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2021年4月 5日 (月)

慈眼寺の石仏(中野区中央)

青梅街道は神田川を淀橋で渡ると中野坂を上り西へ進む。中野坂上あたりがかつての中宿、宝仙寺を過ぎて慈眼寺辺りまでが上宿と呼ばれた。慈眼寺は江戸時代から青梅街道沿いにある真言宗の寺院である。しかし江戸時代までは少し北にある堀越学園傍、小笠原坂下の慈眼寺堂橋の西にあった慈眼堂がもとで、江戸時代に青梅街道沿いに移った。

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慈眼堂の創建は室町時代の天文13年(1544)という古刹だが、境内にはタイ王国から送られた仏舎利を納めたタイ風の金色の仏塔が異彩を放っている。石仏は本堂左の一角にまとまっており、数はとても多い。

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墓所との間の塀際に6基の庚申塔が並べられている。すべてが笠付角柱型で古いものである。写真の左(小さい方)は宝永4年(1707)9月造立のもので、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。右のひときわ大きな笠付角柱型の庚申塔は元禄4年(1691)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、そして三面に各一猿が陽刻されている。右側面には「奉造立庚申二世安樂祈所」と彫られている。この2基はともに上宿の青梅五街道沿いにあったものを道路拡幅でいったん桃園第三小学校に移し、その後昭和30年(1955)に慈眼寺に移転した。

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左から三番目は日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻され、享保13年(1728)11月とこの中では二番目に新しい。「奉造立庚申二世安樂祈所」と青面金剛像脇にあり、側面に「武刕多麻郡中野邑上宿各敬白」とある。上宿の青梅街道沿いにあったものが、上の庚申塔と同じように桃園三小に移転後ここに来た。右側は元禄3年(1690)12月造立で、日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄。下部に願主名と共に武刕中野村とあり、側面には蓮葉模様と共に「奉造立庚申供養講衆現當二世安樂之所」と彫られている。

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右端の2基は左側が日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿で、右側面には「奉造立庚申尊像為講中二世安樂也」とある。造立年は寛保2年(1742)5月で最も新しい。年紀の傍に「武刕多摩郡中野西町」とある。中野村の西側で当時は上宿だった所だろうか。一番右は、元禄9年1696)11月のもので、日月、青面金剛像、三猿の図柄。「奉造塔庚申供養講衆二世安樂之攸」と尊像脇にある。この2基もは他の3基と同じく、桃園第三小学校を経てここに来たものである。

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庚申塔の前には鏡餅のように安定した地蔵座像が鎮座、背面に寛永、正保、明暦、寛文などの年号が並んでいるが、おそらく明暦年間(1655~1658)のものとされている。かつては桃園第三小学校(現在の区立桃花小学校で中野駅の南数百mのところにある)の大ケヤキの下にどこかから移され、昭和30年(1955)に慈眼寺に移されたもの。

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庚申塔の左側にある丸彫の地蔵菩薩立像については年紀等は分からないが、後に彫られているのが「中野村 願主 □生菩提也」とある。首が折れた補修跡があるので、顔はオリジナルかどうかは分からない。

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庚申塔の右手には舟型光背型の地蔵菩薩立像が2基並んでいる。右側は寛文9年(1669)1月の造立で、その他の文字は見当たらない。左側はかなり傷んでいるが、右側に「南無阿弥陀仏」という文字がかすかに見え、中野区の資料を見ると「正□」という年号があるらしい。正で始まるのは、正保(1644~1648)か正徳(1711~1716)だが、この場合はどちらか特定しにくい。

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石仏の一番右手にあるのは背の高い丸彫の地蔵菩薩立像。基壇の文字も消えており、年代の特定はできない。このほかにも多くの石仏があるが、割愛する。ただ一つだけ、とても大きな馬頭観音(再建)があったはずだが、どうも石仏がおおく写真を撮り忘れたようである。またおいでという意味だと理解している。

場所  中野区中央3丁目33-3

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