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2020年11月 4日 (水)

松月院大堂の石仏(1) (板橋区赤塚)

板橋区赤塚にある松月院大堂(たいどう)は、鎌倉時代から南北朝時代の創建と思われる。大堂という呼び名については、昔ここにあった阿弥陀堂のことで、南北朝時代の建武延元年間(1334~1340)には七堂伽藍を供えた大寺院だったので、村人は大堂と呼んでいたという。永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)が小田原の北条氏康を攻めた際に、堂宇は悉く焼き討ちに遭って焼失したらしい。

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現在も前谷津川の河岸段丘の斜面の上にあるが、江戸時代の文献にも階段を十四五段登るとあるので、同じような感じであったのだろう。この辺りは江戸時代には幕府の直轄地(天領)で、豊嶋郡峡田領下赤塚村に属していたという。大堂の南には前谷津川が流れていた。ある意味砦としても良い立地である。

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石段下にあるのが珍しい丸彫の庚申塔で、一見庚申塔とは気づかない。しかし地蔵などの石造でもなく、不思議な像形をしている。これが元塚地蔵尊のところで出てきた地蔵塚にあったという庚申塔である。造立年は嘉永2年(1849)11月。高さは台座を除いて87㎝、摩滅が激しく中折れもしているが補修してあり、日月、青面金剛像丸彫、大きめの邪鬼、中段台石にはかすかに三猿の跡が見られる。左側には「番匠免講中」とあり、この地名等については「番匠免の坂」で詳しく書いた。

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庚申塔の後ろには大きな地蔵がある。大きいと言っても台石が大きいのであって、地蔵座像はそれほどでもない。造立年は元治2年(1865)4月で明治維新の直前。近隣の多くの村の寄進で建てられたようである。

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左側の石段の右手に沢山の庚申塔や地蔵が並んでいる。手前の3基の庚申塔は見事なものである。右端は板碑型の庚申塔で、造立は宝永3年(1706)2月。この年の末に富士山の宝永火口大噴火が起こっている。正面には「奉造建庚申供養塔爲現世安穏後生無比楽」とあり、脇に「武州豊嶋郡下赤塚郷  講衆十五人」とある。中央の板碑型庚申塔は寛文2年(1662)2月と最も古い時代のもの。「仲春」とあるのは梅の咲くころのことのようだ。時代によっては2月ではなく3月という説もある。左の舟型庚申塔は元禄5年(1692)2月の造立。「武州豊嶋郡下赤塚村」の銘がある。

場所  板橋区赤塚6丁目40-3

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