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2020年4月26日 (日)

子易神社の胸突地蔵尊(板橋区板橋)

東武東上線の下板橋車両留置線脇の踏切を北へ渡る。すぐ西に山手通りの跨線橋があるのだが、こちらの踏切の方が昭和感があっていい。昔はこの踏切西側に「金井窪」という駅があった。昭和6年(1931)に開業、昭和20年(1945)に廃止という短い期間だが、空襲で被災してしまいそのまま廃止されたことになっているが、どうも空襲では壊れていないという説もあり、謎の残る廃止のようである。この踏切から北に100m程進むと左角に子易神社がある。

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子易神社は創建年代不詳、富士浅間神社の分霊を勧請したものと言われ、江戸時代初期以前にはあったようだ。江戸時代は旧金井久保村の鎮守だった。安産・子育ての神として信仰されてきた。神社全体が谷端川左岸の段丘で小高い丘になっているが、写真の鳥居の右奥には富士塚もある。

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神社の門前にあるのが胸突き地蔵尊の堂宇。訪問時もおばあさんがしばらくの間堂宇前で拝んでいた。堂宇内にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像。像高は127㎝あり、元禄8年(1695)4月の造立である。台座には、「江戸 小石河 百万遍廻向 五番 開眼 福正寺」とある。小石河は当然ながら小石川だろう。百万遍という念仏講の行事に関連して建立されたもので、福正寺というのは明治初期まで子易神社を管理していた赤羽村の福正寺(廃寺)のこと。神仏分離で明治初期からは福正寺と関係が断たれた。その他台座には、「右上尾 左河越」とあるらしく、以前は道標の役割として北側向いの保育園の位置にあったという。

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胸突地蔵尊と呼ばれる所以は次のような言い伝えによる。今でも地蔵の右胸の上のところに親指大の傷が付いている。これは言い伝えによると、寛保年間(1741~1744)の頃、王子村の長者が夜、子易の森を通った時に、盗人が現れて長者を襲い胸を突いた。長者は倒れてしまったが、起き上がると何の傷も負っていないことに気づいた。ふと脇を見ると地蔵が建っており、胸に傷があるのを見つけて、地蔵が身代わりになってくれたことを有難く思ったという。それ以降人々は胸突地蔵尊と呼んで信仰を深くしたらしいが、地蔵については同様の身代わりの言い伝えが沢山あり、これも一つの典型である。

場所  板橋区板橋2丁目19

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