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2021年3月31日 (水)

常徳院の石仏(世田谷区宮坂)

小田急線豪徳寺駅の南にある曹洞宗の常徳院はもともと千歳船橋駅付近(旧字名は横根)にあった寺を、文明8年(1486)に足利義尚(よしひさ)が現在の場所に移し開山したと伝えられる。義尚はのちの室町幕府第9代将軍で応仁の乱の頃の人物。足利義政と日野富子の次男として生まれた。そういう寺がわが家の近所にあるとは思ってもみなかった。

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山門前の参道入口にあるのが六地蔵。堂宇が新しくなってきれいにされたので新しいものかと思いがちだが、造立年は安永6年(1777)11月である。台石には「西国供養佛 安永六丁酉年十一月廿四日 世田谷村横根 願主円信 世田谷村宮坂 世話人吉右衛門」とあり、300年以上経っても横根との関りがあることに驚いた。

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常徳院の前の道は瀧坂道という古道で、渋谷道玄坂から調布仙川までの街道。山門前には舟型光背型の地蔵菩薩立像がある。ゼニゴケが付いているが、比較的新しく、慶應元年(1865)11月の造立。左側に「施主 当村中」とあり、右には「善徳院現在厚住叟代」とある。

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舟型地蔵の反対側には敷石供養塔が立っている。敷石供養塔については社寺境内に置かれる敷石を寄進することも功徳と信じ、それを記念して供養塔を建てることがあったもの。意外に多い。また江戸時代の供養という刻字はしばしば羊ヘンに食うと書いたものがある。石塔の誤字はかなり多く面白い。この供養塔の造立は、天保2年(1831)3月で、下部には近隣各地の世話人の名前がある。

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本堂左手から裏手の墓所に向かうとさらに沢山の石仏が祀られている。列挙はしないがその中で気になったのはこの駒型の庚申塔。野ざらしにしては保存状態が良い。造立は享保16年(1731)11月で、日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄だが日月の装飾が良い。「講中七人 願主 大木甚右衛門」とある。

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墓所の中央あたりには、享保20年(1735)10月造立の丸彫の地蔵立像があり、電車を背景に地蔵を見るという面白い絵である。台石には「宮坂 鶴免 女中念仏講中 廿六人」とある。広々とした墓所は気持ちのいい風が吹き抜けていた。

場所  世田谷区宮坂2丁目1-11

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2021年3月30日 (火)

宿鳳山高円寺の石仏(杉並区高円寺南)

宿鳳山高円寺は高円寺の地名の由来になった寺である。開山は弘治弘治元年(1555)で曹洞宗の寺院。昔、ここは桃の木が多くあったことから桃園と呼ばれそれが桃園川(現在は暗渠)の由来となった。江戸時代、徳川三代将軍家光が鷹狩りの折、本堂裏の高台の茶室で休憩をしばしば、その折に元から小沢村という地名だったのを寺の名を取って高円寺村とせよとしたと伝えられる。

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境内は桃園川の左岸の段丘にあるため南の展望が開けていた。寺は江戸時代に二度、そして明治、昭和と焼失し、現在の本堂は昭和28年に再建されたもの。本堂手前の左手に地蔵堂がありいくつかの石仏が祀られている。

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左端は角柱型の庚申塔かと思ったが調べてみると六面幢の六地蔵菩薩像であった。戦災でこんなひどい姿になってしまったようだが、資料によると寛文4年(1664)3月の造立らしい。その隣は昭和26年(1951)6月の地蔵菩薩立像で足元に二童子がいる。「桃園子育地蔵」と呼ばれているようだ。右から2番目は三猿の石像で可能性としては庚申講中によるものと考えられなくもない。年紀は刻まれていない。一番右は造立年不詳の布袋像である。将軍がらみの由緒ある寺だけに民間信仰の石仏は多くないのだろう。

場所 杉並区高円寺南4丁目18-11

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2021年3月29日 (月)

高円寺北稲荷神社の石仏(杉並区高円寺北)

中央線高架の脇、北側の通りを環七から200mほど中野方面に進むと小さな稲荷神社がある。稲荷に定番の赤い鳥居はないので、稲荷神社とは思われないかもしれない。石鳥居の後ろには3坪あまりの土台があり中央に黒い瓦の稲荷神社がある。おそらくこの稲荷は高円寺の名家大河原家と関係のあるものだろう。大河原家は貞明皇后が子供の頃過ごした家。貞明皇后は昭和天皇の母、つまり大正天皇の皇后である。それだけで大河原家がどれほどの家か分かる。

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稲荷の左に大河原家と大きく彫られた台石があり、その上に2基の馬頭観音がある。左の馬頭観音は角柱型で明治5年(1872)7月造立。右は駒型の馬頭観音座像だが、上部が削られている。戦災によるものだろうか。

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裏手に回り込むとかなり摩滅の激しい舟型の地蔵菩薩立像がある。ほぼ字は読めないが、資料によると「念仏供養塔 ・・・女念仏講・・焉」とあり、「・・七壬寅」と左脇にある。造立年の可能性としては享保7年(1722)と慶長7年(1602)だが、慶長はまずありえないので、享保7年で当たりだろうと思う。

場所  杉並区高円寺北1丁目2-6

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2021年3月28日 (日)

高円寺南5丁目庚申堂(杉並区高円寺南)

特に名前のない庚申堂である。堂前の道は江戸時代からの道ではあるが、江戸時代前中期はこのすぐ東まで御囲の犬屋敷が迫っていたので、それ以前の道筋ではなさそうである。江戸時代初期は鷹狩りの地域として指定されていたが、第5代綱吉が生類憐みの令を発すると鷹狩りは無くなり、現在の中野駅と高円寺駅の間は一の囲から五の囲までの広大な犬小屋(犬屋敷)となった。中野区のHP「なかの物語 其の五」に詳しく書かれている。

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この庚申堂の少し東側迄が五の囲であったので、その西側を南北に結ぶ村道だったのだろう。堂宇内には4基の石仏が祀られている。一番右にあるのは笠付角柱型の庚申塔で、元禄14年1701)11月の造立。かなり摩滅していて文字などは読みにくいが、三猿は陽刻でしっかり残っている。右から二番目は同じく笠付角柱型だがこれは珍しい地蔵菩薩立像。寛保元年(1741)10月の造立である。「多摩郡高円寺村 願主 榎本忠右衛門」の銘がある。講中40人とあるのでかなり大きな念仏講中である。

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右から三番目も笠付角柱型だが、これも珍しく千手観音菩薩である。造立は宝暦10年(1760)10月で、左側には「武列多麻郡野方領高圓寺村 願主 榎本忠右衛門」と地蔵と同じ銘が入っているので、これも念仏講中による造立だろう。角柱の地蔵と角柱の千手観音菩薩の2基は昭和56年(1981)に高円寺北1-3より移設されたものらしい。現在は中央線の高架があるすぐ北脇の道沿いで、中野駅からこの先で北に折れていた村道沿い。

実は写真の隅(左端)にちょこんと立っている舟形の小さな地蔵菩薩像がある。これも古いもので、延宝4年(1676)12月の造立で、「妙善童女 三月十六日」とあるのでこれは墓石である。実はこの小さな地蔵が一番古いという面白い結果であった。

場所  杉並区高円寺南5丁目22-8

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2021年3月27日 (土)

高円寺天祖神社の石仏(杉並区高円寺南)

高円寺天祖神社は丸の内線東高円寺駅の北200mにある村の鎮守。寛治元年(1087)に郷土民山下久七が伊勢神宮へ参拝し分霊を受けて社殿を建てたのが始まりという。一民といっても村の長のような有力者だったのだろう、苗字もあるし神社を建てることもできた訳であるから。村人の合意を得て産土神とされたのは永長元年(1096)というからその9年間に何があったのかが興味深い。

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江戸時代になってからの地名が高円寺村だが、創建当時は小澤村という地であった。のちに高円寺村となり村社になったのは昭和2年(1927)と歴史の割には最近のことである。境内左奥には古い手水鉢と供養塔がある。

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左の供養塔だが、中央部に「奉納大乗妙典六十六部供養之塔」とあり、高円寺村七左エ門の銘がある。その横には「日本廻国及四国西国秩父坂東巡礼  武州多麻郡野方」など多くの文字が彫ってある。造立年は享保13年(1728)12月である。もともと環七通りの辺りにあったというから、高円寺陸橋下の庚申塔の近くだったのだろうか。環七の道路建設のため天祖神社に移された。右にあるのが古い手水鉢で寛文4年(1664)3月の年紀がある。「武州中野 奉寄進水盤石 …中略…中村橋…」とあるが、私には読めない漢字も多く、中村橋が地名なのかどうかは分からない。

場所  杉並区高円寺南1丁目16-19

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2021年3月26日 (金)

高円寺陸橋下庚申堂(杉並区高円寺南)

近代的な幹線道路である環状七号線と青梅街道の交差点名は高円寺陸橋下という。この交差点の北側、環状七号線内回り(東側)の旧村道の交差点に赤い稲荷の鳥居があり、民間信仰石塔という名で説明板と4基の石仏が祀られている。

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もともとは上の写真の左に移っている旧村道に南向きに立っていたらしい。したがって、路地の北側が旧所在地である。しかし環状七号線という首都でも最大級の幹線道路が通ることで環七に向くように建てられたという。江戸時代はというと、青梅街道以北が高円寺村、南西側の馬橋村、南東側が和田村という地理関係で、村境の場所でもあった。おそらく塞ノ神としての意味も大きかったのだろう。

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阿弥陀如来像2基は北側を向いて立っている。右の駒型の阿弥陀如来像は享保6年(1721)7月4造立。「寒念佛供養為同行二世安楽」とあり、「念佛 宮田長大夫」と書かれているので、念仏講中によるものだろう。左の舟型の阿弥陀如来像は寛文10年(1670)11月の造立。「空風火水地智本林栄居士 覚位 村田伝右衛門」とあり、下部には和田村の銘もある。

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一番奥にはこちらは環七方向を向いた2基の庚申塔が立っている。右の駒型庚申塔は、日月、一鶏、邪鬼、三猿の図柄で1.3mある大きなもの。「奉納庚申供養 □□寺村(高円寺村) 同行二十人」とあり、造立年は正徳3年(1713)11月である。左側は台石の下にさらに基壇が加えられているが本体は1.1mほど。こちらには「奉建立庚申施主諸旦那為平等利益也」とあり、中央は日月、青面金剛像、三猿の図柄。造立年は元禄7年(1694)9月である。

場所  杉並区高円寺南1丁目11-9

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2021年3月25日 (木)

鳳林寺の石仏(杉並区高円寺南)

高円寺南2丁目に集まっている寺院は全部で7寺。6寺が曹洞宗で1寺が日蓮宗。南側に並ぶ4寺はすべて曹洞宗だったが、北側の桃園川に近い方に並ぶ3寺は西から、曹洞宗福寿院、日蓮宗長善寺、そして曹洞宗鳳林寺である。曹洞宗が大多数を占める理由についてはよく分からないが、移転して集まった寺町の場合はよくあることである。

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鳳林寺は永禄元年(1558)に江戸牛込御門舟河原(現在の新宿区市川船河原町)で開山、寛永12年(1635)に舟河原の寺域が御用地とされたため、牛込七軒町(現在の新宿区弁天町)に移転した。江戸時代の切絵図を見ると、通りの東側に7軒の寺が並ぶうちの北から5番目に鳳林寺の名がある。現在の牛込弁天公園は境内の一部である。しかし、大正3年(1914)には道路拡張のあおりを受けて、現在地に移転した。

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本堂手前の大きな堂宇の中にあるのは元文2年(1737)3月に建立された大きな舟型の地蔵で、「六十六部供養佛」とあり、俗称は「大石仏の地蔵」と呼ぶようだ。厄除け子育延命地蔵尊として親しまれている。台石には「払方町 水道町 新町 早稲田町 吉兵衛河岸講中不残」とあり、施主の名が300名余り書かれている。それぞれ今も新宿区は町名として残っており、かなり広い地域からの施しを受けて牛込で造られたものと思われる。

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延命地蔵堂の前にもいくつもの石仏があるが概ね墓石。その中でこの素朴な馬頭観音はちょっと異質である。元は青梅街道筋にあったものらしいが、天保9年(1838)3月の造立である。やはり街道筋には必ずと言っていいほど馬頭観音がある。

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延命地蔵堂の前には無縁仏も多数並んでいる。その中でこれは墓石ではなく庚申塔である。尊像は観世音菩薩立像だが、脇には「奉庚申供養 南無大慈悲観世音菩薩」と書かれている。造立年は寛文9年(1669)10月と古いもので、まだ青面金剛像が尊像として定着する前のものである。場所については彫られていないので、牛込時代のものかどうかは分からないが、まず間違いないだろう。

場所  杉並区高円寺南2丁目39-1

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2021年3月24日 (水)

長龍寺の石仏(杉並区高円寺南)

高円寺南の通りに並ぶ寺は西から、西照寺(曹洞宗)、松応寺(曹洞宗)、宗泰院(曹洞宗)、長龍寺(曹洞宗)と四寺院共に曹洞宗の寺院である。このうち東の2寺(宗泰院、長龍寺)は市ヶ谷左内町の左内坂上にあったものを陸軍施設を建設する為にこの地に移転させられた。現在はそのまま自衛隊の市ヶ谷駐屯地(現防衛省)で軍施設のままである。

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山門前にあるのは2体の地蔵。大きい方の地蔵菩薩坐像は造立年不詳ながら左内町から移転したもの。左の小さな地蔵立像は分からない。座像の方には、「常燈明 本施主 舘藤助 永代毎月 油一升宛 伊勢屋 宗七郎 同万人講中」とある。永代毎月油一升を門前の明かりのために提供するとはずいぶんなお布施である。またこの山門は本堂と共に市ヶ谷から移設したもので、元文2年(1737)の建立で素晴らしいものである。

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本堂手前の左側には大きな堂宇があり、その中央には尊顔の摩滅した地蔵菩薩が祀られている。これは「豆腐地蔵」と呼ばれ、造立年は宝永5年(1708)8月、かつては山之手二十八番地蔵の第十一札所とされていた地蔵だという。これも当然ながら市ヶ谷左内町からの移転で、この地蔵は杉並区の指定文化財になっている。

豆腐地蔵については、「左内坂下の豆腐屋に、夕暮れ時になるとみすぼらしいお坊さんが豆腐を買いにやってきた。ところがもらったはずの銭が後で見ると木の葉になっている。豆腐屋がお上に訴え、寺社奉行の役人が張り込んでいると、そのお坊さんがやってきた。役人が声を掛けると逃げ出そうとしたので抜き打ちに太刀を浴びせた。するとお坊さんは消え、血の付いた小さな石の欠片が転がっていた。血の付いた欠片を辿ってみると長龍寺の門前の地蔵様に辿り着いた。よく見るとお地蔵様の右耳が欠け、頬には切り傷があり、役人をじっと見つめているのであった。役人は深く後悔して出家し、お地蔵様に豆腐を供えて丁重に供養を続けると、豆腐屋は大繁盛するようになり、地蔵はやがて商売繁盛の護り地蔵として信仰を集めるようになった。」という言い伝えがある。

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地蔵堂の前にあるのは、地蔵菩薩の半跏像と舟型地蔵立像。右の舟型地蔵は文字が摩滅していて判別が出来ず、造立年も分からない。左の地蔵半跏像は豆腐地蔵と同じ宝永5年(1708)8月の建立だが、江戸時代に壊れたのか、明和5年(1768)7月に再建とある。台石にはいろいろ書かれているが、「今歳明和五戌子天七月再建立供養日」とある。区の資料にはないがこれも左内町からのものであろう。

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墓所に回ると、質の良い聖観音像や如意輪観音像がならぶいささかセレブな無縁仏塔がある。上段の右にあるシンプルな角柱には「火災横死之霊」とあり、明和9年(1772)の造立である。どうやら目黒行人坂大円寺から出火して2万人近い犠牲者を出した江戸三大火災のひとつを供養したものである。

場所  杉並区高円寺2丁目31-2

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2021年3月23日 (火)

西照寺の石仏(杉並区高円寺南)

西照寺は高円寺駅の南にある曹洞宗寺院だが、門前の通りは甲州街道の養蚕試験場から分かれて馬橋庚申堂を通る村街道に面している。この辺りには明治時代以降多くの寺院が移転してきた地区である。西照寺がここに移転してきたのは明治44年(1911)のこと。それ以前も引越の多い寺院で、開山は天正2年(1574)に日比谷村(現千代田区内幸町)、村の漁師が海中から引き揚げた阿弥陀如来像が安置された御堂を一寺として始まった。

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その後徳川家康が江戸に入ると、寺の場所が武家屋敷とされたので、慶長17年(1612)芝金杉(現在の港区芝一丁目)に移った。ところが寛永20年(1643)に類焼に遭い寺地を御用地とされたため、寛文5年(1665)に芝白金台町(現港区白金二丁目)に移転して再興した。明治維新の際に倒幕派の放火で全焼したものの10年後に再興し、当時の寺には島崎藤村が下宿していたという。しかし都心の区画整理のために明治44年に現在地へ再び移転を余儀なくされた経緯で引越だらけの寺史である。

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寺の境内に祀られている「とろけ地蔵」も日比谷村時代に海中から拾い上げられたものであろうか。資料によると造立年は承応2年(1653)とあるので本尊の阿弥陀如来とは百年近く違うので分からないが、そういう風邸の舟型地蔵尊である。しかし芝金杉で類焼全焼した時期から芝白金台に再興するまでの間の造立なので、白金台に移る直前に拾われた可能性も無きにしも非ずかと。

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とろけ地蔵の前には何体かの石仏があるが概ね墓石。この舟型光背型の地蔵立像のみはそうではないようである。造立年は不詳で、「脳病平癒 地蔵尊」とあるので人々に拝まれていたのだろう。裏面には、「堆橋家先祖代々、伊藤家先祖代々、田中家先祖代々、杉浦家先祖代々、有縁無縁萬霊等、とありその横には数名の戒名があるが、墓石の感じではない。

場所  杉並区高円寺南2丁目29-3

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2021年3月22日 (月)

馬橋庚申堂(杉並区高円寺南)

高円寺南にある路傍の堂宇だが、江戸時代の切絵図を見ると高円寺村から桃園川を渡り阿佐ヶ谷村に入った辺り。江戸時代終わりから明治の初期の地図を見ると馬橋村になっている。この辺りは桃園川の支流が南から北へ向かって流れ、それを利用した天保新堀用水が通っていた。明治初期の地図では水源は南阿佐ヶ谷の成宗須賀神社の傍にあった湧水池で、今も須賀神社には弁天様がある。堂宇前の道は江戸時代からある村道で現在の阿佐ヶ谷駅前と東高円寺駅の間を結んでいた。

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ゴミネットがいささか見苦しいが堂宇は立派なものである。中には2基の庚申塔が祀られており、右端に石柱があって、「馬橋庚申堂 昭和48年6月建立」とある。勿論庚申塔はそれよりはるかに古い。庚申堂の近くを流れていた新堀用水は、田植えの時期になると馬橋、高円寺、中野辺りで水不足が生じるため、天保12年(1841)に善福寺川から引水して整備された用水路であった。

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左側の板碑型庚申塔は延宝元年(1673)11月の造立で、下部に三猿が彫られている。中央には「奉供養為庚申講二世安楽」とある。馬橋村 十郎左エ門他11名の願主。右側の駒型の庚申塔は享保元年(1716)10月のもの。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉造立供養庚申  馬橋村 道行17人」とある。向かいの民家の隅切り部分には庚申塔にまつわる遺跡の石柱が立っている。昭和中期の住所変更で馬橋の名前は消えてしまったが、この庚申堂をはじめ西側にある馬橋通りなどに残って息づいている。

場所  杉並区高円寺南3丁目27-1

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2021年3月21日 (日)

長仙寺の石仏(杉並区高円寺南)

高円寺の南側にはアーケードの高円寺パル商店街が賑わっている。その商店街の西側にはアーケード内からは全く見えないが、長仙寺という真言宗豊山派の寺院があり境内は駅前商店街だということを忘れてしまうほど静かである。寺伝によると、宝永元年(1704)に中野宝仙寺の僧侶によって開かれた寺。

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山門もなかなか見事だが、この寺は寛政8年(1796)に焼失、54年後に再建して再興したが、昭和10年(1935)に本堂を新たに建て直すと、10年後に空爆で焼失し、昭和44年(1969)にようやく再建した。その為山門も本堂もきれいである。山門をくぐると正面の高台に本堂があり、左には回廊庭園のような庭がある。その庭の周りに石仏が祀られていた。

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山門の近くにある2基の石仏は戦災で破壊されたのか痛々しいほどの修復跡がある。左は舟型光背型の地蔵菩薩立像で、元禄4年(1691)11月の造立。脇には「念佛供養也」とあることから念仏講中によるものだろう。右の舟型の庚申塔は青面金剛像と三猿が見られるが上部は欠損している。造立年も分からない。この2基は中野区大和町2-8より移転したものである。その辺りは戦前まで田んぼだったところで、妙正寺川に架かる宮下橋あたりにあったのだろう。

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庭の奥には舟型の如意輪観音座像がある。俗称で「歯神様」と呼ばれているもの。享保9年(1724)10月の造立で、「高円寺村観音講中 同行男女百人」と書かれている。近隣で歯神様と呼ばれたのは観音がほほを押さえているのを歯が痛いしぐさと解釈した庶民がいたことに基づくらしい。しかし如意輪観音は概ねこのポーズであるから、信仰とは関係ない人による安易な名付ではないかと思う。

場所  杉並区高円寺南3丁目58-4

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2021年3月20日 (土)

庚申通り商店街の庚申堂(杉並区高円寺北)

高円寺には何本もの商店街がある。北口にはあづま通り商店街、純情通り商店街、そして庚申通り商店街。純情通り商店街は昔は高円寺銀座商店街だったが、ねじめ正一の小説とTVドラマのお陰で商店街の名前も変えてしまった。その一本西にあるのが庚申通り商店街で、道幅は狭い。当然ながら庚申堂があるくらいだから、庚申通り商店街の方が古いと思われる。純情通り商店街は昭和に入ってからだろう。

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庚申堂は駅から300m余り北に進んだ角にある。江戸時代はこの辺りで東から来た道が出合う辻になっていたようだ。堂宇は立派なもので、覗いてみると相当な損傷の跡が痛々しい庚申塔が祀られている。造立年は正徳6年(1716)3月。青面金剛像は確認できるが、笠付角柱型の笠も胴もかなり破損と摩滅が酷い。文字は読めないが、区の資料によると年紀の他、「奉待庚申爲二世安楽  高円寺村講中十人」と書かれていたという。

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説明書き等によると、江戸時代から現在地にあったが、当初は南側に向かって立っていた。大正12年(1923)の関東大震災で庚申塔が横転してしまい、その後修復時に西向きに変えられた。その後昭和20年(1945)1月25日の大空襲で戦火に見舞われ、再び大きく破損してしまった。何とか現在の形まで修復されたのは昭和37年(1962)のことであり、その時に三猿塚も改修されたという。左の猿は不言猿が不見猿を抱いており、右側は不聞猿である。

場所  杉並区高円寺北2丁目38-12

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2021年3月19日 (金)

長泉院門前の庚申塔(目黒区中目黒)

武蔵野台地に出来た村々を結ぶ道は主に谷の川沿いと台地の尾根筋を通っている。台地への道は川と川の合流点を頂点にしてその間に出来た舌状地の尾根を通ることが多い。江戸時代以前の人々は地形に対して素直にかつ便利になるように道を作っている。金に任せて切通しを作ってなんていうのは豊臣秀吉と近現代の土木ぐらいである。

目黒川とその支流である羅漢寺川(目黒不動下を流れる)の間の舌状地を上るのが十七が坂、それを目黒川低地から上ってくるのが馬喰坂で、二つの道は尾根で交差し、西へ進むと祐天寺と中目黒の間に出る。この尾根筋の道は昔から庚申道と呼ばれた。下流から十七が坂上の庚申馬喰坂上庚申藤の庚申天祖神社の庚申と庚申を繋ぐように走っている。

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馬喰坂庚申と藤の庚申の間に長泉寺がある。創建は宝暦11年(1761)だがなぜか寺よりも併設の「現代彫刻美術館」の方が規模が大きく目立っている。初代館長渡辺泰裕氏の道楽なのだろうか、寺の境内の数倍の広さの野外展示場があり、Watanabe Collectionと銘打っている。その入口脇にあるのが、極めて素朴な駒型の庚申塔である。

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造立年は寛政元年(1789)11月で寺の創建から30年弱経った頃のもの。正面には「庚申供養塔」と彫られ、脇には「武州荏原郡中目黒村講中」と書かれている。この庚申塔は馬喰坂下の個人宅の庭から発掘されたもので、真ん中で色が違うのは戦災か何かで壊れたものを修復したのだろうか。広大には内海とあるがこれは奉納した檀家の名前と思われる。

場所  目黒区中目黒4丁目12-19

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2021年3月18日 (木)

西品川文政十一年道標(品川区西品川)

大井町駅の北西側一帯は大正時代から鉄道基地である。当初は国鉄大井工場、民営化後は当然ながらJR東日本大井工場だが、この基地は権現台という明治時代までは権現台という目黒川、戸越銀座の川、立会川の間の舌状地を開削して工場用地としたもの。その先の波打ち際は仙台坂下の南品川宿で、舌状地の台地から下りきると東海道という地形である。この辺り一帯が農地だったころは、南品川宿二日五日市入会と切絵図にあるので、南品川宿の資源としての共有地だったと考えられる。

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南北二本の舌状地のうち南側は権現台として南品川宿まで伸びていたが、北側の舌状地はこの基地の西の辺りで目黒川低地になって終わっていた。その舌状地を形成した南側の川は現在の戸越銀座で、現在の商店街はかつての川の流れである。この戸越銀座商店街の谷が平野に出る突端に妙光寺があり、その隣に国鉄東京南局大崎寮があった。その南側の道に今も道標が残されている。

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現在は建替えてスクエア大崎というマンションにはなっているがこれもJR東日本の寮として続いている。この道標の正面には「東ハ品川」、右面は「めくろ」、左面は「左 三ツ木 戸こへ」とある。この前の道を現在も三ツ木通りというが、かつての字名は南三木、三木鎗崎だった。少し西には今も区立三木小学校がある。槍崎というのは舌状地だったことの証の地名であろう。戸こへというのは戸越のことである。道標の造立年は文政11年(1828)3月で、松原氏の銘がある。

場所  品川区西品川1丁目6-12

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2021年3月17日 (水)

天保九年銘道標供養塔(品川区大井)

JR大井町駅の西口は昔から栄えた駅前である。昔と言っても明治時代以降で、繊維関係の工場が出来、後に日本光学や国鉄の大井工場が出来て工業地帯として発展した。しかし江戸時代から明治時代前期にかけては民家も少ないエリアで、立会川がのどかに流れる農村地帯だった。ただ大井町駅の西側、阪急ホテルの辺りは、鎌倉街道でもあった池上道と古代東海道だった品川道が分岐する交通の要衝でもあった。

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西口の裏路地にひっそりと残るこの天保九年銘の角柱型供養塔は池上道と稲毛道の分岐点にあったもの。造立年は天保9年(1838)2月である。古代東海道(稲毛道)は品川道とも言い、この辺りから光学道り~長原~千束とほぼ直線で進み中原街道に合流した。供養塔の側面には、「右 稲毛道 中延マテ十八町 千束マテ廿五町」、反対側は塀に接していて読めないが資料によると、「左 池上道 本門寺マテ一里」と刻まれている。

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正面には「南無妙法蓮華経」とあり、日蓮宗の色が濃い。施主名などを見ると、池上道を使い池上本門寺へ参詣する人が多く、その為北品川の講中と日本橋の講中が協力してこの道標を建てたようだ。江戸時代には海沿いの東海道が最も開けて賑わっていたので、この池上道や古代東海道である稲毛道は野原の寂しい道だったのだろう。

場所 品川区大井1丁目24-10

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2021年3月16日 (火)

来迎院前の石仏群(品川区大井)

来迎院は千年以上もの間、隣接する鹿島神社と共にこの地にある。創建は安和2年(969)、南品川の常行寺の僧が当地に鹿島神社とともに創建したのが始まり(ちなみに私事だが常行寺の傍の保育園へは昔、孫を毎週迎えに行き、境内を何度となく通路に使っていた)。江戸時代も鹿島神社の別当寺であった。この辺りは江戸時代は城軍の鷹場でもあり、徳川家光は来迎院で休憩していたという。

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現在本堂とは道路を挟んでこの石仏堂宇が並んでいるのには訳がある。昔は堂宇も本堂も一つの境内の中にあったが、戦後池上道から第一京浜を繋ぐ道路が本堂と堂宇の間に通されてしまったのである。しかしこの道路、現在でもかなりの交通量があり、本堂との往来はなかなか大変である。

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さて、安置されている石仏だが、右の堂宇には2基の舟型の地蔵立像がある。右の小さい方は明暦2年(1656)11月造立で、念仏講によるもの。地蔵の右側に弐拾一人という文字がかすかに読める。今はそうでもないが、かつては家裁により尊顔の周辺が黒くなっていたという。右の背の高い地蔵立像も同じ火災に遭った。こちらの造立年は万治2年(1659)霜月(11月)とあり、こちらは同行8人という文字がある。

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右の堂宇と中央の堂宇の間にあるのは、笠付角柱型の供養塔。高さは2m近くある。造立年は寛文7年(1667)2月。中央には「南無阿弥陀仏」と大きく書かれ、脇には「當座道場大井村念佛講中」「生諸佛家願主然誉念信」とある。大井村の念仏講中による供養塔である。

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中央の堂宇には庚申塔が2基と不動明王が1基祀られている。右の笠付角柱型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、延宝8年(1680)11月の造立。中央の不動明王像の基壇の前にある香炉が三猿なのは不可思議で、この香炉(もしかしたら手水鉢の可能性もあり)は昭和15年(1940)に増山きんという講中者が奉納したもので後付けである。この不動明王の基壇正面には「圓順法印繁昌 吉川元実娘清」、右面には「吉川氏繁昌 中澤氏繁昌」、左面には「大野氏繁昌」と書かれている。裏面には「不動尊 天女尊 御供料料田八畝廿七歩」とあり、宝暦9年(1758)8月の年紀がある。左の駒型庚申塔は延宝9年(1681)3月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、下部には「信心施主 高野敬白」とある。

左の堂宇には、真新しい聖観音像、不思議な組み合わせの六面燈籠、首の異なる聖観音などがあるが、時代のものはない。なお最初の全体写真の左端の堂宇の外に燈籠が見えるが、寛政8年(1796)に庚申講中によって建てられたものである。

場所  品川区大井6丁目15-22

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2021年3月15日 (月)

西光寺の石仏(品川区大井)

西光寺の前の道は古い道で鎌倉街道とされている。大井町の仙台屋敷(かつて仙台藩伊達家の下屋敷があった)の味噌蔵横から南へ、東海道と池上道の間を走る里の街道で、ヘルマン坂を下ると西へ進路を変え、立会川の暗渠最下流地点を過ぎ、その先東海道線を関道地下道と書かれた人道トンネルでくぐり、西光寺、光福寺、来迎院を経て鹿島神社で池上道に出る道筋。なぜこの軌道下のトンネルを関道地下道と呼ぶのかは調べたが分からない。

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関道地下道を出て間もなく西光寺の山門に到着する。静かな寺院である。口伝では天徳2年(958)の開創、寺伝では弘安9年(1286)の開山というから古い寺である。弘安と言えば弘安の役で知られ、元寇の2回目の戦いの時代である。その後寺は天台宗から浄土真宗へ改宗、昔はたまにこういう寺ごと宗派が変わることはあったようだ。江戸時代になると桜の名所で賑わったが、明治26年(1893)に境内を焼き尽くす火災で寺は灰になってしまった。

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本堂に向かって左手に回ると、無縁仏が集められた塚がある。その一番前にある石仏の中で、左端は地蔵菩薩の供養塔。造立年は明暦元年(1655)12月で舟型の地蔵立像、長い錫杖を右手に、宝珠を左手に持っている。延命地蔵とされているが、願主名は、おりつ、おこちや、およめなどの女性名が半分ほどある。男性名は概ね僧侶の名前のようだが、この関係性が分からない。

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中央右にあるのが笠付角柱型の庚申塔。造立年は寛文13年(1673)。尊像は青面金剛像ではなく阿弥陀如来である。阿弥陀の右には「奉供養庚申」とあり、左には「為二世安楽也  施主大井村」と彫られている。阿弥陀如来の庚申塔は極めて珍しい。

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前列右端は舟形光背型の念仏供養塔で、この尊像も阿弥陀如来である。「為念仏講中」とあるので、念仏講衆によるものだが、阿弥陀が大井村では流行していたのだろうか。造立年は寛文9年(1669)。下部には女性名と思われる、おいな、おむつ、おはななどの願主名が見られる。これら3基とももとは鎌倉道に面した倉田地蔵堂に安置されていたもの。倉田地蔵堂の場所が特定できないが、昭和中期まではこの辺りの池上道と東海道線の間の地域は大井倉田町という地名であった。

場所  品川区大井4丁目22-16

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2021年3月14日 (日)

来福寺の石仏(品川区東大井)

来福寺は江戸時代の大井村にある寺院で、古い海食崖の縁にある。旧東海道までは300mほどあるが、さらに昔はこの辺りが海岸線だったのだろう。それでここに段丘が出来て、そこに位置しているので、昔は品川の海が展望できたという。また境内は古くは北条氏家臣の梶原氏の館跡と言われ、この辺の経緯は犬坂のページに書いた。

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来福寺は延命桜と梶原松が有名らしく、江戸時代の切絵図にもその二つが書かれている。鎌倉時代の初期に境内に植えられたと伝えられるが、現在はない。江戸時代の切絵図にあったということは200年くらい前まではあったのかもしれない。しかし訪問時はコロナ対応に過敏になりすぎたのか、檀家以外を拒絶するような告知がいくつも掲示してあったので、急いで境内を見回ってすぐに出た。

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境内で目についたのは立派な笠付角柱型の庚申塔。造立年は貞享2年(1685)11月と古いものである。上部に日月、中央に青面金剛像、下部には二鶏と三猿が描かれている。脇には大井村の銘がある。下部には男女の願主名が彫られているが、相原姓が多い。

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墓所を除くと仏塔の上に地蔵菩薩坐像が鎮座している。この地蔵は「染色地蔵」と呼ばれたらしい。この無縁仏塔は、阿波出身の藍商人(昨今の大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢家が生業としている藍である)の墓石を集め組み上げた塔の上に置かれたので染色地蔵なのだろう。元々は御林附(おはやしづき)の来福寺地蔵堂にあったとされる。この辺りにあった幕府所有の林に地蔵堂があったのだろう。区の資料では地蔵の造立は不詳とあるが、台石には中央に「観月智照 青林智順」と墓名があり、宝暦10年(1760)、宝暦11年(1761)の年紀がある。よって江戸時代中期だろうか。

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実はこの境内ではないが来福寺の場外仏堂が大井町駅と三叉地蔵の間にあり、そこには庚申塔などが祀られている。また境内には他に古い道標もあるようだが、短い時間で探しきれず再訪を余儀なくされている。 コロナが落ち着いたら再訪してみようと思う。

場所  品川区東大井3丁目13-1

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2021年3月13日 (土)

海雲寺の石仏(品川区南品川)

品川寺の南にあるのが海雲寺。それほど広い寺院ではないが、江戸時代も今より少し広い程度だった。この海運寺は街道筋では一般的に荒神様と呼ばれていた。この荒神様が印象に残っているのは映画『幕末太陽傳』の一コマ。荒神様のお祭りに北品川の遊女たちが出かける様子である。私にとっては幕末の品川宿の様子がいろいろイメージできたありがたい映画である。

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荒神様という呼び名が主役だったことは、品川区の有形文化財でもある「千躰荒神堂奉納扁額」でもわかる。本堂左手前にある荒神堂は本堂に迫る大きさで、堂内には多くの扁額が掲げられている。千躰荒神王は火と水の神様として、また台所の神様として崇められてきた。天井には龍の図が、周りには纏図(まといず)が描かれ、沢山の扁額が飾られている。

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境内に戻ると、江戸時代から庶民になじまれてきた力石の前に二体の地蔵が祀られていた。左の地蔵は寛政12年(1800)4月の造立。文字を読むと元々は墓石のようだ。右面、正面に名前が刻まれている。右の地蔵は有名な地蔵で「平蔵地蔵」と呼ばれるもの。造立年は不詳だが、大正4年(1915)に再建されている。 この地蔵には由来がある。

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江戸時代の末、1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた。そのひとり平蔵はある日多額の金を拾ったが落とし主を探し、当然のこととして金を返し、お礼の小判を断った。そのことを知らされた仲間の者は金を山分けにすれば三人とも乞食をやめて暮らせたのにと腹を立てて、正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し、凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である、仙台屋敷に住む若い侍は平蔵の遺体を引き取り、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに石の地蔵尊を立てて年ごろに供養し続けた。

明治32年10月、京浜電車が開通することになったが、生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり、時の海雲寺住職が、菩薩のような功徳の君子平蔵を長く社会のもく木鐸(ぼくたく)たらしめんと願望し、当寺境内に移してもらい回向した。

平蔵の話と『幕末太陽傳』がほぼ同じ時代というのも興味深い。

場所  品川区南品川3丁目5-21

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2021年3月12日 (金)

品川寺の石仏(品川区南品川)

京急線青物横丁駅の傍にある品川寺、「ほんせんじ」と読む。寺伝によると弘法大師空海による開山(大同年間:806年~810年)とされるが、真偽は不明。しかし古いのは本当に古いらしく、江戸城を築いた太田道灌によって伽藍が建設され大円寺と称したようだ。一時荒廃するも江戸時代初期に再興され現在に至っている。

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石仏ではないがとても目立つので抜かすわけにはいかないのが銅造地蔵菩薩坐像。江戸六地蔵の第一番で、宝永5年(1708)の建立である。江戸六地蔵は5基が現存し、どれも3m近い大きさのもの。他の地蔵は笠を被っているが、品川寺の地蔵は被っていない。この大きさは丈六といい、言い伝えでは釈迦は常人の2~3倍の身長があったとされ、その為等身大のものを作るとこうなるということらしい。ウルトラマンじゃあるまいし。

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銅造地蔵と向かいうように1基の舟形光背型の地蔵菩薩像が立っている。墓石のようであるが、造立年は元禄9年(1696)6月と銅造の地蔵よりも古い。地蔵の頭上に桔梗紋があることから寺とゆかりの深い人物の墓石だろう。

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境内には名木である品川寺の大銀杏がそびえ、その手前には自然石の超大型の庚申塔と角柱型の庚申塔が並んでいる。この大銀杏は樹齢600年とも言われるから、再興された江戸時代初期にはもうそこそこの大木だったはずである。今も元気な銀杏で、手前の巨大な自然石庚申塔よりもさらに威厳を示している。

この自然石庚申塔は延宝8年(1680)10月の造立で、台石には中央に三猿、その両脇に二鶏が描かれている。左の角柱型庚申塔は寛政7年(1795)9月とかなり時代は後になる。日月の下に庚申塔と文字があり、その下に三猿が彫られている。年紀の下に三好氏とあるが、これは願主かどうか分からない。

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山門前にある宝篋印塔は伝説の動物である麒麟の上に立つ。そして品川寺の寺紋は桔梗紋。つい『麒麟がくる』を思い起こしてしまった。明智家の家紋は桔梗紋、そして麒麟が土台。麒麟は品川に来ているではないかと。もっとも桔梗紋は意外に多く、土岐氏や加藤清正、太田道灌が用いた。明智家は土岐の流れを汲むから偶然などではない。品川寺の桔梗紋は太田桔梗の流れを汲むものだろう。

場所  品川区南品川3丁目5-17

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2021年3月11日 (木)

本覚寺の庚申塔(品川区南品川)

本覚寺は旧南馬場駅周辺の寺院の中では最も旧東海道に近いロケーション。その位置関係は江戸時代から変わらない。この辺りは南品川宿で、旧東海道の東側はすぐ江戸湊の海岸線、宿場町が街道の周りに立ち並び、その裏手からが寺社地になっている。もっとも江戸時代の切絵図には本覚寺の海側に貴船明神旅所屋敷という神社らしきものがある。これは御旅所ともいい、神社の祭礼で休憩または宿泊する場所で、ここから東海道へ旅立つにあたっての祈祷などを行っていたのだろう。

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本覚寺の境内に入るなり、ずっと寺の犬に吠えられっぱなしだった。しかし寺の誰かが出てくるわけでもなく、ずっと吠えているのでいささか近所迷惑を感じて短時間で去るしかなかった。境内には1.3mもの高さの板碑型庚申塔がある。造立年は寛文8年(1668)10月と古いもの。青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、下部には中央に本覚寺の銘と6人の願主が刻まれている。

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庚申塔の斜め前には堂宇があり、珍しい地蔵の半跏像が祀られていた。前から確認しただけでは何の文字も見えない。石材の雰囲気からして庚申塔と変わらないくらいの古さではないかと思われた。すこし斜めに向いた顔の向きも珍しい。じっくり見たかったが、犬が吠え続けるのであきらめた。本覚寺は元亀3年(1572)に創建された天台宗の寺院である。

場所  品川区南品川1丁目10-11

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2021年3月10日 (水)

願行寺のしばり地蔵尊(品川区南品川)

願行寺は第一京浜(国道15号線)と京浜急行の間にある。境内の真ん中を京浜急行が通ったため、線路(高架)の東側が墓所、西側が境内になっている。明治37年(1904)に京浜急行が開通すると、寺の前には南馬場駅が開業する。この駅は経緯が面白い。当初は南馬場駅から目黒川をはさんだ北側に北馬場駅も開業、しかし昭和50年(1975)の高架化で下り線のみ北馬場・南馬場駅と統合。翌年、上り線も高架化されたため合わせて新馬場駅となり、ホームの端から延々と歩いて北口・南口に出る構造になってしまった。

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願行寺は室町時代末期の開山。寛正3年(1462)頃、ひとりの念仏聖(ひじり)が品川の海岸に草庵を結んで念仏を唱えていた。その後、文明年間1467~1487)末に観誉祐祟という僧がその草庵を現在地に移して創建したと伝えられる。高架の斜め下にあるのが願行寺の鐘楼で、そこにはなぜかおかしな地蔵が祀られている。

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「しばり地蔵尊」と呼ばれるこの地蔵尊は承応元年(1652)に造立された。大井村の土佐山(現在の鮫洲エリア)に下屋敷があった土佐高知藩24万石の松平土佐守山内家の奥方から代々帰依を受けた地蔵。『新編武蔵風土記』には、「里人しばり地蔵という。病を祈るもの縄にてしばれば験あり。」とあるらしい。いつの頃からか、御首をひとつそっと持ち帰り、毎日お祈りをして願が叶ったら御首をふたつにしてお返しするという風習が始まったため、後には地蔵の首が多数並んでいる。

場所  品川区南品川2丁目1-12

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2021年3月 9日 (火)

海蔵寺の石仏(品川区南品川)

新馬場駅南口前からゼームス坂に至る道の曲がり角近くにあるのが海蔵寺。時宗の寺院である。時宗は鎌倉時代に興された浄土宗系の宗派で一般にはあまり馴染みがないと思う。海蔵寺の創建は永仁6年(1298)と古い。江戸時代は別名を品川の投込み寺とも呼ばれていた。鈴ヶ森刑場で刑死した人々を中心に数多くの無縁仏を供養してきたための名前である。

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境内に入り、右手の墓所に向かうと無縁仏の塚がある。この塚は頭痛塚とも呼ばれ、この塚にお参りすると頭痛が治ると江戸時代から信じられてきた。この塚については由来も分かっている。元禄4年(1691)から明和2年(1765)の間だけでも7万人以上の無縁仏を供養してきた海蔵寺の土地の有力者たちが集まり、宝永5年(1708)7月にここに墳墓塚を築き、その上に観音像を安置したという。墓碑によると、「元禄時代非人溜・髑髏塚:当時牢屋で獄死した多くの罪人を埋葬、宝永5年(1708)その髑髏を集め墳墓を築く」、「江戸時代首塚:当時鈴ヶ森の刑場で処刑された人の首を埋葬」、「品川宿遊郭娼妓之霊」、「品川京浜電鉄轢死者之霊」、「品川海岸溺死者之霊」、「品川行路病横死者之霊」、「関東大震災横死者之霊」とあり、多くの貧しい人々を供養してきた歴史を感じる。

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資料の説明によると墳墓の上に観音を祀ったとあるが、現在上に在るのはおそらく地蔵菩薩(座像)である。その手前にある一番大きな舟型光背型の地蔵菩薩立像は墓石ではなく、三界万霊有無縁▢とあり、造立は天和3年(1683)8月ということから、最初に置かれた石仏のひとつだろう。観音ということであればその左隣にある舟型の聖観音菩薩像、これは墓石だが寛文13年(1673)6月のもので、これも最初からここに祀られていたものだと思われる。

静かな寺院だが、華やかな品川宿の陰に散っていった何万人もの無名の人々の生きた証を感じられる深い地でもあった。

場所  品川区南品川4丁目4-2

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2021年3月 8日 (月)

ゼームス坂下の馬頭観音(品川区南品川)

大井町駅の東側から緩やかに下り新馬場駅付近に至るゼームス坂。比較的まっすぐでバスも通る広い道だが、実は江戸時代からある古い道。坂下で東に折れて第一京浜(国道15号)を横切り旧東海道に出る道筋は江戸時代から変わっていない。坂下の新馬場駅周辺にはお寺が多いがこれも江戸時代から同じ。

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この坂下の数坪の土地に立派な堂宇があり馬頭観音が祀られている。造立年は大正2年(1913)2月。堂宇内の左隅には「七代前馬頭観世音」と彫られた石塔があるが、さすがに七代は変。この石柱の意味は分からなかった。この馬頭観音は昔、武州上岡妙安寺から分霊したと伝えられるが、これは目黒銀座馬頭観音と同じ出所である。関係性は分からないが、同じ東松山の寺から複数分霊されているのは興味深い。

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この馬頭観音は元からここに在ったのではなく、旧池上道から移されたという。旧池上道というのは、青物横丁駅前から東海道と分かれて仙台坂を上り、大井町駅の南を経て大森を経て神奈川県に至る東海道以前の中世からの旧旧東海道で、現在は池上通りと呼ばれ、江戸時代以前は平間街道とも呼ばれた。池上道のどのあたりにあったのかは分からない。距離的には仙台坂辺りだろうと思う。ただ、気になるのは明治時代前期の地図を見るとこの場所に石碑石塔があったことが記されている。しかし明治末期の地図ではここは海蔵寺の境内になっている。明治時代以前にあったものは一体何だろうか。

場所  品川区南品川4丁目4-1

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2021年3月 7日 (日)

日本ペイント構内の道標(品川区南品川)

日本ペイントという会社は塗料メーカーの大手。ニッペという呼び名で親しまれているが、塗料メーカーのとしては第1位で、2位の関西ペイントの倍、3位のエスケー化研の5倍と、断トツの存在だというのを初めて知った。南品川にはこのニッペの本社と工場がある。

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工場の入口を入った所の植込みの中に、「享保二十一年銘道標」がある。反対側にある守衛室に挨拶をしてから道標を拝見する。造立年は享保21年(1736)3月で角柱型。正面に刻まれているのは「かう志んこう中」、これは庚申講中という意味である。向かって右面には「めくろ道(目黒道)」、左面には「ひ文や道(碑文谷道)」とあり、裏面には年紀が記されている。このさりげない道標は品川区の指定史跡になっている。

東海道から南馬場通りを経て目黒に至る道が、碑文谷道と分かれる地点に建てられたというが、その場所はほぼ現在地である。造立したのは南品川の庚申講中である。

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この門から西へ進むと、明治時代に出来た煉瓦塀の建物がきれいに残されていて、ここだけが昔のままという雰囲気だが、これは日本ペイント明治記念館として博物館になっている。これをさらに西に進むと工場敷地の西端になり、その先が新橋横浜間の汽車が走った時代からのガード。このガードの名前が「碑文谷ガード」という。なぜ品川に碑文谷?と見た人は疑問に思うだろうが、工場の辺りで目黒への道と碑文谷への道が分岐しており、こちらは碑文谷道だったからである。ちなみに昔はガードではなく踏切で「碑文谷踏切」と呼ばれ悲しい事故もあったらしい。

この辺りは江戸時代の切絵図には三竹耕地と書かれている。この北にある、山手通りから第一三共品川工場に渡る人道橋の名前が「三嶽橋」だった。三竹、三岳、三嶽などの名が史料には見られるが、江戸時代この辺りは筍の産地で、農民たちが御嶽権現を祀った神社があった。それが起源の地名である。

場所  品川区南品川4丁目1-15

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2021年3月 6日 (土)

清徳寺の石仏(品川区北品川)

清徳寺は目立たない寺院だが、創建は元徳2年(1332)とかなり古い臨済宗の寺。寛永14年(1637)に東海寺の創建に際して、江戸幕府の命で周辺にあった寺院は立ち退きを強いられたが、清徳寺は沢庵和尚の宿舎だったことから移転をしなくてもいいことになった特別な寺院だった。

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特に石仏が並んでいるわけではなく、禅宗の寺院らしく質素な造りである。臨済宗は数多くの宗派があるがここは鎌倉の建長寺を本山としている。この寺院できになったのが本堂に向かって右手の堂宇に祀られている石仏。

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摩滅と風化が激しくて元の形はよく分からないが、品川区の資料によると、年代不詳、舟形らしい像形で、青面金剛像である可能性が高いという。気になって下の方を見てみたが三猿はない。しかし主尊の足元の造形は青面金剛っぽい。その下のふくらみも邪鬼が摩滅した跡という感じがしなくもない。しかし断定するには傷みすぎている。首の下も折れて修復した跡が残っている。

場所  品川区北品川3丁目7-22

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2021年3月 5日 (金)

善福寺の石仏(品川区北品川)

都内には善福寺という名の名刹が複数ある。地名にもなっている杉並区の善福寺、麻布にある初代米国公使館のあった善福寺の二寺が知られているが、かつては江戸の南の玄関口品川宿にも善福寺がある。現在も当時と同じ道幅で旧東海道があり、京急線の八ツ山の踏切を越えると、ファミリーマートのビルの入口にさりげなく「土蔵相模跡」と立て札がある。土蔵相模は高杉晋作や伊藤博文らの集合場所であり、遊郭であり、明治維新直前の日本の革命震源地だった。

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土蔵相模の100m程先にあるのが品川宿の善福寺である。鎌倉時代の永仁2年(1294)の創建で、正直かなりくたびれた感じの本堂だが軒下の壁には伊豆長八の見事な鰻絵がある。そこから左手の墓地に入ると、入口近くには3基の石仏が並んでいた。一番右にあるのが、元禄4年(1691)3月造立の舟型光背型の地蔵菩薩像。左側には年紀があり、右側に文字があったと思われる部分は削られていた。上部には日輪月輪があるのでもしかしたら庚申講中による庚申地蔵だったではないかと推測した。左下には、「北品川 犬塚久乃丞」という銘がある。

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左隣も舟形光背型の地蔵菩薩像。年紀は元禄5年(1692)9月。「善福寺第六代中興開山 二寮其阿良傳和尚」と大きく書かれているので、中興した住職を重ねて建てられたものだろう。

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その隣にあるのは念仏供養塔。笠付角柱型のこの供養塔は、万治元年(1658)9月の造立で、品川区の指定文化財になっている。中央には「南無阿弥陀仏」その左右には「念佛講為逆修菩提也」「善福寺住持想阿」とある。江戸時代の人々が幸せな生活を送ることが出来るようになり、生きているうちに死後の幸せまでも欲しがるようになっての逆修ではないかと思う。これらの石仏や本堂を眺めていると、江戸時代の賑わう東海道品川宿の様子が見えてくるようだ。

場所  品川区北品川1丁目28-9

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2021年3月 4日 (木)

与楽寺の石仏(北区田端)

与楽寺は田端でも大きい寺院。創建年代等は不詳。弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりで、慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領し京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていた。

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本尊の地蔵菩薩は秘仏となっているが、伝承がある。ある夜盗賊が与楽寺に押し入ろうとしたが、どこからともなく多数の僧侶が出て来て、盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返した。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになった。これにより本尊の地蔵菩薩は、賊除地蔵と呼ばれるようなった。

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この与楽寺には様々な石仏がある。まずは入口脇に並ぶ供養塔。手前の2基は与楽寺の袖看板のような石碑で、3基目は墓石、4基目は秩父坂東西国百箇所巡礼塔で上部には聖観音像が陽刻され、「天下泰平 日月和順」と書かれている。下部には「右 江戸駒込道」「左 王子道灌山道」とある。向かって右側面に年紀があったようだが、摩滅して読めない。その隣は敷石供養塔で安永5年(1776)霜月(11月)のものである。

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本堂に向かって左手に阿弥陀堂がある。普通の寺院ならば本堂と呼んでもいいほどの立派な建物で、江戸六阿弥陀の第四番札所となっている。阿弥陀堂の前に対の燈籠があるのだが、向かって左側の燈籠の竿部には正面と側面に各一猿、計三猿が陽刻されている。しかし右側の燈籠には猿はいない。左の燈籠だけ庚申講中による造立なのだろう。造立年は寛文9年(1669)2月、正面には「庚申供養為菩提」と書かれている。

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阿弥陀堂脇を抜けて墓所に向かうと不揃いな六地蔵が並んでいる。左から2,3,4番目が丸彫地蔵、1,5,6番目が舟型光背型の地蔵である。造立年が分かるものは2基だけ。一番左の舟型地蔵は元禄13年(1700)の造立。「六地蔵四番目武刕江戸講中」とあるが、江戸講中というのはあまりに大げさではないだろうか。左から二番目の丸彫地蔵の台石には元文4年1739)7月の年紀が記されている。右から二番目の舟型地蔵にも江戸講中という記述があるが、多くは江戸六阿弥陀の四番寺であることを彫っているケースが多いようだ。

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墓所の奥にある無縁仏の一角に板碑型の庚申塔がコンクリートで固められていた。造立年は万治元年(1658)9月、前面上部には「庚申」とだけ彫ってある。下部には願主名が10名弱記されているが、場所などの情報はない。時代が古いものであり、文字も読みにくくなっている。

場所  北区田端1丁目25-1

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2021年3月 3日 (水)

田端庚申塔(北区田端)

田端八幡神社・赤紙仁王尊から100m余り南に都道を下り、滝野川信用金庫の先の路地を東に入るとすぐにビルの脇にある堂宇を見つけることが出来る。

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鉄筋コンクリートのビルの間にある堂宇は何となくうれしい。 古いものを捨ててしまう傾向の強い戦後から平成にかけての国民の風潮が多くの歴史あるものを取り壊してきたからである。堂宇には1基の庚申塔が祀られている。戦災を受けたらしく、欠損、摩滅、破損で苦難の時代を経てきたことがわかる。駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、三猿の内2猿は欠損している。造立年は寛政12年(1800)である。

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向かって左側には「北上尾久道」とあり、右側には「日くらし▢道  千住道」とある。日くらしは日暮里の意味か。北区の資料によると、戦時中講中の多くが疎開するのにあたり、残った西村家、近藤家、浅賀家の3家に庚申塔を託したと伝えられる。それを今でもちゃんと守っているのである。

場所  北区田端1丁目13-10

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2021年3月 2日 (火)

田端八幡神社の庚申塔(北区田端)

東覚寺の隣にある田端八幡神社は昔から田端村の鎮守として親しまれてきた。鎌倉時代が始まろうとする文治5年(1189)に源頼朝が奥州征伐の帰路に立寄り、鶴岡八幡宮を勧請して創建したと伝えられているが真偽は分からない。江戸時代はなぜか庶民の本殿へのお参りはできず、門が閉ざされており、神社の入口にあった赤紙仁王尊の場所で人々は参拝していたという。現在はもちろん本殿迄行ける。

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真っ直ぐな参道を進み、鳥居をくぐる手前に石橋が埋められている。これはかつて100m余り南を流れていた谷田川に架かっていた谷田橋を、昭和初期に暗渠化した際に記念保存として参道に埋めたものである。本堂は数m高い台地上にあり、まっすぐな男坂と右側を迂回する女坂がある。

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女坂の下から数mのところに三猿を陽刻した庚申塔の台座があった。そしてそこから1m余り離れた塀沿いに横倒しになっていたのが上部である。

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気になって2016年の時に女坂を撮った写真を確認するとやはり三猿の基壇しか映っていない。相当前からこのままの状態だったようだ。少なくとも5年間は変わっていない。欠損はおそらく空襲によるものだろう。読める範囲と資料から、造立年は元禄9年(1696)9月。「奉造立庚申供養石燈籠」とあるので、この石は竿石だったと思われる。何とかならないものだろうか。

場所  北区田端2丁目7-2

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2021年3月 1日 (月)

東覚寺の赤紙仁王と庚申塔(北区田端)

田端にある東覚寺は赤紙仁王尊で有名である。隣接する田端八幡神社の別当寺で、延徳3年(1491)に神田筋違に創建した。現在の昌平橋と万世橋の中間にあった江戸城筋違見附跡あたりである。その後根岸に移転し、慶長年間(1596~1615)に今の場所に移った。門前には赤紙でベタベタになった阿像・吽像(うんぞう)の石仏仁王像が目立つ。

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願い事が満願すると、信者は草鞋を奉納する。数年前に赤紙がいったん取られて間もない時に訪問して撮った写真があった。赤紙仁王は江戸時代に疫病が流行した時、宗海上人が願主となって建立した。造立年は寛永18年(1641)8月とある。赤紙は魔除けが目的で、自分の身体の患部にと同じ場所に貼って病の治癒を願ったものである。

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赤紙のない仁王像は迫力があるが何となく物足りないのは何故だろうか。しかしこの赤紙を貼り草鞋を奉納するという風習は、実は明治時代になってからというのが真実らしい。そういった歴史の勘違いは多い。苗字に関する法論争も歴史を見るとごく最近の風習を守ろうとする一部の人々がいてなかなか進まないが、江戸時代はもっといろんなことが自由であった。明治政府以降に政府は国民を縛り始めたその歴史だと思う。

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境内には駒型の庚申塔が祀られていた。造立年は享保3年(1718)で月が分からない。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、庚申講中全盛期のものである。東覚寺の東には東覚寺坂という坂がある。坂のページで解説しているのでお読みいただけると幸いである。実は赤紙仁王尊は廃仏毀釈(神仏分離)の前は田端八幡神社の入口にあった。近代政治が人々の拠り所となる信仰を迫害してきた歴史の一コマである。

場所  北区田端2丁目7-3

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