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2021年6月30日 (水)

民家門前の馬頭観音(練馬区平和台)

植込みの馬頭観音から徒歩僅か2分で次の馬頭観音に出合う。平和台には耕地整理で出来た田園調布の街並みを真似たような十字路と丸いカーブの組み合わせが4ヶ所ある。この同心円道路については近代の話なのに資料が極めて少ない。ただ渋沢栄一とその息子が開発した田園調布の街づくりの模倣をしたのは間違いなさそうである。

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この場所は一番環八寄りの同心円道路の近くにある。都心から見ると一番外側の環である。環八通りの計画は昭和の初期、そしてまだ用地買収中の平和台駅前の放射35号線の計画の昭和2年である。戦前の開発計画は戦後の混乱でカオスな街になってしまい、それを無理矢理にはめ込もうとしている感がぬぐえない。しかしそれらの周りにはこういう旧家が点々と残っているのでほっとする。

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馬頭観音は漆原家の門前にある。ブロック塀の中に堂宇が作られ祀られている。高さは75㎝程、明治23年(1890)8月10日の造立である。施主名は漆原力蔵とあり、このお宅のご先祖であろう。

場所  練馬区平和台4丁目15-1

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2021年6月29日 (火)

植込みの馬頭観音(練馬区平和台)

丸久保馬頭観音の先の路地を曲がり、200m程進むと、道の北側にきれいに手入れされた生垣の家がある。生垣の先が切れたところに低めの樹がとてもきれいに刈ってある。

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このマリモのような植木の間を覗いてみると、そこには馬頭観音がある。正面には「馬頭観世音」と大きく書かれた角柱型の石仏。背面には、「昭和14年(1939)6月3日  細川よし子」と記されている。

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この庭のお宅は細川家。おそらくその先代か先々代が建てられたものだろう。この辺りは当時はまだ23区ではなく「練馬町」に属していた。戦前の住所は練馬仲町5丁目、大正時代は下練馬村丸久保であった。戦前はまだ牛馬に頼る生活だったために、周辺には沢山の馬頭観音が残っている。これもその一つである。

場所  練馬区平和台4丁目14-1

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2021年6月28日 (月)

丸久保馬頭観音(練馬区平和台)

地下鉄有楽町線の平和台駅周辺の開発が進んだのは記憶に新しい時代。1980年代のバブル期にはまだ環状八号線は開通していなかった。また平和台駅が開業したのが1983年(昭和58年)であるから、昭和末期以降の新しい街という印象が強い。環状八号線の道筋はもともとまっすぐな富士街道で、この道は江戸時代から川越街道の南の田柄川を越えてから南西側は真っ直ぐな道で、練馬春日町の辺りまではおそらく北海道のような風景だったのではないだろうか。

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平和台駅から環八に沿って北西に向かうと計画道路の敷地で建物が立っていない。その先の角に堂宇があり遠くからも認められる。ここには幅50mのとてつもなく広い道路ができるらしい。そんな道路が果たして必要なのか、疑問が残る。堂宇の提灯には「丸久保馬頭観世音」と書かれている。丸久保というのはどこかと思ったらどうもこの場所がかつての丸久保の一部のようだ。馬頭観音の造立年は不明だが、練馬区では江戸時代の中期としている。これまで再三移設を繰り返し、現在はここに落ち着いているという。

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かなり摩滅しているが、資料によると正面左右面にはびっしりと道標が記されているようだ。正面には「富士 大山 八王子 小金井」、その下には「新高野一里、田な志三里、府中▢里」とある。右面は、「新井やくし 堀之内 二里半、高田 二里、ぞうし賀や 二里、日本橋▢里」、左面は「赤塚 十九町、所沢 五里、下板橋 一里半、戸田 一里半」、さらに裏面には、「練馬宿 十二丁、板橋宿 一里半、下板橋 戸田 一里半」。願主は篠氏、漆原氏である。当時の丸久保が交通の要所であり、埼玉方面から富士、大山詣りに向かう人々の一里塚のような役割があったのだろう。

場所  練馬区平和台4丁目26-8

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2021年6月27日 (日)

西二稲荷の庚申塔(大田区西馬込)

ふと立ち寄った西ニ稲荷で庚申塔を見つけた。実は西二稲荷から40mほど南にあったはずの庚申塔を探しに行ったのだが、そこにはなく少し坂を下って稲荷に立寄ると、境内に3基の庚申塔が祀られていた。それぞれ西馬込の各所から移設されたものである。

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西二稲荷については、馬込村には塚越と中丸にそれぞれ稲荷神社があり信仰を集めていた。その二柱が昭和21年(1946)に合祀され、西二稲荷となったのである。私はつい西馬込二丁目にあるから西二と付けたのだと思っていたが、そういう経緯もあったと知り安易な推測を反省した。

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左の庚申塔は駒型で、これは最初に探していた西馬込2丁目28にあったものである。造立年は元禄15年(1702)9月。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄である。尊像脇には「奉貴修梵天帝釈天王為二世安楽傳燈比丘 骨厳謹誌」とあるが詳しい意味は分からない。その下には願主名が8名あり、内5名は河原(川原)姓である。

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中央の駒型庚申塔は比較的新しい。造立年は大正4年(1915)3月。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、下部にはがあるらしいが現在はもう見えない。資料によると、14人銘あり、13人が河原姓である。

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右の庚申塔も駒型で、造立年は享保6年(1721)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。この庚申塔の下部にも願主名が彫られているが、こちらは7/11が川原姓。「河」と「川」で別々のグループがあったかのようである。尊像脇には「奉造立庚申供養為二世安楽」とあり、左には「武刕荏原郡馬込村中丸同行」とある。実は後半の2基はもと西馬込2丁目9番にあったもので、場所は西二稲荷の北200mほどのところ、この辺りがかつての中丸地区で、丸い丘陵地帯になっており、その中丸集落のどこかに祀られていたと思われる。ちなみに西二稲荷は北の中丸と南の塚越の間に位置している。

場所  大田区西馬込2丁目18-6

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2021年6月26日 (土)

大尽坂下庚申塔(大田区仲池上)

武蔵野台地の突端である荏原台は、国道1号線と都営地下鉄浅草線の車両基地の辺りが低くなっているので、ここで切れており池上本門寺の台地はまた別の台地かと思っていたが、実は首の皮一枚のような地形で連続している。車両基地あたりはもともと内川の支流の浅い谷で、呑川と内川の間の蟻のと渡りのようなこの地形を面白いとあたらめて感じた。その北側の台地から下ってくるのが大尽坂で、これがなかなかの急坂である。

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大尽坂下の堂宇はなかなか立派なもので、施錠されているため格子の隙間からの拝佛となってしまった。祀られているのは、享保3年(1718)12月造立の角柱型の庚申塔。題目が刻まれており、「南無妙法蓮華経 庚申」とある。池上村下講中による建立らしい。

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資料によると側面には、右「池上 めくろ 江道」、左「せんそく ほりのうち江道」とあるようだ。この道標を考えると、もともとはこの場所ではなく大尽坂上の辻にあったのではないかと思われる。大尽坂上の尾根道は平間道の猿坂上で南に分岐して、大尽坂上を通り、池上本門寺に至る道である。この路傍にあったとするならばこの道標が意味を成す。

場所  大田区仲池上2丁目4-1

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2021年6月25日 (金)

林昌寺の石仏(大田区東雪谷)

子安八幡神社と並ぶ林昌寺。場所柄やはり日蓮宗の寺院で、創建は文亀3年(1503)と伝えられる。日迨(にちだい)上人が池上本門寺からここに閉居し草庵を結んだのが始まりとされる。

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武蔵野台地荏原台の先端にあるのが子安八幡神社とこの林昌寺で、長い階段を上って本堂、本殿に辿り着く。低地は呑川の流域で、この崖線は池上本門寺を最南端としている。この辺の旧小字は池上村根方という。根方の地名はバス停と呑川の根方橋に残っている。但し根方バス停も根方橋も林昌寺から400mほど南になる。

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参道に向かって左にあるのが大きな題目塔。宗祖日蓮の五百遠忌塔で、読誦塔を兼ねている。造立は明和8年(1771)10月。台石に「石経塚」とある。同じような題目塔が階段上の境内にもあった。そちらは「高祖日蓮大菩薩六百遠忌」とあったので100年後だろうと年紀を見てみると「明治6年(1873)12月」とある。2年ほど遅れているが、もしかしたら明治新政府の廃仏毀釈のあおりを受けたのかもしれない。

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参道の右手にも墓所がありその入口に庚申塔が立っている。角柱型の庚申塔で、日月、「南無妙法蓮華経」、三猿の図柄になっているのはいかにも日蓮宗である。正面には延宝元年(1673)庚辰とあるが、実際には昭和43年(1968)10月に再建されたものである。その為か昭和44年発刊の『大田区の文化財第五集 庚申信仰編』には載っていない。側面に経緯が彫られていた。「大森区上池上町154番地に祀りありしものが、昭和20年5月24日の空襲により焼失したるものを、昭和43年10月吉日に此の地に移し新しく庚申塔を建立す」上谷戸庚申講中による再建であることが記されている。

場所  大田区仲池上1丁目14-17

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2021年6月24日 (木)

東雪谷庚申塔(大田区東雪谷)

学研通りが新幹線と横須賀線を潜る中道架道橋、その下にはバス停があり雨を避けられる良い造りである。その少し北に長慶寺があり、長慶寺の駐車場の入口が寺の南側にあるが、その駐車場の入口にあるのが東雪谷庚申塔である。ここは昔は東西の台地の舌状地に挟まれた、呑川支流の洗足流れと鸛の巣流れの合流点であり、このすぐ先で呑川本流に出合うことになる川にとっての首根っこである。

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実はこの辺りの古道、平間道(鎌倉街道)のルートは微妙で、かつての川の流域の低地は水田で民家はなく、猿坂を下った平間道は川を越えてこの庚申塔辺りに繋がっていたと思われる。ここから道は南北に分かれており、北へ行くと中原街道へ、南へ行くと下丸子から多摩川の矢口渡に至った。

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右の大きい方の駒型庚申塔は、享保7年(1722)3月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立したのは雪ヶ谷村で、道標を兼ねており、「右 瀬田ヶ谷江」「左 九品仏江」とある。尊像は青面金剛像だが脇には「帝釈天王為二世安楽」と書かれている。一方左の駒型庚申塔は、その10年前の正徳2年(1712)2月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、願主名の大半が直井姓と長久保姓である。この辺りは直井家が名主だったのだろうか。

場所  大田区東雪谷5丁目12

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2021年6月23日 (水)

上池台の消えた庚申塔(大田区上池台)

以前にあった庚申塔が消えてしまった。場所は大田区上池台5丁目。旧鎌倉街道であり、古道平間道でもある猿坂の坂上を少し進んだところで、大久保坂から上って来た道が平間道に出合う辻の近くの民家の塀にあったもの。最後に訪問したのは大久保坂に行ったときなので2017年である。それが今回(2021年)に来てみると新しい民家に取って代わっていた。

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この場所には古い民家があり、塀の植込みの中に堂宇が作られてそこには庚申塔が祀られていた。古い街道の往来を見守ってきた石仏である。この辺りは台地上で江戸時代の上池上村の中でも比較的民家が集まっていたところである。周辺の寺社を廻った時にこの庚申塔を探してみたい。

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かつての庚申塔が上の写真。造立年は享保8年(1723)11月。駒型の文字塔で下部に三猿が陽刻されている。上部には日月も描かれており、文字は「南無妙法蓮華経」と刻んである。これはやはり池上本門寺の日蓮宗の影響だろう。願主名は9人銘が下部に刻まれ、繩倉姓が3人と多い。

場所  大田区上池台5丁目10-15

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2021年6月22日 (火)

猿坂の祠(大田区上池台)

坂道シリーズの猿坂の所でもかなり詳しく書いたのでいささか重複する内容もあるが、ここは石仏ということでご了承いただきたい。猿坂の坂下にのY字路には堂宇があり、その中には小さな馬頭観音が祀られている。猿坂は呑川の支流で洗足池から注ぐ洗足流れと夫婦坂の方から流下する鸛の巣流れの合流点あたりから左岸の尾根に上っていく坂道である。

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祠の後ろは広い墓所になっている。この墓所は林昌寺の墓所で、子安八幡神社と並んだ名刹である。ここは江戸時代から林昌寺の墓所だったらしく『新編武蔵風土記稿』にも林昌寺の墓地として出てくる。堂宇の中を覗くと、小さな馬頭観世音菩薩が祀られていた。造立年は天保9年(1838)9月。舟型で石工の銘が「堤方邑 石工甚五郎」と入っているが、かなり風化と摩滅が進んでいて像形の素晴らしさは見えない。

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猿坂の道は古くからの街道である。夫婦坂から南下してこの猿坂を下り、環八近くのぬめり坂を経て下丸子に出るこの古い街道は、中世からの平間道であり、鵜の木街道とも呼ばれた。この街道の歴史からすると200年近いこの馬頭観音の歴史もかなり新しい時代のものである。鎌倉街道の痕跡は見つけると嬉しくなる。

場所  大田区上池台5丁目22-1

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2021年6月21日 (月)

荏原病院前の庚申塔(大田区東雪谷)

北向庚申からさらに池上方面へ250m、東京都医療保険公社の荏原病院の前、バス停の向かい側に堂宇がある。堂宇の中には2基の庚申塔が祀られている。この辺りは雪ヶ谷村時代並木という小字だったが、居村とも呼ばれた。ここの庚申塔は戦災で二基とも大きく破損している。さらに堂宇も北向庚申のように立派なものではなくバラックみたいだ。

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堂宇の直前に立ってみてハッとするのはこの庚申塔のどちらも首のところで上部が欠損していること。地蔵菩薩ではないので身代りということはないだろうが、誰かの命と交換に傷ついたと考える人もいただろう。向かって左の庚申塔は造立年不詳。主尊は青面金剛像で、二鶏と三猿は確認できる。

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右の庚申塔は本来左のよりも若干大きいものだっただろう。こちらは多少文字が多めに残る。造立年は享保5年(1720)正月(1月)とありおそらく駒型である。雪ヶ谷村の銘があり、願主名としては国府方姓が8人中4人と多い。図柄は上部は不明だが、青面金剛像に邪鬼、三猿が見える。三猿はかなり薄い。

場所  大田区東雪谷3丁目8-4

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2021年6月20日 (日)

北向庚申(大田区東雪谷)

大田区東雪谷の荏原病院通りは武蔵野台地の突端でもある荏原台地の尾根筋を走る。この尾根筋の街道も江戸時代からの村街道である。中原街道から池上本門寺へのメインルートとして多くの人々が通った道。そういう道だけに道すがらいくつかの堂宇を見出すことが出来る。

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中原街道から600m程南西に進んだところにあるのが「北向庚申」と呼ばれる堂宇。堂宇は道路とは並行でも垂直でもないおかしな方向を向いている。この向きはほぼ真北である。それが北向庚申の名前の由来なのだが、この道がそもそも江戸時代は上池上村と雪ヶ谷村の村境だったので、塞ノ神という意味合いではなさそうである。堂宇内には題目供養塔と庚申塔が祀られている。

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右の題目供養塔は天和3年(1683)霜月(11月)の造立。舟形に釈迦如来像を陽刻し、雪谷村一結25人、読唱記念と書かれている。釈迦如来像の脇には「南無妙法蓮華経南無釈迦如来」「奉唱満首題壱千部成就問題」とある。一方の庚申塔は、駒型で享保14年(1729)3月の造立。これが北向庚申と呼ばれる石仏で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。願主名は直井姓が6人、国府方姓が1人となっていた。

場所  大田区東雪谷3丁目4-4

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2021年6月19日 (土)

石橋供養塔(大田区石川町)

中原街道が呑川を渡る橋、石川橋のたもとに大型の石柱が立っている。傍らには説明板も立っており、いかにも史跡といった雰囲気がある。この石柱は「石橋供養塔」で、造立年は安永3年(1774)11月とある。

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建立したのは雪ヶ谷村の人々で、浄心という僧侶を中心にした6人によるものらしく、左側面に「荏原郡雪ヶ谷村 本願主」とありその下に名前が刻まれている。またその上部には、「照光山十二世 日善」とあるがこれは東雪谷にある照光山円長寺の僧侶でその下に花押がある。正面にある「何妙法蓮華経」の文字は日蓮宗のもので、この辺りは池上本門寺の影響を受けた日蓮宗寺院が多数ありその一つ。

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250年前にはこの場所に石橋が架けられ、他の信仰とは別に純粋に安全を供養する石橋供養塔があるのはあまり例がないように思う。この地点は昔から中原街道(平塚街道)から奥沢村、尾山村を経て、等々力に向かう道が分岐しており、中原街道沿いには多くの民家が立っていた。そういう地点だから道標が刻まれていても不思議はないのだが、石橋供養以外の記述はない。

場所 大田区石川町2丁目8

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2021年6月18日 (金)

東玉川神社の庚申塔(世田谷区東玉川)

東玉川神社といっても場所が分からないが、位置的には東横線田園調布駅と池上線石川台駅のちょうど真ん中あたり。江戸時代この辺りは下沼部村だった。神社の北側が一段下がっているが、そこには呑川の小さな支流が環八通りあたりを源頭にして流れ下っていた。そっちから参拝すれば台地の上の神社になるのだが、北向あるいは鬼門向きになるからか、鳥居と社殿の向きは南西向きである。

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もっとも関東大震災以前の地図を見ると神社の印はさらに一区画南西にある。どうも明治末期か大正時代に移転した可能性がありそうだ。江戸時代からこの辺りにあった神社は諏訪神社だった。それが明治時代に一度廃社となったが、昭和3年に再興したというから、南西の区画の神社は諏訪神社なのかもしれない。昭和14年には渋谷区本町の氷川神社から拝殿を移築した。幡ヶ谷氷川神社である。

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神社の北側の参道の階段脇には角柱型の庚申塔が小祠と並んでいる。庚申塔の正面には「庚申供養塔」と大きく彫られ、右には「右 新田道 下沼部村5人の銘」、左には「左 品川道 等々力村5人の銘」がある。造立年は天明5年(1785)11月。新田は新田義貞を祀る新田神社のあるエリアで「にった」と読ませる。

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東玉川神社で驚いたのは社殿の向拝の天井板に描かれた見事な龍の絵である。萬遷という人物による「火焔龍神像」の水墨画である。描かれたのは弘化2年(1845)だが、今も天井から抜け出してきそうな迫力がある。寺社を廻っているとこういうあまり知られていない凄い芸術作品に出遭うことがあり、それもまた楽しみのひとつである。

場所  世田谷区東玉川1丁目32-9

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2021年6月17日 (木)

本照寺の石仏(練馬区西大泉)

大泉にある本照寺は日蓮宗の寺院で、創建は天正10年(1582)と伝えられる。かつては小榑村(大泉村)の村役場として使われた時代もあったように、村の中心的な場所であった。寺は白子川の左岸にあり、かつては水田が広がっていた。寺の西にある交差点は「小泉橋」というが、寺の南で西大泉の谷の流れが白子川に合流していた、その支流の橋の名前が残っている。

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門前にもいくつもの石柱がある。中央の大きな3つの石塔は、左の上部が丸い角柱型が寛延3年(1750)造立の題目塔。功徳主関村、田中与兵衛の銘がある。基壇には「本照寺」とあるので当時寄進されたものだろう。隣りの背の高い角柱は大正11年(1922)の遠忌供養塔で、三百三十年とあるのは開山僧である日勇聖人を供養するもの。その右は安永9年(1780)の題目塔で日蓮の遠忌供養塔でもある。題目惣講中、武列新座郡小榑村の銘があり、願主としては土支田村32人、上白子村4人、関村10人、吉祥寺村10人、下保谷村3人とある。随分各方面に信者が広がっていたようだ。日蓮の没年が1282年だから厳密には498年後の造立だが、五百遠忌とある。

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山門をくぐると左に子育地蔵がある。地蔵菩薩の座像で大きいものだ。比較的新しく昭和7年(1932)の造立。ちょっと気になったのは膝と手の境目が作成途中のような繋がりをしている点である。像形はしっかりしているのになぜ細部が適当な造りになっているのか不思議であった。

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本堂前の植込みの中に馬頭観音がある。シンプルな角柱型で、造立年は昭和3年(1928)2月。施主名に加藤富蔵とあり、やはり加藤家である。これはどこかから移設したものか、あるいは最初から寺にあったものかは分からない。

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本堂の前には小さな舟型の石仏が祀られている。像形からどうも妙見菩薩らしい。造立年は不詳。妙見菩薩は国土を擁護し、災いを消し、敵を退け、福寿を増す仏とされている。しかし不勉強なので詳しいことは分からない。

場所  練馬区西大泉3丁目11-3

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2021年6月16日 (水)

民家車庫前の馬頭観音(練馬区西大泉)

本照寺の西、バスも走る都道練馬所沢線は古くからの道。古い道の特徴としては真っ直ぐでないことがまず挙げられるが、この道は白子川沿いの西武池袋線脇から北へずっと緩やかにカーブしている。したみち通りとの交差点「小泉橋」を過ぎて次の辻を西へ折れてしばらく行くと車庫の前に小さな石塔が立っている。

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注意していないと見過ごしてしまいそうな石塔だが、実は立派な馬頭観音である。造立年は大正13年(1921)3月。施主名は「高橋・・」と名前までは見えない。かなり剥離と摩滅が進んでいる。この車庫のお宅は田中氏宅。この辺りで初めて加藤家でない馬頭観音に遭えた。

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この周辺は古い地図を見ると唐澤という小字になっている。東にある本照寺には明治時代に大泉村の役場があり、この辺りも村の中心として農家が点々と集まっていたようだ。周辺の住宅開発はかなり進んだが、まだ所々その雰囲気が残っている。

場所  練馬区西大泉2丁目2-5

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2021年6月15日 (火)

荒屋敷の馬頭観音(練馬区大泉学園町)

大田町境辻にあった馬頭観音から270m程西へ行くと民家の塀が凹んでいてそこに同じような馬頭観音塔が祀られている。旧小榑村には馬頭観音がとても多い。それも明治大正昭和の近代のものが大半である。これは戦前までこの辺りが農家であり、牛馬に頼った農耕と運搬をしていたことと深い関係がある。

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この馬頭観音があるお宅は加藤家。小榑村の馬頭観音の施主の大半が加藤家の人によるもので、それぞれがつながりがあったのだろう。この馬頭観音は明治18年(1885)8月の建立。正面には「南無馬頭観世音」とあり、側面には「加藤▢蔵」とある。辻の馬頭は加藤幸藏氏、影山の森の馬頭観音は加藤健藏氏、公孫樹下の馬頭観音は加藤政明氏、郵便局前の馬頭観音は加藤新作氏と加藤林蔵氏、という具合でほぼ加藤家による建立である。

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荒屋敷という小字が意味するものや由来は分からない。ただ一説によるとかつての荒れ地を開墾して住むようになった地域を荒屋敷と呼ぶことがあるようだ。武蔵野台地は水の確保が難しく、先人は多くの苦労を重ねたことだろう。そういう困難を乗り越えて加藤家がこの土地を豊かに変え、現在に至っていることに感謝したい。

場所  練馬区大泉学園町2丁目30-30

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2021年6月14日 (月)

大田町境辻の馬頭観音(練馬区大泉学園町)

大泉学園町の道は古い道が多く、碁盤目になっていないところが良い。歩いていても、武蔵野の林に点在する農家と畑が広がる台地の雰囲気が残っている。現在東西に放射状7号線という計画道路の工事が進み、知行院の境内墓所で止まっているが、この状態は環状八号線が大田区の光明寺で止まっていたのを思い出す。結局は道路が勝つのが近現代の常だが、本当にそれでいいのかと思う。

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この境の辻の馬頭観音だが、交差点が直角でないのがまた良い。右の道を行くと西本村から東本村へ、左の道を行くと大田町を経て西新田へという江戸時代からの道。この辻から北が大田町、東が西本村、西が荒屋敷という小字であった。

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角柱型のシンプルな馬頭観音塔である。造立年は大正11年(1922)7月のようだが、正面には大正11年7月13日とあるのに、側面には大正12年9月10日とあり、施主加藤幸藏となっている。さてどちらが正しいのか。ちなみに旧小榑村の加藤家には加藤▢蔵という名前の人が多いように思う。

場所  練馬区大泉学園町3丁目5-3

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2021年6月13日 (日)

東新田の馬頭観音(練馬区大泉学園町)

題目塔のある辻から南へ一区画下ると、旧道は大泉学園通りに斜めに出る。五差路になっていて、角にはスーパーのマルエツ、大泉郵便局などがある。郵便局の並びにある駐車場の角に二基の石塔が立っている。

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一基は大きいもので、もう一基は小さい角柱である。この旧道を境にして、東側が東新田、西側を西新田と呼んだ。この道は村の幹線だったようで、新田の南は東が東仲置、西が西仲置という小字、さらにその南側は東本村と西本村となっていたようである。

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左の自然石でつくられた馬頭観世音塔は存在感のあるもので、大正13年(1924)6月の造立である。上部には「妙法」とあり、下部には「南 堀之内道  北 白子道」とある。背面の年紀の脇に「施主 加藤新作」と彫られている。

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一方、右の小さい方の石塔も馬頭観音である。文字が摩滅して読みづらい状態になっているが、練馬区の資料によると、この馬頭観音に書かれているのも、「南 ほりのうち道  北 白子道」。そして造立年も自然石の馬頭観音と同じ大正13年(1924)だが3ヶ月ほど早い6月の造立である。施主はというと「加藤林蔵」とあり、加藤家の中で別々の家が建てたようだ。区の「古老聞書」には記述がなかったが、加藤家の中での競争などがあると面白い話だと思うのだが。

ちなみに南北に走る大泉学園通りは、関東大震災の後、箱根土地が買収を行い、東大泉駅(現在の大泉学園駅)が出来ると朝霞への道をまっすぐに開いた。当時は今よりも広く四十間幅というから72mの幅員の道路が通っており、滑走路として使おうとしたようだが実現せず、狭くなった分は地主に返還されたという。

場所  練馬区大泉学園町4丁目21

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2021年6月12日 (土)

東新田の石仏群(練馬区大泉学園町)

東新田というのは小榑村時代の小字。昔は荒れ地を開墾したりして田圃を作ると新田という地名を付けた。小榑村には南部に前新田という地域があり、北部には東新田、西新田があった。西新田、東新田辺りは周辺の台地よりも若干低くなっており、江戸時代は米作も行われていただろうが明治以降は民家が増えた地域である。現在は南北に大泉学園通りが通り、大泉学園緑小学校東の交差点から東西に延びる古い商店街の辻に石仏が並んでいる。

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左端は平和観音で昭和48年(1973)3月の建立。台石正面に「平和観音」、側面に建立年と施主加藤はなと書かれている。その隣の題目塔のさらに右の地蔵が交通安全地蔵。昭和47年(1972)12月の建立でこれも新しい。施主は加藤エイ(金ヘンに栄と書く)一。後ろの燈籠との間胃にあるのは光背型の水子地蔵でこれが正和53年(1978)春彼岸とあるのでもっとも新しい。これも同じ施主で加藤エイ一氏。

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ただ、中央の題目塔だけは古い歴史があるようで、享和2年(1802)7月の造立とある。正面には「南無妙法蓮華経」とあり、武刕(新座郡)小榑村の銘がある。そして側面にある文字が「先祖代々 祖父 自信院常唱霊菩提 施主 加藤▢倅 文五郎」とあるのでこれも加藤氏である。小榑村では加藤氏が多く中心的存在で、南大泉にある妙福寺、西大泉の本照寺、東大泉の妙延寺がそれぞれの地区の菩提寺だったという。民間信仰では題目講が盛んで、「自我経(じがげ)」という題目を唱えていたようだ。

場所  練馬区大泉学園町4丁目24-5

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2021年6月11日 (金)

影山の森の馬頭観音(練馬区大泉学園町)

大泉学園町4丁目に遊具のほとんどない公園がある。入口の石には「練馬区立影山の森緑地」と書かれている。訪問時はかなり鬱蒼とした感じの公園で藪蚊が飛んでいた。この辺りにはまだわずかに畑が残っていて、出来れば土の表面を残してほしいが、東京都内は税制の問題もあってそうもいかない事情があるようだ。(多くの法律はある程度金儲けにすり寄っている)

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公園とはフェンスを隔てた3,4坪ほどの敷地にポツンとたっている石塔がある。戦災で折れたのか中程で繋いである。馬頭観音だが正式には題目塔と呼ぶべきかもしれない。造立は明治41年(1908)9月、正面には「南無妙法蓮華経」とあり、その下に「真一切功徳慈眼視衆生 奉勧請馬頭観世音菩薩 福界海無量是誠應頂禮」とあり、馬頭観音菩薩を勧請したものであることは間違いない。

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側面には「志之 加藤健藏代」とある。影山という地名は旧小榑村の小榑影山と旧橋戸村の橋戸影山の二つの小字があった。影山と言うのは南が台地になっておりその陰になっていることから付いた地名らしい。ちなみに橋戸村には伊賀者の古い話があるが、これは江戸時代の初期に服部半蔵率いる伊賀者の領地となったことに由来するようだ。

場所  練馬区大泉学園町4丁目15

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2021年6月10日 (木)

公孫樹の下の馬頭観音(練馬区大泉町)

ここもまた長久保道の途中の辻。交差する道も江戸時代からの古い道で、白子村から大泉村を経て橋戸村を通り保谷村への道である。この交差点の西側角だけが東京都で、北東南の区画は埼玉県和光市になる。都県境は時代によって若干異なるが都県境の土地であることは変わりない。この角の大銀杏は昔からあるらしく道標になっていたようだ。

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その公孫樹(いちょう)の樹の下にシンプルな馬頭観音が立っている。青面人は「馬頭観世音」と書かれ、裏には昭和54年(1979)4月の年紀と願主名加藤政明とある。畑の北側にある農家の旧家の方だろう。

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ここは昔は橋戸村に属していた北原という土地。橋戸村には帰化人とされる荘氏が名主として古くから広い土地を所有していた。ずっと東にある白子川に架かる別荘橋は別の荘さんという意味で着いた名前だというから、荘一族が広がっていたのだろう。この辺りは別荘坂別荘橋地蔵尊の所に書いた。この荘一族の本家ともいえるお宅が大泉インター脇にある荘酒店である。明治の初めには橋戸村には店がなく、そのうち荘氏の店が大泉氷川神社の東側の坂道に出来たが明治27年(1894)頃に廃業、それまで白子川の水を引き水車を営業していた別の荘氏が水車をやめて店を開いたのがこの荘酒店である。

場所  練馬区大泉町3丁目40-18

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2021年6月 9日 (水)

長久保道の馬頭観音(練馬区大泉学園町)

朝霞駐屯地より南へ少しだけ出来た33m道路は長久保道との交差点で幅員が狭くなる。この長久保道は現在では別荘橋通りと呼ばれており、都道108号線になる。別荘橋にある中里地蔵尊からはおよそ1.4㎞の距離の辻にあるのがこの馬頭観音。長久保道と交差するこの道も江戸時代からある古道で、現在の都県境で川越街道から分かれて東久留米市へ向かう街道だった。

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練馬区の資料を見るとこの馬頭観音は以前は地中に深く埋まっており、文字で言うと「馬頭観…」までしか地上に出ていなかったようだ。しかし今は最下部迄地上に出ている。正面には「馬頭観世音菩薩」とあり、その脇に「右 子権現道」「左 大山道」とある。最下部には「菅谷 清水 拜書」とある。拜書という言葉の意味は分からない。造立年は右面にあり、寛政11年(1799)11月、「世話人 願主 源兵衛 銀右衛門 作右衛門」と彫られている。

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向かって左面には、「武州新座郡下新倉新田 念佛講中十人」とある。江戸時代この辻より北は新倉新田、南は橋戸村であったので、願主は北側の長久保地域の新倉新田の講中ということになる。右脇にあるのは燈籠と台座石で、燈籠右面には阿夫利神社とあり、左面には伊▢神社とある。推察するが「伊」で始まるのは伊勢神宮以外には思い浮かばないので不明。この台石には「文化4年(1807)5月  武刕新座郡下新倉新田 観音経 講中 拾三人 ▢久保」とあるがこれは長久保だろうか。

資料の写真は昭和末期のものと思われるが、どうして60㎝程も土中に埋まっていたのかは分からない。

場所  練馬区大泉学園町8丁目14-10

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2021年6月 8日 (火)

長久保の地蔵堂(練馬区大泉学園町)

現在の長久保はマンションと民家の立ち並ぶ住宅街だが、昭和初期までは小さな農村の集落であった。江戸護国寺辺りから西へ、現在の目白通りの筋が清戸道という街道で、旧としまえんの西、石神井川に架かる宮田橋辺りで清戸道と分岐して北西に進むのが長久保道といった。長久保道は途中高松近辺で富士街道を横切り、土支田地蔵を左に見て白子川の別荘橋を渡り、朝霞市の膝折で川越街道に接続していた。

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その長久保道が通っていた長久保集落の中心になる辻にあるのがこの地蔵堂である。そして地蔵堂は長久保道に面する向きになっている。この辺りは江戸時代は小榑村(こぐれむら)という村で、題目講が盛んだったようである。題目講では「南無妙法蓮華経」をいろいろなパターンで唱えたらしい。少なくとも昭和の中頃までは毎月12日に行われていたらしく、ここの地蔵もその関係の可能性がある。

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左の舟型の地蔵菩薩は寛政9年(1797)2月の造立。願主名は八郎右衛門とある。中央は年代不詳の丸彫の地蔵菩薩。摩滅が激しく文字は読めない。右の丸彫地蔵は新しいもので、資料によると昭和44年(1969)の造立とのこと。比較的最近まで民俗信仰が続いていたのではないだろうか。

場所  練馬区大泉学園町8丁目29-24

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2021年6月 7日 (月)

バス折返場の馬頭観音(練馬区大泉学園町)

西武バスの長久保折返し場のフェンスの脇に角柱の石塔が立っている。都道(県道)東京朝霞線の33m道路沿いである。陸上自衛隊の朝霞駐屯地の少し南にあたり、ここは東京都練馬区が少しだけ埼玉県朝霞市に食い込んでいるエリアで、駐屯地の大部分は埼玉県になる。戦前は軍の施設であったが、昭和初期はまだ朝霞ゴルフ場と武蔵野原だった。駐屯地の南側はかつては長久保という地名だったが、現在は大泉学園町に吸収されている。

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角柱型石塔は馬頭観世音で天保3年(1832)の造立。残念ながら現在は大半が剥離摩滅していてほとんど文字が読めない。練馬区の資料はつい30年程前のものだが、その時代にはかなりはっきりと読めていたようだ。資料に助けられながらであるが、右面には「上新倉村 富五郎  子ノごんげん道  下小槫村  甚蔵」とある。「小榑(こぐれ)村」は昔のこの辺り、大泉学園町にあった村名である。左面には「大山道  下新倉村新田」とあるので、下小榑村と下新倉村の馬持が建てたものだろうか。

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しかし30年ほどでこれほど摩滅と剥離が進むとは心配なことである。明治初期の地図を見ると、長久保の集落の一番北にある民家がこの辺りになる。ただ半里(2㎞)も北へ行くと川越街道があり、原新田という小字で賑わっていたようである。下新倉村新田というのはこの原新田のことではないだろうか。

場所  練馬区大泉学園町8丁目25-11

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2021年6月 6日 (日)

みみ地蔵(板橋区西台)

西台山円福寺から南へ向かう道は西台交番前の西を通るのが新しい道で、東側を通る道が江戸時代からの道である。この道が長谷津から来た道と出合う辻に庚申塔がある。笠付角柱型の庚申塔だが、笠がちょっと変わった形をしている。

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6畳ほどもある境内を持っているこの庚申塔は古くから「みみ地蔵」と呼ばれてきた。番場稲荷の坂を上って台地の尾根に続いた道が、円福寺からの道に出合うこの辺りは西台村一つ目という土地であったため、古来「一つ目庚申」と呼ばれていたが、耳病の御利益があるというのでいつからか「みみ地蔵」とも呼ばれるようになった。

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面白い形の三角の笠は後の時代につけられたものらしい。本体の石材は砂岩なので風化が著しいのが残念である。造立年は嘉永7年81854)1月と決して古くはない。「田端」という文字と「西台邑」という文字が右面にあり、正面は青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が何とか見える。願主は内田弥市右衛門とある。

場所  板橋区西台4丁目9-1

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2021年6月 5日 (土)

円福寺の石仏(板橋区西台)

円福寺は西台の始まりと深い関係がある。円福寺蔵書の文書に初めて「西臺」の地名が登場するらしく、「志村西台のうち小原三郎五郎屋敷とその西側の畑を円福寺に永代寄進する」とあるという。西台の大寺というだけあって、山門前には阿吽の像が門兵のように立ちふさがり、その奥に大きな山門がある。その山門脇にも石仏が祀られている。

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左の背の高い丸彫の地蔵菩薩立像は明和2年(1765)12月の造立。背には「武州豊嶋郡西臺村 西臺山円福寺」とあり、台石には「奉建立地蔵尊一基」「門前不動谷念仏講中」とある。これはとりげつ坂上の馬頭観音の建立集団と同じ講中である。右の笠付角柱型の庚申塔は、延宝5年(1677)2月の造立。正面には「奉彫刻庚申供養石塔二世安穏攸」とあり下部に三猿が陽刻されている。台石と左右面には蓮花葉が描かれている。後ろには「武州豊嶋郡西臺田端村」とある。

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本堂左手に回り込み、無縁仏石塔群の脇にひっそりと置かれているのが安永7年(1778)10月造立の馬頭観音。「武州豊嶌郡峡田領西臺村」とある。左面には「堀下中老若男女為現當二世安楽」と書かれている。この馬頭観音は元は、蓮根3-26の路傍にあったものを移動した。現在の西台駅北の新河岸川のほとりの地域である。西台の農家はその辺りまで野良仕事に下りて行ったことが想像できる。

場所  板橋区西台3丁目32-26

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2021年6月 4日 (金)

馬頭観音堂(板橋区西台)

法蔵庵から北へ進むと、とりげつ坂の坂上に出る五差路になる。その一角にあるのが馬頭観音堂。なかなか立派な堂宇で扁額には「馬頭観世音」と書かれている。この辺りの古い地名は「門前」という。この近辺から、西台の大寺と呼ばれた西臺山円福寺の山門前あたりをそう呼んでいた。

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堂宇は施錠されているが格子が荒いのでよく見える。古くから堂宇で守られて来たのか、あるいは再建されたのかは分からないが、極めてきれいな馬頭観音である。造立年は寛政2年(1790)2月と彫られている。部分的に赤く縁取りされていて、今でも大切に祀られていることがわかる。

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台石の正面には「門前谷念佛講中」とあり、さらに「南 祢りま道」と書かれている。左面には「西 吹あげ道  北方 はやせ道」、右面には「東 戸田渡し道」という道標が刻まれている。また、「武州豊嶋郡西臺村」の銘がある。この台石の文字も赤く縁取りされていた。

場所  板橋区西台2丁目4-35

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2021年6月 3日 (木)

円福寺法蔵庵の石仏(板橋区西台)

弥陀堂の坂の坂上にあるのが円福寺法蔵庵。山門の左脇には庚申塔、右脇には地蔵菩薩と六地蔵が並んでいる。昔、この円福寺法蔵庵のことを村人は弥陀堂と呼んでいたので坂名が弥陀堂の坂になったようだ。法蔵庵は円福寺の境外堂で、板橋の昔話に『枯れ葉の小判』というのがある。

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『昔、西台村の弥陀堂の坂を侍が馬に乗り通りかかった。野良仕事をしていたお百姓に「鶴ヶ池に参るにはどう行けばよいか」と尋ねた。お百姓は「それならばこの道をまっすぐに行けば森が見えますから、その森の近くにある大きな池が鶴ヶ池でございます」と教えた。侍は「親切に教えてくれてかたじけない。これは謝礼じゃ」と言って小判を二枚くれた。「遠慮なく取っておくがいい。但し拙者が立ち去るのを振り返ってみてはならぬぞ」と侍は言い立ち去った。ところがお百姓はつい振り返って侍を見送ってしまった。そして握りしめていた小判をふと見ると、それは黄色く色づいた楢の枯れ葉二枚に変わっていたのであった。』という話しである。

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その場所がこの法蔵庵の辺りだと言われている。門前の向かって右にある六地蔵は享保年間の造立。右から、享保13年(1728)2月、当村 小原熊次郎が亡くなった子供達の為に建てた墓石である。右から二番目は年紀不詳、三番目は享保6年(1721)5月、四番目が巨保13年(1728)4月、五番目は享保14年(1729)9月造立でこれは墓石ではなく念仏供養塔で武州西臺村の結衆によるもの。一番左は享保11年(1726)5月の造立で、これも墓石の可能性が高い。

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六地蔵の山門側にあるのが舟型光背型の地蔵菩薩像。享保4年(1719)の造立で「奉讃地蔵菩提西臺田端村」とある。田端という小字は京徳観音堂よりもさらに先の、天祖神社先神明坂下の低地のことである。旧家が立つ北側は広々とした西台田圃が広がっていた。山門の左には地蔵と相対するように庚申塔がある。造立年は正徳6年(1716)1月。「奉彫刻庚申供養二世安楽處」「武州豊嶋郡西台郷田端村講中」とあるので、これも田端のものである。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれた駒型の庚申塔で高さが109㎝ある大きなものだ。

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境内に入ると奥は墓所になっており、その入口に6基の石仏が祀られている。後列左は角柱型の供養塔で、三界万霊塔と西國、四國、坂東、秩父の巡礼塔を兼ねている。造立は寛政10年(1798)8月。中央の背の高いのは丸彫の聖観音菩薩立像。明和5年(1768)10月の造立で、大乗妙典六十六部供養塔を兼ねている。「武州豊嶋郡西臺邑弥陀堂 西臺山円福禅寺現住月柱叟」とあるので当初からこの境内にあったものだろう。

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後列右は舟型の如意輪観音で元禄12年(1699)の造立。手前の左側は、舟型地蔵菩薩で明和6年(1769)8月のもの。「帰来禅海沙弥 施主 荻野武七」とあるが墓石かどうかは分からない。手前中央は如意輪観音で天明3年(1783)の墓石、天明2年に娘を、天明3年に妻を亡くして立てた供養塔のようである。最後に、手前右端は地蔵菩薩だが造立年は不詳。しかしこれだけ多くの石仏があるのは当時の西台村が豊かであったことの証だろうと思う。

場所  板橋区西台3丁目35-1

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2021年6月 2日 (水)

京徳観音堂境内の石仏(板橋区西台)

風情ある鑿跡の階段を上ると観音堂の境内に出る。京徳観音堂はもともと教徳寺の一部だった。教徳寺の創建は鎌倉から南北朝時代あたりにまで遡るようで、境内にもその時代の宝篋印塔がある。教徳寺から京徳という地名が生まれたかどうかは定かでないが、おそらく遠くないだろう。

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今ある観音堂の建立年は分からないが、今の観音堂も室町時代の雰囲気のある花頭窓がとてもいい雰囲気を醸し出している。教徳寺は廃仏毀釈のあおりを受けて明治5年(1872)に廃寺となってしまった。そのあとは円福寺が管理を続けている。

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観音堂の左手にいくつかの石仏がならんでいるが、一番左に自然石でつくられた馬頭観音がある。大きいもので高さは89㎝、大正10年(1921)11月の造立と比較的新しい。願主名は小原傳左衛門、荒井三喜蔵と書かれている。小原家の名前はこの辺りの石仏ではしばしば見かける。

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隣りの立派な堂宇に納まっているのは寛政12年(1800)8月造立の舟型薬師如来像である。資料によると、俗に「め」の薬師として信仰を受けてきたらしい。眼病にご利益があるということだろうか。

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さらに観音堂寄りにあるのが舟型光背型の地蔵菩薩像。万治3年(1660)2月の造立である。「武州豊嶋郡西台村  小原又右衛門 おたけ 為念佛供養」とあるので、旧家の小原家が中心になって念仏講中のために造立したものであろう。通称は「峡(はけ)の地蔵」と呼ばれる。観音堂の下の道も峡田道に通じる道で、この弥陀堂の坂を下ると前谷津川に出る。

場所  板橋区西台3丁目53-21

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2021年6月 1日 (火)

京徳観音堂下の石仏(板橋区西台)

前谷津川を境に西の台地が徳丸、東の台地が西台である。前谷津川は四方八方の支流を集めており、弥陀堂の坂はその小沢が削った谷。その右岸の台地に上ったところに京徳観音堂がある。今回は観音堂の下に祀られている石仏。観音堂の階段は江戸時代の石鑿(のみ)の跡が見事な階段に並行して近年のコンクリートの階段がつけられている。その階段下には地蔵菩薩像と廻国供養塔がある。

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右の丸彫の地蔵菩薩像は文化15年(1818)の造立。台石正面には「地蔵菩薩以大慈悲  善聞名号不堕異闇」とある。側面には「武州豊嶋郡西臺村教徳念仏講中」とあるが教徳は京徳のことである。左の石塔は廻国供養塔で、安永5年(1776)2月の造立。「奉納大乗妙典日本廻国供養」とある。

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そこから少し西にあるのが庚申塔と馬頭観音である。一応屋根付きだが堂宇ではなくそこそこ雨晒しである。

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右にあるのが文化15年(1818)造立の馬頭観世音菩薩。階段下の地蔵菩薩と同じ造立年である。かなりくっきりと陽刻された馬頭観音で、施主は荻野万吉と大きく彫られている。馬頭は首の下に描かれていてあまり例を見ない。

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左側の角柱型の石塔は馬頭観音かと思ったら正面には「庚申塔」と彫られている。風化が著しいので文字はあまり読めない。左面に願主名が福太郎とある。造立年代も分からない。

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中央に立っているのが駒型の庚申塔で、これは法令4年(1707)3月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼が描かれており三猿はないとおもいきや、史料を見ると台石の下部に三猿があるようだ。ただし視認できない。邪鬼の下には、「武州豊嶋郡 西臺京徳村 庚申講中 善男女若干 衆等同陳」と書かれている。尊像の右には「奉造建庚申供養青面金剛像現當安楽所」、左には年紀と「現住圓福寺大恩代失効焉」と彫られている。

場所  板橋区西台3丁目53-1

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