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2020年10月31日 (土)

篠ケ谷戸の庚申塔(板橋区赤塚)

下赤塚駅北口前の商店街を北西にずっと進むと200mほどで商店が集まった辻になり、その先は民家の路地になる。この最奥の商店の辻で商店街とクロスする道は、かつての鎌倉古道。そこからさらに100mほど進んだ次の辻に堂宇があり庚申塔が祀られている。

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こういう辻の角に小さな境内とも呼べる敷地を持った庚申塔の場合今でも庚申講が行われていることが多い。脇には道路整備の記念碑などもあり、おそらくここは今でも続いているのだろう。庚申塔は文化3年(1806)3月の造立で、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。右面には年紀と並んで「庚申供養二世安楽所」とある。

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左面には、「下赤塚村篠ケ谷戸  願主  篠崎藤兵  同  久治  三拾六人」と書かれている。篠ケ谷戸というのはこの辺りの大正時代以前の小字である。若干周辺よりも標高が低いが、ここは高島平で新河岸川に注ぐ前谷津川の源流。江戸時代から農業用水の役割を果たしてきたが、昭和30年(1955)頃には宅地開発が進んで、昭和59年(1984)には完全に暗渠化された。「谷戸」というのはこういう谷筋につけられる地名である。前谷津川源流周辺には竹やささが群生しており湿地帯を形成していたので、竹や笹の意味で「篠」とついたようだ。

場所  板橋区赤塚2丁目15-7

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2020年10月30日 (金)

成田山不動大教会の石仏(板橋区赤塚)

下赤塚駅から100m余り北東の路地に成田山不動大教会という寺院がある。真言宗智山派で、梶山不動尊の別名でも知られており、明治20年(1887)5月に建立、当初は赤塚大師堂と呼ばれたが、昭和17年(1942)に不動教会となり、昭和42年(1967)に現在の成田山不動大教会と名を変えている。

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この大教会には失礼ながら興味はないが、境内にある石仏を見に行った。この身代り不動尊と名付けられている丸彫の地蔵立像は文化9年(1812)3月の造立で、大教会よりもずっと古い。台座左に「梶山 願主 中田」と一部欠損しているがあるので、この地域の人によって造られたもの。元は赤塚2-3にあったというから、赤塚中央通りの西側になる。数十m移動したようだ。ただ、区の資料によると台座は移動の時に組み合わせたものとあるので、もしかしたら地蔵自体はもっと古いかもしれない。

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手前の堂宇にはきれいな聖観音立像が祀られていた。造立年は昭和27年(1952)5月と極めて新しいもの。台の正面には「平和観音」とある。戦没者慰霊のための平和観音とのこと。台座右の「講和発行記念」というのは前年のサンフランシスコ講和条約の事であろうか。戦後、ある意味で確実な平和が訪れたと感じられたのかもしれない。

場所  板橋区赤塚1丁目9-11

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2020年10月29日 (木)

赤塚一丁目中央通り庚申塔(板橋区赤塚)

駅前からわずかに赤塚中央通りを北上する。前述の梶山の庚申塔の先10mほどの交差点のはす向かいにあるのが、また別の庚申塔。駅前に複数の庚申塔が残る街は素晴らしいと思う。

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庚申塔は中央踊りから数m入ったバス通りに面して置かれている。ここでは「ファッションかとう」という昭和の雰囲気満載の洋服店があり、その店舗の花壇のなかに庚申塔が立っている。脇にある板碑型の石塔はいったい何なのかはわからないが、石の材は同じものを使っているので庚申塔と同時に造られたものだろう。

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駒型の庚申塔は、宝暦4年(1754)12月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿と全部盛りになっている。「講中二十三人」とあり、「願主  中田七右衛門」と書かれている。元からこの場所にあったのかどうかは不明だが、洋服店の裏で分岐する斜めの道は古くからある道で、梶山の集落はこれより北側に集まっていたから、その入口にある庚申塔と見ても良いかもしれない。

場所  板橋区赤塚1丁目9-8

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2020年10月28日 (水)

下赤塚駅前の角柱庚申塔(板橋区赤塚)

東武東上線下赤塚駅前の踏切は昭和の雰囲気の残る私鉄沿線の景色である。下赤塚駅の開業は昭和5年(1930)の12月。実は初期の現都内の東武東上線は池袋から下板橋、上板橋、成増という駅構成だったが、その次に出来たのが下赤塚駅。そして翌年に大山駅が開業している。実は下赤塚駅は古いのである。

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庚申塔は踏切から北へ30mほど。文具店のある雑居ビルの脇に隙間があり、そこに祀られている。一見武骨な感じの角柱型だが、地に根差した感じがしていい景色である。造立年は安政4年(1857)2月、幕末、明治維新のほぼ10年前である。

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正面には「庚申塔」という文字。脇に年紀がある。台石には梶山講中拾九人とほられている。梶山というのはこの辺りの昔の小字名で、赤塚村梶山というのが江戸時代から大正期までの地名であった。川越街道から北上して松月院へ至る道の脇にあった路傍の庚申塔がこうして今も商店街の一角にあるのは嬉しいことである。

場所  板橋区赤塚2丁目1-13

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2020年10月27日 (火)

北町の庚申塚(練馬区北町)

川越街道の地下を東京メトロ有楽町線と新都心線が走っている。地下鉄赤塚駅で地上に出ると、交通量の多い国道254号川越街道。地下鉄赤塚駅の4番出口を出るとすぐ都心側に小さな緑地帯があり、石塔が立っている。

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街道沿いでケヤキの木が並んでいて石塔石仏があるのは昔の風景が残っているわけで、ここは明治時代以前から川越街道と大泉村へ向かう道の分岐点だった。不動産屋ののぼり旗がいささか邪魔だが、植込み内に明治14年(1881)2月造立の自然石の庚申塔が立っている。正面には「庚申塚」とあり、裏面には年紀と田中兼吉の銘がある。また正面下部に「右 川こ江  左 ところ沢」という道標もあるところからここが昔から分岐点だったことがわかる。

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庚申塔ではなく庚申塚である理由は何だろうと考えてみた。古墳説などもあるが、街道筋にある一里塚のようなもので、元々は何らかの小山が造られていて分岐点の目印になっていたのではないだろうか。明治になって田中氏が庚申塔を立てるにあたり、街道の塚の影響を受けて庚申塚と名付けたのではないかと思う。

場所  練馬区北町8丁目37

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2020年10月26日 (月)

民家塀の庚申塔(板橋区志村)

清水坂上の富士大山道の道標と庚申塔の丁字路からさらに100mほど志村坂上方向に進むと、コインパーキングの手前の民家の塀が一部大きく凹んでおり、そこに庚申塔が祀られているのを目にする。

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勿論この道はかつての中山道、多くのお宅が現代的な家に変わってはいるが、昔の街道筋の家という認識があるのだろう。明治時代以前のこの辺りは中山道から小豆沢への道が分岐していたり、前野村への道や富士大山道が分岐していたりする交通の要所だった。だからこそ馬頭観音もあれば庚申塔も、路傍に祀られているのだろう。

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ここの庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「武州豊嶋郡志村」の銘がある。板橋区の資料では年銘は不詳とあるが、右面に「〇徳三〇」とあるので、江戸時代以降では正徳年間しかない。とすれば正徳3年(1713)ということになる。摩耗がかなりひどく、多くの文字は読み取れない。左面には「乞より・・・道」とあるので、道標の役割も果たしていたようである。

場所  板橋区志村2丁目3-5

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2020年10月25日 (日)

清水坂上の馬頭観音(板橋区志村)

旧中山道の清水坂は名坂のひとつ。江戸から板橋を過ぎると街道の最初の難所清水坂の下りに差し掛かる。志村の台地から荒川低地に下る急峻な坂道だった。ただ、途中カーブしている坂の中腹から遠く富士山が絶景だったと言われる。街道脇の大善寺は徳川吉宗(八代将軍でTVの暴れん坊将軍に描かれている)が鷹狩りの折の休憩場所にしたが、富士山の景色と美味な湧水に感心し、寺の本尊を清水薬師と命名、そこからこの坂の名前が清水坂となったと伝えられる。

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写真は清水坂の坂上だがこの先のカーブから急な下りが始まる。この坂上の石標の10mほど先の民家に目立たない馬頭観音がポツンと立っている。角柱型で正面には「馬頭観世音」とのみ彫られている。

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この馬頭観音は大正15年(1926)10月の建立。比較的新しいものである。脇には建立者市川直次郎の銘がある。この馬頭観音は市川家の飼馬の供養のために建てられたものだという。大正15年というとまだまだモータリゼーションは軍などが中心の時代で、民間の多くは馬を使っていた。それから百年、あっという間に都会から馬は殆どいなくなってしまった。

場所  板橋区志村2丁目7-16

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2020年10月24日 (土)

富士大山道の道標と庚申塔(板橋区志村)

旧中山道の清水坂の坂上には富士大山道の道標と庚申塔が立っている。この場所で中山道から分岐した富士大山道は、中台を経て富士街道に繋がっていたようだが、実際はどのルートで埼玉方面の信者講中が歩いたのかは知らない。

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右の大きな角柱が庚申塔、左の細い方が道標である。古さから言うと道標の方がかなり古い。寛政4年(1792)の造立である。「是より大山道 幷(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と書かれている。ということは中台を通って川越街道に出合い、その先で富士街道に入ったのだろうか。

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右の角柱型庚申塔は、万延元年(1860)9月の造立。上部に日月、正面に「庚申塔」の大きな文字があり、台石に三猿があるようだが埋まっていた。「武州豊嶋郡志村  是より  富士山 大山道」の銘がある。また、「練馬江一里  柳沢江四里  府中江七里」とある。朝、ここを立つと府中には夕方着く計算になる。今は志村坂上から府中は電車でほぼ1時間である。

場所  板橋区志村2丁目7-1

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2020年10月23日 (金)

延命寺地蔵堂の石仏庚申(板橋区志村)

延命寺から北へ200mほど行ったところに境外墓所のある延命寺地蔵堂がある。今でこそ路地裏だが、関東大震災以前は川越街道の清水坂上に広がる街道沿いの墓所だった。江戸時代から明治にかけての地図を見ても延命寺は延命寺の場所、地蔵堂は地蔵堂の場所にあるので、江戸時代からこの位置関係だったようだ。

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判りにくい路地裏の入口を入ると左に2基の庚申塔が立っていた。植込みの間にあるので油断すると見逃してしまいそうである。左は板碑型の庚申塔で、延享4年(1747)2月の造立。「奉供養庚申待二世安楽」と中央に書かれ、その脇に「武州豊嶋郡堀ノ内村」とある。堀之内というとこの辺りではなじみが薄いが、明治22年に町村制が布かれた時に、王子村になったのが、豊島村、上十条村、下十条村、舟形村、堀之内村だった。現在でいうと北区堀船あたりになる。

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なぜ何キロも離れた堀之内村の庚申塔がここにあるかは不明。板碑型だが下部には三猿が彫られている。一方右の駒型庚申塔は、宝暦元年(1751)11月のもの。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、右面には「武刕豊嶋郡志村 庚申講中」とあるように、地元のものである。この2基の庚申塔は以前は近所の路傍にあったものだが、2016年に墓所内に移された。

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地蔵堂脇にはずらりと石仏が並べられている。様々な尊像の石仏があり、ここで一つ一つ紹介はしないが、ゆっくりじっくり見ていくと面白い。残念ながら六地蔵の頭部が殆ど欠損しており、代わりに石が載せてある。舟型の六地蔵は安政から文久にかけて(1860ころ)のもので、墓所内その他数多くの石仏があり、江戸時代初期から後期まで実に多くのものがある。

場所  板橋区志村2丁目5-9

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2020年10月22日 (木)

延命寺の石仏と板碑群(板橋区志村)

志村にある延命寺は、1524年戦国時代前期、小田原北条氏と扇谷上杉氏がこの地で戦った際に、志村城の落城や自分の子供の討死などで無常を想った見次権兵衛が自分の館を寺にしたのが始まりと言われる。江戸時代には徳川吉宗が鷹狩りの際に休憩所として使った。

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山門が小さな桝形になっているのはたまたまなのか武士の館だったからなのかはわからないが、普通の寺院とは異なっていた。山門の中に入ると左に六地蔵が並んでいる。天明4年(1784)~寛政3年(1791)に造られた地蔵が並ぶ。反対の右に回り込むとそこには大量の板碑が並べられていた。

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創建以前の板碑が多数あり、昭和61年に文化財登録された14基に加えて平成27年に7基を追加登録し、計21枚の板碑がある。板碑の詳細については、ここでは省略するが、建長4年(1252)、康永2年(1343)、貞和3年(1347)という古いものから永正13年(1516)までの紀年の板碑で、板碑の造立が盛んとなる14世紀初めから15世紀にかけてのものがまとまっている点で、極めて高い価値がある。それぞれは城山城址や天神前で明治以降に発掘されたものなどが多い。

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本堂手前の堂宇には珍しい像形の石仏、「蛸薬師」として信仰をあつめた正保4年(1647)2月の庚申塔がある。舟形光背型で中央の尊像は薬師如来坐像、右側には「庚申待」と書かれている。この庚申塔は、皮膚に出来るイボとりに効験があると信じられて信仰されてきたが、実は板橋区内最古の庚申石仏とされている。

場所  板橋区志村1丁目21-22

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2020年10月21日 (水)

西熊野神社の庚申塔(板橋区前野町)

もうひとつの熊野神社、西熊野神社は何となく違和感があった。というのも以前は階段を数段登って境内だったのに、盛土を削られ道路面からそのまま水平に鳥居をくぐるようになっていた。神社の場合、この最初の階段はとても重要で、いわゆる結界のようなものだといつも感じているので違和感になったのだろう。バリアフリーなのかもしれないが、私は賛成できない。

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こちらの熊野神社の創建年代は不詳。伝えるところでは志村城山の熊野神社の分祀らしい。少なくとも江戸時代初期にはあったようだ。鳥居をくぐり本殿にお参りをしてから、右手に回り込むと三基の庚申塔がある。

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左端は舟型の庚申塔で元禄11年(1698)11月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、正面向かって右に「〇供養庚申待二世安楽所結衆」とある。中央の駒型庚申塔は享保18年(1733)の造立で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。左面や背面には願主名が多数彫られている。右端はかなり摩滅が進んでいるが、天保7年(1836)4月造立の庚申塔。おそらくは日月、青面金剛像、三猿の図柄である。この風化した庚申塔はもともと前野5丁目48にあったというから、首都高速の志村PAを作った時にそこから移設されたものだろう。

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本堂の反対側(西側)に回り込むとブロックで造られた頑丈な堂宇があり、その中には不動明王像が祀られていた。造立年やその他詳細は不明である。不動明王像には独尊として扱われることが多く、像形としては不動明王一尊のものと、二童子を脇侍とするものとがある。これは後者の中でもひとつの石に三尊を刻むケースである。

場所  板橋区前野町5丁目35-1

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2020年10月20日 (火)

常楽院の石仏(板橋区前野町)

常楽院は真言宗豊山派の寺院。開山は正保・慶安年間(1644~1652)とされる。墓所には古い板碑があるようだが、今回は拝観できなかった。正式名称は熊野さん常楽院法界寺というが、常楽院で通っている。境内は弥生時代の前野町遺跡の場所で弥生時代の集落跡らしい。弥生時代末期から古墳時代にかけての土師器が出土している。

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門前には左右に多数の石仏が並べられている。向かって右側は石仏で、左側のほとんどが墓石の石仏。全体で数十基はあるだろう。こうして並べてみると壮観である。

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右の端にあるのが舟型光背型の如意輪観世音菩薩像。延宝7年(1679)造立で、光背に「延宝七己未年三月廿三日  集菩提也」と彫られている。

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もう一つの如意輪観世音菩薩はいささかスリムな雰囲気がある舟型光背型の石仏。造立年は享保2年(1717)で、こちらは「享保二酉大正月廿七日  智清信女霊位」とあるのでもともとは墓石だろう。

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上の写真の右側は舟形光背型の阿弥陀如来立像。造立年は貞享元年(1684)9月で、「道法禅定門施主…」とある。もうひとつは地蔵菩薩が二つ並んで彫られているもので、こちらは明和8年(1771)10月の造立。「智禅妙宗信女  施主 村田忠左衛門妻宥戒尼」とあるのでこれも墓石だろうか。

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最後は珍しい笠をかぶった傘地蔵。分類としては笠懸地蔵らしい。台石の正面には「三界万霊」とある。造立年は安永5年(1776)2月。別名「延命鶴亀地蔵」とも呼ばれるようだが、由来や詳細は不明である。

江戸時代の墓石にはいろいろな造形があって実に面白い。尊像もさまざまで、「二世安楽」という言葉に至ってはこの世もあの世も良い生活がしたいという江戸時代の人々の豊かな生活の中での願いが想像できる。食べるのに必死であればこんな石仏を造立して願を掛けるなどはしない。もしかしたら現代よりもずっと人々は幸福に生きていた可能性が高いのではないだろうか。

場所  板橋区前野町4丁目20-8

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2020年10月19日 (月)

東熊野神社の庚申塔(板橋区前野町)

板橋区前野町(かつての前野村)には二つの熊野神社がある。東の熊野神社は前野村の鎮守だったというが、西の熊野神社も同様に鎮守だったとある。二つの神社が相対していたのか、深いつながりがあるのかについては分からない。創建は不詳だが、おそらくは江戸時代の初め頃に和歌山の熊野那智大社から勧請されて出来たものである。

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本殿手前の西側には5基の庚申塔が並んでいる。どれも駒型の庚申塔で、江戸時代中期のもの。庚申講の全盛時代にあたる。それでも青面金剛像のひとつひとつが微妙に異なり、どれもなかなか個性があるのが興味深い。

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一番左の庚申塔は日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛は右胸の前に上に向けて剣を立てて持つ。右肩脇には三叉鉾を建てている。面白いのは邪鬼の様子で、オヤジが寝っ転がって肘を立てているような姿である。青面金剛に踏みつけられて「しょうがねえなぁ」といった様相になっている。造立年は天明3年(1783)2月とあり、左側側面には「左ハ 志むらぐち」と道案内が入っている。

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左から二番目は少し黒い石質で青面金剛像のみの造形。三叉鉾は十字槍になっているが、江戸時代初中期の十字を見ると隠れキリシタンかと想像してしまうが、これは違うだろう。造立年は安永8年(1779)1月、右面には「南ハ  右ハ  江戸道  ぞう志やかいどう川越道  川口ぜんかうし」とある。位置的には北西に向かえば川越、盗難に向かえば江戸になる。

右の庚申塔も十字槍である。青面金剛像の上下には日月、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は安永2年(1773)8月。右面には「従是戸田道」とある。隣の庚申塔とはもともと立っていた場所が異なるのだろう。

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右端の二基の左側は上部が若干欠損している。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。右側面に年紀があるのだが、「享保〇〇〇十一月…」とあり年数が読めない。享保年間は1716年~1735年と長いので欠損が残念である。右端は、元文2年(1737)11月造立の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。「前野村講中九人」の銘がある。

場所  板橋区前野町3丁目38-3

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2020年10月18日 (日)

長徳寺の石仏(2) (板橋区大原町)

門脇に興味深い庚申塔や馬頭観音が並んでいたが、本堂前には大型の石仏石塔がいくつも並んでいる。そのうちからいくつかを紹介したい。

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まずは珍しい形の地蔵菩薩坐像。台石と地蔵菩薩はもともとは別のものだったようだ。地蔵菩薩自体の造立年は文政8年(1825)7月。しかし、台石にある造立年とは別に地蔵の後ろに「昭和34年…吉田金三郎 蓮根村石工 野崎辨蔵」とあるのでややこしい。台石の方は「文政8年 武州豊嶋郡前埜村 施主 吉田浄善」とある。この地蔵菩薩が再建モノという可能性は高いが、台石によると月山秩父西国四国八十八所供養とあるので、またまた分からなくなった。

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この並びの石仏は珍しいものが多い。上の写真の石仏は弁財天である。造立年は文化2年(1805)3月。「當村 長徳寺住大道代」とあるのでこの寺にて造立されたものである。

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そしてこちらは大日如来像。とはいえ御本尊ではない。しかし古いもので、造立は寛文11年(1671)。光背には「奉造立大日尊像  天下泰平国土安全  大日▢▢一起 」とある。

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最後に二基、左の光背型の地蔵菩薩立像は宝永6年(1709)7月の造立。尊像は地蔵ではなく釈迦如来である。「稲付村」の銘がある。右の一基は丸彫地蔵菩薩立像である。こちらの造立は享保7年(1722)3月である。

場所  板橋区大原町40-7

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2020年10月17日 (土)

長徳寺の石仏(1) (板橋区大原町)

長徳寺を訪問したのは久しぶりだった。以前門前の「長徳寺の坂」の時に訪問して以来である。長徳寺は大日如来で知られており、明治42年(1909)測量の国土地理院の地図には「大日堂」の名で記されている。寺の南側には東西に首都高速5号池袋線が走るが、この道筋は昔、出井川という新河岸川へ注ぐ支流が流れていた。見次公園の池も出井川の水源のひとつで湧水によって水を湛えている。

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山門をくぐると右手の茂み沿いに石仏が並んでいる。本堂側にもあるが、まずはこちらの石仏群を見てみる。台石に「前野村講中」と大きく書かれたこの石仏は馬頭観世音菩薩。造立年は天保11年(1840)12月。馬頭観音で講中というのは珍しいが、世話人は8人ほどいたようである。

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茂みの奥に何かあると覗いてみると、2基の石塔があった。大きい方は文化5年(1808)の馬頭観世音菩薩。「武州入間郡下安杦(スギ)村」という銘と、「武州豊嶋郡前野村」の銘があるが、下安杦村というのは武蔵の国近辺にもない。左面には「是より 大日道 祢里まみち」とあるので、この長命寺への道標だろうか。小さい方は大正15年(1926)2月造立の馬頭観音。大正8年に蛭間金蔵が建てたものを、昼間丑五郎が再建したもののようである。

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左は「善光寺如来」と書かれているが詳細不明。右は舟型の庚申塔である。造立年は宝永7年(1710)。日月、青面金剛像(馬頭)、二鶏、三猿が描かれている。脇には「奉造立馬頭明王庚申講中」とある。台石には蓮が描かれており、庚申塔全盛期のもの。

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またまた茂みの後ろに庚申塔らしきものが見えたので、覗いてみると天明2年(1782)8月造立の舟型庚申塔。図柄は青面金剛像と三猿のみの組み合わせ。尊顔上部と塔そのもの上部の欠損が残念である。

場所  板橋区大原町40-7

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2020年10月16日 (金)

大原町路傍の庚申塔(板橋区大原町)

都営三田線本蓮沼駅から400mほど北東にある交差点で国道17号線中山道と交差する道は古くからある道である。南の角には現在はセブンイレブンがある。この道は荒川沿いの岩淵から赤羽を通り、ここ本蓮沼を経て川越街道の下頭橋に出る。今はなんということのない交差点だが、江戸時代から明治初期にかけては、東が小豆沢村、北が志村、西が前野村、南が本蓮沼村と、4村の村境の辻であった。

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そこからセブンイレブンの横を少し入ると、はるか以前に閉店してしまった商店らしき木造家屋の前に角柱型のいかつい庚申塔が立っている。造立年は文久3年(1863)12月だから明治維新直前である。正面には大きく「庚申塔」の文字が彫られ、上部に日月が描かれ、台石には大きく三猿が彫られている。

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向かって右面には「富士大山  新井薬師 道」とあり、岩淵を経てここを通り、富士街道に抜けて富士山詣でや大山詣でをしたのだろう。向かって左面には、「武州豊嶋郡蓮沼村」の銘がある。文明開化期には蓮沼村は本蓮沼村だったはずなのだが、もう少し前の江戸時代の地図だとこのあたりは蓮沼村、志村、前野村、小豆沢村が複雑に接している。江戸末期に蓮沼村から本蓮沼村に変わったのだろう。

場所  板橋区大原町11-13

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2020年10月15日 (木)

南蔵院の石仏(2) (板橋区蓮沼町)

南蔵院の石仏の後半。南蔵院には沢山の石仏石碑がありとても紹介しきれないので、ここでは供養塔は出羽三山のもののみで、あとは庚申と主たる地蔵の紹介にしたい。しかし移転した寺院にこれだけ多くの石仏が集まるのも大したものだと思う。

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最初に出羽三山の石仏。左から羽黒山供養塔の聖観音菩薩像、右が月山供養塔の阿弥陀如来像、中央は月山、湯殿山、羽黒山の三山を祀る大日如来像。中央の三山供養塔は安永7年(1777)で「武刕豊嶋郡蓮沼村」の銘がある。右の月山阿弥陀如来は文化元年(1804)の造立で、左の羽黒山聖観音菩薩も文化元年(1804)、いずれも蓮沼村で建てられたものである。

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上の写真は唐破風笠付の庚申塔。側面には蓮葉が見事に描かれているが正面には文字ばかり。「奉供養庚申待結衆二世祈所」とあり、上部に「覚賢寺」「玉光寺」とある。上部に日月は描かれており、「武州蓮沼村結衆合廿四人敬白」とある。三猿が描かれているのは台石正面である。造立年は寛文11年(1671)2月でかなり初期のもの。

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その後ろにある唐破風笠付角柱型の庚申塔は青面金剛像の陽刻に三猿というデザイン。「奉供養庚申二世安楽所」とある。造立年は延宝8年(1680)9月とこれも古いもの。下部には「武州蓮沼村」とある。

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その手前には自然石の庚申塔がある。造立年は嘉永3年(1850)12月。上部には日月も描かれている。台石に三猿が彫られており、左右に「村内安全」「当所講中 世話人 拾五人」とある。

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石仏群から本堂側に目を移すと、そこには地蔵堂がある。その中に祀られているのは、俗称「はいた地蔵」と呼ばれる地蔵尊。造立年は正徳4年(1714)2月で、台石には「三界万霊」そして「蓮沼村」と書かれている。体の病気に関する地蔵はあちこちにあるが、歯痛はあまり見かけない。珍しいものだと思う。

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本堂手前にある大きな地蔵尊は実は庚申地蔵。造立年は承応2年(1653)で、この時代はまだ念仏講、地蔵講、庚申講、日待講などがはっきりと分かれていなかったようだ。地蔵の背面には「奉造立石地蔵一尊庚申待悉地成就拾人」とあり、武刕蓮沼郷の銘がある。

寺院にある庚申塔などは周辺から移設されたものが多いが、ここの石仏は大半が南蔵院に因むもので、これこそが村ごと移転してきた結果ではないかと考える。

場所  板橋区蓮沼町48-8

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2020年10月14日 (水)

南蔵院の石仏(1) (板橋区蓮沼町)

江戸時代の記録によると、蓮沼氷川神社と南蔵院は蓮沼町と共に今の地域に移転してきたという。当初は荒川低地(現在の坂下・東坂下)にあった村が、度重なる荒川の洪水によって住処を追われ台地の上のこの地に移ってきたのは享保年間(1716~1736)かそれ以前と言われている。村には道生沼などの沼が点在する低湿地だったので、移転はやむを得なかったのだろう。江戸時代の移転は幕府の許可なども必要で、相当な重荷を背負ったに違いない。

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山門をくぐるとすぐ左手に笠付角柱型の大きな庚申塔がある。造立年は正徳3年(1713)3月。時代的には移転前から移転後か微妙なところである。尊像は青面金剛像のみで、左右や台石には細かい文字がたくさん書かれている。正面には「武州豊嶋郡蓮沼村庚申講施主」、背面には「供養導師南蔵院住法印」とある。元の場所は東坂下2丁目2だというから、旧中山道沿いにあったのだろう。つまり村の移転前のものということになる。

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その奥にある白っぽい石材の角柱は馬頭観音。馬の顔の出っ張りが絶妙である。造立年は新しく、昭和18年(1943)3月とある。果たして昭和3年頃、牛馬の輸送が行われていたのかとは思うが、都営三田線は東京オリンピックよりも遅い1968年の開通だから、戦前はまだ牛馬輸送があったのだろう。

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笠付角柱型庚申塔と馬頭観音の間に縁がいささかボロボロになった石仏があったが、板橋区の資料を見るとと庚申塔である。造立年は不詳。舟型で高さは49㎝。しかし頭の上には馬頭があり、おそらくは馬頭観音である。「蓮沼村  高山忠右衛門  同 忠兵衛」の銘がある。

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山門くぐって右手には沢山の石仏石塔が並んでいる。六地蔵もあるし、三地蔵なのに六地蔵とされている像群もある。その中に写真の石仏があった。造立年は寛文2年(1662)8月とかなり古い。尊像は大日如来である。縁沿いに「武州豊嶋郡蓮沼村  念佛本願結衆都合廿二人」とかかれている。念仏講によるものだろうか。

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その日大にある低めだがごっつい角柱型文字塔の庚申塔は文化9年(1812)2月の造立。日月に文字で「庚申塔」という図柄、左面に「武刕豊嶋郡蓮沼村中  世話人 九人」とある。

享保年間移転説が強いのは、その時期に壊滅的な被害を与えた荒川洪水があったからのようで、それでも人々はたくましく移転して村を築き上げているバイタリティには脱帽である。

場所  板橋区蓮沼町48-8

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2020年10月13日 (火)

エコーモデルの庚申塔(板橋区蓮沼町)

蓮沼町の路地裏に「エコーモデル」という鉄道模型店がある。鉄道模型マニアというジャンルはとても入り込めないディープな世界のようだが、その中でも「16番の聖地」とか「16番の駆け込み寺」といわれる模型店である。16番と言っても私も?だが、16番鉄道模型(1/80スケール、16.5㎜ゲージ)というマニアにしか判らないジャンルのようである。

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この鉄道模型店エコーモデルのあるお宅が表札からすると阿部さんというお宅なのだが、その玄関前に鉄道模型とは全く異なる世界の異物であろう角柱型の庚申塔が立っている。民家にある庚申塔というのは実に面白い。しかし同時に代々守って来られた苦労に対して深い感謝の念を覚える。

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庚申塔の上部には日月、その下に大きな文字で「庚申塔」とある。台石には浅めの彫りで三猿が描かれている。造立年は明治5年(1872)11月である。向かって右面には、「此方に向右  あずさハ うきまわたし道  此方ハ いはぶち かは口 みち」とある。確かにこの先をずっと進むと浮間には行くが、岩渕はいささか方角が違う。左面には「此方に向て 右ハ おうじみち  此方ハ なかせんどうみち」とあるが、こちらはほぼほぼ間違いではない。

場所  板橋区蓮沼町53-7

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2020年10月12日 (月)

蓮沼町2の庚申塔(板橋区蓮沼町)

蓮沼町1の庚申塔(個人的な仮称)から国道17号線(中山道)に向かう路地の丁字路の民家にある庚申塔があまりにナチュラルでいささか笑ってしまった。まるでガスメーターのように民家の壁に寄り添って立っている庚申塔だが、なかなか興味深い造形である。

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庚申塔の造立年は宝暦2年(1752)11月。正面は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄だが、この青面金剛像の尊顔はまんま鬼の雰囲気で鬼のような角も付いている。脇には「奉造立大青面金剛供養塔」と彫られている。塔型はおそらく駒型だが、頂部は尖ってはおらず丸い。

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左右側面には、「武刕豊島郡  蓮沼村 講中廿六人」と書かれている。蓮沼村は江戸時代の村名で、南蔵院周辺の現在の蓮沼の住民は、荒川の水害で享保9年(1724)にこの辺りに移転してきたという。この庚申塔はその後のものである。

場所  板橋区蓮沼町2-6

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2020年10月11日 (日)

蓮沼町1の庚申塔(板橋区蓮沼町)

姥ヶ橋交差点の北側には国立西ヶ丘サッカー場(現味の素フィールド西ヶ丘)や官庁関係の施設が広がっているが、この四角いエリアは昔の兵器庫の敷地。地図を見るとここだけ、ちょうど江戸時代の吉原のように長方形の地形が見える。赤羽から十条のこの一帯は戦前まで至る所に軍の施設がある地域で、それだけに戦災も激しかったようだ。

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そんな西ヶ丘サッカー場の西側の小さな丁字路に二基の庚申塔がある。この丁字路は軍の施設ができる以前の江戸時代から明治初期にかけては十字路だった。そして東の稲付村、北西の蓮沼村、南西の前野村の3村の村境でもあった場所であるから、庚申塔の場所としては典型的な場所ということになる。

右の小さいほうの角柱型は明治29年(1896)3月のもので、前面には「庚申塔」、右面には「北 あかば▢  南 いたばし 道」と道標が刻まれている。前面下部には「下講中」とあるが、何の「下」なのかは不明。

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左の駒型庚申塔は高さが115㎝ある立派なもの。造立年は正徳2年(1712)9月と300年以上も昔。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。「武刕蓮沼村」の銘があり、台石には願主名が沢山彫られているが福田姓が過半数である。台石左面には「開眼供養  南蔵院住法印宥口」とあるので、ここから北西へ500mほどの南蔵院がらみ。台石右面には小さく、「北ハ 川口善光寺道  南ハ いたは志みち」とある。

南蔵院周辺の現在の蓮沼の住民は、荒川の水害で享保9年(1724)にこの辺りに移転してきた。駒型の庚申塔はそれ以前のものということになる。造立はおそらく荒川沿いの時代であって、それでこの道標に合点がいく。

場所  板橋区蓮沼町1-18

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2020年10月10日 (土)

姥ヶ橋延命地蔵尊(北区上十条)

十条駅前のバス通りを西に進むと環状七号線の姥ヶ橋陸橋に出る。その手前の角、厳密には鋭角に繋がっている路地との間に姥ヶ橋延命地蔵尊の大きな堂宇がある。向かって左脇には小さな堂宇があり、そちらにも地蔵菩薩が祀られている。

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右の地蔵尊が姥ヶ橋延命地蔵尊。造立年は享保9年(1724)11月。姥ヶ橋地蔵の言い伝えに「誤って子供が川に落ちて亡くなり、その自責から乳母がこの橋から身を投げて亡くなったと」という話しもあるが、台石に「石橋供養佛」とあるのは、交通の安全を祈願する石橋供養そのもので、そういうおどろおどろしいものではない。左の地蔵も子育地蔵で、延命地蔵というのは子育地蔵と同じ意味合いのものだから、もしかしたら乳母と子供という形を取ろうとして後年の誰かが並べたのかとも思った。

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地蔵堂の前には角柱型の庚申塔が建てられている。造立年は不詳。日月の下に文字で「庚申塔」とあり、右面には「これより右 川口」、左面には「これより左 王子」と書かれている。姥ヶ橋が架かっていたのは稲付川という川で、別名北耕地川といった。厳密には用水路で「根村用水」ともいった。石神井川の水を取り、北区志茂辺りで隅田川に注いだ。この川は度々洪水になって被害をもたらしたので、昭和42年に暗渠化工事が始まり現在では川の姿はない。

場所  北区上十条4丁目12-4

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2020年10月 9日 (金)

常盤台の馬頭観音(板橋区南常盤台)

東武東上線ときわ台駅の南には天祖神社がある。このときわ台天祖神社の創建年代は不詳。旧上板橋村の鎮守であった。江戸時代の呼び名は神明社、明治になってから天祖神社と改めた。神社の鳥居前に南北に通る道は昔からある道で、「原」と「台宿」の境であった。この道は今も南常盤台1丁目と2丁目の境でもある。

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通り沿いに大村葬儀社という葬祭会社があるのだが、その店舗前に造られた堂宇に祀られているのが馬頭観世音菩薩の角柱である。造立年は比較的新しい。明治24年(1891)3月である。当時この辺りには片手程の民家しかなかった。ここから南に200mほど行くと川越街道の台宿があり、そちらがこの辺りのの中心だった。

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左上の補修箇所は戦災によるものだろうか。側面には願主 河原吉五郎とある。明治の馬頭観音のわりにはきれいに保存されている。しかし見ている間だれひとり立ち止まることもなかったのは少し残念である。

場所  板橋区南常盤台1丁目36-8

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2020年10月 8日 (木)

平安地蔵(板橋区南常盤台)

平安地蔵と言っても平安時代のものではない。東武東上線ときわ台駅から西へ200mほどの住宅街のマンションの一角に立派な地蔵堂がある。堂内には地蔵菩薩立像が二基祀られている。

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2体の地蔵尊の造立は新しく、昭和23年(1948)6月のもの。堂宇前の説明書きには、昭和20年6月10日午前7時55分より約2時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲を受けた結果、死者269名、重傷者86名、建物全壊260戸と記録されているが、実際にはこれをはるかに上回る人々が罹災した、とある。

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右の大きな地蔵は大人、左の小さい地蔵は子供を表している。戦後になって、亡くなった人々の供養と同じ過ちを繰り返さない願いを込めて、地元有志が浄財を集め建立、「平安地蔵」と命名したもの。私が生まれたのは戦後十年余りの頃で、まだまだ傷痍軍人などもいたが、戦後75年を過ぎた今、多くの人々は戦争のことを忘れてしまっている。近代のものではあるが貴重な地蔵尊である。

場所  板橋区南常盤台2丁目11-19

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2020年10月 7日 (水)

上ノ根の庚申塔(板橋区東新町)

安養院の東にある氷川神社、その少し東側にスーパーのコモディイイダがある。スーパーの東側を北に上る緩やかな坂が堂坂。「堂坂」は坂道のページでも紹介したが、江戸時代からある村道である。この坂を上りきってさらに川越街道に出る直前に残されているのが上ノ根の庚申塔。

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大型の駒型庚申塔で高さは126㎝ある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が見事に描かれており石工の技術も高い。造立年は安永6年(1777)2月。左面には「上之根講中」の銘がある。

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この場所のようにマンションが出来ると消滅してしまうことが多いがきちんと守られたことに感謝したい。この地は江戸時代は上板橋村上之根、明治になった頃は上板橋村字上ノ根。根と言うのは土地を表しているというのて定説で台地の上の土地という意らしいが、別説では氷川神社の神に由来しているという説もある。

場所  板橋区東新町1丁目49-23

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2020年10月 6日 (火)

安養院の石仏(3) (板橋区東新町)

安養院の墓所にはさらに多くの石仏があるが、残りは庚申塔を中心に紹介したい。これだけ多くの石仏石塔があると、台石が変わっていたり、笠付の笠がなかったりということが起こりやすいが、比較的保たれているように感じた。

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まずは角柱型庚申塔だが上部の形からして笠が欠損したことが容易に判る。平成7年の区教育委員会の資料によると笠付になっているので、それ以降に無くなったのだろう。上部に日月、そして青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、「奉新造立石塔講衆二世安楽所」とある。造立は元禄10年(1697)11月のもの。

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次は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。造立年は宝暦4年(1754)10月。右面には「奉造立大青面金剛供養講中九人各願悉地所」とあり、左面には「上板橋邑小山願主 小林氏」と彫られている。資料によるとこの庚申塔が以前あった場所は、小茂根2丁目16番地の茂呂山通り沿いにある稲荷神社だったようだ。

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上の写真の庚申塔は後ろの方に置かれていて下が良く見えないが、笠付角柱型で正面金剛像と三猿のみの図柄。造立年は享保12年(1727)だが、実際には「享保十弐龍集戌申稔黄鐘穀日  講中拾四人」とある。「黄鐘(こうしょう)」は11月霜月の異称である。また「上板橋邨」の銘もある。

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上の庚申塔も奥まったところにあり見えにくいが、笠付角柱型で日月はない。青面金剛像のみの図柄で台石に三猿が描かれている。右面には「奉造立大青面金剛供養塔  上板橋」とあり、左面には「講中拾八人」とある。造立年は寛保4年(1744)2月とある。

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ゼニゴケが緑がかったこの笠付角柱型庚申塔は極めて立派な笠なのに角柱部分はあっさりと文字になっている。正面は「大青面金剛供養塔」と彫られその下は明確には確認できなかったが、資料によると薄い刻で、二鶏、邪鬼、三猿があるようだ。造立年は元文2年(1737)11月。「上板橋村  願主 磯右衛門  講中 十一人」とある。この庚申塔も茂呂山通りの稲荷神社にあったものをここに移したという記録がある。

場所  板橋区東新町2丁目30-23

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2020年10月 5日 (月)

安養院の石仏(2) (板橋区東新町)

墓所入口の向かって左手に多数置かれた石仏群。その中からまずは最前列のものを見ていくことにする。おおよそ2~3列に置かれた石仏群はおよそ30体弱ある。何割かは墓石で、後にイヌシデの大きな木があるが、その根元に食い込んでいる板碑型の石仏も墓石であった。手前右から見ていきたいと思う。

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一番右にあるのが丸彫の地蔵菩薩立像。造立は安永7年(1778)2月で、昔は台石があり、資料によると「念佛講中拾五人為菩提矣」とあったようだ。右から二番目は庚申塔。唐破風笠付角柱型で、正面には青面金剛像のみで他の彫り物はない。造立年は安永5年(1776)8月で、願主小宮玄石とある。

その左の笠付角柱型の石塔は石橋供養塔のようだ。四番目は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、下部には栗原村の銘。造立は正徳5年(1715)12月である。栗原村は安養寺よりも西側にあった村で、現在は桜川1丁目になっている。江戸時代後期からは上板橋村の小字になったようである。

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駒型庚申塔の左には角柱型の文字塔の庚申塔がある。前面に大きく「庚申」と書かれていて、右面には「右 山▢▢道  栗原金太郎 主」、左面には「左 あらい薬師道」とある。造立年は文久2年(1862)2月。新井薬師は分かるが山▢▢に関しては、東京近辺で山で始まる地名は思い当たらない。

その左は駒型の馬頭観世音。文化元年(1804)11月の年紀。上部に日月があるのは庚申の名残りだろうか。その左の地蔵菩薩はどうも以前あった六地蔵のうちの一基のようである。

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地蔵の少し左手の足元にあるのが珍しい形の馬頭観音。角柱でもあり自然石っぽくもある。造立年は嘉永6年(1853)4月。「当村 願主 小野沢権右衛門」とある。

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最前列ではないが、左端の方に少し奥まって立っている地蔵菩薩立像は出所が資料で確認できた。昔は台石に載っていたようだ。造立年は正徳5年(1715)10月。「武刕豊嶋郡上板橋村の銘」に、さらに「施主講中二十三人、奉造立地蔵尊、為二世安楽也  小林勘左衛門」とあったもの。

まだまだ終わらない。次は二列目以降だ。

場所  板橋区東新町2丁目30-23

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2020年10月 4日 (日)

安養院の石仏(1) (板橋区東新町)

旧地名台宿の長命寺から800mほど西に行くと丁字路があり安養院がある。この角には昭和初期に上板橋村役場があった。明治22年の町村制施行にあたり上板橋村が誕生、それから昭和2年までは安養院の境内と建物を借りて村役場としていたが、昭和に入ってようやく庁舎が出来たという。その大家さんである安養院の創建は不詳、しかしながら言い伝えでは鎌倉幕府の執権北条時頼による創建らしいので、1250年頃かと思われる。

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境内に入ると駐車場と本堂の間にも多くの石仏がある。3mはあろうかという宝篋印塔の両脇にある地蔵菩薩も年代物。左の合掌した丸彫地蔵菩薩立像は元文4年(1739)2月の造立で、台石には「上之根講中」とある。上之根は北豊嶋郡時代までの字名で、現在の東新町がその地域にあたる。「根」は土地の意で、台地の上の土地で上ノ根と呼んだというのが由来。右の地蔵菩薩は延享元年(1744)7月の造立で、台石には「上根 新田 講中」とあるので、石神井川沿いの農家の人々によるものか。

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本堂周辺の石仏は新しいものと墓石が多いのでそのまま裏手の台上の墓所に向かうと、墓所入口の六地蔵の後ろに沢山の石仏がある。右側の竹藪脇にあるのが4基の石仏。 左端は破損と摩滅でいささか悲惨な様子だが、享保19年(1734)11月の地蔵菩薩立像。台石には「上板橋中内念仏講中 同行拾八人」とあり、脇には「右ハ かわごえ道」「左ハ たなん道」という道標になっている。たなん道というの何を指すのかは分からない。

大きな石塔は安永4年(1776)2月の供養塔で、正面と右面は聖観音、左面は如意輪観音が描かれ、正面には「奉納四國供養佛」とある。その右にある小さめの角柱型の石塔も供養塔で、大乗妙典六十六部供養塔とある。造立年は寛保3年(1743)9月。

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奥にあるのが笠付角柱型の庚申塔。造立年は書かれていない。正面には、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれ、道標も兼ねていて、右面には「是より 右 か巴こへ道」、左面には「是より ひだり ふじみち」とある。か巴こへ道とは甲斐越え道の意だろうか。青梅街道柳沢峠か甲州街道笹子峠越えの街道に繋がっていたのかもしれない。ふじみちは富士参詣への道で、練馬板橋にはいくつもあり、先で大山街道や甲州街道へ繋がっていたのだろう。また、「武▢豊嶋郡上板橋中内出施主 石川五郎兵衛 同行十人」の銘がある。資料によると、元あった場所は上板橋1丁目だというから、川越街道沿いだったのではないだろうか。

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墓所への道を挟んで面白い地蔵がある。造立年は文化13年(1816)仲夏初雨後穀日とあるので5月の梅雨入り時期だろう。この地蔵菩薩は顔が人間ぽくて面白い。この地蔵菩薩より先に多くの石仏石塔があり、別述としたい。

場所  板橋区東新町2丁目30-23

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2020年10月 3日 (土)

東山町の馬頭観音(板橋区東山町)

石神井川の下頭橋から長命寺坂を上ると長命寺、寺前で西に向かうのが川越街道。そのまま南西に向かうと村道で氷川神社を経て安養院へと繋がっている。長命寺周辺の昔の地名は「台宿」。ちょうどこの辺りは標高が高く「お東山」と呼ばれたのが所以で東山町となった。昔の地名の台宿、この中心には数軒の民家があったようだ。

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長命寺から村道を100mほど進んだところに大正時代は数軒の民家があり、昭和になっても戦前はまだその数割増しくらいの戸数だった。現在は「メゾン・ド・ルミエール東山」というマンションがありその入り口に自然石の馬頭観音がある。造立年は昭和18年(1943)2月と新しいが、出来た当時はまだ農村風景だったはず。戦後になるとあたりは民家だらけになってしまったが、石仏とは似ても似つかない名前のマンション敷地にこの自然石の馬頭観音があるコントラストがいい。施主名は新井金太郎とある。

場所  板橋区東山町37-4

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2020年10月 2日 (金)

長命寺の石仏(1) (板橋区東山町)

長命寺にはとても多くの石仏が祀られている。第二弾は地蔵菩薩を中心に紹介したい。本堂前から墓所に入る道の両側に石仏が並んで迎えてくれる。墓所に向かって右側には庚申塔や地蔵菩薩が並び、反対側にはその他の供養塔が並んでいる。

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入口手前の地蔵は丸彫で造立年は享保5年(1720)2月。本体の高さは84㎝。台石正面には「講中百余」とあり、地蔵講のメンバーがそれほど多かったのだろう。台裏には造立年が刻まれている。その隣の丸彫地蔵菩薩は少し大きく101㎝。造立年は正徳5年(1715)10月で、台石左には「東光山 上板橋村」とある。

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三番目の地蔵菩薩立像は宝永8年(1711)2月のもの。「武州豊嶋郡上板橋村長福寺」の銘があるが、長福寺という寺院があるのは現在は赤羽台、もしかしたら関係があるのかもしれないがそれ以上は分からない。あるいは長命寺の誤植か。台石左には講中九十余人とあるので、やはり上板橋の地蔵講は大規模だったようだ。その隣の地蔵菩薩は台石が三猿のもので、庚申塔のところで紹介した。

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右列のしんがりにあるのが安永4年(1775)11月造立の地蔵菩薩立像。台石右には多くの日付が入っているが意味は分からない。施主中尾庄三郎とある。この列の地蔵の一部は概ね首から上が妙に綺麗である。顔が取れてしまう地蔵は多いので、もしかしたら再建されたのかもしれない。

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反対側の列は、墓所側からみて一番手前の高いのが馬頭観音菩薩と区の資料にあるが、私の見解では聖観音菩薩である。台石には「常盤台 観世音菩薩」とあり、裏面には「施主 松平水野守」とあるが、年代は分からない。その左の舟型光背型の石仏は珍しい大日如来像で、造立年は延宝4年(1676)のもの。

本堂前にもまだいくつもの石仏があるが、それらは別の機会にしたい。

場所  板橋区東山町48-5

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2020年10月 1日 (木)

長命寺の庚申塔(板橋区東山町)

環状七号線と国道254号川越街道が交差する板橋中央陸橋の角に長命寺がある。真言宗豊山派、東光山医王院長命寺が正式名称。江戸時代初期の1650年頃の創建とされている。江戸時代の川越街道は、旧道の下頭(げとう)橋から長命寺坂を登り、この寺に至っていた。下頭橋一帯は昭和初期に関東大震災後の西への移住が始まるまでは水田が広がっていた。

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環七と川越街道に随分と境内を奪われて狭くなった長命寺だが、階段を上って境内に至るアプローチは往年の下頭橋からの長命寺坂の名残りと言えるだろう。長命寺が台地の際にある理由のひとつとして、ここは室町時代から「お東山」と呼ばれ、地方豪族である板橋氏の居城があったという説がある。

階段を上り詰めると正面方向に本堂があり、右手に墓所が広がっている。この墓所の入口や本堂前に沢山の石仏が祀られていて、すべてを紹介するにはいささか多すぎる。

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今回は庚申塔を中心にしたい。上の写真の右の丸彫地蔵菩薩像は土台に三猿が描かれており、さて庚申塔かと調べてみたが地蔵には何も書かれていない。板橋区の資料では単純に年銘不詳の地蔵とだけある。いろいろ調べてみたが判らない。他の庚申塔の台石に地蔵を載せたものの可能性も高い。しかし左側の笠付角柱型の石仏は庚申塔である。造立年は元文元年(1736)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛像の右には「奉造立青面金剛供養塔」とある。また左面には「上板橋村台宿 講中廿二人」と記されている。

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その脇にも笠付角柱型の庚申塔が並ぶ。擬宝珠の残った上の写真の右の庚申塔は享保3年(1718)11月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼が描かれ、台石には三猿がいる。村銘などはないが、7人の願主名がある。左側の庚申塔は享保12年(1727)の造立。こちらには「上板橋邨  講中七人」の銘がある。

台宿というのは長命寺から北西の旧川越街道に沿った地域の古い地名。長命寺から西の川越街道は新道もほぼ旧道にそって作られているので、概ね長命寺から200mほどの区間にあたる。

場所  板橋区東山町48-5

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