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2020年6月 9日 (火)

区立郷土資料館の石仏①(世田谷区世田谷)

世田谷線上町の近くに世田谷区立郷土資料館がある。東京オリンピックの開かれた1964年(昭和39年)に開館した郷土資料館の草分けである。各地の郷土資料館の庭にも同様に、路傍から移された石仏石塔があるが、この郷土資料館にもいくつもある。

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代官屋敷の門脇から資料館に向かうと、右手に大きな自然石の石碑があり目立っている。これは道標で、延享3年(1746)のもの。正面には梵字の下に「さがみ大山道」とあり、その右には年号、左には世田谷上宿同行50人とある。上宿は上町の事である。右側裏手には「登戸道」とある。この道標はもとは両路の三差路にあったという。明治時代の地図を見て考察したが、おそらく駒留通りの終点で、ボロ市通りが用賀へ続く旧大山道と、現世田谷通りの登戸道に分岐するところにあったものだろう。交通量の増加に伴い半分埋もれていたという。

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この道標をここに移設した折、元の場所には似た形の石碑を置いたというので、探してみるとボロ市通りの最終地点近くの鈴正畳店の角に写真の石碑があった。「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す」と書かれている。

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郷土資料館の壁沿いに並んでいるもののうち、まず一番右は文字塔の角柱型庚申塔。なかなかごっつい庚申塔である。造立年は文政10年(1827)11月。左右にはそれぞれ、「右り 江戸道」「左り 世田ヶ谷四ツ谷道」とある。江戸時代は「右」「左」に「り」をつけて表現しているケースがままある。上の分岐点から分岐した大山道が用賀で本線の大山道(厚木街道)に合流する用賀3丁目14あたりにあったものらしい。交通量が増えたので一時用賀の真福寺に置かれたが、後に真福寺から資料館に寄贈された。

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その隣にあるのが品川用水御普請所の標石。天保7年(1836)2月の造立。品川用水は野川中流の新川から取水し、世田谷区、目黒区を流れ、品川区戸越公園にあった熊本藩細川家の下屋敷の庭園の池の水用に開削されたもの。細川家は寛文6年(1666)に用水を廃止しようとしたが、流域の農民が灌漑用水にしたいと願い出て幕府の許可を得た。寛文9年(1669)にはより多くの水が必要なため用水は拡張され、各地の農村を潤した。

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その隣は角柱型の馬頭観世音。文化14年(1813)2月の建立。正面には梵字と「馬頭観世音」の文字、左側面には「右 府中道」、右側面には「左 大山道  用賀村」とある。元あった場所は、用賀4丁目11の三差路というから、まさに用賀駅前のフジスーパーのある辺り。微妙な位置だが、おそらく分岐点から右に分かれていたのは岡本村を経て、大蔵村、喜多見村を越えて府中へ向かう村道だったのだろう。

(郷土資料館⓶へ続く)

場所  世田谷区世田谷1丁目29-14

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