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2020年4月28日 (火)

東光寺の石仏・庚申(板橋区板橋)

板橋にある東光寺はもともと中山道に面しており、江戸から来ると巣鴨を抜け、下板橋宿に入って最初の寺であった。東光寺の門前で街道は二股に分かれ、まっすぐ行くと中山道、斜め左に行くと川越街道になっており、とても賑やかなところだった。新宿でいうと伊勢丹前の追分(青梅街道と甲州街道の分岐点)のようなものである。しかしながら明治初期の火災やその後の関東大震災、戦災によって、現在の区画に小さく収まってしまった寺院で、宗派は浄土宗。創建は不明ながら、寺伝では延徳3年(1491)とされている。じつは創建当初は船山というもっと北の石神井川近く(現在の東板橋体育館あたり)にあったが、加賀藩の下屋敷を作るにあたり移転を強いられたようだ。

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山門をくぐると本堂、その手前左側に立派な石仏が並んでいる。江戸時代、東光寺の裏手は広大な加賀藩前田家の下屋敷だった。その広さは21.7万坪というから代々木公園や上野公園の1.3倍もある。本郷の現東大キャンパスが上屋敷で10.4万坪、駒込に2万坪の中屋敷などと、さすが最大の石高を誇る大名である。しかし板橋の下屋敷は本郷の数千人の勤務者数に対して、数十人で管理していたというから、本当に政務を忘れてのんびりできる山里のようなところだったのだろう。

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左から2番目の石仏は唐破風笠付角柱型の庚申塔で板橋区の有形文化財に指定されている。高さは1.9mもあり、青面金剛・二邪鬼・一猿・二童子・四夜叉という珍しくかつ芸術的な浮彫で描かれている。造立年は寛文2年(1662)5月で、これから庚申塔が巷に流行する直前のものである。庚申塔の願主は板橋宿の旅籠の主人達らしく、寺との協力で造られたもののようだ。庚申塔の向かって左隣の丸彫の地蔵立像は宝永5年(1708)5月の造立で、湯島5丁目 施主 萬屋九兵衛とあるが、像と台石が一体のものかは疑問が残る。右隣りの地蔵尊は造立年は不詳だが、こちらも台石と石質が異なるが入れ替わりではなさそう。

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石仏の一番右にあるひときわ大きなものが地蔵菩薩坐像で享保4年(1719)のもの。六道利生の地蔵尊と呼ばれ台石には多くの人名戒名が書かれている。この地蔵は「平尾追分地蔵」と呼ばれ、享保年間に約200人の結集によって造立されたという。江戸時代は平尾追分(中山道と川越街道の分岐点)にあったが、明治になって東光寺に移された。人名の中には加賀藩の人物の名前もあるそうで、江戸時代の武士と庶民の関連が見られる良いものである。板橋区の文化財登録を受けている。

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墓所の奥に回ると、時代は新しいが立派な馬頭観音がある。右の角柱が昭和2年(1927)2月造立の馬頭観音。左の自然石のものも年代は不詳だが馬頭観音塔である。こちらの自然石塔は板橋駅踏切の横にあったものだという。

場所  板橋区板橋4丁目13-8

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