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2021年2月19日 (金)

袋村の庚申待供養塔群(北区赤羽台)

北赤羽諏訪神社の参道は宮の前の坂の赤羽桜並木道でぶった切られている。諸説あるが、この道沿いはなぜか巨大な造船ドックのように武蔵野台地を削った窪地になっている。この窪地は中世には稲付川の北側の支流が削った谷地で、そこを利用して軍が射撃施設を建設して広げた際に、明治期に宮の前の坂を切通しにしてしまった可能性が高い。

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実際に参道は道の対岸に延びており、そこから見ると参道が途中で切通しによりぶった切られた様子が分かる。本殿が向こう岸だとすると、こちらの参道部分はどこから来たのかが疑問だが、おそらく岩淵村から袋村に向かうと、参道手前で右に宮の坂が分岐する。そこから参道が始まったのだろう。しかし袋村の鎮守の参道が岩淵村側にあるのも何となく不思議である。

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参道側の切通しの際には5基の石仏が並んでいる。左の4基が庚申塔、右端が供養塔である。北区の資料によると、袋村には元禄時代に始まったとされる庚申講中が存在していて、昔袋村の各地に建てられたこれらの庚申塔が、諏訪神社が村の鎮守だったことから、その参道に移設されたものとしている。

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左端の庚申塔はおそらく駒型だが上部が欠損している。その為日輪月輪のうち日輪の方が欠けている。主尊は青面金剛像で、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は享保19年(1734)12月。向かって左側面の年紀の下には「左 板橋道」、右側面には「右 練馬道  奉供養庚申講」とある。その右の廣回り大きな駒型の庚申塔は、享保17年(1732)11月の造立。日月、青面金剛像、自二鶏、三猿の図柄で、向かって右側面には、「武刕豊嶋顧(郡)岩領衾村講中」とあり、この誤字が何とも江戸時代らしい。基壇には沢山の願主名がある。

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続く中央の庚申塔も駒型で、天明5年(1785)12月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、向かって右側面には「奉納庚申供養塔爲二世安樂也」とある。基壇には「右 大山ねりまみち  左  いたばしみち」とあるので、小豆沢村に近い地区にあったものではないだろうか。右の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、正面には「武刕豊鳥(嶋)郡岩淵領袋村  奉供養庚申待二世安樂」とある。造立年は元禄16年(1703)11月とここでは最も古く、袋村でも初期のものと思われる。

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右端の駒型の角柱は供養塔で、正面には光明真言百萬遍供養塔とある。天明5年(1785)12月に建てられたもので、百万遍というのは念仏講のひとつであり、念仏を百万回唱えるという浄土宗に見られたもの。1080個の数珠で造った大数珠を、100回順送りに回して唱えることで合わせて108万遍になるというものであり、決して100万回唱えているわけではないようだ。数十年前までは各地で行われていた。京都には百万遍という場所があるが、これは百万遍の寺号を持つ知恩寺に因むもので、実際に14世紀の後醍醐天皇時代には知恩寺で百万遍が行われ疫病を収束したという。

場所  北区赤羽台4丁目19-5

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