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2021年7月31日 (土)

五差路の石仏群(練馬区桜台)

西武池袋線桜台駅から北に向かい広徳寺へ通じる道は江戸時代からある道。広徳寺の先の大橋で石神井川を渡り、上練馬村へ向かう道である。その途中の変形五差路に複数の石仏が並んでいる。

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こういう何気ない路傍の石仏はとても魅力的である。関東大震災前や昭和初期(戦前)の地図を見るとこの道のはす向かいにも石仏のマークがあるので、後にここに纏められたのだろうか。後ろにあるハイムマキというアパートの左側は狭いながらも墓地で風間墓地というらしい。その墓地との関係もあるのかもしれない。

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右端から、角柱型の馬頭観音。造立年は明治23年(1890)12月。左面に「願主 小泉鶴吉」の銘がある。その隣は駒型の庚申塔。高さは1mほどあり、造立年は延享2年(1745)9月である。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、右側面の年紀の下に「下練馬前湿化味村 願主 小泉権右衛門」とある。左側面には「講中 拾壹人」と彫られている。「前湿化味村」というのはここから東側一帯の古い地名で「宿湿化味(シカジマケミ・シクジッケミ)」と呼ばれていた石神井川流域の低湿地あたりを指す。

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左から二番目の石仏は舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は元禄2年(1689)2月で、「奉造立地蔵一宇  逆修也」とある。かつては堂宇があったのだろうか。下部には沢山の男女名がある。40人くらいはあるだろう。一番左は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、寛政9年(1797)10月の造立。道標が兼ねられており、「右ハ 荒井梅松院道(新井薬師梅照院のことだと思われる)」、「左リ  雑司ヶ谷道」と書かれている。また「世話人 四郎右衛門  講中 九人」とある。

場所  練馬区桜台5丁目2-9

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2021年7月30日 (金)

マンション敷地の馬頭観音(練馬区桜台)

路傍の弘化2年の馬頭観音からさらに古い村道を西へ200m程の辻、南西側にはSOHO練馬桜台という大きなマンションが建っている。2002年に新築された9階建てのマンションで、敷地は2,400㎡ほどある。東西の道に合流するマンション東側の道もまた江戸時代からある古い道で、この辻のマンション敷地の一角にコンクリート製の堂宇があり、馬頭観音が祀られている。マンションの敷地にこういう形で残っているのは珍しい。

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年紀等は不明、左下に文字があるのだが「十一月」という文字は読めるのだが、年号の部分が削られているのか摩滅しているのか読み取れない。右側には「武刕豊嶋郡下練馬村 願主」の文字が読み取れる。

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株には中央に「講中」の文字、左には「三十七人」、右には「武田源兵衛」という文字が読み取れる。摩滅が進んだ石仏はこういう読み取りが極めて難しい。最も知りたい造立年は残念だが、像形からして明治以降ではなく江戸時代後半のものではないかと思う。

場所  練馬区桜台1丁目12-2

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2021年7月29日 (木)

桜台路傍の馬頭観音(練馬区桜台)

環状七号線を無視するとかつての練馬の地形と道筋が見えてくる。江古田駅南で千川上水かわ分かれた村道は氷川台駅傍の石神井川まで伸びており、現在の新桜台駅上で西に分岐する村道は桜台を経て現在の練馬駅で再び千川上水に出合う。この新桜台から練馬駅への村道脇には複数の馬頭観音が残っている。

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路傍の芝生に一基の馬頭観音がポツンと立っている。描かれている尊像は馬頭観音座像、台石には「願主 米蔵」とあり、側面には「篠三郎左エ門」の銘がある。造立年は弘化2年(1845)10月である。時代は第12代徳川家慶の頃で、ペリーが浦賀に来る10年ほど前。開国か鎖国かの議論が始まる前のことだが、民間でじゃは様々な講が出来、富士塚も築かれた、民間信仰の最盛期でもある。

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この時代の馬頭観音が美術的に進化してきたのはもしかしたら浮世絵などの庶民文化の隆盛の影響があるのかもしれない。地名は彫られていないが、江戸時代後期から明治時代にかけてはこの辺りは中新井村、この馬頭観音の北側には数軒の民家がある程度だった。

場所  練馬区桜台1丁目33-3

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2021年7月28日 (水)

江古田庚申塚(練馬区栄町)

江古田(えこだ・えごた)という地名は分かりにくい。まず中野区江古田は石神井川支流江古田川よりも南のエリアだが、西武池袋線江古田駅は練馬区旭丘にあり、大江戸線新江古田駅は中野区江原町、武蔵大学江古田キャンパスは練馬区豊玉上である。しかも江古田と名前の付く施設や史跡は江古田、江原町、松ヶ丘(以上中野区)、旭丘、豊玉上、栄町、小竹町(以上練馬区)とあちこちに広がっている。

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かつての江古田村(中野区)の農民が練馬区旭丘周辺を開墾して移り住んだのでそこも江古田と呼んだのが経緯のようである。当時は江古田新田と呼んだ。戦後まで練馬区には江古田という住居表示があったが1960年に江古田町は旭丘に改名した。いまでも旭丘に多く江古田の名前があるのはその名残である。そしてこの辻の堂宇も江古田庚申塚と呼ばれる。

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祀られているのは駒型の庚申塔で、造立年は明和2年(1765)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれているが二鶏は補修でかなり消えている。側面には「下練馬村うち羽根沢講中 廿四人 願主 敬白」とある。江戸時代から明治時代にかけてのこの辺りの小字は羽根澤であった。

場所  練馬区栄町46-1

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2021年7月27日 (火)

奥津家の聖観音(練馬区羽沢)

放光放地蔵尊から北へ進み、150mほど先の分岐を東側にとる。どちらの道筋も古くからの道で、東側の道は茂呂に繋がっている。途中道の南側に大きなお宅があり、その角に堂宇がある。堂宇の中には駒型の石仏が祀られている。

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この少し先の辻が今は練馬区と板橋区の区境になっている。堂宇の中の駒型の聖観音菩薩坐像は安永6年(1777)8月の造立。尊像の脇には「下練馬村羽根澤邑講中」とある。元々羽沢(はざわ)は羽根澤(はねさわ)と書いた。昔、鶴がたくさん飛んできて羽を落としていったのが地名の由来だと言われるが真偽は分からない。

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奥津家については詳しい資料はないが、ちょうどこの場所には明治時代から大正時代にかけてとても大きなお屋敷があったようで、今は敷地も何分の一かになっているが、それでもかなり広い。かつては相当広い大きなお屋敷だったと思われる。

場所  練馬区羽沢2丁目9-3

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2021年7月26日 (月)

放光王地蔵尊(練馬区羽沢)

地下鉄有楽町線(西武有楽町線)新桜台駅は環状七号線の地下にある。この駅から北東へ150m程の変則交差点にあるのが放光王地蔵尊。環七は高度経済成長期に通された幹線道路だから古い道をぶった切るように走っている。環七が出来る以前にもともと南からの道と新桜台駅付近からの道が合流する交差点にあたるこの地に放光王地蔵尊が祀られている。

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放光王というのは地蔵の一形態で雨を降らして五穀豊穣をもたらすと言われる。この地蔵尊の造立年は不詳だが、羽沢三佛のうちのひとつで「北向地蔵様」とも呼ばれ、昔は練馬と板橋を境にあたる街道の辻で、目印にもなり地域に人々に信仰されてきたという。元の地蔵は平安後期から鎌倉時代にかけて造られたものだったようだが、現在の地蔵は昭和4年(1929)9月に地元有志43名によって再建されたものらしい。

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この辻の西にはかつて石神井川に注ぐ羽沢支流の谷があり、千川上水から分流されて下練馬分水として北流していた。関東大震災以前は民家もまばらな武蔵野原だったようだが、震災後は宅地開発が進み住宅が増加した。しかしこの辻に絡む道は昔のままである。

場所  練馬区羽沢2丁目1-31

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2021年7月25日 (日)

九頭竜弁財天(練馬区中村橋)

中村橋駅の西、千川通り沿いにあるのが九頭竜弁財天。中村橋駅から斜めに走るこの道は古い道ではないが、この道筋は中村北と貫井の町境でこの町境は江戸時代に遡ると上練馬村と上鷺宮村の村境でもあった。

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全体としては東向きに並んでおり、その右端にあるのが角柱型の地蔵菩薩像。昭和31年(1956)12月の建之で、背面には火災により命を落とした母子の名が刻まれている。母の年齢は28歳、男の子は生後3ヶ月という。読んでいて悲しくなってくる。隣りの御影石の石柱は馬頭観世音菩薩。裏面に平成元年(1989)12月九頭竜弁財天奉賛会一同とある。なぜに平成の時代に馬頭観音なのかはいささか疑問。

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屋根の下にあるのが、右から子庚申塔、弘法大師碑、祠、そして左端が渡邊龍神とある。子庚申塔も弘法大師碑も御影石製で新しいもの。昭和49年(1974)11月で南蔵院の銘がある。左端の渡邊龍神は昭和30年(1955)12月の造立で、豊島権守守守護神勧請とある。なんだか統一感を欠いている印象が強いが、戦後昭和期にこの場所を流れていた千川上水と深い関係があるのだろう。

場所  練馬区中村北4丁目12-4

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2021年7月24日 (土)

中村橋商店街の庚申塔(練馬区貫井)

中村橋駅から2本目の辻、都道427号線中杉通りでもある商店街の角に庚申塔がある。商店街は古くからの街道筋や主要村道筋に発達することが多いので、各地の商店街に庚申塔や地蔵があるのは決して珍しい事ではない。赤いトタン屋根の堂宇には駒型の庚申塔と燈籠が祀られている。

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庚申塔の造立年は宝暦2年(1752)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、石の材質もかなり良いものである。脇には「上練馬村貫井 施主講中」と書かれており、施主名などは見当たらない。庚申塔の高さは120㎝程で比較的大きい方である。

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庚申塔の右手前には太刀持ちの如く燈籠が立っている。支柱の正面には「奉納 青面金剛像」とあり、年紀が傍らに記されている。造立年は文化10年(1813)9月。右面には「當村 世話人 関口門右衛門  同義助 同弥兵右衛門 長谷川市五郎 同勝太郎(同は前の姓の繰り返し)」と書かれている。反対には「高松村 願主 高山佐内治」とあるので、北に隣接していた村衆も関わっていたようだ。

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貫井村と高松村は石神井川を挟んで、左岸北側が高松村、右岸南側が貫井村だった。石神井川沿いには田んぼが広がり、村人はそこで米を耕して台地の上に住んだ。当然ながら川を挟んで高松の村人と貫井の村人は交流を重ねていたに違いない。

場所  練馬区貫井1丁目6-8

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2021年7月23日 (金)

中村橋商店街の馬頭観音(練馬区貫井)

西武池袋線中村橋駅から北に延びる商店街、この通りはれっきとした都道で427号線である。通り名も中杉通りという名前があり、杉並区役所のある南阿佐ヶ谷からここまで伸びている。終点はこの商店街通りが目白通り(清戸道)にぶつかる貫井二丁目交差点。もともとこの南北の通りは江戸時代からの街道で、南の五日市街道から清戸道までの重要な道だった。

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そんな商店街の一画、中村橋書店の向かい側、古書店の横にブロック造りの堂宇があり、その中に馬頭観音が祀られている。角柱型の馬頭観世音の造立年は明治6年(1873)9月。比較的新しいが、明治初期はまだ商店街どころか民家もまばらな土地だった。民家は清戸道沿いに多く、この道の清戸道出合い辺りには石神井川の支流の貫井川が流れ、その周りには田んぼが広がっていた。

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正面には「馬頭観世音菩薩」と書かれており、右面には年紀、左面には「上練馬村貫井 願主 関口初五郎」とある。関口家はこの辺りだけにしか見られない願主姓だが、清戸道を往来する馬主だったのだろうか。この商店街の名称は「サンツ中村橋商店街」とあったが、サンツというのが分からない。とはいえニャンピーというちょっとけったいな猫のゆるキャラまであるなかなか活気ある商店街である。

場所  練馬区貫井2丁目2-10

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2021年7月22日 (木)

東貫井の馬頭観音(練馬区貫井)

目白通りの側道傍らにある清戸道沿いの庚申塔の向かいにあった馬頭観音が30mほど西に移設されていた。目白通りに向かって中村橋駅から延びてきた新道は平成になってから開通したもの。旧道との交差がちぐはぐな道になっている。馬頭観音の東側には昔は沢が流れていた。暗渠マニアの間では向山ヶ谷戸支流と呼ばれている。

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馬頭観音は駒型で、造立年は天保15年(1844)4月。施主名は「当村願主 榮治良」と記されている。馬頭観音はもともと清戸道との関係で建てられたものではないかと思う。

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江戸時代末期のものだが、今でも近所の方に大切に祀られているようだ。この辺りは江戸時代から明治にかけては東貫井と呼ばれた地域。この西側を石神井川支流の貫井川が流れていたが、東貫井は右岸、本貫井、中貫井は左岸である。練馬区の資料によると、貫井2丁目18(都営貫井二丁目アパート公園辺り)で古代の国司級の高官の装身具が発掘されたという。詳細は未詳だが、1000年以上前には政治的に重要な場所だったのかもしれない。

場所  練馬区貫井2丁目1-16

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2021年7月21日 (水)

貫井二丁目の庚申塔(練馬区貫井)

「貫井」という地名は東京都では小金井市と練馬区にある。どちらも地名の由来は水にある。小金井市の方は「夏は冷たく冬は温い水が湧く」という説があり、練馬の貫井は空海が訪れた折、水不足に苦しむ村民を見て、杖で地面を叩いたところ泉が湧出たという、全国にある弘法大師説のようだ。この地域は江戸時代には上練馬貫井村と呼ばれた時期もあったという。

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以前、「向山小学校前」といわれた目白通りの交差点付近は不思議な側道が付いている。現在の目白通り筋は昔からの道筋だが、この辺りは東貫井と呼ばれた土地。街道の北側が向山谷戸と呼ばれた土地であった。この側道は目白通りが拡幅する以前の古い街道「清戸道」の名残りである。そこから斜めに分岐する道の角に樹木が生い茂る一角があり、そこに庚申塔が祀られている。

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庚申塔は笠付角柱型の立派なもので、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。青面金剛の右には「奉造立庚申像供養二世安樂祈攸」とあり、左側面には「武刕豊嶋郡上練馬之郷貫井村 講中拾人」とある。造立年は宝永4年(1707)11月である。この庚申塔の北の街道の向かい側には昔小さな池があり、石神井川の支流が北流していた。ここで清戸道が微妙に曲がり、その沢を渡っていたので、この側道が残ったという地形のいたずらのようである。

場所  練馬区貫井2丁目4-19

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2021年7月20日 (火)

向山の庚申塔(練馬区向山)

西武池袋線と目白通りは現在は池袋線が高架で目白通りが平面を通っているが、2001年に鉄道高架化が出来るまでは目白通りが跨線橋で西武池袋線を越えていた。上下を入れ替えるという珍しい工事だったので、4年も掛ったらしい。鉄道は昭和初期以来、多くの轢死者を生み、交通渋滞を招いたが高架化や地下化は土地が昔の区割りに戻ることを可能にするので賛成である。向山は「こうやま」と読む。

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目白通りの下り側、鉄道をくぐってしばらく行くと、跨線橋時代の側道が寄り添う区間がある。その側道の脇に屋根付きの庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔は蓮花風の擬宝珠まできちんと付いている。造立年は宝永6年(1709)10月、富士山宝永大噴火の1年前である。

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日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、主尊の右には「造立庚申供養二世安全祈所」とある。側面には、「武刕豊嶋郡上練馬向谷原村結衆 施主 男16人 女28人」と記されている。江戸時代は千川上水以北は上練馬村だったが、向谷原村というのは石神井川の左岸が谷原であるから、その向かいということだろうか。

場所  練馬区向山1丁目3-9

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2021年7月19日 (月)

三の橋庚申(練馬区豊玉中)

西武練馬駅から500mほど南にちょっと変わった道路の交差点があり、丁字路になっているところに「三の橋庚申」という庚申塔がある。敷地はブロック塀で囲まれた10坪ほどもあろうかという広いものだが、中には堂宇が一つだけである。練馬駅からここまでの道は江戸時代から明治位迄は江古田川(中新井川)の支流が練馬郵便局あたりにあった池を源頭にして流れ下っていた川筋である。ちょうどこの辺りでその川を三の橋で渡っていたので、ここの庚申塔が三の橋庚申と呼ばれるようだ。

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江戸時代のこの辺りは中新井村で小字を中新井西組といった。現在も南北にこうしん通りという道があるがおそらく三の橋庚申に由来するのだろう。堂宇の中の庚申塔は御影石でツルツルの表面の新しいものである。造立は昭和41年(1966)9月。正面に「庚申」とあり台石に三猿が陽刻されている。右面には「父之碑 子之碑」、左面には「豊玉十人より合う人々建之」とある。

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周辺の話からして、昭和41年の庚申塔は再建あるいは再再建であることは想像に難くない。調べてみるとやはり元の庚申塔があったようで、正覚院にある享保8年(1723)11月造立の角柱型庚申塔が元の三の橋庚申らしい。上部が欠損しているが台石にはふくよかな三猿が描かれた特徴のあるもの。これについては正覚院の項で再度書きたい。

場所  練馬区豊玉中3丁目16-11

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2021年7月18日 (日)

成田山中村不動尊(練馬区中村北)

西武池袋線中村橋駅の東200mほど、千川通りの緑地帯の中に成田山新勝寺中村不動尊がある。この場所は戦前までは千川上水が流れていたまさにその場所なので、かなり新しいものであろう。成田山新勝寺は毎年の餅まきで有名で有名力士や有名歌舞伎俳優が例年登場する。もとは真言宗の寺院で、総本山が京都の知積院、大本山は3カ所あって、千葉の成田山新勝寺、川崎大師平間寺、そして高尾山薬王院である。

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全国に71の子院(別院、分院、末寺、末教会、成田山教会)があるが、これはそれにも含まれていないので、おそらく裕福で熱心な信者たちがここに個人的に勧請したものだろう。手前の対の燈籠は昭和38年(1963)5月なので、建てられたのはその頃かもしれない。千川上水が暗渠化されたのも東京五輪の頃だから時代が合う。

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不動尊の隅っこに古そうな角柱型の供養塔があった。練馬区の資料では安永7年(1778)の造立とされているが、文字を読んでみると、中央には2人の戒名があり「霊位」とある。その右側には「安永7年(1778)6月」、左側には「寛政2年(1790)8月とあり、追加して彫ったような文字バランスではないので、おそらくは寛政2年のものではないかと思う。

場所  練馬区中村北2丁目18-12

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2021年7月17日 (土)

西貝家の地蔵尊(練馬区中村北)

南蔵院の墓所の西側の道路を北上、この道は明治以前からある道で碁盤目直線でない道らしい道である。北にある千川通りにはかつて千川用水が流れていた。その南のエリアは原という土地で、その集落の中央にあたるのがこの西貝家である。

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西貝家の門の脇に1坪ほどの敷地の堂宇がある。中には背の高い地蔵菩薩立像が祀られている。造立年は文化13年(1816)3月。台石正面には、「念仏講中十八人 願主 西貝半右エ門」と彫られている。この西貝家のご先祖であろう。その脇には「南 中野ほりのうち道」とある。

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台石の右面には、「右 江戸みち」とあり、左面には「左 かみねりま 志ら古道」とあるが、これは上練馬と白子である。また武刕豊嶋郡中村の銘がある。このように旧家が石仏を守り続けている土地は素晴らしい土地であると思う。

場所  練馬区中村北2丁目5-14

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2021年7月16日 (金)

南蔵院の石仏(練馬区中村)

練馬区中村にある南蔵院は瑠璃光山南蔵院医王寺が正式名。南蔵院という寺院はあちこちにある。この南蔵院の創建年代は不詳だが、延文2年(1357)に良弁僧都が中興したとされる。良弁僧津は良弁塚の高僧と同一人物である。南蔵院は古くから万病に効くという白龍丸を頒布し「南蔵院の投込み」として全国に広まったという。明治になり1877年に薬事法で禁止されるまで頒布は続いたようだ。

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南蔵院には近隣から移設された石仏が多い。写真の笠付角柱型の聖観音像もその一つ。もともとは中村南3丁目2の中村八幡神社脇に首つぎ地蔵とともに祀られていたものである。角柱型の聖観音像は珍しい。造立年は寛政11年(1799)2月で、右面には「奉順礼西国坂東秩父百箇所供養仏」とある。正面には「覚仙」という僧侶らしきながあり、左面には「俗名 内田兵三郎」とあるので出家の記念だろうか。写真には端しか写っていないが右隣りには造立年宝暦12年(1756)4月の角柱型の供養塔もあり、これも同じ場所から移設したものである。

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同じところにあった首つぎ地蔵尊も南蔵院に移された。年号は不詳。中村に加藤という人がいて、ある日道を歩いていると畑の中に地蔵様の首が転がっていた。これを拾って持ち帰り、妻に見せると生首のようだと言われ始末に困ってしまった。そこで護国寺の僧侶に相談したところ、倒れないように木で支えを作って差し上げろとのこと。しかし実際にやってみると恰好が良くないので、きっと近所に胴体が落ちているだろうとあちこち見回った。2,3日後についに首なし地蔵を見つけ、合わせてみるとぴったり合うので、石屋に頼んで繋ぎ合わせ、護国寺の住職佐々木僧正に命名をお願いすると「首つぎ地蔵」という名が決まり、昭和30年頃堂宇を建ててお祀りした。首が繋がっているというのでサラリーマンに人気が出て一時は大勢の人が参詣したらしい。

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境内には朽ちかけているかと思うほど古そうな鐘楼門がある。練馬区指定文化財になっていて、中には仁王像もあり古くとも見事なものだが、その裏手にあるのがこの北向地蔵。蓮華座の蓮弁部分に年号などが彫られている。造立は元禄9年(1696)5月。法印良盛造営とある。

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その傍には大乗妙典供養塔が立っている。造立は宝暦11年(1761)10月。西国坂東秩父百箇所、四国八十八ヶ所の巡礼記念で、武州豊嶋郡中村の銘がある。

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本堂に向かっていくと大きな水鉢がある。寛延元年(1748)11月に造られたもの。左面には「武刕豊嶋郡中邑郷」とある。正面には水盤願主助力370人、観音百番成就講中13人とあるが、薬師御宝前とあるのは寺の本尊である薬師如来を祀るものであろう。

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本堂左手の墓所に入ると自然石で造られた「川施餓鬼供養塔」と摩滅が進行して正体の分からない笠付角柱型の石仏がある。施餓鬼というのはお盆の行事で、餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養するもの。昔は水で亡くなる人も多く、川岸や船上で施餓鬼を行うことがあり、それを川施餓鬼という。明治15年(1882)10月建之とあり、裏には「右 東高野山道」とある。一方の笠付角柱型についてはおそらくは地蔵菩薩立像だろうと思う。側面には道標があったのではないだろうか。

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その先には舟型光背型の聖観音像と六地蔵がある。六地蔵はその台石にすべて「念仏講中 男女38人 内田半平」とあるが造立年等は分からなかった。その左にある聖観音像は、元文元年(1736)8月造立で、「奉唱念光明真言二百七十万遍供養佛」とある。願主名は中村金左衛門。

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六地蔵の先にあったのは、中村2丁目19番から移設された笠付角柱型の庚申塔である。造立年は寛政12年(1800)11月。武州豊嶋郡中村の銘がある。正面にはかなり摩滅しているが青面金剛像、邪鬼、三猿、脇に二鶏だが左が消えかかっている。上部には日月があった痕跡は残っている。青面金剛は左手におそらくショケラを持っているが、ショケラの姿がはっきりしない。

いくつもの石仏を受入れている南蔵院は明治9年(1876)には本堂を使って豊玉小学校が設置された。

場所 練馬区中村1丁目15-1

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2021年7月15日 (木)

良弁塚(練馬区中村)

西武池袋線中村橋駅の南約600mの一画に石塔石仏の祀られた良弁塚がある。良弁塚の前の路地は江戸時代からこの辺りを北東から南西に向かって走る村道で、逆にこれ以外の道路は概ね戦後整備されたものである。この村道を南へ行くと中野区の区境で上鷺宮の願掛け地蔵尊に達する。良弁は南蔵院の開祖でもあり、彼が法華妙典を納めるために諸国の霊場を廻ったが、その廻国が終わったので妙経を塚に埋めたのがこの良弁塚と伝えられる。

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一番南西側には2mの高さの笠付角柱型庚申塔他いくつかの石仏がある。擬宝珠まで付いているこの庚申塔は元文5年(1740)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。そして台石には大きな二鶏があり、「願主内田五平次、講中廿二人」と二鶏の間に書かれている。主尊の脇には「武刕豊嶋郡中村」の銘があり、右面には「是 右ハ下祢りま道」、左面には「是 左ハ上祢りま道」とある。

庚申塔の右隣りの駒型(板碑型)の文字庚申塔。「庚申石塔国家安全 武刕豊嶋郡中村南蔵院」と書かれ、造立年は元禄10年(1697)9月。さらにその右にある「弘法大師碑」の後ろの小さな石塔は「庚申塔 内田鉄太郎」とあったようだが、現在は年紀も他の文字も読めないほど風化している。昭和の後期にはまだ若干読めたらしいがおそらく明治辺りのもので石材の質が良くないのだろう。

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北東側に並んでいるのは3基の庚申塔。右から、寛文7年(1667)11月造立の駒型庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿がきれいに描かれている。造立年は明和元年(1764)10月、尊像脇には「奉造立庚申講中現當二世安樂所」と刻まれている。左面には「武刕中村郷講中二十人」とあり、さらに「左ハ そうしかや通り(雑司ヶ谷通り)」「願主 中村半左衛門 横山傅蔵」、右面には「右ハ かうゑん寺高井戸通り」と書かれている。

中央は板碑型の庚申塔で、中央には「奉供養庚申待二世安樂攸敬白」と書かれ、造立年は元禄8年(1695)9月である。左の庚申塔は上部が欠損しているようだが、頂部に三猿が置かれる極めて珍しいかたち。寛文7年(1667)11月造立と極めて古く、「奉納庚申供養為二世安樂也」という文字とともに多くの女性名(おたみ、おせん、おたまなど)が記されている。

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ツツジの株に覆われているのは「良弁廻国記念の塔」で、造立年は元文5年(1740)3月と良弁の時代ではない。正面には「延文2年(1357)3月21日に良弁がここに大乗妙典を奉納した旨が記されている。どうも従来あった良弁塚の古木は枯れてしまい石碑が朽ちてしまったので再建したというような意味合いの文字が書かれている。

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その左にある石塔は表面が剥離してしまっているが、明治30年(1897)3月の新しいもの。やはり明治の石材は質が悪いのだろう。資料によると正面には「天下泰平 奉納大乗妙典納経供養塔  日月清明」とあり、台石には内田佐兵衛の銘がある。

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良弁塚で目立つのはこの石幢である。練馬区の指定有形文化財になっており、実は七面である。「石幢七面六観音勢至道標」という名前が付けられている。写真の左半分の面が正面で勢至菩薩が描かれ、向かって左回りに、千手観音、聖観音、如意輪観音、准提観音、十一面観音、馬頭観音が彫られている。造立年は元文5年(1740)10月で、ここには元文5年の石仏が多いようだ。台石は四角だが、それぞれ東西南北の道標になっている。「東 此方 なかのミち 目ぐろみち」「西 此方 たかいど 大山ミち」「南 武州豊嶋郡 中村里」「北 此方 ねりま 川口ミち」とそれぞれ記されている。

場所  練馬区中村3丁目11-2

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2021年7月14日 (水)

十字路の地蔵尊(練馬区中村南)

区立中村中学校の西、田中稲荷神社の南100mほどの十字路に塀を凹ませて石仏が2基祀られている。この場所に立っているのはアパートだが、以前は樹木に囲まれた広いお屋敷だった。おそらく大家さんは今でもその中村家だろうと思う。

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向かって右は聖観音菩薩、左は地蔵菩薩。聖観音菩薩像は舟型光背型で、造立年は元文5年(1740)8月。願主名は中村利兵衛とある。大家さんのご先祖だろうか。主尊の右には「願成就為二親兄弟二世安樂」とある。ご先祖様が未来永劫子孫が幸せであるようにという願いがこもっている。

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左の地蔵菩薩像は上部がすっぽり欠損している。その為年号が分からない。欠けた部分の下に11月という文字は読める。▢▢造立念佛諸供養…とあるので念仏講中によるものかもしれない。台石には「願主 中村新五右衛門  小宮佐内  講中40人とある。個人が何百年も石仏を守り続けるというのは極めて大変なことだろうと思う。ありがたい。

場所  練馬区中村南2丁目19-22

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2021年7月13日 (火)

南蔵院通りの庚申塔(練馬区中村南)

練馬区立中村中学校の南東にガーデンスクエアという人気のスポットがある。形態としては森の中のカフェといったところだろうか。ちょっとオシャレすぎて小生には似合わない。そのガーデンスクエアの北側の角に屋根付きの駒型庚申塔が立っている。

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南蔵院通りは新青梅街道と目白通りを結ぶ南北の生活道路だが、この辺りは樹木も多く木漏れ日が気持ちいい。もともとこの土地は地場の豪農である神田家の敷地だったところ。現在は森のカフェや高級マンションになっており、ハイソサエティな雰囲気があふれている。実はこの交差点は中野区と練馬区の区境で、南東の区画が中野区鷺宮、それ以外は練馬区中村南である。昔は中新井村という村で、大正時代まではこの土地の北側と東に流れる江古田川(中新井川)の流域には水田も広がっていた。中新井川は江古田で妙正寺川に注ぐ小さな川で、千川上水からの分水で農業用水になっていた川である。

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庚申塔は、青面金剛、邪鬼が描かれ、台石に三猿が彫られている。正面下部には「南 中の道」とあるが、これは中野への道ということだろうか。造立年は安永6年(1777)7月。右面には「北 なんぞういん江二丁  東 ぞうしかやミち」とある。左面は「西 せき志やくじミち  せハやき」とある。左面は何を指すのかよく分からないが、西には石神井があるのでその意味だろうか。願主名は7名、神田姓が4人、星川姓が3人である。

場所  練馬区中村南1丁目26-22

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2021年7月12日 (月)

北町観音堂前の石仏(練馬区北町)

石観音堂(北町観音堂)の川越街道側には4基の石仏が並んでいる。庚申塔が2基、薬師如来、馬頭観音が祀られている。なまこ壁の塀の外ではあるが敷地としては石観音堂の敷地内である。なまこ壁と石仏のコントラストがとてもいい。

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右端の笠付角柱型の庚申塔は、造立年が正徳4年(1714)8月。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が陽刻されている。右面には「奉造立青面金剛二世安樂所  願主 五郎右衛門」とあり、左面には年紀の他、「武刕豊嶋郡下練馬村 施主 貮拾七人」と刻まれている。

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右から二番目は珍しい薬師如来坐像である。資料の写真に比べて欠けが生じているのは残念である。舟型光背の大きな像で、これだけ光背が長いものは多くない。造立年は貞享3年(1686)8月と書かれている。薬師如来はお腹の前に両手を重ねて載せている薬壺が特徴である。

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その隣には笠付角柱型の庚申塔。こちらは日月、青面金剛像、欠けているがおそらくは邪鬼、三猿が描かれている。三猿も右の2匹は顔が欠損しており、邪鬼は青面金剛が右足でおそらく頭を踏んでいるが胴体は欠損している。造立年は寛延3年(1750)11月。「豊嶋郡下練馬村上宿 講中 四拾人」とあり、裏面に「願主 漆原五郎右衛門」の銘がある。左端の馬頭観音は角柱型の文字塔。比較的新しく明治30年(1897)3月の造立で、「練馬上宿 吉田金四郎」の銘がある。

場所  練馬区北町2丁目38-19

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2021年7月11日 (日)

石観音堂の石仏(練馬区北町)

旧川越街道の下練馬宿はかつての街道の名残りを部分部分に残している魅力的な商店街である。環八通りが下をくぐる大山道道標から西へ進むと、400mほどで下練馬の富士塚のある浅間神社がある。富士街道の分かれていた大山道道標より江戸側が下宿、徳丸から吹上観音堂への道が分岐する石観音堂(北町観音堂)から川越側が上宿で、その間が中宿と呼ばれていた。

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石観音堂に向かって左の広い道が旧川越街道の下練馬宿上宿、そして右の現在は細路地に見える方がかつての旧道で徳丸から吹上観音堂に向かう街道で、ここは分岐点だった。吹上観音堂は現在の東明禅寺のこと。高島平の西、和光市白子にあるが、ここには百庚申と呼ばれる135基もの庚申塔があるというからいずれは行ってみたい。

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入口を入っていくと左右の堂宇に、北町の仁王様と呼ばれる阿形像、吽形像がある。造立年は天和3年(1683)3月という石像である。「生国武州八王子 奉立之施主 光岳宗智」とあるが高貴な僧侶だろう。有名な寺の山門にある木造の阿形吽形像には迫力が及ばないが、石造ということで庶民的な親しみやすさを感じられる。

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奥にはまず極めて立派な馬頭観世音菩薩が祀られている。まるで菩薩像のような雰囲気を醸し出しているが、高さ138㎝もある丸彫風の光背型の馬頭観音である。造立年は不詳、銘文もないので詳しいことは分からない。ただ、街道筋ということで牛馬の大切さがより高く、このような立派な馬頭観音を建てたのだろう。

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そして石観音堂の主役とも言えそうなのがこの丸彫の聖観音像。半跏像になっておりこれが観音堂由来かと思われる。造立年は天和2年(1682)8月。「武州河越多賀町隔夜浅草光岳宗智日参所  奉新造聖観音為四恩報謝也 」とある、下部の丸い台には近郊遠近多数の町村名が刻まれており、この石観音が川越街道全体の中で進行を受けていたことが分かる。

新田、宇登坂、常連坊、上砂本、藤間、亀久保、大井、藤久保、中野、大和田、野火留、膝折、本宿、新倉、高沢、白子、北町、赤塚村、下町、南町、鍛冶町、下練馬、多賀町、上板橋、田鳥(で一字)町、等知らない場所もあるが概ね街道沿いの町村である。

場所  練馬区北町2丁目38-19

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2021年7月10日 (土)

阿弥陀堂の石仏(練馬区北町)

阿弥陀堂は明治維新の頃に金乗院に吸収合併された寺院。江戸時代は清性寺持ちの堂宇となっており、千川用水を開削した徳兵衛、太兵衛が名字帯刀を許され千川家を名乗るようになったが、その千川家の墓所である。しかし廃仏毀釈の折に清性寺は廃寺となり、阿弥陀堂は金乗院の管理となった。

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阿弥陀堂は入口から堂宇までずらりと石仏が並ぶ参道になっている。およそ50基近い石仏が並んでおり圧巻。地蔵菩薩だけでも14基、聖観音菩薩像は19基、如意輪観音像が6基などと凄い数だがほとんどすべてが墓石である。

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一口の左右各3基で六地蔵とされている。それぞれの造立年は読み切れなかったが、資料によると宝暦7年(1757)のようである。他の石仏も寛文(1661~1673)、延宝(1673~1681)、元禄(1688~1704)、宝永(1704~1711)、正徳(1711~1716)、享保(1716~1736)、元文(1736~1741)が多くその時代に最も栄えたのだろう。

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この阿弥陀堂は川越街道からは少し南に外れている。しかし下練馬宿の中宿、下宿辺りからはすぐに裏手の土地で、その先には田柄川が流れている川岸の地である。現世の生活と来世が背中合わせになった環境で宿場の人々も暮らしていたのだろう。

場所  練馬区北町2丁目18-1

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2021年7月 9日 (金)

下練馬の大山道道標(練馬区北町)

旧川越街道から富士街道が分岐する丁字路にあったのが大山道道標と東高野山道標である。現在は環状八号線が開通、ちょうどここから北が東武東上線を潜るための北町若木トンネルになっており、トンネル入り口の真上を旧川越街道が横切る形である。

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トンネル入口の真上は緑地になっており広い歩道がある。歩道とUターン用の車道の間に大山道道標と東高野山道標が祀られている。環状八号線の工事が始まる前はこの堂宇より8mほど江戸寄りに不動寝具店があり、その角に東に向かって立っていた。

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かつての不動寝具店は昭和の布団屋さんらしく、川越街道側には布団が店頭に重ねておかれ、その隣には瀬戸物屋(陶器店)があった。下練馬宿のランドマーク的な場所だったと思われる。明治大正時代に遡ると、不動寝具店もなく、ここには道標があり人力車の溜まり場になっていたという。「旦那、板橋までどうです?」なんて車夫が声を掛けることもよくあったそうだ。

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右の大山道道標は宝暦3年(1753)8月の造立。上部の不動明王像は後年付けられたものらしい。正面には「天下泰平 國土安全 従是大山道  願主 内田久右衛門 並木庄左衛門」とある。右には「武刕豊嶋郡下練馬村講中48人」、左には「ふじ山道 田なしへ三里 府中江五里」とある。願主の内田久右衛門は30年の差はあるが棚橋の地蔵の願主と同一名である。左の東高野山道標は造立年不詳。「左 高野山道」とあるが、この高野山と言うのは高野台の長命寺のこと。当時の長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山としていた。

場所  練馬区北町1丁目25-15

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2021年7月 8日 (木)

棚橋の地蔵(練馬区北町)

川越街道と環八通りが交差する練馬北町陸橋の100mほど北東に田柄川緑道の橋「棚橋」がある。棚橋は元来田柄川に架かる富士大山道の橋であった。旧川越街道から分岐して最初に渡るのがこの棚橋。田柄川はこの辺りでは細流だったが、田柄用水として農業を支えてきた。しかしながら昭和49年(1974)から始まった下水道整備により、暗渠化され遊歩道になった。

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この地蔵、正確には「棚橋安楽子育地蔵」というらしい。棚橋跡の南側ににある三叉路の脇に堂宇があり、中に丸彫の地蔵菩薩立像が祀られている。造立年は天明4年(1784)9月。台石の正面には「奉建立地蔵尊 願主 内田久右衛門」と彫られている。

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台石に右側には「武刕豊嶋郡下練馬下宿 講中廿五」とあり、左には年紀と「為二世安楽也」と書かれている。下練馬宿は江戸の方から順に、下宿、中宿、上宿と呼ばれていた。この富士街道が川越街道と分岐する辺りには本陣の木下家、脇陣の内田家があり、脇陣の前から南に富士街道が分岐していた。したがってこの地蔵尊は江戸寄りの上記本陣脇陣辺りから東側の人々の講中によるものと考えられる。

場所  練馬区北町1丁目11-15

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2021年7月 7日 (水)

環八側道の庚申塔(練馬区錦)

環状八号線が国道254号川越街道と交差する練馬北町陸橋の近く、交差点から言うと南東側の区画の路傍に一基の大きな角柱型の庚申塔が立っている。高さが164㎝もある大きなもの。現在この角地にはお好み焼き屋さんがあるが、コロナ禍でどこまで堪えられるか心配である。

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造立は文政4年(1821)4月。正面に大きく「庚申塔」と彫られ、右面には「右 ふじ大山道」、左面には年紀と「武刕豊嶋郡下練馬驛上宿 庚申待講中」と書かれている。旧川越街道から棚橋で田柄川を渡り、南西に延びていたこの旧道はかつての富士道(大山道)で、埼玉や板橋から大山詣で富士講詣でをするのに往来していた道である。

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説明板には、『ふじ大山道は、大山街道、富士街道、道者街道とも呼ばれている。阿夫利山とも言われた大山へ、また大山から富士山への道者たちが通った道である。この街道は北町一丁目で旧川越街道から分かれて、石神井、田無を経て神奈川県伊勢原市に達していた。練馬の中央部をほぼ東から南西に横断し、区内では約8㎞に及ぶ。旧川越街道との分岐点には「従是大山道」と刻んだ道標が建てられた。』とある。

場所  練馬区錦2丁目23-14

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2021年7月 6日 (火)

金乗院の石仏(練馬区錦)

田柄川の左岸が円明院、そして右岸が金乗院(こんじょういん)。どちらも真言宗豊山派の寺院だが、金乗院の方が江戸幕府により加護されたようである。金乗院は文禄年間(1592~1596)の創建で、現在の本堂は昭和32年(1957)に再建された鉄筋コンクリート造りである。山門を入ると左に鐘楼と銀杏の巨樹が目に入る。

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最初の大きな石塔は宝篋印塔。造立は享保12年(1727)8月、武刕豊嶋郡下練馬邑如意山萬徳寺金乗院の銘。高さは3.4mある。宝篋印塔は石塔の一形態で、五輪塔と並んで広く建立されている。インドの梵文を真言密教で翻訳せずに詠んだという「宝篋印心呪経」を納める塔として始まったものだという。関西に宝篋印塔の重要文化財が多くある。

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宝篋印塔の先にあるのが見事な一石六地蔵で198㎝の高さがある。ひとつの石仏に六地蔵を彫ったものは、何種類かあるが、この塔に似たもので過去見たことがあるのは駒込の染井墓地入口の十二地蔵碑である。見た瞬間に心を打たれた感覚はこの一石六地蔵も似たものがあった。造立年は明暦2年(1656)9月で、下練馬村御月待衆16人の銘が刻まれている。

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本堂前左にあるのが教伝地蔵。明和5年(1768)3月の造立である。台石側面には「武刕豊嶋郡下練馬本村 願主講中」とある。右側側面には宝暦元年(1751)の銘もあるがこちらは阿闍梨教伝の菩提供養の意図で高僧の命日だろうか。

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墓所の入口右手には角柱型の延命地蔵がある。造立年は安政4年(1857)3月、頭光のある半跏像である。その向こうの墓所入口の門の右にあるのが、頭光のついた勢至菩薩ではないかと思われる。造立年は文化8年(1811)2月、上板橋村の銘がある。台石の正面には、「奉供養 月山湯殿山羽黒山 秩父西国坂東百番供養」とある、

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墓所入口の左には対比するように長い台石に載った聖観音菩薩坐像がある。造立年は文久2年(1862)3月か。右面には弘化2年(1845)1月とあるがこれは先祖の菩提を弔っている過去の命日のようだ。正面には「奉順礼 月山湯殿山羽黒山 秩父西国坂東 新四国 百八十ヶ所供養塔」とある。下部には上板橋村の銘もある。左の地蔵菩薩は安永8年(1779)の造立。マスクが可愛い。台石正面に「奉造立地蔵尊廻国供養」とある。左面には武州豊嶋郡下練馬村の銘がある。

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造立年は分からないが、教伝地蔵の並びにあった不動明王像の尊顔がとてもやさしく見えたので横顔を撮影してみた。仏の顔を見ていると時間の流れや空間の違いを超越した感覚を覚えることがある。野仏が特にそう感じさせるが、境内の石仏でも同様である。練馬がまだ素朴な農村だった時代に思いを馳せてみた。

場所  練馬区錦2丁目4-28

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2021年7月 5日 (月)

円明院の石仏(2)(練馬区錦)

さて山門に向かって左側にも石仏が並んでいる。右から、弘法大師碑、延命地蔵が2基、そして地蔵がもう1基の計4基が並ぶ。弘法大師碑は笠付角柱型で、正面に弘法大師の座像が陽刻されている。その脇には、「天下泰平 國土安全」と書かれている。その下には「大乗妙典六十六部現世二世祈所」とある。造立年は安永5年(1776)2月。

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その隣の地蔵菩薩立像は明和元年(1764)10月、台石正面に「奉造立地蔵菩薩」とある。側面には「武州豊嶋郡下練馬村今神講中 願主篠原右衛門」の銘がある。左の地蔵菩薩立像は、享保3年(1718)ともっと古い。正面に「奉造立地蔵菩薩尊像 為現當二世安楽也」とあり、側面には「武州豊嶋郡下練馬村」の銘がある。

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左端の角柱型の地蔵尊には「血の道地蔵」という物騒な名前が付いている。造立年は明治25年(1892)。血の道とは女性のホルモン変動に伴って現れる精神不安や苛立ちの精神症状をいう江戸時代からの言葉である。実は英語圏ではPMS(Premenstual Syndrome)という生理前の同じような精神不安定をいう単語がごく普通にある。

明治時代までは女性のそういう症状もおおらかに捉えていた日本の社会が、大正末期から昭和前中期にかけて、本来の庶民風俗を虐げてきたのではないかと思う。例えば形の上での「家族」もその時代に強要されて根付いたものである。ところがそれを遥か昔から日本人にあるものと思っている不勉強な政治家やオピニオンリーダーがこの国を牛耳っているので、おかしなことになってしまっている。 江戸時代以前を学べば学ぶほど、昭和前期中期に育った人々の大きな過ちが見えてくるのである。

話を地蔵に戻して、この血の道地蔵はその女性の精神的な不安を取り除くご利益があるだけではなく、いぼとり地蔵としても信仰されていて、いぼ(疱瘡)に効くらしい。

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山門をくぐり本堂脇を廻って裏山の斜面に行ってみるとそこには小さな洞窟があり、穴守弁財天碑が祀られている。この弁財天碑、写真ではわかりにくいが見事な線刻で弁財天が描かれている。造立年は文亀元年(1501)という室町時代。日本の歴史的な画家雪舟が生きていた時代である。京都では足利義政に始まる東山文化が全盛の時代である。

『大正2年(1913)村道改修のため、當寺裏山の崖を切り崩した際に発見された洞窟で、奥行約20m、高さ約2m、横幅約1.5m、両側に蓮華花弁模様が刻まれ、奥上段に文亀元年の年号と弁財天を彫り込んだ板碑が奉安されていた。この板碑は毛彫りで極めて珍しく、美術的価値も高い。穴守弁財天と称し大正4年に盛大な供養を行った。第二次世界大戦中は防空壕としてご本尊を安置したが、その後急速に崩壊の兆しが現れたので現在のように改修した。』とある。線刻の美しさはこの現物(板碑の上部)を見ないと分からないと思う。

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また境内には関東大震災の犠牲者の慰霊碑もあり、これは登録文化財となっている。大正12年(1923)の関東大震災で、練馬駅北口にあった上毛モスリン株式会社の練馬工場のレンガの建物が崩壊し、女工8人、男性1人が殉職した。その慰霊碑である。いつ起こるか分からない100年毎の大震災はもういつ来てもおかしくない周期になっている。

場所  練馬区錦1丁目19-25

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2021年7月 4日 (日)

円明院の石仏(1)(練馬区錦)

円明院(えんみょういん)は慧日山円明院西光寺が正式名で奈良の長谷寺を本山とする真言宗の寺院。創建は不詳だが、西暦1500年頃にはあったようである。田柄川が曲流し南に流れるところで、右岸に金乗院、左岸に円明院がある。

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門前には沢山の石仏が並んでいる。まずは山門に向かって右側の石仏から。霊場碑や寺名碑の脇にあるのが大型の駒型庚申塔。ただしこの庚申塔は近年氷川台2丁目7の今神橋際にあったが、平成元年(1989)3月にここに移されたもの。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、造立年は享保7年(1722)8月と刻まれている。右側には「奉造立青面金剛尊像所願成就所」とある。下部には武刕豊嶋郡下練馬内講中12人とあるが、グレーのペンキで落書きされた跡が残っている。罰当たりの愚鈍者がいるものだ。両側面にはそれぞれ、「右 ふじミち」「ひだりハたかたみち」とあり道標を兼ねている。

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庚申塔の左には6基の石仏が並ぶ。一番右は角柱型の馬頭観音だが、小さい。右端と見える大きな馬頭観音座像が目立つが、その右下にある小さな角柱も馬頭観音である。上部の「馬…」のみが読めるが、その他は摩滅していて分からない。

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背の高い頭光のついた馬頭観音座像は反対に極めてしっかりした像形が維持されており迫力がある。これは寛政6年(1794)9月に造立されたもので、中折れしているが見事なもの。基壇には年紀と「武刕豊嶋郡下練馬村 26人」とある。この馬頭観音座像は、富士街道と戸田橋に向かう道の三角点(錦1-31)にあって道標になっていたという。基壇の左右には、「北とだわたし道」「西ふじみち」とある。その左の地蔵菩薩立像っぽいのは実は阿弥陀如来像。裾脇に延宝7年(1679)5月の年紀と、元禄12年(1699)7月の年紀がある。その隣の極めて背の高いのは天明5年(1785)2月造立の延命地蔵(一つ上の写真の左端)。

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背高の地蔵の脇には燈籠と馬頭観音がある。手前の笠付燈籠は中段の火袋が無くなっていて燈籠には見えない。造立年は元文2年(1737)9月で「武刕豊嶋郡下練馬村」の銘と「奉納石燈籠 寒念仏講中」とある。後ろの馬頭観音は角柱型の文字塔で、これは大正2年(1913)と比較的新しい。施主島野市之亟と書かれている。

場所  練馬区錦1丁目19-25

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2021年7月 3日 (土)

民家の塀の地蔵(練馬区平和台)

練馬区平和台の同心円道路は厳密には4つある。外側から環八通りの円周、次が平和台三丁目交差点の円周、そして三つ目がもっともきれいな同心円道路になっている平和台一丁目交差点である。この交差点の一番内側の円周路の北の端に塀の一角に堂宇を作った民家がある。

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この地域の道路は幹線道路が東西南北に対して45度傾いている。それとは無関係に昔からの旧道が走っているが、その中に割って入るように住宅開発のための生活道路が作られている。一説によると、旧道にたいして東京環状を意図して環八と放射道路が作られたが、一帯の不動産開発をするにあたり南向きの戸建として売り出したい開発業者が道路を東西南北にしようとしたらしい。それで旧道と幹線と生活道路がちぐはぐなせめぎ合いをする地形になってしまったようだ。

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地蔵は新しいもので、昭和31年(1956)2月の造立と裏に書かれている。施主は篠原六郎とあるのでこのお宅の先代だろうか。もともとここは砂利の駐車場だった。しかし2017年頃にこの敷地にアパートが建てられた。それでも駐車場の一角にあった堂宇からこの塀の凹みに居を移して地蔵尊が祀られたのである。

場所  練馬区平和台1丁目22-6

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2021年7月 2日 (金)

川島家塀の庚申塔(練馬区平和台)

西本村稲荷神社から東へ500m程の所の民家の塀に凹みがあり、駒型の庚申塔が祀られている。この辺りは旧下練馬村本村、まっすぐな路地が多い中で、この庚申塔のある辻を北東から南西に走る道は少し曲がっている。この道は江戸時代からの村道である。金乗院の所で田柄川を渡り、ここを通って南の石神井川流域へ向かう道であった。

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この塀のお宅は川島家、代々この庚申塔を守って来られたのだろう。庚申塔は駒型で上部に日月が陽刻、「庚申塔」と大きく書かれている。その脇には「天保5年(1834)4月」の銘があり、台石正面には「當村東講中」とあるので、ここは東本村だったのだろう。また本体下部正面には横書きで「江戸道」とある。

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庚申塔の右面には「北 下祢りむま道  とたわたし道」(下練馬道、戸田渡し道)、左面には「南 ぞうしかや たかたみち」(雑司ヶ谷、高田道)、裏面には「西 ふじ山 大山ミち」と彫られている。江戸時代この場所はちょっと変形の交差点になっており、確かに方角としては書かれたとおりである。

場所  練馬区平和台1丁目28-21

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2021年7月 1日 (木)

西本村稲荷神社前庚申塔(練馬区平和台)

地下鉄有楽町線の平和台駅の東側の旧地名は丸久保、そのさらに東側は本村と言った。本村というのはどこでもほぼ同じく村の中心という意味合いの地名である。板橋で石神井川に合流する田柄川は旧川越街道のすぐ南を流下した後、南流してこの本村のすぐ東を流れていた。田柄川の上流は田柄用水とも呼ばれた農業用水であったが宅地化が進んだために、土壌の保水バランスが崩れ水害を繰り返しやがて暗渠となってしまった。

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この稲荷神社はとても小さな神社だが境内はそこそこあり、創建年不明ながら延宝年間(1673~1681)には西本村神社として信仰されていたという。氏子の数も江戸時代から現在まで20戸弱で変わらない珍しい神社でもある。前を通る道路は練馬の円周道路を結ぶ北西から南東に延びる直線路である。稲荷神社の前の屋根付の堂宇に角柱型の庚申塔が祀られている。

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正面に大きく書かれた「庚申塔」の文字も薄くなるほど摩滅が進んでいる。上部に日月があるのが一般的だがそれを視認することができない。ただ台石には三猿の陽刻の盛り上がりが見て取れる。造立年は文久3年(1863)10月で▢▢村とあるが、これは西本村なのか本村なのか下練馬村なのかは分からず。右面には、「武刕豊嶋郡下練馬村本村」の銘と、「右 大山 新高野道 廿余人講中」とある。地元に密着した稲荷神社と庚申塔なのだろう。高野というのはおそらく練馬高野台駅近くにある東高野山長命寺のことではないだろうか。

場所  練馬区平和台4丁目2-12

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