武蔵新田商店街の庚申堂(大田区矢口)
武蔵新田駅から南に延びるいささか寂れた商店街はかつての鎌倉街道。途中に新田神社もあり、その先十寄(じゅっき)神社で鎌倉街道は緩やかに東にカーブして古市場村へ、そして矢口の渡しに出る。こういう何百年も人々の営みが続いた街が寂れるのは残念でならない。その商店街の一番南にあるのが希望門というアーチで、その下に古い堂宇がある。商店街が昭和26年(1951)に出来たので約70年、新田神社は650年、庚申塔と供養塔は300年前後だから、言葉通り何百年も人通りの絶えない場所だったのである。
堂宇にあるのは、左の駒型庚申塔。これは元文5年(1740)10月の造立で、青面金剛像、三猿、二鶏の図柄である。「六江領矢口村」とあるが、これは六郷領であろう。「郷」の字は石工泣かせなので「江」としただけの事で間違ったわけではない。右側は念仏供養塔(舟型)で、造立年はさらに古く延宝6年(1678)8月。阿弥陀如来立像が彫られており、「奉造立念佛供養同行18人」とある。
この少し南に十寄神社があるのだが、ここで祀られている新田義興は矢口の渡しで非業の死を遂げた。義興は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の次男で、足利家とのせめぎ合いをしていたが、初代鎌倉公方である足利基氏と関東管領の畠山国清の謀略で、多摩川を渡る舟を沈められ最期を遂げた話が『太平記』に生々しく記されている。新田義興の遺体は新田神社の奥にある御塚(おづか)に葬られていると言われ、立ち入ると祟りがあると信じられている。江戸時代に平賀源内がここの竹で矢を造ったのが「破魔矢」の始まりだというのも興味深い。
場所 大田区矢口2丁目10-5
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