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2021年1月31日 (日)

赤羽幼稚園前の庚申塔(北区赤羽西)

赤羽駅と再開発中の赤羽台団地を結ぶ最短ルートは歩行者しか通れない大坂である。この大坂の麓にあるのが赤羽幼稚園。どう見ても団地に上がるショートカットの道なのだが、歴史は古く、江戸時代は宝幢院前を通らずに日光岩槻街道から板橋道に抜ける村道だった。そんな幼稚園の入口に祠や石仏が並んでいるのはいささか違和感がある。

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コンクリートで囲まれた一角にあるのが板碑型庚申塔と雷神の碑。庚申塔の造立年は昭和5年(1930)10月と新しい。「祭主 石井隆三、行者 森みや」とある。施主や願主ではなく祭主というのが珍しいし、行者というのは初めて見た。それ以外の情報は全くない。ただこの庚申塔の材石は鉄平石という安山岩で、長野県諏訪地方、佐久地方で採れる、安定した柱状節理に含まれる材石である。わざわざそういう石を使うこだわりは何のためだろうと考えるが分からない。

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同じ場所には祠が複数あり、その一つにはこれも昭和になってからのものだろうと思われる不動明王像が祀られていた。焔光の中には迦楼羅鳥らしきものもあり、明王の下には二童子がいる三尊形式のものである。不動明王像を見ていてふと庚申塔の「行者」を想起した。江戸の北部から現在の埼玉県あたりには大山信仰のものが多い。大山信仰の主尊は大山不動で、その関係でここに不動明王があり、大山の行者が関係したのが上の庚申塔ではないだろうかという見方である。

場所  北区赤羽西1丁目36-2

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2021年1月30日 (土)

坂本庚申堂(北区赤羽台)

宝幢院前から南西に向かうかつての板橋道はうつり坂を上って小豆沢へ向かっていたが、大正8年(1919)に陸軍被服本廠が出来ると一般道ではなくなり、被服本廠への専用道路になってしまった。現在坂上は再開発工事で建替えの進む元赤羽台団地だが、戦後のこの団地にも昔からの道祖神や庚申塔が残されていたという。(いくつかは赤羽八幡へ移設)

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うつり坂も当然軍用道路だったわけで、大正8年から戦後まで、この坂本庚申堂がどういう状態だったのかについては興味があるが分からない。この庚申塔の講中はまだ続いている可能性があり、9月に祭祀を行っているようだ。講中ではこの庚申塔を「庚申様」のほか「馬頭観音」とも呼んでいるようで、江戸時代末期から明治にかけてはこの混同がしばしばある。

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堂内の庚申塔は板碑型で、あまり大きくない。高さは63㎝で、板碑型でこの大きさの庚申塔は珍しい。中央には「奉造立庚申二世安樂処」とあり、造立年は延宝8年(1680)9月4日。この造立年が今も守られて祭祀日となっているのはのは面白い。

場所  北区赤羽台3丁目1-8

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2021年1月29日 (金)

宝幢院第一墓地の庚申塔(北区赤羽台)

宝幢院から南西に向かう道はかつての板橋道、今はうつり坂を経て赤羽台に上る道で、その一本北側の八幡坂が大恩寺を経て小豆沢から中山道に繋がる道である。この八幡坂の南側に広がるのが宝幢院の第一墓地。本堂のある宝幢院には墓地がない。おそらく昔はあったのだろう。それが陸軍や鉄道に敷地を奪われて今の形になったのではないかと思う。

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北区の資料によるとこの宝幢院第一墓地の中に庚申地蔵があると記されている。墓地内を探し回ると、中央あたりにようやく見つけた。歴史の古い寺院とその墓地なので、同じような舟型光背型の地蔵や如来の墓石が沢山ある。各家の墓地の中にもいくつもあるのである。文字を読みながらようやく見つけた庚申地蔵はなかなか立派なものであった。

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残念ながら右肩上が大きく破損している。昭和の資料の写真も同様なので空襲によるものだろうか。庚申地蔵である目印は基壇にある三猿の陽刻である。地蔵菩薩立像の脇には日輪、月輪があり、下部には蓮弁が描かれている。「為二世安樂庚供養」の文字と「念佛供養」の文字がある。造立年は正徳2年(1712)11月である。赤羽台の石仏には安山岩と同じくらい玄武岩のものが多い。これは材としては特徴的である。

場所  北区赤羽台3丁目4-20

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2021年1月28日 (木)

赤羽八幡猿田彦庚申塔(北区赤羽台)

赤羽駅は都内でも鉄道輸送の要である。京浜東北線、埼京線、宇都宮線、高崎線、に加えて東北上越北陸新幹線が通る。近年は北の扇の要を大宮に奪われた形だが、歴史は古く明治18年(1885)に品川・赤羽間で山手線の前身として開業した。山手線が環状線になってからは、池袋・赤羽間に赤羽線が走っていたのを思い出す。埼京線が出来たのは昭和60年(1985)と新しい。赤羽八幡神社の境内から赤羽駅方面を展望するとそういう歴史の上にこの神社の場所が鉄道の股の間になったことがわかる。

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赤羽八幡は武蔵野台地の東北の岬に位置する。縄文海進の頃にはここが波打ち際である。西側を上る師団坂の名は赤羽が広大な軍事施設を有していた時代の名残りである。崖下と境内との高低差は15mもある。長い石段を登ると本殿前に出る。

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赤羽八幡の創建は平安時代初期、平安京が出来たころで、最澄が比叡山を開山した時代。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、東北地方の征伐に向かわせた。その時に田村麻呂が陣を張って八幡大神を勧請したのが始まりと言われる。本殿前の左手には古峯神社や北野神社、大国主神社などの末社があったが、近年そこに猿田彦庚申塔群が加わった。

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後ろの大きな石碑は別にして、右の自然石と、二基の駒型庚申塔は、赤羽台団地の猿田彦神社にあったもので、平成29年(2017)4月に団地の再開発工事の為にこの場所に移された。宝幢院前の街道合流地点の周りには庚申塔や猿田彦神が複数路傍に祀られていたが、明治時代から大正時代にかけて赤羽周辺に陸軍の施設が次々と作られていく過程で陸軍被服廠の敷地内に纏められた。この被服廠の跡地が戦後、広大な赤羽台団地となり、それが老朽化して現在大規模な建替え再開発工事に入っている。

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右端の自然石による猿田彦太神碑も庚申塔の一形態である。「猿田彦太神」の下には「當所 講中 廿七人」と彫られている。背面には年紀があり、嘉永4年(1851)4月とある。江戸時代末期のものである。左の駒型庚申塔は大きいもので高さは124㎝ある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が描かれ、基壇に三猿が彫られていた。造立年は享保7年(1722)11月、江戸時代中期のものである。庚申塔が最も盛んな時期で、経済的にも高度成長した後で豪華な庚申塔になっている。それを感じさせるのは、両脇に彫られた願主名で、左には男性名が20人、右には女性名が22人記されている。庶民がそこそこの経済力を持ち、お金を出し合って造立したことがわかる。

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左側には頂部が少し欠けた、同じような駒型庚申塔があり、図柄は似ている。造立年は享保5年(1720)11月でこちらの方が2年早い。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、そして基壇に三猿とよく似たデザインは同じ石工が造ったのではないかと思われるほど。ここまでは赤羽台団地の猿田彦神社からの移設。左にある小さな石仏もまた庚申塔で、これは同じ団地の赤羽台1丁目3番の北の端にあったものだという。赤羽台団地の工事が始まって、どこへ行ったのか探していたが、きちんと祀られていて安心した。

場所  北区赤羽台4丁目1-6

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2021年1月27日 (水)

赤羽宝幢院の石仏(2) (北区赤羽)

宝幢院の境内は何となくまとまりがない。明治の初期に鉄道が開通する以前は、日光岩槻街道の要所としてにぎわい、宝幢院の西側からは台地の上にある赤羽八幡社への参道が伸びていた。鉄道が大宮方面に延びた時に、その参道をがっつりと浸食して軌道が通されたので、どことなく手狭な風景になっている。

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本堂の手前東側の駐車場の奥には2基の立派な庚申塔が祀られていた。左の板碑型の庚申塔は北区で最古の庚申塔。造立年は寛永16年(1639)霜月(11月)と古い。時代的には、将軍が三代徳川家光の時代である。家光は家康を深く慕っていたので、日光東照宮へのお参りでしばしば寺の前の辻を通ったに違いない。

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板碑型庚申塔の主尊である阿弥陀如来と二猿は美しい線刻で描かれている。上部には「山王廿一社」とあり、脇に「岩淵赤羽根村」の銘がある。右側の舟型光背型の地蔵菩薩立像は、上部に日輪月輪を拝し、下部には地蔵脇に二鶏がいる。その下には三猿が描かれており、初期の庚申地蔵であることが明白。造立年は延宝8年(1680)10月で、この年は庚申年である。

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本堂側に回り込むと、植込みの中に板碑型と駒型の中間のような庚申塔が立っている。造立年は寛文10年(1670)11月で、上部が少し欠損している。下部には三猿が陽刻されており、中央には「奉造立庚申供養二世之処」と書かれている。法幢院の庚申塔はどれも初期型のもので、典型的な庚申塔ではないが、それだけに江戸時代初期からここが賑わう街道筋だったことを物語っている。

場所  北区赤羽3丁目4-2

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2021年1月26日 (火)

赤羽宝幢院の石仏(1) (北区赤羽)

赤羽駅の北にある宝幢院は正式名を医王山東光寺という真言宗の寺院。開山は寛正2年(1461)と古く、江戸時代には家光から朱印を与えられて繁栄した。元は浮間村西野(現在の浮間四丁目)にあったが度重なる水害でこの地に移転してきた。法幢院前は江戸から来た日光岩槻道が北に折れ、そこに板橋道が合流する交通の要所であった。

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そんな往時をしのぶことが出来るのがこの道標。元文5年(1740)12月に建てられたもので、街道の合流地点で人々に行く先を教えてきた。三面にはそれぞれ、「東  川口善光寺道 日光岩付(槻)道」、「西  西国冨士道 板橋道」、「南  江戸道」と彫られている。以前は囲などなかったが、車が突っ込むのを防止しているのか頑丈な鉄製の囲いが出来ていた。

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道標は駐車場の入口にあったが、本堂前の入口脇にあるのが面白い顔をした地蔵菩薩立像で小堂に祀られている。残念ながら、造立年等の詳細は分からなかった。門の中に入ってみるとそこにも石仏が並んでいる。

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大きな堂宇にあるのが六地蔵。概ね1740年~1741年に作られたものである。右から、元文6年(1741)1月、元文5年(1740)12月、寛保2年(1742)2月、元文6年(1741)2月、元文5年(1740)12月、寛保元年(1741)12月の年紀で、3年に渡っているように見えるが元文6年は3月から寛保なので、1年3ヶ月の間に続けて造立されたものである。赤羽根村の念仏講中、女中念仏講中の銘が多い。

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六地蔵の隣には大きな馬頭観世音塔と出羽三山供養塔が並んでいる。右の馬頭観音は明治41年(1908)4月の造立で、「馬持中」とある。これは当時馬を飼っていた裕福な村人の馬持講中によるものである。出羽三山供養塔は月山、湯殿山、羽黒山の三山の供養で、富士講大山講に次ぐ人気があったようだ。

場所  北区赤羽3丁目4-2

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2021年1月25日 (月)

大満寺岩淵不動尊の石仏(北区岩淵町)

地下鉄南北線の赤羽岩淵駅は北本通り(国道122号線)の赤羽交差点地下にある。この交差点の傍にあるのが大満寺でその中の岩淵不動尊の方が有名かもしれない。大満寺の開山は明暦元年(1655)である。山門を入って正面にあるのが岩淵不動尊、本堂は左手にある。山門の手前脇には幸福地蔵(通称 手わらじ地蔵)がある。

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手わらじ地蔵の造立年は分からないが割と新しいもののように見える。本来は右手の錫杖の部分にわらじが懸けられているようだが、訪問時は何もなかった。ウェブ上の写真を見てもほとんど草鞋があるのを見掛けないので、ある方が稀かもしれない。願い事をすると地蔵が草鞋を履いて歩いて叶えに来てくれるというが、草鞋がなければ来られないのだろうか。京都の鈴虫寺の幸福地蔵と同じようなものとして造られたのだろう。

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山門を入ると右手に小堂があり駒型の庚申塔が祀られている。青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれているが、左側の猿が横向きなのは珍しい。右側には「奉待庚申供養二世安全祈修  敬白」とあり、左には宝永3年(1706)2月の造立年が彫られている。本体は玄武岩らしいが石色は安山岩とあまり変わらない明るい色である。

場所  北区岩淵町35-7

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2021年1月24日 (日)

正光寺の庚申塔(北区岩淵町)

岩淵宿の中心の寺院は浄土宗の正光寺(しょうこうじ)。鎌倉時代に創建され荒川近くにあった西光寺の名跡を継いで、慶長7年(1602)にこの場所に正光寺として創建した。江戸時代には梅王寺や十王寺を末寺とし、八雲神社の別当寺として栄えたという。

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岩淵では最も広い境内を持ち、当時の様子を窺うことが出来るが、やはり目立つのは山門から入って正面に立つ10mほどの高さの岩淵世継大観音(安産子育観音)だが、石仏ではないので割愛したい。広い境内だが、左手の墓所に向かう道脇に自然石の庚申塔がある。

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俳句の歌碑として建てられたもののようで、「庚申塔(庚甲塔と彫られている)」の文字の下に、「月(白)雪に  興ある花乃(の)  木曽路か南(な)」とある。作者はさくら庵加湧居士とあるが何者かは知らない。造立年は嘉永3年(1850)春とある。俳句については全く分からないが、個人的な解釈をすると、春先の残雪の木曽路を旅している時に梅の花に白雪が積もっているのを見て季節の移ろいを感じた…ということだろうか。

場所  北区岩淵町32-11

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2021年1月23日 (土)

梅王寺の庚申塔(北区岩淵町)

岩淵の江戸時代からの中心となる寺院は正光寺だが、その北にある梅王寺は正光寺を中興した小田切将監(寛永元年:1624没)の墓所として創建されたと伝えられる。寺院としては狭い方であるし、入口も路地裏的な場所なので見つけにくいかもしれない。

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山門の少し先に駐車場への入口があるのだが、その入口の塀の陰に庚申塔が置かれていた。祀られているというよりも置かれているという印象が強い。ガードバーを載せたのはちょうどよい場所に庚申塔があったからだろう。この庚申塔、角柱型の文字塔で正面に「庚申」と大きく彫られている。左側面に彫られている造立年は文化9年(1812)2月、右側面には「これより志もむらみち」とある。

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台石にいは講中十八人とあるが、全体的に風化が進んでいる。手前にあるのは年紀不詳の香炉花瓶である。中央にある菱形の模様は柴又庚申堂の題経寺の寺紋だという。題経寺は寅さんで有名な柴又帝釈天のある寺院である。しかしこの庚申塔や香炉花瓶と柴又帝釈天との関係は分からない。

場所  北区岩淵町30-11

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2021年1月22日 (金)

岩淵町路傍の庚申塔(北区岩淵町)

新河岸川土手近くの八雲神社の入口から南へ進むとすぐに大きな民家の門の前に並ぶ庚申塔と供養塔が現れる。広さからして300坪くらいはありそうなお宅なので旧家なのだろうか。その門の脇に並ぶ石仏をじっくりと拝見する。

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右側は上部が欠損しているが角柱型文字塔の庚申塔である。前面に彫られているのは、「奉造立庚申供養塔」という文字で、その脇に造立年が寛保3年(1743)2月と記されている。下部には三猿が陽刻されている。中央の大きな板碑型庚申塔は、日月が二組、中央に「奉待庚申供養二世安樂所」と書かれている。下部には三猿が陽刻されていて、高さは134㎝と大きい。造立年は元禄6年(1693)2月であるが、基壇には天保3年(1832)の異なる年紀があるので、基壇のみ別時代のものだろう。2月と言うのは稀な気もするが実際は都内の庚申塔の1割弱が2月なので決して少なくはない。

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左にあるのは角柱型の供養塔。正面には「奉順礼」とあり、その下に「西国  秩父  坂東  出羽三山  身延山  六阿弥陀」と随分と欲張りなものになっている。塔の右側には天保10年(1839)の造立年が刻まれ、左側には「當宿内安全也」とある。台石には「右下村」とあるが、江戸時代から明治にかけて、すぐ南の丁字路を東に進むと志茂古道に繋がっていたので、当時から場所は殆ど動いていないのではないかと思われる。

場所  北区岩淵町22-17

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2021年1月21日 (木)

延命地蔵尊(北区岩淵町)

岩淵町の新河岸川に近いところに岩淵八雲神社がある。岩淵本宿はこの神社から西側に広がっていた江戸時代からの宿場町。現在は国道112号線だが、江戸時代は日光御成道(岩槻街道)で将軍も往来する道であった。すぐ北にある新河岸川が本来の隅田川(大正時代以前の荒川)で、江戸時代は川口の渡しで越えていた。明治38年(1905)に舟を並べてその上に木橋を渡す舟橋が造られた。しかしその後荒川開削工事が行われ昭和3年(1928)に新荒川大橋(843m)が架けられることとなった。

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八雲神社は創建は不詳ながら江戸時代から岩淵宿の鎮守として地域の中心であった。その八雲神社の隣にある民家の路傍に小堂があり、そこに丸彫の地蔵菩薩立像が祀られている。

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見た感じから新しいもののようで、台座の正面には延命地蔵尊と赤字で書かれている。左側に回り込んでみると、昭和54年(1979)11月、佐野謙次郎・禎子建之とあるので、やはり新しいものである。

場所  北区岩淵町22-18

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2021年1月20日 (水)

水難供養地蔵尊(北区志茂)

西蓮寺、熊野神社を経て、志茂旧道を川上に向かって歩いていく。西蓮寺も古いが、その西蓮寺の住職が正和元年(1312)熊野三社権現を勧請して創建したのが志茂熊野神社。坊さんが神社を勧請するというのはなかなか面白い。毎年2月7日に行われる白酒祭は北区の無形民俗文化財になっているという。氏子総代たちが弓矢で、大きな丸に「鬼」と書かれた的を射抜いてその年の吉凶を占い、その後に白酒と短冊形の切り餅が参拝者にふるまわるらしい(オビシャ行事)。

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そのまま志茂旧道を進むと新河岸川土手の道に出る。そこにはいわゆる「かみそり堤防」が立っていて、川と人々の住む土地とを分断している。かみそり堤防は昭和32年~昭和50年に作られた隅田川周辺の堤防で、薄っぺらい塀のような堤防の俗称で、実際には極めて決壊しやすいようだ。それ以降の堤防はいわゆるスーパー堤防となっており、親水的な造りに変わっている。

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このかみそり堤防の傍にぽつんと立つ地蔵を見つけた。説明板には「この地蔵は昔、水難事故が多く、供養のため地元有志によって建てられた(志茂五水門自治会)」とされ、昭和40年(1965)5月と記されている。かみそり堤防が出来たことで、それまでの土手から川に入って遊び流される人が少なくなったのだろうか。その分、川の存在すら分からなくなってしまったのは大きな反省だったのだろう。首が木製になっている経緯は分からない。

場所  北区志茂5丁目41(道路よりも土手側と川の対岸は41番地である)

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2021年1月19日 (火)

西蓮寺門前の石仏(北区志茂)

西蓮寺の門前には数多くの石仏が並んでいる。まず山門の手前、西側には墓所が広がり白い塀が美しい。その東の端にあるのが六地蔵である。六地蔵の堂宇は割と大きいもので、その隣は門ではなく駐車場、民家の空き家と続き、その先に山門がある。

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台石の文字を読むと宝暦年間(1751~1764)のものらしい。また「武州豊嶋郡岩淵村下村惣講中」とあるので、これも江戸時代に人々が造立し守られて来たもののようである。東に歩を進め、山門の右手にある沢山の石仏を見る。

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左の角柱型の六地蔵は新しいもののようだ。その右には庚申塔があり、柱を挟んで丸彫の地蔵が3基と舟型光背型の地蔵が1基並んでいる。どれも比較的大型のものである。

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庚申塔は舟型の庚申塔だが、尊像をよく見ると馬頭観音であった。しかし基壇には三猿があり、面白い組み合わせである。なぜ馬頭観音を主尊に持ってきたのかは分からない。造立年は宝暦7年(1757)8月とあり、願主は市郎と彫られている。

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柱の右側の丸彫地蔵菩薩立像だが、最左の地蔵の基壇には三猿が彫られており、庚申地蔵である。造立年は享保5年(1720)12月。本体左側面に「奉待庚申供養為二世安樂処」とあるので間違いない。資料によると背面には「武刕豊嶋郡下村」とあるようだ。その右隣りの地蔵は普通の丸彫地蔵菩薩。台石に花のような印があるが何かは分からない。

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右側の2基はともに地蔵菩薩立像だが、丸彫地蔵の方の基壇にはうっすらと三猿の痕跡があるように見えた。北区の資料を調べてみると、本体の左側面に「奉待庚申講二世安樂」の文字があるようだ。基壇の三猿も間違いないようで、造立年は右側にあり、元禄15年(1702)9月。一番右の舟型光背型の地蔵菩薩立像は文字が良く読み取れなかった。

場所  北区志茂4丁目30-4

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2021年1月18日 (月)

西蓮寺入口の庚申堂(北区志茂)

橋戸の子育地蔵尊から志茂旧道を北上すること約200m、西蓮寺の入口に庚申堂がある。5坪ほどもある敷地はきれいな植込みが作られ、地域の人々に守られている庚申堂だというのが伝わってくる。

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堂宇は閉まっていて曇ったガラス越しにしか庚申塔を拝むことが出来なかった。祀られているのは年紀不明の駒型庚申塔で、青面金剛像の下に三猿が彫られているが、その間の台座にふくらみがあり、もしかしたら邪鬼が描かれていたのかもしれない。全体的に溶けた感じに見えるのはもしかして奉納された塩によるものなのだろうか。斜めの色の薄い線も気になるが、中折れした様子はない。

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なお堂宇の前には大正6年(1917)10月造立の三猿が描かれた銘水盤があるのだが、うかつにも植込みに埋まっていたようで見落としてしまった。なぜ西蓮寺の門前ではなくここにこの庚申塔が祀られているのかが気になったが、以前は単体で特別に祀られていたのかもしれない。

場所  北区志茂4丁目30-11

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2021年1月17日 (日)

橋戸の子育地蔵尊(北区志茂)

北区に志茂という地域がある。今は志茂だが、江戸時代から明治時代にかけては下村という村だった。明治時代に下村は大字下とされたが、差別的な印象から「志茂」に文字を変えたという経緯らしい。明治以前は熊野神社と西蓮寺を中心に広がる農村であった。村の中心を南北に走る志茂旧道は現在も残っており、志茂駅南口から赤羽岩淵まで続いている。

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志茂旧道の中でも標高の最も低い辺りに橋戸の子育地蔵尊がある。橋戸というのはこの辺りでこの地を呼んでいた名前らしい。古い地図を見ると、赤羽西の真正寺坂辺りを源流とした稲付川が分流となって流れており(稲付川末流)、橋があったのではないかと推察している。この堂宇には5体の石仏が祀られている。

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一番右の小さい舟型の石仏は地蔵菩薩像。造立は元文3年(1738)で地元(下村)の人々によるもの。左の丸彫の地蔵菩薩立像は、単体でも橋戸の子育地蔵尊と呼ばれるもの。場合によっては4体合わせて橋戸の子育地蔵尊と呼ぶ説もある。造立年は元禄13年(1700)11月で、地蔵の右側には「庚申待供養二世安樂所」とあるので庚申講中によるものである。

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中央左は元禄14年(1701)1月造立の舟型光背型の庚申塔だが、尊像は大霊権現とされている。下部には三猿があり上部には日月がある。下にある基壇にも三猿が描かれており合計六猿になる。一説には基壇は他の庚申塔のものの可能性が高いとされている。その左にある黒っぽい石塔の中央にはうっすらと「庚申」の文字がある。色が黒いのは玄武岩を使っているからだろう。この庚申塔については戦前には旧奥州街道沿いにあったとされているので、現在の北本通り(国道122号)にあったのであろう。手前の地蔵は不詳だが新しいもののようで、昭和の資料には記載がない。

場所  北区志茂4丁目43-2

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2021年1月16日 (土)

椿山荘の庚申塔(文京区関口)

椿山荘は都内でも数少ない江戸時代以前の風景をある程度保っている場所である。この場所は江戸時代後期には久留里藩黒田家の大名屋敷で、明治になって長州萩出身の山形有朋がその風光明媚さに魅了されて買取った。山形有朋はこの自然を守ってくれる人にということで藤田財閥二代目の藤田平太郎に譲渡、第二次大戦でかなりの部分が焼失したが、戦後藤田興行(藤田観光の前身)が引取り庭園を復元した。有名なのは三重の堂だが、それ以外にも歴代の主が集めた貴重なものが多く残る。

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ホテル棟から下り赤い橋を渡って庭の中心である幽翠池(ゆうすいち)の手前に庚申塔がある。これは山形有朋がどこかから持ってきたものだと思い込んでいたが、どうも江戸時代からここに在ったものらしい。江戸時代は大名屋敷だったが、西隣の熊本藩細川屋敷とのとの間には今もある胸突坂の道があるし、この庭の中程にも台地上から神田川に下る野道があった。その路傍には当時からこの庚申塔があったことが知られており、場所はほどんど変わっていないようだ。

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舟形光背型の庚申塔は高さが122㎝もある大きなもので、保存状態もすこぶる良い。青面金剛像、一猿、二鶏の珍しい組み合わせで、「奉造立庚申供養石塔一基為二世安樂也」と彫られている。造立年は古く寛文9年(1669)4月である。幽翠池の西側は江戸時代は旗本の屋敷で、明治になってからは山縣邸ではなく田中邸とあるが、この田中邸は土佐藩士から宮内大臣となった田中光顕の屋敷。その南には江戸時代に松尾芭蕉が住んだという関口芭蕉庵がある。昔の地図から推量ると池までは山縣邸で、この庚申塔も山縣のものだったろう。傍にある小さな六面幢も由来がありそうだが、資料のどこにもなく未だに気になっている。

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少しホテル棟へ戻ったところに羅漢像などの石仏が多数配置されている。説明板によると、江戸時代の有名画家である伊藤若冲の下絵を元に造られたものらしい。京都伏見の石峰寺にあったものを大正14年頃移したというから、藤田平太郎が持ってきたものだろう。私事だが長男が一昔前にここで結婚式を挙げた折、この庭を何度も廻ったが、本当によく出来た庭園で、現在もある滝も元々の水源があった場所である。江戸時代以前からつばきやま(椿山)と呼ばれた椿の群生地だったことや、芭蕉や広重が魅了されたこともよく分かる。

場所  文京区関口2丁目10-8

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2021年1月15日 (金)

光明院の石仏(杉並区上荻)

荻窪駅の少し西で環状八号線が中央本線をくぐる。その西側にあるのが真言宗の寺院で慈雲山荻寺光明院。とても古い寺で、和銅元年(708)開創の伝承があり、荻寺の名前が由来になり荻窪の地名が出来たという。この寺院由来の地名としては環八と青梅街道の交差点四面道もその一つだという。荻窪駅西口から西へ線路沿いに進むと環八を渡り、その先が寺院の入口になっている。

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入口脇には沢山の地蔵菩薩が並んでいる。実は最右の白い地蔵を除いては、二組の六地蔵である。手前の低い方は享和3年(1803)の六地蔵で、それぞれ女性を祀っている。右から二番目の細身の地蔵には「武列多摩郡大宮前新田」の銘があるが、荻窪と大宮前とは関係が深く、西荻窪駅から大宮八幡宮へ斜めに伸びる道路は昔は新田道と呼ばれた歴史ある道である。後の大きい方の六地蔵は、元文5年(1740)の造立。それぞれ下荻窪村、上荻久保村(上荻窪村)、天沼村の銘がある。

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その向かいの竹藪にあるのは不動明王像。脇侍である二童子はいない。造立年は延享3年(1746)11月で、火焔を背景にした立像だが、左上の火焔が一つだけ迦楼羅鳥(かるらどり)の首になっている。迦楼羅は鳥類の王とされ、口から火焔を吐き、龍を捕えて常食すると言われる。『ウルトラQ』の第一話に出てきた原始怪鳥リトラのモチーフかと思って調べたがそうではないらしい。円谷プロよりもはるか昔から人々は迦楼羅の存在を想像していたのは凄いことだと思う。

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少し本堂寄りに進むと凸凹の石仏が並んでいる。寺のHPでは、「小張吉兵衛が建立した阿彌陀様、観音様、勢至菩薩の4体の大きな石仏。吉兵衛が両親と奥さんを相次いで亡くし、悲しみをまぎらすためにお地蔵様を建てた。建てた当時は普通のお顔だったが、だんだん悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になった、と伝えられている。」とあるが、小張吉兵衛が造立したのは台石の文字を見ると左の3基のみである。但し4基とも造立年は享保13年(1728)10月。

右の大きい地蔵には小張吉兵衛の名前はない。代わりに講中八十二人、小張今右衛門妻の銘がある。残りの3基は昭和12年(1937)7月に子孫の小張義三氏が修復をしている。それぞれ右から勢至菩薩像、阿弥陀如来像、聖観音菩薩像である。この左の3基を弥陀三尊とする説もある。

場所  杉並区上荻2丁目1-3

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2021年1月14日 (木)

上荻の六面地蔵(杉並区上荻)

環八の西側は青梅街道以北が桃井、以南が上荻という住居表示になっている。高度経済成長期以前は北が中通町、南が上荻窪であった。大正時代まで遡ると井荻町中通だったようである。青梅街道の南側は一部関根という地名だったが、これは荻窪八幡神社の神官を務める小俣家の屋号が関根で、その所有地を関根と呼んだのに因む。

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郵便局から南に入った路地の角にそれほど年数が立っていないきちんとした堂宇がある。施錠はされていなかったので、拝んだ上で開けさせていただいた。堂内には六面幢タイプの地蔵立像が祀られている。石塔には天蓋があり、なかなか立派なものだが、前面の3体しか見ることが出来ない。また尊顔はかなり摩滅している。

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下部の台石に文字が彫られており、造立年ではなく戒名と没年が刻まれている。前面は文政年間(1818~1830)の没年が見られるのでその時代のものであろう。古い写真にはこの角ではなさげな場所に堂宇があり、この六面地蔵が祀られているという情報があったので、決して新しいものではない。

場所  杉並区上荻3丁目27-22

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2021年1月13日 (水)

薬王院の石仏(杉並区桃井)

青梅街道に門のある薬王院は曹洞宗の寺院、創建年は不詳。門扉は閉じているが施錠されておらず、用事のある人は開けて出入りしていた。一礼して境内に入ると、正面に本堂があり、左手にいくつもの石仏が並んでいる。

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創建不詳ではあるものの、一説には元禄時代以前に海光和尚が開山したと言われる。今川氏の保護を受け、元禄13年(1700)に今川氏から土地を寄進され、享保4年(1719)に今川家の祈願所となった。明治に入ってからは観泉寺の末寺となり、境外仏堂となったようだ。

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石仏群の左端は角柱型文字塔の庚申塔。造立年は寛政5年(1793)11月。玉光山薬王院の銘があり、台石には、武刕多摩郡上荻窪村講中に加えて遅野井村の願主名も刻まれている。塔側面には西国、坂東、秩父大悲観世音百尊供養ともあり、かなり混ぜ込まれた感じがする。

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一方右端の二体の丸彫地蔵立像はある意味二子地蔵で、どちらも同じ像形で同じ文字が刻まれている。造立年はともに享保5年(1720)4月。但し、武刕多摩郡上荻村と武刕多摩郡遅野井村の銘のみが異なる。しかし願主名が計24名刻まれているが、その名前は完全一致する不思議な二子地蔵である。

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その左隣にある舟型地蔵2体だが、右側の大きい方は寛文9年(1669)小春(10月)の造立で、念佛講中によるもの。左は墓石らしく、寛文7年(1667)極月(12月)のものである。その他、享保3年(1718)の上荻久保村(上荻窪村)の丸彫地蔵、明治29年(1896)の丸彫地蔵などが並んでいる。

場所  杉並区桃井2丁目4-2

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2021年1月12日 (火)

今川二丁目の庚申塔(杉並区今川)

青梅街道の北数百mを東西に、青梅街道に並行して走る杉並登記所通りの近くに庚申塔が祀られた堂宇がある。杉並登記所通りは区画整理で真っすぐな道になっているが、元々は青梅街道と並行して東西に走る村道筋だった。ここに庚申塔が残るのはそういう過去の経緯があったからだろうと思う。

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隣接する建物も昭和チックで風情がある。高度経済成長期以前、この辺りは中通町と言った。南西にある広い公園のエリアは戦前は中嶌飛行機製作所の工場があったところで、戦後は富士精密荻窪工場から日産自動車荻窪工場へと変遷し、現在は公園とマンションになっている。

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庚申塔は駒型で日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。右側には「供養諸願成就」とあり、左右に分かれて「武刕多摩郡遅野井村中通」の銘がある。江戸時代からこの辺りは中通りと呼ばれていた所以である。造立年は、享保10年(1725)9月、願主は保坂源五右衛門、清水加兵衛、講中弐拾七人とあり、遅野井村中通にはかなりの農民が住んでいたのだろう。

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堂宇脇には自然石の石塔があった。「佐平吉辨財天」と自然石に彫られている。特にその他の文字はないので、いつごろのものかもわからない。庚申堂や地蔵堂の脇に小さな石塔があることはよく見受けられる。人々はいろいろな民俗信仰を経て今に至っていることがわかる一面だが、現代は信仰のかけらもない時代。こういう路傍の石仏を守っていくために何かをしたいと思う。

場所  杉並区今川2丁目2-8

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2021年1月11日 (月)

観泉寺門前の石仏(4) (杉並区今川)

観泉寺門前の石仏の最終節は参道の向かいにある今川2丁目8番の一角、南側は中央大学杉並高校だが、筋塀に囲まれたこの広い数百坪の区画はまるで武蔵野の林が残っているような景色である。その中に樹木のないところがあり、複数の石仏が祀られている。まずは参道側の山門をくぐると30坪ほどの場所に6基の石仏が並んでいる。

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ここに別に石仏が並べられている理由は分からない。ただ、とても贅沢な空間だと感じられる。右端から紹介すると、享保15年(1730)3月造立の舟形光背型の如意輪観音像。これを含めて多くは墓石である。右から二番目もまた如意輪観音像で、天和2年(1682)6月のもの。

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右から三番目は地蔵と間違えそうだが舟型光背型の阿弥陀如来像である。造立年は元禄6年(1693)4月でこれも墓石。その隣の背の高い月輪の丸彫地蔵は年代こそ不詳だが墓石ではなく、どうやら水子地蔵としてあったものらしい。左から二番目は享保17年(1732)11月の如意輪観音像、一番左の光背型の石仏は聖観音像で、元禄4年(1691)6月の造立である。

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観泉寺の山門前に戻り東に樹林に囲まれた道を進むと、同じような区画があり、そこに地蔵の道標がある。正面はかなり風化が進んでいて読めない文字があるので杉並区の資料を参照した。正面上部には地蔵菩薩立像が彫られており、その下には明和6年(1769)3月の造立年と「ぞうしがや」の文字。右面には「右 長命寺」、左面には「左 ほりの内」とある。元は観泉寺の無縁墓地にあったもの。

場所  杉並区今川2丁目8

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2021年1月10日 (日)

観泉寺門前の石仏(3) (杉並区今川)

南側の列にあるのは「三谷子育地蔵堂」と呼ばれている堂宇。その左側にはいくつかの新しい小さな石仏が並んでいる。三谷子育地蔵堂の中には地蔵立像と石柱が祀られている。

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右側の舟型の地蔵立像が三谷子育地蔵。造立年は元文2年(1737)11月である。地蔵菩薩立像の脇に「念佛供養」という文字と年紀が彫られている。台石には、「願主 本田与七郎  連衆中  二十八人」とあるので、地蔵講中によるものだろう。左の笠付の石塔には「南無阿弥陀佛」と書かれており、側面には「志やくち道」とあるらしい。石神井道の意味だろうか。また、「念佛供養講中二十五人」の文字も見えるが時代は不詳。台石の水滴による凹みや資料からして江戸時代のものであることは間違いなさそう。この二基は、昭和56年(1981)に桃井4丁目16より移されたものである。今の今川四丁目交差点辺りで、青梅街道に並行した村道にあったようだ。

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石仏の左端には写真の板石がある。これは昭和50年(1975)のもので、「子育地蔵尊供養」と彫られている。「功徳主 羽生たき」と書かれており、「大正15年より助産婦業に従事し、当地に於いて五十有余年出産を取り上げ数一万三千有余大過なく今日に至り、感謝の意を表現して之の碑を奉納す」と裏面にあることから、このスーパー助産婦さんに感謝し供養するものだろう。年換算で260人の新生児を取り上げたとは想像を超える凄さである。

場所  杉並区今川2丁目6

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2021年1月 9日 (土)

観泉寺門前の石仏(2) (杉並区今川)

北側の列は庚申塔が中心で、善福寺池近くの地蔵坂から移された石仏群であったが、西側は地蔵菩薩像が中心になっている。しかし右側の堂宇にゆったりと一体のみ祀られている地蔵菩薩は、庚申塔群同様に地蔵坂から移されたものであることが分かっている。

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この舟型地蔵立像が地蔵坂の坂名の由来であると思われる。右側には「為二世安樂也  道行十九人」とあり、左側に享保17年(1732)10月の年紀に並んで、「願主  越本十郎右衛門  加藤為十郎  傳七」と彫られている。舟形光背型できちんと月輪が描かれているのもなかなかの地蔵菩薩像だと思う。

左側の堂宇(といっても屋根のみ)には三基の石仏が並んでいる。右は、享保14年(1729)11月造立のもので、台石には「地蔵菩薩念仏講女中」とあるので、女性の念仏講によるものだろう。「武刕多麻郡遅野井村  願主  渡部傳左エ門内室  同行三十四人」とあるから大所帯である。もともとは観泉寺の西南角の村道にあったものを、昭和3年(1928)にここに移したと記録されている。

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中央は地蔵菩薩坐像で、宝暦12年(1762)10月に日本回國供養塔として建てられたものを、明治32年(1899)に再建したとある。左の駒型の石仏は馬頭観音で、上部に描かれているのは馬頭観音の座像、明治32年(1899)8月の造立である。この二基は、観泉寺山門参道南端にあったものを昭和9年(1934)にここに移したと記録されている。

場所  杉並区今川2丁目6

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2021年1月 8日 (金)

観泉寺門前の石仏(1) (杉並区今川)

杉並区今川にある観泉寺は曹洞宗寺院で、戦国大名今川家の菩提寺。今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討たれたが、義元の子は徳川家康の庇護を受け今川家は細々と続いた。三代将軍家光の時代の正保2年(1645)に井草の地を所領として与えられた。現在の「今川」の地名はこの今川氏が由来である。

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観泉寺の創建は慶長2年(1597)とされるが、その当時は今川家との関係はない。当初は観音寺という名で、後に今川家の三女が仕えた。その関係で弟にあたる今川直房が井草村の領主となったのが家光の時代である。観泉寺は名庭で知られるが、今回は門前にある石仏群を紹介する。ここには多くの石仏が祀られており、不詳のものも含めると20基以上になる。まずは北側に並ぶ6基の石仏から。

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右端の小さめの角柱は庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿が上部に描かれている、延享2年(1745)4月のもの。「武刕多摩郡遅野井村」の銘があり、「奉建立庚申橋供養佛」とあるが、他の石仏と同じく西荻北4-37の地蔵坂より移転したもので、地蔵坂の名前の由来でもあった。その話は「地蔵坂」のページに書いている。

中央の見事な笠付角柱型の庚申塔は宝永2年(1705)12月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「御地頭御武運長久祈  現當二世安楽所」と書かれている。側面の蓮葉も見事である。左は文政7年(1824)10月造立の馬頭観音塔。「多摩郡遅野井村」の銘があり、側面には「西ふちう」「東江戸」と道標が記されている。

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左側の3基を見てみると、右からこれもまた見事な笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は貞享2年(1685)10月。中央の駒型庚申塔は正徳6年(1716)2月の造立で、日月、青面金剛像、三猿のデザイン。一番左は比較的新しく、明治29年(1896)12月の石段寄附の折の供養塔のようである。この北側の6基はすべて、前述の地蔵坂にあったものとされている。

場所  杉並区今川2丁目6

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2021年1月 7日 (木)

富士向観音(杉並区上井草)

西武新宿線上井草駅からまっすぐにバス通りを南進する。およそ450mほどで上井草グリーンハイツというマンションの入口にある堂宇に到達する。堂宇の中には聖観音立像と庚申塔がそれぞれ祀られている。聖観音像の方は昔から富士向観音と呼ばれていたので、今でも富士向観音で通っている。

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なかなか立派で大きな堂宇で、右側に聖観音像、左側に庚申塔が並ぶ。聖観音像の造立は寛延2年(1749)11月。「武刕多摩郡遅野井村  願主  渡辺賀右門」の銘がある。また「講中  二十一人  同 山口治良兵衛」とあり、この講中は観音であるゆえに観音講と考えていいのか、或は念佛講なのかは分からない。

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左の笠付角柱型庚申塔は、享保7年(1722)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。「武刕多摩郡遅野井村  同行廿二人  願主  山口武左衛門」の銘がある。二基とも、もとは少し西の道沿いにあったが、大正14年(1925)の区画整理の折、ここに移転してきたもの。遅野井村はこの辺りの江戸時代の地名。元の場所は、50mほど西にかつて流れていた妙正寺川の上流である井草川の橋の辺りではないかと思われる。現在も川は暗渠として緑道になっているが、この川を境に北は石神井村、南が井荻村と言うのが近代の区割で、江戸時代は遅野井村の村境だったものと思われる。

場所  杉並区上井草2丁目17-19

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2021年1月 6日 (水)

千川上水上の庚申塔(豊島区千早)

地下鉄有楽町線・副都心線の千川駅の南西にある都立千早高校、昭和後期まで立教大学の運動場だった場所に牛込商業高校が出来、それが現在は都立千早高校になっている。その北側を流れクランクして千川駅の方に千川上水の親水公園(緑道)が続いている。高校のプールだが50mプールというのは珍しい。そのプールの傍にあるのが庚申堂である。

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左から3基は庚申塔、右端が供養塔である。板に書かれている説明によると、ここにある庚申塔はかつて千川上水に架かっていた「庚申橋」の脇に祀られていたもの。しかし戦後の高度経済成長期になり、千川通り周辺で土木工事や建築工事が頻繁に行われるうちにいつの間にか行方知れずになってしまった。後に、練馬区北大泉の山林に放置されているのが発見され、この場所に戻されたが5基あった石塔の内、庚申塔1基は見つからず仕舞いという。

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左側の2基はどちらも笠付角柱型の庚申塔。左端は貞享3年(1686)10月の造立。文字塔で「奉造立庚申宝塔現當求願小如意所」とあり、側面には蓮葉が描かれている。「武刕豊嶋郡長崎村」の銘がある。左から二番目は正徳元年(1711)10月造立の庚申塔で、日月・青面金剛像、邪鬼・三猿・二鶏の図柄。

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右側の二基は、まず舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛、三猿が描かれているもの。像の右には「奉造立庚申講中為二世安樂」とあり、造立年は延宝8年(1680)9月。しかし左裾に「遠江國榛原郡住吉村」という銘が彫られている。今の静岡県榛原郡吉田町には住吉という地域がある。江戸時代は「住吉新田」と呼ばれていた。なぜ今、ここに在るのかという不思議はあるが、後の時代に石垣造りのための代用石として運ばれてきた可能性も無きにしも非ず。

一番右の供養塔は「奉納大乗妙典諸願成就処」とあり、明治4年(1871)9月のものである。

場所  豊島区千早3丁目46-21

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2021年1月 5日 (火)

路傍の庚申塔(豊島区長崎)

路傍の庚申塔は思いがけない場所にある。西武池袋線東長崎駅から北へ500m余り、都道420号鮫洲大山線にある豊島長崎六郵便局の裏手の路地角の隅切り部分に一基の庚申塔が立っている。

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造立年は安永3年(1774)12月。駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が彫られている。右側面には「右 いたはし道」とあり年紀が記されていた。一方の左側には「武刕豊嶋郡長崎村」とあり、「左 なかの道  願主 高木作右衛門  講中十六人」と書かれている。

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典型的な江戸時代後半の庚申塔である。この場所がどんな場所なのか、時代を遡ってみた。大正末期以降は現在と道路はあまり違わないが、唯一郵便局前の都道は千川上水沿いの道であった。関東大震災以前はこの辺りも藪と畑のエリアだったようで、明治時代までさかのぼるとほとんど民家はない。しかし、千川上水から一本入った道は当時から存在しており、「水道向」という地名だった。千川上水沿いには家は殆どなく、この道沿いに農家が点在していたようだ。少し下手にはつい100年ほど前までは水車もあった。現在のサミットがあるすぐ北側で、サミットの場所には神社もあったようだが、戦後無くなっている。

場所  豊島区長崎6丁目9-15

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2021年1月 4日 (月)

能満寺境内の石仏(練馬区旭丘)

練馬区は東京23区の中で最後に追加された区で、昭和22年(1947)に板橋区から独立?して出来た。門前の千川地蔵が南長崎から移されたのはちょうどその頃で、まだ能満寺は板橋区の寺院だった。その為能満寺にある板橋七福神の寿老人は練馬区の能満寺にある。

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山門をくぐり左手の墓所方向に進むとすぐに2基の舟型光背型の石仏がある。尼さんがいらしたのでご挨拶して拝顔させていただく。明治時代の廃仏毀釈の頃には住職もいなくなり寂れたが、今では区内でも有数の寺院になった。練馬の里だけに空襲の被害も少ないので多くの石仏が残っている。

左側は元禄10年(1697)2月造立の地蔵立像。「奉新造立庚申供養二世安樂祈所」と右側に、左には年紀と「武列豊嶋郡上板橋村能満寺」の銘がある。右側の地蔵立像は延宝4年(1676)11月のもので、こちらも「奉新造庚申供養二世安樂処」「武刕豊嶋郡上板橋村願衆」とあるので、二基とも庚申講中によるものである。

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そのすぐ隣には手前に小さな二基の地蔵を置き、庚申塔と二基の地蔵が並んでいる。左の駒型庚申塔は享保10年(1725)3月の造立。日月、青面金剛、邪鬼、三猿が描かれており、「奉造立供養青面金剛尊為講中二世安樂」「講中八人」とある。また「武刕豊嶋郡上板橋村」の銘も刻まれている。

中央の地蔵は中央が「道しるべ地蔵」と呼ばれるもので、享保元年(1716)の造立。かつては江古田駅南の二股交番のところにあったもの。二股交番は今は無く、交番は江古田駅の駅舎に移転している。ただ変則の五差路交差点はまだあり、ここは千川上水の流れている場所でもあった。右の地蔵は「向きかえ地蔵」と呼ばれる地蔵だが造立年は不詳。練馬区の資料で伝説による呼び名とあるが、その伝説を調べているがまだ見つけられていない。

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本堂手前にあったのが上の写真の宝篋印塔。造立年は享保3年(1718)で、一般的な宝篋印塔とは形が異なり、笠付角柱型である。宝篋印陀羅尼経という経典を梵字で刻んであり(読めない)、人々の成仏を願って建てられたものである。

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その近くにあったのが自然石で造られた二十三夜塔。造立年は刻まれいない。練馬区の寺院で月待塔はこの一基のみだという。月待の風習は全国にみられるというが、あまり深く研究されていない。陰暦23日の夜、講中衆が集まり、勢至菩薩の掛軸を拝しつつ、飲食をし祈願をした風習であるが、二十三夜塔は自然石が多い。なぜそうなのかはわからない。

板橋区刊の『古老問書』に能満寺辺りの昔の風景が語られていた。明治生まれの古老の話が載っており、「小竹も江古田もほとんどが畑と藪で、水田が能満寺の前を流れている川の南側に細長く開かれていた。」とある。つい100年前の風景である。

場所  練馬区旭丘2丁目15-3

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2021年1月 3日 (日)

能満寺門前の石仏(練馬区旭丘)

西武池袋線の北口を出て東側には日大芸術学部、その先に区立旭丘小学校があり、その東隣りが能満寺。江古田駅は大正11年(1922)に旧制武蔵高校用の仮停車場として開業、通学時間帯のみの停車だったが、翌年には一般開業。大正時代前期以前は何もない原野で石神井川支流のえんが堀の源頭のいくつかがこの辺りにあった。能満寺の門前の道もその源頭の流れの傍にあった道である。

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山門の手前に緩やかな坂があり道から山門まで数十mの参道があるが、それはおそらく川があった名残り。創建は不詳ながら、元和年間(1615~1623)とされている真言宗の寺院で、夏雪山廣原院能満寺が正式名。名前から想像するに武蔵野の林と野原の広がる土地だったのだろう。参道の入口の左手に数基の石仏が並んでいる。摩滅と風化が激しく年紀や尊顔の不明なものもいくつかある。

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ひときわ背の高い丸彫の地蔵菩薩立像がある。この地蔵は享保16年(1731)造立のもので、上板橋村の講中15人によるもの。その手前の地蔵については不詳である。

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その隣にあるのは駒型の庚申塔と丸彫地蔵。地蔵の方は何も文字がなく情報もない。庚申塔は、享保13年(1728)霜月(11月)の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛右には「奉造立青面金剛尊講中」、左には「八人現當諸願如意満足所」とある。側面には「ビリ豊嶋郡上板橋村」の銘もある。

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一番奥にあるのが「千川地蔵」と呼ばれる地蔵立像。造立年等の詳細は不明だが、経緯を書いた石柱が隣接、しかしこの文字が読めず資料に頼ると、大正14年(1925)に玉川上水の川ざらいの折、豊島区との境にある五良久保橋付近より拾い上げられたもので、昭和27年(1952)に能満寺に移されたもの、とある。しかし玉川上水というのはおかしいので、千川上水の資料を調べてみると、この記載があった。『千川上水は豊島区に入り南長崎で北方に曲がる。その曲がった所の東岸に千川地蔵はあった。地蔵は、大正14年(1925)に千川上水から拾い上げられここに建立されたが、昭和27年に能満寺に移設された。』とあり納得した。場所は中野通りと南長崎通りの交差点の辺りになる。

場所  練馬区旭丘2丁目15-3

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2021年1月 2日 (土)

馬神の碑(世田谷区池尻)

北沢川暗渠が烏山川暗渠と出合い目黒川になる辺り、筑波大学不足高校の南はこの目黒川の河岸段丘になっており、見事な崖を今も見せている。池尻大橋から駒場に行くには15mの高低差のこの崖を登らなければならない。ジグザグの階段を上ると中目黒方面への眺望が開ける。

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崖線上に上がるとそこには不思議な雰囲気の角柱が立っている。「馬神」と彫られたこの石柱の回りには、蹄鉄がいくつも置かれており、馬に関係あることが想像できる。石塔の後ろにあるMaster View Residenceという洒落た名前のマンション敷地を西端にして、東は現在の山手通り手前まで憲兵隊や近衛兵などの広大な施設が戦前は並んでいた。

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西端のこの辺りには陸軍騎兵第一聯隊があり、その隊員たちが昭和5年(1930)に、戦没軍馬の供養のためにこの石塔を建てた。しかし、関東大震災前の大正時代前期の地図を見ると同じ場所に石碑の印がある。明治時代の地図にも載っている。おそらくは明治時代からあったものを、昭和に入って再建したものではないかと思われる。

場所 世田谷区池尻4丁目8-1

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2021年1月 1日 (金)

つげの木庚申(練馬区小竹町)

地下鉄有楽町線(西武有楽町線)・副都心線が小竹向原駅はギリギリ練馬区である。西側出口のある小竹向原駅交差点は板橋区と練馬区の区境。この区境はかつてのえんが堀の流れに沿っているため、区境は最も標高の低い筋になっている。とある書にはえんが堀は素掘りの千川上水の流れが地中に浸み込み湧水として窪地に湧いたものとしているが、江戸時代からの短期間にこんな谷が出来るわけはない。おそらく数千年かけて谷を形成しているはずだから元々川があったものと考えている。

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かつての村道筋で向原から西へ向かい谷を下りきると小竹に入る。その小竹集落の入口にあるのがつげの木庚申である。庚申塔が合計5基、広い敷地に野ざらしだが祀られている。かつてはえんが堀流域は水田で、小竹の集落と向原の集落はそれぞれ台地上にあった地形を考えると、この庚申塔群が見てきた風景が思い浮かぶ。

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一番右にある小柄な笠付角柱型の庚申塔は元禄11年(1698)11月の造立。小さいと言っても高さは1m近くある。正面の文字は推定で「奉寄進庚申供養」、側面には「武列戸嶋郡上板橋小竹村  志野吉兵衛」の銘がある。戸嶋郡は豊嶋郡の誤字である。隣りの地蔵菩薩立像だが、脇には「奉造立庚申供養二世安楽所  志野八兵衛」とあるので、庚申講中による庚申塔と見ていいだろう。「武刕豊嶋郡上板橋村」の銘があり、造立年は延宝8年(1680)8月である。

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地蔵菩薩像とこの斜めに傾いた庚申塔の間にある樹木は新しいつげの木のようである。ツゲはモチノキ科の樹木で、庭木にされることの多いポピュラーな低木である。つげの木脇の傾いた笠付の庚申塔は明和9年(1772)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が彫られている。左には「講中二十六人」とある。隣りの板碑型庚申塔は最も古く、寛文13年(1673)8月の造立。三猿と蓮場が彫られているが、上部に文字が沢山あり、「奉造立庚申供養安楽所」「上板橋村 施主  念佛光同行」とあるが、念佛光は念仏講のこと。

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左端に一つ離れて立っているのが、駒型庚申塔で造立年は享保2年(1717)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄だが、邪鬼と三猿がぐしゃっと一体化していて面白い。「武刕豊嶋郡上板橋小竹村」の銘が側面にあり、正面下部には「施主等九人敬白  願主 篠傳四郎」とある。これら5基の庚申塔は村境の守り神として、江戸時代から300年ものあいだ、ここに在った可能性が高い。魅力的な庚申塔群である。

場所  練馬区小竹町1丁目18-8

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