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2021年1月28日 (木)

赤羽八幡猿田彦庚申塔(北区赤羽台)

赤羽駅は都内でも鉄道輸送の要である。京浜東北線、埼京線、宇都宮線、高崎線、に加えて東北上越北陸新幹線が通る。近年は北の扇の要を大宮に奪われた形だが、歴史は古く明治18年(1885)に品川・赤羽間で山手線の前身として開業した。山手線が環状線になってからは、池袋・赤羽間に赤羽線が走っていたのを思い出す。埼京線が出来たのは昭和60年(1985)と新しい。赤羽八幡神社の境内から赤羽駅方面を展望するとそういう歴史の上にこの神社の場所が鉄道の股の間になったことがわかる。

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赤羽八幡は武蔵野台地の東北の岬に位置する。縄文海進の頃にはここが波打ち際である。西側を上る師団坂の名は赤羽が広大な軍事施設を有していた時代の名残りである。崖下と境内との高低差は15mもある。長い石段を登ると本殿前に出る。

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赤羽八幡の創建は平安時代初期、平安京が出来たころで、最澄が比叡山を開山した時代。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、東北地方の征伐に向かわせた。その時に田村麻呂が陣を張って八幡大神を勧請したのが始まりと言われる。本殿前の左手には古峯神社や北野神社、大国主神社などの末社があったが、近年そこに猿田彦庚申塔群が加わった。

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後ろの大きな石碑は別にして、右の自然石と、二基の駒型庚申塔は、赤羽台団地の猿田彦神社にあったもので、平成29年(2017)4月に団地の再開発工事の為にこの場所に移された。宝幢院前の街道合流地点の周りには庚申塔や猿田彦神が複数路傍に祀られていたが、明治時代から大正時代にかけて赤羽周辺に陸軍の施設が次々と作られていく過程で陸軍被服廠の敷地内に纏められた。この被服廠の跡地が戦後、広大な赤羽台団地となり、それが老朽化して現在大規模な建替え再開発工事に入っている。

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右端の自然石による猿田彦太神碑も庚申塔の一形態である。「猿田彦太神」の下には「當所 講中 廿七人」と彫られている。背面には年紀があり、嘉永4年(1851)4月とある。江戸時代末期のものである。左の駒型庚申塔は大きいもので高さは124㎝ある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が描かれ、基壇に三猿が彫られていた。造立年は享保7年(1722)11月、江戸時代中期のものである。庚申塔が最も盛んな時期で、経済的にも高度成長した後で豪華な庚申塔になっている。それを感じさせるのは、両脇に彫られた願主名で、左には男性名が20人、右には女性名が22人記されている。庶民がそこそこの経済力を持ち、お金を出し合って造立したことがわかる。

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左側には頂部が少し欠けた、同じような駒型庚申塔があり、図柄は似ている。造立年は享保5年(1720)11月でこちらの方が2年早い。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、そして基壇に三猿とよく似たデザインは同じ石工が造ったのではないかと思われるほど。ここまでは赤羽台団地の猿田彦神社からの移設。左にある小さな石仏もまた庚申塔で、これは同じ団地の赤羽台1丁目3番の北の端にあったものだという。赤羽台団地の工事が始まって、どこへ行ったのか探していたが、きちんと祀られていて安心した。

場所  北区赤羽台4丁目1-6

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