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2021年5月31日 (月)

冠城家の馬頭観音(板橋区徳丸)

徳丸台地の東端、前谷津川のカーブに沿っている離岡(はなりょうおか)という舌状地の先にある冠城(かぶらぎ)家の家の前に屋敷稲荷があり、その傍に馬頭観音が立っている。徳丸の旧家の多くには屋敷神が祀られているので、この辺りでは普通のことである。

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この場所の標高は25mほどだが、南に進んでも東に進んでも下り坂で、坂下の前谷津川緑道の標高は6m。どちらの方向も下り坂になっているのはこの南東で前谷津川の流れが曲がっているからである。石塔は角柱型の馬頭観音で、正面には「馬頭観世音菩薩」と大きく書かれている。

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馬頭観音は昭和17年(1942)5月建之。台石に10人の願主名がある。冠城松太郎、冠城保徳、など冠城家が4人だが、それ以外の名もある。昭和17年というと第二次世界大戦がはじまってミッドウェー海戦で敗北した頃である。当時はまだ民間にモータリゼーションが広がっておらず、牛馬が物流を担っていたことがわかる馬頭観音である。

場所  板橋区徳丸6丁目25-6

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2021年5月30日 (日)

中尾家前の庚申塔(板橋区徳丸)

徳丸6丁目50番地の路傍に庚申塔がある。前を通る道は東西を走るバス通りの旧道。しかし大正時代以前は殆ど道もなかったような地域である。しかしこの庚申塔には地域の民間信仰と周辺の様子を感じられる歴史がある。

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庚申塔はかなり立派な構えの中尾家の駐車場に立っている。駒型だが材質が花崗岩でこれは珍しい。庚申塔の大多数は安山岩で作られている。花崗岩は風化しやすいのだが、この石材は比較的風化しにくい花崗岩を選んだようである。正面は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、尊像右には「奉造庚申尊像一躰」とある。

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造立年は宝暦2年(1752)11月、「武刕豊嶋郡徳丸村 講中十二人」の銘がある。この庚申塔は旧峡田道(はけたみち)と離れ塚の「はざま」の辻山裾にあったが区画整理により昭和49年(1974)に現在地に移された。地理関係が難しいので引用した明治時代後期の地形図を参照したい。

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当時は崖線下を峡田道という半農道が通っており、多くの農民が往来していた。一方、前谷津川が荒川の低地に流れ出る手前で東から北へ流れを変えるが、このカーブの内側の舌状地が離岡(はなりょうおか)という地域、浅い谷を隔てた北側の舌状地が辻山という地名であった。この辻山の北側の裾の峡田道にあったと思われる。峡田道というのは下の写真のような場所で、この写真は昭和に入ってからのもの。

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庚申塔脇に誌碑が建てられている。そこに記載されている内容は、『当庚申は宝暦二年霜月壬申 徳丸字離岡(徳丸本町1970番地)先に奉斎され、広く村内外の信仰を集め、次来223年に及び講中代々庚申待ちを行い、その加護を得て今日に至った。而るに、此の度地域発展のため区画整理が実施されるに及び、ここに講員の総意をもって、昭和49年12月9日講員中尾久吉氏の所有地徳丸6丁目51番10号先の清浄なこの地に遷座する。 昭和50年5月吉日建之』

この庚申塔のお陰で脳内タイムスリップを楽しむことが出来て感謝である。

場所  板橋区徳丸6丁目50-2

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2021年5月29日 (土)

安楽寺の石仏(板橋区徳丸)

徳丸8丁目にある安楽寺は古刹。開山は応永3年(1396)で、練馬区石神井公園にある三宝寺の隠居寺だったと言われる。明治7年(1874)に赤塚徳丸地域で初めての小学校である紅梅小学校が開設されたが、この紅梅小学校は寺の隣にまだ続いている。明治29年(1896)には同じ徳丸にあった観音寺を合併しており、寺の本尊である阿弥陀如来像(秘仏)とともに「徳丸観音」と呼ばれる観音寺の本尊であった聖観音菩薩像もあるようだ。

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山門をくぐり右側へ回り込むと、石仏石塔が並んでいる。多くは長い歴史のうえでの寺の歴代住職の墓石や供養塔のようだが、中でも延宝2年(1674)3月造立の舟型光背型の聖観音菩薩像が見事である。これは観音寺の本尊であったものではなく、「法印権大僧都尊儀菩提」とあるのでいずれかの僧侶の供養仏と思われる。

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周囲には五輪塔や様々な供養塔が並び、その種類を見るだけでも面白い。ただこれほどの古刹でも、明治初年の廃仏毀釈によって寺は無住となり寂れたと伝えられる。もともと北野神社の別当であったことから、地元の人々が明治政府の迫害から寺を守ったのではないかと思う。また紅梅小学校が作られなかったら、廃寺になっていた可能性もあるのではないかと思わざるを得ない。日本の文化財にとって、明治政府と戦災は深刻な受難であった。

場所 板橋区徳丸8丁目9-1

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2021年5月28日 (金)

観音寺跡墓所の石仏(板橋区徳丸)

徳丸6丁目にはあちこちに石仏がある印象。徳丸6丁目という地域は前谷津川の左岸の台地上から流域までを含めている。台地上の石仏は東西に散らばり、かつての旧道沿いに並んでいる。北野神社から四葉方面へのかつての東西の村道である。その道沿いにある墓所が観音寺跡で、明治29年(1896)に安楽寺に合併された。その時に観音寺の本尊であった聖観音像(徳丸観音と呼ばれていた)も安楽寺に移されたと記録されている。

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墓所入口には一対の仁王像が立っている。享保12年(1727)12月の造立で、「武州豊嶋郡徳丸村 講中三十三人 志七十人」とある。「観音寺 現住長宥」と書かれており、当時の観音寺は多くの檀家信徒で賑わっていたのだろう。この仁王像の右手に、六地蔵が並んでいる。これが興味深い。

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六地蔵そのものはすべて享保4年(1719)10月の造立。台石があっているかどうかは不明だが、右から「預天賀…庚申講十二人」、「金剛願…念仏講中十五人」、「庚申講十一人内」、「金剛童…天放光」、「金剛怒…念仏講十五人内」、「金剛宝…念仏講十五人内」と刻まれている。これに従うと、2基は庚申講中によるもの、3基は念仏講中によるもの、そして1基は放光地蔵であり地蔵と観音の両方を含む安産祈願の信仰対象。民間信仰の多様性とそのクロスオーバー状態には感心する。

場所  板橋区徳丸6丁目52-5

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2021年5月27日 (木)

徳丸6-53庚申塔(板橋区徳丸)

とある民家の路傍に墓石のようなものがあり、ブロック塀で囲まれている。墓石ではなくれっきとした庚申塔である。極めてシンプルな角柱型の庚申塔であるがゆえに墓石に見えなくもない。

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この庚申塔の造立年は文久2年(1862)9月。正面に大きく「庚申塔」と書かれている。台石にはいろいろ彫られているが、浅めの刻みなのでかなり消えかけている。正面には、「右 ねりま 江戸 道」「向 赤塚 吹上 道」「左 にしたい ▢▢▢道」とあり道標を兼ねていたのだろう。願主名で多い姓は「小泉」次いで「粕谷、石田」。

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板橋区の資料によると、もともと旧吹上道にあったものが、区画整理により旧道が廃道になったため、昭和46年~47年頃現在地に移されたという。平成に入ってもこの地域では庚申講が行われていると聞いたが、今も続いているのだろうか。同じ徳丸の中でも松月院付近の庚申講は続いていると直接施主の方に聞いたので、この辺りの庚申講も続いている可能性が高い。

場所  板橋区徳丸6丁目53-2

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2021年5月26日 (水)

天神坂下の庚申堂(板橋区徳丸)

徳丸でも有数の急坂である天神坂は名坂であると思う。坂上には徳丸北野神社があり、その参道に繋がっている。現在は一本西に南北に走る徳丸通りが主要道路になっているが、昔は前谷津川の宮下橋を渡るとこの堂宇の前を通って上っていく天神坂が南北の主要道路であった。

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天神坂下にあるマンションの場所にはもともと小原家の工場があったらしい。現在はマンション下の駐車スペースになっているが、なかなか立派な堂宇があり、庚申塔と馬頭観音が祀られている。左にある駒型の庚申塔で享保8年(1723)10月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、主尊脇には「奉造立庚申為二世安楽也」とある。下部には「武州豊島郡 徳丸講中 十四人」とある。

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この庚申塔は元は北野神社参道登り口にあったが、参道の回収の為、小原氏の工場があったこの場所に移したという記録がある。一方の馬頭観音はきれいな駒型で、享保12年(1727)12月の造立。馬頭観音としては古いものだが保存状態が素晴らしい。罵倒の馬型もくっきりとしている。下部には「奉造立馬頭観音  武州豊嶋郡徳丸村  講中十六人」と記されている。

場所  板橋区徳丸6丁目6-16

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2021年5月25日 (火)

宮下大山不動明王碑(板橋区徳丸)

徳丸6丁目の前谷津川緑道の植込みに古い石塔が立っている。傍には説明板が立っていて、その謂れを教えてくれる。その題は『前谷津川と宮下大山不動明王』。ここにはその名の通り前谷津川が流れていた。前谷津川は多くの支流を集めて荒川に注ぐ5㎞程の小河川。この石碑はもともと現在地の約15m上流にあった宮下橋のたもとにあった。

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この碑は文化元年(1804)4月に、徳丸の羽黒山講中という集団が、霊山大山参拝を記念して造立したもの。もともとはこの上に不動明王像が載っていたようだが、大水や開発によっていつしか消えてしまったという。後に近くの民有地に建てられていたが、そこが開発となり平成17年(2005)4月にこの場所に移転した。

場所  板橋区徳丸6丁目7-6

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2021年5月24日 (月)

中尾観音堂の石仏(板橋区徳丸)

中尾観音堂か長谷津観音堂かの違いだが、大正時代の地図を見ると前谷津川沿いの低地の地名が長谷津(ながやつ)で、その南の台地上の地名が中尾(なこう)になっており、どっちの名前で呼ぶかの問題なのかもしれない。前谷津川は多くの支流を持ち、観音堂は不動通りの谷とその西隣の沢の間の舌状地に立つ。

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階段を上ると左手に庚申塔が並ぶが、観音堂手前右手には地蔵などの石仏が並んでいる。ここの石仏群はなかなか多彩である。5基が並んでいるが、一番左は舟型の地蔵菩薩立像。元文元年(1736)11月の造立で、尊像右に「奉供養地蔵尊」、左に年紀が記されている。下部には「武刕豊嶋郡徳丸村中尾道 講中十四人 願主 追川太郎…」とある。

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その右は珍しい六地蔵。それぞれの地蔵の足元に一二三三四五六とあるのも興味深い。側面にもいろいろ彫られているが読みにくいので資料を参考にすると、宝永2年(1705)10月の造立、「武刕徳丸之内中尾」とあり、施主追河太郎左衛門とあるがこれは追川の意だろう。中尾の地では追川家が有力だったようだ。

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右の3基は左から舟型の聖観音立像。造立は寛文11年(1671)2月で、「普眠四天下為度衆故」としかないので墓石ではなさそう。下部に願主名があるが読めない。隣りの舟型地蔵菩薩は寛延3年(1750)の造立。「智明童子」「法春童子」とあるので子供の墓石だったのだろうか。それぞれの没年月があるが後者の月が読み取れない。右端は延宝8年(1680)9月造立の丸彫地蔵菩薩像で、台石に戒名のような記載があるのでこれも墓石の可能性が高い。

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少し離れた墓地の中に大きな舟型光背型の聖観音菩薩があった。造立は寛文11年(1671)3月とある。これも墓石であるが、「追河市郎右衛門 為妙▢十七年菩提也」とあり、前述の追川家によって建てられたもののようである。ちなみに『いたばしの地名』によると、「崖下で中尾谷津と長谷津が出合う地形」、「中段の平地に中尾観音堂」、「境内には、中尾、長谷津、絶通と呼ばれた地域の旧家の名前を刻んだ庚申塔」という記載があり、崖下の長谷津、台地の中尾、さらに不動通りの谷を中尾谷津と呼いでいたようである。

場所  板橋区徳丸2丁目20-10

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2021年5月23日 (日)

中尾観音堂の庚申塔(板橋区徳丸)

前谷津川の右岸(南側)の台地は明治時代の地図では「中尾原(なこうのはら)」、大正時代は「原」、昭和に入ると「旧観音講」と地名表記が異なる。しかし中尾観音堂の別名は「長谷津(ながやつ)観音堂」という。どれがどの時代の地名なのかよく分からない。中尾観音堂は前谷津川の右岸の崖線にあり、目の前の坂はかなりの急坂である。

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観音堂も階段を上っていく。どこかの寺院に所属しているわけではない単独の観音堂である。江戸時代は徳丸村は徳丸本村と徳丸脇村に分かれており、ここは徳丸脇村である。その脇村の共同寺院が今も残っているわけである。階段をのぼり、観音堂の手前を左に回ると庚申塔のならんだ堂宇がある。

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どれも江戸時代中期の庚申塔である。左端は笠付角柱型の庚申塔で、安永7年(1710)2月の造立。笠は素朴なデザインで、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれている。右面には「奉造立庚申尊像二世安楽所」とあり、左面には年紀が刻まれている。下部に講中廿六人とあり、意外と人数が多い。

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その隣は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、邪鬼が派手に踏みつけられている。享保18年(1733)12月の造立で、「武刕豊嶋郡徳丸中尾村」の銘がある。「講中 十六人 願主 追川久兵衛」と書かれている。

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右から二番目の庚申塔は迫力あるデザイン。 造立年は宝暦2年(1752)11月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれ、右面には「奉造立庚申尊像一軆」、左面には年紀と「武刕豊嶌郡徳丸村中尾  追川氏 講中 十五人」とある。一番右も駒型で、宝暦4年(1754)の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「武刕豊嶋郡徳丸村  絶通講中 十二人」とある。「絶通」は古い地名で、長谷津とほぼ同じ地域を指す。

場所  板橋区徳丸2丁目20-10

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2021年5月22日 (土)

原口の庚申塔と地蔵(板橋区徳丸)

原口という地名があるわけではないようだ。お伊勢坂の坂上、観音講の丘陵上の屋敷地あたりを「原」と呼んでいたのでその入口という意味合いではないだろうか。原は現在の徳丸3丁目と4丁目辺りになる。お伊勢坂を上ってここまでの道は現在では徳丸石川通りというバス通りになっている。セブンイレブンのある交差点の北隣に保育園があり、その脇に庚申塔と地蔵が並んでいる。

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保育園と地蔵堂という並びはいい。こういうものを拝む子供達は生活の中にご先祖様を感じる生き方が出来る可能性があるからである。祀られているのは左から、地蔵菩薩、庚申塔、庚申塔。左の地蔵は舟型光背型で、元禄13年(1700)10月の造立。文字は摩滅していて読めないが、史料によると「奉造立地蔵尊像  施主  功徳敬白」とあるらしい。

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中央は板碑型の庚申塔。文字塔で下部には蓮座、これも文字は読めないので、区の資料を見ると享保8年(1723)11月の造立。「奉造立庚申尊像二世安楽所」と中央に、脇には「武刕豊嶋郡 徳丸村講中十五人」と書かれているようだ。資料には下部に三猿があると書かれているが、現状ではコンクリートに埋まっていて視認できない。右の庚申塔は珍しい形である。寛文8年(1668)11月造立の庚申塔で、中央には「妙法奉庚申勧請處石塔也」とある。「武州戸嶋之郡徳丸村」とあるが豊嶋郡の誤字である。下部のもじゃもじゃの中に三猿がいるように見えるがかなり摩滅していて二猿なのか三猿なのかは分からない。

場所  板橋区徳丸4丁目20-28

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2021年5月21日 (金)

四葉2-10庚申塔(板橋区四葉)

四葉を東西に走る都道446号線にユニクロ、ウェルシア(ドラッグ)、などのロードサイド店舗が集まるエリアがある。最寄りのバス停は「四葉町」。そのドラッグストアウェルシアの横に小さな堂宇がある。

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祀られているのは駒型の庚申塔。造立年は元文5年(1740)1月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。横には「四葉村 講中十三人」の銘がある。右側には「奉造立庚申供養塔」と書かれている。この庚申塔は左手にショケラをぶら下げている。

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ショケラというのは時折青面金剛像が髪をつかんでぶら下げている半裸の女人像(合掌していたりする)のことを言うが、庚申塔研究の中で一般化した呼び名であって汎用されているとは言えない。このショケラは江戸時代中期以降のものにみられる。もっとも青面金剛像が主尊になってきたのが江戸時代中期だから、もっともなことである。この庚申塔のショケラは合掌しているが残念ながら下半身が欠損している。

場所  板橋区四葉2丁目10-1

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2021年5月20日 (木)

番場口の庚申塔(板橋区徳丸)

高島平から南下して西に曲がり成増に抜ける都道446号線と、徳丸を南北に走る徳丸石川通りの交差点にある区立紅梅公園。その南東の角にあるのが「番場口の庚申塔」。角柱型で、日月、「庚申塔」の文字、台石に「講中」と大きく彫られている。造立年は文久2年(1862)9月。向かって左面に「徳丸村」、台石側面には「東 にしだい道 西 ふきあげ道」とある。

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この庚申塔、もともとは西台から成増方面の台地下の崖線に沿って通っていた峡田道(はけたみち)と呼ばれる道沿いにあった。都道の坂道「番場の坂」の坂下あたりである。吹上道釣堀前だったというので現在は赤塚公園の中になる。その後区画整理によって移設を繰り返し、昭和50年(1975)10月に徳丸8丁目13番地(勾配小学校のやや西)から、現在地に平成16年(2004)6月にやってきた。

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昔は紅梅公園から番場の坂の坂下の赤塚公園前あたりまでは番場という地名で呼ばれていた為、現在でも「番場口の庚申塔」という名でよばれている。江戸時代末期に造立されてから、どうしてこんなに動かされるのだろうと、もし庚申塔に言葉が喋れたら言うのかもしれない。

場所  板橋区徳丸8丁目5-1

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2021年5月19日 (水)

延命地蔵と道標碑(板橋区徳丸・四葉)

徳丸石川通りを北に歩いていくと、再び広大な敷地のある旧家がありその塀に新しい延命地蔵尊が祀られていた。今でこそ広い通り沿いだが、耕地整理後に出来た道で、昔はこの南北の道はなかった。昭和の初め頃までは1000坪なんて広さは当たり前だったりしたのだろう。勿論その中に果樹園があり、畑があって、自給自足の役を果たしていたはずである。

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この地蔵の造立は安井家によるもので、近くの文字庚申塔の旧家も安井家だったから、この辺りではかなり大きな農家だったのだろう。台石の側面を見ると、「為清室全涼大姉菩提地蔵尊建立  文化壬申9年(1812)7月12日 初代 安井斧右衛門」とあり、その横に「昭和35年墓地改修の際没した為延命地蔵尊を再建す 昭和56年9月 施主六代目 安井留五郎」と彫られている。なるほど。

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さらに北に進むと紅梅公園という広い公園があり、その手前の歩道に石碑が立っていた。『御大典記念道標碑』というようだ。天皇の即位を記念して徳丸、四葉の人々が建立したもの。年号はないが説明板によると大正4年大正4年(1915)の建立。道標を兼ねており、「右 戸田 赤羽 道」「前 成増停車場/白子 川越 道」「左 白子観音道」と記されている。昭和50年代には四葉の路傍に放置されていたが、耕地整理で行方不明になり、その後四葉遺跡の発掘の折に発見されたという。

場所  地蔵 板橋区徳丸5丁目38-11 / 道標碑 板橋区四葉2丁目5

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2021年5月18日 (火)

安井家の文字庚申塔(板橋区徳丸)

徳丸には旧家が多く豪農と思われる家も多い。徳丸石川通りに面している安井家もそのひとつとみていいだろう。家と庭で1500坪、脇に畑が1000坪くらいの面積がある。今の日本の税制ではこういう家がどんどん消えてしまうのは残念でならない。庭の南東の角に堂宇が建てられており、庚申塔が祀られている。

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庚申塔は角柱型で、正面に大きく「庚申塔」と彫られ、上部には日月が線刻されている。台石にも何かあるかと覗いてみたがいささか暗くて視認できなかった。この庚申塔は区の記録にも載っていない為、情報が補完できない。

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右の面には「嘉永五壬子年二月吉日」とあるので、嘉永5年(1852)2月の造立。左面には「武列豊嶋郡徳丸村」と書かれている。石材の質はあまりよくないので、そろそろ風化が始まりそうである。しかし徳丸地区の庚申塔の密度は高い。小字ごとに残っているように思われる。そして旧家には馬頭観音があったりと、石仏探訪をしているとすぐに次の石仏に着いてしまう。

場所  板橋区徳丸5丁目30-8

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2021年5月17日 (月)

窪口の庚申塔(板橋区徳丸)

徳丸5丁目に徳丸三ツ和公園という小さな児童公園があり、その一角に庚申塔が祀られている。何の変哲もない児童公園なのだが、一角に徳丸五丁目の集会所があったりするので、町内の人々には庚申塔があってしかるべき場所だったのだろう。

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庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、二鶏が描かれている。下部に三猿も描かれているようだが、手前の香炉が邪魔して見えにくい。台石が手前に別途置かれていた。その台石には正徳3年(1713)春二月とあるのだが、庚申塔本体には寛延3年(1750)2月の造立年が彫られている。正面には「奉造立庚申尊像」とあり、側面には「武刕豊嶋郡徳丸郷 講中 十二人 敬白」と書かれている。台石は他の石仏のもののようだが見当たらない。

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この庚申塔は以前は200mほど北東にある安楽寺の山門前にあったという。それを平成17年(2009)9月にここに移転した。普通路傍にあったものを寺に移すのが大多数であり、その逆は殆ど聞いたことがない。よほど地元の方が熱心だったのだろうか。なお窪口(くぼくち)という地名は、史料では久保という小字になっており、おそらくは当て字である。講中の人数も少ないことから、久保の農民たちが出資しあって建てたものだろう。

場所  板橋区徳丸5丁目32-9

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2021年5月16日 (日)

篠本家の馬頭観音(板橋区徳丸)

前谷津川の左岸は南面の傾斜地で、そこから台地上にかけては日当たりが良く、今でも旧家が多く残っている。多くの家には屋敷神があり、武蔵野の農家の印象を残している。そんな旧家のひとつと思われるのがこの篠本家で、塀に馬頭観音が格納してある。

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この馬頭観音はなぜか板橋区の資料にも載っていない。篠本家の名前についても近隣の他の庚申塔や石仏にもほとんど出てこない事と関係があるのだろうか。篠本という名前は姓のデータで調べると甲斐の国起源で、東京、茨城、大阪、兵庫に多い。全国には1500人ほどの篠本さんがいらっしゃるようだ。しかし篠家という旧家が練馬近辺(特に下練馬村)では特にリーダー的な存在だったことから、その分家か隠居が元篠家ということで篠本を名乗った可能性も十分にあり得ると私は考えている。

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馬頭観音は角柱型で、正面には「奉勧請南無馬頭観世音菩薩」、その右に「具一切功徳慈眼視衆生」、左に「福聚海無償是故於順禮」とある。造立年は大正3年(1914)2月の建立と書かれており、願主名は篠本善之叡と読める。旧家の多い徳丸はあちこちにこういった個人所有の石仏があって散策の楽しみは深い。

場所  板橋区徳丸5丁目34-6

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2021年5月15日 (土)

駐車場擁壁の庚申塔(板橋区徳丸)

板橋区徳丸は坂だらけの街。名のある坂道の何十倍も無名の坂道が至る所にある。武蔵野台地を前谷津川とその支流が深く削り取った地形のためにどうしても坂道が多くなってしまうのだが、特に徳丸はその傾斜が急である。表と裏で10m程しか離れていないのに、高低差が5mくらいは普通にあったりするから、坂道どころか階段も極めて多い。

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そんな一角に5mほどのコンクリート擁壁があり、その途中に頑丈なコンクリート製のテーブルが作られてそこに舟型の庚申塔が載せられている。このようなロケーションの庚申塔は極めて稀である。他人の土地とは認識しつつ、駐車場に立ち入って撮影させていただいた。

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舟型の庚申塔には、日月、青面金剛像、そして下部に二鶏が描かれている。なぜか三猿はない。右側には「奉造立庚申像二世安楽処  願主  石井道宥」とある。造立年は元禄13年(1700)5月である。この庚申塔、資料によるともともとは北野神社参道の登り口にあったものらしい。現在の場所はおそらく、天神坂を登りきったあたりだろう。

場所  板橋区徳丸5丁目12-4

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2021年5月14日 (金)

石川橋公園の庚申塔(板橋区徳丸)

高島平駅近くで新河岸川に合流していた前谷津川は昭和59年(1984)にすべて暗渠化され、多くは緑道、遊歩道、公園になっている。そのうちのひとつが石川橋公園である。かつての石川橋の橋下で下赤塚小学校から篠ケ谷戸公園を経て流れてきた北からの沢(前谷津川)と、下赤塚駅付近から流れてきた南からの沢(梶谷津川)が合流していた。

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現在、庚申塔は公園内にあるが、その前は道路を挟んだ北側にあったらしい。しかしもとは石川橋あたりにあったのではないかと考える。これより南は小字中尾原(なこうのはら)だが同じ村内ではあるが、徳丸村は広いので集落としてはこの辺りが境だったはずである。

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庚申塔は角柱型で、頂頭部が水による浸食を受けて凹凸している。正面には「庚申塔」の文字が大きく書かれ、台石の正面にも「講中」と大きく彫られている。右面には「北 赤塚 吹上 道」、左面には「左 ねりま いたばし 道」とあり、道標を兼ねている。疑問なのは、石川橋だとすると赤塚と吹上(観音)の反対は練馬、板橋ではないことだ。昔の道は曲がりくねっているので、単純には言い切れないが板橋は石川橋から東の方向で、上板橋を経て練馬に抜けるのがルートだったのだろう。とすると北という表現が単純に北ということではなく、橋を渡るとというくらいの意味合いだったかもしれない。地図を片手に現地で悩んでしまった。

場所  板橋区徳丸5丁目19-1

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2021年5月13日 (木)

宮前坂の民家の庚申塔(板橋区四葉)

宮前坂には消えた三基の庚申塔があった。坂の途中の庚申塔の周りで新築戸建ての擁壁工事が始まった頃に一度訪問したのだが、何となく不安でその後に訪れると消え去っていた。今もその庚申塔がどこに行ったのかを探しているが、訪問は近場でも年に1回くらいしかできない。

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その庚申塔があった場所の少し坂下にの角の民家にあった一基の庚申塔は建て替えの後もきちんと塀に場所を築き祀られておりホッとした。路傍の石仏は時折こういうことがあるので、何年かに一度は再訪したくなる。

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駒型の庚申塔は上部に日月、その下に文字、下部に三猿が陽刻されたもの。中央の文字は「奉供養庚申爲二世安楽也」、右列は「武州豊嶋郡四ツ葉村(四葉村の誤字)」とある。左には元禄2年(1689)11月の年紀。最下部には願主名が7名ほど刻まれている。四葉村の石仏には、四ツ葉村、四ツ場村、四葉村といろんな表示があるが、これは江戸時代の人々がそれほど漢字をきちんと理解していなかったからだろう。音声で聞けばすべて同じ音であるから、当時の人々にとっては漢字が違っても大した問題ではなかったのかもしれない。

場所  板橋区四葉1丁目26-4

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2021年5月12日 (水)

旧薬師堂跡の墓所(板橋区四葉)

宮前坂の坂上近くに小さな墓所がある。明治40年(1907)までここには薬師堂があったが、老朽化で少し北にある四葉観音堂に合祀されたという。しかし通りがかりに気にかかる墓所だったのでお邪魔して石仏を拝見させていただいた。

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道路寄りに堂宇があり、内外に石仏が数体祀られている。もともとこの堂宇は少し高くなっていて釈迦塚と呼ばれていたらしい。その理由は堂宇の中にある石仏で、万治4年(1661)2月造立の釈迦如来像である。なかなか珍しい石仏で、釈迦如来のこういう古い石仏は滅多に見掛けない。

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釈迦像の脇には折れてしまった板碑が数枚立てかけられている。そっちも極めて貴重なものだが、何気なく置かれているのが恐れ入る。また堂宇の脇に並ぶ石仏は墓石ではあるが、享保12年(1727)11月の聖観音像、寛文4年(1664)12月造立の如意輪観音像、板碑型供養塔が元文2年(1737)10月のものと正保10年(1645)11月のものなど、かなり古いものがさりげなく並んでいる。

場所  板橋区四葉1丁目27-30

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2021年5月11日 (火)

四葉観音堂(板橋区四葉)

四葉は江戸時代初期は徳丸村の一部だったが、正保年間(1644~1648)に徳丸村は3村に分かれその一つが四葉村となった。四葉村は南に前谷津川が東流し、その谷と台地の間の傾斜の大きな地域である。昔からあるという宮前坂を水車公園から上っていくとやがて稲荷神社に着くが、この稲荷神社が宮前坂の名前の由来である。

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稲荷神社の西側にある墓所が四葉観音堂。安楽寺の支院として延宝8年(1680)に創建され、その後は真言宗の安楽寺、曹洞宗の松月院、日蓮宗の新倉の妙典寺が共同管理している。稲荷神社側の端にあるのが万延元年(1860)12月造立の笠付角柱型の庚申塔。正面には日月と「庚申塔」の文字、側面には年紀と「武州豊嶋郡四葉村講中」の文字がある。しかし裏面には大正13年(1924)5月の年紀も入っている。しかしどう見ても江戸時代のものである。台石には沢山の願主名が刻まれているが、正面にある線刻の三猿が印象的である。三猿の脇には「東 志むら  西  志らこ」とある。

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墓所入口の脇には背の高い丸彫地蔵菩薩が立つ。造立年は享保8年(1723)1月。台石には、「東叡山領四ツ葉村  願主 橋本伊兵衛」「奉造立地蔵菩薩」「念仏講中五十人余 寒令佛志」と刻まれている。東叡山領というのは江戸時代の中期に四葉村が上野の東叡山寛永寺の所領になった時期のものだからか。

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地蔵の近くには笠欠と思われる角柱型の供養塔が立っている。造立年は元文2年(1737)春彼岸とあり、西國坂東秩父百ヶ處…とあるので巡礼供養塔である。

場所  板橋区四葉2丁目19-2

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2021年5月10日 (月)

大門観音堂の石仏(板橋区大門)

大門観音堂、正式には源後成法観音堂というらしい。曹洞宗寺院の観音堂だが現在は無住で松月院が管理している。この観音堂の墓所は豊嶋一族の須田家の墓所になっており、一族の元である須田時光は日蓮上人に入信し当地に十羅刹堂を建てたと伝えられる。日蓮なのに曹洞宗というのは合点が行かないが、石仏にはあまり関係ない。

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墓所にも素晴らしい石仏がいくつもあり目に留まるが、特に水子地蔵尊の脇にあるこの舟型地蔵は存在感があった。造立年は寛文10年(1670)8月、脇には「奉建立石地蔵尊一躰千日念佛廻塔干時寛文十養暦恭敬供養哀慇納受一切衆生皆光成仏」と書かれているので、墓石ではなく講中による供養だと思われる。

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観音堂の脇にはいくつもの石仏が並んでいる。一番手前にあるのは唐破風笠付角柱型の庚申塔。正徳5年(1715)5月の造立。側面には蓮華一葉が陽刻されており、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。右面には「奉造立庚申供養塔爲現當二世安楽也」とある。この庚申塔はもとは大門13番地にあったもの。旧道のしったり坂下、峡田道の十字路にあった早瀬道への道標にもなっていたという。下部には大門村講中十二人の銘がある。

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もう一基の庚申塔は奥にある。舟型の庚申塔は上部に日月、その下に「奉造立庚申供養現當二世為安楽」と書かれ、下部には三猿が陽刻されている。造立は正徳3年(1713)2月で、赤塚村大門 同行拾貮人とある。この庚申塔はもともと大門観音堂にあったもの。

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塀沿いにある石仏の中でこの聖観音像も古くて良いものである。造立年は寛文4年(1664)3月。「本誉禅大徳赤塚大門村施主」とある。頂部が若干欠けているが江戸時代初期のきれいな聖観音菩薩である。

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その脇には一つの台座に2基の地蔵菩薩立像と聖観音菩薩坐像が載せられている。2体の地蔵の造立年等は不詳だが、見た感じ同時に作られたもののようである。しかし、右の聖観音座像はおそらく別造で、書かれている年季は天明3年(1783)。聖観音の座像は珍しい。

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最後に舟型の地蔵菩薩像。シンプルなもので、造立年は宝暦7年(1757)3月。下赤塚大門村の銘がある。小さな墓所のある観音堂だが、由緒ある墓所なので石仏もなかなか素晴らしい。ちなみに観音堂の前の道は観音寺坂という坂道。なぜ観音堂前なのに観音寺坂なのかは不明。

場所  板橋区大門2-6

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2021年5月 9日 (日)

松月堂の石仏(3) (板橋区赤塚)

前回に漏れた石仏を紹介。松月院は参道を進み最初の山門をくぐると、左手に壁面に馬頭観世音を収納した幼稚園の建物がある。山門のすぐ右手には区の天然記念物に指定された柊(ひいらぎ)の巨樹。そのまま進むと、二番目の山門(中朱雀門)があり、その先に本堂がある。中朱雀門には入らず、建物との間を左に抜けていくと、塀が切れて堂宇になっており4基の石仏が祀られている。

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左から、庚申塔、舟型地蔵菩薩、丸彫地蔵菩薩が2基の順である。どれも見た感じは江戸時代初期から中期にかけてもののように見受けられる。

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一番左にある唐破風笠付の角柱型庚申塔はかなり表面の摩滅が進んでいて文字などもほとんど読み取れない。青面金剛像は確認できるもののそれ以外は殆ど分からないくらい風化が進んでいる。おそらくは江戸時代中期のものであろう。庚申塔の隣の舟型光背型の地蔵菩薩も相当風化していて文字は全く解読不可能。まるで海水に浸かっていたかのようである。

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右から二番目の地蔵は「寺前地蔵」というらしい。供えた塩を痛む歯にこすりつけると歯痛が治ると信じられていた。塩がらみの石仏は塩による浸食風化が激しいが、この地蔵の台石、基壇も相当な風化の進行度が見られる。まるで磯の荒波に削られたようである。

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一番右にある地蔵は台石に書かれた文字が見える。造立年は元禄12年(1699)9月で、武州下赤塚村の銘がある。この地蔵はもともと地蔵塚にあったもの。この話は元塚地蔵堂の所にも書いたが、地蔵塚にあった地蔵と庚申塔は、庚申塔が松月院大堂に移設され、地蔵はここに移設されたのである。こちらが古くからの地蔵塚の地蔵で、現在元塚地蔵堂にあるのは昭和50年に再建されたもの、という訳である。

場所  板橋区赤塚8丁目4-9

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2021年5月 8日 (土)

民家園裏の庚申塔(世田谷区喜多見)

次太夫堀民家園の裏口傍らにある庚申塔。ここに移設されてからも十分な手入れをされているようで極めて保存状態が良い。次太夫堀民家園の竹藪を背景にした景色もいい。

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左の大きい方の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は寛政12年(1800)10月である。右の庚申塔は少し小さいが、同じく駒型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。三猿の比率が大きい。造立年は宝永2年(1705)2月である。

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この二基の庚申塔は以前に等々力6丁目24-18の民家にあったもの。新しい住宅が立った際に撤去されたが、いつからか次太夫堀民家園の裏手に祀られるようになった。普通は近くの寺社に移すことが多いのだが、何か事情があったのだろう。同じ場所には他に4基、計6基の庚申塔があった。そのうち3基は九品仏浄真寺の山門脇に移設して祀られている。ただ一基だけ、元文5年(1740)の板碑型三猿の庚申塔が何処に行ったのか分からない。

場所  世田谷区喜多見5丁目24-6

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2021年5月 7日 (金)

宝寿院光伝寺の石仏(世田谷区喜多見)

現代の世田谷区喜多見は東名高速道路を南の境にしている。喜多見は鎌倉、室町時代は木田見と書き、江戸氏の後を継いだ木田見氏が支配していた。その後徳川家康が江戸入城すると江戸姓を使わず、喜多見(北見)と名乗るようになったという。光伝寺は昔から地元では宝寿院という院号で呼ばれており、おそらく今でも宝寿院の方が馴染みが深い。永禄12年(1569)の創建で、明治時代には喜多見学校や尋常小学校として使われていた時期もあった。

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墓所に回り込むと時代を感じさせる三体の地蔵が並んでいた。どれもおそらく墓石だったと思われる。左の舟型地蔵には10ほどの戒名と没年が記されており、寛永3年(1626)~元禄2年(1689)であることから元禄年間の頃の建立だろう。中央も素晴らしい舟型地蔵で、「奉供養為法界無縁信願主厭誉攸西大恵」とあるので高貴な女性の墓石ではなかろうか。造立年は万治3年(1660)4月とある。丸彫の地蔵については何も記されていなかった。

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道路との間の塀の傍には巨大な馬頭観世音塔があった。造立年は元治2年(1865)2月。明治維新直前である。台石の正面には「馬持中」とあり、石塔側面には「武刕多摩郡喜多見村」の銘がある。台石脇には願主名がずらりと数十人並んで記されており、喜多見村だけでなく祖師谷、野田(現在の成城の崖線下)、大蔵山谷などの馬持も参加しているようだ。

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その脇には他にも馬頭観世音塔が二基。後ろの摩滅が相当進んでしまった石塔も馬頭観音だが造立年等は全く読めない。手前の角柱型の馬頭う観音は時代が新しく、明治41年(1908)3月のもので、小泉角兵衛と願主名が刻まれている。喜多見辺りには小泉姓も見られ、江戸時代初期に幕府の命で次太夫堀を開削した小泉次太夫の子孫かもしれない。

場所  世田谷区喜多見5丁目13-10

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2021年5月 6日 (木)

吉祥院の石仏(世田谷区鎌田)

吉祥院は大聖山地蔵寺という真言宗の寺院。奈良時代の天平12年(740)に行基が開祖となって創建し、良弁によって開山したと伝えられる。あまりに昔の話でピンとこないが、南北朝時代初期の建武2年(1335)に焼失、後に吉良氏が再興したが江戸期には寂れてしまい無住の時代が続いたが村人によって江戸時代中期に再興された。

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江戸時代前期は荏原郡大蔵村と鎌田村が入り組んでいた。この辺りに多い石井家は鎌倉から派遣されてきた領主で、それまで支配者だった鎌田家との軋轢があったのかどうかは不明。石井家は大蔵村の中心的な家になり現在に至るが、鎌倉時代から室町時代の痕跡が住民の苗字に残っていることは興味深い。

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本堂の左手に回り込むと墓所の入口に屋根付き堂があり、六地蔵と庚申塔がある。この六地蔵は寛政5年(1793)7月のもので、鎌田村惣念仏講中の銘がある。願主名には橋本姓が並んでいるが、この橋本姓はもともとは鎌田姓でいつからか改名して橋本としたようだが、橋本家ではもともと鎌田家であったことは口伝されているらしい。

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六地蔵の後ろに控えるのは笠付角柱型の庚申塔である。総高は111㎝ある大きなもので、正面に青面金剛像、そして下部の三面にそれぞれ一猿が陽刻されている。左面には「奉造立庚申供養二世安楽所」、右面には武刕多摩郡世田谷領内鎌田村とあり、元禄3年(1690)10月の造立年が刻まれている。正面下部に彫られた願主名の半分は石井姓。六地蔵が殆ど橋本姓だったのに対してこちらは石井姓が主体で、講中にも家の関係があったのかどうか気になるところである。

場所  世田谷区鎌田4丁目11-18

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2021年5月 5日 (水)

板橋区郷土資料館裏庭(板橋区赤塚)

郷土資料館の中庭には多くの石仏があり、裏手には旧田中家住宅が移管されている。江戸時代の典型的な農家建築でかつての武蔵野の農家の暮らしを見せてくれる。この古民家の裏手にも石仏が保存されている。

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一番右の角柱には「稲荷大明神 御霊前」とあり、側面には享保17年(1732)の年紀があるが、どこの稲荷神社のものなのかは分からない。その手前の石仏は馬頭観音で文政13年(1830)7月の建立。側面には粕谷丹治郎の銘がある。中央の地蔵菩薩像は享保8年(1723)5月の造立で、「真入童子」の銘は無くなった子供だろうか、施主名は洲崎半左衛門とある。左はかなり傷んでいるが、宝永5年(1708)造立の聖観音菩薩像である。赤塚氷川神社にあったものらしいが、巣鴨村の銘がある。

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その先に並ぶのは角柱型の馬頭観音。正面に「馬頭観世音」とあるが年紀等は不明。左の石柱は「大典紀念」と上に書かれ、その下には「右 成増停車場  左  赤塚村役場」という道標になっている。側面には大正4年(1915)の年紀。反対側には帝國在郷軍人會の銘がある。現在の都道長後赤塚線沿いにあったものだろう。同じような角柱が阿弥陀堂前の庚申塔の脇にあったのを思い出した。

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左端近くにある不思議な塔型の庚申塔は珍しい。しかし板橋区の資料には載っていない。造立年等は分からない。正面下部に三猿がフォーメーションを組むように並んでいる。上部の穴は馬繋ぎ石だったのだろうか。その部分が折れて修復されている。ただ馬繋ぎ石としてはいささか大き過ぎる気もする。謎である。

場所  板橋区赤塚5丁目35-25

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2021年5月 4日 (火)

板橋区立郷土資料館中庭(板橋区赤塚)

赤塚城址の北側に板橋区の郷土資料館がある。多くの区の郷土資料館と同じく交通の便はよくない。しかしその分空いていてゆっくりと観覧することができる。そして資料館には行き場を失った石仏石塔が保管されることが多い。本来の場所にある意味は失われるのだが、破棄されるよりはありがたい。

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中庭には沢山の石仏石塔がある。まずはこの駒型庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、三猿がデザインされている。造立年は宝永元年(1704)11月。赤塚3丁目7の笹生宅で造園の際に、庭師によって持ち込まれたが、一体どこにあったものかは分からないらしい。

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こちらは自然石に彫られた馬頭観世音塔。造立年は文政3年(1820)2月とある。施主名は福嶌忠兵衛と書かれているが、他の石仏で福嶌姓はあまり見かけない。いったいどこにあったものだろうか。

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資料館の建物側にはいくつもの庚申塔が並んでいる。この駒型庚申塔は中央で中折れが補修されており、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。右面には「奉造立庚申供養塔一▢  武州豊嶋郡奉造立為二世安楽 門前谷講中」とあり、左面には造立年部分が欠損、しかし12月というのは読める。下部には「峡田領 西臺村」とある。また両脇には道標が記されており、右には「南ハ 祢里ま 大山道」、左には「東ハ いたはし 江戸直(道の間違い)」とある。元あった場所は若木1-27というから、環八通りが地下から出てくる辺りだろう。

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その並びには面白い形の笠付角柱型の庚申塔。これも中折れ補修の跡がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、間壁伊右エ門の銘がある。右面には、「奉造立青面金剛為二世安楽也」、左面には享保8年(1723)2月の年紀と「武▢豊嶋郡上赤塚藪村 講中十二人」とある。区画整理前に不動滝前通り(鎌倉道と言われる)と峡田道の丁字路にあった。実は笠は他の石塔のものを合わせているらしい。左の石仏は不動明王像。宝暦10年(1760)1月の造立。元あった場所は徳丸5-4だというからおいせ坂の坂下の交差点辺りだろう。

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中庭最後は探していた庚申塔3基である。梶谷津の坂を書いた時に個人的に気に入っていたこの庚申塔が無くなったと書いたら、親切な匿名の方からコメントがあり、郷土資料館に移管されたということを知った。左の笠付角柱型の庚申塔は、元禄16年(1703)2月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。左面には「武州豊嶋郡下赤塚村同行七人」とある。中央は、変形舟型で文字塔に三猿が陽刻されている。造立年は貞享5年(1688)2月で、同修行者十二人と書かれている。側面には「武州豊嶋郡下赤塚村 寺家村」とあるが、なぜ修行なのかは不明。右の駒型庚申塔は、宝永7年(1710)仲春(2月)の造立。こちらも文字塔の株が三猿の陽刻になっており、「奉造立庚申塔爲二世安楽也」「武州豊嶋郡下赤塚村 十二人」と書かれている。今回は旧友と再会したような心持で拝見させていただいた。

場所  板橋区赤塚5丁目35-25

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2021年5月 3日 (月)

民家(本橋家)の庚申塔(板橋区赤塚)

板橋区立郷土資料館や美術館のある辺りから松月院に至る道は東京大仏通りといい、谷筋を上っていく。この谷筋には昔、赤塚川という細流が流れており、源頭は赤塚小学校辺り。赤塚城址はこの赤塚川と西の清涼川の間の舌状台地に築かれた城で、さすがにこれだけの土地を盛土したわけではない。赤塚川の両岸にはいくつもの坂や階段があり、上流にはつるし坂、下流には赤バッケ坂(階段)など散歩をすると重力に逆らってカロリーを使う。

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赤バッケ坂の上の台地上には昔からの旧家も散見され、そのうちの一軒の玄関脇の塀に庚申塔が埋め込まれている。駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は宝暦5年(1755)2月。このお屋敷は本橋家というお宅で、この辺りの古くからの農家と思われる。向かって右面には「青面立佛 奉造立庚申供養塔 武刕豊嶋郡」とあり、その下に「左 早瀬道  右 赤塚大門村」とある。左面には「講中廿人  左 吹上道」と彫られていた。

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この庚申塔は昔は、旧道馬坂上にて不動滝への三差路の帰路にあったのを、区画整理の際現在地に移設したらしいが、馬坂が特定できない。しかし地形から推定して、東京大仏前のY字路辺りではないだろうか。現在の三差路は明治時代の地図を見ても同じ場所が三差路になっており、松月院側から北進してこの三差路に来ると、右が大門方面、左は不動滝を下り白子川沿いに進めば吹上観音へ行く。早瀬道というのは今の笹目橋付近にあった早瀬の渡しに向かう道のことを指しており、道標の方向はその三差路にあったとすれば合点がいく。

場所  板橋区赤塚8丁目16-5

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2021年5月 2日 (日)

赤塚不動の滝不動尊(板橋区赤塚)

昔は赤塚の台地の縁である崖線にはいたるところに湧水があり、人々の生活を支えていた。この不動の滝もそのひとつで、江戸時代中期に盛んになった山岳信仰においては富士山や大山へ向かう前に禊(みそぎ)として使われ、瀧前には垢離堂(こりどう)が設けられていたという。

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昔はそこそこの滝だったが、昭和中期以降は周辺の住宅開発が進んだせいで水量が激減した。台地上の標高は31mだが湧水は標高19mの辺りから出ている。湧水の地層は場所によってさまざまだが近い場所では同じくらいのところに湧く。北にある首都高速池袋線沿いの崖線でも同じような高さに湧いているように思う。この瀧には上の方に1基、左に1基の不動明王像が祀られている。

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左下の不動明王像は寛政11年(1799)4月の建立。資料によると裏面などに「武州下赤塚邑  大門講中  下赤塚四人」とあるようだ。その下には滝のコンクリート面に石造りの大きなプレートがあり、「奉納 瀧壺一式 昭和8年5月竣工 谷島新蔵」とある。不動明王の作られた時代は山岳信仰ブームの時代で板橋区から練馬区にかけては大山街道があちこちにあった。

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上部にある不動明王像には後付けだろうか二童子がいる。こちらの不動明王像の造立については不詳とされているが、言い伝えによると赤塚城主の千葉氏がここに不動明王像を設置したという。そうであれば1400年代後期の室町時代のものということになり、いささか信憑性に欠ける。

場所  板橋区赤塚8丁目11

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2021年5月 1日 (土)

稲垣家の庚申塔(板橋区赤塚)

藪の坂を上ってそのまま道なりに進むと、東京大仏の乗蓮寺から下ってきた道が出合う。その手前にあった庚申塔がしばらく消えていたが、稲垣燃料店のお宅の再建後きれいな区画で戻ってきた。庚申塔もクリーニングされたようにきれいになっている。

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駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれ、造立年は安永8年(1779)4月。武州豊嶋郡上赤塚村の銘がある。庚申塔の両脇には多くの願主名が刻まれており、真壁家、高橋家、豊島家、沖田家、小日向家、並木家、小柳家などの名前があるが、稲垣燃料店の稲垣家は一名のみが名を刻んでいるに過ぎない。

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それでも二百年余りこの庚申塔を守って来られた稲垣家には頭が下がる。ご先祖がどういう役目の人だったかは分からない。赤坂5丁目(昔の石成)の石仏で多いのは、星野、並木、間壁(真壁)、春日の姓。すぐ北にある赤塚城址に城を築いたのは千葉氏。千葉氏は小田原北条氏の家臣だったが秀吉によって小田原城が落城してからは千葉氏も所領没収され赤塚城は廃城となった。その家臣が近辺に帰農して土着したと考えられるかもしれない。

場所  板橋区赤塚5丁目26-3

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