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2020年6月20日 (土)

新田坂の石造物群(板橋区成増)

現在の国道254号線は江戸時代は川越街道と呼ばれ、その名残で今もなお川越街道が通称通り名になっている。成増を過ぎると下り坂になり、白子川を渡って埼玉県和光市に入る。この下り坂の脇に旧道が走っていて、そちらの道は八坂神社のところから急に下っており、江戸時代は往来に難儀をしたであろう坂に思える。この八坂神社の手前に石仏群がある。この下り坂は新田坂(しんでんざか)あるいは白子坂と呼ばれた。

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まずは新調された屋根に覆われた地蔵。この丸彫の地蔵は「白子坂首欠け地蔵」と呼ばれ、延命地蔵として安置されている。元は旧川越街道の白子坂途中にあったが道路拡張のために現在の場所に移設された。首が欠けてからしばらくの間は「首欠け地蔵」と呼ばれて深く信仰されていたが、ある晩のこと、白子坂の旧家「油屋」の主人の夢枕にその首の存在を知らせたという。主人はお告げの通りに草むらを探すと首が見つかって早速修復したという逸話がある。

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地蔵の横に並んでいるのは燈籠、稲荷、自然石の道祖神。道祖神は江戸では珍しく、板橋区内でもここだけらしい。造立年は文久3年(1862)で、もともとは八坂神社の入口付近にあったもの。燈籠(常夜燈)は、文政3年(1830)に造立されたもので、成増2丁目34の角にあったという。成増2丁目34を調べるとこれも八坂神社の一角である。

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脇に双体道祖神があったがこれは近年のもの。安曇野風の最近のものである。川越街道は、もともと太田道灌が江戸城と川越城を築いた折に相互の往来をするために開かれた中世の道。昔は川越往還と呼ばれ、江戸時代に川越藩主が中山道の脇街道としてさらに整備したもので、川越街道と呼ばれるようになったのは明治時代以降である。

場所  板橋区成増2丁目33-17

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