子育地蔵堂(北区浮間)
埼京線と東北上越北陸への新幹線が通る高架をくぐると角の隅切り奥に堂宇が立っている。地図を見ると「子育地蔵堂」とあり、小堂の扁額にも同じ名が書かれている。堂宇の中には4基の石仏が祀られていた。
奥に2基の地蔵菩薩立像、手前には巡礼供養塔と庚申塔が並んでいる。江戸時代から昭和前期まではほぼ完全な農村風景だったが、現在は隙間なく民家やマンションが建ち並んでいる。地理的には旧荒川を浮間の渡しで渡ってくるとここを通り現在の川口市に入っていくルートであった。
手前の地蔵菩薩には何も彫られておらず、造立年も何もかもが不詳。向こう側の背の高い(台石が高い)丸彫地蔵菩薩が堂宇の名になっている子育地蔵である。台石を見ると、「武州下足立郡平柳▢▢浮間村」とあり、「念佛結衆六十三人」とある。年紀については書かれておらず分からない。63人という講中の人数は当時の浮間の住民の大半だろうと思う。
手前左にあるのが角柱型の百番巡礼供養塔。上部に陽刻されているのは聖観音座像である。西国、秩父、坂東の百番を巡礼した浮間村の尾熊源左衛門という人物が施主のようだ。そういえばスーパー堤防の近くに尾熊組という事業所があったが子孫だろうか。角の尾熊家には屋敷稲荷もあったので印象に残っている。巡礼供養塔の造立年は分からない。
手前右にあるのが駒型の庚申塔である。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は安永6年(1777)2月である。右側面には「浮間村講中」の銘が入っている。昔の浮間村には五大、西、東という洞(ホラ)と呼ばれる小字があったが、この洞単位で庚申講中が組まれていたという。この庚申塔はその中でも東地域の庚申講中によるものらしい。昔は道路の中央にあったが、後にこの堂宇に納められた。
場所 北区浮間3丁目34-26
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