中尾家前の庚申塔(板橋区徳丸)
徳丸6丁目50番地の路傍に庚申塔がある。前を通る道は東西を走るバス通りの旧道。しかし大正時代以前は殆ど道もなかったような地域である。しかしこの庚申塔には地域の民間信仰と周辺の様子を感じられる歴史がある。
庚申塔はかなり立派な構えの中尾家の駐車場に立っている。駒型だが材質が花崗岩でこれは珍しい。庚申塔の大多数は安山岩で作られている。花崗岩は風化しやすいのだが、この石材は比較的風化しにくい花崗岩を選んだようである。正面は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、尊像右には「奉造庚申尊像一躰」とある。
造立年は宝暦2年(1752)11月、「武刕豊嶋郡徳丸村 講中十二人」の銘がある。この庚申塔は旧峡田道(はけたみち)と離れ塚の「はざま」の辻山裾にあったが区画整理により昭和49年(1974)に現在地に移された。地理関係が難しいので引用した明治時代後期の地形図を参照したい。
当時は崖線下を峡田道という半農道が通っており、多くの農民が往来していた。一方、前谷津川が荒川の低地に流れ出る手前で東から北へ流れを変えるが、このカーブの内側の舌状地が離岡(はなりょうおか)という地域、浅い谷を隔てた北側の舌状地が辻山という地名であった。この辻山の北側の裾の峡田道にあったと思われる。峡田道というのは下の写真のような場所で、この写真は昭和に入ってからのもの。
庚申塔脇に誌碑が建てられている。そこに記載されている内容は、『当庚申は宝暦二年霜月壬申 徳丸字離岡(徳丸本町1970番地)先に奉斎され、広く村内外の信仰を集め、次来223年に及び講中代々庚申待ちを行い、その加護を得て今日に至った。而るに、此の度地域発展のため区画整理が実施されるに及び、ここに講員の総意をもって、昭和49年12月9日講員中尾久吉氏の所有地徳丸6丁目51番10号先の清浄なこの地に遷座する。 昭和50年5月吉日建之』
この庚申塔のお陰で脳内タイムスリップを楽しむことが出来て感謝である。
場所 板橋区徳丸6丁目50-2
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