南蔵院の石仏(1) (板橋区蓮沼町)
江戸時代の記録によると、蓮沼氷川神社と南蔵院は蓮沼町と共に今の地域に移転してきたという。当初は荒川低地(現在の坂下・東坂下)にあった村が、度重なる荒川の洪水によって住処を追われ台地の上のこの地に移ってきたのは享保年間(1716~1736)かそれ以前と言われている。村には道生沼などの沼が点在する低湿地だったので、移転はやむを得なかったのだろう。江戸時代の移転は幕府の許可なども必要で、相当な重荷を背負ったに違いない。
山門をくぐるとすぐ左手に笠付角柱型の大きな庚申塔がある。造立年は正徳3年(1713)3月。時代的には移転前から移転後か微妙なところである。尊像は青面金剛像のみで、左右や台石には細かい文字がたくさん書かれている。正面には「武州豊嶋郡蓮沼村庚申講施主」、背面には「供養導師南蔵院住法印」とある。元の場所は東坂下2丁目2だというから、旧中山道沿いにあったのだろう。つまり村の移転前のものということになる。
その奥にある白っぽい石材の角柱は馬頭観音。馬の顔の出っ張りが絶妙である。造立年は新しく、昭和18年(1943)3月とある。果たして昭和3年頃、牛馬の輸送が行われていたのかとは思うが、都営三田線は東京オリンピックよりも遅い1968年の開通だから、戦前はまだ牛馬輸送があったのだろう。
笠付角柱型庚申塔と馬頭観音の間に縁がいささかボロボロになった石仏があったが、板橋区の資料を見るとと庚申塔である。造立年は不詳。舟型で高さは49㎝。しかし頭の上には馬頭があり、おそらくは馬頭観音である。「蓮沼村 高山忠右衛門 同 忠兵衛」の銘がある。
山門くぐって右手には沢山の石仏石塔が並んでいる。六地蔵もあるし、三地蔵なのに六地蔵とされている像群もある。その中に写真の石仏があった。造立年は寛文2年(1662)8月とかなり古い。尊像は大日如来である。縁沿いに「武州豊嶋郡蓮沼村 念佛本願結衆都合廿二人」とかかれている。念仏講によるものだろうか。
その日大にある低めだがごっつい角柱型文字塔の庚申塔は文化9年(1812)2月の造立。日月に文字で「庚申塔」という図柄、左面に「武刕豊嶋郡蓮沼村中 世話人 九人」とある。
享保年間移転説が強いのは、その時期に壊滅的な被害を与えた荒川洪水があったからのようで、それでも人々はたくましく移転して村を築き上げているバイタリティには脱帽である。
場所 板橋区蓮沼町48-8
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