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2019年12月 7日 (土)

次太夫堀民家園の庚申塔(世田谷区喜多見)

成城の国分寺崖線の下に野川が流れている。その野川と並走するように次太夫堀が掘られたのは慶長16年(1611)、一般的には六郷用水と言われるが、狛江の多摩川から取水し大田区までを潤した全長23.9㎞の江戸時代初期の徳川家康の計画事業のひとつである。この用水を指揮した代官・小泉次太夫の名前に由来して次太夫堀と世田谷区では呼ばれている。喜多見にはかつての風景を残した次太夫堀民家園がある。

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民家園には複数の藁葺屋根の古民家が移築されており、その間に一基の庚申塔が保存されている。以前には奥の方にも庚申塔があったが現在はなくなった。敷地内にあるのはこの一基のみである。この庚申塔は以前は次太夫堀公園の裏手の辻(喜多見7-16-1)にあったもので、いつからかこちらに移された。もっとも移動距離は100mほどに過ぎない。

上の写真の後ろにある藁屋根の古民家には「さかや」とあるが、これは酒屋ではなく、筏道が賑わっていた時代に知行院の辺りの村の中心にあった旧家が「さかや」という屋号で仮眠する部屋を提供していた当時の店である。2階も広く、往時は数十人が雑魚寝できるほどだったことが推し量れる。

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庚申塔はかなり摩滅が進んでおり、区の資料に頼るところで造立年は天明元年(1781)12月、「奉建立当村講中」とあり「多摩郡世田ヶ谷領喜多見村」と願主12人の銘がある。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿。左右に道標が兼ねられ、左面には「東 江戸道」右面には「西 府中道 大山道」とある。地元では「田渕の庚申塔」と呼ばれてきた庚申である。喜多見の真ん中を通るのは「筏道」だったが、野川沿いを経由しているのが田渕道というルートだった。その間に「中道」という道があり、その中道と田渕道が交差するところが元の位置になる。

※筏道とは、青梅、奥多摩の材木を筏にして多摩川に流し、大田区の六郷で陸揚げして江戸の建築を支えた筏職人が六郷から青梅・奥多摩に戻るのに歩いた道。昭和の頃までは商店も多く残る街道筋だったが、現在は寂れた細街路になったところが多い。これを3,4日かけて奥多摩まで戻ったそうで、かつては所々に宿もあった。

場所  世田谷区喜多見5丁目27-4

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