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2021年3月13日 (土)

海雲寺の石仏(品川区南品川)

品川寺の南にあるのが海雲寺。それほど広い寺院ではないが、江戸時代も今より少し広い程度だった。この海運寺は街道筋では一般的に荒神様と呼ばれていた。この荒神様が印象に残っているのは映画『幕末太陽傳』の一コマ。荒神様のお祭りに北品川の遊女たちが出かける様子である。私にとっては幕末の品川宿の様子がいろいろイメージできたありがたい映画である。

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荒神様という呼び名が主役だったことは、品川区の有形文化財でもある「千躰荒神堂奉納扁額」でもわかる。本堂左手前にある荒神堂は本堂に迫る大きさで、堂内には多くの扁額が掲げられている。千躰荒神王は火と水の神様として、また台所の神様として崇められてきた。天井には龍の図が、周りには纏図(まといず)が描かれ、沢山の扁額が飾られている。

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境内に戻ると、江戸時代から庶民になじまれてきた力石の前に二体の地蔵が祀られていた。左の地蔵は寛政12年(1800)4月の造立。文字を読むと元々は墓石のようだ。右面、正面に名前が刻まれている。右の地蔵は有名な地蔵で「平蔵地蔵」と呼ばれるもの。造立年は不詳だが、大正4年(1915)に再建されている。 この地蔵には由来がある。

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江戸時代の末、1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた。そのひとり平蔵はある日多額の金を拾ったが落とし主を探し、当然のこととして金を返し、お礼の小判を断った。そのことを知らされた仲間の者は金を山分けにすれば三人とも乞食をやめて暮らせたのにと腹を立てて、正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し、凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である、仙台屋敷に住む若い侍は平蔵の遺体を引き取り、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに石の地蔵尊を立てて年ごろに供養し続けた。

明治32年10月、京浜電車が開通することになったが、生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり、時の海雲寺住職が、菩薩のような功徳の君子平蔵を長く社会のもく木鐸(ぼくたく)たらしめんと願望し、当寺境内に移してもらい回向した。

平蔵の話と『幕末太陽傳』がほぼ同じ時代というのも興味深い。

場所  品川区南品川3丁目5-21

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