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2020年9月30日 (水)

東和パンの庚申塔(板橋区大谷口上町)

現在の川越街道(国道254号線)の南側の不思議な場所にある庚申塔。もともとはどこにあったのか分からないが、ある場所が東和パンというパン工場の前の細路地入口。この細路地は裏の道に抜けることが出来、その先には慈光寺というお寺があるのでその境内にあるのが一般的なパターンである。しかし現実はパン工場の前にある。

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庚申塔は笠付角柱型の大きなもので、高さは1.2mある。日月に青面金剛像のみというシンプルな図柄。下部には願主名がある。向かって右の側面には「奉供養庚申講中現當二世安楽祈所  大野栄蔵  同きん  結衆 欽言」とあり、左側面には正徳2年(1712)11月28日の年紀と「武州豊嶋郡板橋村海老山之江  平沢悦治郎」の銘がある。海老山というのは、江戸から来ると石神井川の下頭橋に向かってゆっくりと下っていく海老山の坂に残る地名で、この街道沿いは江戸時代には海老山と呼ばれていたもの。

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保存状態が極めていいのは小松石を使っているからであろう。江戸城の普請をする際に伊豆方面から運んだ小松石の余材を入手して彫ったのだろうか。ただし気になるのは願主が三面にあるが、殆どが江戸時代というよりも明治時代っぽい名前である。後から彫り足したのかどうか、少し訝しかった。

場所  板橋区大谷口上町14-2 東和パン内

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2020年9月29日 (火)

万福寺の石仏(板橋区弥生町)

板橋区は町名が細かくて面白いのだが、必ずしも昔からの町名ではないところが玉にキズ。弥生町も新しい地名で小学校の名前からとったらしい。では小学校の名前はというと不詳。各地に弥生小学校と言う名の小学校があるが、ここは地名が弥生だったわけではなく、弥生小学校があったから昭和中期に弥生という住居表示になったのである。何とも気持ちがよくない。

もともとは川越街道の上板橋宿の北東側の街である。明治時代以前から地名は上板橋だった。上板橋宿の川越街道は日大病院入口から旧道と分岐、旧道は海老山の坂でゆっくり下って下頭橋を渡り、長命寺に向かうが、この辺りは坂道シリーズの長命寺坂でも少し書いた。

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万福寺は現在の川越街道と旧川越街道の間にある。創建は不詳だが江戸時代初期らしい。宝仙寺(中野区)の末寺だが管理は大谷口のしろかき地蔵のある西光寺が行っていた。江戸時代から無住の寺だったので、川越街道を旅する旅僧の仮宿だった。

境内に入ると左に2基の庚申塔がある。どちらも笠付角柱型で、左の大きい方は正徳3年(1713)2月のもの。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「武刕豊嶋郡上板橋廿余人」とある。右の庚申塔は、元禄10年(1697)12月の造立。武州豊嶋郡上板橋村結衆の銘がある。

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向かいには小さめの駒型庚申塔が1基。元文5年(1740)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。左面には「武刕豊嶌郡上板橋村海老山」の銘があるが、海老山は江戸時代のこの寺の山号でもあるらしい。庚申塔の横には丸彫の地蔵菩薩立像が並んでいる。

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右から3体は六地蔵のうちの三基らしい。残りの三基は分からない。右は、享保7年(1722)2月に地蔵講中百余人による地蔵。二番目は正徳3年(1713)2月造立で、「武州豊嶋郡上板橋 講中九十余人 敬白」とある。三番目は、享保3年(1718)3月造立、こちらも「武州豊嶋郡上板橋講中九十余人敬白」の文字がある。

一番左の地蔵は個人供養のものだろうか。年紀は台石右には寛永20年(1643)6月とあるのに、左面には慶安3年(1650)9月とある。正面には二人分の戒名があるので、それぞれが亡くなった年だろう。川越街道は元は太田道灌が江戸城と川越城の往来に開いた道だが、整備されたのは寛永16年(1639)である。この左端の地蔵はその頃のものだと考えると、墓石だが見どころがある。

場所  板橋区弥生町73-10

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2020年9月28日 (月)

専称院の石仏(板橋区仲町)

板橋区仲町(なかちょう)は東武東上線大山駅と中板橋駅の間の線路より南西側のエリア。仲町とつく地名はあちこちにあるが、ここも大きな地域の中心にあるという意味の仲町だろうか。仲町の昔の地名は山中である。人口が増加したのは戦後で、戦後の地名は由来が曖昧なものが多い。

川越街道の上板橋宿に出る道と下板橋宿に出る道の分岐点近くに江戸時代からあるのが専称院で、正式名称は亀嶋山地蔵寺専称院という。元は北区の荒川(現在の隅田川)沿いにあり、現在地に移ったのは昭和12年(1937)。ところがそれ以前の地図にも卍マークがある。実は江戸時代ここには乗蓮寺があり、廃寺後も香林庵という庵が残っていた。

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門前の堂宇には丸彫の地蔵がある。造立は安永8年(1779)7月で、台石正面には「法界施入三界万霊」、左面には「庚申講中拾五人」、そして右面には「武州豊嶋郡下板橋山中村己亥念仏子供中」と彫られている。庚申講中の建てた地蔵ということで庚申塔に含めても良いかもしれない。その昔、旧川越街道と子易道の分岐点にあったと伝えられるので、現在の大山駅東口の商店街の三井住友銀行とJTBがある向い辺りにあったもの。

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境内に入っていくと、塀沿いに石仏石塔が並べられている。その中で目立ったのが2基の地蔵菩薩坐像。右の地蔵の台石には「竪通三界  溺水亡霊解脱塔  横活九居」とある。そして他の面にはいくつもの寺の住職名がある。この右の地蔵の造立年は庚申の寛政12年(1800)11月。

左の地蔵の方はというと、台石正面には「慈眼視衆生  救世除水難宝塔  福聚海無量」とあり、左には「祐天大僧正蕉跡」、右には「或漂流巨海  竜魚諸鬼難  念波観音力  波浪不能没」と書かれている。こちらの地蔵の造立年は不詳である。しかしどちらも、専称寺が現在の北区にあった頃、荒川の洪水などで水難を受けて亡くなった人々への供養仏だということがわかる記述である。

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更に塀沿いにはゼニゴケで真っ白になった庚申塔がある。この庚申塔は中折れしているが、平成7年(1995)発刊の板橋区の資料の写真にはほとんどゼニゴケは付着していない。当時の写真も中折れ部分の青面金剛像の足などはきちんと残っているのでその後の風化が酷いのだろう。駒型の庚申塔で、造立年は享保5年(1720)12月、下板橋の銘がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、右面には「右ハ 小石川おふ内道」、左面には「左ハ 中仙道しむら道」と書かれている。おふ内というのは御府内のことであろう。

この庚申塔も門前脇の地蔵菩薩と同じ場所にあったものらしい。大山の駅前商店街は江戸時代から賑やかな街道でその北西の入口にあたる場所である。

場所  板橋区仲町44-1

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2020年9月27日 (日)

山中の庚申塔(板橋区仲町)

かぶとやの庚申塔前を東西に走る古い街道(現在名は豊嶋病院通り)を西に進み、昭和6年(1931)に開通した東武東上線をくぐると、線路脇の土手下に屋根付きの庚申塔が立っている。ここから200mくらい先には大山からの道と上板橋の下頭橋(げとうばし)近くから分岐した道がぶつかるところがあり、その辺りからこの庚申塔のあたりを大正時代まで山中と呼んでいた。

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昭和2年(1926)まではすぐ近くに7坪の境内を有する庚申塚的な庚申塔だったようだが、東武東上線の開通工事に伴って今の場所に移ったという。それでも1坪以上はありそうだ。舟形光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。三猿の下には恩田十兵衛他5名の願主銘があり、中央に山中講中と彫られているので、このあたりの集落による講中だったのだろう。

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青面金剛像の脇には、「奉立供養庚申像敬紀」とあり、向かって左側には「庚寅年十一月十四日」という年紀がある。庚寅の年となると60年毎にあるので、可能性としては慶安3年(1650)、宝永7年(1710)、明和7年(1770)、文政13年(1830)、明治23年(1890)のどれかなのだろうが、石の状態と集落の歴史から考えて、宝永、明和、文政のどれかだと思う。

場所  板橋区仲町8

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2020年9月26日 (土)

かぶとやの庚申(板橋区栄町)

板橋区は新宿区、千代田区に並んで旧地名が保存されている。東武東上線大山駅の北に栄町という町がある。東西400m南北600mほどの区画で、その中央を東西に通るのが豊島病院通り。この道は古い道で、中山道の仲宿と川越街道の上板橋宿を結んでいた道が現在に至っている。豊島病院通りというのはこの道沿いにある東京都系列の豊島病院からくるものだが、途中の辻にかぶとやという食品店とタバコ屋があり、かぶとやの角に庚申塔が祀られている。

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堂宇というよりも簡易的な屋根で、いかにもかぶとや(柴田さんというらしい)が自前で造った雰囲気が出ている。近所では通称「かぶとやの庚申塔」で通っているらしい。高さは87㎝、駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。青面金剛の向かって右には「奉造立庚申供養二世安楽」とあり、左には年紀が宝永4年(1707)11月と刻まれている。

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板橋区の資料には舟型とあったが、見た感じはやはり駒型である。硬い石材なのか、それぞれの形はきれいに残っているが青面金剛の顔だけはのっぺらぼうになっていた。ところでこの栄町界隈は明治時代は競馬場だったことはあまり知られていない。都内にはかつて10ヶ所もあった競馬場だが、道として残っているのは目黒競馬場くらいのものである。当時はこの庚申塔も競馬場の周回コースの内側になる。果たして競馬場があった数十年?の間はどこにあったのだろうか。

場所  板橋区栄町19-19

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2020年9月25日 (金)

新田さくら公園前庚申塔(足立区新田)

新田の東側にあるさくら公園だが、以前はトーア・スチールという鉄鋼工場だった所。元々ここには東芝がやっていた東芝製鋼工場があり、1970年頃東伸製鋼となったのち、1987年にトーア・スチールと名を変えたが間もなく1999年には解散し工場は終わってしまった。おそらくは荒川と隅田川に挟まれた環境で水の確保が容易だったので製鉄業があったのだろうが、現在周辺はハートアイランドと呼ばれるマンション群になっている。

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さくら公園の角にパーキングがありその傍に堂宇がある。中を覗いてみると庚申塔が一基祀られていた。駒型の庚申塔で、寛延3年(1750)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。左面には「武州足立郡渕江領鹿浜新田」の銘が彫られている。このあたりは江北村だった時代もあり、今の新田橋辺りには野新田(やしんでん)の渡しがあった。

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野新田の渡しはかつて近郊の農産物の野菜を都内に運ぶ重要な渡しだった。というのも、大正13年には明治末から掘削された荒川放水路に水が通され、新田は孤立状態になった。その新田地区の重要な交通手段として隅田川に野新田の渡しがあったのである。新田橋は戦前に木橋が架けられたが、今の橋が1961年に架かるまで、野新田の渡しは続いたという。

場所  足立区新田3丁目33-1

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2020年9月24日 (木)

新田神社の庚申塔(足立区新田)

北区と足立区の区境は荒川と思われがちだが、実は隅田川である。荒川は明治43年(1910)の水害を機に、明治44年(1911)から昭和5年(1930)の19年を掛けて掘削された人工の川。したがってもともとの境は現在の隅田川である。もっとも北千住は足立区なので、そこから荒川と隅田川の分岐点である岩淵水門までの川の間の土地が足立区であるのは自然なこと。北千住から上流に向かうと、小台、宮城、新田となるが、その先の岩淵水門直前で、いきなり埼玉県川口市になり、その先では東京都北区になるという不思議な行政割をしている。

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新田神社は足立区突端の新田の西にある。新田神社は稲荷神社で、元禄10年(1697)の創建。戦災で焼失した本殿は戦後再建された。新田地区はまるで干拓地のような風景だが、明治時代以前に荒川は存在しないのでもともとは隅田川左岸だが、正保年間から元禄年間に鹿浜新田として開拓された新しい耕地であり、江戸時代は荒川を使って筏にして木材を上流から運搬する休憩地としても賑わっていた。

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新田稲荷神社の境内には当時の石仏が祀られている。左は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれており、邪鬼が仰向けになっている珍しいもの。造立は宝暦6年(1756)4月とあり、「武州足立郡渕江領鹿浜新田」の銘が彫られていた。いっぽう右側の大きい石塔は板碑型の日待供養塔で、造立年は貞享3年(1686)9月。新田ではまだ開発初期だった時代である。「奉供養己待講二世安樂所 敬白」とあるので、己待講(日待講)であることがわかる。また、「武刕下足立郡渕江領萱野新田」とあるので、当時カヤの産地となっていたと言われる地域のものだろうか。

場所  足立区新田1丁目18-2

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2020年9月23日 (水)

自性院境内の庚申塔(北区神谷)

さて、自性院の門をくぐり境内に入ってみよう。真言宗智山派の自性院に▢▢寺という寺号はなく、自性院が寺号である。創建年は不詳だが、江戸時代後期にはあったとされている。内側の門をくぐると右手に石仏が並んでいる。

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上の写真は最初の門の前で、写真のように左に6基、右に1基の庚申塔が出迎えてくれる。向こうの本堂手前にあるのがもうひとつ内側の門である。

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一番手前にあるものと二番目のものはとても良く似ていて大きさが違うだけだが、どちらも如意輪観音像である。まずは右側の大きい方だが、舟型で造立年は延宝8年(1680)9月。如意輪観音の上には「奉造立庚申二世安樂処」とあり、脇に日月があるので、これも庚申塔である。年号のところにも、庚申9月28日とある。右側には「武刕豊嶋郡神谷村 同女廿三人」とあり、女講中によるものである。左側の小さい方は、元禄4年(1691)11月造立の同様の庚申塔。尊像は如意輪観音である。こちらも武刕豊嶋郡神谷村の銘がある。この塔はもともと月待講の二十一夜塔である。

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その左には珍しい形の駒型風の庚申塔がある。元禄9年(1696)2月に造立されたもので、上部に日月、その下には「奉供養庚申現當二世 安樂之所」と書かれている。その両脇には「武刕豊嶋郡神谷村」「同行十一人」とあり、下部に三猿が彫られている。これも二十一夜塔である。月待信仰と庚申信仰が合わせて行われていたことを物語っている。その下は蓮葉である。その左にあるのは珍しい地蔵菩薩と聖観音のセットになった図柄の石塔だが、これはどうも墓石らしい。

場所  北区神谷3丁目45-1

 

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2020年9月22日 (火)

自性院門前の庚申塔(北区神谷)

環状七号線と北本通りの交差点は「神谷」ではなく「宮堀」である。そこが無性に気になった。大正時代、隅田川の渡しがあって、神谷の渡し(別名、宮堀の渡し)と呼ばれた。この渡し場は昭和35年まで続いたらしいが、宮堀の由来はわからない。しかし現在も数万台の車が往来する交通の要衝である。この交差点に自性院がある。

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門前には7基の庚申塔が、まるで参詣者を迎え入れるように立っていて壮観である。最も道路側にあるのは、舟型の庚申塔で造立年は貞享4年(1687)9月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼が描かれ、台石に三猿が彫られている。邪鬼の下には「武刕豊嶋郡  奉供養」とあり年紀が記され、「神谷村 敬白」とある。右の舟型如意輪観音の半跏像も庚申塔。元禄3年(1690)11月造立で、「武刕豊嶋郡神谷村」の銘がある。台石には三猿が同じように彫られている。

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その右には大きな青面金剛像が彫られた豪快な舟型の庚申塔。この青面金剛像は袈裟を纏っていて、袈裟に寛文11年(1671)10月の造立年が書かれている。横には武刕豊嶋郡とあり、道行十二人と書かれている。右側は地蔵菩薩立像の庚申塔。造立年は延宝6年(1678)11月。上部に日月があり、向かって右に「奉供養庚申待二世安樂処神谷村」、左に「武州豊嶋之郡神谷村」と年紀が彫られている。

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道路から遠い2基は、左が聖観音立像の庚申塔。上部に日月があり、向かって右側に「奉供養庚申為二世円満」とある。左には造立年の元禄8年(1695)と「武刕豊嶋之郡神谷村」とあり、台石に三猿が彫られている。右の板碑型の石塔は、元禄元年(1688)11月造立の庚申塔。板碑青面には、「武刕豊嶋郡神谷村願主」「奉供養庚申現當二世安樂所」、そして造立年が彫られている。また、台石にはうっすらと二鶏が見える。

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参道の向かいには小さめの角柱型庚申塔。こちらは文久3年(1863)正月と相対的に新しいもの。本体青面には、「南  庚申塔」とあり、日月と三猿が上下に描かれている。本体右には「右 十條道」、左には「右  下むら  左  王子 みち」とあるので、現在の向きで立っていたものであろう。門前だけでこれだけ並んでいるのは極めて珍しく、一基ずつ堪能させていただいた。

場所  北区神谷3丁目45-1

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2020年9月21日 (月)

泉福寺の石仏(北区神谷)

江戸時代の神谷村、現在の北区神谷にある大きな寺院は自性院と専福寺だが、どちらも創建がいつなのか分かっていない。鎮守である柏木神社は江戸時代どころか、元享年間(14世紀)で鎌倉時代が南北朝時代に入る時代の創建であるが、どうも寺院は江戸時代の後期に出来たようである。しかし境内にはそれぞれ古い庚申塔などが祀られており、神谷村の人々が古くから民間信仰を行ってきたことがわかる。

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西側の門を入ると、門脇に3基の石仏があり、舟型の地蔵菩薩立像、右には聖観音立像、その間には駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれているが、残念ながら青面金剛の尊顔は破損してしまっている。造立年は寛政9年(1797)8月で「講中三十七人」とある。

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西門から本堂に向かっていくと手前に六地蔵堂があり、六地蔵の脇に庚申塔が立っている。向かって左にあるのが笠付角柱型の庚申塔で、中央には「奉供養庚申待二世」、右に「武刕豊嶋郡神谷村 施主」、左に年紀がある。造立年は延宝6年(1678)霜月(11月)である。その下には幾分ふっくらした三猿が描かれている。

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六地蔵堂の右には舟形光背型の地蔵菩薩立像があるが、地蔵の脇に彫られている文字を見ると、「奉造立庚申待同行拾二人為二世安樂」とあり、庚申講中による庚申塔であることがわかる。錫杖の脇には造立年である寛文11年(1671)8月の年紀があり、「武刕豊嶋郡神谷村」の銘がある。寺の生い立ちよりもずっと前の庚申塔がこうして並んでいるということは、かつては周辺に立てられていたものだと思う。

場所  北区神谷3丁目32-11

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2020年9月20日 (日)

ゴミ置き場の庚申塔(北区神谷)

時に街中の路地にあり、ほとんど誰にも気づかれないで立っている庚申塔がある。大井町駅の閉店した商店のエアコン室外機脇の庚申塔とか、世田谷区砧の電柱脇の榛名山供養塔など、見つけた時は嬉しくなる。この庚申塔もそんなひとつではないだろうか。

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たまたま訪問した時間だけかとも思ったが、どうもペットボトルのネットなどは常設っぽい。その真ん中に鎮座しているのがおそらくは庚申塔である。北区の文化財資料にも載っていたが、昭和の時代ですでに造立年も主尊像も不明となっている。しかしこういう神様?こそ実はご利益の深い神様ではないかと思うのである。

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何の像があったのか、何が彫られていたのかはほとんど分からないくらい摩滅と破損が進んでいる。当然戦災も受けただろう。資料によると、本体右面には「文▢▢・・」とあり、左面には「右下村▢▢・・」とあるようだが、「文」が年号だとすると文化年間(1804~1818)、文政年間(1818~1830)、文久年間(1861~1864)のどれかの可能性がある。右下村は「下村:神谷村と赤羽村の間にあった小さな村」の事ではないだろうか。江戸時代にはこの辺りに東西に小川が流れていて、それが神谷村と下村の村境であったようなので、塞ノ神の要素も十分考えられる。

場所  北区神谷3丁目34-1

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2020年9月19日 (土)

柏木神社稲荷大明神石祠(北区神谷)

江戸時代の神谷村は小さな村だったが、荒川(現在の隅田川)の流域で田畑が広がっていた。明治に入って合併で岩渕町となり、終戦後王子区から北区となった。現在の環状七号線の北側、北本通りと京浜東北線の間が神谷という地域である。その神谷村の鎮守として元享年間(1321~1324)に創建したのが柏木神社である。かつては広い境内を有していたが、周辺に軍需工場が出来て土地を奪われ、現在の地に収まった。

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柏木神社の境内に稲荷宮がある。小さな石祠なのに大きな鳥居がアンバランスだが、この石祠が実は庚申講によるものというとても珍しいケースなのである。石祠の建立年は享保3年(1718)12月。笠(屋根)に「太」と彫られているのは何の意味なのか分からない。

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石祠の正面には「稲荷大神」と彫られ、左面には造立年と「右志者村中施主 〇〇」とある。右面には「武州神谷村」の銘があり、「奉供養庚申講中 諸願成就」の文字が見られる。江戸時代中期は村中が庚申講中で盛り上がっていたのだろう。庚申塔だけでなく、この年代にはこういう石祠や手水鉢、まれに狛犬にまで庚申講と彫られていることがある。

場所   北区神谷3丁目55-5

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2020年9月18日 (金)

八雲神社庚申塔(北区中十条)

環状七号線と旧岩槻街道(日光御成道)の交差点にあるのが八雲神社。この東側の環七の緩やかな坂は馬坂と呼ばれるが、江戸時代は大川(隅田川)の河岸段丘の崖線で階段並みの急坂だった。馬坂のところでも触れたがこの八雲神社は小さい神社で見落としがちだが、昔は環七がないので日光御成道のランドマークだったのだろう。

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十条八雲神社の創建は寛政8年(1796)と伝えられる。かつて境内には樹齢三百年を超える大杉があり、天王の一本杉と呼ばれたというが、これも含めて日光御成道の目印だと言えるだろう。八雲神社となったのは八雲講が管理しているためで、元々は牛頭天王社だったようだ。もっともどちらも京都の八坂神社系列らしい。

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境内にあるのが駒型の庚申塔で、「庚申塔」という大きな文字、台石に三猿という図柄である。造立年は天明4年(1784)11月で、「武刕十条村講中」の銘がある。また道標も兼ねているようで、「是より左りいたばし道」とある。江戸時代は神社の東側は崖線を下る馬坂、西側には板橋への街道があり、姥ヶ橋から北西に向かい蓮沼で中山道へ繋がっていた。

場所  北区中十条3丁目33-12

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2020年9月17日 (木)

日枝神社庚申塔(北区十条仲原)

環状七号線がJR埼京線を渡る橋は親柱に富士見橋とある。しかし周辺には富士見と呼べそうな場所はない。そもそも埼京線はほぼ南北に走っているので、西にある富士山が見えるはずもない。ただ橋の少し東に富士見ビルというビルもある。また環七の北側には富士見診療所という内科小児科の病院もある。そして、日枝神社のすぐ西側で環七にぶつかる南から続く商店街が十条富士見銀座商店街ということが分かった。東十条駅の近くには富士講の富士もあるので、まあ昔は見えたのかもしれない。

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日枝神社は小さな神社で本殿は庚申塔の堂宇と大きさがあまり変わらないほどこじんまりとしている。庚申塔は本堂に向かって右手にある堂宇にあり、板碑型ではあるが、ほぼ駒型っぽく、日月、青面金剛像、二鶏、一猿の図柄。高さは124㎝もあり比較的大きな駒型庚申塔。造立年は延宝4年(1676)2月で古いものである。

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青面金剛の右側には「奉納庚申待供養二世安樂所」とあり、左側には年紀と「武刕豊嶋郡十条村」の銘が彫られている。近年も庚申の祭りは継続されており、「仲原庚申」というらしい。いったん途切れていた庚申講が近年復活し、庚申講では年6回庚申様のお祭りを開催している。神社の境内にあることで、庚申講が継続している例と言えるだろう。

場所  北区十条仲原2丁目6-5

 

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2020年9月16日 (水)

聖観音堂の石仏(北区上十条)

埼京線十条駅から西へ、環状七号線の姥ヶ橋との間にあるのが雪峰院長泉寺。その門前にあるのが聖観音堂という赤い門構えの小堂である。堂宇の中に何が祀られているのかは、門から中へは入れないので分からない。小堂の手前、左側に石仏が並んでいる。

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手前側は駒型の庚申塔で、高さが135㎝もある大きなもの。上部に日月、青面金剛像、その下に二鶏と三猿が彫られている。造立年は延宝5年(1677)12月、江戸時代初期のものである。青面金剛像の右には「奉造立青面金剛尊像一躰二世安樂処」と書かれている。平成8年(1996)発刊の北区の資料を見ると頂部の欠損がないので、それ以降最近壊れたものである。

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その隣の丸彫石仏は白衣観音立像。奥の舟型の石仏は大日如来像であろう。造立年は天和3年(1683)3月とある。いつも門扉がきっちり閉鎖されているのは、庚申塔の頭頂部を破損させたいたずらがあってその結果ではないかと思ってしまう。昭和、平成、令和と時代は移り変わるが、神仏に危害を加えるものは必ず報いを受けると信じるべきだろう。おどろおどろしいものではなく、人の生きざまとして問われる一線という意味である。

場所  北区上十条3丁目25-2

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2020年9月15日 (火)

十条民家門脇の庚申塔(北区上十条)

JR埼京線十条駅から西へ約200mほど、場所を知らなければ到達不可能なところである。しかしあくまでも民家なので、静かに見て通り過ぎるのがいちばん。このお宅は高木家、その門前に一基の庚申塔がある。

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植木鉢の植物に覆われていて、近所の人も気づかないかもしれないが、植木鉢の後方に立派な庚申塔が立っているのである。角柱型だが、もしかしたら元は笠付角柱型だったのかもしれない。門とブロック塀の角に置かれているので二面しか確認できなかった。正面上部には日月、その下に「庚申塔」の文字。

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そのさらに下には、「上十条村前新田 講中」とある。江戸時代末期この辺りは十条村だった。十条駅前の十条銀座周辺の小字が前新田、その西側が新堀、北が仲原町で、上十条村前新田となるとまさに地元である。横面には「東 王うじみち」とあるが、造立年は分からなかった。似たような角柱型文字塔で比較的近場のものは、東十条駅前にある寛政3年(1791)のものと十条駅近くにある天保15年(1844)のものがあるので、それと同じくらいの年代だろうと推測される。

場所  北区上十条2丁目22-3

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2020年9月14日 (月)

としまえん前の馬頭観音(練馬区練馬)

2020年8月31日で閉園となったとしまえん(豊島園)。94年前に開業した遊園地だが、場所は練馬区なのに何故豊島園という基礎的な疑問を持つ人も多い。もともとこの地は室町時代に築かれた練馬城という館城の跡地である。この地を治めていたのが豊嶋氏で、東京の半分は江戸時代から明治にかけても豊嶋郡だったほどである。また練馬区はもともと板橋区の一部だったが、戦後ようやく練馬区が誕生したくらい新しい。

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その豊島園のゲートの北側には現在も豊島園庭の湯というスーパー銭湯がある。その前の細路地に二基の馬頭観音が立っている。手前の切り株は長い事ここに生えていた銀杏の樹の切り株。いつ伐採されたのか分からない。去年はあったはずである。切り株のすぐ傍にある三角形の自然石の馬頭観音塔は明治43年(1910)6月の造立。施主名は鈴木芳太郎とある。

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もうひとつは角柱型の馬頭観音。こちらは昭和2年(1927)のもので、施主は大野太右衛門とある。この昭和2年(1927)という年にとしまえんは開業した。自然石の馬頭観音の横にとしまえんと同時に立てられた馬頭観音はとしまえんの閉園を見送ることになったのである。

場所  練馬区練馬4丁目19-7

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2020年9月13日 (日)

護国寺の石仏(2) (文京区大塚)

護国寺の石仏の多くが集まっているのが、太子堂の周辺。太子堂は元禄14年(1701)に再建された薬師堂を大正末期から昭和初期に大改修してこの場所に移し太子堂としたもの。この太子堂の周りには地蔵と庚申塔が建ち並んでいる。

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まずひときわ背の高い光背付きの丸彫地蔵尊、これは身代り地蔵である。時代は新しいもので昭和戦後の造立。第二次大戦の戦犯は現在のサンシャイン60のある場所にあった巣鴨プリズン(巣鴨監獄)に囚われ、千名余りが戦犯として死刑になった。その霊を弔う目的で護国寺が造立したものである。

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もうひとつの地蔵尊は堂宇に納まっている一言地蔵。これがなかなか面白い。小松未歩の『願い事一つだけ』ではないが、一つだけ願いを叶えてくれるという地蔵尊である。堂宇の内壁には、「お地蔵さんは寒がりです。足元だけに水を掛けてください 。」と書いてあった。素敵なお願いの方法である。

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地蔵の後ろの斜面に並んでいる庚申塔だが、まずは正徳2年(1712)9月造立の舟型光背型の庚申塔。面に対して大きな青面金剛像の上には日月、下には三猿が彫られており、「諸願成就」と刻まれている。

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次はシンプルな駒型の庚申塔。上部に日月、中央に種子(ウーン)が彫られ、下部に三猿が見られる。造立は延宝8年(1680)5月と比較的古いもの。昔は5基の庚申塔がまとめて並べられていたらしいが、現在は太子堂と鐘楼の間の斜面の植込みに点在している。

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その先には角柱型の庚申塔がある。形から推測すると、元は笠付だった可能性が高い。最上部には日月、その下に種子(ボローン)と「庚申」の文字。その下には小さめの文字で「講中」とある。造立は延享3年(1746)1月。台石には、資料によると、小石川大塚町、牛込などの地名があるようだ。

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分かりにくい場所にあったのが、上の庚申塔。角柱型で上部が丸みを帯びている。前面には日月と種子(ボローン)、「奉供養」「庚申塔」「諸願成就所」の文字があり、下部に二鶏と三猿がある。右面には「小石川御箪笥講中 敬白」とあるらしく、造立年は正徳6年(1716)5月。

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最後はとても彫りの見事な変わった形をしている。造立年は元禄2年(1689)3月。上部に日月、そして青面金剛像、その下に邪鬼、最下部に三猿が彫られているが、どれも極めて質が高い。左右面には一鶏がそれぞれある。護国寺の庚申塔はどれも個性的で、当時の江戸の人々の洒落っ気が出ているように思う。江戸時代の中でももっとも華やかで景気の良い時代のもので、少しアートに近づいている感じがする。

場所  文京区大塚5丁目40-1

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2020年9月12日 (土)

護国寺の石仏(1) (文京区大塚)

都内有数の寺院のひとつ護国寺、徳川五代綱吉が生母桂昌院の発願で開山した大型の寺院。江戸川橋から続くまっすぐな音羽通りは護国寺の参道である。交番脇から大きな仁王門をくぐる。護国寺の伽藍への入口は元禄10年(1697)の建立。表側左右に金剛力士像、右側が阿形(あぎょう)、左側が吽形(うんぎょう)。裏側には二天像という仏法を守る仏像が置かれている。

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真っ直ぐ進むと石段がある。これも河岸段丘。現在の道路と同じ筋に東から流れてくる音羽川、西から流れてくる弦巻川、この二つの河川の又にできた台地への上りである。実はこの階段を上る前に、右手にある音羽富士に登ると楽しい。東京に百を超える富士講富士の中でもよく保存されているもののひとつ。

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この石橋の向こうに音羽富士がある。橋はこっちと向こうを繋ぐもの、見方を変えるとこの世とあの世を繋いでいるとも考えられてきた。坂もそうであり、坂の上と坂の下は別世界と捉えられる。この橋の手前にある冨士道と書かれた自然石の裏に「庚申」の文字を見つけた。

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しかしおそらくは巣鴨の庚申塚のことである。その下に半分埋まっているのは「若者」という文字、その下を含めると「若者衆」ではないだろうか。音羽富士の高さは6mほどしかないが、沢山の石塔石仏が建てられていて、それを見ながら上っていくと結構な高さに達する。富士登山を楽しんで石段に戻る。

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その石段下に摩滅してボロボロになった庚申塔がある。角柱型で、正面には「庚申供養塔」、右面に「左江戸道」、裏面には「右いわつき道」とある。造立年は摩滅していて読み切れない。▢▢元年5月とあるが、元年で該当するのは、寛永元年(1624)、慶安元年(1648)、貞享元年(1684)、延享元年(1744)、文化元年(1804)、元治元年(1864)のうちのどれかだろう。

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石段を登り切って不老門(昭和13年建立)をくぐると広い境内に出る。正面には大きな本堂。この本堂(観音堂)も元禄10年(1697)に建立されたもの。関東大震災にも第二次世界大戦の空爆にも耐えた江戸の遺産である。伽藍は広く本堂の左右に広がる。左の方に進むと薬師堂がある。この薬師堂の建立は元禄4年(1691)で境内で最も古いものである。

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薬師堂の裏手にひっそりと佇む不思議な石塔がある。文京区指定有形民俗文化財の庚申塔で、造立年は天明5年(1785)。江戸時代も中期になるとあまり良い石材のものが無くなっていくのだが、これは材も石工も超一流である。台石にはびっしりと関係者の名前が彫られており、石工は安部勘助、細工人は安富与兵衛とある。このタイプの庚申塔は他に例を見ない。音羽下町講中によって造られたもので、塔の上部を三猿が支えている。

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正面側には二猿、裏に回ると一猿と唯の荒っぽい造りの支柱が一本。この支柱があまりに雑なので、前述の石工の考えはどうだったのだろうと気になった。台石に書かれた文言を見ていくと、どうもこれを造立する前に延宝8年(1680)の庚申塔があったらしい。それから105年後に音羽下町講中によってこの見事な庚申塔が再建された、というか新調されたのだろう。

場所  文京区大塚5丁目40-1

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2020年9月11日 (金)

腰掛稲荷社の庚申塔(文京区目白台)

目白台を形成した川は南の神田川と北、そして東を流れた弦巻川である。弦巻川は雑司が谷台の西側から流れ、護国寺前で音羽川と併流し、江戸川橋で神田川に合流していた。目白台の東側の流程上には首都高速5号線が通っている。腰掛稲荷のある目白台北部は江戸時代は百人組同心という下級武士の団地のような場所だった。現在は筑波大付属の視覚特別支援学校があるが、以前はこの前身の盲学校と東京大医科分院があった。(ハンディキャップの人に対する言葉が分かりにくくなればなるほど、言葉の定義が人を分断しているように思う)

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目白台の崖線上に腰掛稲荷があり、その前に2基の庚申塔が立っている。左の駒型庚申塔は元禄3年(1690)11月の造立。上部に日月、中央に「奉供養庚申講為二世安樂」とあり、その下に三猿が彫られている。三猿の岩座の凸凹には二鶏が組み込まれている。右の駒型庚申塔は貞享2年(1685)11月の造立。中程が折れて接合補修した跡がある。上部に日月、「庚申供養所」の文字、下部に三猿と二鶏が彫られている。

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稲荷神社には菊花石という珍しい石がある。岐阜県の根尾村で産出する石で、見事な菊花紋がある。稲荷とは特に関係がないようだ。腰掛稲荷というのは珍しい名前だが、由緒を見ると、徳川三代家光が鷹狩りで当地を訪れた時、切り株に腰掛けて休憩した。その時傍にあった祠に大願成就をしたという。その祠が腰掛稲荷の前身ということらしい。

場所  文京区目白台3丁目26-1

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2020年9月10日 (木)

妙足院の庚申石仏(文京区小日向)

小日向には名坂が多い。見事なのは鷺坂、その北には八幡坂鼠坂、そしてそれらの坂の上から南に下るのが大日坂である。この大日坂の坂の由来が坂の説明板にある。

「坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが 絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。」

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その妙足院はとても小さな寺院で寛文年間(1661~1673)の創建と言われる。普通の広めの民家と思ってもいいくらいである。昔は長谷寺という寺号があったが現在はない。ご本尊の大日如来というのが、言い伝えによると慈覚大師が唐で賜ったというもの。真偽のほどは分からないが、江戸時代に信仰の対象になったくらいだからご利益はあるのだろう。本堂へのアプローチには丸彫の聖観音像が立っている。

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その奥にあるのが、舟型光背型の聖観音菩薩像の庚申塔。首のところで中折れしているが、補修の状態からして昭和年代だろう。本体の造立年は寛文8年(1668)11月と江戸時代初期のもの。右側に「庚申供養」の文字がある。

場所  文京区小日向2丁目17-6

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2020年9月 9日 (水)

永泉寺の庚申塔(文京区関口)

大泉寺の先、目白坂を少し上ると変わった本堂の寺院がある。曹洞宗の永泉寺である。本堂は築地本願寺に雰囲気の似た古代インド様式風の屋根で日本の寺としては違和感があるが、それ以外はこじんまりとしたお寺である。

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墓所は本堂の裏手にある。本堂の左側に壊れた地蔵が2体と潰れたような庚申塔が1基並んでいる。大きな地蔵の台石には「萬霊等」とあるが、もしかしたら萬霊塔の間違いだろうか。江戸時代の漢字の間違いは結構多くて面白い。

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潰れたような庚申塔と言うのがこの写真のそれで、おそらく笠付角柱型である。「庚申塔」の文字の下に三猿が彫られている。造立年は不明。脇に「男女都合35人」とある。三猿のみというパターンは江戸時代前期に見かける。年代が不明なのが惜しい。ちなみに永泉寺の創建年は寛永元年(1624)である。

場所  文京区関口2丁目3-18

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2020年9月 8日 (火)

大泉寺の石仏(文京区関口)

目白坂を上り始めるとお寺と神社がある。現在は三寺二社だが、江戸時代は倍近くあり、途中の今は無き目白不動新長谷寺には時の鐘があった。時の鐘は江戸市中に9つ、神田本石町(現小伝馬町)、上野寛永寺、浅草寺、芝増上寺、赤坂田町成瀬寺、市谷八幡、本所横堀、四谷天龍寺(現新宿の天龍寺)、そして目白不動である。芭蕉の句、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」とあるように、江戸町民はこの鐘を聞いて時刻を知った。

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山門を入って奥に進むと本堂の前の植込みに庚申塔が立っている。駒型で三猿のみの図柄、三猿の並びが横ではなく騎馬戦の騎馬のような体型。造立年は貞享2年(1685)4月、上部には「諸願成就」「奉供養庚申」「皆令満足」と書かれている。願主なのか下の方に「山本氏女」とあった。

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墓所の方に向かうと大きな石仏が5基ほど並んでいる。ほとんどは造りは良いが墓石のようだ。ただ左端が、舟型光背型の阿弥陀如来立像の庚申塔。高さは184㎝もある。阿弥陀像の右には、「奉敬実庚申講為二世安樂也」とあり、左には寛文6年(1666)2月の造立年が刻まれている。長い年月を経てもほとんど欠けのない完璧な石仏である。

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その右には珍しい半跏像の舟型光背型地蔵菩薩像。こちらはさらにきれいな状態を保っているが、造立年は延宝2年(1674)10月とほどんど変わらない古さ。しかしこれはどうも墓石あるいは当時の他界した僧侶の供養に建てられたもののようである。その先に並ぶ地蔵と観音像も墓石ではあるものの素晴らしい作品と言えるくらいの見事な石像である。

場所  文京区関口2丁目3-15

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2020年9月 7日 (月)

水神社下庚申塔(文京区目白台)

神田川の左岸は急な崖になっている。その崖を登る名坂が胸突坂。都内でも五指に入る名坂である。その胸突坂の東側は椿山荘。この坂は江戸時代からある坂で、坂の東側も西側も大名屋敷で、西側は肥後熊本藩細川家の下屋敷。江戸時代の切絵図には細川屋敷の真ん中まで目白坂上から道があり「庚申」と書かれているが今は何なのか不明。細川屋敷と胸突坂の間にあるのが水神社である。

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水神社の鳥居だが、平成16年(2004)12月に強風が吹き社殿脇の銀杏の枝が折れ、古い鳥居を直撃して壊してしまった。壊れた鳥居は安政4年(1857)のものであった。その鳥居のよこに庚申塔がある。一方、胸突坂の東側の椿山荘は大名屋敷を経て明治になると山形有朋邸、それを買い取ったのが藤田観光の藤田家、戦後になって椿山荘になった。

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庚申塔は笠付角柱型で、下部に三猿、その上の龕部(がんぶ)には文字が書かれているようだが読めない。三猿の下には二鶏が描かれている。裏面には、上総国、石見郡(夷隅郡の間違い)、岩隈村、大野村、森宮村などとある。造立年代はどこにも書かれていないか消えてしまったか、不詳である。ここは神田上水が最初に掘削されたところで、家康は大久保主水に命じて神田川から上水を引いた。後の現場監督が松尾芭蕉だったという話もあり、なかなか興味深い。

場所  文京区目白台1丁目1-9

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2020年9月 6日 (日)

観音寺の庚申塔(新宿区西早稲田)

早稲田大学の裏手というのか、北側にあるのが観音寺。なかなかモダンな建物で寺院とは思えない雰囲気で、一見大学の建物のひとつかと思ってしまう。真言宗豊山派というから護国寺と同じ、奈良大和の長谷寺が本山とされている。何気に入口にある「弘法大師」と彫られた石柱は、天保13年(1842)仲春(2月)と書かれていて雰囲気がある。隣に新しい御影石の石柱があるが、やはり石への考え方が違い、古いものは石工の息吹が感じられる。

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境内に入るとすぐ右側の塀沿いに石仏が並んでいる。右の数基は墓石のようだが、左の3基は庚申講中で建てたもの。一番左は聖観音菩薩像の舟型光背型の庚申塔で、寛文7年(1667)2月の造立。像右には「奉待庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」とあり、左には「武列豊嶋郡牛込戸塚村」の銘がある。

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その隣は、新宿区の資料では庚申塔となっている。この像が青面金剛の座像らしいのである。青面金剛にしてはおとなしい表情なので分かりにくい。頭上には「奉成就」と書かれているだけで、ゼニゴケで他の文字は分かりにくい。造立年は貞享4年(1687)10月とあった。その右には少し大きな地蔵菩薩立像の舟型光背型庚申塔。造立年は寛文4年(1664)3月で、「武列豊嶋郡戸塚村」の銘がある。地蔵右側には「奉待庚申三年一座為逆修佛果菩提」とある。これは生前に自分たちを供養する逆修の風習によるもの。諏訪神社の逆修供養塔が承応3年(1654)だったので、江戸時代初期には逆修が一部に広まっていたのだろうか。

場所  新宿区西早稲田1丁目7-1

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2020年9月 5日 (土)

宝泉寺の庚申塔(新宿区西早稲田)

早稲田大学キャンパスのかなりの面積を元々有していたのが宝泉寺。江戸時代の切絵図では穴八幡宮よりもずっと広い境内だったようだ。宝泉寺の草創は810年頃とも伝えられ、江戸時代には江戸で最初に富くじが行われた寺で、町民の人気が高かった。宝泉寺は高田稲荷、水稲荷の別当で、安永9年に富士講により造られた高田富士が大人気だった。この高田富士は現在のキャンパス内にあったが、水神社とともに大学の北側、面影橋近くの甘泉公園横に移っている。

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現在の境内は江戸時代の数分の一しかないが、早稲田との関係は深いようだ。入口から坂道で上り、本堂の奥の墓所が一番標高が高い。蟹川が削った斜面に位置しているからである。本堂手前に大きな燈籠がある。これは文政10年(1827)2月に造られたもの。元は上野の寛永寺にあったもののようだ。

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その手前の植込みの間に駒型の庚申塔がある。種子の下に「奉待庚申」とありその下に三猿、上部にはうっすらと日月、三猿の下には土で読みにくいが延宝8年(1680)1月の造立年が彫られていた。青面左右の文字は「現世安穏受福樂」「来将無為速成佛」とある。どうも江戸時代の人々は現世もよく、来世もよくと、なかなかの欲張りらしい。

場所  新宿区西早稲田1丁目1-2

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2020年9月 4日 (金)

龍泉院の石仏(新宿区西早稲田)

馬場下町の交差点から早稲田大学大隈講堂方面に進むと角に小さなお寺(龍泉院)がある。通りは大学の街として扱われているが、早稲田大学の周りにはお寺が沢山ある。江戸時代の切絵図を見てみると、神田川支流の蟹川を挟んで南側が早稲田村、北側が下戸塚村。そして周辺は同心屋敷から大名屋敷までが入り混じり、その間にさらに寺地がある。面積としては寺地が一番多い。早稲田大学の敷地は、法泉寺境内、三河西尾藩の下屋敷、伊予松山藩の下屋敷が大部分を占めていた。馬場下町の交差点は江戸時代から交差点であった。

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真言宗龍泉院の門を入るとすぐ右手に堂宇があり、丸彫の地蔵が祀られている。中折れしているのは戦災によるものだろうか。造立年は嘉永元年(1848)10月とある。龍泉院の創建は寛文9年(1669)である。江戸時代から境内の広さは変わっていないようで、切絵図の龍泉院も狭い。地蔵の堂宇は昭和58年に建替えられたものらしい。

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地蔵の向かい側にはこじんまりと庚申塔が佇んでいる。舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿、二鶏が描かれている。造立年は元禄2年(1689)4月と書かれていた。表面の剥離が進んでいるが、青面金剛像の縦割れが気になった。

場所  新宿区西早稲田1丁目1-12

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2020年9月 3日 (木)

穴八幡宮の石仏石碑(新宿区西早稲田)

康平5年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)がこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請したのが穴八幡宮の始まりと言われる。寛永18年(1641)に庵を造るために南側の斜面を切り開くと神穴が見つかりそれ以来穴八幡宮と呼ばれるようになった。江戸幕府(三代家光)の加護を得て鎮守となり大きな神社になり江戸名所図会にも描かれている。また元文3年(1738)に始まった流鏑馬の神事は、新宿区無形民俗文化財に指定されている。

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社殿の手前には豪華で派手な楼門が経っている。赤色は生命の躍動と災厄を防ぐ意味があるらしい。その為穴八幡宮のように赤い楼門を持つ神社も多く、稲荷神社なども同じ意味だという。ただ穴八幡宮の社殿は黒っぽい重厚な権現造りで楼門とのコントラストが大きい。

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楼門と社殿の間にある手水舎に大きな布袋像の水鉢があり、これは徳川家光が穴八幡宮に寄進したものの現代版。本物は非公開で、慶安2年(1649)である。新しいものは大きさも大きく、近代的な曲線面を見せているが、いつかオリジナルを見てみたい。

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穴八幡宮はかつての神田川支流蟹川の左岸の台地の突端にある。蟹川は新宿歌舞伎町を水源にして江戸川橋に流れていた川で、この小さな川の河岸段丘にはいくつもの寺社仏閣が在る。丁度穴八幡の鳥居前の馬場下町交差点が蟹川が流れていた場所。鳥居の下には一対の敷石造立石坂再興碑がある。何気なく立っているが、文政7年(1824)とあり200年も前のものである。

場所  新宿区西早稲田2丁目1-11

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2020年9月 2日 (水)

大安楽寺墓地の庚申塔(新宿区西早稲田)

高田馬場にある穴八幡神社の裏手隣地に墓所がある。ビルの脇の通路の奥に扉があり、その中が古い墓地。入口には大安楽寺墓地の石標が立っている。大安楽寺と言えば、江戸時代末期に吉田松陰や平賀源内を処刑した小伝馬町の牢獄跡地にある寺の名前である。

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江戸時代ここには真定院というお寺があった。三代将軍家光とも関係のある古い寺院で、高田天満宮の別当寺だったが、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となってしまった。その名残が現在もしっかりと残されている。この真定院は小伝馬町の大安楽寺を創建した俊海和尚が六本木不動坂にある麻布不動院の住職を兼ねており不動院の末寺であった。この関係で、現在墓地には俊海和尚の墓があり、大安楽寺に所属しているとのこと。

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古い五輪塔がいくかあったがその一つが俊海和尚のものであろう。庚申塔はそのずっと手前側に2基あった。一基は駒型で、青面金剛像と邪鬼、三猿が描かれたもの。享保9年(1724)7月の年紀がある。また施主稲垣某の名も刻まれていた。

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墓石の地蔵座像を挟んで角柱型の庚申塔がある。摩滅が進んでしまい、書かれている文字はほどんど分からない。ただ塔の上部に三猿が彫られている。造立年は不詳。その下部には梵字があり、6名の名前が刻まれている。知らなけらば入ってこれない墓所で、今後も残っていてほしいと願うばかりである。

場所  新宿区西早稲田2丁目3-26

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2020年9月 1日 (火)

源兵衛子育地蔵尊(新宿区西早稲田)

以前に坂のページで地蔵坂について書いた折に、源兵衛子育地蔵尊に少し触れたことがある。今回は源兵衛子育地蔵尊が主役だ。早稲田通りに面しているちょっと複雑な交差点、早稲田通りが拡幅されたのは昭和に入ってからだが、それまでは早稲田通りがない状態の変則五差路でヒトデ型の辻だった。江戸時代は源兵衛村、明治になってから源兵衛村は戸塚村に吸収された。

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小さな境内ではあるが地蔵尊としては都内でも有数に広い。右奥の堂宇に地蔵尊、左奥の堂宇には庚申塔と馬頭観音が祀られている。源兵衛村は江戸時代、南の台地上の諏訪村と神田川左岸の下高田村に挟まれた、神田川右岸の小さな村だった。

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源兵衛地蔵は享保11年(1726)の建立。両手が欠損し顔も摩耗が進んで不明瞭になっている。この付近は、元禄年間に源兵衛という者が開墾して、当時28戸から成る村が出来た。源兵衛の死後、村人は源兵衛に感謝して、供養のためにこの地蔵を立てたと伝えられる。毎年、商店街が大規模な地蔵祭を開いている。

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左手の堂宇には、笠付角柱型の庚申塔。寛文13年(1673)9月の造立で地蔵よりも古い。青面金剛像に三猿の図柄だが、青面金剛を祀る庚申塔としては区内で最も古いらしい。その左には明治33年(1900)4月造立の自然石でできた馬頭観音塔。施主は原田熊蔵とある。左手前の角柱型の馬頭観音塔は大正11年(1922)と比較的新しいもの。さすがに大正時代になるとこの辺りは東京市内となり、戸塚町の向原という地名で、周辺には民家も多く建ち並んでいたようだ。

場所  新宿区西早稲田2丁目18-26

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