慶元寺六地蔵と念仏車(世田谷区喜多見)
慶元寺は喜多見の古刹、境内参道に江戸重長の像がある。ここは江戸の名前の由来となった江戸氏に深い係わりのある場所。喜多見は昔は木多見と書いた。鎌倉時代、江戸氏が源頼朝に助力し喜多見を含む武蔵七郷を領地にしてからで、当所の本城は現在の皇居の紅葉山あたり。室町時代に江戸氏は太田道灌に江戸城を明け渡し、一族の多く住む喜多見の地に移転した。それ以降は小田原の北条氏の配下の世田谷の吉良氏に仕えたりしていた。天正10年(1590)に秀吉に攻められ北条氏、吉良氏が滅亡すると、徳川氏に遠慮して江戸の姓を喜多見に変えて徳川の世も切り抜けたものの、元禄時代にお家騒動があり喜多見家は取り潰しになってしまった。
慶元寺は江戸氏の氏寺として皇居紅葉山に文治2年(1186)に創建、江戸氏が喜多見に移転するとともに現地に移った。現存する本堂は享保元年(1716)の建立で世田谷区で最も古い建造物である。木造で300年は凄いものがある。また小田急線脇の喜多見不動堂はこの慶元寺の境外仏堂で明治になってから建てられている。
山門から墓所の方に向かうと立派な堂宇に入った六地蔵が目に入ってくる。六地蔵の堂宇としてはかなり立派である。地蔵の造立年は宝暦10年(1760)。台石にびっしりと文字が彫り込んである。願主は河野平四郎、惣村念仏講中による立像、武刕多摩郡喜多見村の銘がある。また石工和泉屋とあるが、これは地元狛江市和泉の石工だろうか。
六地蔵の傍に念仏車がある。喜多見の筏道の路傍にある念仏車の方が遥かに古いが、この念仏車の造りは昔のものとほぼ同じである。念仏を唱えながら回すとお経を一巻読んだのと同じ功徳があると信じられている。正式には摩尼車(マニグルマ)という。
場所 世田谷区喜多見4丁目17-1
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