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2020年9月29日 (火)

万福寺の石仏(板橋区弥生町)

板橋区は町名が細かくて面白いのだが、必ずしも昔からの町名ではないところが玉にキズ。弥生町も新しい地名で小学校の名前からとったらしい。では小学校の名前はというと不詳。各地に弥生小学校と言う名の小学校があるが、ここは地名が弥生だったわけではなく、弥生小学校があったから昭和中期に弥生という住居表示になったのである。何とも気持ちがよくない。

もともとは川越街道の上板橋宿の北東側の街である。明治時代以前から地名は上板橋だった。上板橋宿の川越街道は日大病院入口から旧道と分岐、旧道は海老山の坂でゆっくり下って下頭橋を渡り、長命寺に向かうが、この辺りは坂道シリーズの長命寺坂でも少し書いた。

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万福寺は現在の川越街道と旧川越街道の間にある。創建は不詳だが江戸時代初期らしい。宝仙寺(中野区)の末寺だが管理は大谷口のしろかき地蔵のある西光寺が行っていた。江戸時代から無住の寺だったので、川越街道を旅する旅僧の仮宿だった。

境内に入ると左に2基の庚申塔がある。どちらも笠付角柱型で、左の大きい方は正徳3年(1713)2月のもの。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「武刕豊嶋郡上板橋廿余人」とある。右の庚申塔は、元禄10年(1697)12月の造立。武州豊嶋郡上板橋村結衆の銘がある。

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向かいには小さめの駒型庚申塔が1基。元文5年(1740)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。左面には「武刕豊嶌郡上板橋村海老山」の銘があるが、海老山は江戸時代のこの寺の山号でもあるらしい。庚申塔の横には丸彫の地蔵菩薩立像が並んでいる。

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右から3体は六地蔵のうちの三基らしい。残りの三基は分からない。右は、享保7年(1722)2月に地蔵講中百余人による地蔵。二番目は正徳3年(1713)2月造立で、「武州豊嶋郡上板橋 講中九十余人 敬白」とある。三番目は、享保3年(1718)3月造立、こちらも「武州豊嶋郡上板橋講中九十余人敬白」の文字がある。

一番左の地蔵は個人供養のものだろうか。年紀は台石右には寛永20年(1643)6月とあるのに、左面には慶安3年(1650)9月とある。正面には二人分の戒名があるので、それぞれが亡くなった年だろう。川越街道は元は太田道灌が江戸城と川越城の往来に開いた道だが、整備されたのは寛永16年(1639)である。この左端の地蔵はその頃のものだと考えると、墓石だが見どころがある。

場所  板橋区弥生町73-10

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