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2020年5月17日 (日)

延命寺の庚申石仏(大田区矢口)

延命寺も古い寺院である。江戸時代の今泉村の中心地。かつての鎌倉街道は東京23区内に数本、南北に通っていた。江戸は閑村で単なる通過点で、江戸に目的地はほとんどなかったからである。諸説あるが、東京23区内の鎌倉街道は主に、中道(なかつみち)・下道(しもつみち)がいくつかに分岐して走っていた。上道(かみつみち)は当時の国府があった府中を経由している。もっとも海岸近くが下道である。千葉の下総国府から浅草あたりを通り、古代東海道として相模に繋がっていた道で、大田区辺りは何本かのルートがあった。その支線が新田神社のあるこのあたりを通り矢口の渡しに出たのだろう。

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境内に入ってまず目に飛び込んでくるのは巨大な無縁仏塔。コンクリートで固めることに対しての是非はあるが、これも現代の限られた敷地の中での一つの形だろう。ほぼ墓石だが、古そうなものが多い。延命寺は弘安年間(1278~1298)の創建(当初の名前は蓮花寺)で、後の安土桃山時代に中興し延命寺と改めた。かつて延命地蔵があり、南北朝時代の延文年間(1356~1361)に落雷で蓮花寺は焼失、これが新田義貞・義興の祟りとされて恐れられ、後に延命寺として再興した。

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無縁仏塔の裏手にひっそりと庚申塔がある。駒型の庚申塔で、青面金剛像に邪鬼と二鶏、そして三猿が土に大半埋もれてしまっている。造立年は不詳。『新編武蔵風土記』の記述に「古碑二、境内にあり、一は延文2年(1357)10月と刻し、一は応永18年(1411)と刻す」とあるようだが、この古碑はどこにあるのか分からない。もしかしたら秘仏として納められているのだろうか。延文年間は南北朝(吉野)時代、応永年間は室町時代初期である。新田義貞が鎌倉幕府を滅亡に導いた時代のものなので、あればぜひ見てみたいものである。

場所  大田区矢口2丁目26-17

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