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2021年4月30日 (金)

上赤塚観音堂の石仏(板橋区赤塚)

赤塚城址の南西300m程の所にある墓所。曹洞宗松月院の境外仏堂があり上赤塚観音堂という。創建は寛文年間(1661~1673)と言われ江戸時代の初期である。明治時代の地図を見ると寺のしるしではなく墓地のマークが付いている。この辺りは石成という小字で、風土記稿成増村の項に「元赤塚村の内なり、後分村して石成村といへり」とあるらしい。西にある清涼寺の山号が石成山であることから中世のこのあたりの地名だったようだ。

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観音堂前には古い庚申塔や石仏が並んでいる。上の写真の右手前にある水鉢は浸食で時代を感じさせる様子になっており、造立年も延宝7年(1679)6月、「奉寄進観音堂 上赤塚村」と書かれている。奥にならぶ6基の石仏の内、塀を背にしている3基は尊像が異なるもののどれも庚申塔である。

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右から、庚申塔としては極めて珍しい舟型光背型の薬師如来像。造立は延宝4年(1676)2月と古く、観音堂創建直後のものである。「奉造石薬師如来像供養庚申爲二世安楽者也」とある。二番目のトンガリ烏帽子っぽいのは聖観音菩薩像の舟型光背型庚申塔。造立年は寛文12年(1672)2月。「奉造立庚申供養観世音菩薩」とあり、「武州豊嶋郡赤塚村 尊像為現當二世安楽者也」と左側に書かれている。

右から三番目は舟型光背型の阿弥陀如来像。造立年は延宝8年(1680)11月で、「奉造立庚申爲二世安楽也」とある。下部には願主名と蓮座。石成地区には下田姓が多いが、奥積、谷、松田、並木などの名前も他の石仏の願主名にはあり、比較的多様。向きの違う左の舟型光背型の地蔵菩薩像は庚申塔ではなく、念仏供養とあるので念仏講によるものだろうか。造立年は寛文11年(1671)2月。

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ここの石仏はどれも江戸時代初期の古いもので感心するが、一番古いのは入口脇にある板碑型の庚申塔である。下部には三猿が陽刻されている。中央には「奉庚申供養現當二世安穏處」と書かれており、下部には星野五郎佐衛門の名前がある。造立年は寛文7年(1667)11月。石成には古くから人々の営みがあったのだろう。赤塚城址一帯は遺跡の宝庫で縄文、弥生、古墳時代から中世の城跡迄が埋没しているので、その歴史から見れば江戸時代初期もごく最近のことに見えてしまう。

場所  板橋区赤塚5丁目26-23

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2021年4月29日 (木)

上赤塚氷川神社の庚申塔(板橋区赤塚)

板橋区赤塚にある氷川神社。長い参道にはケヤキなどの大木の並木があり、多数が保存樹木に指定されている。参道並木全体としても板橋区の天然記念物とされている。一の鳥居をくぐり、左に庚申塔を見てそのまままっすぐに進むと赤い二の鳥居、そのさらにずっと先の富士塚の奥に本殿がある。その間はおよそ300mほどはあるだろう。

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二の鳥居の近くには大きな富士塚がある。江戸時代末期に作られた富士塚には明治や慶應の年号の登山碑がならぶ。概ね三十三度の富士参りをした記念に造立したもののようだ。当時はまだ富士吉田あたりの御師が富士登山のプロモーションを盛んにおこなっていたのだろう。

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いつもは下から見上げる富士講富士の絵が多いのだが、今回は山頂から浅間神社の鳥居を見下ろしてみた。当時の女子供は富士には登ることが許されなかったので、こういう富士講の富士に登っていろいろな願を掛けていたに違いない。高さは3mとされているが、実感はもっと高い。実はこの富士塚はもともとあった古墳を利用して富士塚に仕立て上げられたらしいが諸説ある。

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さて、一の鳥居迄もどるとそこには宮前不動尊があり、その手前に形の異なる3基の庚申塔が並んでいる。左から、駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。明和4年(1767)2月の造立で、「武刕豊嶋郡上赤塚村 講中拾六人」の銘がある。台石には「右 ふき上道 左 屋くし道」とあり、吹上観音への道と新井薬師への道を示していると思われる。

中央の自然石の庚申塔は正面に大きく「庚申塔」と書かれ、台石には三猿が陽刻されている。上部には日月が刻まれており、造立年は万延元年(1860)9月とある。そして一番右の円柱型の庚申塔、この塔型は極めて珍しい。造立年は寛政12年(1800)3月で、「青面金剛尊」と正面に彫られている。台石には、「武州豊嶋郡上赤塚村 願主 川上権右衛門 講中拾五人」とある。

場所  板橋区赤塚4丁目16-1

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2021年4月28日 (水)

久保家墓所の石仏(板橋区成増)

青蓮寺の西、菅原神社に向かって進むと崖線上の突き当りに小さな墓所がある。地元の名家である久保家の墓所。失礼ながらお邪魔させていただいた。墓所の入口には貴重な石仏があるからである。

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黒御影石の墓碑には、「この墓地は眞堂の墓と呼び久保家一族の墓である。」と記されている。その横には3基の石仏石塔があるが、左の笠付角柱型の石塔は供養塔のようだ。「贈 権大僧都法印辨榮 青蓮寺拾四世教山」とあり、造立年は享保17年(1732)3月と記されている。右の背の高いのは丸彫の地蔵菩薩像で享保11年1726)2月の造立。「豊嶋郡上赤塚村 念仏浄中廿四人」とある。

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中央にある舟型光背型の石仏は聖観音菩薩立像である。造立年は元禄5年1692)2月。聖観音の脇には「奉待庚申供養二世安楽成」「武刕豊嶋郡上赤塚村」とある。下部には施主願主名が並び、台石には三猿が陽刻されている。この小さな墓地に元禄時代から30年余りの間の石仏石塔が残されているのも成増赤塚周辺の良さである。

場所  板橋区成増4丁目31-2

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2021年4月27日 (火)

青蓮寺の石仏(板橋区成増)

成増村の鎮守菅原神社の別当寺である青蓮寺は真言宗の寺院。もともとは徳丸ヶ原の弁天塚(現在の新高島平駅)の辺りで創建され、水害に遭ってこの地に移転してきたと伝えられるが、それが江戸時代中期以前ではあるがいつの時代のことなのかは分からない。青蓮寺の北東側にはおなかや坂という坂があり、坂下には現在は三園通りが通っているが昔は徳丸久保という谷の細流があったと資料にはあるが、徳丸久保がどの谷筋なのかはどうも確定できない。とはいえおなかや坂を上る時に小高い青蓮寺の境内に見える枝垂桜は美しい。

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おなかや坂の坂上に青蓮寺の入口がある。この上にも枝垂桜が咲いていた。階段を上って山門をくぐると右手に本堂が立っている。本堂の手前には小さな堂宇があって、将軍地蔵が祀られていた。

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将軍地蔵はあまり多くは見られない。鎌倉後期に起こった地蔵信仰で、悪業煩悩にかつ地蔵の意。そこから選奨をもたらすとして中世武士の信仰を受けていた。この将軍地蔵の造立年は天保4年(1833)9月で時代的には新しいもの。左面には「上赤塚中」とあるらしい。以前は愛宕山(現在の成増駅南口の成増3丁目33番)にあったが、昭和32年(1957)に青蓮寺に移された。

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山門を入ってすぐのところに如意輪観音と一緒に並んでいるのは舟形光背型の阿弥陀如来像の庚申塔。造立年は寛文10年(1670)霜月(11月)で、「奉造立石仏阿弥陀如来像」「庚申供養二世安樂」とある。青蓮寺の銘も刻まれているので、本寺由来のもの。

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その向かいにあるのは大きな舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は分からない。なかなか素晴らしい像形でこれだけのものはやはり江戸時代の作品だろう。

場所  板橋区成増4丁目36-2

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2021年4月26日 (月)

峽下地蔵堂(板橋区成増)

テレビ朝日の深夜番組に『全力坂』というのがある。なかなかいい番組だが何せ正味30秒~45秒というあまりに短い尺が見逃しの原因になる。9割がCMでまるでCMの1本のように本編が挟まるのである。この番組でしばしば「成増四丁目の坂」という名で若い娘が走る坂道がこの地蔵堂の前の坂道である。

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坂を駆け上ると右上に地蔵堂、左には果樹畑が広がる素晴らしいロケーションが取り上げられる理由なのだろう。この坂道を形成したのは小井戸川という小さな流れ。地蔵堂の裏手には太郎坂という名前のある坂があるが住宅地に取り囲まれていて、こっちの坂の方が何倍も残したい坂道である。

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境内の石仏は殆どが墓石だが、1基だけそうではない石像がある。写真の祖師像である。「本光法師」とあり、造立年は文政5年(1822)1月。この石仏は「峽下(はけ)の地蔵」と呼ばれており、この地蔵堂を開いた祖師を描いていると言われる。峽下というのは東京近辺で河岸段丘のことを言う。この祖師像は江戸時代から明治、大正と近隣の信仰を集めて、毎月15日には縁日も並んだらしいが、近年はそれもなくなったという。

場所  板橋区成増4丁目24-12

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2021年4月25日 (日)

スカウトの森の庚申塔(板橋区成増)

日本ボーイスカウト東京連盟城北地区板橋第5団のあるスカウトの森という小さな丘陵緑地がある。丘陵下の南北の道はもともと小井戸川という小さな沢沿いだった。源頭は川名と同じ小井戸坂のやや南で、その傍には昭和45年(1970)の交番襲撃事件で、日本共産党の過激派3人が警官の銃を奪う目的で交番を襲ったのを記憶されている人もいるかもしれない。ボーイスカウトとは天と地の差の人間性が同じ地域にあったことにいささか驚く。

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ボーイスカウトは若者が社会で役立つための精神と肉体の使い方を教えるスカウティングを実践する団体で、野外活動を主とする。アメリカでは1900年代初頭から始まり、日本では20年後くらいに入ってきた。ただ日本人のスカウト参加者は少なく、私の時代でもクラスに一人いるかいないかくらいだった。10才迄はカブスカウト、その上がボーイスカウトで、私は若い頃「下部スカウト」だと勘違いしていた。

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余談はこれくらいにして庚申塔はこのスカウトの森の杣道の出入り口脇にある。角柱型の文字塔で、正面には大きく「庚申塔」と書かれている。その脇には「天下泰平 国土安穏」とあり、左面には文化2年(1805)3月の年紀がある。右面には「右 しらこみち 成増村講中」と書かれている。この道筋は南北は沢筋なのでもともと道はなく、東西に道があったのではないだろうか。ここを西に進むと川越街道の新田宿に出てすぐに白子になる。

場所  板橋区成増4丁目13-20

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2021年4月24日 (土)

小松原阿弥陀堂の石仏(板橋区成増)

小松原阿弥陀堂は新座郡白子村(現在の埼玉県和光真白子2丁目)にある地福寺の境外仏堂と墓所。地福寺は東武東上線・有楽町線から見える線路脇の寺院である。開山は平安時代と古く、その境外仏堂である阿弥陀堂は鎌倉時代後期の1300年代初め頃に作られたと推定される。

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仏堂の前には三界万霊の無縁仏塔があり、その頂上には造立年不詳の地蔵菩薩立像が立っている。ほぼすべてが墓石のようだが、青面中央最下段の石仏だけは庚申講中によるもの。コンクリートで固められているので側面に何が書かれているのかは分からない。

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おそらく元は舟型光背型の地蔵菩薩立像だったのだろう。上部は大きく欠損しているが、資料とも合わせて読み取ると、「奉造立庚申供養處 武刕豊嶋郡赤塚成増村  同行十三人」とあるようだ。造立年は元禄15年(1702)11月とある。白子川の対岸にある地福寺がどうして成増村のこの台地上に境外仏堂を持つのだろうか。推測するに、台地の端の成増村前新田の人々は日々白子川沿いの田んぼで農耕を行っていた。その対岸には平安時代から地福寺があった。こちら側の里の寺である青蓮寺は開創が江戸時代の元禄期で時代はずっと後である。しかも青蓮寺は当初現在の新高島平駅前あたりにあり、台地上に来たのはずっと後のこと。そういう経緯でこの地域は地福寺の檀家地区だったと考えられる。

場所  板橋区成増4丁目7-20

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2021年4月23日 (金)

阿弥陀堂前の道標庚申(板橋区成増)

成増台地の北西の端、小さな谷地形が多く、台地の下は白子川流域低地の広い田んぼだったのは昭和の中頃まで。それ以降は団地が立ったりして人口が急増した現在の成増4丁目だが台地上には屋敷神を持つ古い家も多い。この辺りは戦前は前新田と呼ばれた地域で、西の成増菅原神社が村の鎮守、東の青蓮寺がその別当寺となっていた。

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この辻は江戸時代からある古い道同士の交差点であったから、ここに庚申塔と道標があるのは自然なこと。右の駒型の庚申塔は寛政9年(1979)4月の造立で、日月は線刻、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。向かって右面には年紀と「東 下赤塚道  南 江戸道 講中十八人」と書かれている。反対の側には「西 白子道  北 吹上道  願主 成増村 田中新右衛門 同 与兵衛」とある。

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横に立つ角柱は後年建てられたもので、正面には「大典紀念 右 赤塚ヲ至赤塚役場通  前 停車場道  左 白子村吹上観音道」、右には「大正十四年十一月」、左には「帝國在郷軍人會赤塚村分會」とある。吹上観音は現在の和光市役所のとなりにある古い東明寺という寺で、もともとは行基が開創した吹上観音堂から始まったもので広域から信者が集まっていた。

場所  板橋区成増4丁目17-5

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2021年4月22日 (木)

庚申塔 成丘地蔵(板橋区成増)

成増駅の北側、百々女木坂を上りきった先の辻に庚申塔がある。百々女木坂の道筋は江戸時代から変わっていない。やや下半分で直線化された様子はあるが半分以上は昔の道筋のままである。坂下には百々女木川を渡る橋があり、そこから成増台地の上に駆けのぼる。百々女木川は北西に流下し都県境で新河岸川支流白子川に合流する。現在は全域暗渠である。

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坂上の交差点に頑丈に守られた庚申塔があった。舟型光背型の聖観音菩薩立像だが台石には三猿があり、上部がわずかに見えている。造立年は元禄4年(1691)11月で、「武州豊嶋郡上赤塚成増  奉待供養庚申二世安樂所」と彫られている。コンクリートの塀に囲まれ、手前に鉄製の柵が2本、全体も鉄組の堂宇になっている。

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これでもかと頑丈に守られている理由は堂宇内の張り紙にあった。「平成13年(2001)3月のある日の未明、この交差点で車同士が出合い頭に激しく衝突する事故があった。傍らの路傍に立っていた庚申塔が巻き添えになり、真っ二つに折れてしまった。幸いにして事故の当事者は無傷で、もともと以前から事故は多いのに大怪我をする人がいない交差点だった。事故後路傍から写真の位置に庚申塔は移されたが、それからは殆ど事故が無くなった。いつしか地元では『身代り地蔵』と呼ばれるようになり親しまれている。」上部の欠損もその時のものだろうか。一般の人には庚申塔も地蔵も見分けがつかないので、成丘地蔵とも呼ばれているようだ。

場所  板橋区成増4丁目3-1

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2021年4月21日 (水)

全龍寺門前の石仏(新宿区大久保)

コリアンタウンの大久保通りに不思議な寺がある。山手線の新大久保駅から東へ300mほどにある全龍寺。昨今は韓国に限らずイスラム系その他さまざまな多国籍の人々が住み暮らす街になっている。そのエスニシティに虫がたかるように集まる若者の多い事。おそらく狭い歩道の過密度合いはコロナ禍の現在でも平日昼間なら原宿竹下通りを上回るのではないだろうか。

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先日この寺院を訪問した時も平日だったが通りは凄い混雑で、寺の入口には警備員がいて、事前予約をした人でないと境内には入れないという。モラルの低すぎる人間が多くて物を傷つけたり、座ってはいけない場所に腰掛けたりと、トラブルが絶えない為致し方ない措置なのだそうだ。これでは疫病が都会に蔓延しても致し方ないといえる状況である。境内には年紀不詳の庚申塔があるのだが、今回は諦めることにした。

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全龍寺の門前には無縁仏に囲まれた舟型光背型の阿弥陀如来像がある。高さは177㎝あり私の背丈よりも高い。基壇の手前には三猿が陽刻されており、庚申講中による造立である。造立年は寛文12年(1672)で、庚申講中28名によるとある。この年代はまだ主尊が青面金剛像になる以前の江戸初期の段階。

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阿弥陀如来像の向かいにはこれも大型の舟形光背型の地蔵菩薩立像がある。「三界万霊」とあるが、墓碑としての目的もあったようで、細かいところは読み取れなかった。

大久保通りは江戸時代は西大久保村という農村で、この通りは江戸時代からの街道。両側には百人組という下級武士の半農住宅が立ち並んでいた。間口は10~20m程度で奥行きは数百mという短冊のような敷地である。これは京都の町屋でも見られるが、街道筋の場合間口税(棟別銭)という税制の為で、商人からより多くの税を巻き上げようとした田沼意次が全国に広げたものだという。しかし百人組の町割はそれ以前からで、街道沿いに家を建て、その後ろに長細い畑地を与えて農業で禄の不足を稼げという意味合いのものだったようだ。

場所  新宿区大久保1丁目16-15

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2021年4月20日 (火)

円照寺の石仏(新宿区北新宿)

鎧神社の別当寺である円照寺は天慶3年(940)に藤原秀衡が平将門討伐に来た際にここで病を治して寺を開いたという伝説。またこの境内は昔の有力者、地頭柏木右衛門佐頼秀の居館跡とも言われる。地頭柏木某については知らないが柏木村の由来だろうか。もっとも1100年も昔のことだから詳細は不明だが、地形的には神田川右岸のの河岸段丘に位置するので居城としてはあり得る。

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山門前の参道は趣があり、訪問時は一木に紅梅白梅が混ざる名木が迎えてくれた。山門をくぐると本堂があり、その左に無縁仏が集められている。大きな石仏はその周りに置かれていた。

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無縁仏塔の頂上にあるのは不動明王だが、手前センターにはこの舟型光背型の地蔵菩薩立像がある。元は墓石のようだがあまりにも見事な作品と言っていいほどのものでしばらく拝観した。「柏木村施主川本四良衛門  右志者為妙高禅定尼棟棟證大菩提也 敬白」とあり、左には明暦2年(1656)11月の年紀がある。右手の指が欠損しているがバランスの取れた像形である。

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無縁仏塔の中に破損して原形をわずかにしかとどめない庚申塔?がある。舟型光背型の合掌一猿で寛文5年(1665)の造立らしいが詳細は分からない。戦災でここまで壊れてしまったようだが、新宿区の石仏には戦災で無残に壊れたものが散見される。

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無縁仏塔脇にあるひときわ大きな角柱型の供養塔。上部には日月があり、月山、湯殿山、羽黒山、坂東、西國四國、秩父八十八ヶ所 巡拝とある。資料によると、文政9年(1812)6月に武州豊嶋郡柏木村の栗原大右衛門が建立したもの。

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そのすぐ近くには二十三夜塔が樹の根元に寄り添っている。とくに何も書かれていないので造立年も施主も不明である。月待講は江戸時代の後半に盛んになった民俗風習で、信仰というよりも寄合的なものだった。宵に集まり月の出を待ち、月が出ると三々五々解散していくという飲み会である。元々はもっとまじめな修行要素のある信仰だったが江戸時代の日本人はおおらかに変化させていったのである。但し塔を作るというのは大きな願を掛けたり成就したりしたことを表していると思われる。

場所  新宿区北新宿3丁目23-2

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2021年4月19日 (月)

鎧神社の庚申狛犬(新宿区北新宿)

新宿区は古い町名を残しているのだが、なぜか繁華街より西側は味気ない昭和後期の地名になっており、鎧神社の辺りも北新宿である。しかし甲州街道よりも北側、中央線までのエリアは柏木という地名が濃く残っている。その柏木村の中心的存在が鎧神社。創建は不詳ながら醍醐天皇時代(1100年前)に円照寺と共に創建されたという言い伝え。日本武尊(やまとたけるのみこと)、平将門の鎧が納められたとの伝説もある。それが鎧神社の名前の由来である。

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鎧神社の狛犬も古いもので、天保7年(1836)5月に地元の若者中が奉納したとある。しかし有名なのは鳥居の左にある天神社の脇を固める狛犬型庚申塔である。新宿区の指定有形民俗文化財になっている。デフォルメされたユーモラスな表情で、身体の描写も独特なフォームをしている。

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向かって右にあるのが阿形像で雄である。右足が修復されている。台石の手前には「庚申奉造立供養」とある。むかって左にあるのは吽形像で雌だという。造立年は享保6年1721)11月で、武州豊嶋郡柏木村講中によるものである。

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江戸ではほとんど見かけない庚申狛犬であるが、他には戸越八幡神社の狛犬が庚申講中によるものであった。しかし戸越の庚申狛犬は普通の狛犬の容姿である。あちらも品川区の指定有形文化財になっており、庚申講と神社とが複合した江戸時代のバリエーション豊かな民俗信仰の遺跡といえるだろう。

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天神社の脇にはもう一つ、気になる石仏があった。風化と摩滅が激しくて元の形も分からないほどだが、個人的な見解では馬頭観音か、聖観音像ではないかと思う。ただ何も読み取れないし、情報を探してもどこにも書かれていなかった。いったい何なのかが気になる。

場所  新宿区北新宿3丁目16-18

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2021年4月18日 (日)

ヤマハルオ馬頭観世音(世田谷区等々力)

環八通りと大井町線等々力駅の間の住宅地の路地角に忽然と現れる堂宇。その中には、中央に御影石の角柱で「ヤマハルオ馬頭観世音」と彫られ、両脇に地蔵菩薩が立つ。右は背の高い丸彫の地蔵菩薩である。一方の左は舟型光背型の地蔵菩薩。どちらも造立年等は一切不詳である。

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中央のヤマハルオ馬頭観世音は側面を見ると「昭和三十六年八月」とある。ヤマハルオという競走馬の記録を探すと、1965年(昭和40年)5月1日生まれ、生涯成績15戦2勝、獲得賞金925,000円とある。おそらく近所の馬好きな人が財産を投じて育てた馬なのだろう。しかし、馬頭観音の造立年はヤマハルオの生年月日よりも昔である。ここで別の想像が膨らむ。飼っていたヤマハルオという馬が死んでしまった。その死を忘れられずヤマハルオという競走馬を買い育てたというストーリーもありそうな気がした。

場所  世田谷区等々力2丁目12-19

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2021年4月17日 (土)

宇佐神社の庚申塔(世田谷区尾山台)

伝乗寺の北にある宇佐神社は崖線の上にある。境内は小山になっており、八幡塚、神明塚と呼ばれ(正式には西岡14号墳)古墳時代の円墳である。この円墳が宇佐神社の本殿の裏にまるで小山のように見えている。八幡塚というのは宇佐神社が八幡宮であることから、また神明塚というのは後ろの小山の上には神明神社が祀られているからである。宇佐神社の創建は900年以上前だと伝えられているが、関東でも珍しい禰宜の舞が行われていたという。大分の本宮宇佐八幡宮の近くにも伝乗寺があり、それと共通点があるのかもしれない。

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本殿の左手奥に小さな祠があり、その中に祀られているのが庚申塔である。駒型で、青面金剛像があるが、下部の凹凸はもしかしたら風化した三猿かもしれない。造立は寛延元年(1748)11月である。「庚申供養 小山村 十六人講」とあるが、尾山台の元が尾山であったが、その誤字の小山なのだろうか。

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『ふるさと世田谷を語る 尾山台奥沢編』にはこの庚申塔が十字架を持っているという説を挙げているが、たしかに三叉鉾が十字架に見える。しかし昔はこういう鉾もあったので、真偽は分からない。但し、とても素直に両手を合わせた姿は敬虔なクリスチャンを想起するが、この手の形の庚申塔は時折見かける。もし隠れキリシタンの影響があったとしたらなかなか興味深いことである。

場所  世田谷区尾山台2丁目11-3

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2021年4月16日 (金)

伝乗寺の石仏(世田谷区尾山台)

尾山台の国分寺崖線には寮の坂という名坂がある。伝乗寺はこの寮の坂との関係が深い。昔、多くの学僧が伝乗寺にはいて寮の坂の辺りには彼らの寮があったことから寮の坂と呼ばれるようになった。寺の創建年代については諸説ある。享和2年(1802)に塞ノ神の祭りの火が燃え移って寺を焼いてしまったが再建している。

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東にある寮の坂側が正門のようだが、南にも門があり、どっちが正門なのか分からない。本堂の向きからすると南側が正門かもしれない。南の正門を入るとすぐに地蔵菩薩が並んでいる。

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左の地蔵は錫杖の上部が欠損している。また造立年等の記述もなく、いろいろと不詳ではあるがおそらく江戸時代のものである。右の丸彫地蔵尊は明和6年(1769)11月の造立である。台石の正面には「地蔵菩薩供養」とあり、脇に「当村女念仏講中」と書かれている。左面には「三ツ橋弥右衛門母、原田伝右衛門母、坂田定右衛門」の名前が彫られているようだ。

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五重塔の裏手に回ると、植込みの中に舟型光背型の地蔵菩薩像がある。実は土に埋まっている下部には三猿が描かれている。三猿の上部だけがわずかに見えている。左肩の横には「奉造立庚申供養 同行八人施主」とあるので庚申講中によるものである。造立年は延宝8年(1680)11月と古いものである。まだ青面金剛像全盛ではない時代にあたる。

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寺の外に回り、墓所の北西角に行くと石仏が二つ並んでいる。かつてはここに堂宇がありその中に納められていたが、最近ブロック塀の改善をしたときに堂宇を外し大きな基壇を作って載せたようである。右の庚申塔は文化13年(1816)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれているが風化が進んでいる。左の像は新しいもので馬頭観音である。ここには昔から庚申様があり、かつては複数あったが一体盗難に遭ったとか、北向から一時西向にされていたが、今は再び北向になっている珍しい庚申塔とされている。

場所  世田谷区尾山台2丁目10-3

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2021年4月15日 (木)

地頭坂の大日如来尊(世田谷区等々力)

等々力不動尊の東側には御嶽山古墳、大日塚古墳、狐塚古墳と墳丘の古墳が連続している。どれも古墳時代のものだが、御嶽山古墳と狐塚古墳が都の史跡として整備されているのに対して、大日塚古墳はどうも取り残された感がある。大日塚古墳の入口は地頭坂という階段坂の途中にあり、管理されている方の事情によって夏場は草で覆われることもある。

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入口には大日如来尊という石柱があるが、階段は手鑿で削った昔のもの。地頭坂に一番近いところに稲荷があったが先日訪問した時は祠も壊れていた。そこから少し奥にさらに足場の悪い斜面を上っていくと、古い石垣の上に祠が3つある。中央には古い大日如来立像と思われる舟型の石仏、両脇の堂宇にはそれぞれ地蔵立像が収められている。地蔵は比較的新しいもののようである。大日如来の造立については文字等が摩滅していて全く読めないので不詳である。

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大日如来は圧倒的に座像が多いのだが時折立像も見掛けるので、これもその一つだろうか。もともとこの大日如来のある大日塚古墳は「西岡11号墳」という円墳で、1930年代に当時の大田区立郷土博物館館長の西岡秀雄氏の調査によって発掘されたもの。「雑木林中にあり、殆ど其の原形を失っているが、上部に稲荷祠がある。詳細不明なり。高さ約1.5米」と記録されている。元は三祠の方に稲荷があったのだろうか。とにかく謎のおおい大日塚である。

場所  世田谷区等々力1丁目26-2

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2021年4月14日 (水)

野毛の庚申様(世田谷区野毛)

等々力渓谷に流れる川は用賀を源流とする谷沢川。源頭を辿ると世田谷通りの北側にまで至るが、上野毛にかつてあった姫の滝跡の堰堤から下流は谷が徐々に深くなり、等々力駅付近で流れを南に変え等々力渓谷になる。この流れを変える辺りでは大昔、元々九品仏から呑川に注いでいた九品仏川が谷沢川の下流だったが、いつの時代か等々力渓谷側に流れが変わった(河川争奪)と考えられている。

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等々力渓谷の左岸(東側)には等々力不動尊もあり、そちらに上がる散策客が多いが、右岸(西側)が元からの集落で、下流を下谷戸、上流を上谷戸と言った。上流の上谷戸の辻にあるのがこの庚申様である。なぜか世田谷区の資料にも載っていないが、私が上野毛に住んでいた1980年代には既にここに庚申様があったかどうか記憶にない。

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祀られている庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。側面を見ると造立年は文化10年(1813)2月と書かれている。基壇は最近のもので、そこには「庚申堂再興  善養寺檀徒一同  平成16年(2004)5月」とある。玉垣も立派なものが並び願主の名前がそれぞれに彫られているが、やはり原姓が最も多い。次に多いのが豊田姓。どちらも吉良家の家臣が帰農した家柄である。この庚申堂前の坂を下ると浄音寺坂になるが、城音寺という寺は今は無い。昔は天神社と城音寺があり、豊田家が所有していたが、浄音寺は明治時代に焼失してしまった。豊田家はその後満願寺を菩提寺にしたが、上谷戸の一部の豊田家は善養寺の檀家となったのかもしれない。

場所  世田谷区野毛1丁目13-2

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2021年4月13日 (火)

等々力不動の石仏(世田谷区等々力)

等々力渓谷で有名な等々力不動尊は目黒通り沿いにある満願寺の支院で現在の山門と本殿は満願寺の古い山門を移築したものである。賑わいの等々力不動に比べて本院の満願寺は静かである。それも等々力渓谷という都会のオアシスのような散策観光地があるためだが、整備された等々力渓谷の上流下流とも溝のような川である。

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本堂に向かって左手の崖側に巨樹がならび、その間に堂宇と草木供養碑がある。草木供養碑は昭和47年(1972)5月に玉川造園組合が建てたものだが、草木塔は都内には8基しかないうちの1基である(桜上水密蔵院の石仏を参照)。世田谷区内にはそれ以外に用賀の無量寺にあるが同様の造園団体によるもの。

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左の堂宇に祀られているのは駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれ、基壇には大きく鶏が彫られている。造立年は摩滅していて読めないが資料によると8月という月名はあるようだ。右には「奉造立青面金剛尊像庚申供養」とある。

場所  世田谷区等々力1丁目22-47

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2021年4月12日 (月)

善養寺の石仏(世田谷区野毛)

野毛という地名の意味は「崖」らしい。六所神社に隣接して崖線上に境内を持つのが真言宗の善養寺。創建は慶安5年(1652)でもとは深沢村にあったものが慶安年間に移転してきたと伝えられる。この善養寺の崖下にはかつて野毛の渡しという渡し船があった。

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境内のちょうど崖の上に当たるところには榧(かや)の大樹がそびえていて高さは20mほどある。昭和39年(1964)に東京都の天然記念物に指定された御神木である。言い伝えによると善養寺が深沢村から越してきた時にはこのカヤの樹はすでにあったようだ。寺には発掘された板碑があり、青梅から多摩川に沿って大田区六郷までを繋いでいた筏道などにあったものだろう。

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本堂裏手には多くの無縁仏が集められている。その中に極めて古い庚申塔があった。舟型光背型の庚申塔だが、主尊は地蔵菩薩立像、その下に三猿が彫られている。造立年は寛文8年(1668)霜月(11月)とあり世田谷区では上馬の宗円寺の庚申塔に次いで3~4番目に古いものである。右上には「庚申待供養」とあり、左には「為二世安樂」とある。その隣にあるのは元治元年(1864)6月の馬頭観音で、目視はできないが側面には願主原氏とあるようだ。

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少し離れたところにある角柱型の馬頭観音は文字塔。造立年は大正14年(1925)3月と新しいもの。側面には「願主 原吉蔵」とある。原家は野毛の旧家で多摩川の崖線一帯に多かった豊田、木村、原、田中、大平、粕谷などは室町時代は吉良氏の家臣だったが後に帰農したかつての武家だと言われる。世田谷区の一部が江戸時代になって井伊家の領地となってから井伊家を離れて帰農したのは旗本だった渡辺家の人々だったという記録もある。

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墓所の隅には寛政5年(1652)3月造立の宝篋印塔が立っていた。正面下部には「遠近村々施入 助力善男全女 当所念仏講中 寒念仏講中 助力当所若者中」とある。国分寺崖線沿いには縄文時代から人が生活を営んでいた痕跡が数多く残っている。それらに比べると300年~400年の歴史がつい最近のものに感じられて面白い。

場所  世田谷区野毛2丁目7-11

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2021年4月11日 (日)

六所神社の庚申鳥居(世田谷区野毛)

野毛には野毛大塚古墳がある。前方後円墳の前方が無くなったものだが、都内でも有数の大きさの古墳である。野毛という地名だが、もとは上野毛と下野毛だったのが、「下」という文字を嫌ったのか、今の住居表示は野毛となっている。多摩川対岸の川崎市にも下野毛があり、かつて多摩川が川筋を大きく変化させてきた名残りである。

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野毛の六所神社は国分寺崖線の崖上にある。境内からの川崎方面の眺望もよい。大昔多摩川が洪水の折に御輿の中に守られて府中大國魂神社の三宮のご神体が明神坂辺りに漂着したのが始まりと伝えられる。明治時代に現在の野毛に移された。六所というのは、大宮、秩父、秋留その他の神社を巡礼するのは大変だからと一ヶ所に集めたことによる名前らしい。

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神社を台地上の側から訪問するところにある比較的新しい鳥居が本殿脇にある。そこには谷戸庚申講中とあり昭和6年(1931)10月の建之とある。谷戸という地名(小字)については、かつての下野毛村は上谷戸、下谷戸、東、西、岸、大原、谷川、上河原、下河原、三谷という小字からなっており、おそらくは上谷戸と下谷戸の集落の講中だろうと思う。

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境内の小さな社の前の鳥居にも「総氏子中」と並んで「谷戸庚申講中」とあり、これもまた同じ庚申講中による鳥居である。造立年は文政10年1827)初冬とあるので、おそらくこの辺りではいろいろな講中が盛んで、中でも庚申講が中心的な存在だったのだろう。明神坂の坂下に昔あった大きな池は明神池と呼ばれたが、この明神とは明治31年まであった六所神社のことを意味している。

場所  世田谷区野毛2丁目14-2

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2021年4月10日 (土)

覚願寺の石仏(世田谷区上野毛)

30年くらい前に上野毛に住んでいたことがある。長女をどの幼稚園に通わせるかという選択肢に、覚願寺経営のすずらん幼稚園があった。結局選ばなかったのは、住んでいた家が崖線下であったためで、毎日急坂を上下するのはしんどいという理由であった。そんなわけで個人的にも昔から知っている寺院を改めて訪問するのも何となく新鮮な気持ちであった。

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覚願寺の山門はとても立派なものである。寺の創建は天文年間(1532~1555)より前だが当初は崖線下にあったらしい。しかし文禄3年(1594)には現在の地に移っているようである。山門は昭和63年(1988)に再建されたものだが、本堂と観音堂は天保年間(1830~1843)に再建されたもの。この山門前に石仏が並んでいる。

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左端の地蔵菩薩については文字もなく情報もないので全く分からない。中央左が駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。造立年は元文6年(1741)2月。上野毛村の銘がある。中央右は駒型の馬頭観音で、造立は馬頭としては古く寛延4年(1751)3月。上野毛村の銘とともに願主名として何人かの田中氏が名を連ねる。上野毛には田中家が多く、当時の住居の大家さんも元農家の田中さんだった。五島屋敷(美術館)の前に立派な名主屋敷があるがそれが田中家である。一番右の小さい石塔は「牛馬の墓」とあり木村銀次郎建立とあるが出所は不明。

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墓所の入口には六地蔵が並んでいる。もしかしたら再建されたものかもしれないが、台石によると、文化3年(1806)8月のもの。願主は田中庄右衛門と木村平右衛門。木村家も田中家に準ずる名家である。特に田中家は世田谷城主吉良氏家臣の末で特別な名主だった。田中家と覚願寺の間、稲荷坂の東側にある自然公園は昔、桜楓園という田中家所有の庭園だったという。また覚願寺と環八の間の土地は昭和30年代まで牧場で乳牛が30頭ほどいたのどかな土地であった。

場所  世田谷区上野毛2丁目15-15

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2021年4月 9日 (金)

中野氷川神社の石仏(中野区東中野)

JR中央線東中野駅の南、丸の内線中野坂上駅との間にある中野氷川神社は旧中野村の総鎮守。長元3年(1030)後一条天皇の時代に源頼信が大宮の氷川神社より勧請したものと伝えられる。戦国時代には太田道灌にも保護された古社であった。

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氷川神社のロケーションは神田川支流桃園川の河岸段丘である。決して大きな川ではないが、境内と参道入口の高低差は6mもある。自然の力というのは本当にすごいものである。氷川神社の氏子は、淀橋、上宿、下宿、西町、仲宿、打越、囲、原という地域だというから、西は高円寺の近くまでと神田川左岸(北側)の青梅街道一帯、現在の地下鉄新中野駅あたりまでが範囲であった。

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参道の階段上には敷石供養塔と石橋供養塔がある。左の大きい方が敷石供養塔で、安政6年(1859)9月の造立。「氏子中 願主 覚順」とある。右側は石橋供養塔で安永6年(1777)12月の造立。「當村氏子中」とある。おそらく石橋は桃園川かもしくは参道下を流れていた桃園川の支流に架かっていたものではないだろうか。

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境内にはもうひとつ相当古い庚申塔が祀られている。舟型光背型の庚申塔で、日月と三猿だけのもの。いかにも初期型という印象である。造立年は寛文9年(1669)11月で、シンプルだが舟型光背型の本来の形は炎を表現しており、上部の形状はまさに炎らしい尖り方をしている。

場所  中野区東中野1丁目11-1

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2021年4月 8日 (木)

谷戸小学校の庚申塚(中野区中野)

堀越高校から桃園川暗渠を越えて北に向かうと谷戸小学校がある。なぜ谷戸小学校という名前になったのかは分からないが、地形的には桃園川左岸で北から沢が流れ込む水田地帯だったことに由来する昔の地名が谷戸であったからだろう。北からの沢は現在の中野区役所あたりを源頭にするもので、谷戸小学校の創立は昭和3年(1928)だが、関東大震災以前は住む人もほとんどいない農地だった。それが震災以降急激に宅地化が進み小学校が出来たという経緯である。

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校庭の一角にぽつりと立つ「庚申塚」と彫られた角柱。正面には大きく「庚申塚」とあり、上部に西、南、北、東と書かれている。向かって右側には「あらいみち」とあるがこれは新井薬師のことだろう。左側には「ほりのうちミち」とあり、慶應2年(1866)の造立。ほりのうちは妙法寺のある堀の内のこと。

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ここから200mほど西に区立谷戸運動公園があるが、古い城跡(館城)である。遺構などは皆無だが、昔の地形図を見ると土塁が築かれ、南側には堀とも見える細長い池があったことがわかる。この城跡から南に下り桃園川を渡るとその先は小笠原坂である。

場所 中野区中野1丁目26-1

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2021年4月 7日 (水)

北原神社の庚申塔(中野区上鷺宮)

中野区上鷺宮は西武新宿線鷺ノ宮駅の北西に広がる地名で、当然ながら鷺宮の北にあるので上鷺宮。しかし近年「下」とつく地名がかなり消えていることには危機感を覚える。下井草はあるものの当然下鷺宮はない。鷺ノ宮駅の南側は白鷺という地名であるが、これは昭和中期に作られたもの。鷺宮はもっと広かった。しかし現在若宮と呼ばれるあたりが昔は下鷺宮だった。

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北へ戻って上鷺宮二丁目のかつて北原と呼ばれていたあたりに北原(きたっぱら)神社がある。ローカルな地名がそのまま神社というのはあまり多くない。境内はきれいに管理されていて、地元の人々の大切な神社であることは容易に想像できる。

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その境内の一角に笠付角柱型の庚申塔が祀られている。造立年は明和8年(1771)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されていて、右面には「奉造立青面金剛講中二世安樂所」「是ヨリ右 ぬくい道」とあり、左面には「是ヨリ左 やくし道」と書かれている。その下には「鷺宮村講中三拾人  願主 篠篠勝右衛門」とあった。やくし道というのは新井薬師を指し、ぬくい道は現在の西武池袋線中村橋駅の北西に広がる地名貫井である。

場所  中野区上鷺宮2丁目23-4

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2021年4月 6日 (火)

宝泉寺の石仏(中野区中央)

中野区にある宝仙寺は大伽藍の真言宗寺院。戦前は境内に中野町役場もあった。寛治年間(1087~1094)平安時代後期に源義家によって阿佐ヶ谷で開山、室町時代の1429年に現在地に移転している。阿佐ヶ谷の場所は現在まで世尊院として残っている。また大宮八幡宮の別当寺でもあり、江戸時代は将軍家とのつながりも深く高円寺と共に鷹狩りの休憩地となっていた。

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江戸時代徳川吉宗が長崎から象を江戸に連れてきたがその象の骨と牙は宝仙寺に祀られている。境内には本堂のほかに三重塔や仁王像が見下ろす大山門などがあり、本堂と三重塔の間に朱塗りの御影堂(みえどう)がある。この御影堂には弘法大師像が祀られているらしい。石仏の多くは御影堂の脇と、その裏手の崖下に集められている。崖下は墓所になっており、この一角だけが広い窪地となっている。北側にはかつて桃園川が流れており、スリバチ地形になっているが、おそらくは宝仙寺近くに湧水がありそこから沢が桃園川に流下していたのだろう。ちなみに宝仙寺の東側を下るのは犬坂という宝仙寺に所縁の深い坂である。

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大寺院宝仙寺も例に漏れず、墓所への入口には六地蔵が並んでいる。この六地蔵は寛保4年(1744)2月に建てられたものであるが、右の3体と左の3体では石材の質が異なる。おそらく左の方は後年再建されたものではないだろうか。六地蔵脇には明治41年(1908)3月奉納の敷石供養塔がある。

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六地蔵の後ろには大型の地蔵菩薩坐像やスマートな地蔵立像が並んでいる。この地蔵立像は「くさよけ地蔵」と呼ばれるもので、創建年代は不明だが、首が落ちたのを昭和10年(1935)に修復したと台石に記されている。くさよけ地蔵は何を身代りしてくれるのだろうと調べてみたが、おそらくはいぼとり地蔵などと同じく疱瘡治癒を意味するのではないかと思われる。「くさ」は瘡と書きできものやただれを指すらしい。

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崖下に下りていき御影堂の裏手に回り込むと数えきれないほどの石像石柱が並んでいる。多くは供養塔だが、中には庚申塔なども混ざっていてひとつひとつ見ていっても飽きない。無縁仏の最上段にあったのが、笠付円柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、造立年は元禄2年(1689)11月。「武列中野村下町講中敬白」「奉供養庚申講為二世安樂 講中十四人」とある。

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下の方にあったのが笠付円柱型だがどこか宝篋印塔にも似た立派な庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれており、「奉供養庚申講為二世安樂」「講中三十二人」とある。造立年は不詳だが、「武刕多麻郡中野村中宿講中敬白」とあり、中野区の文化財資料にはこの庚申塔だけが記載されていた。その資料では五輪塔と分類されていた。

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その先にあるのが笠付角柱型の庚申塔で、正面にはびっしりと漢文が刻まれており庚申の話を説明していて下部には三猿が陽刻されている。造立年は寛文9年(1669)仲夏(5月)とある。古いものなので、まだ青面金剛が主尊ではないのだろう。宝仙寺にはこれら以外にも多くの石仏があり、どれも古いもので感心する。祀る主尊も大日如来、薬師如来、不動明王、などさまざまである。

場所  中野区中央2丁目33-3

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2021年4月 5日 (月)

慈眼寺の石仏(中野区中央)

青梅街道は神田川を淀橋で渡ると中野坂を上り西へ進む。中野坂上あたりがかつての中宿、宝仙寺を過ぎて慈眼寺辺りまでが上宿と呼ばれた。慈眼寺は江戸時代から青梅街道沿いにある真言宗の寺院である。しかし江戸時代までは少し北にある堀越学園傍、小笠原坂下の慈眼寺堂橋の西にあった慈眼堂がもとで、江戸時代に青梅街道沿いに移った。

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慈眼堂の創建は室町時代の天文13年(1544)という古刹だが、境内にはタイ王国から送られた仏舎利を納めたタイ風の金色の仏塔が異彩を放っている。石仏は本堂左の一角にまとまっており、数はとても多い。

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墓所との間の塀際に6基の庚申塔が並べられている。すべてが笠付角柱型で古いものである。写真の左(小さい方)は宝永4年(1707)9月造立のもので、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。右のひときわ大きな笠付角柱型の庚申塔は元禄4年(1691)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、そして三面に各一猿が陽刻されている。右側面には「奉造立庚申二世安樂祈所」と彫られている。この2基はともに上宿の青梅五街道沿いにあったものを道路拡幅でいったん桃園第三小学校に移し、その後昭和30年(1955)に慈眼寺に移転した。

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左から三番目は日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻され、享保13年(1728)11月とこの中では二番目に新しい。「奉造立庚申二世安樂祈所」と青面金剛像脇にあり、側面に「武刕多麻郡中野邑上宿各敬白」とある。上宿の青梅街道沿いにあったものが、上の庚申塔と同じように桃園三小に移転後ここに来た。右側は元禄3年(1690)12月造立で、日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄。下部に願主名と共に武刕中野村とあり、側面には蓮葉模様と共に「奉造立庚申供養講衆現當二世安樂之所」と彫られている。

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右端の2基は左側が日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿で、右側面には「奉造立庚申尊像為講中二世安樂也」とある。造立年は寛保2年(1742)5月で最も新しい。年紀の傍に「武刕多摩郡中野西町」とある。中野村の西側で当時は上宿だった所だろうか。一番右は、元禄9年1696)11月のもので、日月、青面金剛像、三猿の図柄。「奉造塔庚申供養講衆二世安樂之攸」と尊像脇にある。この2基もは他の3基と同じく、桃園第三小学校を経てここに来たものである。

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庚申塔の前には鏡餅のように安定した地蔵座像が鎮座、背面に寛永、正保、明暦、寛文などの年号が並んでいるが、おそらく明暦年間(1655~1658)のものとされている。かつては桃園第三小学校(現在の区立桃花小学校で中野駅の南数百mのところにある)の大ケヤキの下にどこかから移され、昭和30年(1955)に慈眼寺に移されたもの。

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庚申塔の左側にある丸彫の地蔵菩薩立像については年紀等は分からないが、後に彫られているのが「中野村 願主 □生菩提也」とある。首が折れた補修跡があるので、顔はオリジナルかどうかは分からない。

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庚申塔の右手には舟型光背型の地蔵菩薩立像が2基並んでいる。右側は寛文9年(1669)1月の造立で、その他の文字は見当たらない。左側はかなり傷んでいるが、右側に「南無阿弥陀仏」という文字がかすかに見え、中野区の資料を見ると「正□」という年号があるらしい。正で始まるのは、正保(1644~1648)か正徳(1711~1716)だが、この場合はどちらか特定しにくい。

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石仏の一番右手にあるのは背の高い丸彫の地蔵菩薩立像。基壇の文字も消えており、年代の特定はできない。このほかにも多くの石仏があるが、割愛する。ただ一つだけ、とても大きな馬頭観音(再建)があったはずだが、どうも石仏がおおく写真を撮り忘れたようである。またおいでという意味だと理解している。

場所  中野区中央3丁目33-3

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2021年4月 4日 (日)

福寿院の石仏(中野区本町)

丸ノ内線方南町支線の中野新橋駅の北にある真言宗の福寿院(南光山福寿院医王寺)は元応元年(1319)の創建だが、当初はもっと南西の神田川に近い場所にあった薬師堂だった。明和年間(1764~1772)の火災で焼失し、後に現在地に移ってから福寿院となった。寺には古い板碑もあるが見ることはできない。

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しかし本堂向かって左手にある無縁仏塔の前にすばらしい石仏がいくつも祀られている。そして本堂前には珍しい宇賀神がある。ただ寺ではこれを弁天として祀り、井の頭池の弁財天の妹であるという俗説もある。昔、池の水が枯れた時に井の頭弁財天に倣って造立した女面蛇体像である。

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とぐろを巻いた蛇の頭が女性の顔になっている。現代的にはグロテスクな蛇女なのだが、宇賀神信仰と弁財天信仰が習合したものであろう。TBSの女子アナに宇賀神メグさんがいる。可愛い女性なのだが、名前を聞くたびにこの宇賀神を思い出して引いてしまう。

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無縁仏塔の手前前列に並んでいるのは、右から庚申塔が2基、その横に魚籃観音、舟型の地蔵菩薩と並んでいる。魚籃観音と地蔵については資料が殆どなくかつ文字が読めないほど摩滅しゼニゴケがびっしり張り付いているので分からないが、庚申塔は中野区の資料にあった。右の大きい方の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、脇には「奉供養庚申爲二世安樂也」とあり、元禄元年(1688)10月の造立。駒型青面金剛像としては古いものである。隣りは日月、青面金剛像、二鶏、三猿の描かれた駒型庚申塔で、こちらは享保11年(1726)10月の造立。「奉造立庚申供養塔」と書かれている。

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二列目には大きめの聖観音像2基と丸彫地蔵菩薩像、上部欠損した舟型の地蔵菩薩像がある。舟型地蔵菩薩については墓石らしい。2基の聖観音像はそっくりでペアで造られたものと思われる。持ち物が異なるが他は微妙なちがいのみでほぼ同じ。裏に回ると「再建施主喜八 長松」とある。この2基は天明8年1788)10月の造立。

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後から見ると聖観音像のプロポーションが素晴らしいことがよく分かる。中性的でもあり昔の人々の信仰がジェンダーを越えていたことを感じる。近年の男尊女卑は一部の武家社会と明治以降の政府が作り出したものだが、それを日本の伝統と勘違いしている輩の多い事は要改善である。端の地蔵菩薩立像は延宝7年(1679)のもので、これもなかなかいい。

場所  中野区本町3丁目12-9

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2021年4月 3日 (土)

成願寺の石仏(中野区本町)

山手通り沿いにある成願寺(じょうがんじ)は中野長者として知られる鈴木九郎が開いた曹洞宗の寺院。創建は永享10年(1438)である。鈴木九郎はもうひとつ西新宿十二社の熊野神社が知られている。明治時代に入って神仏分離が強制された折、元々深いつながりであった成願寺と熊野神社は分離されてしまった。また成願寺には佐賀の蓮池藩の大名鍋島家の墓所がある。蓮池藩は佐賀藩の支藩だが明治の廃藩置県時にはいったん蓮池県となった時代がある。

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成願寺の山門は派手である。現代の感覚ではジブリの世界にでも入る感覚だろうか。山門脇にはちょっと豪快な地蔵座像が並んでいるが、いつのものかは分からない。山門をくぐると右にカーブして本堂へ。手水脇に三界万霊の塚があり、その中に多くの石仏が並んでいる。

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塚の周りの石仏の中に馬頭観音がある。おそらく道祖神の化粧のような色付けがあったのだろうか、かなり薄くなってはいるが朱が残っている。造立は文政8年(1825)8月。施主川村松蔵とある。保存状態の良い馬頭観音で、彫りも素晴らしいが出所が分からない。

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墓所に入ると奥の方にひときわ背の高い地蔵が見える。丸彫の地蔵菩薩立像で「鍋島地蔵」と呼ばれているもの。造立年は延宝2年(1674)11月とある。区指定の文化財で「真如院殿一切妙覚童女之霊」とあり、鍋島家に所縁ある女児を供養しているという。それで鍋島地蔵と呼ばれているようだ。

場所  中野区本町2丁目26-6

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2021年4月 2日 (金)

森厳寺の石仏(世田谷区代沢)

森厳寺は以前、単独の寺院として紹介したことがある。下北沢にあるが境内は別の空間のような静けさである。森厳寺の西側には北沢川支流の森厳寺川が流れていたが現在は暗渠になっている。

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寺院に関する情報は森厳寺のページを参照いただけるとありがたい。山門の前にはいくつかの石柱があるが、そのなかでも向かって左脇にある道標はなかなかのものである。

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正面には淡島大明神とあるが、淡嶋神は日本の民間信仰の神のひとつである。和歌山県和歌山市の淡嶋神社が総本社だが数は少ない。東京では浅草寺にある淡島堂とこの森厳寺のみではないだろうか。この道標の造立は文化11年(1814)春で、「北 ほりのうち よつやみち」「東 あをやま」「南 ゆうてんじ めくろふとう」とある。江戸市中各地からの寄進で建てられた道標である。

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無縁仏は本堂横を抜けて墓所に入り、西側の角に集められている。凄い数なので、まるで満員電車のように石仏が並んでおり、全体を見ることは困難であった。その中で端にあったのが、この角柱型の三猿の庚申塔。もともとは笠付角柱型で昭和の頃は笠も基壇もあった。三面にそれぞれ猿が陽刻されており、造立年は寛文8年(1668)霜月(11月)と古いもの。下の方には願主名があるが土に埋もれて見えない。

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無縁仏の後ろの垣根の下に3基の笠付庚申塔が並べられている。とても文字を読める状態ではないので、世田谷区の資料を参照した。一番左にあるのは笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が陽刻されている。「為奉造立庚申供養二世安楽也 講衆」とあり、造立は延宝2年(1674)初冬とある。青面金剛としては極めて古いものである。左から二番目は笠付丸柱型の庚申塔。天和元年(1681)11月のもので、正面には日月、青面金剛像(線刻)、邪鬼があるようだ。三番目の笠付角柱型庚申塔は正面上部に三猿が陽刻されている。延宝8年(1680)4月の造立で、日月、三猿のみの図柄のようだ。

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庚申塔が含まれる無縁仏の手前には墓所向きにさらに多数の無縁仏が並んでいる。その中でも後ろに目立つのがこの舟型光背型の聖観音立像。造立年は延宝8年(1680)2月、「奉造立尊形」とあり、左には「為念仏講供養也」とあるので念仏講中による造立である。

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手前の無縁仏の中にゼニゴケが激しく付着した二つの石仏がある。右側は文化2年(1805)4月造立の舟型光背型地蔵菩薩立像で、「右 あわしま道  左 せたがや道」と道標を兼ねている。本村講中とあるのでこれも念仏講中によるものだろう。左は造立年不詳の舟型光背型の地蔵菩薩立像。これも「右 あわしま道 左 ゆふてんじ道」とあり、「本村」とあるので、隣の地蔵と近い時代のものであろう。

このほか森厳寺には資料に載っている石仏があるが、二度探し回ったが見つからなかった。

場所  世田谷区代沢3丁目27-1

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2021年4月 1日 (木)

円乗院の石仏(世田谷区代田)

小田急線世田谷代田駅の南にある真言宗の円乗院は正式には代永山円乗院真勝寺という。創建は不詳ながら寛永年間初頭(1624頃)には代田村の菩提寺として開山していたという。この創建には室町時代から戦国時代の世田谷城主吉良家の旧家臣であった代田七人衆が関わった。この代田七人衆というのは吉良家の家臣から土着の農民として帰農して開墾し代田村を開いた武士たちの歴史である。

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本堂手前右にあるモニュメントのような大木はコウヤマキ(高野槙)で戦災で焼けてしまったが樹形を保存しているものである。円乗院の南には現在は暗渠になっている北沢川が流れており、流域の農地を見渡せる場所に建立された。

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山門手前の参道脇には沢山の石仏がある。右手には4基の石仏があり、手前から地蔵菩薩立像、板碑型の供養塔(文字読めず)、地蔵菩薩立像とあり、一番山門側に地蔵菩薩の半跏像がある。この半跏像は、享保6年(1721)10月の造立で、「三界万霊塔」の目的で念仏講中が建てたと記されている。

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山門に向かって左手には六地蔵がある。地蔵部分は妙に綺麗なので再建モノかとも思ったが、そうでもないようである。それぞれの地蔵の年代は違っていて、古いものは延享2年(1745)から新しいものは明治19年(1886)と140年の差がある。基壇に文字が彫り込まれているが、なかなか読みにくくなっている。「大原講中」「若林村」などの文字が見られ、南北に広い代田村の領域全体の菩提寺らしい。

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六地蔵の右手には、舟形の如意輪観音と地蔵菩薩が2基並んでいる。如意輪観音像については文字も摩滅しており不詳、中央の舟形光背型の地蔵菩薩立像は宝暦5年(1755)2月の造立で、「奉納地蔵菩薩」という文字が見える。右の上部が欠けた舟形光背型の地蔵菩薩は庚申講中によるもので、右側に「奉彫刻地蔵菩薩庚申供養為現当二世」とあり、造立年は正徳元年(1711)11月と書かれている。

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3体の舟型石像の後ろにひっそりと1基の庚申塔が立っている。比較的珍しい駒型の文字塔である。造立年は元禄13年(1700)3月。この時代にはすでに青面金剛が主尊となるタイプが多いのだが、この庚申塔は下部に線刻で三猿が描かれている。中央には「奉待上庚申」とあり、珍しいものである。庚申地蔵とこの庚申塔はもともと守山小学校の敷地内にあったものだという。守山小学校は京王井の頭線新代田駅の北側にあったが、平成28年(2016)に子供の人口減少に伴い廃校になった。

場所  世田谷区代田2丁目17-3

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