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2020年7月31日 (金)

安楽寺の石仏(品川区西五反田)

安楽寺は桐ケ谷斎場の北側にある天台宗の寺院。斎場からは目黒川の河岸段丘を下ったところにあり、標高では15m低い。安楽寺の裏手には桐ケ谷氷川神社があり、河岸段丘の崖の上に立っている。ただ江戸時代から明治時代にかけての道筋は目黒川を谷山橋(ややまばし)で渡ってから安楽寺の門前に突き当たる道が中原街道に並行する水田の中の主要道だった。

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安楽寺の創建は天正元年(1573)だが、いろんな寺院の末寺を変遷してきた。江戸時代後半からは、念仏講を広め近辺から高輪、三田あたりまで信者を広げたという。河岸段丘下の寺院ということで、湧水も豊富で周辺の飲料水を供給していたようだが、台地の開発が進んでからは水も出なくなった。

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本堂脇には、堂宇内に連理塚があり、これは白井権八と遊女小紫の墓とされている。権八小紫の話は「禿坂」のところで書いたので参照していただだきたい。その脇には塩地蔵があり、ここでは塩が袋のまま奉納されていた。さらに夢違観音、これは悪夢を良い夢に変えてくれるという。その横から、石仏群が壮観に並んでいる。一番手前は板碑。下部に13年という文字が見えるが、造立年は分からない。

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2基目は黒御影石の馬頭観音。さすがにこれは新しく、昭和37年(1962)のものである。ただこの時代はすでに牛馬の時代ではなく、モータリゼーションの黎明期で、トラックも走っていたので、馬屋のものではなさそう。願主 飯泉とあり秋彼岸とあるので、回顧して立てたものだろうか。

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その隣には珍しい板碑型の地蔵菩薩立像。寛文10年(1670)10月の造立年が刻まれている。古さからしてはきれいな保存状態だが、よほど石の質が良いのだろう。下部の願主名もくっきりと残されている。

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4番目には舟形光背型の馬頭観音が立っている。このタイプの馬頭観音は多くない。造立年は読み取れないが、延宝年間(1673~1681)のようである。三面六臂に頭上の馬頭もしっかりと見える。

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その先は庚申塔が数基並び(これは別述する)、一番奥には角柱型の馬頭観音の文字塔がある。左面には「右 桐ケ谷 左 目黒」とあり道標を兼ねている。造立年は大正10年(1921)である。

ここにある供養塔や庚申塔は、もとは目黒川の谷山橋(ややまばし)脇にあったが、昭和初期に河川改修が行われた折に安養寺に引き取られた。目黒川沿いの水田地帯は谷山村、台地の上は桐ケ谷村ということで、安楽寺はその間にあり二つの村の民俗信仰をまとめて見せてくれる場所。さすが念仏講を人々に広めた寺院だと思う。

場所  品川区西五反田5丁目6-8

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2020年7月30日 (木)

専修寺の庚申塔(品川区荏原)

桐ケ谷斎場の前の路地を入ると寺が並んでいる。手前から、霊源寺、専修寺、桐ケ谷寺、長應寺である。今回は専修寺を訪問、すべてがきれいなすがすがしい寺院。永禄2年(1559)に青山にて創建、天正19年(1591)に赤坂堀端へ、寛永2年(1625)に赤坂一ツ木へと引越しを重ねている。江戸が出来始めた時代で、武家屋敷の都合で移されたのだろう。その後は赤坂一ツ木に定着し、明治40年(1907)に桐ケ谷(西五反田6丁目11-5)へ移転してきた。TOCビルの裏手で現在は専修幼稚園がある。寺は比較的最近現在の場所に移って来たらしい。

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本堂にお参りをして、住職に庚申塔の場所を尋ねたら、墓所の奥だと教えてくださった。無縁仏の墓石がずらりと並び、一番手前に角柱の三界万霊塔がある。その両側に庚申塔と地蔵菩薩立像があった。右側の地蔵は角柱型で、造立年は大正14年(1925)と新しいもの。

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左側にあるのが角柱型の庚申塔。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄だが、三猿が青面金剛像の足元の両側に1頭ずつ、邪鬼の下に1頭というデザインでとても珍しい。造立年は宝暦10年(1760)9月だが、このタイプは初めて見た。

ちなみに、赤坂のTBSの隣りのパークビル敷地に「専修寺旧跡之碑」があるようだ。専修寺は近衛歩兵の敷地として境内を提供したため、赤坂一ツ木から桐ケ谷へ移転したらしい。権力に振り回された歴史を持った寺である。

場所  品川区荏原1丁目1-3

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2020年7月29日 (水)

子別れ地蔵(品川区五反田)

JR山手線五反田駅の南西に桐ケ谷斎場がある。ここの歴史は古い。江戸時代、三代将軍家光の頃、荼毘(だび)所を芝の三田からここに移したのが始まりだから400年近い歴史がある。江戸時代は土葬だろうと思われがちだが、都市部では火葬が多かった。江戸などは百万人も住んでいたのだから土葬にしたら土地が足りない。当初は寺院や墓地に火葬場があったらしいが、やはり悪臭の問題などで都心から郊外に追いやられていった。勿論、地方では土葬が主流を占めていたようだが、江戸の百万人という人口は、生まれ、育ち、死ぬまでのすべての生活インフラのたゆまない改善を要求したのである。

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桐ケ谷への道と旧中原街道の交差点のすぐ近くに大きな地蔵が置かれている。江戸時代から明治時代にかけてこの辺りは桐ケ谷村と呼ばれる地域で、江戸の郊外であった。中原街道沿いには民家が多数あったが、ここから500m程離れた桐ケ谷火葬場への道周辺にはほとんど人家は無かった。地蔵の造立年は享保12年(1727)、戦災でかなり損傷しているが形はとどめている。この子別れ地蔵の話はちょっと物悲しいものがある。

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江戸時代の風習で「逆縁」といい、先立った子供を火葬場まで見送ってはならないというものがあった。当然骨を拾うことなど許されなかったわけである。そんな親が中原街道の斎場入口まで同行し、ここで子供の亡骸を見送ったその場所に建てられた地蔵尊である。台石と地蔵は並べて置かれているが、本来は乗っかっていたものだろう。ここで何人の母親が地蔵にすがって泣き崩れたのかと思うと悲しい気持ちになる。

場所  品川区五反田6丁目22-3

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2020年7月28日 (火)

旧中原街道供養塔群(品川区荏原)

五反田から平塚橋への中原街道の旧道にはいくつかの石仏がある。比較的五反田に近い桐ケ谷斎場への道との交差点の近くに「旧中原街道供養塔群(1)」がある。(1)というのは何だろうと考えたら、確か戸越地蔵尊にあった区の説明板には「旧中原街道供養塔群(2)」とあった。二ヶ所で一つなのだろうか。とはいえ距離は550mほども離れている。まあ同じ旧道だからまとめたのだろうという結論にした。本来ならここの名前を充てたいところである。ここの石仏はもとは北側約10m先の辻にあったが、昭和38年(1963)の区画整理で現在の地に移された。

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旧街道脇の屋根の下には4基の石仏がある。一番大きな中央の石仏は丸彫の地蔵菩薩像で、造立年代は不詳。但し江戸時代の中期だろうと説明板には書かれていた。台石に書かれた村名や人名から推測したとある。また道路側には小さな地蔵尊がある。こちらは念仏供養によるもので、延享3年(1746)のもの。説明板には寒念仏供養の地蔵とあった。冬の歳時記としての念仏講の活動だったのだろう。

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大きな地蔵の左側には2基の石仏がある。手前は聖観音像。これは墓石らしいが、年代は貞享年間(1684~1687)のものだという。後ろ側は馬頭観音像である。造立年は元文元年(1736)で馬頭観音としては比較的古いもの。当時戸越村には馬持講(共同で運搬用農耕用などの馬を所有する組合)があった。他所の馬頭観音では「馬持中」とか「馬講中」という表現で彫られている例があった。当時の村人の深いつながりがわかる話である。

場所  品川区荏原1丁目15-10

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2020年7月27日 (月)

平塚の碑と平塚橋の碑(品川区荏原)

中原街道沿いに平塚の碑というものがあるらしいので訪れた。極めて分かりにくい場所にあった。バーミヤンというチェーン・レストランの左の路地を入り、ピロティの駐車場を見ながら左の民家の間の細路地を覗くと、奥に鳥居がありそこに平塚の碑があった。

平塚の碑とは何だろうと説明板を読んでみた。中原街道がかつて鎌倉道だった時代から、この辺りに大きな塚があった。伝承によると、後三年の役(1083~1087)で源義家を助けた弟の源義光は、欧州からの帰還中この地で夜盗に襲われ多数の配下を失ってしまった。その霊を祀ったのが平塚だという。いつしかこの塚は壊されてしまったが、地域の人々が昭和27年(1952)にこの平塚の碑を築いて伝承を伝えているというものらしい。

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平塚という地名は中原街道の西の終点が相模国(神奈川県)平塚ということに関係があるかと思っていたが全く違った。源義家伝説は都内のあちこちにあり訝しいものも多いが、大きな塚があったのは事実でそれがもとでの地名だというのは説得力がある。そこから少し五反田寄り平塚交差点の近くに平塚橋の碑がある。住居表示ではこちらは品川区平塚になる。

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こちらは平塚という地名が定着したのち、江戸時代に掘削された品川用水に架かっていた平塚橋に因むもの。品川用水は寛文9年(1669)に完成した農業用水のひとつ。世田谷区から目黒区へ流れた後、品川区小山2丁目の地蔵の辻で二手に分流、左は百反通り方向に流れ、桐ケ谷から居木橋で目黒川に合流し、右は戸越から大井村の農地に流れていた。この碑は地元の人々が埋められて消えてしまった品川用水の平塚橋をここにとどめようと造られたものである。

場所

平塚の碑  品川区荏原4丁目6-4

平塚橋の碑  品川区平塚3丁目16-31

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2020年7月26日 (日)

戸越地蔵尊の庚申塔(品川区荏原)

戸越地蔵尊には庚申塔が3基祀られている。どれも江戸時代前期から中期にかけてのもので、摩滅も著しいが、江戸時代の戸越村の人々の信仰や暮らしを想像させる素晴らしいものである。ここの石仏石碑はすべて、品川区の有形民俗文化財に指定されている。庚申塔は左側の堂宇の中にある。

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まずは角柱型というよりも尖がってない板状駒型の庚申塔。長方形タイプとでもいえるだろうか。高さは75㎝ほどある。図柄としては、上部に日月・青面金剛像、邪鬼が描かれ、地面近くに三猿がわずかに形跡として残っている。造立年は宝暦4年(1754)10月で、摩滅は激しいがここでは一番新しい庚申塔である。

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左端の堂宇内の右側には板碑型の庚申塔がある。板碑型は概ね江戸時代初期に作られているが、この庚申塔の造立年も延宝元年(1673)10月とその時代のものである。高さは87㎝程で、下部に三猿が彫られている。上部の眼分はほとんど消えてしまっていて、ここに何かが書いてあったのかどうかすら分からない。

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一番左にあるのは背が高い唐破風笠付角柱型の庚申塔。高さは1.57mある。下部に三猿がくっきりと見て取れるが、上の眼分はほどんど摩耗してしまって確認することが出来ない。造立年は寛文6年(1666)11月で、庚申塔としては最も古い時代のもの。これだけの石仏が集められて守られていることは極めて有難いことである。

場所  品川区荏原2丁目9-18

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2020年7月25日 (土)

戸越地蔵尊の石仏(品川区荏原)

東京都の五反田から神奈川県武蔵小杉方向に走るのが中原街道だが、「街道」というだけに昔からの道である。所々旧道に分離しているところがあり、五反田近くの中原口から武蔵小山商店街の出口の平塚橋辺りまでがそのひとつ。旧街道が残ると、いろいろな史跡も開発を免れて残されることが多いのが何より有難い。有名な戸越銀座を西に進み、中原街道を過ぎた先の旧中原街道にあるのが戸越地蔵尊である。

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江戸時代の中原街道は江戸虎ノ門から相模国(神奈川県)平塚に至る街道で、かつては東海道に並行した脇街道として旅行者や物資の移動が盛んであった。その時代の石仏がここには集められている。残念ながら元の場所などは分からないものが多いが、江戸時代平塚橋辺りは、戸越村、中延村、小山村の村境になっていた。そういう場所には塞ノ神など民間信仰の名残りがあることが多い。

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多くの石仏がある中で、まずは代表ともいえる延命子育地蔵。造立年は不詳である。高さは台石を含めて2.4mほどもある。手書きの説明板には形式的に江戸時代中期から後期にかけてのものと書かれている。江戸時代の地蔵で延命地蔵と呼ばれるものと子育地蔵と呼ばれるものはほとんど同じで、昔は子供が幼い頃に死亡するケースが多かった為、延命は赤ん坊の延命を祈り、子育も同じ意味合いだったと思われる。

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一番右端にあったのは上部が折れた石碑で、説明書きによると寛文2年(1662)の墓石らしい。日蓮宗のものだとある。墓石は私の場合対象外なのだが、こうして祀られているとやはり無視はできない。寺の境内で無縁仏などで江戸時代初期の墓石も多く見かけるが、民間信仰の石仏よりも良い石材で見事に彫られているものが多い。

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上の写真は笠塔婆型の石造供養塔。風化が進んでいて、造立年などは分からない。説明板にも不詳とあるが、江戸時代中期のものではないかと注釈がある。ここの石仏石碑はすべて品川区の指定有形民俗文化財に指定されている。歩いていてもやはり旧街道は楽しい。

場所  品川区荏原2丁目9-18

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2020年7月24日 (金)

金山地蔵尊石造物群(品川区小山)

東急目黒線武蔵小山駅から南へ300m程のところに三谷(さんや)八幡神社がある。その境内というよりも境内の端っこの道脇に金山地蔵尊の一角が設けられている。まず中心的な金山地蔵尊の造立年代は不詳だが、江戸時代初期にはすでに小山村にあったと伝えられる。昔は150m程南西の八幡通りと碑文谷道の辻(小山5-15-8)にあったが、大正時代末期の耕地整理で現在の場所に移された。

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地蔵は、小山村の旧家である石井、伊藤両家のの当主がある日、奥沢の浄真寺(九品仏)に参詣し願掛けをしたところ、その願いが成就したのでその地に建立したと伝えられる。しかし経年による摩滅に加えて、第二次大戦の戦禍でひどく損傷してしまったために、昭和29年(1954)8月に再建された。

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「金山」の名称については、造立当初から台石に「金山」と刻まれており、その為か金山地蔵尊と江戸時代から呼ばれてきたらしいが、実は金山の由来については全くの謎である。

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地蔵尊の堂宇手前左側には4基の石仏が並んでいる。一番地蔵側の庚申塔は正徳2年(1712)8月のもの。舟型光背型で正面金剛像と三猿が描かれている。右側の文字は「奉供養庚申塔」だと思われる。となりの庚申塔も舟型光背型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。享保4年(1719)10月の造立である。

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道路側の2基は、まず馬頭観音。文字塔の自然石で「馬頭観世音菩薩」と刻されている。造立年代は不詳だったが、戦災の傷みで金山地蔵尊と同じ昭和29年(1954)8月に再建されたもの。一番道路側の庚申塔は見るからに新しいが、左下に「元禄年間建立」「再建昭和32(1957)年7月」と刻まれている。

場所  品川区小山5丁目8-7

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2020年7月23日 (木)

朗惺寺の庚申塔(品川区小山)

東京でも有数の商店街武蔵小山商店街からすぐ、ほぼ駅前と言っていい場所にあるのが日蓮宗の朗惺寺。昨今「ムサコ」と呼ばれる駅前開発が急速で、武蔵小金井、武蔵小杉、武蔵小山とタワーマンションが並んでいる。もっとも開発がおとなしいのが武蔵小山で、その理由は品川区という土地柄地価が高い為だろう。ただ少子化に加えてコロナ後の不動産暴落が危惧されるが、文化財にとってはその方がいいのかもしれない。

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朗惺寺の本堂前に立つと上の写真のような景色である。寺社地は比較的開発になりにくいが、この景色を見ると心配になる。もともと朗惺寺は品川用水から小山の町へ繋がる道の途中に明治43年(1910)に移ってきたが、当時周りには何もなかった。民家が増えたのは昭和になってからである。池上本願寺が本山となっている。創建は天正2年(1574)八丁堀だが、明暦の大火(1657)で芝の二本榎に移転、この地に移ってきたという経緯。

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本堂の近くに庚申塔が並んでいた。中央の3基が庚申塔である。どれも駒型で典型的な江戸時代中期のもの。右手前には墓石の地蔵が数基置かれ、右側には鳥墓がある。手前には石橋庚申供養塔があったようだが、見落としてしまった。宿題になる。

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3基の庚申塔は、左から駒型で日月・青面金剛像、三猿の図柄、宝永元年(1704)11月の造立の庚申塔。中央のグレー色が、日月・青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、享保4年(1719)11月造立のもの。「奉供養庚申講中8人敬白」と書かれている。右側は同じく駒型で、日月・青面金剛像、二鶏、邪鬼、そして三猿は草に埋もれた部分。安永8年(1779)10月の造立である。

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左端にあった角柱を後ろから見ると、「奉納 庚申講中」の文字があった。燈籠の一部(竿石)らしい。天明8年(1788)11月のものである。なお、本堂の裏手にも庚申塔があると後で情報を得た。石橋供養塔と合わせて、再訪して調べなければ。

場所  品川区小山3丁目21-6

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2020年7月22日 (水)

お猿橋庚申堂(品川区小山台)

武蔵小山駅の北側に都立小山台高校がある。その北側の路地にお猿橋庚申堂がある。高校の裏の道はかつて品川用水が流れていた筋。目黒区の品川用水の跡はきれいに道路として残っているところが多い。また林試の森公園の南側では小山台と目黒本町の町境にもなっている。お猿橋庚申堂はこの品川用水と深い係わりがある。

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写真の路地は品川用水の筋ではなくそれを横切る道筋である。この手前がアルファベットのKの形の交差になっていて、昔はそこにお猿橋という橋が品川用水に架けられていた。堂宇内の庚申塔は、もともと旧戸越村鎗ヶ先集落の人々が品川用水に沿ったお猿橋のたもとに建てたものだという。戦後、元あった場所の東側の現在の地に移されて堂宇に祀られたようだ。現在では品川区の有形民俗文化財になっている。

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堂宇内にあるのは板碑型の庚申塔で三猿のみの図柄。中央には「如等所行是菩薩道漸漸修学子孫悉富成佛」とあり、造立年は延宝2年(1674)2月とある。江戸時代初期のもの。江戸時代後期にはこの辺りは碑衾村になっていたはずである。品川用水はもともと熊本の細川家が下屋敷を戸越公園に立てるのに池の水が欲しいので引かせた用水路。贅沢なものである。

場所  品川区小山台1丁目21-17

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2020年7月21日 (火)

龍泉寺墓所の石仏(目黒区下目黒)

目黒不動から羅漢寺川暗渠右岸の道を西へ進むと、目黒不動尊龍泉寺の墓所がある。墓所の裏手は広い森で林試の森公園である。林試の森公園は明治時代から昭和中期まで林業試験場だった。それだけに様々な樹木があり勉強になる。そこに寄り添うように墓所が広がっている。

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墓所の入口にはあずま屋風の建物があり、舟型光背型の地蔵菩薩立像がある。寛文11年(1671)造立の見事な地蔵菩薩像で、「奉造立釈迦一尊敬具」とある。檀家さんはここで休憩したり墓参の準備をしたりする。

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その脇、道路側には上部に地蔵菩薩坐像の彫られた「三界萬霊」と書かれた石柱がある。すぐ北の、羅漢寺川対岸にある「滝前町講中道標」と似ていて、あちらは「法界萬霊」と書かれているが、造立年はこちらも明和5年(1768)で同年のものである。同じくこれも道標で、「右 こんひら道」「左 ゆうてんち道」とある。こんひらは金毘羅坂(目黒通り)にあった金毘羅宮の事である。ゆうてんちは無論祐天寺のこと。施主は門前の商家の名前で、瀧前町で同じなのでおそらく同じものを同時期に作ったに違いない。

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その近くには14体の石仏が壮観に並んでいる。左の6基は六地蔵。その横に寛永7年(1630)の勢至菩薩、元禄2年(1689)の阿弥陀、天和3年(1683)の聖観音立像と並ぶ。さらに、寛文4年(1664)の千手観音、寛文4年(1664)の馬頭観音、再建された十一面観音、とても珍しい不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)、聖観音像が並ぶ。中でも寛文4年の馬頭観音は馬頭観音の中でも極めて古いもので、「武州江戸三十間堀六町目」とあるので、現在の銀座にあったものである。

ここにはこれ以外にもお宝が沢山ありそうだが、今回はここまで。再探索したい。

場所  目黒区下目黒5丁目37

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2020年7月20日 (月)

瀧前町講中道標(目黒区下目黒)

目黒不動尊から100mばかり西の住宅地の路傍にポツンと石仏が立っている。ここから南側は谷になっていて、そこには目黒川支流の羅漢寺川が流れていた。目黒不動山門前から羅漢寺に抜ける抜け道はこの川筋である。かつてはこの北側には競馬場があった。その為目黒通りには元競馬場という場所がある。

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写真の道の先100mに目黒不動がある。明治時代、この辺りは谷戸と呼ばれ、この南側の羅漢寺川左岸には苔香園という施設があったことが明治時代の地図にはある。調べてみると「目黒花壇・苔香園(たいこうえん)」という日本庭園だったようだ。明治時代には向島百花園と並ぶ名庭園として有名だった。明治35年(1902)から大正9年(1920)頃までの短い間である。

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石仏は丈夫に合唱した地蔵菩薩坐像、道標を兼ねており、「右 目黒道」「左 祐天寺道」とある。造立年は明和5年(1768)で、左面には「瀧前町講中」とある。瀧前町は目黒不動の門前当たりの古い地名で、龍泉寺の門前だから瀧前なのではないかと思っている。

場所  目黒区下目黒4丁目20-11

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2020年7月19日 (日)

目黒不動龍泉寺の庚申石仏(2)(目黒区下目黒)

もう少し目黒不動尊の水かけ不動尊の独鈷の瀧上の石仏を紹介したい。紹介する何倍もの石仏があるのだが、とても遠目では確認しきれない。目黒不動だけに不動明王像が多いようだが、それ以外の石仏もいくつもある。

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池の奥の石垣上部二段目に並んでいる比較的大きな石仏が、聖観音菩薩像と板碑型の庚申塔である。左の聖観音菩薩像は舟形光背型で、寛文3年(1663)10月の造立と書かれている。右側の板碑型の庚申塔はなかなか高品質な石材と見える。日月・青面金剛像・二鶏が描かれており、三猿は埋まっているのか無いのかよく分からない。この庚申塔は寛文12年(1672)の造立らしい。

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ずっと右に目をやると、水かけ不動の後ろに舟型光背型の庚申塔がある。相対的に三猿が大きく、上の部分が摩滅しているが、ここに青面金剛像があったのか文字塔だったのかは分からない。造立年も不明である。近くに寄れれば書かれているのかもしれないが、最も近いこの庚申塔でも7mくらい離れたところから見ている。

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ずっと上の段の左の方に隠れるように立っているのが、舟型光背型の庚申塔。日月・青面金剛像・邪鬼までは確認できる。下の方に三猿がちょっとだけ顔を出しているように見える。年代等は分からない。

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最後は近くに寄れるが寄らずともよいほど大きな自然石の馬頭観音。手前の楠木の下に立っている。造立年は大正9年(1920)9月とある。今回紹介した以外にもたくさんのお宝があるので、目黒不動はぜひ定期的に訪れたいところである。

場所  目黒区下目黒3丁目20-26

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2020年7月18日 (土)

目黒不動龍泉寺の庚申石仏(1)(目黒区下目黒)

江戸時代から特別な存在だった目黒不動(龍泉寺)。江戸時代、江戸の範囲を表すラインに朱引と墨引というのがあり、朱引は寺社奉行の管轄、墨引は町奉行の管轄範囲を表していた。目黒不動は特別に江戸の外なのに町奉行が管轄する特別なエリアだった。それほど江戸の人々にとって重要な近郊のリゾート地だったわけである。目黒不動のある場所は台地の縁にあたり、階段脇の独鈷の滝は昔は豊富な湧水だった。

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水かけ不動が人気で皆水を掛けてから龍泉寺にお参りをするが、この独鈷の滝の斜面には沢山の石仏が並んでいて気になった。しかし容易には近づけない場所なので、少し長めのレンズのカメラを持って撮りに行った。但し距離が遠いので彫られた文字を読むのは極めて難しい。一部、他の資料や情報に頼らざるを得なかった。

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池向こうの一番左にあるのは角柱型っぽいが舟型の庚申塔で、小ぶりな青面金剛像と三猿の図柄である。造立年は貞享3年(1686)10月と彫られている。青面金剛像の右側には、「奉寄進庚申供養為二世安樂立之者也」とある。上部には日月が描かれている。

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その右には寛文年間らしい石像があるが右手に厚い板のようなものを持っており、文殊菩薩かとも思いきや顔が明王っぽくそれ以上は分からなかった。そのさらに右側には、板碑型の庚申塔が立っている。こちらは造立年が寛文4年(1664)2月ととても古いものだった。青面金剛像の下には三猿が描かれ、下部には願主名が書かれている。

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その少し右手には不動明王らしき石仏がある。造立年は寛文5年(1665)6月と古い。ただ明王の像形が今一つ巧いとは言えない。しかし、行けに近い列の石仏はどれも江戸時代初期のもののようだ。幕府と密接な関係にあった龍泉寺に民間信仰の石仏がたくさん並んでいることはとても興味深い。これらが果たしていつ頃この場所に移されたのか、知りたいものである。

場所  目黒区下目黒3丁目20-26

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2020年7月17日 (金)

安養院石造念仏供養塔(品川区西五反田)

安養院というより、目黒不動門前にある「ひかり陵苑」で知られているかもしれない。近年東京で増えてきた室内墓所である。ただ安養院には品川区の指定有形文化財の供養塔もある。境内にある観音堂の横に、大きな五輪塔と並んで立っている。高さが3.6mもある立派な供養塔であった。

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正面には、「南無阿弥陀佛」とあり、背面には「三界万霊万日廻向」と書かれている。造立年は延宝3年(1675)10月。左側面には「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とあり、その間に『庚申講中』と書かれている。願主である木食唱鉄が発願し、庚申講中の人々が僧侶に従って建立したものだという。

場所  品川区西五反田4丁目12-1

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2020年7月16日 (木)

大井庚申堂・来福寺(品川区大井)

JR大井町駅西口は阪急デパートやイトーヨーカドーで昔から賑やかな街だった。平成になって東口に区の施設やマルイが出店して東口も賑やかになったが、やはり西口は老舗の風格がある。それもそのはず、ここは徳川が東海道を整備するまでの古東海道で、三又から東北へ進むと品川湊へ、そのまま北上すると高輪を経て三田へ至る古道である。南へ進むと平間の渡しで多摩川を渡っていたので、平間街道とも呼ばれた。そんな道筋にあるのが来福寺の場外仏堂で、以前にあった質素な堂宇が亡くなってビル建設が始まったが、できてみるとビルの1回に素晴らしいお堂が完成していた。

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中央の経塚地蔵を挟んで左右に庚申塔が2基ずつ並んでいる。横の説明板には「御本尊延命地蔵菩薩  別名 経読地蔵尊」と書かれている。ここにあった堂宇は昔は大井庚申堂と呼ばれた。

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左側の庚申塔は、左から笠付の笠が無くなってしまった角柱型庚申塔で、台石に三猿が彫られている。造立年は延宝8年(1680)11月と初期のもの。正面の文字は「奉・・・佛」しか読めない。その右隣りの庚申塔は、舟型光背型の庚申塔で、日月・青面金剛像・三猿・二鶏が描かれている。造立年は享保元年(1716)だが月が読めない。

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地蔵の右側には駒型と思われる庚申塔。 日月・青面金剛像・三猿・二鶏が描かれている。享保6年(1721)の造立で、「大井村」の文字がある。その右側は、やはり笠が無くなってしまった角柱型の庚申塔。青面金剛像の下には三猿が描かれている。この笠欠庚申塔の造立年は分からなかった。

場所  品川区大井1丁目44-6

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2020年7月15日 (水)

大井町駅西室外機の庚申(品川区二葉)

品川区の二葉というのは昭和39年(1964)につけられた新しい地名である。江戸時代はこの辺りは蛇窪村で、後に上蛇窪村、下蛇窪村に分かれた。昔の地名からわかるように二葉一帯は昔は立会川流域の低湿地だったところ。昭和44年(1969)から暗渠化が進み、立会川緑道や立会道路になった。現在では地下には水が殆ど流れていないようである。文明開化後は工場が建ち並び、排水の垂れ流しが続いたりしたので、暗渠化も致し方なかっただろう。

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そんな二葉の一番東の端、品川区役所のすぐ南から立会道路が始まるが、最初の路地の角に室外機とファミリープランゴム製品の自販機があり、その足元に小さな庚申塔が祀られている。庚申塔としてはもっともふさわしくない場所に思える。かつては店舗だったシャッターにはいろいろなポスターが貼られておりいささかカオスである。

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庚申塔は角柱型と呼ぶべきか、描かれているのは三猿のみである。台石に「庚申」と彫られているので、間違いなく庚申塔ではある。年代等も全く分からない。ただ石川博司氏の資料にも掲載されているので、昭和の後期には既にここにあったのは確かである。

場所  品川区二葉1丁目20-7

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2020年7月14日 (火)

東池袋の庚申塔(豊島区東池袋)

明治通りと春日通りが交わる池袋六ツ又陸橋、春日通りは昔の小石川道だが、明治通りは近代の道である。この六差路の道はそれぞれ大きな通りなのだが、1本だけ少し狭く果たしてこれを含めて六差路としていいのかどうか、五差路ではないかと思うこともある。この道の角にあるビルの名前が庚申ビルディングという。当然その名の由来は庚申塔である。

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ビルの一階の階段脇に高価な御影石で築かれた近代的な堂宇があり、その中に庚申塔が祀られている。東京都内でもこういう庚申塔は他にはない。近所の人は「庚申様」と呼んでいる。ビルの竣工は1988年で10階建だが、当然庚申塔はそれ以前からあったもの。

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庚申懇話会が出所の情報によると、昭和35年の石川博司氏の記事に側面に書かれているという年代があるようだ。「初代 恩田与三郎 明治末期建」とあり、さらに「二代恩田巳之助 昭和25年建」とあるらしい。戦災によって破壊されてしまったが、戦後二代目が再建したということである。青面金剛像が駒型の石柱いっぱいに描かれ、足元に踏みつけているのは邪鬼。ただ一番驚くのは、左手に人の首をぶら下げていることである。このパターンは珍しい。明治のものではあるが、おそらく昭和中期までこのあたりでも庚申講が盛んだったのだろう。

豊島区東池袋1丁目47-1

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2020年7月13日 (月)

たんきり子育地蔵尊(新宿区愛住町)

新宿区は旧町名を残してくれていてとてもありがたい。無味乾燥なナンバリングのような〇〇何丁目というのは嫌いである。愛住町(あいずみちょう)というのもなかなかいい響きで、江戸時代は四谷愛住町と言われ主に武家屋敷と寺地だった。四谷がとれて愛住町になったのは明治44年(1911)でそれ以来ずっと愛住町である。

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愛住町には週刊釣りニュース社が建てた「釣り文化資料館」がある。ただ土日が休みの上に、コロナでほとんど開館していないので、いまだかつてオープンしている時に行ったことがない。資料館の前にある釣り地蔵はご愛敬。これも愛住町が寺町だったことから来ているのだろうか。

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安禅寺の門前にあるきれいな堂宇に祀られているのが、たんきり子育地蔵尊。ここに来るには靖国通りから「暗闇坂」を上り台地の上を南に歩く。紅葉川の右岸の台地である。たんきり子育地蔵のある安禅寺は慶長13年(1608)に江戸城和田倉門に創建されたが、江戸城拡張で徳川家光に追い出され、寛永11年(1634)にこの地に移転してきた。地蔵尊は創建当時には既に作られていたという。しかし第二次大戦の空襲で破壊され、その後昭和31年(1956)にようやく再建された。石材は伊豆真鶴の小松石を使ったというから、江戸時代初期のものと同じ材質だろう。

場所  新宿区愛住町9-1

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2020年7月12日 (日)

安養寺の庚申塔(新宿区住吉町)

新宿区の富久町、住吉町辺りには名坂が多い。「自証院坂」「禿坂(蜘切坂)」「安保坂」「台町坂」「念仏坂」「安養寺坂」などで、個人的には階段坂の念仏坂が最も好きである。安養寺坂も昔の道を彷彿とさせる傾斜と曲がり具合でなかなかいいのだが、この坂沿いには安養寺はない。安養寺は昔よりも狭くなって坂の南の一角に収まっていて、曙橋商店街から私道を通って境内に至る。

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道路に「私道」と書かれているのは珍しいが、ここを進んでいくと安養寺に突き当たる。車はそこで立往生してしまうのである。その為に必要な道路標示なのだが、不注意な人はそれすらも見ないだろうからどれほどの効果があるかは分からない。周辺の地形は複雑で、外濠のもとになった紅葉川の支流である東京医大通りを流れていた饅頭谷という源流と、曙橋商店街を流れていたジク谷という沢が形成した地形。自証院も安養寺もその間にある市谷台町もその二つの沢の間の台地にある。

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安養寺の境内で庚申塔を探す。無縁仏の背後にアジサイの株があり、そのアジサイに隠れて上部が欠損した大型の板碑型庚申塔があった。文字塔の下部に三猿が描かれたタイプである。上部欠損しているが、造立年は延宝5年(1677)6月とわかる。初期のもので、三猿もしっかりした形を残している。文字部分は「庚申供養」と彫られている。

場所  新宿区住吉町10-10

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2020年7月11日 (土)

自証院の板碑と庚申塔(新宿区富久町)

自証院は昔は法常寺といったが、尾張藩主徳川光友夫人の千代姫の母(自証院)を供養するために、寛永17年(1640)に自証寺と改められた。明治時代末期、すぐ近くに住んでいた小泉八雲が好んでいた寺だったが、杉の木を切る音を聞いて嫌になり越してしまったというエピソードがある。

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寺としては小さな境内の小さな寺院である。しかしお宝の多い寺でもある。一番のお宝は、阿弥陀三尊種子板碑で、弘安6年(1823)の銘があり新宿区内で最古のものである。普通はこういう板碑はしまい込まれているのだが、ここの板碑は境内の一角に立てられている。

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説明板によると下部は欠損しているようだ。全体としては1.2m程の大きさがあるらしい。鎌倉時代の典型的な特徴が残された板碑である。当時、市谷地域には有力な武将が居住しており、その関係だという。この板碑は新宿区の指定有形文化財に指定されている。

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入口近くには無縁仏が集められており、その脇に塀に沿って3基の庚申塔が並んでいた。右から、角柱型の庚申塔で、青面金剛像と三猿の図柄。貞享3年(1686)3月の造立。中央は、角柱型だが形からして昔は笠付だったはずである。青面金剛像と邪鬼が描かれている。もしかしたら地中に三猿が埋もれているのかもしれないが、資料には書かれていない。左の庚申塔も元は笠付角柱型のようである。三猿のみだが、上部には青面金剛を示す種子が描かれている。文字塔としては「庚申講供養宝塔  厳正安穏後生菩處」とある。

場所  新宿区富久町4-5

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2020年7月10日 (金)

成覚寺の石仏(新宿区新宿)

成覚寺は太宗寺の北側にあり、靖国通りに面した小さな寺。本堂もこじんまりとしていて境内も狭いので寺とは気づかず通り過ぎる人も多いのではないかと思う。しかし文政3年(1594)の創建と伝えられ、江戸時代には岡場所として繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺だった。現代風に言うと、新宿の街で風俗嬢やソープ嬢として働いていた女性たちが重病になったり死んだりするとここに投げ込むように放り込まれたという物騒な話である。

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本堂の前のアジサイに包まれているこの石碑は、「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」といい、共同墓地に埋葬された飯盛り女たちの供養碑である。江戸時代は貧乏な家庭では娘を奉公に出した。年季奉公と言われ一定の期間が来るまではタダ同然で働かされた。年季がくれば解放されるのだが、その前に死んでしまった娘たちがここに眠っているのである。造立年は万延元年(1860)だから明治維新の少し前である。新宿区の指定有形文化財になっている。

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寺の入口近くにある「旭地蔵」もまた、悲しい物語がある。造立年は寛政12年(1800)。元は旭町(現在の新宿4丁目、高島屋の東で天龍寺や新宿高校のある一角)にあったもの。その場所にあった理由は、そこに玉川上水が流れていたからで、江戸時代は現在の神田川を上回る流れだった。そんな玉川上水に入水し心中した飯盛り女や遊女と客の亡骸を供養している。玉川上水と言えば昭和になって太宰治も入水自殺したほどの流れだが、今の東京人には想像もできないだろう。旭地蔵も区の指定有形文化財である。

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墓所に入ると左の笹藪に1体の地蔵座像がある。これは元治元年(1864)の子育地蔵。膝の上に子供を乗せている。この年に疱瘡(天然痘)が大流行し多くの子供が命を奪われた。その供養に建てられたものである。コロナの今、改めて疫病と生きてきた人々の歴史を感じられる。

場所  新宿区新宿2丁目15-18

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2020年7月 9日 (木)

太宗寺の石仏(新宿区新宿)

新宿にある太宗寺は天龍寺と並んで新宿を代表する寺院。天龍寺が曹洞宗なのに対し、太宗寺は浄土宗の寺院である。慶長元年(1596)頃に僧・太宗が建てた庵が始まり。後に新宿の主である内藤家との関係が深くなり、寛文8年(1668)には寺地を拝領した。かつては寺の境内に湧水があり、渋谷川の水源としては、天龍寺の湧水と太宗寺の湧水が代表的なものだった。

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入口にある東京都の指定有形文化財である銅造地蔵菩薩坐像は正徳2年(1712)の建立。江戸六地蔵のひとつで、甲州街道の見守りを司っていた。江戸六地蔵は他には、品川寺(品川区南品川)、東禅寺(台東区東浅草)、真性寺(豊島区巣鴨)、霊厳寺(江東区白河)、永代寺(江東区富岡)とここで、永代寺のもののみ現存しない。

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境内奥には織部燈籠がある。目黒区に多いが、いわゆるキリシタン燈籠である。年代は不詳。下部にある人型がキリストやマリアを表しているもの。これは新宿区の登録有形文化財になっている。昭和27年(1952)に墓地内の内藤家墓所から出土、もしかしたら内藤家は切支丹だったのだろうかとも考えた。内藤家が新宿を追い出され高遠に封じられた理由は分からないが、切支丹の話は聞いたことがない。

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不動堂の裏に無縁仏が集められている。その中のひとつに、地蔵六角石幢があった。かなり摩滅が進んでいるが、文化3年(1806)のものでなかなか貴重な石仏である。この周りには猫が沢山いてなかなか人懐っこく楽しめる。

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表に戻り、不動堂の脇には稲荷神社と並んで塩かけ地蔵がある。古いもので造立年は不詳。しかし、石仏研究者の佐久間阿佐緒氏によると、この地蔵は高遠の名石仏師である守屋貞治(1765~1832)の作品ではないかという説。内藤家との関係を考慮しても、可能性は高いと思う。江戸末期には石仏師も商売ベースになり、技術は江戸初期のものに比べると相当落ちる。その時代において、優れた石工の代表である貞治は少しだけ江戸に出てきて製作をしたと言われる。その一つがこれであるならば、極めて貴重なものである。

場所  新宿区新宿2丁目9-2

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2020年7月 8日 (水)

新宿天龍寺の庚申塔(新宿区新宿)

新宿高島屋と新宿御苑に東西を挟まれた一角に都立新宿高校と天龍寺がある。高校と天龍寺の間にはかつての木賃宿、今は名前こそビジネスホテルだが一泊4000円ほどの怪しい宿が並んでいる。このごった煮感が新宿の醍醐味なのだが、新宿高校の生徒はそんなものには目もくれず、なかなか優秀な学校である。天龍寺の山門は立派なもので、江戸時代は内藤新宿の時の鐘を鳴らす寺といわれた。新宿は江戸から遠い為登城に時間がかかるため、江戸にあった8カ所の時の鐘のうち、この天龍寺の鐘のみが朝四半刻(30分)早く鐘を打っていた。また遊興地である新宿から客を追い出す鐘「追い出しの鐘」とも言われていたという。

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天龍寺の境内に入り本堂前を右に行くと墓所があり、その手前に三界万霊塔を挟んで六地蔵と庚申塔が並んでいる。六地蔵は元禄14年(1701)8月に造立されたもの。ただ統一性がないので、時代は前後したのかもしれない。向かって右手にある3つの古い石塔は3基とも庚申塔である。

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一番左はかなり摩滅していて年代は不詳。隅丸の角柱型のようである。青面金剛像があり、その下におそらくは三猿があったのだろうという凹凸がある。中央の庚申塔は駒型で、これも年代は不詳。上部の日月と青面金剛像は割と鮮明だが、下部の三猿はかなり摩滅している。さらに右端の庚申塔はほぼ完全に摩耗していて時代どころかデザインも不詳である。ただよく見てみると僅かに青面金剛像と三猿の凹凸は感じられる。形からして笠付角柱か笠付丸柱だったのではないだろうか。

場所  新宿区新宿4丁目3-19

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2020年7月 7日 (火)

上板橋子育地蔵尊(板橋区上板橋)

上板橋駅の南、東武東上線と国道254号(川越街道)の間にある商店街が旧川越街道。昔の宿場だけあって今でも賑やかな通りである。この商店街の中心になっているのが子育地蔵尊。祭りの御輿なども、この地蔵が起点になっている。古い街道の商店街のお地蔵さんというものは、なかなかいいもので、絶えず誰かが拝んでいたりして、地域住民に密着している様子がうかがえる。

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堂宇の中には3体の地蔵があるが、古いのは奥の2体。左側は安永6年(1777)10月の造立。左に「光明真言四百万遍供養仏」、右には「上板橋栗原講中  宝田市良右衛門 同久良右衛門」とある舟型光背型の地蔵立像。右側も舟形光背型の地蔵立像で、安永7年(1778)2月の造立。「武州豊島郡上板橋村之内栗原村」の銘がある。

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手前の地蔵立像は新しいもののようだが、詳細は分からない。この2体の地蔵はもともと栗原堰の一本橋付近にあったという。現在の桜川1丁目5番地でここから1㎞近く南の石神井川、茂呂遺跡のある辺りである。川越街道のこの地に移されたのは明治の初め。当初は3体の地蔵があったというが、明治時代に1基は失われてしまったらしい。大正時代になって、無残に路傍に放置された地蔵をこの地に祀ったのは豆腐屋を営んでいた宝田半次郎氏。左の地蔵の宝田市良右衛門の子孫かもしれない。

場所  板橋区上板橋2丁目2-19

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2020年7月 6日 (月)

大谷口上町の庚申塔(板橋区大谷口上町)

西光寺の北西の角は大谷口通り(旧大谷道)が五差路になっている。ここから西へはえんが堀への下りになる。しろかき地蔵がもともとあったと言われる坂道(地蔵坂)である。ここにある庚申塔は2基、どちらもなかなかきれいな庚申塔である。

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左の庚申塔は上部に日月、下部に三猿の図柄で、正面には「奉供養庚申二世安楽所」と書かれている。右面には「武州豊嶌郡上板橋大谷口村」の銘がある。左面には「願主 大谷口村」の跡に大野姓が6名名前を連ねている。造立年は元文3年(1738)2月である。右側の庚申塔は三猿が台座に彫られている。青面金剛像は邪鬼を踏みつけ、二鶏も描かれている。こちらは享保16年(1731)2月のもので、同じく「武州豊島郡上板橋村大谷口 願主 大野仁兵衛 講中9人」とある。江戸時代中期の庚申塔全盛期のものだが、見事な細工である。

場所  板橋区大谷口上町83-1

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2020年7月 5日 (日)

西光寺のしろかき地蔵(板橋区大谷口)

板橋区と練馬区の間にかつて流れていた川にえんが堀という石神井川の支流(跡)がある。定説としては千川上水の水が地下にしみこんでそれが湧水となって出てきた流れと言われるが、地形から見てそれは言い過ぎだと思った。最初から細流があって、練馬区旭丘、板橋区向原、大谷口などの地域の湧水を集めて谷を形成したはずである。この辺は以前「地蔵坂(大谷口)」にも書いた。

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大谷口に西光寺という古刹がある。江戸時代初期に創建された観音堂が始まりと伝えられる。この寺の境内にしろかき地蔵がある。年不詳だが、言い伝えによると室町時代の作の可能性が高く板橋区でも最古の地蔵らしい。この辺りは武蔵国の典型で、台地の上に武蔵野の林が広がり、細流が削った谷あいで細々と米作が行われてきた。村に伝わるしろかき地蔵の昔話がある。

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ここの下りは「地蔵坂(大谷口)」で書かせていただいたのでリンクで読んでいただければ幸いである。地蔵菩薩にこのような昔話があることは極めて多い。お互い様、の気持ちで生きてきた日本の農民の民度の高さが地蔵信仰や念仏講になっていったのだと思う。現代の日本人も石仏からいつでもそういう心を学べるはずなのだが、世間は世知辛い。

場所  板橋区大谷口2丁目8-7

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2020年7月 4日 (土)

大谷口の庚申地蔵(板橋区大谷口)

前述の大谷口の庚申塔(2基)の向かいに屋根付きの地蔵がある。ここにこれほどの石仏があることにいささか驚いた。しかもこの場所は大谷口の中心にあたる。普通は塞ノ神として村境に石仏が置かれることが多いのである。おそらくは西光寺が大谷口の中心的な存在だったのだろう。そして昔はもっと広い境内を持っていて、門前にあったのかもしれない。西光寺が面積縮小することでこの場所に残ったという可能性もありそうだ。

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こんな路地だが真っ直ぐ向こうの道も左の道もすべて江戸時代からある道である。微妙な歪曲が昔の道であることを物語っている。庚申塔は2基とも江戸時代初期の古いものだったが、地蔵菩薩像の方は少し時代が若く、江戸時代中期の延享5年(1748)2月である。丸彫の自走菩薩の尊顔は若干剥離が進んでいて時代を物語る。

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台石には「武州豊島郡上板橋大谷口村」の銘がある。願主は大野清左エ門、庚申講中12人とあるのでこの地蔵尊も庚申塔として扱われている。また裏面には石工の名前もあり、「江府駒込肴町 石工 宇兵衛」とある。「江府」というのは聞きなれない地名だが、江戸幕府のあるところという意味である。「えふ」とも「ごうふ」とも読んだようだ。駒込肴町は現在の文京区向丘あたり。大谷口村と駒込の関わり具合いも興味深い。

場所  板橋区大谷口2丁目11-8

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2020年7月 3日 (金)

大谷口の庚申塔(板橋区大谷口)

大谷口の地名の由来は不詳だが、一説には石神井川へ注ぐ沢の入口という意味があるようだ。西光寺の北側の道は大谷道とかつては呼ばれた街道。現在は大谷口通りと呼んでいるらしい。大山で川越街道に合流する。明治時代は農村地帯で上板橋村だった。そんな大谷口の西光寺から少し南に進んだところに、2基の古い庚申塔が立っている。

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どちらも唐破風笠付の角柱型庚申塔でかなりの時代物。まず左は延宝5年(1677)2月の造立。擬宝珠(ぎぼし)もきちんと残っている。下部に三猿が描かれ、正面には「奉供養庚申二世安楽所」と書かれている。側面には蓮の葉が描かれている。右側の小さい方も古く、貞享2年(1685)9月の造立。これも下部には三猿が彫られ、「奉供養庚申家世安楽之処」とあり同行8人となる。この時代にこれだけのものを作れるのはこの辺りの農家が意外に裕福だった可能性も感じられる。

場所  板橋区大谷口2丁目13-12

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2020年7月 2日 (木)

下北沢踏切地蔵尊(世田谷区代沢)

小田急線は永年の計画が実現して2013年に下北沢駅前後(東北沢~世田谷代田)を地下化した。周辺の踏切はほぼ開かずの踏切で、駅の近くには踏切が5ヶ所あった。ここは駅の小田原側最初の踏切だったが車の往来は比較的少なかった。下北沢村だったころは川沿いに水田が開け、沢の形成する谷地が毛細血管のように広がる地形で、この辺りは目黒川支流の北沢川、その支流の森厳寺川のさらに支流で、村の時代は「西山谷」と呼ばれた。その谷を横切るように昭和初期に小田急線が通ったので、ここは土橋にされた。その為踏切は峠越えのような地形になっていて向こう側が見通せない、そんな地形である。

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そんな踏切脇に地蔵尊がある。地元では「踏切地蔵」と呼ばれている。造立は昭和11年(1936)7月。この踏切では昭和の初期に連続して死亡事故が発生した。昭和2年(1929)に76歳の斎藤安五郎さん、昭和7年(1932)に13歳の小関美彌子さん、昭和10年(1935)に10歳の小関清くん、昭和11年(1936)に42歳の崔垣斗さん、とまるで呪われた踏切のようになってしまった。

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小関美彌子さんと小関清くんはなんと姉弟。13歳と10歳だが3年の時間差があるので、お姉さんが亡くなった時、弟は7歳。それが3年後に弟も踏切事故で他界するというのは堪らない。最後の崔さんは、地蔵を計画している最中の事故だったのかもしれない。しかしそれ以降この踏切では一度も死亡事故は起きていないという。地蔵脇に古い如意輪観音座像があった。これは踏切とは無関係だろう。享保14年(1729)の墓石である。

場所  世田谷区代沢5丁目34-1

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2020年7月 1日 (水)

三軒茶屋の大山道道標(世田谷区三軒茶屋)

東急田園都市線は昔は新玉川線と呼んだ。私が上京した年に二子玉川と渋谷区間が開通した。そのずっと前には国道246号(玉川通り)には通称玉電が走っていた。三軒茶屋は瀬田方面と下高井戸線の分岐点。三軒茶屋から下高井戸までは現在もまだ東急世田谷線が健在で、私もしばしば乗車する。どう乗っても147円(Pasmo)でバスと併用しているとバスクーポンで割引になることもある。現在では路面電車部分は亡くなったが、都電荒川線とここだけに残る市電の名残りである。

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玉川通りと世田谷通りの分岐する股の部分の駅出入口脇に大山道道標がある。この道標は昔はここにあったが、交通量が増加し始めると区立郷土資料館に移され、昭和58年(1983)に再びここに戻された。江戸時代からの街道の分岐点だけに、造立年は寛延2年(1749)だが、文化9年(1812)に再建、さらに昭和31年(1956)にも再建(おそらく補修)されている。

正面には大きく「大山道」その上に「左 相刕通」とある。左面には「右富士 世田谷 登戸道」、右面には「此方 二子通」とある。この道標は元は渋谷方向に向けて立っていた。「相刕通」というのは相州通の意味で、相模の国への街道(大山街道)である。世話人の欄には多くの記載があるが、出てくる世話人の住居地は、「太子堂村、江戸日本橋四日市町、三軒茶屋、野沢村、上馬引沢村、中馬引沢村、など広域にわたる。

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写真は昭和30年代のこの場所。交差点の見張り台と交番が並んでいるが、この道標は見当たらないから、郷土資料館に移された後だろうか。ミゼットとオート三輪が懐かしい。左真っ直ぐの電車のいる道が玉川通り二子玉川方面、右が世田谷通りである。記憶ではこの角には協和銀行があった。今はビックエコー(カラオケ)である。周辺は全盛期から再開発に指定された地域だが、渋谷と違いまだ何十年もかかるだろう。

場所  世田谷区三軒茶屋2丁目13-14

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