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2021年5月 7日 (金)

宝寿院光伝寺の石仏(世田谷区喜多見)

現代の世田谷区喜多見は東名高速道路を南の境にしている。喜多見は鎌倉、室町時代は木田見と書き、江戸氏の後を継いだ木田見氏が支配していた。その後徳川家康が江戸入城すると江戸姓を使わず、喜多見(北見)と名乗るようになったという。光伝寺は昔から地元では宝寿院という院号で呼ばれており、おそらく今でも宝寿院の方が馴染みが深い。永禄12年(1569)の創建で、明治時代には喜多見学校や尋常小学校として使われていた時期もあった。

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墓所に回り込むと時代を感じさせる三体の地蔵が並んでいた。どれもおそらく墓石だったと思われる。左の舟型地蔵には10ほどの戒名と没年が記されており、寛永3年(1626)~元禄2年(1689)であることから元禄年間の頃の建立だろう。中央も素晴らしい舟型地蔵で、「奉供養為法界無縁信願主厭誉攸西大恵」とあるので高貴な女性の墓石ではなかろうか。造立年は万治3年(1660)4月とある。丸彫の地蔵については何も記されていなかった。

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道路との間の塀の傍には巨大な馬頭観世音塔があった。造立年は元治2年(1865)2月。明治維新直前である。台石の正面には「馬持中」とあり、石塔側面には「武刕多摩郡喜多見村」の銘がある。台石脇には願主名がずらりと数十人並んで記されており、喜多見村だけでなく祖師谷、野田(現在の成城の崖線下)、大蔵山谷などの馬持も参加しているようだ。

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その脇には他にも馬頭観世音塔が二基。後ろの摩滅が相当進んでしまった石塔も馬頭観音だが造立年等は全く読めない。手前の角柱型の馬頭う観音は時代が新しく、明治41年(1908)3月のもので、小泉角兵衛と願主名が刻まれている。喜多見辺りには小泉姓も見られ、江戸時代初期に幕府の命で次太夫堀を開削した小泉次太夫の子孫かもしれない。

場所  世田谷区喜多見5丁目13-10

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