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2020年3月31日 (火)

金井塚の庚申塔(中野区江原町)

金井塚といっても現在はもうない。元々は現在の江原一丁目9番にあった豊島塚のひとつ。豊島塚というのは、文明9年(1477)に江古田の地であった江古田合戦の死者を弔うのに盛った塚で「豊島二百柱」と言われるように相当な数があった。江古田合戦は扇谷上杉家家臣の太田道灌が石神井城主豊島泰経を没落に導いた合戦で、豊島軍の武将たちの遺体を埋めて塚を作った。現在ではもう残っていないが、豊島軍の武将の霊を集めて祀った社が沼袋駅の北、丸山塚公園にある。

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この場所は目白通り沿いにある江古田観音堂。ここに数基の石仏が祀られている。左から、丸彫の地蔵菩薩像、板碑型の庚申塔、聖観音立像、不明の像立(金剛夜叉明王かも)、駒型庚申塔、中折れした地蔵菩薩坐像である。丸彫の地蔵は明治17年(1884)の造立。聖観音立像は天保10年(1839)の造立である。

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板碑型の庚申塔は大きなもので、三猿のみの図柄。上部には「奉庚申供養諸願成就之所」とあり、造立年は延宝2年(1674)2月。「同行8人 女人8人」とある。下部には蓮葉が描かれている。

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もう一つの庚申塔は駒型で、青面金剛・邪鬼・三猿・二鶏の図柄。側面に、宝暦13年(1763)10月の造立年が入る。「奉造立庚申待 願主 江古田村金左衛門 講中28人」とある。かつての金井塚は塚の中央に庚申塔が建てられていたので「庚塚」、または狐がその塚に巣を作って棲んでいたので「狐塚」などと呼ばれたという。江戸時代に江古田村で『おこり』というマラリアに似た病気の神様として有名で遠方からの詣で客もあったようだ。

場所  中野区江原町3丁目12-9

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2020年3月30日 (月)

江原町の舟型地蔵尊(中野区江原町)

西武池袋線江古田駅は「えこだ駅」と読み、大江戸線新江古田駅は「新えごた駅」と読む。どうも練馬区の江古田はえこだで中野区の江古田はえごたのようだが、混乱をひどしたのは駅名ではないかと思っている。東京都が都営12号線(大江戸線)の駅に「新」を付けるから同じものの新旧だと勘違いしてしまう。最初から練馬区はえこだ、中野区はえごたとすれば済む話だったのではないか。

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そんな江古田の境目にあるのがこの路傍の舟型地蔵尊。実はこの場所、江戸時代は中荒井村、上板橋村、江古田村の3村の境であった。明治時代の地図にも、大正の地図にも、昭和前期の地図にもこの場所には石塔の印があるので、場所は江戸時代から変わっていない。

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舟形光背型の地蔵菩薩像の造立年は寛政9年(1797)、「修行佛子無障難 菩提行願不退轉 四忍法界諸衆生 平等利益證妙果 光明真言 男女講中」と彫られている。念仏講ではないかと思われる。寛政年間にこの地に疫病が流行り、その祈願のために建てられた。昭和初期の区画整理にも巻き込まれず現在まで残っているのは奇跡的かもしれない。

場所  中野区江原町3丁目26-5

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2020年3月29日 (日)

林稲荷神社の庚申塔(練馬区豊玉北)

妙正寺川支流江古田川が削った豊玉北の低地から微妙な河岸段丘を登ったところに林稲荷がある。南北に微崖線が走っていて標高差が5mほどある。林稲荷の境内はこの段丘を現在も感じられる地形にある。一方、林稲荷の南側には村境になっていて、北側(含む稲荷)が中荒井村、南側が江古田村だった。現在でも、林稲荷は練馬区豊玉北だが、南の路地を挟んだ区域は中野区江原町で、現在の区境になっている。

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林稲荷のあるところは江戸時代は村境であったが、同時にこの周辺は将軍家の直轄地(天領)で「御林(おはやし)」と呼ばれた。ある夏、干ばつが続き住民が困窮の末、ついに御林の樹木を伐採しそれを売って生き延びた。管理を任されていた百姓仁左衛門は制裁すべきかどうか困っていたところ、夢枕に稲荷の祭神(宇気母知命:うけもちのみこと)が現れ、湧水の出場所を教えてくれた。仁左衛門は村人を集めて台地に穴を掘ると水が湧き出してきて、灌漑用水の心配がなくなったという。そこに神社を建てたのが林稲荷で、創建は寛文年間(1661~1673)である。

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稲荷の前に聖観音立像と庚申塔が祀られている。聖観音像は年代等が良く見えず不詳だが、庚申塔は区の有形民俗文化財に指定されているもの。下部に三猿が描かれているだけのシンプルな角柱型で、上部には「奉造立庚申供養諸願成就処」とあり、造立年寛文3年(1663)10月と刻まれている。

場所  練馬区豊玉北1丁目7

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2020年3月28日 (土)

市杵島神社の石仏(練馬区豊玉北)

存在感の乏しい神社だが歴史は古く、創建年代は不詳。江戸時代この辺りは中荒井村という農村で、もともとは弁天様であった。現在も地元の通称では弁天様で通っているようだ。市杵島神社の祭神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は福岡の宗像神社中津宮の神で、海神の一柱だが、どうも江戸時代に厳島と混同されてしまい弁財天とされてしまったらしいのである。

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以前は旧社殿を囲むように池があったという。しかし昭和20年代から30年代に埋められてしまったらしい。現在の社殿の後ろには3基の石仏がある。これらはすべて、昭和初期の耕地整理によってここに移されたものである。戦前の地図を見ると、桜台駅あたりから流下してきた妙正寺川支流江古田川に流れ込む沢の脇に池に囲まれた弁天祠がある。

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一番右の地蔵菩薩立像は、宝永5年(1708)10月の造立で、「武刕豊嶋郡中荒井村 23人念仏講中」の銘がある。中央の堂宇に収まっているのは不動明王像。こちらは新しく明治40年(1907)9月の造立で、「講中15人建之」と彫られている。左の石塔は中央が中折れしたものを修復してあるが、宝暦13年(1763)9月のもの。中央の文字列の最後に「安全」という文字が見られるが、欠損で読めない。練馬区の資料を調べてみると庚申塔のようである。中央の文字は「奉造立庚申尊像家内安全」と書いてあるらしい。なお市杵島神社の後ろには目白通りが走っているが、旧道からしか入れない。この旧道は中荒井村から上板橋宿への主要な村の道であった。

場所  練馬区豊玉北2丁目17-2

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2020年3月27日 (金)

延命寺の石仏(渋谷区千駄ヶ谷)

延命寺は原宿の近くにひっそりと佇んでいる静かな寺院だが、創建は元禄元年(1688)と伝えられる。もともとは地蔵堂だったとのことで、そのスタイルを3世紀半経った現在も踏襲しているような気がする。例に漏れず廃仏毀釈で廃れていたが、大正末期に再建されたという。

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延命寺には庚申塔以外にも多くの石仏が保存されている。庚申塔の並びの墓所側に並ぶ3基の石仏は、左から明治40年(1907)の聖観音像、次も聖観音像だが足元に他の菩薩の頭部が置かれていてぎょっとする。一番右の聖観音立像らしき丸彫の石仏の足元にも他の地蔵の頭部があるので、これはそうするものなのかもしれない。

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塀の向かい、本堂側に並ぶのは諸仏。右端から、昭和6年(1931)の地蔵菩薩、丸彫聖観音像、延宝7年(1679)の如意輪観音像、正徳年間(1711~1716)の如意輪観音像、元禄7年(1694)の聖観音像、貞享2年(1685)の聖観音像(ただし大正元年に再建)と並んでいるが、どれも墓石らしい。

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墓所に向かう時にはこの路地を通るのだが、私にとっては豪華な道である。とはいえ延命寺の主役は寺の入口にある延命地蔵尊であろう。高さは145㎝もある丸彫の地蔵菩薩像である。

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造立年は安永9年(1780)4月、台座の背面には「久保町 石工 高井藤四郎」とあるので青山外苑前の石工が彫ったもの。「為法印性海追福造立之者也」とあるが性海は願主のお坊さんの名前である。すぐ近くにある山手線の線路や明治神宮は江戸時代は滋賀県の近江彦根藩井伊家の下屋敷だったので、その屋敷の脇にあった寺ということになる。

場所  渋谷区千駄ヶ谷3丁目56-5

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2020年3月26日 (木)

延命寺の庚申塔(渋谷区千駄ヶ谷)

延命寺は見た目は民宿のような感じの寺院である。場所は原宿駅の皇室御用達宮廷ホーム沿いに千駄ヶ谷方面に歩いていくと2分ばかりで着く。訪問時は勝手口の呼び鈴を鳴らし、住職に挨拶をして庚申塔群の場所を教えていただいた。寺の建物の脇をすり抜けるように進むとこじんまりとした墓所があり、手前の塀脇に沢山の石仏が並んでいる。

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よくぞ廃れただろう石仏を大切に保存していただいたものだとありがたくひとつづつ拝んでいった。区内では豊栄稲荷に次ぐ庚申塔の宝庫と言える。写真の左側列のほとんどが庚申塔で、右側は諸仏である。極めて貴重な文化財と言えるだろう。

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左から順に庚申塔を紹介したい。まず、上部が欠損しているが、舟型の庚申塔で高さは58㎝。デザインはシンプルに三猿のみで、貞享3年(1686)11月の造立。「庚申供養為二世安楽 青山久保片町」とある。青山久保町というのは外苑前駅の交差点から秩父宮ラグビー場あたりまでの江戸時代の町名である。二番目の庚申塔はきれいな舟型でこれも三猿のみ。造立年は延宝8年(1680)8月、「奉供養庚申」と彫られている。いきなり1600年代のものが続いた。

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その次、三番目は駒型で今度は青面金剛像のみ(日月は有り)の図柄。宝永5年(1708)9月の造立で、この年代になると青面金剛の存在が大きくなる。下総国〇〇郡とあるが、けもの偏なので「猿島郡」だろうか、よく分からない。施主岩田勘右衛門とあるが不詳。四番目は彫りが深い。年代は宝永7年(1710)で、青面金剛像・三猿の図柄。下部時人名は6人ほどあるが地名はない。

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碁盤目は角柱型の青面金剛像だが、三面に一猿ずつの三猿という珍しいタイプである。右面に造立年があり、延宝8年(1680)と書かれている。デザインの変化が大きかった時代である。六番目は駒型でここでも最大の87㎝のもの。青面金剛像・三猿の図柄で、原宿村の銘があるので地元である。造立年は享保11年(1726)10月である。

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七番目が庚申塔の列の最後。これはまた珍しいもので、三面に一猿ずつの三猿というタイプ。渋谷区ではこれが唯一。青山久保町とあるので、外苑前駅周辺である。年代は延宝6年(1678)9月で、ここでは一番古いものである。江戸時代青山久保町にはたくさんの寺があったが、今でも梅窓院、高徳寺など6寺ほどある。外苑前駅周辺は寺地、武家地、町人地が入り混じったエリアで江戸時代も賑やかだったようだ。

場所  渋谷区千駄ヶ谷3丁目56-5

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2020年3月25日 (水)

瑞円寺の庚申塔(渋谷区千駄ヶ谷)

聖輪寺門前から観音坂に入り坂道を登り始めると、左に道が分岐する。そのすぐ先にあるのが瑞円寺。創建年代は不詳だが、江戸時代の二代将軍徳川秀忠より御朱印状を拝領しているので江戸時代初期にはもう立派な寺院だったことが推し量れる。安政の大地震(1855)で大きな被害を受け、明治になって廃仏毀釈で荒廃してしまった。しかし現在では立派な堂宇に静かな境内の素晴らしい寺院である。

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本堂脇に彫りの素晴らしい庚申塔が2基祀られている。右の大きい方は高さが76㎝、駒型で、青面金剛像・邪鬼・三猿の図柄だが、側面には稲穂を咥えた狐が彫られており、稲荷信仰を合わせたものとしてはとても珍しい。造立年は享保5年(1720)である。左の小さい方は年代不詳だが、駒型、青面金剛像・邪鬼・三猿の図柄に加えて稲穂を咥えた狐も描かれており、ほぼ同年代と推定される。

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庚申塔の後ろには巨大な無縁仏党がある。その無縁塔の最上段にあるのが写真の笠付六面塔。年代は不詳だが、六面に地蔵を浮き彫りにしてあるもので、時折見かけるが数は多くない。ちなみに観音坂から分岐する瑞円寺の前の道を進むと榎坂になる。榎の巨樹があって、お万の榎と呼ばれていたが、後に近くにオマーン大使館が出来たのは偶然。(現在のオマーン大使館は広尾)

場所  渋谷区千駄ヶ谷2丁目35-1

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2020年3月24日 (火)

聖輪寺の庚申塔(渋谷区千駄ヶ谷)

国立競技場から最も近い寺が聖輪寺である。聖輪寺の門前で坂道が二手に分岐しているが、南側の坂道が観音坂。聖輪寺前の道は明治時代に開かれた道で、それ以前は観音坂の道しかなかった。聖輪寺の本尊が如意輪観音だったことに由来する坂名だが、ご本尊の如意輪観音は戦災で焼失してしまった。盗賊の言い伝えなどはなかなか面白いので、坂道編の観音坂をお読みいただきたい。

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こじんまりとした寺院だが、山門を入って左手に本堂、その本堂から左に転じると目の前に不動明王像がある。「見守不動」と呼ばれ、別像の二童子が脇に立つ。この不動の功徳で門前の観音坂では事故がないという。塀沿いには不動明王と六地蔵が並び、その向かいの本堂前には庚申塔が2基祀られている。

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左の角柱型庚申塔は延宝5年(1677)10月の造立で古いもの。三猿のシンプルな図柄である。右の駒型庚申塔は高さが123㎝ある大きなもの。青面金剛像に三猿の図柄である。造立年は元禄3年(1690)5月。江戸時代前期の庚申塔はやはりいい。

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奥の高台に上ると墓所だが、その手前に無縁仏を集めた六面塔などがあり、どれも見事である。その中に五人地蔵なる石仏がある。五人地蔵と言っても顔が5面あるわけではなく、台座に「五人地蔵」と書かれているだけ。しかし地蔵の持つ錫杖(しゃくじょう)に子供がすがる図柄は極めて珍しい。台座側面には名前が5人分ある。それで五人地蔵か。

聖輪寺の開基は寺の説明書きによると、神亀2年(725)に僧行基が北越遊行の折にここで休憩したところ、古木に如意輪観音が出現しこの場所を指示したので、行基が如意輪観音をその古木で彫ったと書かれている。

場所  渋谷区千駄ヶ谷1丁目13-11

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2020年3月23日 (月)

鳩森八幡の庚申塚(渋谷区千駄ヶ谷)

千駄ヶ谷の鳩森八幡神社には東京で最も有名な富士山のひとつがある。いつ行っても誰かが登っていることが多い。私もここの富士が好きで何度となく登頂しているが、高さでは西新宿の成子富士には敵わないし、眺望では品川神社の富士に敵わない。それでもなぜかとても人気がある。人々はそんな鳩森の富士を訪れるが、裏手にある庚申塚(庚申堂)には全く気付かない。

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実は鳩森八幡の国立競技場側の鳥居と、この庚申堂の間には最近メディアで何度も登場した将棋会館がある。藤井聡太七段のニュースでおなじみの場所である。赤い堂宇はなかなか派手で、普通庚申塔にはこのような華やかな堂宇はないが、かつて道路の工事などで路傍にうっちゃられていた庚申塔を、町内の有志が修復して復元し、ご利益を受けた庚申塔のようである。

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庚申塔は駒型で、青面金剛像、邪鬼、三猿がきれいに彫られている。造立年は享保8年(1723)4月。地元では「わらじの庚申」と呼ばれていて、堂内には沢山のわらじが奉納されている。庚申塔には猿が付き物だが、これは庚申を「かのえさる」と読むことから猿を信仰の対象とした経緯があり、さらに猿田彦神を祀るケースも多い。猿田彦は天孫降臨の道案内をした神とされ、足に関しての御利益があると信じられている。それがわらじに繋がっているという訳である。ただ、奉納草鞋を提供している家が下駄屋、靴屋ではなく、理容室と美容室という頭とは正反対の店で扱っているのが、なかなか面白い。

場所  渋谷区千駄ヶ谷1丁目1-24

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2020年3月22日 (日)

千駄ヶ谷の庚申塔(渋谷区千駄ヶ谷)

千駄ヶ谷という住居表示エリアは意外に広く、新宿駅のバスタも高島屋も千駄ヶ谷だし、原宿駅の宮廷ホームも千駄ヶ谷である。新宿御苑の南半分も実は千駄ヶ谷。千駄ヶ谷の地名の由来は江戸時代以前に遡る。稲などの作物の量の単位で1駄は馬が背負うことが出来る量を表す。太田道灌がこの辺りを巡検した時に渋谷川源流域の田んぼでたくさんの稲が穫れていたので千駄ヶ谷と名付けたという説がある。また明治時代まではこの辺りは南豊島郡千駄ヶ谷村という村だったのである。

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千駄ヶ谷駅の南西には国立能楽堂があるが、そのさらに1本西の路地に都心に似合わない路傍の堂宇に祀られた庚申塔がある。板状駒型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。摩滅がかなり進んでいるが、造立年などは分からない。

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この路地辺りは明治時代までは畑地だったようだが、100m程南に下ると渋谷川支流代々木川の谷があり、それより南西は代々木村であった。この庚申塔の場所のすぐ先が村境であったので、庚申塔がこの辺りにあったとしても違和感はない。

場所  渋谷区千駄ヶ谷4丁目22-6

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2020年3月21日 (土)

荘厳寺の石仏(渋谷区本町)

荘厳寺というよりも幡ヶ谷不動尊の方が名が通っているかもしれない。「そうごんじ」ではなく「しょうごんじ」と読む。門を入ると右斜め前に本堂らしき大きなお堂があるが、こっちが幡ヶ谷不動尊で、荘厳寺の本堂は左手奥にある。当然ながら、第二次大戦の空襲で代々木練兵場に比較的近いこの辺りも完全に焼失してしまい、移築して再建したものである。

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荘厳寺の創建は永禄4年(1561)で、幡ヶ谷不動尊の方は東大和市三光院(東大和市清水4-1132 )から延喜4年(1747)に不動尊を移したもの。幡ヶ谷不動尊はひとまず置いておいて、まっすぐに進みその脇の荘厳寺の山門をくぐる。比較的こじんまりとした境内である。本堂も質素なもの。

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本堂の手前左側でまず目に入るのは彫りの素晴らしい馬頭観音像。年記が無い為、時代は不詳である。三面六臂で頭上に馬頭の姿は小さいながら迫力がある。当然ながら江戸時代のものであろう。

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罵倒観音の右わきにあるのが駒型のようだが一猿(不言猿)の庚申塔である。このタイプは珍しい。上部には「奉庚申供養」とある文字塔だと思ったら下部には見事な不言猿が彫られており、桃が描かれている。造立年は宝永3年(1706)11月。本堂右手には不動明王像もあった。

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少し山門に戻ったところにある燈籠、この常夜燈は古い道標で、嘉永3年(1850)に建てられたものを移設。中段、下段の台石にはびっしりと情報や名前が刻まれている。もとあった場所は環状六号線(山手通り)と甲州街道の交差地点だったようだ。今は高速道路のジャンクションが頭上に覆いかぶさる大きな交差点だが、江戸時代は荷車が往来する程度の辻だったのだろう。甲州街道を拡張する際に荘厳寺に移された。

場所  渋谷区本町2丁目44-3

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2020年3月20日 (金)

水道道路の小さな地蔵(渋谷区本町)

東京都内に水道道路はいくつかあるが、この水道道路は甲州街道の北側を通る、和泉給水場から淀橋浄水場への水道が通っていた跡に造られた直線道である。土手を築きその上に水を通したので、大半の場所で周辺よりも標高が高くなっている。そのため、道路の下をトンネルで交差する道が3カ所ほどある。

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江戸時代には幕府の管理する玉川上水が機能していたが、明治になって管理が悪くなり、汚水や動物の死骸が用水に流れ込み、舟も通行したりして上水として機能しなくなった。そこで明治29年(1896)に玉川上水の新水路が敷設され、関東大震災で損傷するまで上水として運用した。昭和12年(1937)には水路としての機能を終え、埋めてこの道になったという経緯である。前述の3つのトンネルのうち大きなものは本町隧道と本村隧道、校舎の本村隧道上にある極真会館道場の脇に小さな地蔵堂があった。

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造立年などはまったく分からない。花を除けてみたが文字が見られない。その上図柄も漫画チックでかなり近年のものではないかと思われた。しかし、歴史ある本村隧道のほぼ真上にある地蔵なので、以前にあったものを再建したのかもしれない。全く何も手掛かりがないが、花が供えられ拝まれている地域の地蔵尊である。

場所  渋谷区本町1丁目60-3

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2020年3月19日 (木)

幡ヶ谷子育地蔵尊の庚申塔(渋谷区幡ヶ谷)

幡ヶ谷子育地蔵尊は監獄並みのガードで格子の隙間からしか尊顔を望めないが、一部子犬の頭が入るほどの隙間があり、そこから両脇の庚申塔を何とか撮影することが出来た。

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まずは向かって左隅にある駒型の庚申塔である。高さは99㎝、青面金剛像に三猿、二鶏の図柄。造立年は正徳3年(1713)11月で、「奉供養庚申講諸願成就処 新町講中」とある。下の写真は右隅の庚申塔。こちらは高さが112㎝とさらに大きなもの。青面金剛像、三猿、二鶏の図柄で、こちらも正徳3年(1713)11月の造立。

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この庚申塔がある幡ヶ谷子育地蔵尊のある甲州街道と路地によって出来た三角の土地だが、江戸時代からここは道の分岐点だった。甲州街道から分岐するこの路地は、代々木村と幡ヶ谷村の村境でもあったので、塞ノ神の庚申塔があることは自然である。甲州街道を拡幅する以前の地図にはここに巨樹のマークがあるが、子育地蔵尊の説明板にその記述があった。それによると、この辺りの低地は昔から地蔵窪と呼ばれていた。もとは現在の国道道路上にお堂があったが拡幅で大ケヤキのあったこの場所に移され、大ケヤキは伐採されたらしい。

興味深い文書がWeb上にあったのでリンクを付記:土地の記憶 代々木と幡ヶ谷 小嶋祥三氏

場所  渋谷区幡ヶ谷1丁目1-8

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2020年3月18日 (水)

清岸寺の石仏【2】(渋谷区幡ヶ谷)

清岸寺の石仏の続きである。一猿の板碑型庚申塔の左に並ぶのが六地蔵。そのさらに左にはあどけない童子像たちがいくつも並んでさながら保育園のようである。六地蔵の年代はよく分からない。ただ清岸寺の六地蔵はそれぞれに個性があるので面白い。オリジナリティのある石工が造ったのだろうか。

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六地蔵の前にある桜の大木のたもとに丸彫の地蔵立像と地蔵座像が並んでいる。この並びもまた面白い。左側にある地蔵立像のほうは元禄9年(1696)3月の日付が彫られている。下部の丸い台石も割と珍しい。その下には蓮葉の土台がある。

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右側の地蔵座像の土台は丸石と角柱の組み合わせである。座像の方は享保5年(1720)3月とある。どちらも江戸時代最盛期のものである。この二つの地蔵を見ながら右へターンすると、正面に本堂、右に六角堂の浄霊殿(これは実は納骨堂らしい)がある。本堂に向かって左側にあるのが魚籃観音である。

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魚籃観音は滅多に見られない。港区の魚籃坂にある魚籃寺が有名だが、直接見られるのはさらにレアだろう。渋谷区で魚籃観音があるのはここだけらしい。魚籃観音は妙齢の美女だが手には魚籠をもっていて一尾の魚が入っている。戦災の被害なのか中折れして継いだ跡があるが、姿形そのものが魅力的に感じられた。

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魚籃観音の向かい側には酒呑地蔵尊という地蔵がある。説明板によると、宝永5年(1708)に造立、別名を子育地蔵という。昔、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者が故あって幡ヶ谷村の農家に奉公していた。彼の勤勉さに好意をもった村人たちが彼の31歳の正月に招いてご馳走をしたところ、普段酒など飲まなかった彼は泥酔して川に落ちて死んでしまった。村人の夢枕に現れた瀬平が酒で苦労する人のために地蔵を造ってほしいと願うので、村人たちはこの地蔵を建立し酒呑地蔵として大切に祀ってきたという。

元々、渋谷区本町5丁目39の地蔵橋のたもとの堂宇内にあったが、ごく最近の平成23年(2011)1月に清岸寺に移された。その前年に地蔵橋の前の区立本町小学校が統合により消え、小中一貫校の渋谷本町学園に変わった。

場所   渋谷区幡ヶ谷2丁目36

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2020年3月17日 (火)

清岸寺の石仏【1】(渋谷区幡ヶ谷)

参道の直線の坂道を上ると広い境内に出る。向かって右手から奥にかけて墓所が広がっている。左に直角に曲がると本堂がある。正面には六角の浄霊殿があり、面白い境内の造りである。右の墓所の手前に石碑や石仏が集められている。

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まず目に入ったのは一猿の半跏像の庚申塔である。これは極めて珍しいもの。猿の姿がまるで赤児のような形をしている。板碑型だから古いものとアタリをつけて刻字を見ると、造立編は万治3年(1660)11月とあった。初期型である。庚申塔の並びには手前に六地蔵があり、後ろに石仏が並ぶ。

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すぐ左隣にあるのが舟型光背型の地蔵立像。「丁巳干時表応元季 武州万念仏供養」とある。また「霜月十五 代々木同行14人」とあるので、造立年は他の石仏の時代に近いとすれば寛文7年(1667)か享保12年(1727)のどちらかであろう。

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その左には舟形光背型の地蔵立像、念仏供養塔がある。「為念仏諸衆二世安楽逆修菩提也」とあり、造立年は延宝5年(1677)11月。「武州豊嶋郡畑ヶ谷村」とある。

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更にその左には小さな地蔵群と、その脇に延享4年(1747)11月造立の丸彫の地蔵立像がある。これは台石に六十六部供養塔とあるので、当時誰かが巡礼の成就記念に建てたものであろう。清岸寺には多くの石仏があり、一度には紹介しきれないので、別途ご紹介したい。

場所  渋谷区幡ヶ谷2丁目36

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2020年3月16日 (月)

清岸寺門前の石仏(渋谷区幡ヶ谷)

甲州街道から中野通りを北進する。この通り沿いは大正時代以前は川と川沿いの道だった。道の西側に川が北に向かって流れていた。その川から上るようにして標高にして4mほど坂を上ると清岸寺の境内になる。境内に上る参道の入口のビルの一角に山体の石仏が印象的に並んでいる。

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茶色のレンガの建物はダイアパレスというマンションで、その一角にわざわざ石仏の場所が作られている。清岸寺は寛永17年(1640)の建立。元々の清岸寺は参宮橋の南側(オリンピック村の場所)にあった。現在の清岸寺の場所にあったのは法界寺で明治期には荒廃していた。参宮橋南にあった清岸寺は陸軍省に土地を提供することになり、法界寺と合併してここに越してきたという経緯である。そのため正式名は法界山不断院清岸寺という。

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並んでいる石仏は左端が唐破風笠付角柱型の庚申塔。笠の一部は欠損しているが立派なものである。高さは145㎝ある。青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄で、左側面には「武州豊嶋郡畑ヶ谷村」とある。中央は首が取れてしまっているが地蔵座像である。右端は半跏像の如意輪観音。右の2体については造立年などは分からない。

場所   渋谷区幡ヶ谷2丁目35-1

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2020年3月15日 (日)

牛窪地蔵尊(渋谷区幡ヶ谷)

京王線の幡ヶ谷と笹塚の間にある牛窪地蔵尊は街の境目に立地している。厳密には地蔵尊の祀られている奥の建築物は渋谷区幡ヶ谷1丁目だが、甲州街道から地蔵堂の前までのタイルの部分は渋谷区笹塚1丁目である。ここでは道路に接している部分として渋谷区幡ヶ谷とした。なぜそばの中野通りではなくこのような場所に町境があるのか不思議だが、実はこの町境は大正時代以前は小さな川だったのである。京王線が開通した大正時代、この辺りはその沢に沿って水田が広がっていた。沢は北に流れて中幡庚申塔のあたりで神田川笹塚支流に合流していた。

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甲州街道から見ると数mほどタイル張りの参道があって、その奥にモダンなデザインの地蔵堂が立っている。牛窪地蔵尊が建てられたのは、正徳元年(1711)10月。以前この場所は極悪人の刑場だった。牛を使って最も残酷な牛裂きの刑という両足から股を引き裂く酷刑場の地で窪地あったことから牛窪の名が付いた。

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宝永年間(1704~1711)から正徳年間(1711~1716)にかけて周辺に疫病が流行し、これが罪人の霊の祟りだと言われ、身代わり地蔵尊としてここに牛窪地蔵が建てれらたという。なかなか物騒な話である。地蔵が中折れしているのは戦災によるものかもしれないが、修復されて今も大切に祀られている。地蔵本体の高さは148㎝ほど、「武刕豊嶋郡江戸 畑谷村」とあるがこれは幡ヶ谷村の意味。

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地蔵の手前、笹塚側に並ぶのは左から、供養塔、庚申塔、道供養塔。左の供養塔は「大乗妙典六十六部成就供養處」とあり法華経の供養塔、享保9年(1724)の造立。中央の庚申塔は、青面金剛、邪鬼、三猿、二鶏の図柄で、これも享保9年(1724)11月の造立である。「奉造立庚申供養講中14人為二世安楽、幡ヶ谷村」とある。

右の道供養塔の造立は文化3年(1806)11月と後の時代になる。この道供養塔は道祖神や地蔵尊とは異なり道そのものを供養し安全を祈願するもので、民間信仰の進化の形と言えるかもしれない。中野通りを南に進むと駒場道(鎌倉街道)の一部となる。江戸時代には東西の甲州街道が開けたが、それ以前は南北の鎌倉道が主要道だった。

場所  渋谷区幡ヶ谷1丁目10-7

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2020年3月14日 (土)

AMEXビルの庚申(杉並区荻窪)

荻窪駅南口近くにあるアメックス・インターナショナルのビルの前庭に築山がある。現在の青梅街道は天沼陸橋で中央線を跨いでいるが、元々の青梅街道は荻窪駅のホームの東端辺りを通っていたので、アメックスビルもかつての青梅街道沿いということになる。青梅街道の出発点は新宿だが、西の端は青梅ではなく甲州山梨県の甲府。しかし昔は青梅は江戸の街に使う材木の重要な供給地だったので街道名に値する。

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昔の街道はほぼ台地の稜線を走っており、この辺りの青梅街道も例に漏れず、南の善福寺川と北の妙正寺川の間の尾根筋を通る。従って川筋よりも標高で6mほど高い。この辺りは北が天沼村、南が下荻窪村というのが江戸時代末期。荻窪から高井戸への道は現在の南口商店街で、青梅街道からの道はこの辺りで分岐していたようだ。

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庚申塔は自然石の文字塔。弘化4年(1847)11月の造立で、願主は「下荻久保村 中田村右衛門」とある。この場所には昔、おきん茶屋という休み処があり、明治天皇の小休所になったこともあるが、そのおきん茶屋の屋号が岩本だったので、戦後までここを地元では「岩本」と呼んでいた。江戸時代末期、ここに住んでいた岩本の主人が中田村右衛門で、彼が建てたものである。

場所  杉並区荻窪4丁目30-16

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2020年3月13日 (金)

高野谷戸の馬頭観音(杉並区荻窪)

この馬頭観音がある辻は変形のヤス型(魚を刺すフォーク上の漁具)になっているが、周辺よりも若干標高が低い。標高は堂宇の場所が42.6m、坂上は45.6m、堂宇の10mほど西が最も低く41.4mで5m程度の高低差がある。これはここに細沢が流れていた為で、水源はここから北西に200m程の荻窪4丁目22と23辺りにあった湧水。その湧水を使って江戸時代に池を作り、水田開発をして「天水田圃」と呼ばれた。

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堂宇には張り紙がしてあり、「荻窪3丁目19-11の地蔵」とあるが、実際は馬頭観音である。現在は小さな十字路だが昔からの道の交差点であったので、堂宇があるべき場所と言える。馬頭観音の横には「念仏供養為法界萬霊  谷戸」とあるので、やはり昔の高野谷戸という地名の意味だろう。ちなみにこの細流は「高野ヶ谷戸(こやがいど)」と呼ばれ、現在は一部暗渠で残っている。

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造立年は宝暦6年(1756)8月。願主光圓とある。8月の彼岸の日に馬頭をお祀りしたようだ。現在は杉並区のどこまで行っても民家の続く住宅地だが、大正時代までは農民が懸命に開墾した水田が広がる低地と農民が住む周辺の台地があり、民家の周りは針葉樹広葉樹の武蔵野の森が広がっていたはずである。

場所  杉並区荻窪3丁目19-11

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2020年3月12日 (木)

田端神社の庚申塔(杉並区荻窪)

田端神社は杉並区荻窪1丁目にあり善福寺川の左岸になる。都内の神社の多くは鎌倉から室町にかけての創建が多いが、田端神社も応永年間(1394~1427)に、足利氏と上杉氏が戦った時、ある家臣が土着して京都の北野神社の分霊を祀って天満宮を創建したのが元。明治42年(1909)に周辺にあった天祖神社、稲荷社、子の権現、山神社を合祀して田端神社とした。

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この辺りは江戸時代末期から明治にかけては下荻窪村だったが、その前は田端村と呼ばれていた。その名残で善福寺川流域の広い水田地帯は田端田圃と昭和の初めまで呼ばれていたという。

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田端神社のまっすぐな参道の脇にある石仏群はおそらく明治末期に神社が統合されたとき以降に村内の各地から移されたものではないかと思う。上の写真の2基の庚申塔は荻窪1-51-10からの移設。その場所は現在民家になっているが、かつては田端田圃に降りる台地の端であった。田んぼと神社の間の境目にあったものである。

右の駒型の庚申塔は享保3年(1718)10月の造立。青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄である。下部に「講中16人 田端村 成宗村 願主 武井小左衛門」とあるので、田端村と成宗村の農民が深いつながりを持っていたようだ。左の笠付角柱型の庚申塔は古く、延宝6年(1677)12月の造立。「たはた村」とあり、11人の願主名がある。

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近くにある3基の石仏は荻窪3-44-19から移設されたもの。これはずっと北の方になり、ほぼ青梅街道近く、現在の杉並区中央図書館の南東になる。かつて田端本村と呼ばれていた田端村の中心地である。この3基は近年の移設のようだ。

右端は上部が折れた後補修された地蔵菩薩立像で、文化年間(1804~1818)の造立。欠損で年数が見えない。「念佛供養」とあり、「女講中16人」とある。中央は駒型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は享保6年(1721)10月で、「武列多摩郡田端村 中嶋七左衛門 道行11人」の銘がある。左の地蔵菩薩立像は寛政10年(1798)11月の造立。「武州多摩郡田端村 女講中 15人」と書かれている。

場所  杉並区荻窪1丁目56-10

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2020年3月11日 (水)

中道寺の石仏(杉並区荻窪)

荻窪の中道寺は日蓮宗の寺院。当地に創建したのが天正10年(1582)、江戸時代の初期にこの地に土着していた千葉氏の家臣宇田川氏より寄進を受けて堂宇を整えた。そのため正式名を大光山千葉院中道寺という。南側にある山門はとても大きく鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門になっている。この山門は区の文化財で安永2年(1773)の建立である。

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山門を入り本堂を見て左に進むと石仏と供養塔が並べられた場所がある。杉並区の資料ではこれらの情報は見当たらなかった。しかしなかなか素晴らしいもので、一つ一つ見入ってしまうほどであった。

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その中でも写真の3基は素晴らしく、右から聖観音像、地蔵立像、如意輪観音座像である。一番右の聖観音像の造立年は宝永3年(1706)5月。「阿闍梨順珍大覚位」とあり、頂上には「妙法」とあるので日蓮宗の住職の墓石か供養塔かもしれない。中央は地蔵菩薩で、正徳元年(1711)10月の造立。「清光院道照日義信士」とあるのでこれは墓石であろう。左の如意輪観音像は、享保17年(1732)3月造立、こちらも墓石らしい。しかし江戸時代で最も華やかだったこの時代、ずいぶん立派な石仏を造ったものである。

場所  杉並区荻窪2丁目25-1

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2020年3月10日 (火)

砧の聖観音像(世田谷区砧)

釣り人である自分が時折お世話になる環八通りの上州屋、潰れそうで潰れずにずっと営業してくれているのでとても助かっている。その上州屋の脇から路地を入ったところにきれいな屋根付きの聖観音像がある。この斜め道の路地は現在マンションかなにかの建設で通行止めになっているが、回り込めばどこからでも行ける。

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砧は小田急線の南、環八の西側が小山のようになっていて、現在の住居表示でいうと砧2丁目と4丁目がその小山にあたる。周辺より10mほど高い台地でこの辺りは東山野と呼んだ。かつては給水場(大蔵給水場)が最も高い標高54mの辺りにあり、その台地沿いに道があって江戸時代からこの辺りの農家はその道沿いに家を構え、明治時代末期には40戸ほどの村になっていたという。そんな台地の南の端にあるのがこの聖観音像である。

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造りはいささか稚拙なので後年のものだと思っていた。世田谷区の資料にもまったく出てこない。しかし環八と世田谷通りの交差する三本杉で登戸道と分かれた村道が台地沿いに祖師ヶ谷にかけて古くから多くの人々が住んでいたのでよく見てみると、「奉造立百箇所順禮供養二世安樂所  武州多摩郡世田谷宇奈根山屋」とあり、造立年は寛政5年(1793)3月というものであった。東山野の誰かが、百カ所巡礼をしてその記念に建てたものだろう。宇奈根山屋というのは、かつて多摩川に近い宇奈根の人々がこの地を切り開いたことに由来するようだ。

場所  世田谷区砧1丁目32-1

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2020年3月 9日 (月)

神明通りの松の庚申塔(杉並区南荻窪)

杉並区に神明通りという道がある。北の端は東京女子大、南の端は五日市街道だがもともとは大宮八幡への道だった。この神明通りは江戸時代からある古道。北も古道は東京女子大よりもさらに先、千川用水を出発点としていた。そんな古道だから庚申塔の一つや二つあっても不思議はない。また古地図をみていて気付いたのは、神明通りは五日市街道の裏通りであり、間口割で五日市街道沿いに人々が住むようになった時に、幅18m程度で鰻の寝床のような地割の土地の所有を許され、数百m先にある神明通りがその裏の端っこだったと思われる。

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民家というかアパートの物干しの前に少し傾いた笠付の庚申塔が立っている。そして手前の松が見事な幹を見せてくれる。松は育ちが早いのでこの松もせいぜい100年余りだろうと思うが、江戸時代から何世代か繋いできたのだろうか。それだけ庚申塔とのバランスがいい。

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笠付角柱型の庚申塔は高さが112㎝、三猿のみだがその上には「奉寄進庚申二世安樂」とある。造立年は延宝4年(1676)9月で区内でも古いもののひとつである。「武刕た麻郡 下荻久保村」銘で10人の願主の名が彫られている。誤字が多いが江戸時代はそういうのも多い。以前はこの庚申塔には屋根があったがいつしか朽ちて取り払われてしまったようである。

場所  杉並区南荻窪1丁目29-5

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2020年3月 8日 (日)

慈宏寺の円筒手水鉢(杉並区宮前)

五日市街道の杉並区宮前に春日神社と慈宏寺が並んでいる。慈宏寺は前述の宮前の藤の庚申を管理している寺である。日蓮宗の寺院で、寛文13年(1673)の創建。当初の檀家は大宮前新田の新田開発に尽力した村人が中心だった。寺にはいくつかの秘仏があるが、それに劣らず珍しいのが境内に埋もれている手水鉢である。

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江戸時代は慈宏寺よりも西隣にあった稲荷神社の方が広い境内を有していたようだが、明治時代には慈宏寺と春日神社のセットになっている。五日市街道沿いは江戸時代から民家の立ち並ぶ様子だったらしい。

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草木に埋もれてしまいそうな直径1尺余りの手水鉢に視線を落とす人はおそらく皆無だろう。、しかしその円筒の下部には三猿が描かれており、庚申信仰に基く貴重なものである。「享和甲子春 無樹応需 八十七不白」とあるがよく分からない。造立年は享和4年(1804)ということになる。時期は春。それ以外のことはほとんど不明である。

場所   杉並区宮前3丁目1-3

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2020年3月 7日 (土)

五日市街道藤の庚申堂(杉並区宮前)

警視庁高井戸警察署は井の頭通り側が正面玄関で裏口は五日市街道側になっている。この裏口から五日市街道を100mほど東に進むと、藤棚と庚申堂がある。この辺りが昔、大宮前新田と呼ばれていた地域。江戸時代前期の寛文年間(1661~1673)頃、五日市街道は砂川道と呼ばれていた。立川の砂川へ向かう道という意味であろう。その頃街道沿いを新たに開拓して新田を切り開いて新田村となった。

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立派な堂宇の後ろにあるのが藤棚である。「庚申の藤」と呼ばれ、かつては樹齢300年の古木の藤であったという。今の藤は新しいもののようだから、南に隣接していた大ケヤキと共に切られてしまったのだろうか。おそらく前の藤は庚申塔と同じころに植えられたもので、当時はここから富士山が見えたので「富士見浦」と呼ばれていたという。

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堂宇の中を格子の隙間から除くと、右側に大きな庚申塔、左に小さめの庚申塔が並んでいる。右側の庚申塔は駒型のもので、造立年は元禄9年(1696)11月。高さは120㎝ある。青面金剛像・三猿の図柄で、右側には「武列多摩郡  奉寄進庚申供養」、左側には造立年と「大宮前新田村」の銘がある。

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左側の庚申塔は舟型。こちらも青面金剛像と三猿の図柄。造立年は延宝6年(1678)9月とあり、古いものである。どちらの庚申塔も下部にあ願主名がたくさん書かれている。新田村を開墾し、五日市街道で輸送を可能にしたことは後に豊かな農村になる条件がそろったことになったのだろう。

場所   杉並区宮前1丁目17-25

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2020年3月 6日 (金)

松林禅寺の諸石仏(杉並区高井戸東)

松林善寺には庚申塔以外にも多くの石仏がある。墓所にもあるようだが、今回は本堂前のもののみを見てきた。まずは右側に並ぶ六地蔵。それぞれ異なる年代に造られているのだが、こうして並ぶときれいにそろっている。

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年代は右から、明和元年(1764)、明和5年(1768)、寛政5年(1793)、享和2年(1803)、宝暦13年(1763)、天明3年(1783)で40年もの違いがある。台座には、「右 五日市道 左 府中裏道」とあるが、この府中裏道は人見街道の事であろう。

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左列の手前から2番目にある小さめの舟型の石仏は馬頭観音。ゼニゴケが増え始めているが、頭上には馬の頭がある。造榮つは文政3年(1820)8月で、馬頭観音としては比較的古い方である。右側には宿岩安右衛門とあるが、農民なのかどうかは分からない。

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その右隣りにはごっつい角柱型の供養塔。正面には「天下泰平 四国八十八番供養塔 国家安全」とあるので、巡礼の供養塔である。右側には、「西国 秩父 番頭 百番供養塔」とある。造立年は天保10年(1839)7月である。

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奥の列の庚申塔の間にあるのが駒型の地蔵立像。天明3年(1783)10月の造立である。正面には「奉納大乗妙典六十六部供養塔 下高井土村願主 宇兵衛」とある。下高井戸はそれほど遠くない。江戸時代神田川を下れば隣村は下高井戸村だった。

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少し本堂寄りに背の高い丸彫の地蔵立像がある。造立年は寛保元年(1741)8月、台石には「武刕多磨郡上高井土村」そして「久ヶ山村」の銘がある。また台石の側面には「右は大見や前新田道」「左ハふちうみち全心息慈」とあるが、これは人見街道の先で右は東、大宮八幡宮の前新田(開拓水田)、左は西で府中へ向かう道標になっている。

場所  杉並区高井戸東3丁目34-2

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2020年3月 5日 (木)

松林禅寺の庚申塔(杉並区高井戸東)

京王井の頭線の北側を並行して走るのが井の頭通りと五日市街道、それとわずかに角度を変えて東西に延びるのが人見街道で、杉並の大宮八幡宮と国府のあった府中を結ぶ道。古い順では中世の人見街道、江戸時代初頭の五日市街道、昭和の井の頭通りで、この人見街道に面した高井戸東地区にあるのが松林禅寺。曹洞宗の寺院で、創建は街道が開かれた頃の文禄2年(1593)で当時の寺名は正林寺だった。

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江戸時代中期の正徳13年(1713)に周辺に多くの松があったことから松林寺と文字を改めた。その松林寺の山門をくぐり左に回り込むといくつもの石仏が「コ」の字型に並んでいる。ちなみに江戸時代後期はこの地域は上高井戸村だったが、長い江戸時代の間には高井戸東地区は正用村(しょうようむら)だった時代もあり、その古い地名は寺の少し南にある高井戸正用公園という児童公園の名前に残されている。

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奥の列の右端にあるのが笠付角柱型の庚申塔。笠が一部欠損している。造立年は延宝2年(1674)9月で、青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏の図柄。青面金剛像の脇に「奉造立青面金剛尊 庚申供養道行16人」とある。ここでは最も古い庚申塔である。左右には合わせて17人の銘があるので1人合わないが、誰かが施主で道行が16人ということか。

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奥列のちゅおうにある庚申塔が最も大きなもので高さは115㎝ある。これも笠付角柱型の庚申塔で、青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏の図柄。造立年は天和3年(1683)11月でこれも古い。青面金剛の脇には、「奉造立青面金剛尊 庚申供養道行23人」とある。側面にある名前を数えるとこちらも24人分ある。同じ理由だろう。

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左列の奥にも同じ笠付角柱型の庚申塔がある。ただしこの庚申塔はかなり摩滅が進んでいた。青面金剛像・邪鬼・三猿の図柄で、側面には寛政8年(1796)10月の造立年がある。反対側には、「東 江戸道 南 高井戸道 西 府中道 北〇〇〇」とあり、道標も兼ねていた可能性あり。台石には「當村講中世話人 文蔵 紋左衛門」とある。傷みが多いのは岩質のせいだろうか。

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左列の一番手前にあるのは道標を兼ねた庚申塚の石塔。中央に「庚申塚 正用村 西向テ なが新田みち」、右には「右 あわしま道」、左には「左 なかのミち」、そして裏面には明治25年(1892)3月の造立年に加え、発起者 直井金太郎の銘がある。なが新田が分からないが、近くでかつて新田と呼ばれていたのは、現在の宮前4丁目(久我山駅の北、井の頭通りの南)で、当時神田川沿いに開発された新田の名前だろうか。

場所  杉並区高井戸東3丁目34-2

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2020年3月 4日 (水)

神明社の庚申塔(世田谷区祖師谷)

木梨サイクルで知られた祖師谷商店街のそばに神明社がある。創建年代は不詳ながら正平年間(1346~1369)に新田義興が当地を訪れた時には既に社があったという。江戸時代には上祖師谷の安穏寺の管理下になっていた。現在祖師谷通り商店街になっている道は、かつての登戸道(世田谷通りの元)から東宝スタジオの辺りで北に分かれ、塚戸から品川用水沿いを通り瀧坂道に至った古道である。

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鳥居をくぐり本殿に向かって進むと、手水場の向かい辺りに古い屋根付きの庚申塔が立っている。庚申塔は駒型で高さは120㎝もある比較的大きなもの。青面金剛像・邪鬼・三猿の図柄だが、風化が著しく、まるでケヤキやハルニレの樹皮のようにあちこちが剥離しかかっている。造立年は安永6年(1777)4月だからおそらく雨風をしのげない屋根の為だろう。

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正面右側に「奉供養庚申講中二世安楽」とあり、左側に「武刕多摩郡下祖子谷村」とある。下部に11人の名前が彫られているがほとんど読めない。祖師谷の村社である神明社にお参りする村人を200年以上も見守ってきた庚申塔だけに、剥離が進むのを何とかしてもらいたいものである。

場所  世田谷区祖師谷5丁目1-7

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2020年3月 3日 (火)

上ノ台の庚申塔(世田谷区成城)

住居表示は成城だが場所は調布市入間町に近い。東京都立総合工科高等学校の南西の大型マンションのそばの丁字路に堂宇がある。高校の辺りから東側を向臺とよび、西側を上臺と呼んだのは明治時代。大正時代になると向臺は西臺となり、上臺は山野(やまや)と呼ばれるようになった。砧にも山屋(山野)があり、この地名は川から上った台地にしばしば付けられるように思われる。この明治時代の地名で上臺(かみのだい)というのが今もこの庚申塔の名に残っているのである。

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堂宇内には2基の石仏が祀られている。左側が庚申塔、右側が聖観音像である。世田谷には意外に聖観音像(観世音菩薩)が多いように思う。聖観音像を祀った人々は多くが女念仏講中のようで、やさしい姿形から江戸時代は女性に人気だった。墓石にも聖観音像を彫ったものが多いように思う。実際にこの聖観音像もそういう信心から建てられたのではないだろうか。

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どちらの石仏も造立年は同じで、寛政4年(1792)11月とある。同時に造られたようだ。左の庚申塔は、日月・青面金剛、邪鬼、三猿の図柄。右の聖観音像(立像)には「為先祖代々両親菩薩」とあり、庚申塔と同じく彫られているのは「武刕多摩郡世田ヶ谷領喜多見村 願主 宮川由右衛門」という文字。おそらく当時の名主あたりが建てたに違いない。この辺りは喜多見村の時代もあれば、下祖師ヶ谷村の時代もあるようだ。

場所  世田谷区成城9丁目27-7

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2020年3月 2日 (月)

瀧坂道の庚申塔(世田谷区上祖師谷)

瀧坂道は渋谷道玄坂と調布の甲州街道滝坂を結ぶ古道である。甲州街道から仙川駅西で分岐して江戸へ向かって進むとやがて仙川の流れに向かって下る。この下り初めに滝坂道から入間村への分岐があり、その分岐点にあるのがこの庚申塔である。

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ブロックの頑丈な堂宇の中に祀られているのは、舟型光背型の庚申塔で、青面金剛像と三猿のオーソドックスな図柄。造立年は天和2年(1682)11月と古いが下部の村名や人名はほとんど見えない。

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庚申塔にはいささか窮屈な堂宇だが、雨風は確実にしのげる。瀧坂道は江戸幕府が甲州街道を開くまで、府中(国府)への道として吉良氏の世田谷城からの重要な道だった。極めて古い道だけに、地形に素直にくねる魅力的な道である。ただ最近、榎交差点から安穏寺の北側をまっすぐに通す計画道路が間もなく出来上がりそうで、これも時代の変遷である。

場所   世田谷区上祖師谷5丁目8-1

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2020年3月 1日 (日)

JAバンクの地蔵尊(世田谷区砧)

世田谷区には農協がある。正式には世田谷目黒農業協同組合。本店はサザエさんの街、桜新町の中心にある。JAバンクは世田谷区内に8ヶ所もあるが、実はほとんど我が家から近い場所。華やかな下北沢とか二子玉川にはない。8支店の中でも山野支店という極めてレアな場所の支店の前に地蔵堂がある。

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コンクリート造りの立派な堂宇の中には2体の石仏がある。右側は地蔵菩薩立像で、正徳3年(1713)のもの。「武州大蔵村西山屋」と銘が彫られている。堂宇内左側は聖観音立像で、宝暦年間(1751~1764)のものだが年号の数字が消えて読めない。こちらは「大蔵村西山野 念仏女講中16人」と銘がある。

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堂宇の左にある水鉢がこれまた時代物。文久2年(1862)10月とある。こちらは「大蔵村西山谷 女念仏講中16軒」とあるが、西山屋、西山野、西山谷と異なる3つの地名が彫られているのが興味深い。江戸時代末期から明治にかけては西山野と東山野という小字があった。元々谷戸川の谷の周辺の地域なので「谷(や)」が最初にあり、当て字を繰返したのではないかと思う。従って読み方はすべて「や」になる。しかし現在の地元の山野小学校は「やまの」と呼んでいるので、どこでどう変わったのかは分からない。

場所  世田谷区砧4丁目4-7

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