満願寺前庚申尊(世田谷区等々力)
目黒通りは昔は「二子道」と呼ばれ、東ルートは玉川神社満願寺前から現在の世田谷区中町を抜け、上野毛で多摩川の国分寺崖線を下り二子の渡しに至る街道であった。玉川神社は江戸時代は熊野神社で、明治初期の地図にも熊野社とある。明治40年(1907)に等々力村にあった神明社、御嶽社、諏訪社を合祀して村の鎮守となり玉川神社と呼ばれるようになった。地元の通称では「おくまんさま」と呼ばれる。隣接するのが満願寺。江戸時代はこうして寺と神社が並んでいることが多かった。
満願寺の外塀角に立派な堂宇があり、大きな庚申塔が祀られている。満願寺は等々力不動尊の本寺で、文明2年(1470)に当時の世田谷城主の吉良家によって創建された寺。創建当時は深沢村にあったが、1560年前後に現在の地に移転した。満願寺とこの庚申塔の関係は分からない。
高さ115㎝ある大きな駒型の庚申塔である。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は文化10年(1813)8月、地名は彫られていないが、願主6人はすべて高橋家である。
場所 世田谷区等々力3丁目15-1
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