。

場所  目黒区碑文谷3丁目7-3

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2019年12月19日 (木)

高木神社の庚申塔(目黒区南)

東京に立会川という川がある。京浜急行線に立会川という駅があるが、そのすぐ南を流れ東海道の浜川橋(泪橋)を下ると勝島運河から京浜運河に注いでいる。この源流は数年前に碑文谷池バラバラ殺人事件で無期懲役となった事件現場の碑文谷池である。無期懲役という曖昧で甘すぎる刑には個人的に反対なのだが、2016年のあの事件がここを訪れるとどうしても蘇る。そんな碑文谷池を水源とした立会川は、もう一つの水源である清水池からの流れを合わせて目黒区から品川区へ流れていく。

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碑文谷池から南に流れる立会川が環七を尾根とする台地のために流れを東に変えるところにあるのが碑文谷八幡宮で、そのすぐ南にあるのが高木神社である。高木神社の創建は不詳。江戸時代は第六天社として祀られ、明治になってから高木神社と改名した。おそらくパワースポット好きが好みそうな雰囲気がある。この辺りは江戸時代は碑文谷村子ノ神という集落であり、その守護神だった。

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境内には道標を兼ねた角柱型の庚申塔がある。造立年は天明8年(1788)12月、それ以来雨風にさらされてきたからかまるで甌穴のようになった角柱の頂上部分が凄い。この庚申塔が別名「子ノ神庚申塔」と呼ばれるのは、子ノ神集落の人々が護ってきたものだからである。塔の上部に東西南北が彫られており、北面は「武州荏原郡 庚申講中 碑文谷村」と上半分、「目黒 仁王尊 道」と下半分にある。東面は「品川 大森 道」、南面は「丸子 池上 新田 道」、西面は「東 品川 大森 道」とある。

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しかしこの頂上の甌穴はどうやってできたのか想像が膨らんだ。甌穴のようにそこにあった石が広げたということはないだろう。樹木から落ちる雫が削ったとも思えない。ごくまれにこういう石仏石塔があるが、謎である。

場所  目黒区南2丁目1-40

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2019年12月18日 (水)

清水窪弁財天と馬頭観音(大田区北千束)

中原街道脇にある洗足池、昔からの周辺の地名は千束であったが、日蓮が身延山久遠寺から常陸の国へ当時に向かう途中、池のほとりで足を洗ったという言い伝えから洗足池となったと言われる。真偽のほどは分からない。そんな洗足池は、一説には大昔に築堤によって造られた人工池だという説がある。確かに地形的にはその通りである。洗足池に流入する支流はいくつもあったが、現在も残るものは清水窪弁財天の池の湧水だけである。

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弁財天の脇には滝のように落ちる水流があるが、これは人工の滝である。実際の湧水は池のほとりで判るか分からない程度湧いているようだ。井の頭池や代々木公園の清正井のようにはいかない。その他の水源は環七と中原街道の交差する南千束立体交差の辺り、大岡山駅付近、東工大キャンパスの南東付近である。勿論どれも現存しない。この清水窪弁財天の奥に馬頭観音がある。

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造立年などは全く分からない。おそらく昭和後期辺りではないかと思うが、どこにも記録がない。自然石の板状のものに「馬頭観世音」とのみ彫られている。ちなみに清水窪弁財天は、江戸時代初期に地元の岸田家先祖が祀ったのが始まりという。縄文海進の頃はこの辺りまで海が迫っていたようで、大森区史には洗足池は海の名残りと書かれているようだが、多分違う。

場所  大田区北千束1丁目26-5

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2019年12月17日 (火)

鉄飛坂庚申塔群[境内](目黒区平町)

帝釈堂内の4基の庚申塔(供養塔)は見事なものだが、小さな境内にある二つの石碑もなかなかのものである。現在の地名は平町(たいらまち)だが、明治時代から大正時代にかけては平という地名、その小字に鉄飛があった。 江戸以前の古道は南北に何本かの鎌倉道があり、その間を六郷田無道が通っていた。またこの辺りでは池上本門寺に向かう池上道も分岐している。

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鉄飛坂の坂下には呑川が流れ、その向こうは寺郷という集落。間の谷筋には田んぼが広がっているというのが大正時代までの様子である。現在は帝釈堂の場所は四辻になっているが、昔は丁字路で南には道が伸びていた。少し南下したところに神社があったようだが、昭和後期以降の地図からは消えている。(神社跡はマンションになっている)

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境内にある二つの石碑の内一つは駒型の見事な庚申塔である。青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている駒型の庚申塔は残念ながら造立年が分からない。目黒区の資料によると港区から移設したとあるが、元の場所は分からない。

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もう一基の石碑は角柱型の庚申塔で道標を兼ねている。正面には「庚申供養塔」と彫られ、左面には「武州荏原郡世田ヶ谷領衾村」とある。また正面には「右ハ目くろミち  左ハ二子の渡し」とあり、右面には「右ハほりの内  左ハ池上 ミち」と書かれている。ほりの内は杉並区の堀ノ内である。この庚申塔は昔はここから東へ200mほどの四辻にあったもの。「切石庚申」と呼ばれていた。

場所  目黒区平町2丁目18-3

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2019年12月16日 (月)

鉄飛坂庚申塔群[帝釈堂内](目黒区平町)

目黒区の中でも鉄飛坂は名坂のひとつである。 その鉄飛坂の坂上にあるのが帝釈堂、そして複数の庚申塔が堂内と境内にある。帝釈堂は日蓮宗にみられる。葛飾の柴又帝釈天も日蓮宗の寺院である。不勉強なので細かい宗派の違いは私にはわからないが、日蓮宗は「妙法蓮華経(法華経)」の題目「何妙法蓮華経」と唱えることを重視した宗派。私は曹洞宗の寺院で両親を弔ったが、比較的近所にあったのが日蓮宗の寺院だったので、墓所は日蓮宗の寺院の境内にした。あの世で「般若心経」と「何妙法蓮華経」と一体どっちだと怒っているかもしれない。

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窓の間から堂内を覗くと4基の立派な石塔が祀られている。順番に紹介すると、右端は板碑型庚申塔で、造立年は延宝8年(1680)11月。「奉敬礼帰名帝釈天王」と書かれている文字塔。右から2基目は角柱型の題目塔で、「南無妙法蓮華経」と書かれている。造立は天保13年(1842)。三番目は頂点のきれいな板碑型庚申塔で、「南無妙法蓮華経」とあり下部には帝釈天王が彫られている。造立年は明治14年(1881)11月。

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上の写真では柱に隠れていた左端がこれである。 板碑型の文字塔型庚申塔で造立年は貞享2年(1685)11月。こちらも「奉尊敬帰名帝釈天王」とある。日蓮宗系なのは池上本門寺が近いからだろうか。ここには南北にも街道が通っていて、多くの信者が池上本門寺に通ったらしく、あちこちに池上への道標が残っている。

場所  目黒区平町2丁目18-3

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2019年12月15日 (日)

平町墓所脇の庚申塔(目黒区平町)

桜森稲荷神社の70mほど南に墓所があり、一角に石塔がいくつか祀られた境内がある。民家と墓所の間にあるが道から直接見えないので見落としてしまいそうだ。平町はヒラマチではなくタイラマチと読む。江戸時代には衾村字平根、平根の「平」が残って1965年の改定で正式に平町となったが、明治時代の地図を見ると「平根」、大正時代は「平」、昭和に入ってからは「平町」という地図表記になっている。

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ブロック塀の階段を上ると左に屋根付きの石碑がある。板碑型の庚申塔で、造立年は延宝6年(1678)11月と相当古い。文字塔で「帝釈天王」と書かれている。高さは1mを超える大きさ。なぜこの場所にこれがあるのかなど不思議が多い。

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板碑型庚申塔と向かい合うようにして、墓所の塀の前に並ぶのが馬頭観音他計3基の石仏。新旧混じってなかなか面白い。左端の丸彫の像は昭和60年(1985)7月造立の極めて新しい馬頭観音で、このタイプは見たことがない。

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中央も馬頭観音で文字のみが正面に「馬頭観世音」と彫られている。脇を見ると、造立年は昭和15年(1940)9月と彫られている。右にあるのはどうも墓石のようだが、なぜここに祀られているのかはわからない。ただ造立年は元禄2年(1689)9月と相当古いので、板碑型庚申塔と関係があるのかもしれない。

場所  目黒区平町2丁目14-14

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2019年12月14日 (土)

桜森稲荷の庚申塔(目黒区平町)

東横線都立大学駅の南東250mほどのところにある桜森稲荷神社。正式には旧字の櫻森稲荷神社という。創建年代は不明だが、一帯に桜が多く咲いていたので桜森と呼ばれるようになったという。稲荷神社は屋敷守から伏見稲荷のような大きなものまで様々なタイプがある。これは中くらいの規模の稲荷神社。

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稲荷神社の鳥居の脇に堂宇があり、比較的大きい2基の庚申塔が祀られている。右の大きい方は舟形光背型で、青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄で青面金剛の頭には蛇を巻いている。造立年は享保5年(1720)10月。台石には6人の願主名があるが半分切れている。左の小さい方は、駒型でこちらも青面金剛像に邪鬼、三猿。石の質が右のものよりも悪いのか風化進んでいる。造立編は文化7年(1810)7月と右のものより90年ほど新しい。

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中根から東は呑川の流域で一段低いが、東に進むと再び河岸段丘を上る。桜森稲荷は田んぼ地から台地に変わる坂の途中にある。この辺りから都心側は衾村(碑衾村)と呼ばれた地域。現在の環七通りは尾根筋にあり、碑衾の地名は碑文谷村と衾村を合わせたものである。衾村の地名の由来は種々あって定まらない。碑文谷村は碑文谷八幡宮にある碑文石によるものと言われる。

場所  目黒区平町1丁目16-10

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2019年12月13日 (金)

目黒通り中根の庚申塔(目黒区中根)

目黒通り沿いのマンションの一角に庚申塔と馬頭観音が並んで祀られている。八雲三丁目バス停の少し都心寄りの南側である。目黒通りの前身となった街道は江戸の出っ張り最西端の目黒不動から九品仏浄真寺や野毛の渡し、二子の渡しへ向かう道筋であった。二子から来ると西片(現在の中根あたり)で道は分岐し、北側は目黒へ、南側は鉄飛坂を経て長原や碑文谷へ繋がる道だった。その分岐点が現在も残っていて、そこにこの野仏が現在も祀られているのである。

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右側が庚申塔。「中根西三差路庚申塔」と呼ばれる。造立年は不明である。像型も駒型なのか角柱なのか破損によって分からなくなっている。僅かに道標の跡らしき「左・・道」と読める。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿である。一方の馬頭観音塔は明治6年(1873)造立。こちらも風化が激しく像型が不明瞭だが、三面の上に馬頭がある。

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マンションの脇に立派な黒御影石の堂宇を作って祀られているのはなかなか豪華である。目黒通りが出来る前の同じ道筋の街道は二子道と呼ばれていた。くねくねと曲がっていた二子道は昭和になってから徐々に整備された。しかし何ヶ所か昔の二子道が残っている。その一つが中根から八雲神社へ北上する道で、神社手前で参道と分かれて東に曲がり都立大学駅付近で再び目黒通りに出る。耕地整理された中に、くねくね曲がる道があると古道かもしれないと歩いてみる。意外と発見があったりするものだ。

場所  目黒区中根1丁目25-17

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2019年12月12日 (木)

石井戸の地蔵堂(世田谷区大蔵)

石井戸は現在の大蔵3丁目、4丁目、5丁目辺りの古い地名。 うちの菩提寺もこの石井戸の妙法寺。 但し私はたまたま境内に墓所を買っただけでもともと長州の人間である。宗派も気にしないので、故郷では曹洞宗だったがこちらでは日蓮宗にお世話になっている。 石井戸は仙川の谷に狭い田んぼを耕していた土地である。仙川と野川の間にある丘は昔は殿山と呼ばれ、鎌倉時代の石井氏の館跡と伝えられる。

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永安寺から尾根筋を北に延び妙法寺門前を経て世田谷通りと成城への道の分岐点に達するルートは古道である。また砧公園裏から世田谷区立総合運動場裏を下る座頭ころがしを経て仙川を渡り丘を登ってこの地蔵堂前の丁字路に達する道もまた古道である。その丁字路に昔からあるのがこの地蔵。

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地蔵の造立は元文5年(1740)、地蔵の右には「念仏供養之所」とあり、左には年号と「多麻郡大蔵村」の銘がある。それ以外のことは不詳。もしかしたら妙法寺の住職に聞いたら何かご存知かもしれない。 逆戻りになるが、ここから座頭ころがし方面へ下り仙川を渡る橋が中之橋という橋で、その少し上流に江戸時代から昭和中期まで水車があったという。現在左岸の大蔵団地の建替えが始まっているが、団地が出来たころ(1959年)まではあったようである。

場所  世田谷区大蔵5丁目19-21

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2019年12月11日 (水)

大蔵氷川神社の庚申塔(世田谷区大蔵)

世田谷区大蔵は南北に長い地域で、北は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の少し北から、南は多摩川沿いまで。昔は環八の西側から南北に延びる横根村という村があったが、明治8年(1875)に大蔵村に併合された。横根村の住民の一部はかつて千歳船橋駅付近に開墾のために移転したので、千歳船橋の稲荷神社の氏子はいまだに横根睦という会である。大蔵村に氷川神社が出来たのは暦仁元年(1238)で江戸氏が勧請したと伝えられる。

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大蔵村の鎮守様である氷川神社は野川と仙川が形成した国分寺崖線の突端にある。地形はまるで岬のようである。神社の階段の脇にあるのが庚申塔の堂宇でなかなか立派なもの。右の2基が庚申塔、左の1基は供養塔と思われるが不詳。右端の庚申塔は駒型で高さが62㎝と小さめ、青面金剛像に三猿の図柄である。大蔵村講中の銘がある。造立は享保17年(1732)11月。

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中央の庚申塔は文字のみの駒型角柱の文字塔で極めてシンプルなもの。造立年は文化7年(1810)11月で大蔵本村講中の銘がある。ただどうも台石は当時のものだが上部は違うような気がしてならない。ちなみに大蔵村の本村は永安寺と氷川神社の周辺の小字。明治時代まではこの辺りが最も人口が集まっていた。さて、謎の左端の石塔だが、折れたのか最初からこの高さなのかはわからない。正面には「法界」とあり、寛延2年(1749)10月と彫られている。

場所  世田谷区大蔵6丁目2-6

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2019年12月10日 (火)

永安寺門前の石仏<左側>(世田谷区大蔵)

永安寺山門の左側には地蔵菩薩などが4基並んでいる。一番門側にある右端は、地蔵ではなく六十六部廻国供養塔。丸彫の立像は正徳元年(1711)10月の造立。六十六部廻国というのは法華経を66部書き写し、それを全国の66寺に奉納して廻ることだが、実際にはその僧は乞食のような姿となって米銭を乞いながら廻ったらしい。

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真ん中の2基は地蔵菩薩立像。右側は高さが126㎝ある大きなもので、念仏講中による。造立は寛文12年(1672)8月で江戸時代前期のものである。武州多磨郡菅刈荘大蔵村とある。菅刈荘は荘園の名残りのある地名。まだこの時代は純粋に念仏供養をしていたものであろう。中左の小さめの光背型の地蔵菩薩立像は明和3年(1766)10月の造立。地蔵ではないかもしれない。というのは右側に「龍花山十四世起立之」とあるためである。左端は明治19年(1886)の比較的新しいもので、大蔵村の念仏講中によるものだが、幼くして他界した男の子二人と女の子二人の弔いのようである。大蔵本村石井の銘がある。

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道路わきに立っているひときわ大きな石塔はてっきり大きさから供養塔だとばかり思っていたが、よく見ると馬頭観音であった。これほど大きいものは珍しい。中間の台石に観音講とある。年代は新しく、大正10年(1921)2月である。世田谷区の西部から狛江市にかけては、開発がかなり進行したもののまだあちこちに昔の名残がある。特に細くてまっすぐでない道はもっとも典型的である。

場所  世田谷区大蔵6丁目4-1

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2019年12月 9日 (月)

永安寺門前の石仏<右側>(世田谷区大蔵)

永安寺は天台宗の寺院で、元は鎌倉の大蔵ヶ谷(鶴岡八幡宮の東側の滑川の流域)にあったが、戦国時代の戦火で廃れていた。その鎌倉の地と同じ地名のこの地に延徳2年(1490)に鎌倉の永安寺に因んで建立され、以降大蔵の菩提寺のひとつとなった。本堂前には日本の銀杏の巨樹があり、樹齢は数百年と言われる。

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寺の境内から墓所に向かうところに六地蔵があり、その裏手に数百基の無縁仏の墓石が並んでいる。この中にいくつかは庚申塔なり地蔵菩薩なり、墓石でないものも混じっていそうだがまだ調べていない。そんな古刹の入口の山門がなかなか渋くていい。その山門前には左右にいくつもの石仏が並んでいる。

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まずは右側から紹介したい。門側から、最初は馬頭観音塔である。造立年は文政8年(1825)6月と馬頭観音としては割と古め。右面には施主名が井山七良兵衛と彫られている。続いて左から二番目は、敷石供養塔で造立は寛政7年(1795)3月とある。大蔵村と彫られており、願主は石居市右エ門、石工は六号の永井佐兵衛。三番目は真ん中にあたるが、この地蔵立像がよく分からない。首から上が一度折られた形跡があり、悪ガキの仕業か、戦災かは不明。

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右から二番目がこの列では最も大型の石塔。比較的新しく明治33年(1900)2月造立の石橋供養塔である。「高津村二タ子(二子)」とあるので川崎市の高津にあった二子村のものだろう。江戸時代は現在の国道246号の川崎側周辺は二子村であったが、東京側には二子村は存在しなかった。これも多摩川が暴れ川である所以である。最後に一番右は馬頭観音塔。大正9年(1920)7月のもので、願主は井山伊三郎とある。

供養塔は種類も多くブログに書いたり書かなかったりするが、いろんな情報が含まれていることがあってこれもまた興味深い。

場所  世田谷区大蔵6丁目4-1

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2019年12月 8日 (日)

野川沿いの庚申塔(世田谷区宇奈根)

野川沿いに2基の庚申塔がある。なぜこんな場所にポツンとあるのだろうと不思議に思う。場所は東名が頭上を越えるところから200m程野川の右岸を下流に進んだところ。宇名根は標高でいうとほぼ15m~16m、近くの多摩川の平水時の水面標高が9m~10mなので、5mも水位が上昇すると越水して水害に見舞われる可能性がある。またこの辺りの多摩川はここ数百年の間だけでも大きく右岸左岸に流れが変わっている。その為に川崎市にも宇奈根という地名がある。元は陸繋ぎだったのが多摩川の氾濫で東京と神奈川に分かれてしまったのである。

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屋根も堂宇もないがなかなかいい彫りの庚申塔である。左側は高さが71㎝程、駒型で青面金剛像に邪鬼・三猿の図柄、造立年は享保2年(1717)11月である。武州多麻郡世田谷領宇奈根村講中十五人の銘がある。右側の庚申塔は57㎝とちょっと小柄の駒型、こちらは青面金剛像のみ(日月はあり)で造立年は寛政2年(1790)2月。武州世田谷領宇奈根村の銘がある。

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何故ここに庚申塔があるかという疑問に一つの答えは筏師の話にあった。多摩川は度々氾濫を起こし、流れを変化させたが、野川が合流するこの辺りはワンド(入江)になることが多く、流れが淀む場所だったという。奥多摩や青梅から筏を流してくるとなぜかこの辺りの淀みに捕まってしまうことが多く、しばしば浅瀬に乗り上げて動かなくなってしまうことから「筏の昼寝場」と呼ばれたという。この庚申塔の場所はまさにその筏の昼寝場にある。ということはこの界隈に石仏を残したと言われる筏師たちが絡んでいる可能性が極めて高いということ。だから昔から家のほとんどないこの場所に庚申塔が立っているのだと、一人合点している。もちろん史料などの証拠はないが。

場所  世田谷区宇奈根3丁目13-3

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2019年12月 7日 (土)

観音寺の石仏(世田谷区宇奈根)

宇奈根の観音寺は東名高速道路のすぐ南側にある。東名で多摩川を渡る直前に左にわずかに「岩井園芸」の屋上看板が見えるが、観音寺はその隣り。しかし境内に入ると騒音はあまり聞こえない。意外に感じた。観音寺の創建は永生年間(1504~1521)に小田原で開かれた円正寺がもと、当時は北条が小田原城におり城下にあったが火災で焼失し、元亀年間(1570~1573)に宇奈根に移ってきた。

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北条氏の家臣で荒井という人物がおり、結局宇奈根に帰農した形だったのだろう。その後1590年に北条氏は秀吉に小田原城を攻められ滅亡しているので、荒井家としては正しい選択だったのではないだろうか。観音寺山門脇にある大銀杏は樹齢500年と言われるので、その辺の時代の流れも70歳から100歳の頃に見ていたに違いない。

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山門を入って右側にいくつもの石仏が並んでいる。その中央にあるのが2基の地蔵菩薩。左の丸彫地蔵菩薩立像は台石の文字が風化で消えてしまってほとんど読めないので年代も不明である。武州宇奈根村というのがかろうじて読める。右の舟型光背型の地蔵菩薩立像は、寛文12年(1672)8月の造立。念仏講中によるものである。台石に宇奈根とある。

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地蔵の左にあるのが3基の石仏。左は、駒型の庚申塔で、青面金剛、三猿の図柄。造立年は宝永7年(1710)9月。そのとなり、中央の像は摩滅がひどく何もわからない。右の庚申塔はおそらく笠付の角柱型だったのが笠が無くなってしまったようである。青面金剛と三猿は分かるが、文字はほとんど読めない。

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地蔵の右側には供養塔が2基。左側は明治31年(1898)10月造立の敷石供養塔。右側は平成15年(2003)の敷石供養塔。左側の明治の供養塔の施主は荒井倉吉、右の施主は荒井一男。北条氏の家臣だった荒井氏の末裔であることは多分間違いないだろう。明治の供養塔には「為先祖代々一切精霊」とある。

場所  世田谷区宇奈根2丁目24-2

 

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宇奈根氷川神社の庚申塔(世田谷区宇奈根)

宇奈根の地名の由来ははっきりしない。この辺りの多摩川右岸左岸は高い頻度で氾濫する暴れ川の多摩川によって、しばしば地形の大変貌を遂げてきた。野川が多摩川に流れ出る地域で、水害記録も恐ろしく多い。史料によると、1704年、1721年、1742年、1749年、1757年、1766年、1780年、と10年に一度の勢いで多摩川の洪水に襲われている。昭和に入ってからは戦後のカスリーン台風(1947 国内死者不明1,930人)、キティ台風(1949年 同160人)の時に氾濫している。

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そんな宇奈根の鎮守がこの氷川神社。以前は観音寺の別当であったが、明治40年(1907)に鎮守として独立、しかし戦災で社殿が焼失し、昭和の後期になってやっと再建した。広い境内にまっすぐな参道が印象的である。世田谷の多摩川近くには氷川神社が多い。大蔵、喜多見、宇名根とも鎮守は氷川神社だが、大宮の氷川神社を本社とする氷川神社は素戔嗚尊を祭神とした水に関係の深い神社であるから、多摩川の氾濫にたびたび襲われたこの地域には氷川神社が鎮守となるのであろう。

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神社の最初の鳥居の左に小さな堂宇があり、庚申塔が祀られている。昔は堂宇はなく野ざらしだったが、なかなか素晴らしい堂宇になっている。駒型の庚申塔で青面金剛、二鶏、邪鬼、三猿が彫られている。造立は宝暦7年(1757)11月、左面に武刕多麻郡世田谷領宇奈根村とある。下部には庚申講中として8人の名前がある。250年もの間村の人々に守られてきたことを感じられる庚申塔である。

場所  世田谷区宇奈根2丁目13-19

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慶元寺境内の諸仏(世田谷区喜多見)

慶元寺は広い寺である。幼稚園を含めるとざっと33,000㎡(1万坪)ある。そのうち4分の1が墓所で、墓所の中には三重塔もある。この三重塔が建てられたのは平成5年(1993)とごく最近の事。しかしなかなか見事な三重塔である。

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広い墓所なので墓石でない石塔を探すのはなかなか骨が折れるが、概ね墓所入口近くにあるのでその辺を集中的に見て回った。無縁仏の中にも庚申塔らしきものが混じっているそうだが、今回は二つの地蔵立像を見つけた。

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舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は明暦2年(1656)10月と古い。台石と合わせて162㎝の高さがある。念仏供養とあるので念仏講中のものだろうか。脇に武刕多麻郡喜多見村の銘がある。

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もう一基は明和3年(1766)10月造立の地蔵菩薩立像。願主は単独で河野市郎兵衛とある。世田谷領吉沢講中の銘がある。この場所は有史以前から人間が住着いていた土地で、境内にもかつては7基の古墳があったが、現在では4基が残されているという。寺の周辺にも古墳が多い。

場所  世田谷区喜多見4丁目17-1

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慶元寺六地蔵と念仏車(世田谷区喜多見)

慶元寺は喜多見の古刹、境内参道に江戸重長の像がある。ここは江戸の名前の由来となった江戸氏に深い係わりのある場所。喜多見は昔は木多見と書いた。鎌倉時代、江戸氏が源頼朝に助力し喜多見を含む武蔵七郷を領地にしてからで、当所の本城は現在の皇居の紅葉山あたり。室町時代に江戸氏は太田道灌に江戸城を明け渡し、一族の多く住む喜多見の地に移転した。それ以降は小田原の北条氏の配下の世田谷の吉良氏に仕えたりしていた。天正10年(1590)に秀吉に攻められ北条氏、吉良氏が滅亡すると、徳川氏に遠慮して江戸の姓を喜多見に変えて徳川の世も切り抜けたものの、元禄時代にお家騒動があり喜多見家は取り潰しになってしまった。

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慶元寺は江戸氏の氏寺として皇居紅葉山に文治2年(1186)に創建、江戸氏が喜多見に移転するとともに現地に移った。現存する本堂は享保元年(1716)の建立で世田谷区で最も古い建造物である。木造で300年は凄いものがある。また小田急線脇の喜多見不動堂はこの慶元寺の境外仏堂で明治になってから建てられている。

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山門から墓所の方に向かうと立派な堂宇に入った六地蔵が目に入ってくる。六地蔵の堂宇としてはかなり立派である。地蔵の造立年は宝暦10年(1760)。台石にびっしりと文字が彫り込んである。願主は河野平四郎、惣村念仏講中による立像、武刕多摩郡喜多見村の銘がある。また石工和泉屋とあるが、これは地元狛江市和泉の石工だろうか。

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六地蔵の傍に念仏車がある。喜多見の筏道の路傍にある念仏車の方が遥かに古いが、この念仏車の造りは昔のものとほぼ同じである。念仏を唱えながら回すとお経を一巻読んだのと同じ功徳があると信じられている。正式には摩尼車(マニグルマ)という。

場所  世田谷区喜多見4丁目17-1

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中道の庚申塚(世田谷区喜多見)

民家園のすぐ裏を通るのが昔の田渕道、世田谷通りの「二の橋」交差点から分岐して喜多見の知行院脇を抜けるのが筏道、念仏車と地蔵・庚申のあるところで分岐して東名高速下まで繋がっていたのが中道である。江戸時代から明治大正期にかけての喜多見の中心は知行院の周辺であった。現在のような街の様子になったのは昭和に入って小田急線が開通してからで、それまでは筏道周辺が賑わっており、知行院の周辺にはたくさんの商家があった。

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そんな中道と、後に出来た水道道路(荒玉水道道路)の辻にあるのが庚申塚。地元では古くから庚申塚と呼ばれているが、庚申なのかどうかは分からない。道路わきの駐車場の塀の下にあり、高さ1尺程度の凹みに石碑がある。現在では書かれた文字もほとんど読めないが、史料によると、「左り ふちう(府中) 八王子」、「右り のぼりと」とあり、「武刕多摩郡…」と書かれているようだ。

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かつての筏師たちは喜多見辺りで休むことも多く、道中の安全を祈願感謝して筏道周辺にこういう石仏を置いたと伝えられる。中道も筏道のバイパス的な道であったので、所々に石仏が残っていたのであろう。この石仏についてはほとんど情報はなく、いろいろな想像を掻き立てられる。

場所  世田谷区喜多見5丁目22-8

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次太夫堀民家園の庚申塔(世田谷区喜多見)

成城の国分寺崖線の下に野川が流れている。その野川と並走するように次太夫堀が掘られたのは慶長16年(1611)、一般的には六郷用水と言われるが、狛江の多摩川から取水し大田区までを潤した全長23.9㎞の江戸時代初期の徳川家康の計画事業のひとつである。この用水を指揮した代官・小泉次太夫の名前に由来して次太夫堀と世田谷区では呼ばれている。喜多見にはかつての風景を残した次太夫堀民家園がある。

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民家園には複数の藁葺屋根の古民家が移築されており、その間に一基の庚申塔が保存されている。以前には奥の方にも庚申塔があったが現在はなくなった。敷地内にあるのはこの一基のみである。この庚申塔は以前は次太夫堀公園の裏手の辻(喜多見7-16-1)にあったもので、いつからかこちらに移された。もっとも移動距離は100mほどに過ぎない。

上の写真の後ろにある藁屋根の古民家には「さかや」とあるが、これは酒屋ではなく、筏道が賑わっていた時代に知行院の辺りの村の中心にあった旧家が「さかや」という屋号で仮眠する部屋を提供していた当時の店である。2階も広く、往時は数十人が雑魚寝できるほどだったことが推し量れる。

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庚申塔はかなり摩滅が進んでおり、区の資料に頼るところで造立年は天明元年(1781)12月、「奉建立当村講中」とあり「多摩郡世田ヶ谷領喜多見村」と願主12人の銘がある。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿。左右に道標が兼ねられ、左面には「東 江戸道」右面には「西 府中道 大山道」とある。地元では「田渕の庚申塔」と呼ばれてきた庚申である。喜多見の真ん中を通るのは「筏道」だったが、野川沿いを経由しているのが田渕道というルートだった。その間に「中道」という道があり、その中道と田渕道が交差するところが元の位置になる。

※筏道とは、青梅、奥多摩の材木を筏にして多摩川に流し、大田区の六郷で陸揚げして江戸の建築を支えた筏職人が六郷から青梅・奥多摩に戻るのに歩いた道。昭和の頃までは商店も多く残る街道筋だったが、現在は寂れた細街路になったところが多い。これを3,4日かけて奥多摩まで戻ったそうで、かつては所々に宿もあった。

場所  世田谷区喜多見5丁目27-4

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お滝と野田の不動(世田谷区成城)

成城学園前の南西を走る国分寺崖線は沢山の坂を形成している。成城学園前駅南口からまっすぐに南下すると病院坂と呼ばれた坂を下り世田谷通りに交差する。病院坂については坂の方のブログに詳しく書いた。病院坂を下ると多摩堤通りとなり喜多見大橋で野川を渡る。野川から東への世田谷通りはひとつの丘を越えて仙川に下る。国分寺崖線の一部が仙川によって突端になったのが大蔵地区でその岬は氷川神社である。

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成城周辺の国分寺崖線にはたくさんの湧水がある。その一つがこの湧水である。お滝と呼ばれるが、ちょろちょろの湧水。もっとも昔はもっと水量があったに違いない。池のほとりにある不動尊像には「明治8年(1875)9月 惣講中 為諸人参詣安全」と彫られている。かつてこの辺りは砧村大字喜多見字下野田という土地で、この石仏も野田の不動堂と呼ばれて信仰を集めてきた。小田急線脇にある喜多見不動尊とのかかわりが深い。

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明治時代に起こったこの辺りの不動講は喜多見不動を信仰する講中。起こりは、明治初期の多摩川の洪水で上流から流れてきた不動尊を一度成田山に運び、入魂したものを改めて祀ったことに始まるという。線路わきの喜多見不動は成田山と極めて深い関係がある。近辺最大の湧水も喜多見不動にある。

場所  世田谷区成城1丁目7-2

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関口のお地蔵様(杉並区成田東)

阿佐ヶ谷付近の青梅街道と高円寺から南西に分岐する五日市街道の間には、かつて馬橋、関口、白幡、尾崎、田端の5村があった。江戸時代末期はほぼ成宗村に含まれた地域。 関口は五日市街道が青梅街道から分かれてすぐにある集落。昭和初期には東京府豊玉郡杉並町で、関口の北には杉並があり町役場があった。その場所は現在の杉並区役所である。

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松ノ木で二手に分かれた道は西側は善福寺川の水田地帯を回り込み田端本村(田端神社の辺り)に、東側の道は北西に進みこの関口のお地蔵様の前を過ぎ、現在の阿佐ヶ谷駅に繋がっていた。その先が明治時代は阿佐ヶ谷本村の世尊院への道である。関口の地蔵は今でもたくさんのお供え物があり、地元の人々に守られ親しまれているのがわかる。

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舟型光背型の地蔵立像の造立年は元文2年(1737)10月、右側には「武刕多摩郡野方領田端村之内関口講中廿六人」の銘がある。1737年当時は田端村に含まれていたのだろう。堂内の説明書きには、当時関口の女念仏講中26人が毎日の食事から少しずつ削った稗(ヒエ)や粟(アワ)を願主堤平右衛門に預けてお金に換えて貯め、5、6年かかって地元の子供たちの守り本尊として地蔵を建立した、とある。説明板を作ったのは当地の農家の十代目堤氏とあるが、当たりに田畑はもうない。

場所  杉並区成田東4丁目31-12

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白幡の石仏(杉並区成田東)

善福寺川尾崎橋の五日市街道は、昔から今のルートだったのではなく、もっとくねくねと善福寺川の河岸段丘を上っていく道筋だった。橋の東側から道はすぐに北に曲がり、白幡の石仏の前で東へ向かい白幡の坂をのぼっていた。その江戸時代からの旧道が現在もきれいに残っている。

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白幡の坂の坂下には大きな松の木があり、その脇に3基の石仏が屋根付きの場所に並んでいる。右端の地蔵菩薩立像は念仏講中のもので、元禄11年(1698)11月の造立。中央は馬頭観音像だが、造立年は宝暦10年(1760)10月と馬頭観音の中でも相当に古い部類に入る。左端は地蔵菩薩立像で、こちらも宝暦3年(1753)10月で、念仏講中によるもの。

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石仏を見上げて右側の道が旧五日市街道の白幡の坂。いっぽう左側の道は馬橋みちと呼ばれた古道でこちらも急坂である。現代では坂はほぼほぼ均されたり切通しで緩やかにされたりして意識をせずに上って行けるが、江戸時代の坂はどこも難所だった。標高差数mとはいえ、関東ローム層の赤土は雨が降ると荷車を進めるのが困難になる。人も牛馬も必死で荷を運ぶ。その感謝の心が馬頭観音になって残されているのである。

場所  杉並区成田東3丁目15-4

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2019年12月 6日 (金)

宝昌寺境内の石仏(杉並区成田西)

宝昌寺は曹洞宗の寺院、安政3年(1856)に火災で本堂を焼失し多くの歴史的遺物を失ったが、大正10年(1921)に本堂を再建、江戸末期の火事で焼けなかった板碑や石仏は残されている。板碑は表に出ていないので拝見できず。境内の中にあるいくつかの石仏を見て回る。

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本堂と墓地の間にある無縁仏群の上にそびえているのは三界万霊の台石に載った如意輪観音座像。念仏講中のもので、願主は二人とも「内方」と付いているので女性である。女念仏講中ではないだろうか。「白畑村(白幡村)」の銘がある。造立年は元禄7年(1694)11月で、杉並区の指定文化財になっている。

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その手前の草木の脇に遠慮がちに立っているのが地蔵菩薩立像。区内でも相当古い部類のもので、造立年は寛文3年(1668)8月。武州多東尾崎村の銘があるが、多東というのは多摩の東の郡で、鎌倉時代から江戸時代まで使われた郡名。尾崎村は五日市街道の尾崎橋周辺、つまりこの寺の辺りの村名である。この地蔵も区の指定文化財である。

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地蔵のすぐ近くにあるのが2基の庚申塔。これらもまた指定文化財である。右の庚申塔の笠の上には擬宝珠があったのだろうか。右のほうが古く、地蔵に次ぐ古さの寛文8年(1668)9月の造立。裏面には「石屋 市谷田町 高橋長兵衛」とある。「武列多摩郡中野郷成宗村」の銘が入っている。左の庚申塔は、尾崎村の銘がある。造立年は元禄3年(1690)2月。右の庚申塔の青面金剛は立像で邪鬼を踏んでいるが、左の庚申塔は青面金剛座像で邪鬼はない。しかし青面金剛の座像は滅多に見ない珍しいものである。

場所  杉並区成田西3丁目3-30

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2019年12月 5日 (木)

宝昌寺門前の地蔵(杉並区成田西)

五日市街道が善福寺川を渡る尾崎橋のたもとに五日市街道の説明板がある。「江戸時代は伊奈道と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸を運ぶルートだった。五日市街道と呼ばれるようになったのは明治になってから。この街道沿いには、高円寺村、馬橋村、和田村、成宗村、田端村、中高井戸村、松庵村があった。」とある。そんな尾崎橋の西側にあるのが宝昌寺、北隣の杉並区立第二小学校との間の細い坂道は三年坂と呼ばれる。

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宝昌寺の門前には屋根の下の二基の地蔵菩薩像がある。明治時代のこの辺りの地名は尾崎、その地名が尾崎橋の名前に残っている。善福寺川の周辺は上流の田端田圃に引続き、尾崎田圃と呼ばれた。この宝昌寺門前の地蔵、右にあるのが月輪のある延命地蔵菩薩。造立は昭和46年(1971)3月と新しいが、再建されたのではないかと思う。

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左の地蔵は正徳3年(1713)10月の造立。こちらは杉並区の指定文化財になっている。「奉建立地蔵講中武州多摩郡中野領成宗村」と台石に書かれている。宝昌寺の開山は文禄3年(1594)で、成宗村の熊野社(宝昌寺の北側にあった)、須賀神社、白山神社を管理する別当寺でもあった。安政3年(1856)に大部分を焼失したが、一部石仏や板碑は残されているようである。

場所  杉並区成田西3丁目3-30

 

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2019年12月 4日 (水)

杉並田端村の延命地蔵(杉並区成田西)

諸行無常、明治以降多くの寺が消えていった。街の一角に残る広めの墓地の多くはかつてはそこに寺があり、その寺の墓所だったところである。坂道を行脚していた時、世田谷区の野毛に城音寺坂という坂があった。あたりを歩き回ったが城音寺という寺はない。ただ100坪ほどの墓所が残っていた。世田谷区だけでもこういう場所は多い。この場所もまたかつては全福寺という寺があり、それが廃寺になり、周辺が宅地造成されて、現在は30坪ほどの墓所が残り、延命地蔵の周辺はもうすぐにでも宅地になってしまいそうである。

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手前の空き地の中にぽつんと立つ堂宇の中に延命地蔵がある。ここにあったという善福寺は大正3年(1914)に廃寺になり、高井戸東にある松林寺に合寺された。それ以上の情報は分からない。善福寺川をはさんで北側には田端神社がある。田端神社は天神社である。おそらく田端神社と全福寺は田端村の中心として善福寺川の南と北の地をまとめていたのだろう。

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堂宇の中に立つ延命地蔵尊は昭和5年(1930)2月と新しいもの。当然寺が無くなってから檀家によって創建されたものである。台石には「昭和庚申の春、檀信徒貧道と相諮りて新たに延命地蔵尊一体を建立する(後略)」とある。何となく哀しくも頼もしい庶民の心意気が伝わってくる。400mほど東にある宝昌寺は成宗村の寺院である。ここが消えると田端村の痕跡は田端神社だけになりそうだ。

場所  杉並区成田西3丁目15-4

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2019年12月 3日 (火)

五日市街道バス営業所前庚申塔(杉並区成田西)

五日市街道に関東バスの営業所がある。その向かいの少し高くなった場所に一基の庚申塔が立っている。唐破風笠付角柱型だが、笠の上に塔が立っている立派なものである。高さは135㎝ある。

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五日市街道の北側にはくねる善福寺川が最も街道に迫ってきている。そのためか江戸時代、この場所は田端村、成宗村の村境であった。この庚申塔が江戸時代から村の境の塞ノ神の意味もあったのだろうか。明治時代この庚申塔がから北を眺めると、五日市街道の向こうに善福寺川、その向こうには田端田圃と呼ばれた田んぼが広がっていた。

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庚申塔の図柄は青面金剛像に三猿。造立年は宝永5年(1708)10月。田端村銘と施主名が二人、願主10人の名前が彫られている。現在は田端の地名は消滅しているが、善福寺川北側の田端神社にその名前が残っている。田端神社は当時田端村の鎮守であった。

場所  杉並区成田西2丁目20-13

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2019年12月 2日 (月)

成宗白山神社の庚申塔(杉並区成田東)

江戸時代、松ノ木の庚申塔のある鎌倉道以東は堀ノ内村、以西は成宗(なりむね)村であった。現在の成田東には広い水田地帯がありそこを成宗田圃と呼んだ。そんな成宗村白幡の鎮守であったのが成宗白山神社である。創建は大宮八幡宮とほぼ同年代、源氏(源頼義)の奥州征伐の時代の少し後で、後冷泉院(在位1045~1068)と伝えられる。現在は小さな神社だが、歴史のある神社。

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白山神社の入口は7段の階段になっている。その脇に庚申塔が立つ。なぜここに白山神社なのかは疑問であった。白山信仰とは無関係な気がしたが、祭神は伊弉册命(イザナミノミコト)らしくそれは白山神社とも共通している。しかしイザナミというと想起するのは神代の時代から女性はおそろしいということだろうか。

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庚申塔は唐破風笠付角柱型だが欠損と風化が激しい。造立年は元禄15年(1702)で白幡村の銘があるので、当時は成宗村大字白幡ではなく、白幡村だったのかもしれない。青面金剛像に三猿が彫られている。高さは120㎝あり、かなり大きな部類に入る。

場所  杉並区成田東2丁目2-2

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2019年12月 1日 (日)

松ノ木の庚申塔(杉並区松ノ木)

杉並区を南北に走る鎌倉道のひとつ、甲州街道の下高井戸から永福町を経て阿佐ヶ谷に繋がる道の途中にこの庚申堂がある。鎌倉道は諸説あり、研究している人も多いが、古道を江戸時代のもの、戦国時代のもの、鎌倉室町時代のものに分けるのは極めて難しい。ただ点々と残る庚申塔はその痕跡である可能性が高いのである。

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松ノ木の庚申塔も江戸時代からこの南北の鎌倉道にあったといわれる。この庚申堂の南には松の木遺跡があり、縄文、弥生、古墳時代の出土品がある。ここには数千年前から人の営みがあったのは確かだ。庚申堂の辺りが標高43m、神田川が35mほどなので、縄文時代は海に近い川の近くの集落だったはず。(弥生町辺りは入江の奥だった可能性が高い)

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さて庚申堂の中には3基の庚申塔が並んでいるが、3基とも異なるタイプなのは興味深い。右端にあるのは、立派な唐破風の笠付角柱型の庚申塔で、角柱の側面には蓮葉の浮彫がある。正面は、青面金剛像に三猿、時代は貞享2年(1685)で5代将軍綱吉の頃である。

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中央にあるのは珍しい線刻の青面金剛像の角柱型庚申塔。左面に明治29年(1896)10月、井川元次郎と彫られている。さすがに明治時代の石は質の悪い物が多いが、これは線刻が良く残っていると思う。

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左端にあるのは比較的オーソドックスな駒型の庚申塔で、青面金剛像と三猿の図柄。日月もくっきりとしており石の質も石工の腕も素晴らしい。時代は享保5年(1720)10月だから暴れん坊将軍吉宗の時代である。杉並区の資料によると、松ノ木内からの移転とあるが前の場所は分からない。なかなか美しい庚申塔である。

場所  杉並区松ノ木1丁目5-10

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