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2020年2月29日 (土)

砧の榛名山供養塔(世田谷区砧)

世田谷区から北東にどこまでもまっすぐに伸びている道路がある。荒玉水道道路という。多摩川の水を喜多見にある砧浄水場から地下水道管を通して、中野区の野方と板橋区の大谷口に送る目的で大正時代に造られたもの。現在も水道管上に10㎞の直線道路が残っていて、交差点には杭があり大型車が入れないようになっている。砧浄水場から2.8㎞北東に進んだあたりが砧5丁目で、その路傍に変な石塔が立っている。

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大きなケヤキの切り株の先の電柱に高さ70㎝ちょっとの石柱がくっついている。しかし電柱の方がずっと後の時代に立てられたもので、石柱は榛名山供養塔で大蔵邑(村)講中が文政6年(1823)2月に立てたものである。白いものは神ではなく紙垂(しで)、御払いの時に神官が振る棒(大幣=おおぬさ)の先に付いている白い紙と同じもので、菜箸のような大幣につけられて電柱との間に挟んであった。なおこの辺りの古い地名は山野といい、谷戸川の周りだけは水田だったが、それ以外は畑と武蔵野の林だった。

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文字は半分以上消えかけているので区の資料を紐解く。この石柱は道標になっていて、正面は東・江戸道、裏面は西・登戸道、右面は北・高井戸道、左面が南・二子道と書かれている。石工は二子村の小俣松五良とある。江戸後期になると大山講、富士講、御嶽講、榛名講など様々な山岳信仰が行われていた。富士講、大山講のものが多い中で、世田谷区では榛名講は珍しい。

場所  世田谷区砧5丁目10

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2020年2月28日 (金)

橋之下橋の地蔵堂(世田谷区砧)

環八外側、世田谷通りの北側は砧、南側は大蔵だが、江戸時代は概ね岡本村。江戸時代にあった世田谷通りは登戸道と呼ばれる細い街道で、地区を隔てるような道ではなかったのでもっともな話である。砧村が登場するのは明治22年の市制町村制の実施からで、最初の数年は神奈川県北多摩郡砧村だった。環八以西は一時期神奈川県だったのである。その砧村も昭和11年の世田谷区への併合で消えた。

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そんな砧村を流れていた川のひとつが谷戸川。水源は祖師ヶ谷大蔵駅の東で品川用水からの取水もあった。NHK技研の裏を回り込み、砧公園の真ん中を流れて岡本で丸子川に合流する、等々力渓谷の上流にあたる。この川の橋のひとつが塔之下橋で、そのたもとに地蔵堂があり3基の石仏が祀られている。

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右にあるのは舟型の聖観音立像。造立年は寛文12年(1671)7月で、「御念仏供養 大蔵村 同行18人」とある。岡本村だったのは江戸時代後期で、前期から中期は大蔵村、横根村などいくつかの変遷がある。中央は地蔵立像(舟型)で享保16年(1731)10月の造立。「奉造立地蔵菩薩 武刕大蔵村東 念仏女講中26人」と銘があるので、この辺りが大蔵村の東という微妙な村域の時代だったのだろうか。

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左は板碑型の庚申塔で、一猿のみという珍しいもの。高さは91㎝あり、寛文11年(1671)8月と庚申塔の中でも古い部類のものである。「奉造立庚申町供養石塔一基一世安楽所」とあり、「武州多摩郡大蔵村」の銘がある。地蔵堂のある少し西北に観音公園という名前の児童公園がある。辺りに観音はないので、この地蔵堂が名前の由来だと思われる。

場所  世田谷区砧4丁目15-1

 

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2020年2月27日 (木)

東野川民家の庚申塔(狛江市東野川)

狛江市の通り名は学校に由来するものが多い。狛江第五小学校から西に延びる道と南に延びる道には「五小通り」と書かれている。西に延びる方の五小通りの途中の民家の庭先に古い庚申塔が祀られている。

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駒型のなかなか立派な庚申塔である。隣にあるのは地蔵立像っぽいが中程で折れていたり、顔がどうも別物のようで、出処は分からない。いっぽうの庚申塔は年代観もありしっかりしたものである。

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日月、青面金剛像、三猿の図柄で脇に二鶏が彫られている。高さは97㎝ほどあり、「奉造立 庚申供養 武州多摩郡覚東村」の銘がある。また願主名も河合伝内ほか7名の名前が彫られている。造立年は正徳4年(1714)9月とあるので、江戸時代の最も栄えた時期のものである。覚東村は旧野川よりも東側の村であった。

場所  狛江市東野川2丁目3-2

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2020年2月26日 (水)

小足立八幡神社の庚申塔(狛江市西野川)

狛江市の西野川に小足立八幡神社がある。創建は不明らしい。かつての小足立村の鎮守だった神社。明治時代は野川の流程が神社のすぐ東側(現在の緑道)で、神社の辺りは簑和田という地名であった。昭和に入って簑和田は箕和という地名に変わり、昭和中期になると小足立になった。その後全国的な住居表示変更で西野川となったように地名が微妙に変化している。

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八幡神社の裏手に稲荷があり、その手前に庚申塔が祀られている。庚申塔は弘化4年(1847)11月の造立で、山角型だが、珍しいのはこの庚申塔が陰刻になっている点である。

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この陰刻が見事でしばらく見入ってしまった。全体としては青面金剛像が大きく、邪鬼や三猿などは描かれていないが、不動明王のような火焔の模様が入っている。レリーフならともかく、石でこの彫刻は相当な腕の石工だろうと素人ながらに感じた。塔の側面には、造立年のほか「箕輪多」の銘がある。簑和田の替字だろう。

場所  狛江市西野川2丁目33-1

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2020年2月25日 (火)

西野川の石仏群(狛江市西野川)

現在多摩川の支流野川は成城学園前の国分寺崖線の下を直線的に流れて、2019年の台風で越水した二子玉川の兵庫島に流れている。しかし本来の野川は湾曲した流路だった。調布市との境にある小金橋から野川は南流し、狛江駅脇を流れて世田谷通り筋に東流して現在の流れに戻っていた。この野川が南流する辺りは江戸時代は覚東村であったが、江戸時代後半では合併して小足立村となった時代もあったようだ。

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南北に走る八幡通りと小足立通りの丁字路に地蔵と石塔がある。左の2基は地蔵菩薩、右は庚申塔と馬頭観音である。このうち一番大きな地蔵は簑和田墓地から移したらしいが、その簑和田墓地の場所が分からない。北西に小さな公園でみのわだ児童公園というのがあるのでその辺りだろうとは思う。

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大きい方の地蔵は高さが107㎝ある。寛保元年(1741)のもので、施主は富永氏とある。左側の小さい方の地蔵菩薩立像は45㎝の高さで、寛延4年(1751)の造立。多麻郡小足立村の銘があるので、1750年頃は小足立村だったのだろう。

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右側にほぼ同じ大きさの角柱型の石塔がある。左は庚申塔、右は馬頭観音である。どちらも大正10年(1921)4月の造立で、施主も富永広吉と同じなので、富永氏が同じ時に建てたものだろう。両方とも文字塔である。左の小さい方の地蔵も富永氏だったので調べてみると、小足立の大正時代の区長さんが富永銀之助という人だった。昭和になってから区長は富永一三氏になっているので息子さんだろう。それ以前の明治時代の富永勇次郎氏は狛江村の助役になっている。

場所  狛江市西野川2丁目27

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2020年2月24日 (月)

山谷庚申塔(狛江市中和泉)

江戸時代、狛江駅の北西側は和泉村だった。隣駅は和泉多摩川駅だがその辺りも和泉村である。地名の由来は、狛江駅北口にある泉龍寺の清水で、それを周辺の水田に利用しており、湧水に由来して中世は出水、江戸時代には和泉と呼ばれるようになったという。山谷(さんや)は江戸時代の和泉村の小字で、それが現在まで呼び名として残っているのは嬉しい。

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立派な銅板葺きの堂宇が造られたのは平成5年(1993)と最近の事。堂宇の向かって右に大型の庚申塔、左側に中型の庚申塔が並んでいる。

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大きい方の庚申塔は駒型で高さが110㎝ある。造立年は宝永元年(1704)11月、青面金剛像に三猿の図柄だが、とても保存状態が良い。日月をこれほどはっきりと描いたものは多くない。正面右側には「奉造立庚申像一尊  武州多麻郡和泉村」とある。左側には年号と、「良辰同行三十壱人」とあるが良辰は人名だろうか。

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左側の庚申塔も保存状態がとても良い。こちらも駒型だが上部はあまり尖っていない。はっきりとした日月に青面金剛像と三猿の図柄である。右側には「武州玉郡和泉村」とあり、左側に造立年が文化元年(1804)11月とある。台石には7人の銘が刻まれているが、名古屋姓が多い。山谷のこの道もまた品川道である。筏師がのんびり歩いて奥多摩へ向かう往時の姿が思い浮かぶ。

場所  狛江市中和泉5丁目23-26

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2020年2月23日 (日)

中和泉品川道の庚申塔(狛江市中和泉)

かつての多摩川の木材水運の帰り道である筏道は世田谷区内での呼び名で、狛江市に入ると品川道と呼称を変える。調布辺りで京王線の南側を並行して通る品川通りも同じ由来である。江戸以前は府中が武蔵国の国府だった。そこから多摩川の左岸を下り品川湊に至る街道が中世からあり、それが所以で品川道と呼ばれる。現在分かっている狛江市内の品川道(筏道)の筋は3つある。ほかの呼び名としては六郷道という呼び方もあるようだが、これは江戸時代行先に道をつけて読んでいたので、六郷土手へ行く道、府中へ行く道程度の意味だろう。

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中和泉の品川道の辻にポツンと庚申塔が置かれている。造立年は安政5年(1858)8月とある。駒型の文字塔で道標を兼ねている。正面は「左 江戸道」、右面は「右 地蔵尊道」、左面は「西 府中道」とある。地蔵尊道というのは狛江駅北口にある泉龍寺の子育地蔵尊を指す。方向が東西南北ではないので推測が難しいが、江戸道はおそらく調布入間町から祖師谷を経て滝坂道に繋がっていたのではないだろうか。

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江戸時代以前の道を調べてみると、この辺りを南北に鎌倉街道が通っていたようだ。登戸の南の辺りで渡船で多摩川を渡るルートらしい。おそらくは過去千年の間、いろいろな道が多摩川に並行し、ある道はそれと交差し、人々が行き交っていたのだろう。そんな辻のひとつを見ているような気がする場所である。

場所  狛江市中和泉4丁目1-24

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2020年2月22日 (土)

水神前の庚申堂(狛江市元和泉)

多摩川の左岸である世田谷区と大田区に江戸時代から農業用水、工業用水をもたらしてきた六郷用水は、狛江市元和泉で多摩川から取水されていた。掘削を命じたのは徳川家康で慶長2年(1597)から16年かけて喜多見の代官小泉次太夫吉次にこの灌漑用水を掘らせた。昭和40年(1965)まで用水は開渠だった。

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取水していた場所(上の写真の中央右)周辺には現在も松林があるが、ここには玉翠園という鮎などの川魚を出す高級料亭があった。都心から金持ちが二子や狛江にリゾートにやってきていたのはついぞ100年ほど前のこと。玉翠園の開業は明治39年(1906)で昭和14年(1939)まで、彼らは多摩川に屋形船を浮かべ遠く富士や丹沢を愛でながら贅沢な時を過ごしたのだろう。

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そんな歴史を想起しながら庚申堂へ行くとこれが監獄のような造りになっていて驚く。実はこうなった経緯が中にある説明板に書いてあった。最初は昭和40年(1965)頃のことで、庚申様がある日盗難に遭ってしまった。数十日後、川崎市生田の田んぼで庚申塔が見つかり無事取り戻した。しかしその半年後、再び盗難に遭ってしまったのである。

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それからまた半年が過ぎたころ、狛江市内の小足立の野川用水の中にこの庚申塔が捨てられているのが見つかった。それを引き取りに行った際に、近くの御台橋のあたりで別の聖徳太子像も発見したので、ここに共に祀ることにしたらしい。二度の盗難に懲りてこのような厳重な牢獄のような堂宇になってしまったと書かれている。

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上の写真の庚申塔は寛政6年(1794)11月造立の角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、武州多摩郡世田谷領和泉村講中19人の銘がある。一方の御台橋で見つかった太子像については出処は不詳なのが残念。しかし罰当たりな輩もいたものである。一体何の目的で盗難したのだろうかと思うが、講中の名前などが彫られたものは売ることもできないし、自分だけのものにしてニヤニヤして眺めるしかないことに気づかなかったのだろうか。

場所  狛江市元和泉2丁目36

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2020年2月21日 (金)

緒方中通りの庚申塔(狛江市緒方)

狛江市緒方は狛江駅の南、和泉多摩川駅の東側一帯の地名で、江戸時代は緒方村。緒方の由来は水の溜まりの沼という意味だという。当時の戸数は42戸で、多摩川の洪水によって出来た砂地の土地の為、畑が6割、水田が4割程度だった。決して豊かではない農村地帯だったわけだ。そんな緒方村の中心は緒方中通りがクランクするこの庚申塔の辺りである。多摩川は絶えず洪水を繰返していたので、土地が安定したのはずっと近代になってからであろう。

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丁字路の角にある赤い庚申堂には一基の庚申塔が祀られている。造立年は享和元年(1801)10月で、緒方村の銘がある。駒型で青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。台石には21人の銘が刻まれているので、概ね緒方村全戸の名前だろう。

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緒方の現在の多摩川土手は「岸辺のアルバム」で日本全国に衝撃を与えた多摩川決壊の場所である。昭和49年(1974)9月に台風16号で多摩川堤防が決壊し狛江市の民家19戸が流された。昨年(2019)の台風19号の大雨で多摩川が氾濫した時にこの決壊の碑が無くなったので、流されたといううわさが立ったが、どうも狛江市が増水前に撤去したらしい。

場所  狛江市緒方2丁目2-18

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2020年2月20日 (木)

明静院の石仏(狛江市岩戸南)

狛江駅の東、世田谷通り辺りから旧岩戸川の暗渠が比較的明確な道筋を示し始める。この辺りは大昔から氾濫を繰返した多摩川の流域の一部で、堆積物が造った土地なので傾斜がなく、旧岩戸川は蛇行を繰り返し東に進んでいく。しばらく行くと岩戸児童センターがあり、その向かいに明静院と岩戸八幡神社が並んでいる。

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岩戸八幡神社は永禄元年(1558)の創建と伝えられるが、隣接の明静院は享禄3年(1530)の創建と四半世紀古い。もっともこの辺りは昭和中期まで田んぼの広がる田園地帯で、その中にポツンと神社と寺がある風景だっただろう。明静院は寺名を清岸寺という天台宗の寺院である。

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門前に一基の地蔵がある。念仏供養塔らしい。造立年は貞享4年(1687)2月とある。「奉造立念仏供養同行9人」と彫られているこの地蔵は、1978年の狛江市の資料だと境内に他の石仏と一緒に置かれているが、いつからか門前に祀られるようになった。江戸時代前期の造りの良い石仏である。

場所  狛江市岩戸南2丁目10-13

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2020年2月19日 (水)

筏道の庚申と念仏車(世田谷区喜多見)

個人的に大好きな一角である。世田谷通りの喜多見駅入口から少し南に入ったところだが、この辺りの道は江戸時代からある古道。この場所で分岐するのは北側が中道、南側が筏道で、江戸の街の建設を支えた奥多摩青梅の木材を多摩川で筏流しして六郷土手に運んだ筏師たちが川上に戻る古道(筏道)が現在も道筋を変えることなく残っている。二つの道の分岐点には三角地帯があり、庚申堂と念仏車が並んでいる。

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念仏車は珍しいが、近くの慶元寺に新しいものがある。念仏を唱えながら回すと一回回す毎にお経を一巻読むのと同じ功徳があると信じられ、仏教を広めるのに造られたもの。石をくりぬいて六角の木製車がはめ込まれている。この念仏車の造立年は文政4年(1821)11月で「多摩郡世田ヶ谷領喜多見郷」の銘がある。地元の女念仏講中によるものである。

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喜多見郷は講が盛んで、特に念仏講はほとんどの村人が参加、10以上のグループに分かれて戦前まで盛んにおこなわれていた。念仏講以外にも稲荷講、不動講、御嶽講、榛名講、大山講、庚申講なども併存し様々だったという。念仏講の右隣りには堂宇があり、庚申塔と地蔵が並んでいる。

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右の地蔵は享保4年(1719)12月の造立。武刕多摩郡喜多見村 同行94軒とある。当時からすれば村人全員という規模だろう。左の唐破風笠付角柱型の大型の庚申塔は、元禄5年(1692)12月の造立、武刕多麻郡喜多見村の銘がある。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。同行130人とあるので村人の大半だろう。農業に支えられ、喜多見氏時代から綿々と世代を繰返してきた喜多見の人々の信心深さを感じられる。

場所  世田谷区喜多見7丁目8-27

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2020年2月18日 (火)

堀ノ内地蔵堂②(杉並区堀ノ内)

堀ノ内地蔵堂から南へ下る坂道には「地蔵坂」という名前がある。坂道ブログでも紹介した。この地蔵堂の辺りでは昔から塞ノ神の行事を行っていたという。ここから南へくだると 堀ノ内保育園があり十字路になっているが、昭和2年くらいまでそこは「墓下」と呼ばれていたらしい。

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堂宇の右側には小さな石仏が並ぶ。左の小さなかわいい地蔵は新しいものだろう。角柱型の無縁塔は正体が分からない。右側の小さな丸彫の地蔵立像は多少時代が経過しているように見える。

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一方左側には中型の石仏が並ぶ。右は舟形の地蔵菩薩立像で造立年は不詳、「施主岡野氏」とある。中央は角柱型の文字塔の馬頭観音。これには明治22年(1889)の造立年がある。渋谷妙順建之とあるが、名前がお寺のお坊さんっぽい。左の浮彫の石仏も馬頭観音像で、こちらは造立年は不明である。

南西100m程のところにある堀ノ内熊野神社の西側(現在の杉並区済美教育センターあたり)は昔、牛馬の死体を捨てた場所だった。「てんば」とか「すてば」と呼ばれ、嫁入りにはこの傍は通らず、もし通れば袖をもがれるという言い伝えもあったという。捨場があったので馬頭観音もあるのだろう。

場所  杉並区堀ノ内2丁目8-10

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2020年2月17日 (月)

堀ノ内地蔵堂①(杉並区堀ノ内)

堀ノ内村は明治時代はのどかな農村であった。地域としては現在の杉並区堀ノ内を中心に、西は大宮八幡から松ノ木を経て五日市街道へ伸びる古道まで、東はほぼ現在の環七迄が村域だった。村の中心(本村)は現在熊野神社がある辺りで、その熊野神社のすぐ東に地蔵堂がある。明治時代の地図にはここに地蔵堂があったという地図表記があるので、おそらく江戸時代からあったものだろう。

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なかなか立派で大きな地蔵堂で境内も広い。堂宇に入ると正面に大型の石仏が5体並び、両脇には比較的小さめの石仏が並んでいる。今回は正面の5体について見てみたい。

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左から地蔵菩薩立像、聖観音像、地蔵菩薩立像、庚申塔、庚申塔と並んでいる。一番左の丸彫の地蔵菩薩立像は本体のみで高さが1m程ある。造立年などについては不明。左から2番目は舟型の聖観音像立像。右側に「念佛講中男女廿四人二世安楽所」とあり、左には造立年がある。元禄13年(1700)10月のものである。

中央(下の写真では左)も丸彫の地蔵菩薩立像で台石の文字がほとんど消えている。資料によると、安永2年(1773)に造立されたものを、万延元年(1860)8月に再建している。「天下泰平 武刕多麻郡 奉納大乗妙典六十六部日本回國」とあり、左側には「当邑 住石工 井上某」の銘がある。

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背の低い駒型の庚申塔は享保元年(1716)10月の造立。青面金剛像に三猿の図柄になっている。一番右は、立派な笠付の角柱型庚申塔で、元禄13年(1700)10月造立だが、万延元年(1860)8月再建とあるので、地蔵菩薩立像と同じ時期に同じ講中で再建したものではないかと思う。また、左から2番目の聖観音像と一番右の笠付庚申塔の造立年月が同じなので、この二つは元禄時代から同じ場所にあったのだろう。

場所  杉並区堀ノ内2丁目8-10

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2020年2月16日 (日)

西方寺の石仏(杉並区梅里)

杉並区梅里は丸の内線新高円寺駅の南一帯。青梅街道と五日市街道が分岐する南側には多くの寺院が集まっている。その中でも広いのがこの西方寺。江戸時代の初期、元和3年(1617)に四谷追分に開山。現在の場所は新宿大ガードの東側のヤマダ電機LABIとその南側一帯を境内としていた。大正9年(1920)に道路拡張で移転を余儀なくされ現在の場所に移った。

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本堂は極めて立派なもの。その手前右一帯が墓所だが、墓所の入口に多くの石仏が置かれている。墓石も含まれるが、地蔵山と言われるほど多くの石仏が所狭しと並んでいるのである。

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上の写真の左隅にある丸彫の地蔵立像は俗称を「雨降り地蔵」と呼び、正徳2年(1696)2月の造立。その右(写真中央)にある大きな自然石は文字塔で「大悲金剛」と書かれている。これも古く享和元年(1801)10月のものである。

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ここには様々な石仏があって探索していて飽きない。これは比較的新しいもので、昭和14年(1939)7月の馬頭観世音。「建主 千葉ヤス 再建」とあるので、もっと古いものがあったのを昭和14年に再建したのだろう。

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その近くには正面上部に如意輪観音座像を円形の窪みに彫った二十一夜塔がある。造立年は文化12年(1815)、二十一夜塔というのは月待塔のひとつで、大半が女念仏講中によって建てられている。月待講と念仏講が合体したような感じだったのだろう。二十一夜塔は概ね如意輪観音像が彫られている。

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地蔵山の中で最も古そうなのがこの如意輪観音座像である。造立年は延宝7年(1679)2月とある。かなり良い石材を使っているようで、尊顔もきれいである。ゼニゴケが多いがそれはきれいになる。

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本堂の裏手、西側の林の中にポツンとあるのがとても珍しい六観音石幢(せきどう)である。造立年は承応2年(1653)で、境内にあるもので最も古いかもしれない。普通六角石幢は六地蔵が彫られているものだが、これは六観音が彫られていて極めて珍しいものである。区の資料によると、聖観音像の下には「此一躰者 庚申為供養」と書かれているらしく、江戸時代初期の庚申講との関係が深いと思われる。

場所  杉並区梅里1丁目4-56

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2020年2月15日 (土)

常仙寺の石仏(杉並区和田)

常仙寺の前を通る道は鍋屋横丁のお題目石のところで分岐して西の妙法寺への参詣道として江戸時代から多くの人々が歩いた道である。常仙寺の辺りは和田村の本村の北に位置し、東小澤という小字だったところ。明治時代までは環七西にある梅里公園を湧水の溜池として水源に持つ小沢が流れ、中野富士見町駅あたりで神田川に合流していた。おそらくその沢から東小澤という地名になったのだろう。

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常仙寺は曹洞宗の寺院、慶長7年(1602)に千代田区の麹町で開山、明治41年(1908)に現在の地に移転してきた。曹洞宗の寺院らしく質素で詫び寂びを感じさせる境内で、本堂手前にある薬師堂の脇に石仏がたくさん並んでいる。小型の地蔵菩薩や聖観音、如意輪観音などがあるがどれも年代ははっきりしない。

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その中のひとつに上の庚申塔がある。角柱型で正面金剛、邪鬼、三猿、二鶏が描かれているもので、造立年は延宝8年(1680)8月。ただし傍に享和2年(1802)12月再建とあるので、江戸時代後期のもの。六臂の青面金剛の比率が全体の8割を占める珍しいバランスのものである。

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石仏の列の奥の中央には4体の幼児に囲まれた地蔵菩薩立像がある。裏面には「茨城県古河市 石工日光」とある。なかなか彫りのダイナミックな地蔵菩薩で、関東大震災の供養として建てられたらしいが詳しい年月は分からない。

場所  杉並区和田1丁目68-11

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2020年2月14日 (金)

十貫坂地蔵堂(杉並区和田)

十貫坂は坂道ぶろぐの「十貫坂」でも登場した坂で、中野長者との関連の説もある坂道である。その坂下は中野区と杉並区の区境になっているが、ここは江戸時代も本郷村と和田村の村境であったままの境界が現在に引き継がれている。その坂下にはたいそう立派な地蔵堂があり、いくつもの石碑石塔が祀られている。

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十貫坂地蔵堂という扁額もかなり立派なものであるが、中の石仏は汚れたガラス越しに拝見するしかないのが残念である。説明板によるとこの地蔵堂の石仏たちは、本郷村との村境の塞ノ神として祀られたものらしい。この坂下から西は和田村の中心地で現在の立正佼成会の豪華な施設が立ち並ぶ辺りが本村だったようだ。

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堂宇を覗くと、左に笠付角柱型の庚申塔がある。元禄5年(1692)11月の造立で、青面金剛像に三猿が彫られている。側面には武刕多麻郡和田村同行23人とあるが、蓮華の浮彫もある江戸時代前期の立派な造りである。左下に板碑型の墓石があるがこれも元禄11年(1698)5月と古いものである。

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中央にはひときわ高い丸彫の地蔵立像がある。造立年は享保2年(1717)10月。「奉造立地蔵菩薩和田村女念佛講中」とある。江戸時代は女性の講中も盛んで、男女の差もそれほどなかったことが女念佛講中を見ると分かる。

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右側には5基の石塔石仏がまとめられているが、後ろの左側は角柱文字塔の庚申塔である。正面に「奉供養庚申待」とあることで分かる。造立年は正徳2年(1712)10月である。その周りの地蔵菩薩立像はどれも年代不詳だが、後ろの円柱型は珍しい。

場所  杉並区和田1丁目58

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2020年2月13日 (木)

本郷氷川神社の庚申塔(中野区本町)

中野区にかつてあった本郷村、その鎮守が本郷氷川神社である。本郷村は現在の中野区にあった12村のうちでもその名の通り中心地と呼べる村だった。区域としてはほぼ神田川沿いで、中野富士見町・中野新橋辺りが村の西端、青梅街道成子坂下の淀橋が東端になる。本郷氷川神社は中野新橋駅の近く、すぐ近くにある福寿院が別当。明治以前の神仏習合の時代には神社と寺が一体のようになっていた。明治維新で政府が廃仏毀釈を行いその平和な状態を破壊したのは残念でならない。

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元々本郷村にはいくつもの石仏があったようだが、それらが氷川神社に集められて祀られている。以前は他にもあったようだが、摩滅が激しく原型をとどめないものが多かったので、写真の一番左の庚申塔にまとめられたようである。

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この庚申塔は正面金剛像、邪鬼、三猿の舟型庚申塔で、昭和45年(1945)1月の再建。おそらく土台の下に古いものが埋められているのではないかと思う。

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中央のものは周辺が破損しているが、顔の欠けた青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄の庚申塔。文字の部分はほぼなくなっているので年代などは不明である。戦災によるものだろうか。

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一番右のものは三猿のみは分かるが中部から上部が完全になくなっており、詳細は全く不明である。都心に近くなればなるほど関東大震災と第二次世界大戦の空爆を免れた石仏は極めて稀になる。氷川神社も戦災で焼失しており、昭和30年(1955)にようやく再建された。神社の創建は文明元年(1469)で太田道灌によるものだと伝えられる。

場所  中野区本町4丁目10-3

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2020年2月12日 (水)

秋津子育地蔵尊(中野区本町)

丸の内線新中野駅の南700m程、現在は路地だが、この地蔵尊前を東西に走る道は江戸時代前期からある古い妙法寺参詣道である。以前に書いた中野の象小屋前から、本郷氷川神社を通り妙法寺へ向かうと、氷川神社のすぐ西にこの地蔵尊がある。数坪の境内には5基の石塔があるが、基本すべてが墓石のようである。右から二番目の地蔵は指差し地蔵とよばれ、台石右の指差しの絵は妙法寺を向いているという話がある。

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上の写真の右に延びる道が古い参詣道で、この先の土地の古い小字が薬師堂という名前。この地名は元応元年(1319)には既にこの地にあったという薬師如来の堂宇に由来する。ただし薬師堂は明和年間(1764~1771)に焼失し、薬師如来は福寿院(秋津子育地蔵尊の東)に現在も秘仏として保存されているらしい。薬師堂という地域は江戸時代前期に単独の村になっていたようだが、40人ほどの小村だったので、後の時代には周りの村に含まれてしまっている。

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中央の地蔵は模造して昭和24年(1949)に新しく建てられたもので、左端の首のない黒っぽい座像が昔からある秋津子育地蔵尊らしい。しかし新しい地蔵の台石に戒名と没年が彫り直されており、天保9年(1838)、慶応元年(1865)、文久3年(1863)、などに混じり昭和の年号も複数見られる。秋津子育地蔵尊と呼ばれるのかは、この地蔵の再建に尽力した津田氏の母が秋元家から津田家に嫁いだ関係で、頭文字を取って秋津と名付けたもの。

場所  中野区本町5丁目21-9

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2020年2月11日 (火)

鍋屋横丁のお題目石(中野区本町)

中野区の青梅街道に鍋屋横丁なる場所がある。通称「鍋横」、江戸時代に青梅街道から妙法寺に参詣する参詣道の分岐点として栄えた。妙法寺への参詣は江戸時代前半には中野坂上の少し新宿寄りから、現在の本一通りを通る道が元々の参詣道だった。途中には象小屋があり、江戸名所図会には「中野に象厩(きさや)を立てて飼っている」と書かれている。この象は享保13年(1728)に中国人が吉宗に献上する為にベトナムから連れてきたもので、長崎から江戸までほとんど歩かせたらしい。

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江戸でしばらくの間浜御殿(浜離宮庭園)で飼われていたが、後に中野村の源助に下げ渡され、この辺りで寛保2年(1742)まで生きていた。そのルートが江戸時代後期には鍋屋横丁からの道ができてそっちがメインルートになってしまった。その新しいルートに建てられたのがこの道標供養塔である。

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妙法寺側には「ほりの内」、反対側には「妙法寺十八丁」とある。この石塔が建てられたのは享保3年(1718)だから、象小屋があった時代は既に青梅街道・鍋屋横丁ルートがメインだったことになる。中野村では宝仙寺が強大な勢力を持っていたが、堀之内村の妙法寺も日蓮宗の本山のひとつとして人気が高かった。江戸時代のこういう大きな寺院は現代でいうテーマパークなのである。

場所  中野区本町4丁目38-18

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2020年2月10日 (月)

杉山公園の地蔵尊(中野区本町)

中野区本町はホンチョウ、渋谷区本町はホンマチと読む。甲州街道北側が渋谷区本町で、青梅街道と神田川の間が中野区本町。昭和の住居表示は改悪が多いので、旧町名を見ることにしている。東から、相生町、朝日丘、東郷町、道玄町、宮里町、千代田町、西町というのが旧町名で、青梅街道沿いの狭い商家の多い街道筋のみが本町あるいは本町通りだった。杉山公園は本町の西の端にあり、青梅街道と中野通りの交差点に面している。

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その杉山公園には近代的な地蔵尊が祀られている。三体が一体化されたアートっぽいもので、大正14年(1924)に杉山公園の由来となった杉山裁吉氏が建立したもの。杉山氏は明治の事業家で、娘のみさをさんが病弱なため、自然豊かな中野へ居を構え、事業家を引退し娘の療養に専念した。しかしみさをさんは若くして他界、その後夫人も世を去った折にこの地蔵を建てた。その場所が東京市に寄付され、今の杉山公園になっているという訳である。

自然豊かな中野、というのは言い過ぎではなく関東大震災以前は野原の広がる地域だった。それが街になったのは、関東大震災で人口が一気に新宿以西に広がり民家の建設ラッシュが始まったからである。散策していて関東大震災以前の風景をイメージできるとなかなか面白くなる。

場所  中野区本町6丁目15

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2020年2月 9日 (日)

白玉稲荷の馬頭観音(中野区中央)

山手通りに面した都営大江戸線中野坂上駅出口の近くに白玉稲荷神社がある。江戸時代は宝仙寺境内にあったが、明治維新後分社されてこの地に移った。中野区中央にはもう一つ宝仙寺の西にも白玉稲荷神社があるが関係は調べていない。

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神社の鳥居の脇に大きな石塔がある。文字塔の馬頭観音だが、下方には弘法大師の法体像(出家した姿の像)が浮き彫りに彫ってある。文字部分には、「七拾番 讃岐国本山寺写 本尊馬頭観音」とあり、馬頭観音だということがわかる。

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馬頭観音塔は中程で折れたのを繋いだ跡がある。おそらく戦災で折れてしまったのを修復したのだろう。山手通りの向かい、丸柱の庚申塔のあたりを含めて塔山と呼ばれた地域。中野区では、昔、馬祭の行事が頻繁に行われ、それを偲ぶ人々がこの文久年間造立の馬頭観音を建てたのではないかとしている。

中野区中央2丁目8-24

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2020年2月 8日 (土)

笠付円筒形の庚申塔(中野区中央)

中野坂上駅から山手通りを少し北上した東側には中野第十中学校があったが、残念ながら2018年3月をもって閉校。しかし第三中学校と合併して同じ場所で中野東中学校として学校は残ることになった。この場所はもともと中野宝仙寺の土地で、昔はここに広い境内があり三重塔があった。昭和の中頃まではこの辺りを塔山町と呼んだがこれは三重塔由来である。寛永13年(1636)に建てられたが戦災で焼失してしまった。

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そのすぐ近くに白い堂宇がある。しっかりした堂宇だが、中を見ると大きな丸太のような石塔があるのみ。実はこれが庚申塔で、戦災を被ってかなり破損した状態になっている。資料によると、造立年は宝永5年(1708)10月で、「奉供養庚申講為二世安楽」と書かれているようだ。正面に青面金剛を配した円筒型の笠付庚申塔だったらしい。

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堂宇の建設は当然ながら戦後。古老の話によると、庚申塔の場所は何度か変わっているらしく、戦前までは第十中学校の正門(現在地よりも南)にあったという。青面金剛像の出っ張りが渡しにはモアイ像にも見えた。

場所  中野区中央1丁目41-1

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2020年2月 7日 (金)

上高田百番巡礼供養塔(中野区上高田)

早稲田通り沿いにいくつもの寺院が並ぶ上高田周辺、ざっと数えて道沿いに9寺がある。その9寺の東端の辻に大きな供養塔が立っている。この道を入ると先には火葬場がある。落合斎場である。斎場の北側にも寺が6寺ある。それと供養塔との関係はよく分からないが、なくはないだろう。

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この辻から北へ伸びる道は新宿区と中野区の区境の道。そして落合火葬場は明治の初期からこの場所にある。現在は150m程西に上高田中通りが北へ伸びているが、そちらの道は明治の終わりに出来た道で、この辻からの道が江戸時代からの道である。供養塔の脇に小さめの石塔が立っているが、この石が道標になっている。摩滅が進んでいるが、正面には「新井薬師」と彫られている。

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供養塔には「奉建立西国坂東秩父百番供養塔」とあり、造立年は寛政12年(1800)8月。「願主 中野村打越 嶌嵜治良兵衛」とあるので、上高田ではなく中野駅北側の打越の人が建てたようだ。台石にもいろいろ書かれている。正面にはみちしるべらしきかな書きが彫られていた。

場所  中野区上高田1丁目1-1

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2020年2月 6日 (木)

青原寺の庚申塔(中野区上高田)

青原寺は早稲田通り沿いにある上高田の曹洞宗寺院。開山は永生5年(1508)で江戸時代は青山にあった。ちょうど現在の外苑前駅の北側である。明治42年に現在の地に移転した。

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山門は質素だがセンスのいいもの。山門をくぐり左に進むと小堂の脇の草むらに1基の庚申塔が立っている。山型角柱型で正面金剛像と三猿の図柄だが、造立年などは見当たらない。

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そもそも山型角柱型の庚申塔自体があまり多くない。この庚申塔は日月もくっきりとよく分かる。結構硬そうな岩質に見える。ただ三猿から推測するに江戸時代中期ではないかと。元禄から宝永あたりのような気がする。ほとんど出所の分からない庚申塔だが、どこにあったのだろう。

場所  中野区上高田1丁目2-3 青原寺

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2020年2月 5日 (水)

円融観世音(中野区上高田)

この地蔵は普通の散歩では決して見つからない場所にある。薬師柳通り地蔵尊のところで少し触れた妙正寺川の支流は東流し、大妻中野高校の裏手から早稲田通りの北100m程のところに暗渠として残っている。この暗渠自体歩いてなかなか面白いのだが、いわゆる暗渠本には載っていないようだ。上高田1丁目からは北流して妙正寺川に合流していた。この細流が削ったと思われる崖線が早稲田通りに並ぶ寺院の裏手に残っていて、高低差は数mある。

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そんな暗渠のすぐ近くに簡素な堂宇があり、聖観音像が祀られている。舟型の聖観音立像の堂宇には「円融観音」と書かれているが、これは隣りの保善寺の住職による命名らしい。この地に住む宮崎氏が大正時代の初め頃、早稲田通りの近くに住んでいた時、敷地内から発掘された。それをその地で堂宇を建てて祀っていたという。昭和10年に当時の昭和通り(現在の早稲田通り)拡張のため転居を余儀なくされ、聖観音もここに越してきたらしい。

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造立年は元禄2年(1689)5月で、融室妙圓禅定尼 旲位とある。旲位(たいい)というのが何を意味するのか私には分からない。手前の三猿は全くの別物だと思われる。妙に白いのでレリーフのように思えた。保善寺は段丘の上にある寺院のうちのひとつで、文禄2年(1593)に牛込に開山、明治39年(1906)に現在の地へ移転した曹洞宗寺院。

場所  中野区上高田1丁目27-16

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2020年2月 4日 (火)

天神町の石仏(中野区中野)

現在の中野駅の北側で中野通り以東が中野5丁目、中野ブロードウェイに向かうサンロード商店街のある西半分が打越町、残りの東半分が天神町であったのは高度経済成長期まで。東半分が天神町と呼ばれたのは、北野神社があるからである。戦後のエネルギーを保っているような打越町に対して、天神町は戸建て住宅の多い静かな街である。

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北野神社の南側には神田川支流桃園川のさらに支流が流れていた。現在もその流れの跡は暗渠になっていてくねくねと曲がっている。北野神社の正式名は打越天神北野神社。創建年代は不詳だが、江戸時代からあるという。しかし明治初期の地図にも載っていない小さな神社だったようだ。この神社の境内、本殿裏横手に庚申塔が2基、如意輪観音が1基祀られている。

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右の庚申塔は駒型、青面金剛像に三猿の図柄で、元禄5年(1692)11月の造立。打越村願主 鈴木・保坂の銘がある。中央は舟型の庚申塔で、青面金剛に邪鬼、三猿が描かれている。造立年は元禄14年(1701)10月で、中程に折れた跡があり継いである。左側の如意輪観音座像は元禄10年(1697)11月の造立。この3体は初めは北野神社の前の道路際に立っていたが、昭和7年(1932)に境内に移されたらしい。

場所  中野区中野5丁目8-1

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2020年2月 3日 (月)

薬師柳通りの地蔵堂(中野区新井)

早稲田通りから新井薬師へ向かう通りが薬師柳通りである。現在はバス通りだが、この道をまっすぐに進むとやがて新井薬師梅照院の山門に至る。従ってこの道が新井薬師への本来の参道と言えるだろう。江戸時代には早稲田通りの北側を妙正寺川の支流が流れており、現在でも暗渠道が薬師なぎ通りと交差していて、高度経済成長期までは開渠として川が流れていた。

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堂宇はなかなか立派なものである。この堂宇、戦災ではなく昭和24年(1949)の火災で焼失したが、昭和29年(1954)に地元の故泉与三郎氏が中心となって再建した。現在も花や折り鶴が飾られており、地蔵会の活動は続いているようである。新井薬師への道標だけではなく、子育てや病気の平癒に御利益のある地蔵尊として親しまれている。

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地蔵は丸彫で、造立年は延享3年(1746)10月。「武州多麻郡中野村打越」の銘があり、「これより右 あらい村 梅照院江三丁道」とある。打越というのはこの辺りの古い小字である。打越町の名前は昭和の中頃まで中野駅北口周辺(現在の中野5丁目)が最後まで打越の名を残していた。地蔵は明治の中頃、首が折れてしまったという。よく見ると顎の下に接着した痕跡がある。地蔵は災いを代わりに被ってくれるというから、これで誰かが救われたのではないだろうか。

場所  中野区新井1丁目1-19

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2020年2月 2日 (日)

上高田の馬頭観音⓶(中野区上高田)

上高田中通りの馬頭観音の200m程南にもう一つの馬頭観音が供養塔と共に祀られている。こちらの道は新井薬師へ向かう道筋で、これも江戸時代からの古い道。通り名を上高田本通りと呼ぶので、こちらの道が上高田村の中心だったのだろう。

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上高田本通りの路傍に、忽然とあるその場所は、コンクリートの土台にブロックの塀、まるでガレージのような屋根で、とても石仏や石碑があるような雰囲気ではない。この2体は昔は道路と同じ高さの位置にあったそうで、傍には大きな樹木があり農村風景を醸し出していたが、昭和45年(1970)頃、近所の鈴木氏によって現在の形に安置されたという。

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右側は角柱型の観音塔で、台石は道標になっている。石塔に書かれているのは、「西国百ヶ所供養為二世安楽 羽黒山行者 久兵衛  坂東湯殿山月山」という文字。造立年は天保3年(1832)4月とある。左側には、明治34年(1901)造立の角柱型の馬頭観音がある。野ざらしよりもはるかにいい。こういう屋根もありかな、と思った次第。

場所  中野区上高田1丁目49-17

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2020年2月 1日 (土)

上高田の馬頭観音①(中野区上高田)

上高田中通りは江戸時代からの古い幹線道である。昔はもっと石仏石塔があったのだろうが、今は踏切北側にある笠付庚申塔とこの馬頭観音くらいしかない。新井薬師前駅の南、上高田中通りから西へ少し入ったところに竹垣の素敵な広い屋敷がある。屋敷林に囲まれたその姿は江戸時代から大正にかけてのこの辺りの大きな農家の雰囲気が残っている。ここは「たきびの歌発祥の地」とある。巽聖歌がたきびの歌をこのあたりに住んでいる時に作ったという。当時は竹垣でなく、生垣だったようだが、現在も一部生垣は残されている。

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一旦、上高田中通りに戻り少しだけ南に進むと堂宇の中に石仏が1基祀られている。 舟型座像の馬頭観世音像である。造立年は文政7年(1824)10月と台石にある。傷んでいるようで面相は分からない。堂宇は戦後建てたものだという。

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この馬頭観音はたきびの歌の場所の傍に住まわれていた荻原さんのご先祖が、自分の持ち馬が死亡した時に供養のために建てたものらしい。また土地の言い伝えでは、この馬頭観音はおできによく効くといわれているらしい。もっと有名になっていたらイボ観音などと呼ばれていたかもしれない。

場所  中野区上高田3丁目13-12

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