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2020年1月31日 (金)

東光寺の庚申塔(中野区上高田)

中野区上高田の東光寺も真言宗豊山派の寺院。日照山阿弥陀院東光寺が正式名称。創建年代は不明だが、江戸時代初期と言われている。妙正寺川のほとりから少し高くなった台地の斜面にあるので、墓所や境内は傾斜地が大部分になっており、山裾の雰囲気がある。東光寺には以前に上高田3丁目5-1にあった石仏が移されている。

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元の場所は現在の上高田本通り沿いで、江戸時代から大正時代まではこの周辺が上高田村でもっとも民家の多い地域であった。上高田本通りも上高田中通りも江戸時代から村の幹線だったのである。移設されたのは昭和の後期らしいが、3基の石造物が移された。上の写真は舟型光背型の聖観音立像で台石は道標になっている。造立年は天明3年(1783)10月で、「奉供養百箇所聖観世音為二世安楽」とあるので、坂東秩父西国百カ所廻りの成就記念だろうか。資料によると、この聖観音像の下には馬頭観音が埋められているらしい。

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隣りには唐破風笠付角柱型の大きな庚申塔があり、これも同所からの移設。総高は2mを超える。造立年は元禄10年(1697)11月。青面金剛像、邪鬼、三猿に二鶏が描かれ、台石の側面に移設の経緯が書かれている。それによると聖観音像と庚申塔は284番地にあったものを昭和5年9月、府道(当時は東京府)回収に付き移設したと、細井萬五郎銘で彫られている。いったん細井家墓所に移した後、平成2年に現在の場所にさらに移されたらしい。

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旧所在地には道標の角柱も建っていたがそれも移設したらしい。聖観音像の後ろに立っている写真の石塔がそれだろうと思われる。文字は摩滅していて読みにくい。「あらいやくしみち」と記されていたようだ。聖観音像の下に埋められているという馬頭観音の石だが、前述の細井家に由来する。細井家の馬が日露戦争に参加した折に死亡したので、馬頭観音を造り供養していたが、移設した時に聖観音に合体させたという経緯のようだ。昔は上高田村にはたくさんの馬がいらたしく墓所の旧家の墓石の傍にも馬頭観音が祀られていたりして興味深い。

場所  中野区上高田5丁目21-5

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2020年1月30日 (木)

上高田5丁目の庚申塔(中野区上高田)

上高田中通りが西武新宿線を横切る踏切(中井第7号踏切)北側にあるレンガ色のビル(大坂屋野本商店)前にたいそう立派な庚申塔がっ立っている。新井薬師前駅の西側の通りも薬師駅北口商店街だがこの通りも同じ商店街。西側踏切のバス通りの方がにぎやかだが、こちらが元々の商店街筋だった雰囲気がある。この辺りも関東大震災以前は農家がぱらぱらとある田舎の風景だったらしいが、昭和2年に西武新宿線が通ってから急速に開発が進んだ地域である。

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庚申塔は野ざらしだが、唐破風笠付角柱型の立派なもの。青面金剛像に邪鬼、三猿が描かれている。造立年は享保4年(1719)9月で、「奉造立庚申供養講中 二世安樂祈所」と書かれている。この庚申塔の庚申講中は昭和後期には無くなってしまったがしっかりと守られている。昔はこの庚申塔は霊験あらたかで、上高田村で病人が出た時は祈願すると治ると信じられていたらしい。

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踏切は現在工事中だが庚申塔は残りそうである。新井薬師と沼袋を挟んだ中井~野方間では西武新宿線の地下化工事が進んでいるが、まだまだシールド工事には至っておらず相当な年数が掛かりそうである。

場所  中野区上高田5丁目38-1

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2020年1月29日 (水)

松が丘の地蔵堂(中野区松が丘)

狭めの道だが頻繁に路線バスの往来する新井薬師前駅西側踏切の哲学堂通りを北に歩く。350mほど進むと、西側の道路わきに地蔵堂がある。この一角はとても小さな三角地帯だが、ここは新宿区と中野区の区境。西落合二丁目がこの周辺だけ妙正寺川を越えている。地蔵堂脇から分岐する路地は江戸時代からある道筋で、ここは昔から辻だった。しかし大正時代以前は妙正寺川が村境で、こちら側が上高田村、川向うが片山村であった。

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この辺りは大正時代までは畑が広がり、路地の坂を上っていくと民家が数軒集まっているというような農村風景だった。堂宇を覗いてみると3基の石仏が祀られている。右から、板碑、地蔵、庚申塔の准である。右の板碑は、造立年などは不明。明治時代後半に片山橋東側の高台付近の農業施策地で土中から発見されたもの。片山橋というのは妙正寺川ではなく、路地が中野通りを越えるためのオーバーパスの橋。昭和の高度経済成長期に造られた。

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中央のいちばん背の高いのは地蔵菩薩立像。元禄年間から松が丘北野神社(妙正寺川の近く)にあったものを明治の初め頃この地に移した。この近辺は鼓ヶ原と呼ばれていたので、この地蔵も鼓ヶ原子育地蔵と呼ばれた。この地蔵は大正時代末期に大破し、さらに昭和20年の戦災も受けた為、地元の有志によって昭和25年頃再建された。左端は角柱型の庚申塔で、青面金剛像と三猿の図柄。これも昭和25年(1950)1月再建となっているので、地蔵と同じような経緯があったのだろう。

場所  中野区松が丘1丁目29-22

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2020年1月28日 (火)

新井薬師の諸仏(中野区新井)

中野区の新井薬師は区内でも最も有名なお寺。駅の名前も新井薬師前駅とあるが、実は500mほど離れている。参道は南東側からで駅からではない。当然鉄道の方が後からできたわけで仕方がない。この寺も真言宗豊山派である。中野区には豊山派の寺院が多い。梅照院(新井薬師)と並んで中野区最大級の寺である宝仙寺も豊山派である。やはり中野に犬屋敷があったことで綱吉の母を祀る護国寺(豊山派)の勢力が強かったのだろうか。

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境内には多くの石仏が集められているが、その中でひときわ目を引くのこの板碑である。残念ながら造立年などは分からない。上部に彫られているのはキリークで真言の意味のようだが、私にはまだ理解できていない。台石には興味深い文章が彫られている。昭和2年(1926)に武州北多摩郡砧村喜多見で水道工事の折に出土したような話である。東光寺の名もある。東光寺は新井薬師駅の反対側にある寺。どうも気になったが東光寺はいずれ訪問予定。

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板碑の近くの無縁仏等の集合体の中にいくつかの庚申塔や馬頭観音が埋め込まれている。上の写真は庚申塔で、唐破風笠付角柱型で正面金剛像と邪鬼・三猿・二鶏が描かれている。年代は元禄14年(1701)10月、「武列経多東郡新井村 願主 久保寺清兵衛 同行8人」とある。新井村のどこかにあったものが打ち捨てられここに拾われたのだろうか。

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庚申塔っぽいものが他にもあったが、刻時が全く読めない。上の写真の右側は比較的新しい時代のもののようである。こういう石仏を丸く集めてコンクリートで固めてあるが、個人的には固めるのは好きではない。もっとも盗難防止の目的はあるかもしれない。

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上の写真は左側が馬頭観音で、右側は庚申塔である。青面金剛像と三猿の図柄で、元禄7年(1694)11月、武刕新井村の銘がある。新井薬師の正式名は新井山梅照院薬王寺だが、巷ではほぼ新井薬師で通っている。創建は天正4年(1586)。本尊である薬師如来と如意輪観音像はなんと大きさが一寸六分(約5.5㎝)とまるでミニチュアの世界。写真では拝見したが12年に一度の寅年の御開帳のみなので、もちろん見たことはない。

境内には他の古い石仏もあるようだが、再訪して探してみたいと思う。

場所  中野区新井5丁目3-5

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2020年1月27日 (月)

沼袋2丁目墓所の地蔵尊(中野区沼袋)

新青梅街道の区立第七中学校から比較的幅のある道が南へ伸びていて、南下するとやがて新井薬師に至る。その道の途中に50坪ほどの墓所が残っている。墓のほとんどが矢島姓で実相院の墓所だと判る。この墓所には江戸時代の墓石がたくさん残されている。中には入れないが見ていて興味深い。

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墓石の供養塔だが唐破風笠付の立派なものがある。その墓所の道路寄りに、一基だけ墓石でない地蔵立像がある。資料によると、造立年は寛延2年(1749)10月、「奉造立地蔵尊為西国坂東秩父市刻八十八所供養 施主 矢島甚吾左衛門」とある。矢島家の誰かがはるばる行脚を遂げたのであろう。

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昔はこの地蔵立像の隣に庚申塔があったと記録されている。その庚申塔は唐破風笠付の角柱型で正徳5年(1715)造立のものだが、現在は実相院に移されている。「実相院の庚申塔」の項で最後に紹介した庚申塔である。「武刕多麻郡沼袋村」に加えて「願主 矢島六郎衛門 他10名」の銘がある。ここの墓所と実相院の間には禅定院もあり距離もあるが、矢島家は妙正寺川流域に大きく広がっていたのだろう。

場所  中野区沼袋2丁目10-1

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2020年1月26日 (日)

東福寺の諸仏(中野区江古田)

真言宗豊山派の東福寺は正式名を金峯山世尊院東福寺という。創建年代は不詳だが、天正年間(1573~1593)頃に江古田村の村民が始めたという言い伝えがある。江戸時代には鷹狩りに来た三代将軍家光も休憩に立寄るなどし、八代吉宗の御膳所にもなっていた。豊山派の総本山は五代綱吉の母桂昌院を祀る護国寺だから江戸時代は手厚い保護を受けて来たのだろう。

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山門を入ると左が斜面になっており丘の上が墓所、その斜面に数多くの石仏が並んでいる。もっとも目立つのが六地蔵で、その左脇に控えるのがこの地蔵菩薩立像だった。造立年は寛延4年(1751)であるが、光背の中に葵紋が描かれている。寛延年間というと九代家重の頃で、徳川家との関係がこの図柄になったのであろう。

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六地蔵の後ろには古そうな角柱型の庚申塔が立っている。独特のデザインで下部に細長い三猿が描かれている。側面には蓮の葉の浮彫があり、青面中央には「奉寄進庚申供養安樂也」とある。造立年は寛文8年(1668)11月で相当古い初期の庚申塔である。

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更に斜面を上ると大型の馬頭観音と思われる、唐破風笠付の角柱型石塔があった。造立年は寛保2年(1742)9月で、馬頭観音としてはもっとも古い時代のものかもしれない。側面に「武刕多麻郡中荒井村」と書かれている。馬頭観音のようだが三面上の馬頭は欠損している。平成時代に境内をきれいにしてとても明るい寺院になった。中荒井村は江戸時代から大正時代まであった村で現在の豊玉(上、北、中、南)にあたる。

場所  中野区江古田3丁目9-15

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2020年1月25日 (土)

お経塚(中野区江古田)

品川駅は品川区ではなく港区にあり、目黒駅は目黒区ではなく品川区にあるのは比較的知られている事だが、江古田駅も江古田にはない。中野区江古田(えごた)は新青梅街道を南端、妙正寺川を北端にした住居表示で、住民は西武池袋線の江古田(えこだ)駅は使わない。より近い大江戸線の新江古田(しんえごた)駅を利用する人はいるが、新江古田駅も江古田ではない。もともと江古田村は多摩郡の東端の村だったが、明治以降は合併して野方村になっている。

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お経塚はそんな江古田の真ん中にある。南には現在リニューアル閉館中の中野区立歴史民俗資料館、北には江古田氷川神社がある。お経塚のある場所は、現在は五差路だが昔は三差路で、氷川神社の参道のような位置づけにある。説明板によると、大正時代までは人の背丈ほどの大きな塚があったという。大正期に塚の盛土を整備したら人骨と経筒が出土した。氷川神社の東にある東福寺が焼けた時に経文や過去帳などの灰を埋めて塚を築いたと言われる。

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屋根付きだが半ば吹きさらしの堂宇の右手にあるのが経塚地蔵と言われる舟型の地蔵立像。造立年は元文3年(1738)で「武州多麻郡江古田村 念仏講中」の銘がある。

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左にある小さい石仏は馬頭観音像。造立年は安永15年(1777)と馬頭観音としては相当古い部類に入る。頭上の馬の図柄はしっかりと残っているが、馬頭観音の顔は削れてしまっている。

前述の出土した経筒だが、資料によるとその中身を調べる前にいつの間にか無くなってしまったという。誰も中身を調べたものはおらず、経筒であったという確証はないらしい。一方の人骨は埋められて、この堂宇の下に眠っているそうである。

場所  中野区江古田2丁目14-5

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2020年1月24日 (金)

禅定院の庚申塔(中野区沼袋)

かつての野方村の本村(中心)は現在の沼袋4丁目で、現在の野方駅前商店街がほぼ本村の中程を通っていた。実相院は村の中心にあったわけだが、少し東にある禅定院は村の東に少し外れた場所になる。禅定院の正式名称は瑠璃光山禅定院薬王寺。真言宗豊山派の寺院で総本山は護国寺である。開山は貞治元年(1362)と言われ、実相院が矢島姓を大半とするのに対して、旧上沼袋村の伊藤家の菩提寺であったので伊藤寺とも呼ばれたという。

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比較的こじんまりした寺院であるが、山門を入ると六地蔵がならび、諸仏が迎えてくれる。その中にひときわ時代を感じさせる庚申塔が立っている。

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唐破風笠付角柱型の庚申塔は三猿のみの図柄でいかにも古い時代のもの。「奉供養庚申石塔二世安樂處」とある。造立年は寛文6年(1666)と都内でもかなり古い部類に入る。「禅定院」の銘も刻まれていることから、当時からここにあったものと思われる。江戸時代初期には青面金剛像がない庚申塔が多い。世田谷区最古の上馬の宗円寺の明暦4年(1658)の庚申塔も三猿のみ、世田谷区野沢のテコテン坂の寛文10年(1670)の庚申塔も三猿のみである。この時代は三猿のみが結構多い。

場所  中野区沼袋2丁目28-2

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2020年1月23日 (木)

実相院の諸仏(中野区沼袋)

実相院は真言宗如意山実相院世尊寺が正式名称。正平7年(1352)に新田一族が足利軍と戦った時に、その一派(子孫)が沼袋に土着したのが起源と言われる。沼袋と江古田には矢島姓が多く、檀家にも矢島家が多いので別名矢島寺とも言われるらしい。そんな実相院の山門を入ると両側に石仏がランダムに置かれている。

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右側にあるひときわ大きな地蔵立像は天和2年(1682)11月の造立。「奉建立地蔵菩薩・・・」とある。

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左の方には上部が一部欠損した馬頭観音がある。コンクリートのような表面だが石である。側面に大正13年(1924)9月の造立年が記されている。

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その少し山門寄りにあるのが如意輪観音像。 造立年は元禄4年(1691)11月とある。このほかにも、貞享元年(1684)10月造立の如意輪観音像、元禄15年(1702)1月造立の(おそらく)大日如来像などが並んでいる。墓所入口にも何基かあり、勉強になった。

場所  中野区沼袋4丁目1-1

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2020年1月22日 (水)

実相院の庚申塔(中野区沼袋)

実相院は西武新宿線沼袋駅の北、商店街から西へ少し入ったところに山門がある。山門をくぐると両側に石仏が並ぶ。本堂前でお参りをして、左の墓所の入口を見ると、両側に石仏が並んでいる。これらのうち5基が庚申塔である。墓所に向かって左側の5基のうちの4基、右側の列のうちの1基である。どれも素晴らしい庚申塔なので1基ずつ紹介したい。

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左列の一番手前にある唐破風笠付角柱型の庚申塔は、下部に三猿が描かれており、その上には「奉庚申供養 石塔二世安樂」と書かれている。左右側面には蓮華蓮葉の模様が彫られている。造立年は見当たらなかったが、笠付角柱型は江戸中期に多い。その隣は勢至堂菩薩のようである。

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その隣は笠付角柱型庚申塔。青面金剛、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。 脇に「武刕多麻郡沼袋村 奉造立庚申供養二世安樂所」と書かれている。造立年は正徳3年(1713)11月。

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その隣、右から二番目のひときわ笠の大きな笠付角柱型庚申塔は正面金剛像と三猿の図柄。こちらは「奉供養庚申待二世安楽所」とあり、造立年は元禄10年(1697)10月である。

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一番右は笠のない駒型の庚申塔。青面金剛像と三猿の図柄で、こちらも「奉造立庚申待二世安楽所」とある。造立年は、これも元禄10年(1697)11月である。

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反対側(墓所向かって右側)にある庚申塔もまた見事なもの。唐破風笠付角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。「奉造立庚申供養二世安楽所」「武刕多麻郡沼袋村」と銘があり、造立年は正徳5年(1715)11月となっている。どれも1700年前後の江戸時代最も華やかな時期の庚申塔で立派なものであった。

場所  実相院  中野区沼袋4丁目1-1

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2020年1月21日 (火)

沼袋4丁目の庚申塔(中野区沼袋)

新青梅街道の沼袋交差点周辺がかつての字丸山地区である。交差点の辺りから中野区立歴史民俗資料館の辺りまでが丸山の集落として多くの民家があった場所。妙正寺川の北側を東西に走る新青梅街道の道筋は江戸時代からの道である。この道は西に向かうと沼袋交差点から200mほど西で二手に分岐し、北側は所沢街道として籠原観音前を通って中村方面へ伸びていた。この分岐点の南に庚申塔を祀った堂宇がある。

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庚申塔は唐破風笠付角柱型の大きなもので、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄がある。「武刕多麻郡江古田村 講中24人」の銘があり、造立年は正徳3年(1713)11月。 右側面には「右 中村道」、左側面には「左 さぎのみや」とあり、前述の分岐点で道標となっていたことがわかる。おそらく東向きに立っていたのだろう。

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中野区の資料でも、この庚申塔は新青梅街道の拡張計画に伴って、昭和12年頃現在の場所に移設されたとある。前の場所は、中野区江古田4-35-1。庚申塔の保存状態はとてもよく、長い年月大切に守られてきたことがうかがえる。

場所  中野区沼袋4丁目33-6

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2020年1月20日 (月)

籠原観音(中野区丸山)

野方駅の北、環七丸山陸橋以北のエリアの住居表示が丸山。環七の外側が丸山2丁目で内側が丸山1丁目になる。この辺りの旧地名は籠原という。籠原は南の妙正寺川と北の江古田川(妙正寺川の支流)の間の江古田川寄りの台地である。当時の丸山は籠原の東、現在の江古田4丁目辺りで、旧地名と現住居表示が違ってしまった残念なケース。

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旧籠原地区には中野区立緑野小学校と緑野中学校が南北に並ぶ。緑野小学校は少子化に伴って、丸山・沼袋・野方の3小学校が統合されたもので、緑野という地名は存在しない。中学校の敷地の北西端にある地蔵堂が籠原観音と呼ばれている。現在は堂宇に収まっているが、昔は草むらに点在していたという。緑野中学校は区立第六中・第十一中が統合されたもので、以前ここは第十一中学校であった。その第十一中学校が出来た昭和38年頃にこの一角に堂宇を建てて集めたらしい。(数字の学校名も味気ない)

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堂宇には4基の石仏があるが、2基は姿がない。もともと左側2基は聖観音像、右側から二番目は不動明王であったという。不動明王像は地元の不良中学生が壊してしまったらしい。今頃罰が当たっているかもしれない。左の端には聖観音像の丸彫座像があったようだが、現在はない。左から2番目の舟型座像の聖観音像、そして右端の馬頭観音のみが現存している。

聖観音像は「奉誦光明真言百万遍供養 西国坂東秩父百番順礼供養塔」とあり、寛政10年(1798)11月の造立。願主は隣りの無くなった償還音増の台石と同じで石川七兵衛とある。残された左の台石には、「右 中むら道 左 ほりのうち道」とあるが、これはこの前の道が旧所沢街道だったためである。右端の馬頭観音は、馬兼といわれた人が農耕馬を供養する為に建てたと言われる。

場所  中野区丸山1丁目16-16

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2020年1月19日 (日)

くろんぼ川のお地蔵さん(中野区野方)

「くろんぼ」というのは差別用語として放送禁止用語になっている。しかし差別用語を指定することこそが最も差別だと思う。個人個人の受取り方で決めるべきだと常々思っている。このくろんぼ川のお地蔵さんの場合、ここに流れていた小川の名前がくろんぼ川という名前だったというだけの話。川のほとりに化け物が出没し、土地の人々が恐れていた。

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村人は何かの祟りだろうと考え、草ぼうぼうだった辻の塚のあったこの場所に、供養のために庚申塔を建てたという。それがこの庚申塔である。この場所は現在でいえば野方駅と沼袋駅のちょうど真ん中あたりになり、線路を挟んで南に清谷寺がある。線路がない時代は清谷寺から北に進むとこの丁字路に出た。

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路傍の庚申塔は、唐破風笠付角柱型の立派なもので、青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄で、台石に「奉造立庚申尊像 元文5年(1740)」とある。さらに台石の左右には、「右 中村みち、左 中野道」とあり、道標にもなっていたようだ。くろんぼ川は清谷寺の北側を北西から流れ、妙正寺川に注いでいた沢筋である。明治時代にはほぼ川の形は無くなっていたようである。

場所  中野区野方4丁目1-16

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2020年1月18日 (土)

清谷寺の板碑(中野区沼袋)

西武新宿線野方駅と沼袋駅のちょうど真ん中あたりの南側に清谷寺がある。清谷寺の南東には妙正寺川が流れ、台地から低地に下り始める崖線上に寺はあるが、昨今はこの地形も感じにくくなってきた。清谷寺の創建は不明だが、かつて地蔵堂屋敷だったものをとある僧侶が一寺として興したと伝えられる。おそらくは鎌倉期か室町時代辺りからあったのではないかと思う。

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清谷寺本堂の前に板碑が並んでいる。これは都内の寺院では珍しい。板碑は大切に保管されていることが多く、こうして表に出ている例は少ないのである。この3基の板碑の他に近くに小さな板碑が1基、合計4基の板碑が公開されている。東京近辺の板碑はほとんど秩父の緑泥片岩を使っている。片岩というのは近くの中で極めて高い圧力を受けて変成し、薄く割れやすいミルフィーユのような構造の片理が進んだ岩石で、長瀞などで沢山みられる。はがれやすいので薄く作ることが出来、それで板碑に使われているのである。

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中央の大きな板碑は中野区指定の文化財になっている十三仏種子板碑で、造立年は応永6年(1399)と室町時代前期のものである。左の小さな板碑は阿弥陀三尊種子の板碑で室町時代中期、文明2年(1470)のもの。右にあるのは時代が分からないが、左と同様に阿弥陀種子の板碑である。手に降れる場所にあるのが何よりうれしかった。

場所  中野区沼袋3丁目21-7

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2020年1月17日 (金)

がんかけ地蔵尊(中野区野方)

妙正寺川の北のY字路にあるがんかけ地蔵尊。南北に走る道は広い道ではないがバスも走る。この道は江戸時代からある中野村から青梅街道へ繋がる古道。西武新宿線の踏切の庚申塔も、中野囲町北にある辻地蔵もこの道筋である。がんかけ地蔵尊を右(北東)に行くと清谷寺がある。かつては妙正寺川流域の田んぼから台地に上ったところであった。

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屋根のある堂内には庚申塔と地蔵尊、屋根の外には二十三夜塔が祀られている。庚申塔は唐破風笠付角柱型の大きなもので、青面金剛像と三猿・二鶏の図柄、「奉造立青面金剛二世安樂」、台石に「願主 矢島久右衛門妻講中31人敬白」とある。また台石には、「右 中村道 左 さぎのみや道」とあり道標を兼ねていた。造立年は享保21年(1736)3月。

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右側の丸彫の地蔵尊は、「秩父坂東西国右百箇所奉納為二世安樂也」とあり、「願主 沼袋村 矢島辰右衛門」のほか女性名も多い。造立年は延享元年(1744)9月。右側にある二十三夜塔には逸話がある。土地の事で近隣の揉め事があった時に、御嶽教の祈祷師がいて祈祷によると、昔この場所に二十三夜塔があったが無くなってしまったので再建するようにとお告げがあった。そこで関係者が昭和2年(1926)12月に現在の根府川石の二十三夜塔を建てたということである。

場所  中野区野方3丁目7-1

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2020年1月16日 (木)

北向地蔵(中野区野方)

南向地蔵があれば北向地蔵もある。下北沢村の南の代沢村には東西南北の地蔵があった(現存は2地蔵のみ)。野方第二公園脇の南向地蔵から北上すると妙正寺川を渡る手前に北向地蔵がある。この辺りは大正時代まで三谷という地名であった。その地名は今では妙正寺川に架かる三谷橋とこの地蔵の南にある三谷稲荷にのみ残っている。

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屋根付きの堂宇には馬頭観音と地蔵があり、手前には如意輪観音像がある。馬頭観音は享和2年(1802)2月の造立。馬頭観音なのだが、「奉巡礼西国坂東秩父百箇所供養 為二世安樂也」とある。これは三谷の人たちが西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の観音霊場巡礼を成就した記念に建てられたものらしい。

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右側の地蔵はあちこち修復の跡があり、文字は欠落して半分ほどしか読めない。造立年も消えていて読めないが、下沼袋の銘が読めた。北を向いた地蔵はご利益があると信じられているのはここに限ったことではないが、ここの北向地蔵も遠くからお詣りに来る人がいるという。手前にある如意輪観音像も文字部分が削れていて時代等ほとんど認識できない。小字だった三谷の人々が北の塞ノ神として祀った石仏が南北で残っているのはなかなか貴重である。

場所  中野区野方2丁目29-11

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2020年1月15日 (水)

南向地蔵(中野区野方)

野仏は村の入口にあることが多く、いわゆる塞ノ神との関係が深い。中野駅の北、早稲田通り以北、西武新宿線以南の地域は江戸時代は下沼袋村枝郷新橋村であった。枝郷というのは新田開発によって新たにできた村で元の村を元郷とか本郷というのに対して枝郷、枝村とか新田と呼んだもの。南向地蔵はその枝郷であった新橋村の南西にあったものである。

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現在は野方第二公園の隣にあるが、実はこの地蔵堂は昔は環七に近い野方2丁目56にあった。交通が激しくなったからと現在の地に移転したのだが、そのいきさつについては「環七の交通安全地蔵」に記した。堂宇の中には2基の石仏があり、左側が庚申塔、右が地蔵立像である。右の地蔵は舟形光背型で子育地蔵とされる。元禄2年(1689)10月の造立で、「為奉造立地蔵尊二世安樂也」とある。

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左側の庚申塔は舟型で下部に三猿、その下に二鶏が描かれている。上部には文字のみで、「奉供養庚申安置二世安樂所」とある。造立年は貞享4年(1687)12月。武州多麻郡沼袋村 秋元弥右衛門 道行14人」の銘がある。

場所  中野区野方2丁目24-16

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2020年1月14日 (火)

辻地蔵(中野区野方)

中野駅の北西のエリアは近年大きな再開発が行われ。警察の敷地だった広大な駅前ゾーンは一部に警察病院と警察署を残すのみとなり、大学等の教育機関と公園になった。江戸時代はお犬様の「御囲い御用屋敷」だったエリアの一部だが、それでも広い。現在の住居表示は中野だが、昭和の中期まで「囲町」という町名だった。そのエリアの北西部分に警察病院がある。警察病院の北側を東西に走るのが早稲田通りで、これより北は野方となる。

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警察病院と野方警察署のある交差点の北西角に1体の地蔵が祀られている。ここは江戸時代から丁字路になっていて、荒井村、上沼袋村、高円寺村、中野村の4つの村の村境だった。そして古くから「辻地蔵」と呼ばれていたが、最近は子育地蔵とも呼ばれているようである。地蔵の右側にある四角い石には東西南北と彫られておりそれが横倒しになっている。左の石柱は道標らしいが、それぞれの面に中野宝仙寺、高田、鷺宮の文字が読めるがここにあったものかどうかは分からない。

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中央の地蔵の右側面には、寛保元年(1741)3月の造立年が刻まれ、願主浄念とある。左には「沼袋村新橋念仏講中」とあるので、新井村の塞ノ神だったのかもしれない。新橋は新井村の小字で、現在の区立平和の森小学校辺り。その北側には明治から昭和にかけて監獄(豊多摩刑務所)があった。しかし監獄は明治以降の話で、江戸時代は下沼袋村枝郷新橋村であった地域。

この辻地蔵については、中野区の資料に興味深い話が載っている。その昔、この角に饅頭屋があり、等身大の地蔵があったが、邪魔だと言って饅頭屋が移動し小さい地蔵に変えてしまったところ、間もなく饅頭屋に不幸が起こり、夢枕に地蔵が立ち「よくもこんな小さな体にしたな」と呪ったので元に戻し丁重に供養したという。

この場所にはかつて庚申塔もあったらしいが、その所在は不明である。

場所  中野区野方1丁目1-1

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2020年1月13日 (月)

環七の交通安全地蔵(中野区野方)

環七通りと早稲田通りが交差する大和陸橋の北、歩道橋の北東側の角に地蔵堂がある。 地元では交通安全地蔵尊と呼ばれている。この地蔵尊、実はかなり新しい物であった。

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この路地を入った先、約300mほどのところに南向地蔵がある。南向き地蔵は環七が出来る前からこの辺りにあったという。昭和に入った頃、関東大震災以降西に広がってきた耕地整理が進み、この辺りは沢山の民家が立ち並ぶようになった。そんな中で南向地蔵は東へ300mほど移動することになった。

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2体の石仏が移転してしまうと、なぜかこの場所で交通事故が頻繁に起こるようになったという。環七が出来てもその状態は続いた。そこで地元の篤志家がここに新しく交通安全地蔵尊を建てたところ、交通事故は減ったという。昭和41年(1966)の事だから東京オリンピックの後である。新旧に関わらず地蔵にはそういう力があると思う。人々が地蔵があることで注意を払うようになるからかもしれないが、それでも人の心に何かが伝わってのことである。

場所  中野区野方2丁目55-1

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2020年1月12日 (日)

大和町の厄除不動尊(中野区大和町)

育英地蔵尊の隣に並ぶのが厄除不動尊。こちらには3基の石仏が祀られている。中央に不動明王像があり、左右には庚申塔という並びで、バランスのいい景色である。主役は中央の不動尊なのだろうが、個人的には庚申塔の方が主役に思えてしまう。二つのお堂の前の道は八幡通りという。もともと上沼袋村の中心を東西に走る道だった。

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不動明王像の造立年などは分からないが、左右の庚申塔にはきちんと彫られている。左の大きな方の唐破風笠付角柱型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、「武州多摩郡上沼袋村大場 講中22人 願主 伊藤作左衛門」の銘がある。造立年は宝暦13年(1763)10月。大場というのは明治時代までの小字で、妙正寺川の北側(左岸)の一部である。

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右の庚申塔も唐破風笠付角柱型の角柱型。こちらの造立年は元禄6年(1693)11月とこっちの方が古い。青面金剛像と三猿のシンプルな図柄で、こちらには「武州多摩郡大場村」の銘がある。元禄時代は大場は小字ではなく村だったのだろうか。

場所  中野区大和町2丁目42-11

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2020年1月11日 (土)

大和町の育英地蔵尊(中野区大和町)

中野区大和町は野方の南、妙正寺川以南で、環七通りを東の境界、早稲田通りを南の境界にした一帯の住居表示。もともとは上沼袋村に属していたエリアである。大和町となったのは昭和に入ってからだが、これもまた「元から住む住民と新たに転入してきた住民とが大きな和をもって発展する町」ということで改名したらしい。残念な改名である。大和町の中心にある大和町八幡神社は上沼袋村の中心にあり、奥州征伐に源義家が祭祀を行った地ということで村人が天喜4年(1056)に八幡社を創建して村の鎮守となった歴史ある神社である。

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その八幡神社の参道の隣にあるのが育英(こそだて)地蔵尊と厄除地蔵尊で2棟が並んでいる。育英地蔵尊には大小7基の石仏が祀られている。育英地蔵は中央の最も大きい丸彫地蔵。造立年は延享3年(1746)9月。念仏講供養仏とあるので念仏講中によるもの。武州多摩郡上沼袋村 願主 橋本文左衛門 講中23人とある。

言い伝えでは、子供が大病になった時、夢の中に地蔵が現れ、祈願すれば治ると告げられた。そこでこの地蔵に毎日参詣して祈願したところ全治したという。

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左隣の舟形光背型の地蔵立像は、貞享2年(1685)2月の造立。その隣の小型の舟形光背型の地蔵立像は元禄6年(1693)12月のものである。一番左の角柱型の石塔は石橋供養塔で、「上沼袋村大場 石橋講中23人」の銘がある。宝暦年間(1751~1764)のもの。右の3基はどうも新しいもののようだが、かつての上沼袋村でも講が盛んにおこなわれていたことがわかる。

場所  中野区大和町2丁目42-11

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2020年1月10日 (金)

野方6丁目の庚申塔(中野区野方)

野方駅から商店街を北に進み、200mほど先の路地を西に入ると庚申堂がある。この庚申塔は中野区の資料にももれていた。江戸時代、この辺りは下沼袋村。すぐ南には北原小学校がある。この東西の道も古くからある道で、それらしく曲がっている。

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庚申塔は唐破風笠付角柱型の立派なもので、「奉供養庚申待二世安樂所」とあり、下部に三猿が彫られている。造立年は寛延元年(1748)10月で、当時の念仏講中10人によるもの。「武刕多摩郡上沼袋村」の銘がある。上沼袋村はもっと南西の地域で、妙正寺川の向こう岸である。元はどこにあったのだろうか。

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側面には道標が彫られており、「右 中村ミち」「左 さきのミやミち」とある。願主名は江川辰四良内と書かれている。おそらく近所の方がこの庚申堂を守って来られたのだろうと思うが、なぜ中野区のリストから漏れていたのか、なぜ上沼袋村なのか、と謎の残る庚申塔である。

場所  中野区野方6丁目28-4

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2020年1月 9日 (木)

踏切脇の庚申塔(中野区鷺宮)

鷺宮1丁目の庚申塔から南東に延びる道がある。江戸時代からある古道で南中の道、あるいは雑司が谷道と呼ばれた。野方の南を過ぎてから南下し、中野駅のある方角へ伸びている。中野駅の西側一帯は江戸時代はお犬様の施設があった場所で、区役所も大学も公園も繁華街もみな犬小屋の一部に過ぎない。その道が西武新宿線を横切る踏切脇に庚申塔がある。

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この庚申塔は昔は踏切の南側、現在でいうと中野区若宮1-55-1にあったものをここに移設したもの。昭和の後期に出版された中野区の刊行物にはまだ旧地点の庚申堂とされているので平成になってからの移設ではないだろうか。庚申塔は唐破風笠付角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。側面に「奉庚申供養 さぎの宮村願主8人」とあり、反対側に年号がある。造立年は正徳4年(1714)10月である。

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旧場所ではこの庚申塔は野ざらしでしばしば倒れっぱなしになっていたりしたらしい。戦前その場所は交通事故が多く、住民が丁寧に供養すると事故が少なくなったらしい。堂宇を作ったのは戦時中からで、現在の堂宇は三代目。左側にある折れた角柱には「〇法大師」とあるがこれは福蔵院と宝仙寺への道標だったようだ。千羽鶴や花を見ると現在も地元の方に大切にされていることがわかる。

場所  中野区鷺宮1丁目1-9

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2020年1月 8日 (水)

野方の笑い地蔵(中野区野方)

西武新宿線野方駅のすぐ近くの路地裏に笑い地蔵という地蔵堂がある。丸彫の座像で造立年代は不詳。路地裏にお祭りのような結構賑々しい地蔵堂があって、地元の祭りも盛んだという。

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この周辺一帯は戦前「三角原」と呼ばれる野原だった。戦後、駅の近くの一角に映画館(西武劇場)を建てた坂本恒雄氏が旧家の庭先にあったものをここに移設したと記録されている。昭和22年(1947)1月の事だった。その時は堂宇は無かったが、昭和42年(1967)に地元の篤志の寄付によって増築された。

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地蔵はとても小さなものである。坂本は、敗戦に打ちひしがれた人々が、日々生活苦に追われ笑いを失っていることを憂慮して、商店街の繁栄を願ってここに笑い地蔵を安置したという。

場所  中野区野方5丁目18-13

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2020年1月 7日 (火)

若宮2丁目の庚申堂(中野区若宮)

中野区若宮は西武新宿線鷺ノ宮駅と野方駅の間の南側一帯、妙正寺川以北のエリアを指す。若宮という地名は昭和後期からで、それまでは鷺宮の一部であったが、住民の公募により「若くはつらつとした街」のイメージで若宮となったらしい。ある意味私が嫌う地名の改悪である。明治から大正にかけては鷺宮村の中でも下鷺宮と呼ばれていた地域なので、それが一番しっくりくるのだが、どうも住民は「下」とつくのが嫌だったのではないだろうか。極めて稚拙な見栄だと思う。そうやって全国あちこちで地名が破壊された、ここもその一つである。

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当然ながらこの堂宇の前の道も古くからある道である。都立家政駅前の商店街を南下してくると斜めの丁字路に当たり、20mばかり東に行くと四辻になる。交差する南北の道もまた江戸時代からの道。その四辻を南に曲がるとすぐにブロック塀の間の堂宇が現れる。

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中に納まって祀られているのは駒型の庚申塔で、青面金剛、邪鬼、三猿、二鶏の図柄のもの。「奉納為庚申供養二世安樂  武州多摩郡中野領鷺之宮村 講中16人」の銘がある。堂宇はブロックと檜で造られている頑丈なもの。道標も兼ねているらしいが堂宇は施錠されていて側面が見えなかった。造立年は享保10年(1725)10月である。

場所  中野区若宮2丁目7-15

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2020年1月 6日 (月)

福蔵院墓所の地蔵(中野区鷺宮)

都立家政駅の北西の路地裏に、鷺ノ宮駅南側にある福蔵院の墓所のひとつがある。明治時代の地図を見ると、西武新宿線は当然なく、福蔵院から北へ進むとこの墓所がある。当時の地図でもこの場所は墓所である。この墓所の入口に2基の地蔵が堂宇に入っている。

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左側は三界万霊塔の丸彫座像の地蔵尊。寛政4年(1792)10月の造立である。右側は地蔵尊だが長榮上人とある。年代は宝暦13年(1763)と江戸時代の中期のものである。昔、この場所には地福院という寺があり、ここはその地福院の墓地であったが、寺は廃寺になり墓所以外は住宅地に変わってしまった。墓所の一部だけが残ってしまったので、現在は福蔵院が管理しているという経緯のようである。

場所  中野区鷺宮3丁目8-1

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2020年1月 5日 (日)

鷺宮1丁目の庚申塔(中野区鷺宮)

鷺宮周辺には野仏が多い。それだけ江戸時代の民間信仰が盛んで、それを昭和まで守ってきた人々がいるということだろう。新青梅街道ルートの古い街道は都立家政駅の北、都立家政入口バス停の辺りで二股になり、北側は江古田・丸山へ、南側は野方への道になっていた。南側の道沿いにも野仏が残っている。この南側の道は江戸時代は雑司ヶ谷道あるいは南中の道と呼ばれていたようだ。

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分岐点からすぐ、民家のような場所に手水鉢や庚申塔がある。元々この庚申塔は分岐点にあったという。正面には「青面金剛」と大きく彫られているこの庚申塔、実は極めて珍しい物。正面は「天下泰平国家安穏 青面金剛 西」とあるが、右側には「観世音菩薩 なかのみち 南」、左側には「上鷺宮村 馬頭観世音菩薩 そふしかやみち 北」、裏には「寛政12年(1800)庚申11月 上鷺宮村 願主 大野一郎右衛門 大野浅右衛門 当所17人講中 東」とある。1基の庚申塔が、馬頭観音と聖観音を合わせているレアな石仏であまり例を見ないものである。

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庚申塔の右側にある小さめの角柱には青面金剛像らしい浮彫がある。実は何の塔なのかわからない。記録も資料も何もないが、青面金剛の上には不動明王のような炎模様が描かれている。民間信仰の面白い点はこういうよく分からないものがある事にもある。江戸時代の民衆が何を考えどういう生活をしていたのか、そんなことに思いを馳せると作り掛けや中途半端な石仏があってもいいような気がしてくる。

場所  中野区鷺宮1丁目30-22

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2020年1月 4日 (土)

白鷺2丁目の庚申塚(中野区白鷺)

鷺ノ宮駅から中杉通りを南へ500mほどで次のバス停である白鷺二丁目がある。バス停のすぐ先に変則的な五差路があり、そこに庚申塚がある。東西に交差するのは若草通りという道。高度成長期以前はこの辺りの住居表示は鷺沼2丁目、さらに大正時代に遡ると中杉通りの東は宮前、西は原という地名であった。またこの五差路は以前は庚申前と呼ばれていた。

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変則五差路の三角地帯には5基の石仏が並んでいる。花が飾られ今でも地元の人々に守られ親しまれていることがわかる。明治20年代に流行り病があった時にここにお祈りをしてご利益があったと伝えられる。いまだに病気治癒の祈願をする人がいるという。戦後、子供たちがいたずらして倒したりしていたが、昭和30年頃から整備され、地元の旧家の人々が管理をしているらしい。

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右から紹介すると、まず右端は舟型の馬頭観世音、造立年は明和3年(1766)3月というから馬頭観音としては相当古いものである。施主は菊田孫右衛門とあり、奉千老供養馬頭 武刕多摩郡下鷺宮村講中18人の銘がある。右から2番目は駒型の庚申塔。青面金剛、邪鬼、三猿の図柄で、造立は延喜3年(1746)10月。中野区の資料によると「奉造立庚申講中二世為安樂 武州多摩郡鷺宮村講中15人」とあるらしいが文字が見当たらなかった。

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中央の石仏も庚申塔。駒型で青面金剛・二鶏・三猿の図柄、造立年は正徳2年(1712)10月。「奉庚申待二世安樂所 願主 同行8人敬白」とある。ここの石仏の中ではこれが最も古い。

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左から2番目は地蔵菩薩の立像。「南無阿弥陀仏 武刕多摩郡下鷺宮村 奉造立地蔵菩薩 念仏講中二世安樂所 講中21人」とあり、造立年は宝暦3年(1753)3月である。そして左端は聖観音像で、これは新しい。大正8年(1919)9月とあるので丁度100年前のものである。これだけ並んでいるとなかなか壮観で、しばし拝ませていただいた。

場所  中野区白鷺2丁目35-12

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2020年1月 3日 (金)

福蔵院の石仏(中野区白鷺)

鷺宮の地名の由来鷺宮八幡神社の別当寺福蔵院は大永元年(1521)の創建。江戸時代から鷺宮の中心である。南へ1㎞あまり進むと早稲田通り。早稲田通りも古い道で、井草から高田馬場への重要な運搬ルートだった。南側に参道と山門があり、山門迄の両側は異なるタイプの築地塀が続いていていい雰囲気である。

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参道に入って右側には2体の地蔵尊、右側の小さい方は「子授地蔵菩薩」とあり、明治34年(1901)に念仏講中による造立。左側の大きい方も念仏講中による地蔵尊だが造立年等は分からない。こちらの背景の築地塀は蔦が絡み野趣あふれる雰囲気だが、反対の築地塀は最近建てたかのようにきれいでところどころアクセントの入ったデザインである。こちらには馬頭観世音像が立っている。台石には「天下泰平 国土安穏」とあるが造立年はこちらも不明。

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山門を入ると十三仏が並び壮観な眺めである。右から不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦(あしゅく)如来・大日如来・虚空蔵菩薩で13体が並んでいる。うち8体は寛文6年(1666)から貞享2年(1685)の間に造立され、残る5体は破損したと思われ、後の寛政8年(1796)に真言講中により再建されたとある。

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本堂前には立派な唐破風笠付角柱型の庚申塔が立っている。文字塔で下部に三猿が描かれ、中央に「奉供養庚申二世安樂」とある。造立年は天和2年(1682)9月と古い物。これ以外にも多くの石仏があったが今回は割愛した。

場所  中野区白鷺1丁目31-5

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2020年1月 2日 (木)

福蔵院前の北向地蔵(中野区白鷺)

福蔵院の北側に垢離不動尊があり、南側には北向地蔵がある。北向地蔵は向きが北だからそう呼ばれるのだが、この地蔵はこぶとり地蔵とも呼ばれている。ちなみに福蔵院の正門(山門)は南側にある。こぶとり地蔵がある一体も福蔵院の墓所だと思われる。

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この地蔵の造立年は不明である。地蔵本体はかなり風化が進んでしまいいささか危ない感じがする。こぶとり地蔵というのは「小太り」ではない。真面目にコブやオデキを取るというご利益のある地蔵の意味である。地元では、コブやオデキができると小石を供えて祈願し、コブやオデキが完治すると団子をお供えしてお礼をするという風習が続いていたようだ。

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これだけの風化はおそらく以前は堂宇がなかったのではないかと思われる。かつて鷺宮周辺が民家も稀な農地だった時代から、人々が小石を供え続けてきた様子をずっと見守って来たのだろう。ちなみに別当寺である福蔵院と鷺宮八幡宮を回り込むように妙正寺川は流れており、もし古代にここに館城があったとしても不思議ではない地形の立地である。この南側は宮前と呼ばれる地域で、そこには民家もあったようだ。

場所  中野区白鷺1丁目16-12

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2020年1月 1日 (水)

福蔵院の垢離不動尊(中野区白鷺)

福蔵院の北側の壁に堂宇があり、2体の不動明王像の石碑がある。「垢離不動尊」と書かれている。垢離(こり)とは水垢離(みずごり)などのように、神仏に祈願する前に、海水や冷水を浴びて身を清め、心の穢れを落として清めることをいう。滝行とは異なり、山岳信仰などで聖域に入る時や出発するときに行う儀式である。

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左の石塔はやや小さく、右の石塔は大きい。右側は敷石供養塔とある。年代などは読み取れなかった。堂宇の後ろには溶岩が敷き詰められていることから、富士講と関係があるのではないかと思われる。

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私の推測だが、こういう垢離不動尊は概ね川の傍にある。ここもすぐ北側は妙正寺川である。そして溶岩を用いたのはおそらく富士講の人々だろう。鷺宮周辺から富士山へ富士講の代表として出発するときに、妙正寺川で身体を清める水垢離を行い、ここで道中の安全を祈願したのではないだろうか。近くに水道もあり、近年はこの石碑に水を掛けてお参りするようである。

場所  中野区白鷺1丁目31-5

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