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2020年8月21日 (金)

釜寺東運寺の庚申石仏(杉並区方南)

さて釜寺(東運寺)の境内にお邪魔する。なぜ釜寺と呼ばれるかだが、天正元年(1573)に備前(岡山県)の僧が当地に来て、安寿と厨子王の守り本尊の「身代り地蔵尊」を奉納し、帰依した地元方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂として改装したのが始まり。「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」が、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助け たという言い伝えがあり、それにちなんで本堂の屋根に釜を置いた。

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しかしその身代り地蔵尊がどこにあるのかについては書かれていなかった。寺の本尊は阿弥陀如来なので違うようだ。古い山門をくぐり奥に進むと、大型の庚申塔が目に入る。なかなかしっかりした造りで、笠付円柱型というのは珍しい。造立年は寛文8年(1668)10月と古い。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、武州多麻之郡保南村(多摩郡方南村の意)の銘がある。願主は鈴木長兵衛とあり、門前の地蔵堂の古い地蔵と同じである。

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次に会ったのが舟型光背型の観世音菩薩立像。この石仏の造立年は分からない。観音様の右には「奉造立石佛之観主一躰同行三十」とあり、左には「四人現世安穏樂後生清浄土敬白」とあるが、これも江戸時代初期のものではないだろうか。

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奥の塀沿いにはいくつもの石塔があるが多くは墓石。その中でいくつかの地蔵がある。上の写真の左端は資料の写真では首があるが現在は首が欠損している地蔵菩薩坐像。元は甲州街道荻窪より移転と資料にあったが、甲州街道ではなく青梅街道の間違いではないだろうか。台石には「念仏堂道」「東運寺」「釜寺」の文字がある。

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さらに左には自然石に「子育地蔵」と彫られたものがある。年銘などは皆無で分からないが、元々は地蔵があったものが壊れてしまったので、自然石に文字を彫って置いたものかもしれない。

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さらに奥に行くと堂宇の中に数体の石仏が納められていた。大きいものは高さが136㎝あり、台石に「上総屋」とある。これだけは最初から東運寺にあったもの。右の縦並びの3基はもともと門前の地蔵堂の奥に詰めておかれていた石仏たちである。手前から聖観音立像で、二番目の首が欠損した丸彫地蔵と共に、元は環七沿線にあったものを門前の地蔵堂へ移したもの。そして右奥の丸彫地蔵は明和3年(1766)3月の造立で、資料には方南町442番地より移設とあるが旧地名のその番地は寺の門前である。台石には「六十六部供養仏 講中女中六人 江戸麻布宮村念信」とあるので、現在の麻布狐坂の近くにあったものであろう。

場所  杉並区方南2丁目5-4

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