子別れ地蔵(品川区西五反田)
JR山手線五反田駅の南西に桐ケ谷斎場がある。ここの歴史は古い。江戸時代、三代将軍家光の頃、荼毘(だび)所を芝の三田からここに移したのが始まりだから400年近い歴史がある。江戸時代は土葬だろうと思われがちだが、都市部では火葬が多かった。江戸などは百万人も住んでいたのだから土葬にしたら土地が足りない。当初は寺院や墓地に火葬場があったらしいが、やはり悪臭の問題などで都心から郊外に追いやられていった。勿論、地方では土葬が主流を占めていたようだが、江戸の百万人という人口は、生まれ、育ち、死ぬまでのすべての生活インフラのたゆまない改善を要求したのである。
桐ケ谷への道と旧中原街道の交差点のすぐ近くに大きな地蔵が置かれている。江戸時代から明治時代にかけてこの辺りは桐ケ谷村と呼ばれる地域で、江戸の郊外であった。中原街道沿いには民家が多数あったが、ここから500m程離れた桐ケ谷火葬場への道周辺にはほとんど人家は無かった。地蔵の造立年は享保12年(1727)、戦災でかなり損傷しているが形はとどめている。この子別れ地蔵の話はちょっと物悲しいものがある。
江戸時代の風習で「逆縁」といい、先立った子供を火葬場まで見送ってはならないというものがあった。当然骨を拾うことなど許されなかったわけである。そんな親が中原街道の斎場入口まで同行し、ここで子供の亡骸を見送ったその場所に建てられた地蔵尊である。台石と地蔵は並べて置かれているが、本来は乗っかっていたものだろう。ここで何人の母親が地蔵にすがって泣き崩れたのかと思うと悲しい気持ちになる。
場所 品川区西五反田6丁目22-3
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