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2020年5月 5日 (火)

嶺南向庚申(大田区東嶺町)

大田区の時代を遡ると、東京35区から23区に変わった昭和22年(1947)までは大森区と蒲田区だった。市区町村制になった明治22年(1889)~昭和7年(1932)は9町村、それ以前の江戸時代後期から明治初期は44の村によって構成されていた。その44村のひとつに嶺村という村があり、明治初期の人口が700人。これは明治大正期の調布村(今の田園調布)の中でも最も人口の多い地域だった。そして東京では極めて稀な東西南北の塞ノ神が残っている地域として特筆される。

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北向は鵜の木村境、南向は久原村境、東向は雪谷村境、西向が沼部村境だが、写真は南向庚申で久原村境にあったものである。堂宇は新調されきれいなものになっている。江戸時代、村境には外から悪疫や悪霊が侵入しないように塞ノ神としての庚申塔を立てる風習があった。都内では世田谷区の代田村にその一部があるが、4方向きちんと残っているのは本当に珍しい。

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駒型庚申塔の造立年は元禄13年(1700)11月。青面金剛像、三猿、二鶏の図柄で、施主は嶺村として9名の名があるが、内6人が鈴木姓である。石川町辺りの石仏を見ても鈴木姓が多い。大田区内でも鈴木姓は全国1位の佐藤姓を大きく引き離して1位である。

嶺の四庚申と呼ばれるうちのひとつだが、疑問もある。庚申塔はどっち向きに立っているかという点だ。この南向庚申は確かに南向きに立つが、嶺村の内側に向いている。北向庚申は嶺村の内を向いていて北向、西向は今度は嶺村の外を向いており、東向も外を向いている。なぜ、南向、北向が内向きで、東向、西向が外向きなのか、現地を回りながら考え込んだ。答えはまだ見つかっていない。

場所  大田区東嶺町42-1

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