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2020年5月31日 (日)

駒込天祖神社の庚申塔(文京区本駒込)

駒込天祖神社はかつて神明社と呼ばれた。神明社よりも東側が動坂町、西側が神明町と神明社に因んだ地名だったが、昭和中期本駒込4丁目~5丁目と変更された。天祖神社の南隣には1879年から140年の歴史を持つ駒込病院があり、その南には明暦の大火で焼失した門前町が大名屋敷になったため、門前町の住民が武蔵野に移り街の名前になった吉祥寺がある。

このあたりは縄文時代から人間が住み続けた場所で、一帯には駒込神明町貝塚が広がっていてその上に街がある。神明社は文治5年(1189)の創建で、源頼朝の奥州征伐の時に始まったと伝えられる。この天祖神社は西の日光街道側が表参道になっているが、動坂側にも裏参道があり、裏参道の入口に庚申塔が7基並んでいる。

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左端は笠付角柱型の庚申塔で、元禄16年(1703)9月の造立。上部に日月、そして正面、右面、左面にそれぞれ大きな一猿がある。右面下部には「駒込道」の文字がある。その隣の庚申塔も変わっている。上部が欠損しているが、頂上は首の欠けた一猿。その下には「奉供養庚申 二世 安樂」とあり、下部には願主名が並び、末尾に「駒込村」とある。

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次は板碑型の庚申塔で慶安元年(1648)9月と極めて古い時期のもの。神社の北側には駒込村の名主高木家の屋敷跡があるが、その高木家が施主のようだ。その右は光背型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保5年(1720)10月で、「武刕駒込笹原村」の銘がある。笹原は現地名にはないが、おそらく不忍通りの辺りだろうと思う。

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その隣は最も大きな板碑型の庚申塔で、三猿が下部に描かれている。造立年は寛文8年(1668)でこれも初期のもの。三猿上部には、「為奉待庚申二世安樂」とあり、左に「武州豊嶋郡駒込村」と書かれている。その右側の駒型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は不明だが10月という文字がある。

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右端の庚申塔は舟型光背型で、造立年は延宝4年(1676)4月。青面金剛像のみの図柄。「武州豊嶋郡」の銘がある。これだけ古いものが複数保存されていることは驚きである。神社は戦災で焼失し、戦後社殿が再建されたが、庚申塔が健在であるのは嬉しいことである。

場所  文京区本駒込3丁目40-1

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2020年5月30日 (土)

常徳寺の石仏(文京区本駒込)

徳源院の隣にある常徳寺は浄土宗の寺院。寛永7年(1630)に湯島切通に創建され、天和の大火の後の天和3年(1683)に下駒込村の地に移転したのは、徳源院とほぼ同じパターンである。山門を入ると右手に「おその地蔵」がある。

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おその地蔵は古いものではない。建立されたのは大正11年(1922)。台石には「十万人親縁記念供養塔」とある。説明書きによると、三田その子という女性が嫁ぎ先で結核を患い、幼い娘と別れて療養生活をしていたが他界してしまった。生前に、もし生まれ変われたらお地蔵様になって同じ病で苦しむ人を救いたい、という思いを残して亡くなったのを聞いた宮崎林蔵という檀家の人が、結縁者を募りお金を集めておその地蔵を建立したという。今でいうクラウドファンディングである。

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おその地蔵の前に舟形光背型の地蔵菩薩立像を尊像とした庚申塔が立っていた。中折れを補修した形跡もあるが、「奉供養庚申」とあり、三猿だけでなく日月もはっきりと描かれている。造立年は元禄6年(1693)9月。地蔵の尊顔と宝珠が欠損している。この庚申塔だが、文京区の資料には載っていなかった。しかし石の質も良いもので、おそらく元禄のもので間違いないと思う。

境内には、猿田彦大神の塔(大正9年造立)があるようだが、訪問時は見つからなかった。

場所  文京区本駒込3丁目7-16

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2020年5月29日 (金)

徳源院の石仏(文京区本駒込)

徳源院は地下鉄南北線本駒込駅のある駒本小学校前から動坂に向かう道の途中、蓮光寺の北向いにある臨済宗の寺院。創建は寛永7年(1630)で当初は湯島に開かれたが、天和2年(1682)に現在地に移転した。江戸時代後期の切絵図には「徳源寺」とあるが、今は寺名はない。元禄期の切絵図には徳源院と隣の常徳院は描かれていないので、移転当初はまだ知られていなかったのだろう。

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禅寺らしく質素な境内にこじんまりとした本堂だが、雰囲気はとても厳かである。山門をくぐって左側にあるのが日限地蔵。この日限地蔵は寛政5年(1793)に動坂上に建立された。ご利益があると庶民からは大いに崇拝され、「動坂の日限地蔵」と人気を誇っていた。その動坂にあった日限地蔵が、昭和60年(1985)にこの寺に移された。

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右手に錫杖、左手に宝珠を持つ典型的な地蔵だが、日限地蔵というものは日限り(ひかぎり)地蔵とも読み、日限を切って祈願をする対象の地蔵尊であった。多いのはやはり子育地蔵でそれだけ赤子が大きく育つのは難しかったのだろう。

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日限地蔵の傍には、これもまた同坂上の日限地蔵堂にあった猿田彦大神の石塔が立っている。こちらは文京区の資料だと昭和57年(1982)に移設とあり、日限地蔵よりも3年早い。造立は文化4年(1807)2月で、角柱型。下部には道標となる行先が彫られている。 右面は、千た木(千駄木)、ねす(根津)、やなか(谷中)、うへの(上野)。正面は、すぐ こまこミ(駒込)、小いし川(小石川)。左面は、坂下 たはた(田端)、をく(尾久)、ひくらし(日暮里)、せんしゆ(千住)となっている。地名というものもなかなか面白い。

場所  文京区本駒込3丁目7-4

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2020年5月28日 (木)

蓮光寺の庚申と石仏(文京区向丘)

団子坂と白山上の間の道のうち日光街道の東側の一部区画を江戸時代には「駒込四軒寺町」と呼んだ。ここには浄土宗の寺院である、光源寺、清林寺、栄松院、瑞泰寺が並んでいる。一番東にあるのが光源寺で、その角を曲がると動坂上と白山上を結ぶ「イタダキ横丁」に繋がる道だが、ちょうど光源寺の裏手に位置するのが蓮光寺である。先の四軒寺町の4寺は神田(今の大手町あたり)が御用地化する際、慶安元年(1648)に移転を強いられここに来た。

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しかし同じ浄土宗でも蓮光寺は、浄心寺と同じ湯島嬬恋坂にあったのが、明暦の大火で被災してこちらに移転した形である。江戸は大火の時だけでなくいろんな時に大名屋敷や寺を移転させている。山門をくぐると六地蔵の前後に立派な石仏が並んでいる。上の写真のいちばん手前の大きな石仏は、舟型光背型の聖観音立像で、造立年は延宝7年(1679)11月。どうやら身分の高い人の墓石らしい。

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六地蔵の先には、笠付の聖観音像があり、それも宝永5年(1708)12月造立の立派なものだが女性の墓石のようだ。そして隣が板碑型の大きな庚申塔。日月が浮彫になっていて、中央には「奉庚申待為二世安樂」とあり、下部に三猿が彫られている。造立年は寛文8年(1668)9月と初期の庚申塔である。

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その左には右から地蔵菩薩、観音(種類は私には分からない)、聖観音が並ぶ。地蔵は貞享元年(1684)のもの。中央の観音像は万治4年(1661)、右の聖観音像は寛文9年(1669)である。江戸時代初期の石仏の岩質(石質)は極めて良いものが多い。ほぼ安山岩だが、江戸城の普請に際して、伊豆や真鶴から運ばれてきた通称「小松石」と呼ばれるものが大半を占めている。そのあまりが石仏に使われているケースが非常に多い。

場所  文京区向丘2丁目38-3

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2020年5月27日 (水)

光源寺の庚申塔(文京区向丘)

中山道の白山上と千駄木の団子坂を結ぶ道の中程、北側に光源寺がある。浄土宗の寺院で天昌山松翁院光源寺という。この寺で有名なのは金色に輝く駒込大観音。残念ながらこれは平成5年(1993)に再建されたもの。前の大観音は元禄10年(1697)に建立された高さ5mの十一面観音だったが、東京大空襲(1945年3月10日)で焼失してしまった。今回は下の写真の観音様はパス。

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光源寺は天正17年(1589)に神田に創建された。そして慶安元年(1648)に現在地に移転してきた。観音堂の千駄木側の一角は工事中だったがその中に巨大な庚申塔が立っていた。全高はなんと258㎝もある。アンドレ・ザ・ジャイアントよりも高い。

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この笠付の角柱型庚申塔は、文京区の指定有形民俗文化財。 造立年は明和9年(1772)9月と江戸時代中期になる。庚申信仰もやや落ち着いた時代である。青面金剛、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、台石にはびっしりと施主願主らの200人以上の名前が彫られている。明和9年は2月に目黒行人坂火事が起こり、夏には豪雨災害が起こって受難の年だった為、江戸の市民が復興を願って纏まったものではないだろうか。

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本堂の前に回ると、境内の脇に角柱型三猿の庚申塔がポツンと立っていた。造立年は貞享4年(1687)10月。三猿の上には「奉庚申 供養」と文字が入っている。初期型のシンプルなタイプで個人的には好きである。

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墓所に回り込み、観音堂の裏手に回り込むと上部が欠損して丸くなった庚申塔が立っていた。欠損の為もとの像形は不明だが、三猿は確認できる。また、正徳2年(1712)2月の造立年も文字が残っている。施主は「里見氏」とある。江戸時代、千駄木から駒込に向けての道は団子坂の菊人形で賑わったが、江戸の街からは少し外れた下駒込村という地域で、御用林があって狸ばやしの言い伝えも残るのどかな場所だった。今も多くの寺が残っていることで、気持ちのいい散策が出来る。

場所  文京区向丘2丁目38-22

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2020年5月26日 (火)

海蔵寺身禄行者の墓(文京区向丘)

今回はちょっと変わり種。庚申塔でも地蔵でもその他石仏でもない。日光街道から少し千駄木方面に路地裏を入った一角に海蔵寺がある。曹洞宗の寺院で天文年間(1532~1554)に現在の丸の内脇の和田蔵門内に創建。その後明暦年間(1655~1657)に文京区向丘に移転した。この寺院でもっとも有名なのが身禄行者の墓である。

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日本人なら誰でも知っている富士山。江戸時代の人々はこの山が噴火をしたのを経験している。上の写真は高尾山の奥、一丁平からの富士の眺め。左の裾の出っ張りが宝永火口で、1707年に山容を変える大噴火を起こした。300年前だが地学的にはつい今しがたの事である。噴火の前後関係なく、江戸時代には富士講が流行っていた。その富士講の中でもっとも有名な行者が食行身禄(身禄行者)である。伊勢の出身で、享保18年(1733)63歳の時に吉田口八合目の烏帽子岩で断食行を行いそのまま入定(にゅうじょう=密教で修業をしながらそのまま即身仏となること)した。

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現在も多くの富士講の遺産として、あちこちに富士が築かれている。身禄行者の墓も同じような溶岩でできた山になっている。海蔵寺のこの墓に眠るのは身禄行者の分骨らしい。 江戸で爆発的な流行を示した富士講、始まったのは戦国時代という。江戸時代中期には身禄行者や村上光清によって広がったが、村上が上層階級に支持されたのに対して、身禄行者は江戸の庶民に絶大な人気を誇ったという。

場所  文京区向丘2丁目25-11

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2020年5月25日 (月)

ほうろく地蔵と庚申塔(文京区向丘)

本郷追分で分かれた日光街道と中山道はしばらく並行して北上する。その間にあるのが曹洞宗の大円寺。創建は慶長2年(1597)で神田柳原(現在の秋葉原駅の南側)に出来たが、慶安2年(1649)に現在地に移った。この辺りで二つの街道が平行するのは地形が東西に細い半島地形であるためで、大円寺は日光街道から数十m、中山道からも数十mの場所にある。

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この寺はほうろく地蔵で有名。ほうろく地蔵は「八百屋於七」に因む地蔵尊で、天和2年(1682)に起きた天和の大火の後、火あぶりの刑になった於七の霊を供養する為に建立されたもの。享保4年(1719)に渡辺九兵衛という人が寄進している。於七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きの縁の浅い土鍋)を被り、自ら焦熱の苦しみを受けた地蔵菩薩と見立てたのだろう。その後は首から上の病気の治癒にご利益があると信仰を受けている。

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ほうろく地蔵には沢山の虹色に編み込まれたような千羽鶴が見事で、焙烙に見立てた素焼きの蓋のようなものが絵馬の役割を果たしている。昨今のコロナ渦でも多くの奉納があっただろう。このほうろく地蔵の前を守るように3基の庚申塔が立っている。

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向かって左には2基の庚申塔がある。大きい方は駒型で青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、造立年は天明4年(1784)8月のもの。「建立願主 白山前 住吉屋五郎佐衛門」とある。右側の小さい方は角柱型で、こちらも青面金剛、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。造立年は元文5年(1740)12月で、施主は当寺、金龍山大圓禅寺とある。

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右側を守るのはずっと古い角柱型の庚申塔。三面に一猿が描かれたもので、上部に梵字のキリーク。造立年は延宝3年(1675)とある。 この庚申塔のように江戸時代初期のものは興味深い。元禄時代から宝永年間以降は青面金剛像が殆どになるが、それ以前は地蔵有り、聖観音あり、文字塔ありと様々なタイプがある。

場所  文京区向丘1丁目11-3

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2020年5月24日 (日)

浄心寺の庚申塔(文京区向丘)

本郷追分以北の日光街道沿いには寺が多い。浄心寺もその一つだが、この寺は別の事で有名である。江戸時代初期、江戸の街の大半を焼いた明暦の大火で江戸は江戸城天守閣をも失い、死者10万人という説もある。火元については複数の説があるが、本所、小石川、麹町から同時発生的に起こったと言われる。浄心寺坂のページにも書いたが、円乗寺の前の坂なのに浄心寺坂というのはこの浄心寺という説もあるが、浄心寺の由来とは異なる。

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浄心寺は桜の美しい寺である。入口には巨大な布袋像があり驚かされるが、見るからにハリボテ風なのが悲しい。その脇には春日局が祈っていたという地蔵がある。春日局は三代将軍家光の乳母であるが実母ではない。この地蔵菩薩像も由緒がはっきりしない。

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本堂前には江戸時代初期の庚申塔がある。駒型で文字に三猿の図柄。造立年は寛文12年(1672)9月、地名などは書かれていないが、上部に種子があり、現世安穏、後世清浄の文字がある。浄心寺は元和2年(1612)に湯島の嬬恋坂付近に創建された。それが振袖火事で焼失し、本郷のこの地に移転してきたというのが浄心寺の説明書きであった。

場所  文京区向丘2丁目17-4

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2020年5月23日 (土)

根津神社の庚申塔(文京区根津)

根津神社は1900年余り昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が千駄木の地に創建したと伝えられる古社。文明年間(1469~1487)には太田道灌が社殿を築き、江戸時代になると五代将軍綱吉の時代に現在の地に遷座した。遷座以前ここは三代家光の長男綱重の別邸で、その長子である六代将軍家宣はここで産まれた。境内には家宣の胞衣塚(えなづか)が残っている。胞衣塚については近所の天祖神社のページに書いたので参照いただきたい。

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昨今は赤い鳥居がブームということで、重要文化財の楼門や本殿よりも境内の乙女稲荷神社の千本鳥居の方が人気があるようだ。そこに胞衣塚もあるのだが誰も見向きもしない。後ろの境内の西側は標高20mの台地だが、そこから一気に10m以上落ちた崖下が境内。千本鳥居はその中腹にある。千本鳥居の北側には固められて六面幢のようになった庚申塔群が立っている。

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境内側の正面から右回りに見てみると、まずは後から笠を載せられたと思われる、本来は舟型光背型の庚申塔。造立年は寛文8年(1668)10月で青面金剛像が大きい。文京区内の青面金剛像の庚申塔としては最も古いもの。青面金剛の下には中央に御幣を持つ一猿、その脇に二鶏が描かれている。写真の下になるが台座石に三猿が描かれていたが、おそらく別ものだろうと言われている。青面金剛の左には「武州豊嶋郡江戸駒込村」の銘がある。その右側の庚申塔は、青面金剛、邪鬼、三猿の駒型とみられる庚申塔で、造立年は宝永6年(1709)。こちらには「武州豊嶌郡駒込千駄木町施主」とある。

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裏に回り込むと、次は板碑型にサイズの異なる笠を無理やり載せた庚申塔がある。文字が薄いが「奉造立庚申供養一結衆二世成就攸」と書かれており、「都嶋凍馬米村」とあるが、これは豊嶋駒込村の意味。造立年は寛永9年(1632)初春とあり、文京区では最古の庚申塔である。その右側にあるのは、上部欠損で元の形は不明だが、青面金剛像と三猿の描かれた庚申塔。造立年は延宝8年(1680)6月。

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稲荷側を向いているのは元禄5年(1692)5月造立の、これこそ笠付角柱型の庚申塔で、笠が合っているのはこれだけのようだ。青面金剛像、邪鬼、二鶏の図柄で三猿はない。その右側のものは上部がかなり欠損しており、おそらく舟型光背型だろうとは思われるが違うかもしれない。描かれているのは聖観音菩薩立像で、その右に「〇〇待庚申供養」とあるので庚申塔とわかる。これら6基の庚申塔は昔は別々の場所にあったものをいつからかここに纏めたものだが、出処は不明である。

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庚申塔の後ろにある塞ノ神塔はずっと新しく、明治6年(1873)9月のもの。自然石で中央に大きく「塞大神」とあるが、これは駒込追分の路傍にあったものというが、駒込追分という地名は江戸時代から明治時代のもので、大正期辺りからは本郷区になったので本郷追分と呼ばれた。日光街道と中山道の分岐点でもあるこの歴史的な交差点には現在は名前はない。不思議である。明治42年(1910)に道路拡幅のためにここに移転を余儀なくされたというが、江戸時代北からの脅威を守るために、徳川が信頼している前田家の本郷屋敷を置き街道の監視をさせたという地だけに、力のありそうな塞ノ神である。

場所  文京区根津1丁目28-9

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2020年5月22日 (金)

東光院の石仏(大田区田園調布本町)

密蔵院の北、新幹線を挟んだ先にある緑屋根の本堂が東光院。有慶山東光院といい寺名はない。寺の脇には六郷用水を模した水辺の公園が緑道に沿って伸びているが、この道は青梅奥多摩の材木を筏に組んで下った山人が六郷で荷を引き渡した後、山奥に向かって70㎞程の道を徒歩で帰った街道である。普通に歩いて15時間だが、当時の人々は3日ほどかけてゆっくり筏道を上流に歩いたそうである。

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東光院の山門手前の炉端には地蔵堂がある。文化財の記録にはないので、おそらくは最近のものだろう。丸彫の大きな地蔵菩薩と、輪光背のある小さめの地蔵菩薩が納まっている。その先にある山門はなかなか風格のあるものだ。

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境内にはポツポツと石仏があるが、目に入ったのはこの繊細な彫りの石仏塔。舟型で、千手観音の座像が彫られている。造立年やその他詳細は不詳だが、おそらくは江戸時代中期のものと言われている。塔の上部には日月が、また台石には二鶏が描かれており、庚申信仰との関係もありそうだが、いまひとつそうだと言い切れるものがない。しかし私はこれも庚申塔だろうと思っている。

場所  大田区田園調布本町35-8

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2020年5月21日 (木)

密蔵院の庚申塔(大田区田園調布南)

東急多摩川線沼部駅の近く、新幹線と横須賀線の線路の南側に密蔵院がある。明楽山密蔵院といい寺号はない。創建年代は不詳だが、古くから庚申塔が多くあり、沼部の庚申として知られていたという。安政3年(1856)に大暴風雨があり堂宇が倒壊し、庚申塔群は本堂に移された。明治16年(1883)には多摩川の砂利採掘の監督の夢枕にたびたび青面金剛が立って、衆生救済のために世に出たいと訴え、この監督の病気を治したという。それがもとで人々は庚申様の御利益を信じて、明治40年(1907)には立派な庚申堂ができたという。

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この密蔵院の建っている場所は、門前が六郷用水の流れ、その200m先は現在の多摩川の土手だが、境内の後ろはいきなり10mほどの段丘になっている。そのため門前の多摩堤通りは線路の下をくぐり、裏の道は横須賀線と新幹線を高架で跨いでいる。境内に入ってすぐ右手の観音堂の脇に庚申塔が並んでいる。

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一番目立つのは極めて大きな舟型の庚申塔だが、これは新しいもの。昭和55年(1980)9月に檀家で建てたものである。石質が気になるが、これが200年くらい経ったらどれくらい形を留めているだろうかと思う。現代のものなので、調度品のように細かい造りになっている。青面金剛、二邪鬼、三猿、童子が彫られているが、あまりに現代的過ぎて全く魅力を感じないのは何故だろう。

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近くにあるのは板状駒型で青面金剛と三猿のシンプルな庚申塔。造立年は宝永6年(1709)11月で、これは既に300年を超えている。昭和44年の大田区の資料にはないので、どこかから移管されたものかもしれないと思って調べてみると、以前は現在の田園調布警察前の交差点の辺りにあったものらしく、中原街道の拡幅工事でこちらに移されたものであった。

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近くにある上の庚申塔も同じく田園調布警察前から移されたもので、中原街道が狭く、環八もない頃には、そこの辻に堂宇がありこの2体の庚申塔が祀られていたのである。こちらの庚申塔は、青面金剛、三猿の図柄だが、こちらには日月の陽刻がくっきりと描かれている。造立年は正徳3年(1713)9月で、「武刕山谷鵜木村」の銘がある。一番右には天明姓が3人並んでいるのが鵜の木らしい。

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ひときわ大きな舟型の聖観音菩薩像が庚申塔の間に立っているが、これも庚申塔である。大田区では聖観音像タイプはこれだけらしい。造立年は寛文3年(1663)12月と古く、沼辺村の銘がある。右側に「新奉造立供養意趣者庚申待台塔八人現當二世安樂処」とあり、沼辺村の8人が建立したもの。江戸時代初期のものはこのように青面金剛でないものも多い。

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そして、珍しい一猿のみの舟型庚申塔。年代は延宝2年(1674)10月である。一猿像の上には「庚申供養現當二世也」とある。よく二世とあるのは、この世とあの世という意味で、現世もあの世も幸せでありたいという願望を表している。この造立メンバーに小泉傳右衛門と小泉平左衛門という名があるが、この前を流れていた六郷用水は江戸時代はこのあたりでも小泉次太夫が開削したために次太夫堀と呼ばれていた。その小泉次太夫との関係があるのかもしれない。

密蔵院にはこれ以外にも庚申塔(地蔵)や馬頭観音があるようなので、また再訪しなければならない。

場所  大田区田園調布南24-18

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2020年5月20日 (水)

武蔵新田商店街の庚申堂(大田区矢口)

武蔵新田駅から南に延びるいささか寂れた商店街はかつての鎌倉街道。途中に新田神社もあり、その先十寄(じゅっき)神社で鎌倉街道は緩やかに東にカーブして古市場村へ、そして矢口の渡しに出る。こういう何百年も人々の営みが続いた街が寂れるのは残念でならない。その商店街の一番南にあるのが希望門というアーチで、その下に古い堂宇がある。商店街が昭和26年(1951)に出来たので約70年、新田神社は650年、庚申塔と供養塔は300年前後だから、言葉通り何百年も人通りの絶えない場所だったのである。

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堂宇にあるのは、左の駒型庚申塔。これは元文5年(1740)10月の造立で、青面金剛像、三猿、二鶏の図柄である。「六江領矢口村」とあるが、これは六郷領であろう。「郷」の字は石工泣かせなので「江」としただけの事で間違ったわけではない。右側は念仏供養塔(舟型)で、造立年はさらに古く延宝6年(1678)8月。阿弥陀如来立像が彫られており、「奉造立念佛供養同行18人」とある。

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この少し南に十寄神社があるのだが、ここで祀られている新田義興は矢口の渡しで非業の死を遂げた。義興は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の次男で、足利家とのせめぎ合いをしていたが、初代鎌倉公方である足利基氏と関東管領の畠山国清の謀略で、多摩川を渡る舟を沈められ最期を遂げた話が『太平記』に生々しく記されている。新田義興の遺体は新田神社の奥にある御塚(おづか)に葬られていると言われ、立ち入ると祟りがあると信じられている。江戸時代に平賀源内がここの竹で矢を造ったのが「破魔矢」の始まりだというのも興味深い。

場所  大田区矢口2丁目10-5

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2020年5月19日 (火)

花光院の石仏(大田区矢口)

大田区矢口には寺社が多い。南から、圓應寺、延命寺、十寄神社、今泉神社、花光院、氷川神社、新田神社、とひとつの町内にこれだけあるのはやはり新田義貞、新田義興と鎌倉街道の影響であろう。花光院は最も新田神社に近い寺院だが、新田神社前の鎌倉街道より西には寺社はない。実は新田神社の裏から西側は昔の多摩川の流路だったのである。下丸子の光明寺池もその名残で、緩やかにカーブをして圓應寺の西を流れていた。とはいえ江戸時代にはもうそこは多摩川ではなく湿地帯になっていたようだ。

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花光院は福田山花光院蓮花寺でもとは今泉村の寺院だが、矢口村との境にあった上に、明治22年(1889)には今泉村が矢口村に統合されてしまったので、矢口村の石仏が多い。上の写真の左端の丸彫地蔵菩薩立像は文化14年(1817)11月造立のもの。その横に並ぶ六地蔵も文化年間(1804~1818)の建立で矢口村の施主のようである。

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右端にある舟型の地蔵菩薩像は廻国供養塔で、宝永7年(1757)11月の造立。地蔵菩薩の右側には「奉納大乗妙典廻国供養 武刕六郷矢口村」とある。これも矢口村である。『新編武蔵風土記稿』でも今泉村の北西にある寺院と書いているので、なぜこのように矢口村の石仏が多いのか考えてみた。明治維新の頃の村の規模は、今泉村が34戸(193人)に対して矢口村は71戸(367人)と倍である。しかし当時の矢口村には寺がほとんどなく、その為に村境の花光院が矢口村にとって重要な寺院だったのではないかと考えたが、おそらく外れてはいないだろう。

場所  大田区矢口2丁目3-12

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2020年5月18日 (月)

今泉北向庚申(大田区矢口)

延命寺の西、新田神社から矢口の渡しに出る街道と延命寺との間の辻に立つのが今泉北向庚申。新田神社辺りは矢口村、南の圓應寺辺りは古市場村、その間に挟まれていたこの辺りが今泉村であった。江戸時代の村は小字レベルのものが多く、今泉村も江戸時代末期で34戸(193人)の村だった。当時の江戸の農村は平均6人家族くらいだったから、今泉村も典型的な街道近くの農村だったはずである。

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昔の場所もここだったのかどうかは分からない。というのは写真の堂宇左の道は江戸時代から村の中の道としてあったのだが、ここが辻だったかどうかは不明。しかしこの周辺は田んぼではなく民家が固まっていたことは分かっている。道筋だけは関東大震災後に耕地整理をされてしまいそれまでの道が分からなくなっている。ただ、ここに北向庚申があるということは、ここが矢口村と今泉村の境だったとも考えられる。

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堂内の庚申塔は戦災による傷みが激しい。表面が剥離しているのは戦火によるものだという。駒型で造立年は文化5年(1808)12月。青面金剛・邪鬼・三猿の図柄。庚申塔の文字は読めないが、親切に脇に掛けた板に書かれている。近くに十寄(とよせ)神社があり、延文3年(1358)に矢口の渡しで非業の死を遂げた新田義貞の次男、新田義興一行の霊を祀っている。

場所  大田区矢口2丁目24-11

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2020年5月17日 (日)

延命寺の庚申石仏(大田区矢口)

延命寺も古い寺院である。江戸時代の今泉村の中心地。かつての鎌倉街道は東京23区内に数本、南北に通っていた。江戸は閑村で単なる通過点で、江戸に目的地はほとんどなかったからである。諸説あるが、東京23区内の鎌倉街道は主に、中道(なかつみち)・下道(しもつみち)がいくつかに分岐して走っていた。上道(かみつみち)は当時の国府があった府中を経由している。もっとも海岸近くが下道である。千葉の下総国府から浅草あたりを通り、古代東海道として相模に繋がっていた道で、大田区辺りは何本かのルートがあった。その支線が新田神社のあるこのあたりを通り矢口の渡しに出たのだろう。

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境内に入ってまず目に飛び込んでくるのは巨大な無縁仏塔。コンクリートで固めることに対しての是非はあるが、これも現代の限られた敷地の中での一つの形だろう。ほぼ墓石だが、古そうなものが多い。延命寺は弘安年間(1278~1298)の創建(当初の名前は蓮花寺)で、後の安土桃山時代に中興し延命寺と改めた。かつて延命地蔵があり、南北朝時代の延文年間(1356~1361)に落雷で蓮花寺は焼失、これが新田義貞・義興の祟りとされて恐れられ、後に延命寺として再興した。

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無縁仏塔の裏手にひっそりと庚申塔がある。駒型の庚申塔で、青面金剛像に邪鬼と二鶏、そして三猿が土に大半埋もれてしまっている。造立年は不詳。『新編武蔵風土記』の記述に「古碑二、境内にあり、一は延文2年(1357)10月と刻し、一は応永18年(1411)と刻す」とあるようだが、この古碑はどこにあるのか分からない。もしかしたら秘仏として納められているのだろうか。延文年間は南北朝(吉野)時代、応永年間は室町時代初期である。新田義貞が鎌倉幕府を滅亡に導いた時代のものなので、あればぜひ見てみたいものである。

場所  大田区矢口2丁目26-17

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2020年5月16日 (土)

圓應寺の庚申塔(大田区矢口)

かつて多摩川には橋がなく、渡し場が一定間隔であった。河口から少し並べると、まず羽田の渡し(現在の首都高横羽線あたり)、六郷の渡し(第一京浜六郷橋)、その少し上流に小向の渡し、矢口の渡し、平間の渡し、丸子の渡しとなる。矢口の渡しは鎌倉街道時代からの渡しで歴史が古い。矢口の渡し付近は江戸時代まで多摩川が大きく湾曲して三日月湖などを形成していた地域である。それだけに古市場村は歴史ある集落である。

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古市場村は現在は大田区矢口3丁目にあたるが、多摩川が暴れ川でたびたび流れを変えていたので、神奈川県側も江戸時代は古市場村であった。そのため、現在も対岸の川崎市の住居表示は「東古市場」である。そういう場所なので圓應寺の歴史も古い。開山は不明だが、寺が保存している板碑は永仁2年(1294)のものらしいから、鎌倉幕府衰退期で吉田兼好の徒然草が書かれたり、鎌倉の円覚寺が開山したころに出来たと思われる。

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境内には新しいものだが十三仏が並べられ、それぞれの特徴が学べる。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来(金剛界)、大日如来(胎蔵界)、虚空蔵菩薩が並んでいる。菩薩と如来の違いは、菩薩は菩提薩埵(ぼだいさった)の略で悟りを求め修行している人をいい、如来は真如来生の略で悟りを開いた後の姿と言われる。

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十三仏に背を向けて本堂脇を墓所に向かうと入口に古い板碑型の庚申塔が立っている。寛文12年(1672)3月造立のもので、青面金剛像の庚申塔としては大田区で最古らしい。青面金剛像、三猿、二鶏の図柄で、これ以降の時代の典型パターンのひとつになるものである。大きさは156㎝もあり、「武城陽荏原郡六郷荘古市場」とある。荘という地名が江戸時代以前からの時代の流れを感じさせる。この庚申塔は古市場村の人々が建てたものだが、もとは現在の第2京浜(国道1号)の矢口3丁目交差点辺りにあったもの。国道の拡幅工事に際して移管されたのだろう。

場所  大田区矢口3丁目21-15

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2020年5月15日 (金)

民家裏墓所の石仏庚申(大田区多摩川)

詳細の情報なしにこの場所を見つけるのは至難である。場所があっているかの不安と、不審者と思われて通報されないかの不安を抱きながら訪問した。場所は東急多摩川線矢口渡駅の南約600mの民家と会社社屋の間。場所としては、アウディサービスセンターの裏のどこの道にも接していない土地である。道路の向かいは広い社用駐車場になっていて、その向かいのマンション敷地のような間を入っていく。

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通路を歩いていくと、マンションの1階のリビングの窓の前を歩くことになるが、奥まで行くと突然墓所になる。なぜここに墓所が残っているのかについてはまだ情報を得ていない。25m程入っていくと、正面に荒れ果てた墓地があり、マンション奥の木造家屋の先を右へ曲がり、さらに右へ曲がると完全に鍵型のどん詰まり。そこには素晴らしい石仏石塔が並んでいた。

5基の石仏があるが、一番手前(左)は高さ122㎝の舟型庚申塔。青面金剛像に邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。造立年は延宝8年(1680)10月、施主は6名の名が刻まれ、そのうち4名が塩沢姓である。となりの笠付の石塔は墓石で宝暦2年(1752)、明和3年(1766)、天明2年(1782)の命日が書かれている。中央の小さな舟型の如意輪観音像は天和3年(1683)のもの。

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右から2番目の舟型の大きな石像は念仏供養塔で、聖観音立像である。承応3年(1654)10月の造立で、武刕荏原郡六郷内原村の銘がある。「内原村」ではなく「六郷の内の原村」である。原村はほぼ現在の大田区多摩川あたり、矢口渡駅の南側にあった30戸余りの村である。一番右の角柱型の塔は上部が折れているが、これは西国坂東秩父百番順礼成就の供養塔で、六江(六郷)之内原村5名、道塚村4名とある。享保9年(1724)のものである。

民家に囲まれた墓地は閉鎖されていることが多く、殆ど立ち入れないのだが、ここは素晴らしい石仏が多くあり、一見の価値がある。この場所の古い地図を調べたのだが、この一角は江戸時代末期は梅林だったようだ。原村の大半がこの辺りに住んでいたので、その時代の集落の墓所が今も残っているのだろう。東京23区内の知られない特別な空間である。

場所  大田区多摩川2丁目28-9

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2020年5月14日 (木)

大楽寺の庚申と石仏(大田区新蒲田)

大田区新蒲田の大楽寺は蒲田不動尊でも有名である。玉川八十八ヶ所霊場67番で東海三十三観音霊場12番でもある。寺の建立は諸説あるが、天応3年(1319)と伝えられ、金剛法山大楽寺で院号はない。しかし立派な寺院である。どうも徳川家との関係が深く江戸時代には随分と栄えていたようだ。それは道路からすぐの山門からもよく分かる。

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なかなか市井の寺院にこれだけの山門(楼門)は見かけない。楼門をくぐると正面に本堂があり、左手に蒲田不動尊の高いお堂がある。しかしこの蒲田不動尊は1994年の建立で平成生まれの新しいものである。本堂の右手を進むと無縁仏塔に始まり、なかなか魅力的な石仏が並んでいる。

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その中でも見事な石仏のひとつが庚申塔。貞享4年(1687)造立の駒型庚申塔で、青面金剛像に三猿、その間に二鶏が描かれている。道塚村の銘があり、同行12人とあるので、村の半分が参加したことになる。この庚申塔をじっと眺めていると、通りかかった住職(おそらく大僧正)から声をかけらた。昭和44年の大田区の編纂した資料を基に石仏を巡っていると話すと、当時区から調査をしたいので情報をくれとせっつかれたのを覚えていると仰っていた。「だから台石と石仏が入れ替わったりしてもそのまま資料として区の方に提出したところも多いから、変なのもあるでしょう」とおっしゃる。なるほど50年も前でも役所仕事というのはそういうものだったのかと、手持ちの資料の信用度を疑った方が良いかもしれないと思った次第である。

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上の写真の真ん中が庚申塔、右側は六面塔(六面幢)である。左端にあるのはひときわ大きな阿弥陀如来像で、俗にいぼとり地蔵と呼ばれる。たまにいぼとり地蔵というものがあるが、ここの地蔵はイボを取りたいときに小石を供え、その小石でイボをこするとイボが取れると信じられていた。御礼には豆をお供えするそうである。

このいぼとり地蔵の台石には蓮葉が描かれているが、この阿弥陀如来像の台石には「奉造立石佛一体庚申供養 同行拾三人 道塚村」とも書かれている。住職の話ではどうもこの台石が怪しいとのこと。台石にある造立年は寛文9年(1669)2月なので、まだ青面金剛像が主流ではない時代で、いろいろなタイプの庚申塔が各地で造られたころである。真実は分からない。

場所  大田区新蒲田3丁目4-12

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2020年5月13日 (水)

金剛院の庚申と石仏(大田区新蒲田)

大田区新蒲田辺りは江戸時代「道塚村」であった。この辺りを総称して六郷というが、この六郷とは「八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色」の6村があったと伝えられそこから六郷と呼ばれた。明治になって六郷の地名が復活した形だが、用水路の名前にあるように六郷というのは江戸時代以前からの地名である。道塚村は明治になってから矢口村と六郷村に分断された形になっていたが、戦前の人の動きというものは概ね小字範囲だったので、道塚の地名も残り、現在では道塚小学校の名に残る。

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金剛院は真言宗円日山金剛院で寺名はない。創建は不明とされているが、慶長年間(1596~1615)には庵があったという。本堂に向かって進むと左側が墓所になっている。本堂手前に堂宇があり、北向地蔵尊が祀られている。昭和初期まではこの北向地蔵の縁日が毎月行われていたが、戦後は無くなってしまった。

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本堂の左手を回り込み裏の駐車場の手前に庚申塔が並んでいる。青面金剛などではないので庚申塔とは気づかないが、上の写真の左2基は庚申塔である。左の舟型の阿弥陀如来像の右には「奉造立石佛一体為庚申供養二世安樂」とあり、左側には「小林村同行9人」とある。造立年は寛文12年(1672)3月と庚申信仰初期のもの。中央の首なし石仏も本来は同様の阿弥陀如来立像の舟型庚申塔だったが戦災で首や表面が欠損してしまった。造立年は天和2年(1682)11月で、「小林村 安方村 同行10人施主」とある。台石にはうっすらと三猿が残っている。右の角柱は「法界塔」と書かれている題目塔・供養塔の一種である。

場所  大田区新蒲田2丁目3-6

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2020年5月12日 (火)

遍照院の庚申と石仏(大田区多摩川)

遍照院(へんじょういん)は真言宗の寺院、光明山無量寺。寺の名前は〇〇山△△院̻▢▢寺というのが正式名というケースが多い。多くは▢▢寺というが、遍照院のように△△院で呼ばれる寺もある。有名なのは伝通院、徳川家康の母於大の方に因む寺院である。現在は環八に面しているが、環八の敷地ももとは遍照院の敷地でもっと広かった。裏の道は六郷用水の筋である。

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本堂の左手に墓所への入口があり、そこに見事な庚申塔と石仏が並んでいる。左から、庚申塔、廻国供養塔、庚申塔、念仏供養塔、庚申塔の順に並ぶ。遍照院の隣には安方神社があり、遍照院はその別当寺である。安方神社は明治22年(1889)まであった安方村の鎮守である。この辺りは安方村と小林村であったが、明治初期でも安方村の戸数は24戸、小林村が29戸と極めて小さな村だった。現在は当時の100倍の人が住んでいる。

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一番左から、駒型の庚申塔で青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は文化5年(1808)1月で、この並びではもっとも新しいもの。安方村講中11人の銘がある。その右にあるのは六十六部廻国供養塔。造立年は正徳4年(1714)10月で上円の角柱型。「武刕荏原郡六郷之内 小林村石渡氏蓮中道阿」とある。六十六部とは、法華経の六十六部を書写して日本66か国を廻って各地の霊場に奉納する修行で、行者は厨子を背負い、鉦(カネ)をたたき、鈴を鳴らして、各家の門に立って金や米などの喜捨を受けて行脚したもの。私の子供の頃にはまだたまに見られた。

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大きな3基の石仏は、左が駒型の庚申塔。高さが118㎝ある立派なもので、造立年は延宝8年(1680)11月と古い。青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄で、正面右には「奉造立庚申供養為二世安樂」とあり、左には「武刕荏原郡六郷保内 安方村同行9人」とある。中央は念仏講の供養塔で、板碑型。造立年は承応3年(1654)9月、安方村、小林村の両方の銘がある。右の庚申塔は青面金剛ではなく阿弥陀如来立像のもの。造立年は延宝8年(1680)10月で、小林村、安方村の刑9人によるもの。

遍照院は創建年代不詳なるも、江戸時代後半の可能性が高い。これらの庚申塔、供養塔は2村に散らばっていたものをここに集めたと伝えられている。

場所  大田区多摩川1丁目5-14

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2020年5月11日 (月)

ぬめり坂の庚申塔(大田区南久が原)

この庚申塔は坂道シリーズの「ぬめり坂」のところでも紹介している。 ぬめり坂は呑川低地から久が原台を越えて多摩川低地に下ってくる坂道である。そしてこの道はかつての鎌倉街道のひとつ下道でもある。昔は池上道と呼ばれていた街道。多摩川低地に下ったのちは平間の渡しで多摩川を渡っていた広域街道である。鵜の木八幡神社前の古道がこの鎌倉街道に合流するところにぬめり坂の庚申が立っている。

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上野写真の右側の道が鎌倉街道下道のぬめり坂である。環八のある辺りは昔の六郷用水の筋で標高は7m程、ぬめり坂の坂上は15mあるので久が原台は多摩川低地よりも8m程高い。ぬめり坂の庚申塔は標高11.5mなので丁度真ん中あたりになる。江戸時代は南西面の斜面に茶畑が広がっていた。

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ハイカラな堂宇に納まった駒型の庚申塔は、青面金剛像に三猿の図柄。青面右寄りには「奉造立庚申供養為二世安楽」とあり、左寄りには年代と「武城南荏原郡六郷庄鵜木村」とある。造立年は延宝5年(1677)12月と駒型の中では古い方ではないだろうか。ここは古道と古道の合流点なので、庚申塔や石仏があって当然の場所である。古い地図を見て、ここの辻にはありそうだと推理し、その近くに今もあると喜びが増す。

場所  大田区南久が原2丁目29-11

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2020年5月10日 (日)

おしゃもじ様(大田区南久が原)

鵜の木八幡神社の前の道は古くからある道で、中原街道が呑川を渡る石川台で中原街道と分岐して南へ伸び、下丸子で青梅との往還である筏道に接続する。この道を鵜の木八幡から南へ100m程進むと、大きなカヤの樹があり、その根元に堂宇がある。堂宇の中は広いが、中央に石塔が一基立っている。土地では「おしゃもじさま」と呼んでいる。

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大田区によると、道路の悪魔を防いで道行く人を護る神様で一般的な部類としては道祖神だという。石塔の前には沢山の杓文字が納められている。しかし、おしゃもじさまという民俗神は一般的には、ご飯をよそう杓文字を神格化したもので、口を守る神様とされる。 発展して咳や咽喉の病気や風邪から人を守ると信じられることが多い。供えてある杓文字を持ち帰り、患部をなでたり、その杓文字でご飯を継いだりすると病気が治るというものである。

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石塔の前面には「道郷食社詞」とあり、左右に年号がある。享保12年(1727)12月の造立で、明治4年(1871)10月に再建とある。ずいぶん昔からある民俗神である。狛江にあるおしゃもじ様は、百日咳に霊験あらたかと言われる。大田区のこのおしゃもじ様も狛江のおしゃもじ様も、治癒したら新しい杓文字を加えて、二つの杓文字を奉納するというしきたりのようである。

場所  大田区南久が原2丁目26-20

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2020年5月 9日 (土)

鵜の木八幡の庚申塔(大田区南久が原)

鵜の木八幡神社は鵜の木ではなく南久が原にある。江戸時代の地図を見ると久が原村側に入っているように見えるが、明治時代初頭の地図では鵜の木村になっている。嶺村の飛地も含めて、この近辺の昔の村境の判別は難しい。鵜の木八幡神社は天明伊賀守光信の子五郎右衛門光虎が延徳元年(1489)に創建したとなっている。この天明家は鵜の木の豪邸で現在も残っている。旧鵜の木村の大地主らしい。

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鵜の木神社の北西角に堂宇があり、二基の庚申塔が祀られている。ブロック塀とトタン屋根の質素な堂宇である。隣には稲荷も祀られている。八幡も稲荷も庚申も庶民に親しまれたもので、それらが集まっているのは何とも微笑ましい。宗教の争いのない日本という国を表しているようである。現在は環八通りで分からなくなっているが、この通りの1本西の筋には六郷用水が流れていた。六郷用水よりも鵜の木八幡の境内は8m程高く建物が低かったころは境内からの眺めが良かったはずである。ここは武蔵野台地の末端である久が原台と多摩川低地の間の崖の上になるからである。

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堂宇内二基の庚申塔の左側は駒型、青面金剛像、三猿、二鶏の図柄で日月の陽刻もくっきりと出ているもの。造立年は享保5年(1720)、「武刕荏原郡六江領鵜木村」「庚申青面金剛 道中」と彫られている。いっぽう右側の小さい方の駒型庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれており、明和5年(1768)2月の造立である。

場所  大田区南久が原2丁目24-1

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2020年5月 8日 (金)

嶺東向庚申(大田区東嶺町)

嶺の四庚申の最後は東向庚申。他の3庚申と違う点は、東向庚申だけが寺社境内にあるということ。東向庚申があるのは嶺白山神社の境内で、環状八号線を背にして東向きの堂宇に祀られている。まず思ったのは、環状八号線のこの辺りは最後に拡幅されたエリアだから、その前は違う場所にあったのではないかということ。しかし環八開通以前の地図を見ると、ほぼ同じ筋に南北の道と東西の道があり、一番角に石塔のマークがある。境内内で場所は動いているだろうが、基本昔から白山神社の境内にあったということになる。

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嶺白山神社は寛文年間(1661~1672)の創建。当初は女体権神社と称した。明治の初めに嶺白山神社と改名している。女体神社というもの、全国に約30柱ほど、北は栃木県から南は鹿児島県まで広いエリアにあるようだ。多摩川河口域には川崎側にいくつかあり、東京側はこの嶺白山神社のみ。江戸時代から江戸周辺にはここが唯一の女体神社だったということになる。しかし共通の祭神があるわけではないので、不思議な神社である。

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境内には力石などが置かれており、最近リメイクされた感がある。庚申塔の堂宇もしっかりしたもので、嶺の四庚申の中では最も豪華。黒御影石で庚申塔の由来などが書かれている。「庚申信仰は、江戸時代に民間信仰として栄え、庚申供養塔は、その象徴として村の厄災を防ぐために建てられたという。当地(旧嶺村 末廣 相生)の住民が庚申塔を建立した。 地域の人々のくらしの無事を祈る風習が現在も続いている。」とある。今もまだ庚申講は続いているのだろう。

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庚申塔は駒型、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄で、下部に願主名があり、「武刕峯村」の銘がある。造立年はその脇にあり、正徳3年(1713)11月である。この庚申塔は嶺村と雪谷村の村境に置かれたものと史料には書かれていたが、四庚申廻ってこの東向庚申は久が原村の村境、最初の南向庚申が雪ヶ谷村の村境ではないかと考えるようになった。昔の嶺村は飛地があったりして時代によって境界が違うのでどうも紛らわしい。

場所  大田区東嶺町31-1

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2020年5月 7日 (木)

嶺北向庚申(大田区鵜の木)

嶺の西向庚申からしばらく六郷用水沿いに下ると、道は左にカーブして上り坂になる。そのまま坂を上っていくと左に墓苑がある。西嶺浄苑という墓苑である。東半分は観蔵院の墓所だが、西半分は民間業者の墓所で、墓の並びが異なる。私は寺の境内の墓を購入したが、心のどこかに仏(仏教)への信頼(信心)があったのかもしれない。この上り坂は実は多摩川の河岸段丘なのだが、この先で環八に向かってなぜか下っている。その先は今度は再び上りになって荏原台地になる。歩き回って気づいたのは、この細長い丘は多摩川の自然堤防に違いないということだった。この自然堤防の突端は光明寺である。

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その墓所の向かい、自然堤防の頂上にあるのが嶺北向庚申。大きなマンションの敷地の角にあり、墓苑前からみるとコンクリートの壁でそこに「庚申塔 嶺北向庚申様」と御影石に書かれている。急な階段を上ると2つの堂宇があった。境内と言ってもいいくらい広い敷地である。左手前に無造作に置かれている手水鉢には「奉納」とあり明治37年(1904)7月と刻んである。

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庚申塔は駒型で、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。造立年は享保7年(1722)10月とあるので約300年前のもの。「武州荏原郡六江領ノ内峯邑」とあり、峯邑は嶺村である。手前には三猿のみの角柱型の庚申塔があるが、どうもこれは新しいもののようで、上部の削り方も鑿(のみ)ではなく機械的な痕跡が残っている。

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右の小さい方の堂宇には、左の庚申と恵右の手前にあった三猿とほぼ同じものが祀られている。これも見るからに新しい感じがする。天の削りもおそらく機械によるものだろう。しかし、嶺村では昭和の末期まで持ち回りの庚申講が行われていたというから、決してまがい物ではない。

場所  大田区鵜の木1丁目2-18

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2020年5月 6日 (水)

嶺西向庚申(大田区西嶺町)

嶺の四庚申の二番目は西向庚申。当時この庚申塔よりも西側にあったのは下沼部村。ここには六郷用水が流れていた。現在も人口の流れが造られている。嶺村では昭和中期でもまだ盛んに庚申講が行われていたという。昔は年6回、60日ごとにやってくる庚申の日に行っていたが、昭和になってからは春秋の年2回になったらしい。嶺村の庚申講は輪番制で、米2号と菜代としての金を集め、庚申の晩に持ち回りで決まっているホストの家にみんなで集合して庚申様の掛け軸を掛けてお祈りをするもの。

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集合時間は暗くなってから、一風呂浴びて身を清め、掛け軸の庚申様を拝んだのちに食卓へ。世間話に花を咲かせて夜まで村の交流を行うのが江戸後期から昭和までに共通する。江戸時代は三尸の話を本当に信じていたのか朝まで飲み騒ぎしていたが、時代と共に夜半から午後10時くらいまでと短くなっていった。嶺村では不幸があった家とお産があった家はその回の庚申は欠席することになっていた。

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堂宇に祀られているのは駒型の庚申塔。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄だが、三猿の並びが偏っていて珍しい。この庚申塔の造立年は不詳だが、庚申塔の図柄やタイプ、嶺の四庚申の中での関係を考慮するとおそらく宝永・正徳・享保年間あたり、1700年~1720年の間のものであろう。 庚申塔、六郷用水の流れ、河岸段丘、それらが江戸時代から明治にかけての農村風景を想起させてくれる。

場所  大田区西嶺町26-12

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2020年5月 5日 (火)

嶺南向庚申(大田区東嶺町)

大田区の時代を遡ると、東京35区から23区に変わった昭和22年(1947)までは大森区と蒲田区だった。市区町村制になった明治22年(1889)~昭和7年(1932)は9町村、それ以前の江戸時代後期から明治初期は44の村によって構成されていた。その44村のひとつに嶺村という村があり、明治初期の人口が700人。これは明治大正期の調布村(今の田園調布)の中でも最も人口の多い地域だった。そして東京では極めて稀な東西南北の塞ノ神が残っている地域として特筆される。

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北向は鵜の木村境、南向は久原村境、東向は雪谷村境、西向が沼部村境だが、写真は南向庚申で久原村境にあったものである。堂宇は新調されきれいなものになっている。江戸時代、村境には外から悪疫や悪霊が侵入しないように塞ノ神としての庚申塔を立てる風習があった。都内では世田谷区の代田村にその一部があるが、4方向きちんと残っているのは本当に珍しい。

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駒型庚申塔の造立年は元禄13年(1700)11月。青面金剛像、三猿、二鶏の図柄で、施主は嶺村として9名の名があるが、内6人が鈴木姓である。石川町辺りの石仏を見ても鈴木姓が多い。大田区内でも鈴木姓は全国1位の佐藤姓を大きく引き離して1位である。

嶺の四庚申と呼ばれるうちのひとつだが、疑問もある。庚申塔はどっち向きに立っているかという点だ。この南向庚申は確かに南向きに立つが、嶺村の内側に向いている。北向庚申は嶺村の内を向いていて北向、西向は今度は嶺村の外を向いており、東向も外を向いている。なぜ、南向、北向が内向きで、東向、西向が外向きなのか、現地を回りながら考え込んだ。答えはまだ見つかっていない。

場所  大田区東嶺町42-1

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2020年5月 4日 (月)

東稲荷の庚申塔(大田区田園調布)

田園調布は渋沢栄一の構想をもとに五島慶太が開発した大正時代の街である。開発をサポートしたのが小林一三で、日本の経済の礎を担った人物が絡んでいる。しかしそれとて所詮100年ばかりの歴史であり、大正以前に調布村という名の農村だった田園調布の歴史はずっと古い。地学的には多摩川の河岸段丘である国分寺崖線の南端が田園調布である。現在は中原街道から1丁目、2丁目となり、田園調布駅西の高級住宅街は3丁目、国分寺崖線の縁が4丁目で、崖を下ると5丁目という住居表示割になっているが、昭和中期までは沼部辺りまでが1丁目、現在の1丁目が2丁目でその先は4丁目までしかなかったようだ。だから昭和の文献を読むときは注意が必要である。

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そんな田園調布の東南の端には田園調布警察署があるが、目の前の環八が通ったのは昭和の末期の事、それ以前の大きな道は中原街道だけで、現在の警察署のところには消防署があった。現在とはまったく異なる町割と景色があったのだが、そんな警察の裏手に小さな東稲荷神社があり、その境内の入口に庚申堂がある。元の位置は昭和の住所で田園調布3丁目42で、そこからここに移設したらしいが、元の場所の特定ができない。おそらく中原街道の辻に立っていたのだろう。

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庚申塔は角柱型で彫りの見事なもの。造立年は文化10年(1813)1月とあるので、江戸時代後期である。青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏がきれいに描かれている。世話人は、下沼部村、等々力村、鵜木山谷とあるので比較的広域だけに、やはり元の場所は中原街道と南北に交差し北へ向かうと二子道にでる村の主要道の辻に立っていたと考えるのが自然である。台石には、右面:丸子はしみち、正面:九ほんふつみち、左面:にったいけカミ、とあることからもそう確信した。

場所  大田区田園調布1丁目1-26

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2020年5月 3日 (日)

智清寺の石仏・庚申(板橋区大和町)

国道17号線(中山道)と環七の交差点の立体交差は現在は「中山道陸橋」と書かれているが、以前は「大和町」という交差点名で通っていた。地下鉄の板橋本町駅が真下にあるので、板橋本町の方が知られているかもしれない。その大和町交差点の少し南南西にあるのが智清寺という寺院である。大和町という住居表示は概ね南の石神井川に向かって緩やかに下る土地。智清寺はそんな大和町の中心にある。

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山門をくぐるとすぐに石橋がある。この石橋は古いもので、正徳4年(1714)に、江戸時代から大正時代にかけて使われた中用水に架けられていたものである。中用水は農業用水として石神井川の水を取水し、板橋と下流の上十条村以下七カ村との間で水利権の争いが起こり、板橋の村民が明治5年に智清寺に立てこもりをしたという記録がある。この石橋は現在は板橋区の登録文化財になっている。

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石橋を渡り左を見ると庚申塔と六地蔵が並んでいる。庚申塔は唐破風笠付角柱型のもので、元禄3年(1690)の造立。青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。その右に並ぶのが3基の六地蔵。一石に二体ずつで、右は元文5年(1740)4月、左は宝暦3年(1753)1月の造立だが、中央だけは年数のところが欠損していてどうも元文6年(1741)のようだが6年は違うかもしれない。土台は後から入れ替えられたもののようである。

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その右側にも石仏が並んでいる。左から2番目の角柱は馬頭観音だが造立年は不詳。その右の小さめの地蔵も年代が分からない。屋根の下にある二基の地蔵については、左側が125㎝、右側が100㎝と大きなものだが、これらも年代は分からなかった。右側の2体については新しく、大きな台石に載っているほうが、昭和6年(1931)9月の地蔵菩薩、右端が昭和19年(1944)4月の地蔵菩薩である。

場所  板橋区大和町37-1

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2020年5月 2日 (土)

板橋氷川神社の庚申塔(板橋区氷川町)

板橋氷川神社は元久3年(1206)の創建と言われる。当時の領主である豊嶋経康が大宮の氷川神社の素盞男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(クシナダヒメ)の分霊を勧請して造られた。江戸時代には板橋が中山道の宿場になり、下板橋村の鎮守として人々の信仰を集めた。そんな神社の境内には富士塚がある。板橋氷川富士(板橋富士)と呼ばれ、弘化4年(1847)の石碑や、頂上部の安政2年(1855)の石祠から、1850年頃には築山されていたものだろう。しかし昭和2年に国道17号線の拡幅工事でかなりの部分が破壊されたようだ。

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一部残った富士塚の下に庚申塔が2基祀られている。どちらも唐破風笠付角柱型の庚申塔で、江戸中期の特徴を備えている。右の庚申塔は青面金剛に三猿の図柄で、正徳2年(1712)11月の造立。右側には「奉造立庚申供養石像願主講仲敬言」とあり、左側には「武州豊嶋郡下板橋町」の銘がある。左の庚申塔は、青面金剛、邪鬼、三猿の図柄。造立年は享保5年(1720)11月。こちらは「板橋町之内講中」の銘がある。

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訪問時は日光がきつくて、光が落ちるのを待ったが雲は現れず仕方なくHDRで調整したので少しボケた画像になってしまった。この2基の庚申塔は全盛期の庚申塔でなかなか素晴らしいものである。鉄柵が邪魔だが、以前の写真では左の庚申塔の笠が取れていたので、いたずらが絶えないのかもしれない。

場所  板橋区氷川町21-8

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2020年5月 1日 (金)

文殊院の石仏(板橋区仲宿)

下板橋宿のなかでも仲宿あたりが一番人通りが多い。現在はスーパーマーケットのライフがあり通過するのにもいささか難儀する。江戸時代もこれくらいの賑わいはあったのかもしれない。ライフの角から東に入るとすぐに文殊院がある。文殊院は真言宗の寺院で、江戸時代前期に延命地蔵を祀るお堂を広げて寺院にしたらしい。境内の奥にも石仏があるようだが、訪問時は寺の工事をしており奥には入らなかった。(再訪が必要なパターンだが楽しみが継続する)

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門前に2基の石仏が寺の山門に向けて立っている。普通は壁を背にしているのだが、ここの場合はなぜか向きが違う。どんな意味があるのだろうか。左の舟型石仏は聖観音像で、造立年は延宝8年(1680)10月。右に並ぶ板碑型の石塔は何だか分からない。文字もほとんど消えてしまっているが、右下に薄く「寛文」の文字が見えるので、寛文年間(1661~1673)のものだろう。

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山門の脇には通称延命地蔵とよばれる地蔵堂があり、地蔵尊が祀られている。造立年は不詳だが、寺の創建よりも前ということになりそうだ。比較的広い堂宇にポツンと中くらいの大きさの地蔵が祀られているバランスがいささか気になった。

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山門を入り右を振り返ると子の権現の堂宇がある。石仏の年代は分からないが、子の権現は足にご利益のある権現である。実際に居た人で、平安時代初期の人物。霊験の夢を見て秩父の山に登って修行していたところ、蛮人によって火難に遭い下半身に大やけどを負った。長い年月不自由な体でいたが、神仏の加護を得て回復した。それを見た蛮人は改心して弟子となり、ともに修行をしたという。 飯能から秩父に向かう途中の峰の上に本家の子の権現がある。大昔に行ったときは、車が難儀する細い荒れた道で大きな鉄のわらじがあったが、最近はどうなっているだろうか。

場所  板橋区仲宿28-5

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