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2020年12月31日 (木)

八雲神社の不動明王(板橋区向原)

千本塚から西へ伸びる道は古い道で、千川用水畔から現在の江古田駅あたりに向かう村道であった。この道を西へ進み、要町通りを横切り、その少し先で右に分岐する道がある。この道もまた昔からの道で、そこを入るとすぐに向原八雲神社がある。中世には現在の向原一丁目(要町通りの北側)にあったが、江戸時代に現在の地に移転してきたと伝えられる。江戸時代は、富士講大山講に関係の深い神社で、山岳信仰に関する多くの宝物があるらしい。

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境内にある溶岩の土台に祀られた不動明王像は少し変わっている。台石の上に台石らしきものがあり、尊像の不動明王はその上に載っている。真ん中の台石に陽刻されているのは、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の両脇侍。丹沢大山の大山寺の本尊である不動明王への信仰から造られたものである。

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大山は火山ではないので溶岩は無関係だが、富士講と混じり合ってこうなったのだろうか。不動明王像の造立年は文政2年(1819)8月、大山不動と呼ばれ、講中十七人、世話人金蔵松五郎の銘がある。元は大谷口二丁目の溜池脇にあったというから、現在の場所としては大谷口の窪地にある大谷口ガーデンマンションの辺り、板橋区立向原一丁目広場の東側と思われる。その辺りは水源のひとつで、水流は北進しえんが堀となって石神井川に注いでいたが、しばしば洪水になったため早い時代に暗渠化されてしまった。その暗渠は、ガーデンマンション脇に今も水路道として残っている。

場所  板橋区向原2丁目4-7

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2020年12月30日 (水)

千本塚地蔵(板橋区向原)

都道420号線の広々としたきれいな交差点、十字路ではなく鋭角に交差する無名の交差点。東京メトロ有楽町線副都心線並走の千川駅から北へ200mほどのところにあるが、都道と鋭角に交差する道はかつての千川用水の暗渠である。昔は村道と千川用水がここで分かれていた。

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この交差点の北西角に立派な地蔵が祀られている。地蔵には「千本塚地蔵」と彫られている。板橋区の資料によると、この地蔵は通称千本塚にあるために千本塚地蔵と呼ばれ、また、雨乞いに霊験あらたかなことから雨乞い地蔵とも言われるとある。そして昭和2年に復元したとあり、かなり摩滅した高さ56㎝の舟型光背型の地蔵菩薩像の写真が添えてある。

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しかし現存するのはとても立派な地蔵菩薩で、とても昭和初期のものとは思えない。おそらくここ20年か30年といったところだろう。ということは昭和2年(1927)に復元されたものがどこかにあり、その代わりにこの立派な地蔵がさらなる再建を見たというのが正解かもしれない。これからの調査課題である。

場所  板橋区向原1丁目1-1

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2020年12月29日 (火)

大谷口路傍の馬頭観音(板橋区大谷口)

都道420号鮫洲大山線という幹線道路の旧道にあたる道で、千本塚地蔵のある交差点の場所まで千川上水と並走してきた道が急に北へ向きを変える。今も大正時代以前の道筋は路地になって残っているが、その古い道の丁字路に明治時代の馬頭観音がある。

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実はこの場所はごみ収集のゴミ置き場になっていて、青いネットが無造作に掛かっている。一見、二本の石塔に見えるが右の大きい方は台石らしい。しかし左の小さい方の馬頭観音と別の石塔の可能性もありうる。馬頭観音には明治23年(1890)8月の年紀が彫られているが、右の台石には明治40年(1907)11月とあるからだ。

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裏側を覗き込んで文字を読む。見る限りにおいてこの石は後に造られたもので、これが台石か馬頭観音の説明の石柱かどうかについては明確な判断が出来ない。謎のある馬頭観音である。板橋区の資料も読んでみたが、どうも違うことが書かれているように感じる。大きい方の石の右側面には道標も彫られており、いろいろな可能性が浮かんでくる。何となく消化不良になった。

場所  板橋区大谷口1丁目16-6

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2020年12月28日 (月)

区境路傍の庚申塔(板橋区大山西町)

とある五差路、南は豊島区千川、西から北は練馬区大谷口、北から東は板橋区大山西町、東は板橋区幸町と3つの区の区境にある駐車場の一角に忘れられたように佇んでいる庚申塔がある。意識しなければ気づかないかもしれない。

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鉄柱が立っているのは庚申塔を守るためだろうか。庚申塔そのものは、極めて良い保存状態で、とても野ざらしには思えないほどきれいに手入れされている。多くの庚申塔がそうであるように、この庚申塔も安山岩で、火山岩の中では玄武岩に比べれば負けるが流紋岩よりも詰まっていて重く、石仏の加工には最適な石材である。

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駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。造立年は安永5年(1776)8月。台石には、「庚申待講中 二十五人」「武刕豊嶋郡上板橋大谷口村  大野清左衛門」の銘があり、16名の願主名が刻まれている。こういう場所の庚申塔はいつの間にか消えてしまうことが多いのでいささか不安でもある。ぜひ守ってほしいものだ。

場所  板橋区大山西町28-2

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2020年12月27日 (日)

長崎富士塚の庚申塔(豊島区高松)

富士神社通りを北上する。要町通りから数百m行くと、建物の裏に豊島長崎の富士塚がある。南側は児童公園になっている。しかし富士塚は厳重に金網に囲まれて入ることはできない。東京に120ほどある富士講の富士塚の中でも比較的大きいもので、高さは8mほどある。江戸で最初の富士塚は早稲田大学の場所にあった高田富士らしい。安永9年(1780)に造られたが、残念ながら高田富士は現存しない。

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長崎の富士塚は富士講の一派、椎名町元講によって造られたもの。塚全体は富士山の溶岩でできているらしい。直径21mもあるこの富士の周りには多数の石塔が立っている。ここの石塔の数は他の富士講富士に比べても多い方である。そんな富士の裾野、公園との間の金網に近いところに庚申塔が立っている。国の重要民俗文化財に指定されているようで厳重な管理がなされている。

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角柱型だが形から判断して元々は笠付きであったと思われる。日月、青面金剛、邪鬼がかろうじて確認できるが、おそらく土中に埋まっている部分に三猿があるのではないかと思う。右側面には、宝暦11年(1761)3月の造立年がある。ちなみに東京23区内の富士塚で国の文化財に指定されているのは3ヶ所のみで、ここ以外では江古田の富士と下谷坂本の富士のみである。一番有名な千駄ヶ谷の富士や品川神社の富士も重要文化財には指定されていないのである。

場所  豊島区高松2丁目9-3

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2020年12月26日 (土)

富士神社通りの庚申塔(豊島区要町)

都道要町通りから富士神社通りに入って北に進む。150mほど進むと、豊島動物病院のある辻に至るが、この動物病院の富士神社通り側に笠付角柱型の立派な庚申塔が立っている。まさに路傍の庚申塔である。

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祀られている場所からして、この豊島動物病院が管理をしていると思われるのだが、なかなか立派な庚申塔である。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。

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台座には特に文字は見当たらないようだが、石像の側面には宝暦12年(1762)3月の造立年が刻まれている。また、「武列豊嶋郡長崎村堺久保  講中拾二人」とかかれている。この辺りの江戸時代から明治時代にかけての村名は長崎村だが、堺久保がわからない。池袋から西のこのエリアでは昔は谷端川の上流が北に南に曲がりくねっていた。富士神社通りは湾曲によって出来た台地の尾根筋を南北に走っている。「久保」は概ね「窪、凹」の意で地名になるので、造立した講中は谷端川の谷筋と関係がありそうな気がするが、情報がまったく入手できなかった。

場所  豊島区要町2丁目25-11

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2020年12月25日 (金)

上井草駅北の馬頭観音(練馬区下石神井)

30年くらい昔のことだろうか、関越自動車道練馬入口に行くのに環状八号線を北上すると、井荻の西武新宿線踏切で毎度の大渋滞。今は井荻トンネルでものの2,3分で通り過ぎるところを小一時間かかることもしばしばだった。それで杉並区今川から上井草の踏切を通って北上したものだが、この踏切が千川通りと浅い角度で交差するので、踏切自体が交差点の真ん中にあるような道で、ここもまた大混乱していた。それでも環八よりもはるかに早いので、しばしばこちらを通っていたものである。

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踏切を北へ渡りすぐに右折するのが千川通り。これを上井草駅方向に東に進むと、間もなく南側の歩道に面したブロック造りの堂宇がある。堂宇の覗いてみると、中には角柱型の石塔が祀られていた。もともと鉄道がとおる以前は千川通り沿いの街道で、この馬頭観音の辺りから南に入る道があったが、その場所と推定されるところにあたる(道は現在は存在しないが、杉並区と練馬区の区境はこのかつてあった道の筋に残る)。鉄道開設によって道筋が変わってしまったのだろう。

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石塔は馬頭観音。造立年は文政9年(1826)3月で、正面には「南無馬頭観世音」とある。台石の右には「西 柳沢道」左には「東 雑司ヶ谷道」とあり、道標を兼ねていたようだ。正面には「武州豊嶋郡下石神井村 川南惣講中」と書かれている。また、それに続き、「坂下、伊保ヶ谷戸、向三谷、上久保」という地名と願主がある。これらは下石神井の千川上水北側にあった小字名。しかし川南の地名は辺りには見当たらず、千川上水以南の集落の意味かとも想像される。

場所  練馬区下石神井4丁目28-12

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2020年12月24日 (木)

整形外科の地蔵(練馬区上石神井)

西武新宿線上石神井駅北口から東に延びる商店街を進む。すぐに店舗は途絶えてしまうが、突き当りの市毛整形外科診療所のビルの前に、立派なコタイル張りのンクリートの堂宇があり、地蔵菩薩が祀られている。

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地蔵はきれいにされていたので新しいものかと思ったが、実は文化5年(1808)8月の造立という200年以上も昔のものであった。江戸時代のこの辺りは上石神井村で、南には千川用水が流れ、北には下石神井天祖神社から武蔵是木の最勝寺に繋がる道が東西に走っていた。鉄道などない時代なので、この辺りは農家がポツンポツンとある程度の村だったようだ。

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地蔵菩薩像の右側には、「奉參馬頭観世音三百日供養」とある。馬頭観世音ではなくこれは地蔵菩薩だろうと思う。なぜ馬頭と書いたのかはわからない。右側には「▢諸方他力建立」とあり、左側には願主法名觀應と彫られている。台石には俗名本橋次惣右衛門、本橋勘兵衛の銘がある。

場所  練馬区上石神井2丁目29-2

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2020年12月23日 (水)

上石神井千川通りの庚申塔(練馬区上石神井)

水車のモニュメントの遊具のある上石千川児童遊園から少し東に進むと、信号のある交差点の角に堂宇が立っている。駐車場の角の一角に敷地を戴いて祀られている。ここから千川通りを離れ北に向かうとすぐに西武鉄道の上石神井車両基地がある。

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尊像を拝顔しようと思ったが、扉はチェーンに南京錠でしっかりと閉じられている。過去に誰かがいたずらをしたのだろうか、何となく哀しい。致し方なく、格子の間から撮影する。庚申塔が手前にあるので、全貌を映すことは不可能。

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庚申塔は駒型で、上部に日月が陰刻され、中央に青面金剛像が陽刻されている。その下には三猿が描かれたオーソドックスなデザインである。

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造立年は宝永2年(1705)10月。正面に刻まれているのは「奉造立南無帝釈天王」。帝釈天は寅さんで有名だが、庚申信仰の尊像としても時折見られる。庚申懇話会編の『日本石仏事典』によると、この庚申塔を事例に、「青面金剛を帝釈天と考えていたふしが各地の例から知られる」と説明している。描いているのは青面金剛像だが、当時の人はこれが帝釈天だと思っていたのだろう。

場所  練馬区上石神井1丁目3-16

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2020年12月22日 (火)

上石神井立野の庚申塔(練馬区上石神井)

千川上水暗渠上に走る千川通り、西武新宿線上石神井駅の南の立野橋交差点にやや大きめの堂宇がある。千川上水は玉川上水から分水され江戸時代の元禄9年(1696)に開削された。全長は22㎞、当初の目的は小石川御殿、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺の徳川綱吉の施設への給水だった。江戸時代は農業用水にもなったが、明治になると印刷局や王子製紙の工業用水として利用されるようになった。今は暗渠になり、千川通りの下に隠れているのでその存在を意識する人は少ない。

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立野橋の少し東の現在上石神井1丁目8番地には昭和40年(1965)頃まで千川上水の水を使った田中水車があった。現在の上石千川児童遊園の場所で、現在も遊具の中に水車をモチーフとしたものがある。さて、堂宇に戻り中にある石仏を見てみると、左にあるのが宝永元年(1704)11月造立の駒型庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉造立庚申供養尊像一基願望成就所」とある。下部には「武刕豊嶋郡上石神井之内 立野村 結衆三十二人」の銘がある。

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立野村は上石神井村の一集落。この交差点の東側で千川上水を渡る橋があった。一方、右側の石塔はいささか長いが、出羽三山大権現百十ヶ寺観音供養塔。造立年は天保13年(1842)2月。月山、湯殿山、羽黒山の三山を祀り、四国、西国、坂東、秩父の札所を祀っているようだが、百十ヶ所は合わないような気がする(正確に月山三山と合わせて観音の数は百八十八である)。「武州豊嶋郡 上石神井村立野 井口八左衛門  實行」の銘がある。

場所  練馬区上石神井1丁目11-3

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2020年12月21日 (月)

水道端稲荷の庚申塔(練馬区関町南)

杉並区と練馬区の区境に面白い形がある。場所は善福寺池の周辺で、池の周り300~400mの半径で丸い杉並区善福寺四丁目、まるで競馬場のオーバルコースがあったような地形である。江戸時代はこの辺り全体が上井草村だったので、近代の区割りだが、なぜ丸いのかは謎である。そのオーバルの先の標高の高い筋を千川用水が流れている。青梅街道にぶつかるまでは開渠だが、青梅街道からは暗渠となって千川通りになる。

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千川用水の開渠の終わりのところに、青梅街道に面して小さな稲荷があり、その境内に石仏が並んでいる。練馬区の資料にも欠けているが、庚申塔冊子にのみ載っていた。一番左の大きな石塔は、六十六部供養塔。造立年は享保13年(1728)11月で、武刕豊嶋郡上石神井村の銘がある。その隣が庚申塔で、5基あるうちの真ん中は破損が激しくて何の石塔なのかわからない。右から二番目は地蔵菩薩で、年紀の部分が欠けているが元禄時代のものだろうか。

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笠付き角柱型の庚申塔は、元禄元年(1688)11月のもので、日月、青面金剛像、三猿の図柄。願主名には田中姓と尾崎姓が多い。右側には「庚申待結衆二世安楽所」と書かれている。目の前はバス停で停車場名は「水道端」。おそらく誰も何故水道端なのか知らない時代も近いのかもしれない。古い街道、上水の暗渠(開渠)、石仏と、私には垂涎のポイントなのだが。

場所  練馬区関町南3丁目1-6

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2020年12月20日 (日)

善福寺地蔵(杉並区善福寺)

善福寺の西側の塀沿いに横堂があり、そこに石仏が祀られている。なぜかこれを善福寺地蔵と呼ぶらしいが、どうも地蔵ではない。他の場所でも庚申塔やその他の石像を〇〇地蔵とするケースがたまにあるが、現代の人々に昔の講中の区別を理解するのは無理だろう。もっとも地蔵は菩薩のひとつのかたちなのだが、石でできていたら地蔵という極めてざっくりしたネーミングは苦笑してしまう。

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この横堂、確かに善福寺の敷地内と思われるが、造りがあまりに貧相なので驚いた。まるで庭に作業場を作ったような感じなのである。台風でも来たら屋根は飛んでしまいそうだ。しかしその下には笠付角柱型の立派な石仏が2基並んでいる。

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右の少し明るい色の石仏は、元文5年(1740)11月の造立。尊像は青面金剛像ではなく、勢至菩薩立像である。尊像の周りに書かれている文字は、「奉造立廿三夜  浄本地  武刕多摩郡遅野井村  念佛講中  善福寺」とあることから、念佛講中の二十三夜待ちの塔だろうか。左の塔は擬宝珠まで残っているもので、こちらの尊像は将軍地蔵立像とされる。「奉造立愛宕大権現  武刕多摩郡遅野井村善福寺十二人  念佛講中  新甼十二人」とあり、造立年は延享2年(1745)9月。江戸時代中期には念仏講のバリエーションも豊かになって来たのだろう。

場所  杉並区善福寺4丁目3-6

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2020年12月19日 (土)

善福寺の石仏(杉並区善福寺)

正直なところ善福寺はもっと大きな寺院だと思い込んでいたが、意外にシンプルな寺でいささか拍子抜けした。しかしそこは曹洞宗寺院だから、華やかさはなくて当然である。創建年代は不詳。というのも古い時代に善福寺池の傍に、善福寺と万福寺という二つの寺があったが、後に廃寺となったと伝えられる。それがいつ今の善福寺に繋がったのかはわかっていないらしいのである。池の名前だけでなく、地名にもなっているが、このギャップが意外に心落ち着く気がした。

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実は寺の外(厳密には敷地内)に複数の庚申塔があるが、ここでは境内内部のみの紹介としたい。広い境内の本堂に向かって左側と右側にぽつぽつと石仏がある。左側には地蔵菩薩がある。

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大きな丸彫の地蔵菩薩立像が2体並んでいるが、その左側は享保12年(1727)9月の造立。施主は上荻久保村の小張吉兵衛と彫られている。千日念佛の供養仏で、念佛之講中村々とあるので、近隣の村の念仏講中が集まって寄進したのだろうか。

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右側の地蔵尊は天明8年(1788)9月の造立。「善福寺 新町 向原 念仏講中 遅野井村」とあり「近郷村々 志衆中」とあるので、江戸時代中期は複数の村の地蔵講が一緒になって行事を行っていた可能性が高い。願主は石井金十郎、本橋小右衛門とあり、石工名も「江戸本材木町八丁目 石工 上総屋治助」と彫られている。本材木町とは今の日本橋の首都高環状線が通っているところで、当時は楓川という堀があり、その西側が本材木町だった。

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その他境内には面白い石仏がいくつかあり、この双体道祖神もそのひとうである。なかなか東京23区で双体道祖神は見かけない。おそらく時代はかなり新しいのだろうが、本堂向かって右手の植込みの間にひっそりと佇んでいた。

場所  杉並区善福寺4丁目3-6

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2020年12月18日 (金)

江戸向き地蔵(杉並区善福寺)

青梅街道の上井草四丁目交差点は五差路で、青梅街道と善福寺への道の間の角に祀られているのが江戸向き地蔵である。文字通り、青梅街道の上り方向(江戸の方角)を向いて立っている。後ろの塀に説明板が掲げてある。「江戸向き地蔵」と呼ばれて来たことは書かれているが、きっかけやその他の逸話については見いだせない。井草八幡宮と善福寺の間にこの地蔵があるのは何らかの理由がありそうに思うのだが。

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江戸向き地蔵の造立年は享保14年(1729)10月。丸彫の地蔵で、「武列多摩郡遅野井村」の銘がある。願主名としては、野田甚右門に加えて同行16人とある。この地蔵と供養塔のある三坪の敷地は野田甚右門の寄進だと彫られていた。以前は「開運地蔵尊」という看板が掲げられていたのだが、いつからか江戸向き地蔵という看板に変わった。こっちの呼び名の方が風情がある。

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横にあるのが角柱型の供養塔で、説明板では「三山百番供養塔」とされている。文政9年(1826)6月の造立のこの供養塔、意外に欲張りで、「月山 湯殿山 羽黒山」「西國 秩父 坂東」と複数のジャンルを盛り込んである。「百番供養塔観世音」とあるが、観世音はどこにあるのだろうか。銘としては、遅野井村の本橋勝三郎眞行、遅野井村の野田甚内重行、竹下新田の岩崎圧兵衛(おそらく圧は庄の間違いだろう)と彫られている。青梅街道の少し西、現在の関町南一丁目あたりを昔は竹下と呼んだ。そこに開墾した新田があったのだろう。

場所  杉並区善福寺4丁目1-1

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2020年12月17日 (木)

井草八幡前の庚申塔(杉並区上井草)

井草八幡宮の北参道の入口は青梅街道と早稲田通りの出合いの辻。西側には浅間神社と井草富士。もっともこの富士塚は昭和50年(1975)までは本殿脇にあったものである。ちなみに井草八幡宮の創建は平安時代と考えられ、源頼朝の東征以降八幡神社となったようだ。この井草八幡宮の北参道から青梅街道を挟んだ北側の角にも庚申塔がある。

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上野写真の青梅街道の標識の右下にあるのがその庚申塔である。笠付角柱型で最上部の擬宝珠まできれいに保たれている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、尊像脇に「奉納庚申塔  遅野井村講中」とある。造立年は元文3年(1738)11月で、同行二十人と書かれている。また青面幹部には願主名があり、野田中右衛門、野田弥市右衛門の名がある。野田姓はこの辺りの石仏石塔によく見かける名家である。

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遅野井村は上井草村の別名で、中世以前の呼び名。江戸時代に上井草村となり、明治22年(1889)には井荻村となった。このあたりの地名は政権が付けたもので、地元の呼び名ではなかったのかもしれない。その為いまでも遅野井という呼び名が残っている。遅野井というのは善福寺池の昔の名前で、今も善福寺には遅の井の滝というかつての湧水の再現の滝がある。

場所  杉並区上井草4丁目4-3

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2020年12月16日 (水)

椿の庚申様(杉並区善福寺)

練馬区に近い杉並区の青梅街道沿いにある井草八幡宮。参道が北からの参道と東からの参道と二つあるが、昔からあるのは東からの参道のようだ。昔は井荻村の一部だが、この土地は遅野井と呼ばれており明治時代までは遅野井八幡宮と呼ばれた。その東側参道の北側の玉垣沿いに神社の遊歩道があり、そこには古い鳥居(分解)や椿の庚申がある。

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笠付角柱型の庚申塔で、造立年は貞享3年(1686)11月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。実は青梅街道の桃井にあったのだが消えてしまったので、私のメモでは「マンション建設で撤去」となっていたが、井草八幡宮といういい場所で会うことが出来た。青面金剛の右には「奉奇進庚申爲二世安楽也」とある。寄進の誤字はご愛敬。なかなか立派な庚申塔である。

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古くは小字三谷部落の北の入口にあったというから、現在の今川4丁目辺りだろうか。都立杉並工業高校の少し南くらい。敷地内には椿の大樹が生繁っていたので集落では誰ともなく「椿庚申様」と呼んだ。遠く下井草や鷺宮の村人の信仰も集めていたらしい。関東大震災に遭い、杉並区桃井4丁目5-1(HONDA、スバル、ポルシェのディーラーの東側のマンション)に移った。マンションができてからは、現在の井草八幡宮の遊歩道に移ったという経緯である。

場所  杉並区善福寺1丁目34

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2020年12月15日 (火)

成田山円能寺の庚申塔(大田区山王)

江戸時代は隣接する大森日枝神社(山王社)の別当寺であった円能寺は、元亀2年(1571)の創建。終戦後まで成田山の冠は付かなかったが、昭和27年(1952)に成田山新勝寺の末寺となってから現在の寺名になった。明治初期の地図には、圓能寺、日枝社と並んで載っている。場所はまさに大森貝塚のすぐ傍である。

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境内には幼稚園があり、現在は寺よりもそちらの方が賑やかである。正面の本堂にお参りをして、左側にある墓所に入ると、無縁仏の中に地蔵や観音が多数並んでいる。じつはその中で左から二番目の聖観音菩薩像が、大田区の古い資料でも庚申塔として扱われている。

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聖観音菩薩の立像で丸い台石に載っているが、この台石と尊像に異なる年紀が入っているので困ってしまった。聖観音像の造立年は貞享2年(1685)4月と彫られている。しかし丸い台石には、「奉庚申供養  観世音一體」と彫られていて、元禄12年(1699)11月の造立年が刻まれている。また「沙門圓能寺定辨良言  新井宿村同行六人」とある。おそらくは聖観音像は年紀通り貞享2年に作られて寺に祀られていたが、庚申講中がそれを庚申講に用いる際に台石を造ったのではないだろうか。興味深い例である。

場所  大田区山王1丁目6-30

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2020年12月14日 (月)

大森日枝神社の庚申塔(大田区山王)

大森駅前にある日枝神社、元は山王権現を祀る山王社で、この神社が「山王」の地名の由来になっている。江戸時代は隣接する円能寺の別当であったが、明治維新の廃仏毀釈で円能寺と分離され、同時に日枝神社とされた。赤坂の日枝神社ももとは山王社で、日枝神社と山王神社そして日吉神社の名前は交錯する。山王信仰→比叡山麓の日吉大社→日枝神社という勧請の流れになっているようだが、ほぼほぼ同じと思われる。

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池上通りから数段の階段をのぼり参道に入る。大森駅前だが静かな空間である。本殿の手前左手に塔頂が雨水で侵食された文字塔の庚申塔が立っている。角柱型で、正面には「庚申塔」と大きく彫られ、左面には「左 まこめ道」、裏面には年紀と「當所  新井宿村」、右面には「右 なかのふ めくろ道」とあり、旧東海道の道標の役割も果たしていたようだ。造立年は文政2年(1819)9月とある。

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本殿左手に稲荷があり、その間の奥まったところにも庚申塔が並んでいる。後ろの壁の向こうは円能寺の墓所。手前の狸は新しいもののようだが愛嬌がある。左の庚申塔は板碑型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。青面金剛像の右には「奉造六一庚申供養二世案楽也」とある。江戸時代の誤字は微笑ましい。左側には造立年、貞享元年(1684)11月と彫られている。下部には施主名が多数ある。

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右は駒型の庚申塔で、こちらの造立年は元禄13年(1700)11月。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、こちらも下部に同行十人の願主名がある。右側には「奉庚申供養」と彫られており、シンプルな庚申塔である。

場所  大田区山王1丁目6-2

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2020年12月13日 (日)

大森天祖神社の庚申塔(大田区山王)

大森駅は大昔(縄文時代)の海岸段丘にある駅で、アメリカ人動物学者のエドワード・モースが明治10年(1877)にここで横浜から新橋へ向かう汽車の窓から発見したのが大森貝塚。そこから南に下る坂道が八景坂で、この池上通りはかつての鎌倉道、あるいは古東海道であった。大森駅の南側にあったのが新井宿村だが、江戸時代には現在の第一京浜(国道15号線)が海岸線であった。

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大森駅の前は崖になっていて崖上にあるのが天祖神社。神社の階段下が八景坂の坂上になる。駅前から階段を上って人々が往来する道の崖上に近いところに頑丈に守られた堂宇があり、その中に駒型の庚申塔が祀られている。

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頑丈に施錠されているので、格子戸の隙間から覗くしかない。その為写真が上下2枚になってしまった。駒型の庚申塔の上部には日月、そして青面金剛像があり、青面金剛像の腹部と足元の2ヶ所で中折れしている。この堂宇は天祖神社の崖をくりぬいて作られている。この崖辺りの江戸時代の風景は名所江戸百景の『八景坂鎧掛松』に描かれている。

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下半分の写真を見ると邪鬼はなく三猿が陽刻されている。大田区の資料によると、この庚申塔の造立年は寛政12年(1800)11月。當所とあるので新井宿村のもので、台石には8人(もしくは9人)の願主名がある。中折れの原因が戦災なのか、悪意によるものなのかはわからない。しかしこういう管理をしなければならない時代であることがいささか寂しい気もする。

場所  大田区山王2丁目8-6

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2020年12月12日 (土)

蘇峰公園の石仏(大田区山王)

徳富蘇峰(1863~1957)は貴族院議員でありながら歴史家、思想家、ジャーナリストの多彩な才能を持った人であった。小説家の徳富蘆花は蘇峰の実弟。世田谷区に蘆花の居宅を中心にした芦花公園があるが、大田区には蘇峰の旧宅を公園にした蘇峰公園がある。蘇峰は歴史家だけに、庭であった公園にはいろいろな石仏石塔が残されている。

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西側の入口近くにあるのは大きな自然石に「サ三夜」と彫られた二十三夜塔。「サ」は廿の意味。造立は明治17年(1884)8月23日。月待日待ち信仰は民間信仰のひとつで、陰暦8月23日の夜に月待ちをすれば願い事が叶うと信じられていた。上部には日月(日輪月輪)があり、裏面には年紀と願主名がある。

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園内の坂を上るとポツポツと石塔がある。その中のひとつが上の念仏供養塔。「願主 三ヶ尻村講中」とあるが、三ヶ尻村というのは見当たらず、三尻村という埼玉県北部の旧幡羅郡の村。現在の航空自衛隊熊谷基地の周辺にあたる。蘇峰が近県から収集してきたものであろう。

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園内の山王草堂記念館の裏手に進むと、「古塚」がある。説明板によると、古墳ではなく、平安時代末期から鎌倉時代にかけて祭祀に使われていた塚らしい。その塚の斜面には自然石の馬頭観音塔が立っている。造立年は弘化3年(1846)6月で、願主名小沢由之▢とある。この馬頭観音の出所は分からない。

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古塚の前の植込みの中には珍しい形の笠付き角柱型の庚申塔がひっそりと佇んでいる。通常の笠に比べるといささか貧相な笠である。日月に「奉供養庚申」とあり、下部三面にそれぞれ一猿、計三猿が陽刻されている。造立年は正徳4年(1714)9月。それぞれの面には、「是よりまつ山みち」「是より左くわんおんみち」「是より右くまかやみち」とあるので、これも埼玉県北部のもののようだ。

出所が大田区でない為だろうか、大田区の資料には蘇峰公園の石仏は記載がない。しかし、もうかなりの年数ここに在るのだからあえて大田区の石仏石塔としてみたいと思う。

場所  大田区山王1丁目41-21

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2020年12月11日 (金)

養玉院如来寺の石仏(品川区西大井)

現在の地域では大田区東馬込と区境で隣合う品川区西大井にある養玉院如来寺。実はこの寺院は二つの寺院が合併したもので、元は台東区下谷にあった養玉院と、高輪にあった如来寺がそれぞれ、明治時代にこの場所に移転してきて合併した。近所の寺院を吸収することはよくあるが、別々の地から移りひとつになったのは例が少ないと思う。

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入口には立派な山門があるがこれは平成元年に建てられたもの。広い境内を進むと本堂が左手にあるが、一番目立つのは如来堂、如来寺の由来である木造五智如来坐像の納められた建物で、宝暦10年(1760)の再建。明治の移転の際に移築されたが、もともとは本堂であったらしい。木造五智如来坐像は寛永12年(1635)に木喰但唱が造立したものだが、今回は拝観できなかった。

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如来堂の裏手には大きな3基の石仏が並んでいる。光の関係で写真が見にくいが、どれも地蔵菩薩立像。左は寛永14年(1637)4月の造立で高さは175㎝ある。「奉造立地蔵菩薩」とあり、「作但唱」ともあることから、木喰但唱上人の作であるとされる。品川区内では最古の地蔵菩薩像。真ん中も木喰但唱作で、寛永15年(1638)2月の造立で、五智如来像の由緒を示す地蔵菩薩像とされる。「五智如来大本願為十品甚衛門内方」「奉従霊願嶋新堀町中此供養也  作但唱」とある。霊願島新堀町は日本橋川(神田川)の河口の町。舟型の上部は昭和58年頃の写真では完全に欠損しているが、後に補修されて今の形になっている。右の地蔵は承応3年(1653)8月のもので、これは木喰但唱のものではない。

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もう一つの名作と言われる線刻の地蔵菩薩像、慶安4年(1651)造立で江戸時代は爪書地蔵と呼ばれていた地蔵があるはずだが、納骨堂にあるらしくこれも拝観はできなかった。その手前にあるこの舟型の地蔵菩薩立像は頂部が一部欠損、造立年は文化14年(1817)2月とある。これも十分すばらしい地蔵なのだが、前の3基が凄すぎる。

場所  品川区西大井5丁目22-25

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2020年12月10日 (木)

宗福寺の石仏(大田区北馬込)

古道でもある品川道は現代においても品川区と大田区の区境となっている。江戸時代は北側が小山村、南側が上池上村であった、天保2年道標から中通りを南へ300mばかり下ると、宗福寺がある。山門に覆いかぶさるように枝を伸ばした見事な松の大木、その下には登志子地蔵堂がある。明治時代のこの辺りの地名は平塚村松原。

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登志子地蔵尊は新しいものである。地蔵堂の前には念仏車がある。堂宇内に地蔵造立の由来が掲げてある。昭和10年(1935)5月のある日の夕刻、10歳の登志子ちゃんが若い男に誘拐され暴行された後殺害された。間もなく犯人は逮捕されたが、あまりに残虐な性犯罪かつ殺人罪だったので、馬込の人々はこの事件を風化させまいと登志子地蔵を造立したという経緯である。いつの世も、法は被害者に冷たく、加害者に厚い。

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その近くに慈母観音像があり、その前には角柱型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿が彫られた庚申塔で、造立年は天保11年(1840)10月。「馬込村寺郷谷  文蔵  庚申堂供養  世話人  加藤金兵衛門」とある。寺郷は現在の北馬込1丁目あたり、品川道の南側の地域。庚申塔と台石には道標もあり、正面には「池上 十八丁  南  新田一里」、左面には「左  めぐろへ廿八丁  さる丁へ壱り」とある。さる丁が何を意味するのか分からない。右面には「右 品川江三十丁」とあり、それから推定すると元々あった場所は、北馬込1丁目の品川道のどこかであった可能性が高い。

場所  大田区北馬込2丁目5-5

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2020年12月 9日 (水)

天保2年銘道標(品川区中延)

天明3年銘石造道標から170m南下したところに天保2年銘道標がある。説明板の内容を紹介すると、南品川宿で東海道から分かれて大井を横切り、中延と馬込の境を通って洗足で中原街道に合流する品川道と、中原街道を平塚橋で分かれて、中延・馬込を通り、新井宿で池上道と結ぶ通称「中通り」との交差点に建てられた道標。

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道標には行先と天保2年(1831)の年紀、下中延村の題目講の人々が建立したものであることが記されている。江戸時代、中延村は天領(幕府領)と増上寺領に分かれており、天領区域は上中延村、増上寺領は下中延村と呼んだ。それぞれに別の講中を組織していたようである。

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写真を撮っている時に、地元の80歳は超えていると思われるおばあさんに声を掛けられた。「この石はね、昔はもっと道の真ん中にあったんですよ。道路工事の度に動かされて何度か目にここになったんです。」と教えていただいた。確かに、江戸時代は街道と言っても五街道は3~4間(5.4m~7.2m)、広い所では9mほどあったものの、村を結ぶ街道はせいぜい2間(3.6m)だった。こういう辻の石塔石仏は、そういう過去を持つことが多いのだろう。

場所  品川区中延5丁目12-8

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2020年12月 8日 (火)

天明3年銘石造道標(品川区中延)

東京23区内の古道は街中にひっそりと残っている。古道は地形に対して素直にできるので、まっすぐなものは意外に少ないが、中原街道の洗足坂上と旧東海道の大井を結ぶ品川道への古道は真っ直ぐな道である。古道も江戸を遥かに遡ると、しばしばこういう道がある。特に長原駅あたりは定規で引いたようにまっすぐで、その道が商店街になっていて現在も生活の息吹を感じさせる。

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その古道から北へ分かれ、中延を経て中原街道の平塚に行く古い道がある。説明板には、「この道標は、旧中延村を横断する中通り(中原街道と池上道を結ぶ)と、平間道(上池上・久が原を経て下丸子で池上道と合流し、平間に至る)との分岐点にある。」書かれている。

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道標には、「右  うの木  光明寺道」「左  池かみ道」と刻まれている。東海道の大井に出る道の途中に池上本門寺がある。鵜の木へ向かう道は途中から南進し呑川を渡る。天明3年は1783年。田沼意次が権力を握っていた時代である。

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堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。造立年は不詳。青面金剛像の三猿のシンプルな図柄である。ここから北側の立会川流域は明治時代末期まで水田が広がる農村風景だった。

場所  品川区中延5丁目11-16

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2020年12月 7日 (月)

林泉寺のしばられ地蔵(文京区小日向)

茗荷谷駅の裏側にあるのが茗荷坂。下りきると拓殖大学がある。坂の途中にある林泉寺はしばらくの間工事をしていた。ようやく新しい本堂が完成して、近代的なビルの寺院になった。林泉寺は曹洞宗の寺院。慶長7年(1602)の開山である。

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本堂へは右の階段を上る。足の弱い年配者は正面玄関の中のエレベーターがある。ビルの寺院の良い所でもある。長い階段を上る必要はない。江戸時代の名奉行大岡越前の裁きに出てくるしばられ地蔵はここのものではなく、葛飾区東水元の南禅寺のしばられ地蔵だが、江戸市中ではここのしばられ地蔵も人気だったらしい。

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縄でぐるぐる巻きにされた地蔵尊が真新しいきれいな堂宇に祀られている。ここはビルの屋上の一角である。説明板によると「人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄で縛り願いが叶うと縄をほどく風習からしばられ地蔵と呼ばれた。」とある。ただこのしばられ地蔵尊は新しいもので、古いものは別のところに保管してあった。

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古いしばられ地蔵は布で巻かれ、「初代しばられ地蔵:四百年以上前のお地蔵様です。現在修復中に付きお手を触れないでください。」と張り紙。大岡裁きの地蔵の話というのは、「昔、呉服屋の手代が地蔵様の前で休み居眠りをしているうちに反物を盗まれてしまった。大岡奉行は石地蔵が怪しいと言って地蔵を荒縄で縛り奉行所に運んだので、物見高い見物人が一緒に奉行所内に入ってしまった。許しもなく入った人々に罰として3日以内に反物を持ってこいと命じたら、その中に盗品が見つかり犯人は検挙された。」という見事な裁きである。江戸の街は楽しそうである。

場所  文京区小日向4丁目7-2

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2020年12月 6日 (日)

藤寺(伝明寺)の石仏(文京区小日向)

尾根筋を通る中山道、そこから急坂を下ると茗荷谷の底に至る。いくつかの坂があり、藤坂もその一つ。勾配は道路標識によると20%もある急坂である。茗荷谷は学生が多く、若い彼等でもこの坂を普通の自転車で上り詰めるのは極めて難しそうだ。そんな藤坂の坂下にある寺院が伝明寺、通称藤寺と呼ばれる。

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入口の地蔵の脇に「藤寺」と書いた石柱がある。創建は寛永元年(1624)、徳川家光が鷹狩りの帰りにこの寺の藤の木を上覧、将軍から「藤寺」と呼ぶようにと命じられたのが始まりで藤寺となった。入口の地蔵菩薩立像は創建年と同じ寛文元年(1624)の造立である。

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地蔵の左後ろにあるのが板碑型の庚申塔。上部に日月、その下に「奉修庚申為諸願成就也」とあり、三猿が陽刻されている。下部には施主がたくさん書かれていて、男性名女性名入り混じる。江戸初期から中期にかけての平和な町の様子を感じられる。庚申塔の造立年は寛文10年(1670)3月、創建から10年後である。

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本堂の前には種類の異なる石仏が並ぶ。どれも元は墓石のようだ。左から、大正6年(1917)7月造立の丸彫地蔵座像。二番目は享保2年(1717)2月に造られた舟型光背型の聖観音立像。中央は、如意輪観音像で造立年は不詳だが、没年が三つ、宝永7年(1710)、寛政12年(1800)、安政5年(1858)だが、最後の安政5年は隙間に彫り加えられたようなので、寛政年間のものだろう。あとの右の2基も如意輪観音像で、享保4年(1719)6月と宝永3年(1706)のものである。

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一旦道路に戻り、寺の竹垣の脇を行くと凹みがあって台石に尾張屋と書いたこの石仏がある。見慣れない尊像だと思い文字を読むと「十一面観世音菩薩」とある。頭上に沢山の顔が見える像で、例は少ない。

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十一面観音像の手前の足元の水鉢の脇に、駒型の小さな庚申塔がある。つい見逃してしまいそうなほど小さい。高さは41㎝程で、造立年は不詳。日月、青面金剛像、その下の邪鬼迄は見えるが、資料によると三猿もあるそうだ。この道路わきは工事中だったので、綺麗になったらこれはこれで別途拝観できるようになるのだろう。

場所  文京区小日向4丁目2-1

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2020年12月 5日 (土)

大塚公園の大塚地蔵尊(文京区大塚)

丸の内線新大塚駅の東南側に東京都立大塚病院と大塚公園がある。この場所は大正時代まで養育院という施設で、その起源は江戸時代第11代将軍徳川家斉時代の共有金制度から始まる窮民救済施設。本郷、上野、浅草と移り、1896年にここに移転、そして関東大震災のあと1923年には板橋区の大山に移った。実はこの養育院を明治以降守ったのは渋沢栄一である。

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現在は大塚の養育院の敷地は半分が都立病院、半分が大塚公園である。そういう場所であるから公園内に石仏が並んでいても場違いではない。立札にも大塚地蔵尊とあるが、実はほとんど庚申塔。一番右にある大きな丸彫座像が純粋な地蔵尊である。

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この若干顔が大きな地蔵菩薩坐像は明治39年(1906)2月に建てられたもので、「東京上野浄名院  石地蔵尊八万四千造立正 …」とある。日露戦争の忠魂、養育院内の群霊の供養のために建てられた。上野浄名院は台東区上野桜木にある寺院で別名へちま寺、境内には八万四千体地蔵と呼ばれるほど沢山の地蔵があるというので有名。

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隣りにあるのは上部が戦災の爆撃で吹っ飛んでしまった庚申塔。文京区の資料によると、昭和15年(1940)頃の調査資料に写真があり、それは笠付角柱型の庚申塔だったとある。なんとまあ無残なこと。しかし、造立年は延宝2年(1674)というのは判明、しかし月が判らない。中央には「奉造立庚申供養二世安樂攸」と彫られている。

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その横には舟型光背型の庚申塔が3基並んでいる。右から、寛文5年(1665)2月造立で、地蔵菩薩像に三猿が陽刻されている。中折れは戦災によるものだろう。真ん中は欠けた顔を補修してあるが、尊像は釈迦如来のようだ。下部には三猿があり、造立は延宝6年(1678)8月。年紀は文京区の資料を参照した。左の庚申塔の尊像は聖観音像。台石に三猿が描かれている。これも延宝6年(1678)8月の造立。

現地の説明板によると、ここの庚申塔は元は大塚辻町(現在の大塚5丁目9番)にあり、それぞれ300年以上昔、往時の里人が豊作を祈り、二世安樂の祈願をこめて造立したもの、と書かれている。その場所は現在の地下鉄新大塚駅の真上の大塚五丁目交差点である。

場所  文京区大塚4丁目48-8

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2020年12月 4日 (金)

源兵衛共同墓地の石仏(新宿区西早稲田)

早稲田通りの源兵衛子育地蔵尊から北へ400m程のところに共同墓地があり、「源兵衛共同墓地」とある。源兵衛というのは人名ではなく、この辺りの江戸時代の地名で武蔵国豊嶋郡野方領源兵衛村といった。この村は元和元年(1615)大坂夏の陣に敗れた豊臣家臣の小泉源兵衛らが移り住み、荒れ地を開墾したのが始まり。元禄時代には上戸塚村から独立して源兵衛村を名乗った。

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都会のビルの間にひっそりと佇む小さな墓所の中には立派な庚申塔もある。この笠付庚申塔は丸柱タイプで、日月に「奉供養庚申二世安楽處」とあり、その下に三猿が彫られている。造立年は延宝3年(1675)11月。関口伝兵衛が願主のなかなか立派な庚申塔である。その左側にある角柱型の馬頭観音塔は、明治43年(1910)1月の造立で、関口氏の建てたものらしい。この地に関連する関口氏は小泉源兵衛とともにこの村を作った関口新蔵の子孫のようだ。

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墓に墓碑を立てるようになったのは江戸時代中期からだと言われる。上記小泉源兵衛も神田川を見下ろす丘に埋葬されたが、それがこの場所である。今も地方には家の近くや村の外れに墓所があって、寺がなくても村の人々が守り管理するところが多々ある。かつては早稲田の地もそういう場所だったのである。

場所  新宿区西早稲田3丁目24-12

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2020年12月 3日 (木)

南蔵院の庚申塔・石仏(豊島区高田)

宿坂下の金乗院をさらに南に下り、神田川に架かる面影橋に向かうと変則交差点のところに南蔵院がある。奥州平泉の藤原秀衡持仏と伝えられる薬師如来像を円成比丘(永和2年[1376]寂)が廻国修行に携えていたが、当地に安置して一寺を創建したという由緒。江戸名所図会『高田』には南蔵院が描かれ、境内には薬師堂が描かれている。

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開山は室町時代と伝えられるが、明治以前にはこの寺の境内にも広い池があった。明治になって徐々に縮小し、大正時代には地図から消えている。昔あった池は「鏡池」といい、それで寺の山号は大鏡山というらしい。以下は南蔵院薬師寺である。

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境内に入ると右手にずらりと石仏が並んでいる。なかなか壮観である。一番手前にある2基の角柱はどちらも馬頭観音。右側は大正4年(1915)12月造立の馬頭観音塔で、上部にある馬頭の彫り物が素晴らしい。石井文蔵建立と書かれている。左の大きい方は、明治43年(1910)1月造立の馬頭観音塔。

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次には庚申塔が並ぶ。右の大きい笠付角柱型の庚申塔は、延宝8年(1680)仲冬とあるので11月の造立。日月と三猿が彫られている。中央には「奉供養庚申塔婆」と書かれている。高田には「塔婆」と書かれた庚申塔が複数ある。卒塔婆の塔婆と同じ意味だろう。通常墓石の後ろに立てる木製の細長い板で経文や戒名を書く。塔婆にも五重塔と同じ五大(空、風、火、水、地)が刻まれていて追善供養に用いられる。隣りの笠付角柱型庚申塔は日月・青面金剛像・三猿のデザイン。造立年は貞享3年(1699)2月。

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その横には駒型の庚申塔(小さいほう)があり、この三猿は面白い配置で、中央の言わ猿が後ろのポジション。造立年は元禄12年(1699)5月である。左の庚申塔は元は笠付きだろう。笠欠角柱型で、青面金剛はかなり摩滅している。その下には邪鬼と三猿がいて、台石には「奉納」とある。側面を見ると享保20年(1735)2月の年紀がある。

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庚申塔の先には、丸彫の地蔵菩薩立像と舟形光背型っぽい不動明王が並んでいる。不動明王のこのタイプは珍しい。どちらも文字らしいものは見受けられず、年代も不詳である。さらにその先には沢山の無縁仏とその手前に六地蔵、その先にもまた無縁仏と沢山の石塔が建ち並ぶ。

場所  豊島区高田1丁目19-16

 

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2020年12月 2日 (水)

根生院の庚申塔・石仏(豊島区高田)

金乗寺から東へ路地を100m足らず歩くと根生院がある。根生院はなかなか苦難の末に現在まで続いている寺院である。江戸時代初期の寛永12年(1636)に神田白壁町に建立。神田白壁町は現在の神田駅を含む駅東側の一角の旧地名。内神田は江戸時代職人の街で、白壁町は文字通り左官業が集中していた。ところが10年もしない正法2年(1645)下谷長者町へ移転、さらにその33年後の元禄元年(1688)に本郷切通坂へ移転、しばらく安泰だったが、明治になると明治22年(1889)上野池之端七軒町へ移転、そして現地の豊嶋郡高田には明治36年(1903)に移った。

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山門は時代を感じさせるが、本堂は戦後昭和28年(1953)に建てられ、平成14年(2002)にさらに再建された。山門に向かって左手に2基の庚申塔が祀られている。向かって右側の駒型と思しき庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は天保6年(1835)と立て札にあるが庚申塔からは読めない。しかし側面に「▢▢年乙未八月庚申」とあるので、立て札通りだろう。

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左側はもともと笠付角柱型だったものの笠が失われた形。日月、「奉供養庚申天子」の下に三猿の図柄。造立年は元禄3年(1690)4月。説明板には「宿坂下、(旧)大榎一里塚より移転したものと思われる」と書かれている。

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山門の中に入ると貴重な石仏にはきちんと説明書きがあって有難い。上の写真は大日如来像である。造立年は寛文6年(1666)8月。この大日如来は胎蔵界のものらしい。金剛界と胎蔵界のものがあって、金剛界の大日如来は「知恵」の面から見た姿、胎蔵界の大日如来は「慈悲」の面から見た姿だという。よく分からない。

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その近くには、「南無大師遍照金剛」と書かれた供養塔がある。造立年は宝暦7年(1757)5月。江戸時代の江戸府内八十八ヶ所の石標らしいが、そのうち現存するのは4基しかないとある。

根生院はもともと河岸段丘の中腹にあったようで、明治時代の地図では現在の境内周辺は広い池になっており、屋敷の庭園を利用して当初は造られたのだろう。無理なことだが、戦前までのこの寺院を見てみたかったと思う。

場所  豊島区高田1丁目34-6

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2020年12月 1日 (火)

目白不動金乗院の石仏(2)

金乗院にある目白不動尊脇の階段を上ると墓所への鉄扉があるが、その先にも石仏は並んでいた。また墓所の奥には丸八忠弥の墓がある。丸八忠弥といっても知る人はほとんどいないが、水道橋駅北東にある都立工芸高校と名門女子校桜蔭学園の間の名坂、忠弥坂のその人である。慶安事件(1651)は油井正雪が倒幕を企んで失敗した乱で、首謀格だった忠弥が江戸城を襲って将軍を誘拐し、京都では正雪が天皇を誘拐するという驚くべき計画だった。未然にバレてしまい、忠弥は死刑、正雪は捕まる前に自殺してしまった。

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鉄扉の奥には、不動明王像と如意輪観音像が並んでいる。不動明王像は文字が何もなく年紀等全く不明。舟形光背型の如意輪観音像は延宝8年(1680)5月の造立で、上部中央には「奉建立」、右側には「観音菩薩尊像」と彫られている。

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坂を戻り、目白不動に登ってみるとそこには10基の地蔵菩薩が並んでいた。どれも年紀等は分からないが、左から2番目から7番目まではひとまとまりの六地蔵である。一番左の大きな地蔵菩薩にはうっすらと元禄17年(1704)と読めた。おそらくはどれも江戸時代前期から中期のもののようだ。

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本堂前に戻ると、そこには倶利伽羅不動庚申があった。見事な倶利伽羅不動で龍が剣を飲み込もうとする姿は迫力がある。下部には三猿が描かれており、造立年は寛文6年(1666)2月とあるが、この見事な倶利伽羅不動は戦前は関口の目白不動尊にあったもので、不動尊と共に戦後金乗院に移されたものである。富山県、石川県の県境にある倶利伽羅峠も有名で、1183年に源平の戦い(倶利伽羅峠の戦い)があったところである。

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さらに本堂左手の植木の脇にも庚申塔が一基ある。駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「小日向水道町 上野屋」の銘がある。造立年は見当たらなかったが、摩滅が酷いので消えてしまったのかもしれない。古道の坂道、目白不動、という条件からいろいろなものが金乗院に集まってくる何かがあるような気がしてならなかった。

場所  豊島区高田2丁目12-39

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