« 2020年3月 | トップページ | 2020年5月 »

2020年4月30日 (木)

消えた?遍照寺の石仏(板橋区仲宿)

下板橋宿の中心である仲宿には江戸時代、遍照寺と乗蓮寺があった。北東側が遍照寺で向いが乗蓮寺。 浄蓮寺は首都高速道路と国道17号の拡幅工事のために昭和48年(1973)に移転を余儀なくされ、現在は板橋区赤塚で大きな寺となっており、東京大仏も乗蓮寺の仏様である。いっぽうの遍照寺は区内唯一の天台宗の寺院だったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となってしまった。その後、明治14年に成田山新栄講の道場となり、昭和22年にようやく寺院として復活し、成田山新勝寺の末寺となった。

P1070658

しかし数年前から敷地のみで本堂もなくなってしまい、門柱だけがさみしく遍照寺を名乗る状態になっていた。上の写真は2020年のもので、参道が整備されたようだが、参道にあった石仏はすべて無くなってしまった。どこに保存されているのか、はたまた打ち捨てられてしまったのか、いささか心配である。今年訪れてみたら、道場っぽい建物が新築されていたが、石仏は一つも見つからなかった。

Cimg0291

建物が無くなってもしばらくの間石仏は放置されていた。上の左側にあるのは笠欠の角柱型庚申塔で三猿の図柄。右に落ちているのが本来の笠である。造立年は宝永6年(1709)7月。後ろの上部が欠損した舟型の庚申塔は三猿と蓮葉の図柄で初期型、造立年は寛文8年(1668)1月とある。デザインも希少で江戸時代の初期を彷彿とさせるものであった。

Cimg0292

庚申塔の左には馬頭観音が3基並ぶ。右の角柱陰刻の石仏は笠が落ちてしまっていたが、珍しい陰刻の馬頭観音立像で、造立は寛政10年(1798)12月。「当宿 平尾 馬持中 山中」の銘がある。後ろの四角い自然石も馬頭観音で、こちらは大正2年(1913)8月と新しい。しかし大正時代もまだ馬が活躍していた時代だった。手前の角柱型の馬頭観音は大正12年(1923)9月のもの。 江戸時代から仲宿のこの遍照寺には馬繋ぎ場があり、幕府の伝馬につかう囲馬、公文書伝達用の立馬、に加えて普通の馬の繋ぎ場もあったという。

場所  板橋区仲宿40-7

| | コメント (0)

2020年4月29日 (水)

観明寺の石仏・庚申(板橋区板橋)

江戸時代、中山道を江戸から歩くと下板橋宿に入ってすぐに川越街道との平尾追分、その前には東光寺があった。そこからさらに宿場通りを進むとつっぎにある大きな寺は観明寺。真言宗の寺院で、創建は暦応元年(1338)と伝えられるが、この時代の創建はほぼ不詳。江戸時代に中山道が五街道のひとつとして整備されてからは下板橋宿は賑わい、観明寺も多くの信徒が居たようだ。

P1070657

観明寺の本堂は奥まっているので、中山道を歩いていて目に留まるのは寛文の庚申塔の堂宇であろう。この格子の堂宇に納まっているのは寛文元年(1661)8月の唐破風笠付角柱型庚申塔で極めて立派なものである。写真のような格子に納まっているのは写真を撮るのにはとても不都合で、魚眼レンズが欲しくなる。なんとか25㎜で撮影するが、なかなかうまく撮れない。

P1070654

青面金剛像に二邪鬼、二童子、一猿、一鶏と盛りだくさんなデザインで、もうすぐ400年か経とうとしているのにまだ形を保っているのは有難い。側面には武州豊嶋郡下板橋結衆とあり、これだけの庚申塔を建てた下板橋宿の賑わいが分かる。板橋区の指定文化財になっているが、青面金剛像が彫られたものとしては都内で最も古い庚申塔である。

P1070648

本堂の脇を入ると古い石仏が沢山ある。その中から主なものをピックアップしたい。上の写真は寛文8年(1668)10月造立の聖観音菩薩立像である。前述の都内最古の青面金剛庚申塔の僅か7年後のものだが、ひっそりと立っている。「奉新造立観音尊像一躰覚二世安楽所 常念観音□離奉□□」とある。

P1070645

もう一つもまた聖観音菩薩である。頭頂部が少しだけ欠けている。年代は天和2年(1682)10月のもの。「心鉄禅定門 寛文12年壬子年」という文字と「妙理禅定尼 天和2年壬戌年」という文字があり、その二人を供養する墓石ではないだろうか。並びには不動明王像もあるが年代は不詳である。

場所  板橋区板橋3丁目25-1

| | コメント (0)

2020年4月28日 (火)

東光寺の石仏・庚申(板橋区板橋)

板橋にある東光寺はもともと中山道に面しており、江戸から来ると巣鴨を抜け、下板橋宿に入って最初の寺であった。東光寺の門前で街道は二股に分かれ、まっすぐ行くと中山道、斜め左に行くと川越街道になっており、とても賑やかなところだった。新宿でいうと伊勢丹前の追分(青梅街道と甲州街道の分岐点)のようなものである。しかしながら明治初期の火災やその後の関東大震災、戦災によって、現在の区画に小さく収まってしまった寺院で、宗派は浄土宗。創建は不明ながら、寺伝では延徳3年(1491)とされている。じつは創建当初は船山というもっと北の石神井川近く(現在の東板橋体育館あたり)にあったが、加賀藩の下屋敷を作るにあたり移転を強いられたようだ。

P1070623

山門をくぐると本堂、その手前左側に立派な石仏が並んでいる。江戸時代、東光寺の裏手は広大な加賀藩前田家の下屋敷だった。その広さは21.7万坪というから代々木公園や上野公園の1.3倍もある。本郷の現東大キャンパスが上屋敷で10.4万坪、駒込に2万坪の中屋敷などと、さすが最大の石高を誇る大名である。しかし板橋の下屋敷は本郷の数千人の勤務者数に対して、数十人で管理していたというから、本当に政務を忘れてのんびりできる山里のようなところだったのだろう。

P1070625

左から2番目の石仏は唐破風笠付角柱型の庚申塔で板橋区の有形文化財に指定されている。高さは1.9mもあり、青面金剛・二邪鬼・一猿・二童子・四夜叉という珍しくかつ芸術的な浮彫で描かれている。造立年は寛文2年(1662)5月で、これから庚申塔が巷に流行する直前のものである。庚申塔の願主は板橋宿の旅籠の主人達らしく、寺との協力で造られたもののようだ。庚申塔の向かって左隣の丸彫の地蔵立像は宝永5年(1708)5月の造立で、湯島5丁目 施主 萬屋九兵衛とあるが、像と台石が一体のものかは疑問が残る。右隣りの地蔵尊は造立年は不詳だが、こちらも台石と石質が異なるが入れ替わりではなさそう。

P1070632

石仏の一番右にあるひときわ大きなものが地蔵菩薩坐像で享保4年(1719)のもの。六道利生の地蔵尊と呼ばれ台石には多くの人名戒名が書かれている。この地蔵は「平尾追分地蔵」と呼ばれ、享保年間に約200人の結集によって造立されたという。江戸時代は平尾追分(中山道と川越街道の分岐点)にあったが、明治になって東光寺に移された。人名の中には加賀藩の人物の名前もあるそうで、江戸時代の武士と庶民の関連が見られる良いものである。板橋区の文化財登録を受けている。

P1070638

墓所の奥に回ると、時代は新しいが立派な馬頭観音がある。右の角柱が昭和2年(1927)2月造立の馬頭観音。左の自然石のものも年代は不詳だが馬頭観音塔である。こちらの自然石塔は板橋駅踏切の横にあったものだという。

場所  板橋区板橋4丁目13-8

| | コメント (0)

四ツ叉馬頭観音(板橋区板橋)

自分が東北方面へ向かう際に使う首都高速道路中央環状線は長いトンネルで豊島区要町で地上に出てくる。すぐに5号池袋線との合流があり、その先4レーンになるが、素早く右レーンに車線変更して板橋ジャンクションで王子方面へ進路を取らねばならなく、いつも緊張を強いられる区間である。その板橋ジャンクションの三角形の底辺の真下にあるのが四ツ叉馬頭観音。

P1070615

ここは首都高速の開発に伴う道路工事の末、全く様変わりしてしまった。しかし現在の交通の要衝は昔も同じで、中山道から平尾という場所で南に分岐したのが川越街道、その川越街道に交差していた南北に延びる板橋の仲宿から池袋へ向かう高田道(高田雑司が谷道)の辻にあったのがこの馬頭観音。道路工事の為しばらく移転していたが、工事が終わって元の場所近くに金属製の堂宇で祀られたのが2015年である。

P1070617

馬頭観音の造立年は享保19年(1734)10月で、馬頭観音としては相当古い。この馬頭観音は道標としても知られていたというが、特に行先を示すものはない。ただ「六十六部・・・願主順貞」という文字が見られるので、坂東・秩父あたりを巡廻した記念に地元の順貞という人物が建てたものではないかと思う。首都高速道路の近代的な建築物とのコントラストがいい。

場所  板橋区板橋2丁目58

| | コメント (0)

2020年4月26日 (日)

子易神社の胸突地蔵尊(板橋区板橋)

東武東上線の下板橋車両留置線脇の踏切を北へ渡る。すぐ西に山手通りの跨線橋があるのだが、こちらの踏切の方が昭和感があっていい。昔はこの踏切西側に「金井窪」という駅があった。昭和6年(1931)に開業、昭和20年(1945)に廃止という短い期間だが、空襲で被災してしまいそのまま廃止されたことになっているが、どうも空襲では壊れていないという説もあり、謎の残る廃止のようである。この踏切から北に100m程進むと左角に子易神社がある。

P1070604

子易神社は創建年代不詳、富士浅間神社の分霊を勧請したものと言われ、江戸時代初期以前にはあったようだ。江戸時代は旧金井久保村の鎮守だった。安産・子育ての神として信仰されてきた。神社全体が谷端川左岸の段丘で小高い丘になっているが、写真の鳥居の右奥には富士塚もある。

P1070605_20200417115801

神社の門前にあるのが胸突き地蔵尊の堂宇。訪問時もおばあさんがしばらくの間堂宇前で拝んでいた。堂宇内にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像。像高は127㎝あり、元禄8年(1695)4月の造立である。台座には、「江戸 小石河 百万遍廻向 五番 開眼 福正寺」とある。小石河は当然ながら小石川だろう。百万遍という念仏講の行事に関連して建立されたもので、福正寺というのは明治初期まで子易神社を管理していた赤羽村の福正寺(廃寺)のこと。神仏分離で明治初期からは福正寺と関係が断たれた。その他台座には、「右上尾 左河越」とあるらしく、以前は道標の役割として北側向いの保育園の位置にあったという。

P1070608

胸突地蔵尊と呼ばれる所以は次のような言い伝えによる。今でも地蔵の右胸の上のところに親指大の傷が付いている。これは言い伝えによると、寛保年間(1741~1744)の頃、王子村の長者が夜、子易の森を通った時に、盗人が現れて長者を襲い胸を突いた。長者は倒れてしまったが、起き上がると何の傷も負っていないことに気づいた。ふと脇を見ると地蔵が建っており、胸に傷があるのを見つけて、地蔵が身代わりになってくれたことを有難く思ったという。それ以降人々は胸突地蔵尊と呼んで信仰を深くしたらしいが、地蔵については同様の身代わりの言い伝えが沢山あり、これも一つの典型である。

場所  板橋区板橋2丁目19

| | コメント (0)

2020年4月25日 (土)

本町子育地蔵尊・猿田彦大神庚申(豊島区池袋本町)

谷端川沿いにあった金井窪という地名は、山手通りの交差点名に残っている。頭上に二階建ての首都高速道路が走る金井窪交差点は道幅が広く、信号がなかなか青にならない。熊野町側から山手通りを渡るとすぐに谷端川の暗渠に差し掛かる。板橋区と豊島区の区境は山手通りではなく矢端川暗渠であるが、山手通りと谷端川の間のエリアは板橋区の飛地のように思える。

P1070582

この金井窪から東に進むと谷端川の河岸段丘を上る、はずなのだが現在は耕地整理で均されていて高低差はほとんどない。しかし明治時代は3m程の落差があったようだ。その河岸段丘のあたりに立てられているのがこの地蔵堂である。扁額には「池袋本町庚申子育地蔵尊」とある。堂内には左に丸彫の地蔵尊、右に文字塔の庚申塔がある。

P1070593

子育地蔵は江戸時代からあったが、戦災で台座を残して焼損してしまった。そのため現在の地蔵は戦後作られたものだが、地元の方々の気持ちは何百年も続いておりこれからも大切にしたい地蔵尊である。地蔵尊の脇、右側には万年筆のペン先のような尖った庚申塔が立っている。

P1070589

板石型で造立年等は分からない。「庚申」とだけ大きく彫られている。江戸時代からこの辺りにはこれとは異なる庚申塔があったらしい。その庚申塔は青面金剛像に三猿の図柄だったというが、その庚申塔もまた戦災で破壊消失してしまったそうである。したがって子育地蔵尊と同じような経緯で再建されたものだろう。

場所  豊島区池袋本町2丁目36-4

| | コメント (0)

2020年4月24日 (金)

空襲犠牲者供養の地蔵(板橋区大山金井町)

この地蔵尊は古いものではない。造立年は昭和25年(1950)。第二次世界大戦のさなか、昭和20年4月13日夜に板橋から志村にかけての米軍による絨毯爆撃があった。3月10日の東京大空襲が有名だが、この板橋の空襲でも45,000人の罹災者を出した。この場所には当時防空壕があったが、さしもの防空壕も直撃弾を受け、壕内にいた乳児を含む9人が犠牲になった。

P1070576

戦後、この土地を購入して銭湯を開いた小川忠雄氏が、その空襲の被害者を供養する為に建てたのがこの八面地蔵である。八面にそれぞれ地蔵が刻まれ、そのうちの一つは赤ん坊を抱いている。ただ別の資料によるとこの防空壕の死者は13名という説もある。

P1070578

このタイプの石塔を八面石幢(はちめんせきどう)という。戦後75年が経過し、戦争の恐ろしさを伝える人も少なくなった。私は十代の時に早乙女勝元氏の『東京大空襲』を読み、その文章が描く戦火の風景が今でもイメージできる。忘れずに伝えていきたいものである。

場所  板橋区大山金井町16-8

| | コメント (0)

2020年4月23日 (木)

熊野町の地蔵堂・庚申(板橋区熊野町)

板橋区熊野町は川越街道と谷端川を二辺にした三角形の住居表示で、首都高速を使う人には5号池袋線と中央環状線の合流する熊野町ジャンクションで知られている。この三角形の重心近くにあるのが熊野町の地蔵堂だが、祀られているのは地蔵ではなく二基の庚申塔である。

P1070570

三角形の角地になかなか立派な堂宇がある。昔、この辺りは中丸という土地だったが、この堂宇の南側だけが池袋飛地となっていた。 この地には明治時代まで熊野神社が広がっていたが現在では熊野町ジャンクションの真下の一角に狭まっている。創建は応永年間(1394~1428)。江戸時代は中丸村の鎮守であった。また堂宇のあるこの辺りはかつては金井窪村と中丸村の村境でもあった。

P1070572

堂宇内には二基の庚申塔がある。左の駒型庚申塔は享保6年(1721)8月の造立で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「武州豊嶋郡中丸村講中15人」の銘がある。元は熊野町40番にあったらしいので、ここから西へ100m程行ったあたりだろうか。右側の笠付角柱型庚申塔は宝永元年(1704)の造立。こちらは青面金剛像と三猿。こちらの庚申塔も以前は中丸33番にあったというから、ここから南西に200m程、川越街道の南側だろう。どちらも関東大震災後の大正末の土地区画整理で移動したと記録されている。

場所  板橋区熊野町34-1

| | コメント (0)

2020年4月22日 (水)

中丸田中家の馬頭観音(板橋区中丸町)

西光院門前から北東へ150mほど進むと大きな民家がある。 路地側の勝手口に進むと勝手口脇の塀に堂宇が築かれており、馬頭観音が祀られている。

P1070567

以前はブロック塀ではなく生垣だったようだ。まれに民家にこのように石仏が祀られていることがあるが、文化財保護の視点からするととてもありがたいことである。祀られている馬頭観世音菩薩は高さが67㎝程、造立年は天保4年(1833)8月とある。願主はこのお宅のご先祖様である田中久太郎の銘になっている。

P1070569

田中家には別に勝軍地蔵菩薩(文政5年:1822)があると資料にあったが、今回の訪問では見当たらなかった。表通りの正門あたりかと思って見てみたが、再訪して確認しなければならないと思っている。

場所  板橋区中丸町28-11

| | コメント (0)

2020年4月21日 (火)

西光院の石仏(板橋区南町)

東京に古い地名を残したエリアは、千代田区・新宿区に多いが、板橋区にも一部残っている。南町というと新しい地名に聞こえるが、実は旧町名も板橋町大字中丸字南であった。江戸時代は中丸村。その中心的な寺院が西光寺である。西光寺は真言宗の寺院で、創建年代は不詳だが江戸時代初期だと言われている。門前の道は古くからある道で、東に向かうと金井窪から池袋村へ繋がっていた。

P1070550

参道入口に角柱の庚申塔がある。台石が雫で凹んでいるのが時代を感じさせる。文字塔の庚申塔の造立年は延享2年(1745)3月。正面には「南無阿弥陀仏」、左面には願主名、右面には「武刕豊嶋郡中丸邑上下両橋」とあり、裏面には造立年月と「往来安穏 奉供養庚申石橋造立」とあるので、庚申講中が石橋供養に立てたものではないかと思われる。西光院は微高地にあるので、この庚申塔があったのは谷端川沿いだった可能性が高い。

P1070556

参道をさらに進むとスダジイの古木がある。現在の樹高は12mだが、根回りは5.5mある。樹齢は推定で約400年。江戸時代は中丸村の目標樹として存在し、その神々しさから幹の空洞には白蛇が棲むという伝説があり、村の守り神とされていた。現在は板橋区登録の天然記念物になっている。スダジイの先に山門がある。

P1070557

山門をくぐり左に折れると地蔵菩薩などが数基並んでいる。左端の丸彫の地蔵立像は中折れを補修した跡がある。造立年は宝暦12年(1762)10月で「奉造立地蔵大菩薩」とある。もう一つの丸彫地蔵(右から二番目)は正徳4年(1714)11月造立で、造立施主男女18,471人とあるがそんなに江戸時代に周辺人口はない。霊魂の数も含んでいるのだろうか。間にある左から三番目の小ぶりな地蔵尊は十万遍満足とあるので、念仏講によるものだろうか。造立年は分からない。この隣には無縁仏塔もあり、多くの石塔が固められている。

場所  板橋区南町31-1

| | コメント (0)

2020年4月20日 (月)

高松柳稲荷神社の地蔵(豊島区高松)

豊島区高松2丁目辺りは明治から大正時代まで前高松という小字であった。谷端川左岸のえびす通り(長坂道)は前高松で東に曲がり山手通り沿いのマルエツ辺りに向かっていた。前高松はえびす通りの北側に民家が集まっており、この辺りの地元農家の屋敷稲荷だったものを地域の神社にして創建したのが高松柳稲荷神社で、創建は大正9年(1920)である。

P1070537

高松柳稲荷神社の門前には立派な地蔵堂があり、丸彫の地蔵立像が祀られている。伝わるところによると、東の方の板橋との境近くにあったというから塞ノ神の役割もあったのかもしれない。しかし明治時代、大正時代の地図を見るとここから北西へ少し入ったところに石塔の印がある。そっちへ向かっても長崎村と板橋町の境になる。そこにあった石塔の今が気になった。

P1070538

地蔵尊の台石には「講中為二世安樂13人」とある。側面には延享4年(1747)の造立年が彫られている。神社にある説明板によると、昭和初期の高松は畑7割、野原3割で、藤畑や桐畑が広がっていた。高松小学校(高松2丁目57)の北西から湧出た小川には多くの動植物が棲み、洗い場もあちこちにあり、子供たちはその川の水を普通に飲んで生活していたらしい。

場所  豊島区高松2丁目30

| | コメント (0)

2020年4月19日 (日)

高松の庚申塔(豊島区高松)

要町から北に延びるえびす通り商店街はしばらく進むと丁字路で東に曲がるが、その少し手前に西に延びる銀婚通りとの分岐の丁字路があり、すぐ北に庚申塔が祀られた祠がある。えびす通りは昔は長坂道と呼ばれた古い道である。椎名町から北へ谷端川沿いに続いていた。銀婚通りは平成6年に豊島区によって付けられた通り名だが由来などは分からない。

P1070535

庚申塔のある民家とコインパーキングの間には細街路があるが、これは昔あった谷端川の支流の暗渠である。高松小学校の南側沿いを流下して、要町の北辺りで谷端川に合流していたようだが、昭和に入る頃にはもう埋められていたかもしれない。江戸時代この辺りは長崎村村内だったので、塞ノ神という訳ではなさそうである。

P1070534

堂宇内の庚申塔は保存状態の極めて良いもので、笠付角柱型のもの。青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。脇には「武州豊嶋郡長崎村」の銘があり、下部には「願主 荒井久太郎」とある。荒井は地名だが人名由来なのだろうか。造立年は享保6年(1721)10月なので江戸時代の中期、吉宗が享保の改革を行い徳政令を出したりした経済衰退の時期である。

場所  豊島区高松2丁目22-1

| | コメント (0)

2020年4月18日 (土)

要町延命地蔵尊(豊島区要町)

要町(かなめちょう)は池袋の西、山手通り(環状六号線)と池袋駅西口からの要町通りの交差点辺り。今でこそ中高層のマンションが建ち並び、都会の様相を呈しているが、人が住み始めたのは昭和に入ってからで、大正期までは谷端川の左岸に水田が広がっていた。昔からある道は立教通りで立教大学の前から田んぼと谷端川を渡った先で道は南北に分岐していた。このあたりの旧地名が地蔵堂。そこから北に延びる今では寂れたえびす通り商店街が古道である。

P1070520

要町通りから350m程北に進むと西に分岐する道に延命地蔵尊の堂宇が現れる。なかなか立派な堂宇である。昔は道路の向かい側にあったらしい。というのもえびす通り商店街は実は暗渠で、谷端川支流(西大下水)が流れていたという説がある。ただ、標高からして微妙な説である。この辺りは大正時代まで北荒井と呼ばれていて、大正期の地図を見ると石仏の印はえびす通り商店街沿いにある。路地の南から北に移ったというのがおそらく正しいだろう。

P1070521

地蔵は丸彫の立派なもので、造立年は享保元年(1716)8月。念仏講中による造立で、武刕豊島郡長崎村荒井の銘がある。荒井はこの辺りの地名である。この辺りの現在の地名は高松だが、どうも味気ない。しかし高松は長崎村にあった小字で、後年取ってつけた名前ではないのが救い。荒井が高松に吸収されてしまった感じがする。

場所  豊島区要町1丁目41-12

| | コメント (0)

2020年4月17日 (金)

長島大榎公園の石塔(世田谷区経堂)

経堂駅の北側を流れていたのが北沢川、南側を流れていたのが烏山川、どちらも池尻大橋で合流し目黒川と名前を変える。南の烏山川には品川用水を通していた尾根筋から数本の沢が流入していた。一本は狭義の菅刈を流れる沢筋、その東側には地主長島家の敷地から流れる沢筋で、長島家の一部が大榎公園となっており、そこに石碑石仏がある。

Dscn1876

上の写真の右は石橋供養塔。造立年は寛政6年(1794)5月で、協力した多くの人々の名前が彫られている。石橋供養塔というのは川に架けた石橋にも霊が宿ると信じられ、それを供養して安全を祈願するもので、どうやらこれらは世田谷通り農大前にあった北見橋脇にあったもののようである。左が大正3年【1914】11月の北見橋改修記念の道標で、それぞれ東西南北に「東 三軒茶屋を経て渋谷町に至る、西 砧村狛江村を経て登戸渡船場に至る、南 用賀瀬田を経て二子渡船場に至る、北 経堂在家上北沢を経て高井戸に至る」とある。

Dscn1882

大榎は昔に倒れてしまい根っこのモニュメントしかないが、大きなケヤキが何本かある。その脇には新しい地蔵尊が建てられている。昭和9年(1934)9月の造立で、長島家が建立したもの。経堂在家村は松原家が最も多いが、長島家もなかなかのもので、公園の向かいには自然保護区域も残されている。

場所  世田谷区経堂5丁目17-25

| | コメント (0)

2020年4月16日 (木)

経堂福昌寺の石仏(世田谷区経堂)

小田急線の経堂駅近く、「経堂」というのは大寺院の伽藍などでお経を保管したお堂のことを言うのだが、それが地名になったのはこの福昌寺に縁がある。創建は寛延元年(1624)説と寛延3年(1626)説があるが、江戸時代初期である。江戸時代まではこの辺りは経堂在家村と呼ばれ、中国から帰化した松原土佐守弥右衛門という幕府お抱えの医師がこの福昌寺を開いたという。その松原弥右衛門は多くの書物を所有しており、屋敷内に福昌寺を建てるとともに書物を保管する建物もありそれが経堂と呼ばれていたという説がある。

Dscn1892

喧騒の街から境内に入るとすぐ右側に板碑型の供養塔がある。造立年は万治3年(1660)2月。「南無阿弥陀仏」と中央にあり、「奉納念仏供養 為即身菩提也」と書かれている。右側に並ぶのは墓石で、元禄4年(1691)のもの。

Dscn1908

境内中央あたりには堂宇に祀られた馬頭観音がある。慶応3年(1867)2月の造立でほぼ明治維新直前のものである。中折れしているが、馬頭座像は三面六臂の見事なもので、上部の馬頭もよく分かる。

Dscn1901

もう一つ堂宇に守られているのが笠付角柱型の庚申塔。青面金剛像のみの図柄だが、左右には多くの願主名があり、経堂在家村の銘がある。造立年は元禄4年(1691)8月で「奉修庚申供養」とある。台石には「菅刈庚申塔」とあるがこれは後に造られたもののように見える。菅刈というのは諸説あるが、古代から中世にかけての世田谷区と目黒区の一部が菅刈荘という荘園だったことに由来する。狭義の菅刈は経堂と千歳船橋の間にある地域を指す。

Dscn1909

境内の奥には寛延3年(1750)春造立の供養塔がある。これは「法華読誦 托鉢檀施 供養塔」とあり、三界万霊供養塔らしい。左面下部には、横根村中、船橋村中、宮坂村中、経堂在家村中とあるので、福昌寺の檀家はかなり広い範囲だったのだろう。

場所  世田谷区経堂1丁目22-1

| | コメント (0)

2020年4月15日 (水)

民家の塀の地蔵(杉並区阿佐谷南)

阿佐ヶ谷駅の南口から荻窪方面にむかう道すがらの民家の塀に地蔵堂がある。当然ながら地図にはGoogleマップにすら載っていない。仕事で通りかかって見つけた地蔵である。民間の塀が凹んでおり、そこに角柱型浮彫のお地蔵様が祀られている。

Dscn1872

台石には「救地蔵」とある。高さは43㎝ほどで、角柱に浮彫の地蔵立像だが顔面が破損している。造立年などは全く分からない。杉並区の資料を調べてみるとあるにはあったが詳細は分からない。

Img_2451

前面道路は昔の阿佐ヶ谷川の暗渠である。阿佐ヶ谷川は阿佐ヶ谷駅の東側で桃園川に合流していた。阿佐ヶ谷川の源頭は現在の荻窪駅北口ロータリーの北側あたり、そこから青梅街道沿いに流れ少し東流すると北に流れを変え、この通り沿いを流下していた。明治時代まではこの辺りは水田が広がり阿佐谷田圃と呼ばれた。昭和初期まではその名でよばれたが、大正期から民家は集中してきたようである。現在も阿佐ヶ谷駅南口に寿々木園という釣堀があるが、これはこの阿佐ヶ谷川の名残りである。

場所  杉並区阿佐谷南3丁目44-7

| | コメント (0)

2020年4月14日 (火)

天沼地蔵(杉並区天沼)

中央線の線路に比較的近い場所にある小さな公園、公園の名前は「天沼地蔵前公園」。天沼地蔵が正式な名称かどうかは分からないが、公園名になっているのでそのまま使わせていただいた。実際には地蔵菩薩立像が1基と庚申塔が1基である。

Dscn1862

調べてみるとこの地蔵の場所は江戸時代から道の分岐点だった。ここから東南側は阿佐ヶ谷村、地蔵のある側は天沼村というのが江戸時代の村域だから、塞ノ神であるともいえるだろう。石仏の左手前に角柱があり、「奉供養庚申講」と正面に彫られている。この角柱には「武列多摩郡天沼村」の銘があり、造立は享保12年(1727)11月。2基の石仏よりも少し後である。

Dscn1869

左は地蔵菩薩立像(舟型)で、宝永2年(1705)10月の造立。「武刕多摩郡天沼村」の銘がある。講中は14人で蓮台の下に名前があるが読めない。右は駒型の庚申塔で、青面金剛像、三猿の図柄。こちらも「武刕天沼村」とある。造立年は元禄11年(1698)11月である。この村はずれの辻で300年余り、人々の往来を見守ってきたのかと感慨深く拝ませていただいた。

場所  杉並区天沼1丁目5-19

| | コメント (0)

2020年4月13日 (月)

天沼の民間信仰石塔(杉並区天沼)

天沼1丁目の一角に民間信仰の石塔が集められている。庚申塔が2基、地蔵が1基、供養塔が2基でいずれも大型で見事なものである。この場所はちょっと不思議な道路地形をしており、南側に数十mだけ広い道があり、その道の北の端に児童遊園っぽく小さな広場がありその一角にこれらの石塔が祀られている。周辺は桃園川の源流域。水源のひとつは天沼弁天池公園(人工)辺り。そこから流れる桃園川はこの民間信仰石塔の少し南を流れていた。暗渠化されたのは高度経済成長期、そんなに昔のことではない。

Dscn1842

これらの石仏は耕地整理の際にここに集められたもので、庚申塔は桃園川の川辺の路傍にあり、地蔵と供養塔は300m程西にある熊野神社の近くの路傍にあったものをここに移設したもの。移設したのは昭和13年(1938)だという。左の屋根の下には庚申塔、右はその他の石塔が入っている。この辺りは昔、檪山(くぬぎやま)と呼ばれ、伝承では越前朝倉家の一族が土着して開墾したとあり、「くぬぎやまの朝倉氏」は近村にも知られた存在だったという。かつての武蔵野だったころは樹林で薪炭を作っていたようだ。

Dscn1844

庚申塔の左側、唐破風笠付の角柱型で屋根の擬宝珠も残っている。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、正面には「奉造立庚申供養二世安樂所」「武刕多麻郡天沼村 講中14人」とある。造立年は元文5年(1740)10月。右側の庚申塔も唐破風笠付角柱型で、こちらは青面金剛像に三猿の図柄。「奉造立庚申供養石塔一基二世安樂処」とある。造立年は宝永元年(1704)9月、富士山宝永大噴火の3年前。

Dscn1850

右の3基は、左から坂東秩父西国百番供養塔。造立年は宝暦9年(1759)10月で「武列多摩郡天沼村」の銘がある。中央は地蔵菩薩立像(舟型)で享保15年(1730)10月の造立。これも「武列多摩郡天沼村」とある。右は、光明真言と西国坂東秩父百番供養を兼ねたもので、享和3年(1803)10月の造立。百番観音信仰は江戸時代に庶民に広まったもので、関東地方では西国・坂東・秩父の百箇所霊場の巡拝が流行、巡拝記念あるいはそれと同等の御利益を得るために百番観音供養塔が各地に建立された。

| | コメント (0)

2020年4月12日 (日)

天沼2丁目の庚申塔(杉並区天沼)

庚申塔には似合わない明るい民家ある一角にぽつんと庚申堂が立っている。実は以前は天沼2丁目17-2に祀られていたもので、最近この場所に移設されたようである。元の場所からは400m程北北東に移った訳である。

Dscn1832

堂内右側には唐破風笠付角柱型の庚申塔、左側には駒型の庚申塔が並んでいる。右の笠付角柱型の庚申塔は正徳5年(1715)11月の造立。青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄である。「奉造立庚申供養二世安樂所」と正面にあり、台石には人名も彫られているがほとんど読めない。

Dscn1833

一方左側の駒型庚申塔は享保13年(1728)11月の造立。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が見事に彫られている。「天沼村講親 長谷川佐左衛門 同行6人」とあり、かなり金持ちだったのだろう。なかなか少人数で造れるものではない。どちらの庚申塔も江戸時代中期の庚申講全盛期のもので、クオリティも極めて高い。

場所  杉並区天沼2丁目42-3

| | コメント (0)

2020年4月11日 (土)

本天沼蓮華寺の馬頭観音(杉並区本天沼)

蓮華寺は比較的多い寺名である。本天沼のこの蓮華寺から東に1.5㎞ほど行くと中野区大和町の蓮華寺があり、あちらの方が数倍広いが、本天沼の蓮華寺も室町時代の創建と中野区の蓮華寺よりもはるかに古い。(中野区大和町の蓮華寺は1658年に文京区で創建し大正初期に中野区に移転した)

Dscn1820

山門をくぐると左側に池を中心にした風情ある庭があるが、その奥にさらに山門があり、それをくぐった左側に石仏が並んでいる。上の写真はその一部。左端の供養塔は大乗妙典の六十六部諸願成就のもので、享保13年(1728)11月の造立で「武列多摩郡天沼村」の銘がある。隣の背の高い地蔵菩薩は造立年等不詳、右から二番目の小さな地蔵も年代不詳だが天沼村とある。一番右の小さな舟型の地蔵墓猿は明治18年(1885)5月の造立で、天沼念仏講中とある。

Dscn1823

蓮華寺で必見なのはこの馬頭観音。単独の堂宇に祀られているが、造立年は寛延元年(1748)4月で馬頭観音としては相当古いものであるが、像はくっきりとしていて馬頭もよく分かる。高さは64㎝程の小さいものだが、古い時代の馬頭観音は珍しい。牛馬が一般化したのは江戸時代後期からと言われるので、江戸時代中期以前のものは少ないのである。

場所  杉並区元天沼2丁目17-8

| | コメント (0)

2020年4月10日 (金)

意安地蔵尊(杉並区元天沼)

意安地蔵尊があるのは天沼児童遊園の角、ちょっと変形の辻に堂宇にはいって祀られている。向かいの角には関商店という昭和チックな商店があるが、営業はしていないようだ。たばこの袖看板とコカ・コーラの看板、脇にはロッテガーナチョコレートの色あせた看板が残っている。

Dscn1797_20200331213801

意安地蔵尊の堂宇の上に扁額っぽく「意安地蔵尊」と書かれている。しかしこの名前は最近のものである。元々は行き倒れの人々を供養する地蔵で「稲穂地蔵」と呼ばれていた。2006年に意安地蔵尊と名付けられたのだが、「意安」の意味が分からない。この変形辻では昔から一度も交通事故が起こっていないといい、それで意安地蔵尊となったらしいのだが意味が分からない。

Dscn1800_20200331213801

意安地蔵は舟形の地蔵立像。造立年は享保2年(1717)10月。「本願主 源左衛門」とあり「念佛講中43人」と彫られているので、天沼村の多くの人々がかかわってきたのだろう。こういう路傍の地蔵はぜひ後世に伝えていってほしいと思う。

場所  杉並区本天沼2丁目23-11

| | コメント (0)

2020年4月 9日 (木)

民家駐車場の庚申塔(杉並区本天沼)

早稲田通り、本天沼一丁目交差点のひとつ東側の路地を南に入る。数十m南へ進むと民家の駐車場、万年塀の脇にいささか場違いな立派な庚申塔が立っている。場所を知らなければたどり着けないようなところである。

Dscn1792

民家に地蔵や庚申塔が祀られているケースは時々ある。一番多いのは屋敷神としての稲荷だろう。ただ庚申塔の場合堂宇が建てられてその中にあるケースが多い。このように無造作に立っていることはあまりない。しかし、ゼニゴケが付着することもなく、花も供えられて大切に守られていることがわかる。

Dscn1793

笠付角柱型の庚申塔は青面金剛像に邪鬼・三猿の図柄で保存状態の良いものである。造立年は元禄14年(1701)11月で、富士山噴火の6年前のもの。「武刕玉郡天沼村」とあるので、武蔵国多摩郡天沼村の庚申塔である。明治初年の地図を見るとこの辺りには民家はない。早稲田通りの筋が昔からの街道筋で、長命寺道、石神道などと呼ばれたのでその道沿いにあったものを移設したのではないだろうか。そこは南の天沼村、北東の下鷺宮村、北西の下井草村の3村の村境であったので、塞ノ神を祀ったとしても不思議はない。

場所  杉並区本天沼1丁目19-20

| | コメント (0)

2020年4月 8日 (水)

阿佐谷庚申堂(杉並区阿佐谷北)

早稲田通り沿いにある堂宇。堂宇で早稲田通りから斜めに分岐する道と早稲田通りの間にある。この分岐点は江戸時代からあった分岐点で、路地の方の道は天沼村へ抜け青梅街道に出る。現在の早稲田通りも江戸時代からの道筋で長命寺道あるいは新高野道と呼ばれ、妙正寺川を渡り下井草村に向かう道であった。辻の南側一帯はお伊勢の森と呼ばれ神明宮の鎮守の森だった。すぐ東側には捨て場と呼ばれた家畜の死骸の捨場があり、そこにあった馬頭観音が現在世尊院墓地にある立派な馬頭観音である。

Dscn1791

お伊勢の森というものの、実は神明宮とお伊勢の森の間には桃園川が流れ水田地帯があった。おそらくはその北東側に森が広がっていたのではないだろうか。明治初期の地図には楢林の記述があるので、どんぐりの豊かな森だったのだろう。堂宇は阿佐谷庚申堂というものの、庚申塔は1基しかない。多数決でいうと地蔵堂(地蔵2基、庚申塔1基、阿弥陀如来1基、供養塔1基)。

Dscn1779

右から紹介すると、まずは舟型の阿弥陀如来立像。造立年は正徳5年(1715)9月で、「奉造立阿弥陀佛像念佛講成就所 願主 村主六左衛門 講同行19人」とある。その左隣は舟型の地蔵菩薩立像。享保7年(1722)10月の造立で、「奉造立地蔵墓猿二世安楽所」とある。また「武刕多麻郡阿佐ヶ谷村」の銘があり、「願主 益田杢右衛門 講中26人」とある。

Dscn1780

三番目にあるのが笠付角柱型の庚申塔で、青面金剛像に三猿の図柄で、邪鬼はよく分からない。「奉造立庚申供養 一基二世安楽所 武刕阿佐ヶ谷」と書かれている。側面には蓮花模様があった。その左隣は舟型の地蔵菩薩立像。宝永7年(1710)10月のもので、「奉供養地蔵菩薩一基為菩提也 武刕多摩郡阿佐ヶ谷村 願主 村主六左衛門 同行15人」とある。一番右の阿弥陀如来と同じ願主である。左手前に小さな自然石の石碑があるが、正面には「供養塔」とだけありそれ以外は不詳。この堂宇の建設時に立てたものだろうか。

場所  杉並区阿佐谷北5丁目42-1

| | コメント (0)

2020年4月 7日 (火)

阿佐谷北の小石仏(杉並区阿佐谷北)

阿佐ヶ谷駅の北側には素敵な散策スポットがある。駅からすぐにあるのが世尊院と阿佐ヶ谷神明宮、神明宮の南には欅屋敷(非公開)があり、意外と緑豊かな街になっている。欅屋敷の南側の砂利道は東京にいることを忘れさせてくれる道。そこからさらに北に住宅街を歩いていくと、もう一ヶ所、欅屋敷を彷彿とさせるような路地がある。場所は阿佐谷北5丁目8番と9番の間の道である。

Dscn1769

昔ながらの竹垣が砂利道の左右に延びている。森の間を抜ける50mあまりの私道だが、実に気持ちが良い。欅御殿同様個人宅なので、道を歩くことしかできないが、素晴らしい小径である。この道をさらに北に進むと路地から少し広い路地に斜めに出る。それを戻るように南西に向かうとすぐに小さな祠がある。

Dscn1770

堂宇には小さなお地蔵様が座っている。地蔵菩薩坐像で宝珠を持っている。大きさは38㎝程しかない。見てみたが文字は見当たらず、杉並区の資料を見ても、年銘は無いとある。見た感じはそれほど古くなく、明治から大正期のもののような感じである。

場所  杉並区阿佐谷北5丁目10-8

| | コメント (0)

2020年4月 6日 (月)

福泉寺墓所の地蔵(杉並区高円寺北)

阿佐ヶ谷駅の東側、高円寺駅との間は旧地名では馬橋と呼ばれたエリア。現在杉並学院高校があるがその南側の道は昭和中期までは桃園川の開渠だったが現在は完全な暗渠になっている。桃園川には阿佐ヶ谷川という支流があり、荻窪駅付近から現在の阿佐ヶ谷駅を東に向かって流れていた。阿佐ヶ谷駅前からこのエリアは現在でも大雨が降ると冠水する。川が合流する周辺は当然ながら水田として適した土地であり、かつては馬橋田圃という水田が広がっていたが、大正時代頃から開発が進んで田んぼは無くなった。

Dscn1760

そんな路地裏に広い墓所がある。門柱に福昌寺跡墓地とあり鉄格子扉は施錠されていた。江戸時代、ここ馬橋では馬橋稲荷神社の別当寺として福昌寺があった。馬橋村の西に在り、阿佐谷村に接する土地で、福昌寺は寛永年間(1624~1644)の創建らしい。しかし廃仏毀釈の折、明治7年(1874)に中野宝仙寺に吸収された。しかし墓所だけは現在もまだ残っているという訳である。

Dscn1763

墓所の門から近いところに地蔵が2体並んでいる。左の地蔵は大正3年(1914)5月の建立で、豊多摩郡杉並村字馬橋の銘がある。右の地蔵は10頭身のスタイルの良い地蔵。寛政元年(1789)10月の造立とかなり古い。武刕多摩郡野方領馬橋村の銘がある。光明真言供養とあり、馬橋村の女念仏講中によるものである。墓所にはこの他元治2年(1865)の馬頭観音もあるらしいが施錠されており確認できなかった。

場所  杉並区高円寺北4丁目8

| | コメント (0)

2020年4月 5日 (日)

世尊院墓所の石仏【2】(杉並区阿佐谷北)

世尊院墓所には沢山の石仏があるので多少割愛したい。現在の阿佐ヶ谷駅周辺は南北に中杉通りが貫いているが、昔はパールセンター(アーケード商店街)が鎌倉街道だった。阿佐ヶ谷駅から北は松山通りと呼ばれ、世尊院の南から東へ分岐していたのは堀ノ内道。古くから阿佐ヶ谷駅は交通の要衝だったのである。それゆえにここに宝仙寺が起こり、世尊院が残されたのであろう。

Dscn1745

そんな交通の要衝だから馬頭観音は当然あるべきで、ここの馬頭観音はひときわ立派なものである。罵倒観音の造立年は天保11年(1840)2月。しかしこの馬頭観音は阿佐谷6丁目86より移設されたもの。その場所は蓮華寺に近く、現在の早稲田通り沿いだったようだ。

Dscn1754

上の写真は地蔵菩薩2体と庚申塔である。庚申塔は駒型で青面金剛・邪鬼・三猿・一鶏の図柄、右側には「奉供養庚申講中為二世安楽也講中18人」とあり、左側には造立年と「武刕多摩郡阿佐ヶ谷村願主朝倉与兵衛」の銘がある。造立年は享保7年(1722)11月である。真ん中の小さな地蔵は享保3年(1718)10月のもので、「阿佐谷村」の銘がある。左の丸彫地蔵尊は享保6年(1721)8月の造立で、地蔵は両方ともかなり風化が進んでいる。

Dscn1737

こちらの地蔵は天明2年(1782)10月の造立で、「阿佐ヶ谷村向女念仏講中」とある。ただし台石には、「願主大野又七母 嘉永4年(1851)9月再建」とあるので、江戸時代末期のものだろう。元々は阿佐谷1丁目70にあったという記録があるが、この旧住所が古い地図でも見当たらない。もし700番前後ならば今の杉並区役所辺りになる。

場所  杉並区阿佐谷北1丁目26-6

| | コメント (0)

2020年4月 4日 (土)

世尊院墓所の石仏【1】(杉並区阿佐谷北)

JR中央線阿佐ヶ谷駅のすぐ北、中杉通り沿いに東側には世尊院の本院、西側には世尊院の墓地がある。中野区で最も反映した寺院は宝仙寺だが、現在の世尊院の場所にはかつて宝仙寺があった。室町時代に宝仙寺が中野に移転したため、その子寺であった世尊院がここに残されたのが始まりのようである。

Dscn1728

墓地の鉄格子の開き戸は大概開いている。入って中杉通り沿いに進むと、多くの石仏が並んでいる。上の写真は六地蔵と諸仏。後ろの六地蔵は正徳4年(1714)9月の造立。手前に並ぶ諸尊はほぼ墓石のようである。

Dscn1741

少し進むと一つの台石に地蔵菩薩立像と如意輪観音像が並んでいる珍しいタイプのものがある。どちらも阿佐ヶ谷念仏講によるもので、造立は大正10年(1921)とおよそ100年前。ともに9月とある。私の亡父が大正生まれだったので、それほど昔には感じないが、その時代にも念仏講が盛んだったことがわかる。

Dscn1748

少し奥に行くと供養塔がある。間にはいくつかの石仏があるがそれは後述したい。この供養塔はちょっと不思議。中央には「奉唱満供養道光智運法師」、左右には「光明真言三千万遍」「普門品六万八千巻施主朝倉〇〇」とあるので経典を納めたのだろうか。ところが造立年が、左側には安永8年(1779)、右側には安永7年(1778)、そして下部には明治43年(1910)とあるので一体どれが正しいのか分からない。こういう不思議なものもあるのである。

場所  杉並区阿佐谷北1丁目26-6

| | コメント (0)

2020年4月 3日 (金)

桜丘の子育地蔵尊(世田谷区桜丘)

私が住んでいる街だが、結構野仏がある。区の教育委員会もいろいろ調べているようだが、昭和の後期に出版したものはどうもやっつけ仕事らしく、漏れが多い。桜丘5丁目に2つの地蔵があるがどちらも資料には載っていない。もちろんWebを探しても出てこない。こういう石仏を見つけると心が躍る。

Dscn1685

場所は千歳通りがくねっているあたり。かつては品川用水が通っていたほとりである。私も以前から存在は知っていたが、調べてみて驚いた。角柱に陰刻で地蔵座像が彫り込んである。その下部には、「施主 …(判読不可能)…文化元年(1804)11月」と彫られている。右側面には「大山道」、左には「横根村」と大きく彫ってあるが、大正時代まで千歳船橋駅の南側は横根という地名だった。

Dscn1694

その数軒先にまた小さな地蔵が立派な堂宇に佇んでいる。こちらも地蔵座像のようだが、顔は少し恐ろしい。詳細はまったく分からない。しかし、こういうものが散見されるのは有難いものである。

場所  世田谷区桜丘5丁目16

| | コメント (0)

2020年4月 2日 (木)

蓮華寺の庚申塔(中野区江古田)

哲学堂公園の北にある広い寺院が蓮華寺である。蓮華寺の東側を南北に走る哲学堂通りは現在は新宿区と中野区の区境、江戸時代は葛ヶ谷村と江古田村の村境であった。蓮華寺は日蓮宗の寺院で、創建年代は不詳だが、室町南北朝時代と伝えられる。哲学堂を造った井上円了の墓所も境内にはあった。その井上円了の墓所の近辺に庚申塔がぽつぽつとある。

Dscn1670

上の写真は板碑型の文字塔の庚申塔。中央には「南無妙法蓮華経 南無千眼大菩薩」とあり、右左には貞享3年(1687)12月という造立年に加え、「同行12人 南無多寶如来 南無釈迦牟尼仏 」と彫られている。下部には蓮の花のレリーフが見られる。

Dscn1668

もう一つの板碑型庚申塔は、享保19年(1734)12月の造立。中央には「南無妙法蓮華経 南無帝釈天王」とある。こちらは下部には願主名らしきものがずらりと彫られているが、よく読めない。上部には日月がくっきりとみられる。

Dscn1671

こちらは駒型の庚申塔で板碑型のものと比べると小型である。造立年は宝永元年(1704)11月。下部には三猿がある。これにも南無票蓮華経とあり、日蓮宗の寺院らしい。

場所  中野区江古田1丁目6-4

| | コメント (0)

2020年4月 1日 (水)

路傍の小地蔵(練馬区旭丘)

上板橋の千川通りを越えて北に向かうと、練馬総合病院の手前に小さな堂宇がある。千川通りはかつての千川用水の跡、もとは用水路と道が平行していたものを広い車道の道に作り替えてある。明治・大正・昭和戦前期のそれぞれの地図にはこの道から少しだけ北に入ったところに石塔の地図記号があり、その場所を追うと現在もこの小さな地蔵堂が見つかった。

Dscn1652

ブロックを組み上げただけのシンプルな堂宇だが、昔はどうだったのだろう。近づいてしゃがんで中を覗き込むと、花やいろいろな飾りが巻いてあって彫られた文字がなかなか読めない。唯一読めたカギになる文字が「癸亥(みずのとい)」であった。

Dscn1657

江戸時代の癸亥の年を調べてみると、文久3年(1863)、享和3年(1803)、寛保3年(1743)、天和3年(1683)、玄和9年(1623)の5回だが、年号制だと4つが3年という驚くべき偶然。石の具合から考えて文久、享和、寛保のどれかだろうと思われる。しかし練馬区の資料にもまったく触れられていない。それなのに過去の地図には載っているという不思議が何とも言えない。

場所  練馬区旭丘1丁目12-6

| | コメント (0)

« 2020年3月 | トップページ | 2020年5月 »