« 能満寺門前の石仏(練馬区旭丘) | トップページ | 路傍の庚申塔(豊島区長崎) »

2021年1月 4日 (月)

能満寺境内の石仏(練馬区旭丘)

練馬区は東京23区の中で最後に追加された区で、昭和22年(1947)に板橋区から独立?して出来た。門前の千川地蔵が南長崎から移されたのはちょうどその頃で、まだ能満寺は板橋区の寺院だった。その為能満寺にある板橋七福神の寿老人は練馬区の能満寺にある。

P1080663

山門をくぐり左手の墓所方向に進むとすぐに2基の舟型光背型の石仏がある。尼さんがいらしたのでご挨拶して拝顔させていただく。明治時代の廃仏毀釈の頃には住職もいなくなり寂れたが、今では区内でも有数の寺院になった。練馬の里だけに空襲の被害も少ないので多くの石仏が残っている。

左側は元禄10年(1697)2月造立の地蔵立像。「奉新造立庚申供養二世安樂祈所」と右側に、左には年紀と「武列豊嶋郡上板橋村能満寺」の銘がある。右側の地蔵立像は延宝4年(1676)11月のもので、こちらも「奉新造庚申供養二世安樂処」「武刕豊嶋郡上板橋村願衆」とあるので、二基とも庚申講中によるものである。

P1080659

そのすぐ隣には手前に小さな二基の地蔵を置き、庚申塔と二基の地蔵が並んでいる。左の駒型庚申塔は享保10年(1725)3月の造立。日月、青面金剛、邪鬼、三猿が描かれており、「奉造立供養青面金剛尊為講中二世安樂」「講中八人」とある。また「武刕豊嶋郡上板橋村」の銘も刻まれている。

中央の地蔵は中央が「道しるべ地蔵」と呼ばれるもので、享保元年(1716)の造立。かつては江古田駅南の二股交番のところにあったもの。二股交番は今は無く、交番は江古田駅の駅舎に移転している。ただ変則の五差路交差点はまだあり、ここは千川上水の流れている場所でもあった。右の地蔵は「向きかえ地蔵」と呼ばれる地蔵だが造立年は不詳。練馬区の資料で伝説による呼び名とあるが、その伝説を調べているがまだ見つけられていない。

P1080666

本堂手前にあったのが上の写真の宝篋印塔。造立年は享保3年(1718)で、一般的な宝篋印塔とは形が異なり、笠付角柱型である。宝篋印陀羅尼経という経典を梵字で刻んであり(読めない)、人々の成仏を願って建てられたものである。

P1080670

その近くにあったのが自然石で造られた二十三夜塔。造立年は刻まれいない。練馬区の寺院で月待塔はこの一基のみだという。月待の風習は全国にみられるというが、あまり深く研究されていない。陰暦23日の夜、講中衆が集まり、勢至菩薩の掛軸を拝しつつ、飲食をし祈願をした風習であるが、二十三夜塔は自然石が多い。なぜそうなのかはわからない。

板橋区刊の『古老問書』に能満寺辺りの昔の風景が語られていた。明治生まれの古老の話が載っており、「小竹も江古田もほとんどが畑と藪で、水田が能満寺の前を流れている川の南側に細長く開かれていた。」とある。つい100年前の風景である。

場所  練馬区旭丘2丁目15-3

|

« 能満寺門前の石仏(練馬区旭丘) | トップページ | 路傍の庚申塔(豊島区長崎) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 能満寺門前の石仏(練馬区旭丘) | トップページ | 路傍の庚申塔(豊島区長崎) »