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2021年8月31日 (火)

自性院の石仏(江戸川区東葛西)

葛西橋通りの江戸川にかかる浦安橋から600m程西の裏道沿いにある真言宗自性院は寺名を神宮寺というが、創建年代は不詳。良範法師(文亀元年(1501)没)による中興ということなので戦国時代の中興ということになり、創建はさらに遡る。北にある長島の富士塚がある茂呂香取神社の別当寺だった旧長嶋村の古刹である。

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山門前には2基の庚申塔が立っている。右側にあるのが舟型光背型の聖観音菩薩像で主尊の右側に「奉待庚申結衆三四教所願成就二世安楽所」と記されている。「三四」は三尸の意味だろうか。左側には寛文8年(1668)霜月(11月)の年紀と長嶋村の銘があり、左右の下の方には願主名が刻まれている。

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左側には駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、尊像右には「奉造立青面金剛尊躯二世安楽所」とある。造立年は元禄10年(1697)初冬、そして結集十六人敬白と記されている。

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山門から本堂への参道の途中に堂宇があり、地蔵菩薩立像が安置されている。しかし年紀等はどこにも記されていなかった。ただ蓮台と本体の石材が異なっており、地蔵菩薩本体は後年の再建のように思われる。

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本堂手前には別の堂宇があり、地蔵の菩薩の半跏像と角柱型の地蔵菩薩が祀られている。左の地蔵菩薩は左足を立てた半跏像で、基壇には「奉造立地蔵尊三界万霊」と書かれている。造立年は安永7年1778)11月、下部に「長嶋村 西講中」と書かれている。昔の地名を調べてみたが、自性院と香取神社の間には川があり、それより北が桑川(新田)、南が長嶋村だったようだ。この辺りには自性院以外にも曹洞宗の梵音寺や真言宗の東善寺など昔から寺院が集まっており、周辺には民家が多数あった賑やかな村だったようだ。

場所  江戸川区東葛西2丁目30-20

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2021年8月30日 (月)

真蔵院雷不動の石仏(江戸川区東葛西)

東葛西の旧江戸川の土手の少し西に真蔵院と雷香取神社が並んでいる。雷香取神社は、邵値阿闍梨が下総の香取大神を勧請して慶安2年(1649)に創建、天保7年(1836)数百メートルほど遷座、旧東宇喜田村雷組の鎮守だった。そして最近の平成2年(1990)に当地へ遷座したので社殿が新しい。特に南側を接する清州大橋通りの工事で真蔵院の境内と共にかなり縮小を強いられたようである。ここは千葉県側との間に橋を架ける計画があるがまだ着手していない。

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真蔵院は天文年間(1532~1555)の開山で、雷不動で広く知られている。その入口にゼニゴケ生した大型の庚申塔がある。なかなか立派な庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二童子、四夜叉という極めて珍しい図柄になっている。二童子はまるで不動明王のようである。これは雷不動の影響があるのだろうか。また三猿はなく代わりに四夜叉というのも都内にほとんど例を見ない。造立年は元禄11年(1698)2月で、台石には文化ねん(1805)12月の年紀があり、おそらく庚申講中がこの時期に再建したものと思われる。

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その先の境内にある大きな石塔が雷不動明王石造道標と言われるもので、以前は東葛西1丁目48-16にあったものをここに移設した。その場所はここから1.5㎞も北にある新川の東水門近くである。石塔には文政元年(1818)6月の再建であることが刻まれている。北から雷不動に来る人々への案内道標だったが、平成3年(1991)に倒壊した為に修復されて移築された。道標には新川の曳き船の友綱を掛けた跡が残っている。左面には「従是南十三丁」とあるので、1丁=109mで計算すると1417mだからほぼ合っている。

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本堂裏手には立派なお堂があり雷不動が祀られている。雷不動は別名波切不動とも呼ばれ江戸時代から親しまれているが、もとは当地の鈴木家が家宝の霊剣を祀る宝殿を建て、天文年間(1532-1554)に創建したのが始まり。鈴木家は平素より不動明王を信仰しており、不動様を当寺に安置したものの、他所へしばしば出亡、また、永禄年間の雷雨の際には霊剣が宝殿から庭に出て雷・悪魔を降伏させた状況の如くであったことからこの不動明王を雷不動・波切り不動と呼ぶようになったと伝えらえる。

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堂内に安置されている不動明王は新しいもののように見受けられた。両脇には大きな二童子があり、いかにもお不動様という配置である。なのでこの不動明王よりも新川-の河口から移設した道標の方が史料としては貴重で、上記の石造道標が江戸川区の有形文化財に指定されている。余談だが、雷不動の東側にはかつて北から雷川という用水が流れており、バス停の名前は雷上組とある。ここにも組を付けた地名が残されている。

場所  江戸川区東葛4丁目38-9

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2021年8月29日 (日)

昇覚寺の石仏(江戸川区東葛西)

江戸川区東葛西、明治時代の地名は葛西村東宇喜田中割にある寺院が真言宗の昇覚寺。寛文12年(1672)に没した僧邵値(しょうち)の開山と伝えられ、寛永15年(1638)が創建年とも言われる。山門前には石橋もあり、古くから東宇喜田の中心だったことが感じられる。

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山門をくぐると左に墓所、正面に本堂、右に鐘楼がある。この鐘楼は天明年間(1781~1788)の建立とされ、梵鐘は天明5年(1785)の鋳造である。昇覚寺はもともと尼寺で、近郊の信者から櫛やかんざしの寄進を受けてこれを鐘に鋳込んだと伝えられる。その音はなかなか素晴らしいらしい。

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鐘楼の脇には十九夜塔や小堂が並んでいる。鐘楼の前には説明板があり、大工は二之江村の加藤茂七とある。200年が経過し昭和59年(1984)に復元再構築された。その折に地下の基礎が発見され、低湿地帯でも建築物を安全に支え沈下を防ぐ仕掛けが巡らしてあったのが見つかった。地下に松の杭を打ち込んでいるもので、これは日本で初めて開通した新橋横浜間の鉄道工事に東海道の波打ち際で行われた基礎工事と似ている。中世の建築技術おそるべしである。

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鐘楼脇の十九夜女人講中の如意輪観音半跏像も見事な石仏である。造立年は寛政10年(1798)2月で、片膝を立てた如意輪観音像の造形が素晴らしい。蓮台の下には空想上の動物などが描かれており、その下に大きな基壇がある。この講中は月待講で十九夜の夜に当番の家に集まり月の出を待つという儀式を行っていたもの。十九夜、二十一夜、二十二夜の主尊は如意輪観音で女人講中が殆どだが、二十三夜塔になると勢至菩薩になり男の講中が多かったりする。

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大きな堂宇の中には地蔵菩薩と庚申塔が祀られていた。施錠されていて格子の間から覗きこむ。庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄。資料によると造立年は寛政10年(1798)2月らしい。

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向かい側の墓所側には大きな五輪塔がある。上から順に、空、風、火、水、地と文字が彫り込んである。重ねものの石塔のうち五輪塔は宝篋印塔と並んで多く作られている。初めは密教系の塔として造られたが後に大きく広まっている。この五輪塔の造立年は明暦2年(1656)6月と江戸時代初期のもので、寺の創建間もない時代のものである。

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五輪塔と山門の間には時代を感じさせる六地蔵が堂宇の中にある。時代は元禄年間の年紀が見られ、東組、西組などの文字が見られる。おそらくは東宇喜田の集落の中の小集団だろうと思う。江戸川区の地名の特徴で▢組、とか▢庭という集落名があり、葛西中割には近年まで西組、東組の組織が残っていたそうである。ちなみに昇覚寺の南にあるバス停は仲町東組という。しっかりと地名が残されている。

場所  江戸川区東葛西7丁目23-17

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2021年8月28日 (土)

中葛西の庚申塚(江戸川区中葛西)

東京メトロ東西線の葛西駅から南南西へ約200mの葛西駅西通り辻の一画に祠と庚申塔が祀られている。庚申塚と呼ばれているようだ。葛西あたりは感覚的に昔は海だったのではと思ってしまうが、そんなことはない。現在の葛西臨海公園の東半分やディズニーランドのゲートあたりは江戸時代から陸地だった。江戸時代この辺りは雷不動とあり、現在はその一角に中葛西香取神社と正應寺がある。

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庚申塚はその少し西、この辻は江戸時代からある道で、これより東は長島村、西は西宇喜田村となっていた。いわゆる村境の庚申塔であったわけである。西を向いているところからすると長島村のものだったのかもしれない。庚申塔は駒型で大きく立派なものである。

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上部には日月の陽刻、その下は全体的に陰刻として製作されたのだろうか、盛り上がりの大きな青面金剛像、邪鬼、二鶏、そして下部に三猿が彫り込まれている。右側面には「奉造立青面金剛像一體講結集二世安楽攸」とあり、左側面には「武州葛西領桑川新田」の銘と享保11年(1726)9月の年紀が刻まれている。さらに下部の台座には「結衆敬白拾四人」とあり多数の願主名が彫られている。桑川新田という地名はこの庚申塔の南側の低地その先は海に面していた水田農作地帯である。明治になると宇喜田村と長島村は合わせて葛西村になっている。

宇喜田というのは大名の宇喜多家とは無関係。慶長元年(1596)に宇田川喜兵衛定氏によって開発された土地なので、頭文字をとって宇喜新田と呼ばれていたが、宇喜田に転化した。

場所  江戸川区中葛西5丁目31-5

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2021年8月27日 (金)

金嶺寺の石仏(台東区谷中)

路地の反対側(西側)にある金嶺寺(こんれいじ)も大泉寺と同じく、慶長16年(1611)に神田北寺町に創建したが、寺地収公により慶安元年(1648)にこの地に移転している。ここも天台宗の寺院である。上野戦争の時に寺は焼失してしまったが、明治27年(1894)に再建している。

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金嶺寺の石仏は少ないが特徴あるものがある。まずはこの庚申塔。蔦が絡みついていて文字も読めないが、資料によると笠付角柱型らしい。どうやってここまでびっしり蔦を巻き付けたのか、そしてなぜ資料にはほどんど情報が残っていないのかが疑問。

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青面金剛像はとても見事な彫りをしている。その他も素晴らしい。青面金剛は邪鬼を踏みつけ、その下には一猿。多くの庚申塔は三猿なのだが、どうもこれは一猿のようである。左手には大きなショケラをぶら下げているのが特徴でもある。造立年はもちろん読み取れず不詳。この蔦を絡ませたのはいったいいつ頃なのだろうか。ここ数十年であれば資料に残っているはずである。

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境内にはこの3基の石仏が目立っていた。左はかなり摩滅が進んでいる丸彫の地蔵座像で「南無地蔵大菩薩」と基壇に彫られている。中央の宝篋印塔には「三界万霊塔」と刻まれている。そして右側の聖観音菩薩立像(舟型)の彫りもなかなか素晴らしい。

場所 台東区谷中1丁目6-27

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2021年8月26日 (木)

大泉寺の庚申塔(台東区谷中)

大泉寺はこの路地では北から四番目の寺院になるだろうか。この谷中6丁目2番のブロックにある寺院は、多宝院、西光寺、長久院、大泉寺、自性院とどれも神田北寺町からの移設。天台宗寺院の大泉寺は、慶長16年(1611)神田北寺町に創建したが、慶安元年(1648)に寺地収公により現在地に移転している。多宝院、西光寺、大泉寺、自性院がそろって慶安元年に移転しているが、長久院だけは慶安11年の移転で10年遅い。同じ御用地召上げなのに10年の差があるのは不思議だが、調べても解らなかった。

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大泉寺の山門をくぐると右手に複数の石仏が並んでいる。背の高い三界万霊塔の地蔵菩薩や、その脇の大乗妙典六十六部日本廻国供養塔などもなかなか魅力的だが、その近くにある庚申塔がなかなかいい。

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笠付角柱型の庚申塔で、笠は大きめ。下部に三猿と二鶏が陽刻されている。上部の文字は「奉造立  庚申供養  二世安楽」とあり、造立年は寛文11年(1671)11月とかなり古いもの。実はこの庚申塔は『台東区の庚申塔(台東区教育委員会)』には載っていない。2008年頃の調査のようだが漏れてしまったのだろうか。

場所  台東区谷中6丁目2-13

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2021年8月25日 (水)

西光寺の石仏(台東区谷中)

都道452号線三崎坂の坂上から南に延びる路地沿いにいくつもの寺院が並んでいる。東京七面山の日蓮宗本山のひとつ瑞輪寺、西光寺、長久院、大泉寺、金嶺寺、一乗寺、大行寺と続く。その中で北から2番目の西光寺だが、真言宗の寺院で、慶長8年(1603)に神田北寺町に創建。慶安元年(1648)に寺地収公により現在地に移転したが、これは多宝院とまったく同じ経緯である。

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山門からは正面に本堂が見える。そして右側にはいくつもの石仏が並んでいる。西光寺は江戸時代には、秋田藩の佐竹家や三重県の津藩の藤堂家の祈願時となった寺院だが、創建時には藤堂高虎が財政支援をしたと伝えられている。その後の火災等においては佐竹家が全面的にバックアップして再建している歴史がある。

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並ぶ石仏の中で最も目立つのは写真の十一面観音と韋駄天であろう。その昔、足の速い鬼が仏舎利(釈尊の遺骨)を盗んで逃げた際に、いち早く追いかけ瞬く間に仏舎利を取り返したことから、修行を妨げる悪いものを追い払う力がある神、盗難除けの神として信仰されるようになった。また古来より足腰病平癒に効験があるともされている。十一面観音は、人々の心の問題に対して11ある顔の中から最適な顔で語り掛け、導いてくれる菩薩とされている。この2体はおそらく近年のものだろうと思うが、迫力がある。

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山門寄りにあるのが台東区の有形文化財になっている庚申塔。駒型の庚申塔で造立年は安永6年(1777)4月。青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、左面には「羽鳥氏経建立」と書かれている。青面金剛としては随分人間っぽい顔をしている。邪鬼は見方によって複数に見える。この辺の造形は不思議である。区の資料には邪鬼の存在は書かれていないが、じっと眺めていると間違いなく邪鬼が見える。

場所  台東区谷中6丁目2-20

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2021年8月24日 (火)

永久寺の石仏(台東区谷中)

都道452号線でもある三崎坂(さんさきざか)の途中にある永久寺。曹洞宗の寺院で、慶安3年(1650)に没した高僧が隠居寺として創建したとあるので江戸時代初期の創建である。山門から本堂までは数mしかない狭く感じる寺院だが、本堂の前には仮名垣魯文の墓と山猫めをと塚がある。

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幕末・明治時代に活躍した劇作家で新聞記者である仮名垣魯文の墓は墓地にあるようだが入れなかった。説明書きによると墓石には聖観音を線刻した板碑がはめ込まれているとある。写真右の猫塔祈念碑は縦横40㎝四方の石をくり抜いて丸窓をあけ、中には山猫の石像が納められ、上は蓮華の葉とつぼみの石がのっている。また、左の山猫めをと塚は1881年(明治14年)に建てられたもの。

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その近くに無造作に置かれていたのが写真の板碑。上部と下部が欠損しているが、おそらくは南北朝時代あたりのものだろう。キリーク(阿弥陀)が中央ニアリ、二条線と枠線が見える。おそらく下部に年紀が刻まれていたのだろうが、残念ながら分からない。仮名垣魯文は、明治11年(1878)東両国の中村楼で「珍猫百覧会」を開き、書画や骨董など猫の収集物を展示。参観者2000人を超えるほど盛況で、その利益金でこの記念碑が建立されたといわれている。

場所  台東区谷中4丁目2-37

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2021年8月23日 (月)

多宝院の石仏(台東区谷中)

谷中墓地の西を走る都道452号線は多宝院の前の100m程の区間のみとても広い道路になっているが、都市計画道路ではない不思議な道である。この452号線は神田明神下から上野、上野桜木を経てここを通り、団子坂から白山までの都道。この場所、大正時代には茶屋町という民家の密集したエリアだったが、関東大震災後には現在の広々とした道幅になっている。何か理由があるのは明らかだがそれが何かは分からない。

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多宝院は真言宗の寺院で、正式名は宝塔山多宝院龍門寺。創建は慶長16年(1611)で場所は神田北寺町、現在の地下鉄岩本町駅の辺りである。その後慶安元年(1648)に現在地に移転してきた。本堂はさほど大きくないが花頭窓(火灯窓)が良い。花頭窓は鎌倉時代に始まり、室町から安土桃山時代に広まった様式で銀閣寺が有名。

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山門を入るとすぐに六地蔵があり、その脇に大きな丸彫の地蔵立像が立つ。尊顔がかなり傷んでいるし、胴は複数個所で折れて補修されている。背中側に文字があるが読み取れない。おそらくは江戸時代の造立と思われる。

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本堂に近づくと植込みの脇にあまり見ない雰囲気の駒型庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は不詳。石材は花崗岩で、おそらくは明治時代から大正時代のものではないかと思われる。左面には「長島英建之」と書かれている。花崗岩の庚申塔で明治以前のものは多分見たことがない。

場所  台東区谷中6丁目2-35

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2021年8月22日 (日)

長安寺の板碑(台東区谷中)

観音寺の南にあるのが臨済宗の長安寺。谷中七福神のうちの寿老人の寺。谷中七福神は、南から不忍池弁天堂の弁財天、上野公園護国院の大黒天、天王寺の毘沙門天、そして真ん中がこの長安寺の寿老人、北上して西日暮里修性院の布袋尊、青雲寺の恵比寿、そして田端東覚寺の福禄寿をいう。寿老人は寺の中に安置された秘仏で限定拝観になる。

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長安寺にはまた日本画家の狩野芳崖の墓所がある。しかし今回拝観した目的は板碑であった。本堂前に4枚の板碑があり、どれも鎌倉時代から南北朝時代の貴重なものである。

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大きな板碑は健治2年(1276)4月造立の板碑で、二条線の下にキリークの梵字、その下に年紀が刻まれている。右後ろの小さい方は、弘安8年(1285)8月の造立で二条線に枠もついており、キリークの梵字の下に年紀がある。ちなみに元寇は文永の役が1274年、弘安の役が1281年であるからほぼ第1回目の元寇の時期と、第2回目の元寇の時期のものである。手前の上部が欠損した板碑はおそらくかなり大きいものだっただろうが、年代は残っている面にあり、正安2年(1300)2月とある。これら3枚とも鎌倉時代中期のもの。

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もう一枚は二条線、枠線のあるもので、応永3年(1396)1月の造立。南北朝時代のものである。キリークの梵字の下にサ、サクが刻まれ、その下に年紀がある。キリークは阿弥陀如来を表し、サは観音菩薩、サクは勢至菩薩を表現している梵字。小生はいまだにこの梵字が皆目わからない。

場所  台東区谷中5丁目2-22

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2021年8月21日 (土)

観音寺の石仏(台東区谷中)

谷中にある観音寺は寺よりも南側の路地に延びる観音寺築地塀(ついじべい)が有名である。築地塀は土塀の一種で単純に「築地(ついじ)」と呼ぶこともある。石垣を台座にして木の柱を立て、柱を中心に木枠を組んで、練土をを塗り固めた土塀だが、のちに練土の間に瓦を入れて耐水性と強度を上げるようになった。観音寺の築地塀は本当に美しいと思う。

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築地塀は特に雨の降る日、少し濡れたくらいが一番好きである。ただこの築地塀側は寺の入口ではなく、山門は東側にある。山門前の説明板を読むと、赤穂浪士ゆかりの寺と書かれている。築地塀は何度となく眺めに訪れたけれど赤穂浪士は寺の山門で初めて知った。

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こじんまりとした山門で、くぐるとすぐに本堂にあたる。観音寺はもともと長福寺といい、享保元年(1716)に観音寺に改名している。赤穂浪士には四十七士がいるが、その中で近松勘六行重と奥田貞右衛門という二人が兄弟で、その兄と弟の間がこの寺で修業をしていた文良という僧侶だったという。その関係で観音寺ではしばしばかれらの会合が開かれたと言われる。

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本堂の右脇にあるのが赤穂浪士ゆかりの宝篋印塔で、小さい方が四十七士慰霊塔とされている。造立年は宝永4年(1707)3月で長福寺の銘がある。その後ろの木製の屋根下には六地蔵があり、宝篋印塔の山門側には大師堂があり、大正時代の線刻の六面幢があったりしてなかなか興味深いが、江戸時代の民俗という点ではいささか見るものが少なかった。

場所  台東区谷中5丁目8-28

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2021年8月20日 (金)

天王寺の石仏(2) (台東区谷中)

天王寺の山門の先にひときわ大きな銅製の像がある。諏訪台通りの浄光寺にも江戸六地蔵のひとつである銅製地蔵があったが、この天王寺のものは地蔵ではなく銅造釈迦如来像である。説明書きによると台東区の有形文化財に指定されており、造立年は元禄3年(1690)5月、願主未詳の丈六仏と記されている。丈六仏というのは釈迦の身長に因んで一丈六尺(約4.8m)の高さに造る仏像をいう。

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鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門、依頼主は天王寺15代住持住持日遼で、その直後に幕府の命により日蓮宗から天台宗への改宗により、もともとの感応寺という寺名から天王寺に変わる直前のことであった。江戸名所図会の天王寺の頃には旧本堂に向かって左手にちょこんと描かれているが、明治になり境内が公営墓地になった折には墓地の西の隅に、そして昭和8年には現在の天王寺境内に移された。

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銅造釈迦如来の手前には六面幢が立っている。これは比較的新しいもので、正面には「法界萬霊」と書かれ、裏側に大正12年(1923)8月の年紀が記されている。そばに「某女敬建」とあるが意味は分からない。

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そのほかの石仏としては上野写真の左の小さな庚申塔がある。舟型の庚申塔で、日月、青面金剛像の図柄。造立年は正徳5年(1715)12月。下部には「諸願成就所」とあり「大戸屋▢▢」の文字が見える。右側の如意輪観音像は墓石のようだ。造立は元禄3年(1690)6月とある。

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植込みの脇に不思議な舟型の石仏があった。まるでインドの壁面彫刻のような図柄が上部にある。中央は釈迦如来だろうか。覆いかぶさるように2頭の謎の生き物が覆いかぶさる。裏側に回ると継ぎ目があり中折れしていることがわかる。背面には経典のような文字が多数書かれていたがほとんど摩滅して読めない。どうにも気になる石仏である。

場所  台東区谷中7丁目14-8

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2021年8月19日 (木)

天王寺の石仏(1) (台東区谷中)

天王寺の山門をくぐると正面には大きな銅製地蔵座像が見えてくるが、これについては別述する。銅製地蔵に向かって左手には大小の庚申塔が植込みの中に8基ほど祀られている。一部年不詳のものもあるが概ね寛文、貞享、元禄年間のもので江戸時代初中期、4代徳川家綱と5代綱吉の時代のもので庚申塔としては比較的初期のものと言える。

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上の写真では右端の1基が樹木に隠れているが、中央の巨大な庚申塔を挟んで、右に3基、左に4基、計8基が並んでいる。右の隠れた庚申塔は駒型の庚申塔で貞享5年(1688)3月の造立。上部に日月、下部に三猿が彫り込まれている。中央には「奉納庚申諸願成就」とあり、左下には「願主小川清右衛門」の銘がある。

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右から2、3番目も駒型の庚申塔である。二番目の庚申塔は造立年が元禄5年(1692)5月、上部に日月、下部には三猿が陽刻されている。中央には「奉納庚申諸願成就」と一番右の庚申塔と同じ文言。願主名は「渡部平四郎」と書かれている。右から3番目の庚申塔は文字塔ではなく、青面金剛像。造立年は元禄2年(1689)3月で、この時代は尊像がまだ青面金剛になりつつある時期のようだ。上部に日月、青面金剛像、下部に三猿が陽刻されている。右側には「奉掛庚申ご供養」、左には「水谷をいち」という女性の願主名がある。

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中央の巨大な庚申塔は板碑型。高さは158.5㎝とひときわ大きい。造立年は寛文3年(1663)12月でこの中では最古である。上部に「妙法」と大きく描き、その左右には「三守庚申三尸伏」「七守庚申三尸滅」とある。この文言は啓運寺にあった延宝8年(1680)の庚申塔と同じで、二つの庚申塔は何らかの関係があるのかもしれない。

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この板碑型庚申塔には「谷中村」「講人数」とも書かれているが、谷中村は元禄時代以前の地名で、その村人が講中の構成員。元禄以降、谷中本村、谷中町、谷中町在方分に分かれた。現在の根岸や日暮里の一部も含んでいる。

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大きな庚申塔の左脇にあるのは駒型の庚申塔で元禄5年(1692)9月の造立。上部に日月、下部に三猿の図柄である。中央には「奉納庚申諸願成就」とありこれは前述の右から2基と同じ。願主名は「▢▢屋九兵衛」とある。その左の庚申塔も駒型で、元禄2年(1689)12月の造立。これもまた中央には「奉納庚申(戌歳)所願成就」とある。上部にはくっきりとした日月、下部には細長めの三猿が陽刻されている。願主名は「於源」とあるが僧侶なのか町人なのかは分からない。

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左端の2基も駒型の庚申塔。右側は貞享4年1687)7月の造立で、これも丈夫に日月、下部に三猿の陽刻。文言も同じく「奉納庚申諸願成就」とある。願主名は「志け」とあるが本当の名前かどうかは分からない。一番左の庚申塔は年紀不詳。江戸時代しかも元禄あたりのものというのは間違いないだろう。上部に日月、青面金剛像、その下に三猿が陽刻されている。なぜか摩滅がすすんでおり文字が読み取れないのは残念。

場所  台東区谷中7丁目14-8

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2021年8月18日 (水)

天王寺門前の地蔵堂(台東区谷中)

谷中は海食崖の台地の上に広がる墓地が有名。日暮里駅は縄文時代の海岸線で、そこから天王寺に上る坂道は紅葉坂という。紅葉坂を上り詰めると左手にモダンな山門がある。護国山尊重院天王寺が正式名。開創は鎌倉時代で当時は日蓮宗。鎌倉時代後期に日蓮上人に帰依した土豪の関長耀(ちょうよう)が建てた草庵が起こり。元は長耀山感応寺といったが、元禄11年(1698)に幕府の命により天台宗に改宗された。もともとは谷中墓地も天王寺の境内だったが、明治になって東京府に移管された。

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天王寺の境内には沢山の石仏があるがそれは別述する。このモダンな山門の手前、谷中墓地の側には堂宇があって、そこには地蔵菩薩と庚申塔が祀られている。地蔵菩薩は丸彫だが、顔は後年再建されたものに見える。ちょっと体に対して頭が大きすぎてバランスが悪い。この地蔵の造立年等は分からない。見える範囲で文字は読み取れなかった。

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左側にある駒型の庚申塔もかなり摩滅が激しく文字の判読が不可能であった。資料によると推定江戸時代とある。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、高さは70㎝程。覗き込むと正面金剛の膝横に二鶏らしき痕跡がかすかに残っている。堂宇は立派な造りで、千羽鶴が圧巻であった。

場所  台東区谷中7丁目14-8

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2021年8月17日 (火)

経王寺の庚申塔(荒川区西日暮里)

日暮里駅から谷中の夕焼けだんだんに向かう御殿坂が諏訪台通りと交差する角にあるのが経王寺。日蓮宗の寺院で、明暦元年(1655)に当時の新堀村の豪農であった冠勝平勝平が日慶という僧侶の為に寺地を寄進し、堂宇を建てたのが創建とされる。経王寺の山門には銃弾による穴が開いており、これは慶応4年(1868)の上野戦争の時に敗走した彰義隊士を寺がかくまった為、新政府軍による攻撃を受けた痕跡である。

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山門をくぐると墓所を左に見て正面に本堂があるが、この左の墓所の中に先述の冠家の墓がある。広さは12畳ほどもあるだろうか、その隅に薄めの角柱型の庚申塔が立っている。青面金剛像の左手とそれを対の左側にあるのが日月かどうかは不明。主尊の下には珍しい仰向けの邪鬼があり、邪鬼(荒川区の資料には餓鬼とある)の下の楕円形の洞窟の入口のような像形の中にはかつて三猿か鶏が描かれていたのではないかと思わせる。

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右手に捉えているのはオオサンショウウオのような龍か大蛇で、尾が伸びているので長い魔物と思われる。左手にはショケラもぶら下げている。一般的な庚申塔の図柄とは細部がかなり異なるのはこれが冠家のものだからだろうか。造立年等は不詳。冠家についてちょっと調べてみたが詳しいことは分からなかった。

場所  荒川区西日暮里3丁目2-6

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2021年8月16日 (月)

啓運寺の庚申塔(荒川区西日暮里)

諏訪台通りを谷中方面へ進むと、養福寺の隣の寺院は法華宗の啓運寺。元和元年(1644)下谷一丁目に創建、元禄11年(1698)には下谷二丁目に移転し、その後維新の折の上野戦争で焼失したが、明治18年(1885)になり現在地に移っている。江戸時代、啓運寺の敷地は養福寺と経王寺それぞれの寺域であった。

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啓運寺の山門から望む境内の向こうには日暮里のタワーマンションがそびえて居る。都心に近い寺院の風景でもある。山門を入って左には毘沙門天が祀られている。木造の黒い毘沙門天が祀られていて、説明板によると寛政9年(1797)8月の建立のようだ。

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無縁仏塔の脇にあるのが荒川区の有形文化財に指定されている庚申塔。かなり摩滅している。造立年は延宝8年(1680)11月。日月と三猿が確認できるが本尊部分はどうだったのだろうか。剥離が酷くてわからない。資料によると、妙法の文字の下に「三守庚申三尸伏 七守庚申三尸滅」と書かれているらしい。妙法とあるのはこの寺が日蓮宗系であることから元々寺にあったものと推測される。

場所  荒川区西日暮里3丁目2-14

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2021年8月15日 (日)

養福寺の庚申塔(荒川区西日暮里)

養福寺は浄光寺と同じく真言宗豊山派の寺院で、元和6年(1620)の創建。江戸時代は文人に好まれた寺院で、いくつもの句碑が残されている。文化財としては、山門を入った正面にある養福寺仁王門とそこに配置された一対の仁王像や木造二天王像がある。戦災で多くの寺院が焼けてしまったが、この仁王門は宝永年間(1704~1711)の建立のまま残っているとされる貴重な建築物である。

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養福寺の境内の面白いところはこの仁王門から45度左に参道が折れ曲がっていることで、仁王門手前から奥へ進むと本堂がある。なぜ参道が曲がっているのか、仁王門は何に対する門なのか、疑問が湧く。日暮の里として文人たちに好まれ、景勝地として知られたことは多くの情報があるがこの曲がりについては、どこにも書かれていない。

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養福寺には他にも石仏石塔があるが、この大小の庚申塔は面白い。左の小さい方の駒型庚申塔は左上が欠損しているが、日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄。造立年は元禄5年(1702)だが月は欠損部分に当たり読み取れない。願主名が「巳年女、未年女」とあって珍しい。資料によると女性の厄年の前厄と後厄ではないかとしていた。大きい方の板碑風駒型庚申塔がまた珍しい。

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日月、青面金剛像があり、その下に4つあるのが中央の二つが邪鬼(二邪鬼)でその横の両脇にいるのはいったい何だろうかと考えた。その下部には三猿が彫られ、三猿の外側には二鶏があるが、邪鬼の外側の2体が童子なのか、別の猿なのかは分からない。何とも不思議な庚申塔である。造立年は宝永4年(1707)12月。左面には多くの願主名が刻まれている。

場所  荒川区西日暮里3丁目3-8

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2021年8月14日 (土)

浄光寺の石仏(荒川区西日暮里)

法輪山法幢院浄光寺は真言宗の寺院で、隣接する諏方神社の別当寺。創建年代は不詳ながら諏方神社との関係から鎌倉時代初期の開山と言われる。徳川以前からこの海食崖の上に建っていた寺院のひとつで、江戸時代には徳川家にも保護され8代将軍吉宗が鷹狩りの折に将軍御膳所(休憩所)にもなっており、また崖上からの眺望により特に雪景色が素晴らしいというので「雪見寺」の別名がある。

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写真の左は諏方神社入口の鳥居、右は浄光寺の山門で、神社の入口と寺院の入口がこういう形になっているのは珍しい。山門横には駒型の石塔があり「六地蔵三番目」と彫られている。この石塔も寛永2年(1625)6月の年紀が入っており、江戸時代初期から人気の寺院だったようだ。山門をくぐると両脇に沢山の石仏があるが、目立つのは2体の銅製の地蔵。

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江戸には六地蔵というのがあって、品川寺(ほんせんじ)の所でも触れた。左に座像、右に立像の銅製地蔵があるが、六地蔵のひとつは右側の立像の方である。この銅製地蔵立像は元禄4年(1691)の造立。左の銅製地蔵座像は江戸時代の鋳物師西村和泉守という人の創作で文化6年(1809)の造立とある。台座はその4年後に造られたもの。こちらのクオリティもかなり高い。

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銅製地蔵座像と山門の間には7基もの庚申塔が集められている。なかなか壮観である。手前に3基、後に4基あるが、手前の右の角柱型文字塔は宝永5年(1708)11月の造立で、中央には「奉祈庚申諸願成就所」と書かれている。下部には願主名が6人。中央の笠付角柱型の庚申塔は造立年が見当たらない。正面には日月、青面金剛像、二鶏があるが三猿はない。おそらく基壇があってそこに三猿があったのではないだろうか。左右に願主名が13人ほどある。左は駒型の庚申塔で、宝永6年(1709)6月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれている。右下に「橘氏 寛末」とあるのは意味が分からず。

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後の列の左の2基は板碑型。左側は上部に日月、下部に三猿があり、「奉造立庚申供養 施主 敬白」の文字、造立年は延宝2年(1674)9月で庚申講の初期タイプ。右隣りの板碑型は上部の横帯の盛り上がりが特徴的で、寛文10年(1670)8月と造立年は最も古い。同じく上部に日月、下部に三猿があり、「庚申供養為二世安楽也」とあり、最下部には9人の願主名がある。

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後列右側は駒型の庚申塔が並ぶ。左側は宝永5年(1708)6月の造立で、日月、青面金剛像、二鶏三猿の図柄になっている。下部にある願主名はかなり欠損していて読み取れないが12人銘ほどあるようだ。右側の庚申塔は正徳3年(1713)3月の造立。浄光寺の庚申塔の中ではこれでも一番新しいもの。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、上部に「奉造立青面金剛」、左右に「講中所願、成就祈所」と書かれている。願主名は下部に15人銘。浄心寺の庚申塔は概ね5代綱吉(1680~1709)、6代家宣(1709~1712)、7代家継(1713~1716)の頃のものが多い。吉宗はその次の将軍である。

場所  荒川区西日暮里3丁目4-3

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2021年8月13日 (金)

諏方神社の庚申燈籠(荒川区西日暮里)

JR山手線・京浜東北線の日暮里駅と西日暮里駅の間は500mしかない。今では西日暮里駅の昔を知る人は少ないが、山手線の駅ながら西日暮里駅が開業したのは昭和46年(1971)。地下鉄千代田線との連絡駅として新設された、高輪ゲートウェイ駅のひとつ前の山手線の新駅である。そういう経緯なので駅前という感じの駅前がない山手線の駅になっている。

西日暮里駅と交わる道灌山通りは、昔からあった道灌山と谷中の台地に切通しされた道である。道灌山には東京でもトップの開成高校があるが、道灌山一帯はもとは現在の秋田県出羽久保田藩の佐竹家20万石の大名屋敷。そして西日暮里駅周辺は新堀村という村であった。(にいぼり→にっぽり、と変化)

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JRと京成電鉄の軌道をくぐって階段で上る地蔵坂のアプローチと、道灌山通りの改札から直接線路沿いを上る間の坂のアプローチがあるが、個人的には地蔵坂のアプローチが好みである。改札口の標高は4mなのに対して境内の標高は21mで17mの高低差がある。この段差は海食崖によるものである。

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本殿にお詣りをして右手に回り込むと、庚申燈籠の残骸が並べられている。元々は一対の庚申燈籠で、それぞれ宝珠、請花、笠、笠台、竿、基礎、基壇という構造だったが、パーツを調べてみるとすべて残っている。しかし、竿の片方分が3つくらいに割れていて文字の解読が不可能になっていた。向かって一番右にある石柱(竿)は比較的形を留めており、「奉供養庚申為二世安楽敬白」と元禄14年(1701)11月の年紀が読み取れる。しかし片方の元禄12年(1699)10月の方の竿は読み取れなかった。

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形を残している方の竿には「新堀村同行十人」という文字も読める。二基の庚申燈籠は去る2011年の東日本大震災で倒壊し壊れてしまったという。残念なことだ。

諏方神社は「おすわさま」と呼ばれて日暮里村(新堀村)、谷中町の鎮守として庶民に親しまれてきた。鎌倉時代初期の元久2年(1205)の創建、豊島氏(豊島経康)が諏訪の大社から勧請し、太田道灌にも保護され、江戸時代は徳川家にも守られて今に至る。現在地に社殿が出来たのは寛永12年(1635)で、日暮の里(ひぐらしのさと)として江戸の有名な景勝地だった。今でもビルは林立しているが、そこそこの眺めである。

なお「諏訪」とせず、「諏方」と使っているのは古来の表記であり、かつては神社名には、この方が多かった。現在は全国で一万有余あるうち、三~四社のみになったとのこと。本社では所有する元禄時代の軸に、「諏方大明神」と記されている。よって、「諏方神社」 の社名を続けている。(荒川区の資料より)

場所  荒川区西日暮里3丁目4-8

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2021年8月12日 (木)

庚申塔と夜泣き地蔵(練馬区早宮)

早宮中央通りから斜めに分岐する小道に入るとしっかりした堂宇が建っており、庚申塔と丸彫の地蔵が祀られている。この丸彫地蔵は夜泣き地蔵と呼ばれて古くから多くの信者を集めてきた。子供の夜泣きに御利益があると信じられ、遠方からも多くの人々が参詣にやってきたという。堂宇内に地蔵の願主である芹沢家の御子孫の方と思われる人の掲示物があった。

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地蔵堂は早宮中央通り側ではなく反対の路地側を向いている。実はここから200m程の間はこの裏側の路地が鎌倉街道時代からのルートなのである。江戸時代下練馬道となってもその道筋は変わらず、大正時代になってようやく早宮中央通り側が整備され真っ直ぐな道になった。

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堂宇内右にあるのが夜泣き地蔵。高さは180㎝ほどもある。造立年は享保3年(1718)10月、台石に刻まれた文字はほとんど読めないので練馬区の資料を参照した。台石には「武州豊嶋郡下練馬村  奉造立地蔵尊二世安楽  講中二十七名  願主 芹沢伝次郎」とある。張り紙はこの願主名と、張り紙にあった「K,Serizewa」という記名から御子孫だろうと結び付けた。

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左側には駒型の庚申塔、高さは94㎝ほどあるが地蔵の背丈が高いので小さく見える。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が彫り込まれているが、二鶏は三猿の上に混じっている。造立年は安永5年(1708)2月で、主尊の脇には「奉造立庚申供養 二世安楽祈▢▢欽言」、「武刕豊嶋郡下練馬之内宮谷戸西村 結衆十二人」と記されている。夜泣き地蔵よりも10年程前に造られたものである。

場所  練馬区早宮3丁目42-42

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2021年8月11日 (水)

下練馬道の庚申堂(練馬区早宮)

現在の通り名は早宮中央通り、平和台から南へ、早宮を抜けてかつて館城であった豊島園の前を通り、清戸道、千川上水を越えて、鷺宮へ続くこの古道は鎌倉街道でもあった下練馬道という街道。旧字宮ケ谷戸の辺りに昔からあるのが庚申堂。傍に立つ樹木、訪問時は葉が殆どなかったので特定できなかったが、幹の樹皮と樹形から推定するにイチイ(アララギ)ではないかと思う。イチイは高木ではないのでかなりの老木と見える。

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堂宇の中に祀られているのは駒型の庚申塔。造立年は享保20年(1735)2月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。下部の菱形三猿も時代に合っている。尊像の右には「奉造立庚申供養為二世安樂」、左側には年紀が彫られ、下部には「武列豊嶋郡下練馬村 宮ケ谷戸 講中 拾四人」と記されている。

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下練馬道は中世には鎌倉街道だったが、数百年経過して鎌倉街道の道筋は判らないところも多い。南から北へ辿ると鷺宮から練馬城(豊島園)に至り、そこで二つに分かれて右は板橋へ、左はこの下練馬村を通り松月院と大堂の間を経て赤塚城へ繋がっていた。下赤塚駅の北、ドラッグストアの脇には鎌倉古道の碑がある。

場所  練馬区早宮4丁目19-2

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2021年8月10日 (火)

空き地の石仏群(練馬区早宮)

練馬区早宮3丁目9番地に石仏石塔が無造作に並べられている空き地がある。以前は樹木が生い茂る土地だったが、今回の訪問時は樹木はすべて伐採されており、近々再開発が行われそうな雰囲気があった。道路側には5基の石仏が横並びになっている。

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左端の舟型の地蔵菩薩は享保4年(1719)12月の造立で、基壇正面には「奉造立地蔵尊」とあり、側面には「武刕豊嶋郡 下練馬之内早淵」と書かれている。その隣の小さな丸彫地蔵は何も書かれておらず不明。三番目の丸彫地蔵は、明和4年(1767)9月の造立。正面には「南無地蔵大菩薩」とあり念仏講中による建立。その右の少し背の高い舟型地蔵菩薩は安永8年(1779)10月の造立。「奉造立地蔵大菩薩」と正面にあり、脇には「念仏講中 下練馬村早淵 願主秋岸」と書かれていた。

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一番右にあるのが笠付角柱型の庚申塔である。文字塔の下部に三猿が彫られている。その上には「庚申待衆」とあり、「武刕豊嶋郡下練馬早渕村」の銘がある。造立年は寛文5年(1665)2月と古いもの。大正時代の地図を見るとこの場所には石塔の印がある。明治時代の地図にもあるので、江戸時代からあったことは十分考えられる。この辺りは少し北の早宮中央通りの交差点周辺に江戸時代から民家が集まっており、かつては北早淵という小字であった。

場所  練馬区早宮3丁目9-20

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2021年8月 9日 (月)

糀谷庚申塔(練馬区早宮)

早宮という地名は昔の早淵と宮ケ谷戸の頭を取って出来た地名である。この早宮にある高稲荷神社の下の石神井川沿いに高稲荷公園があり、その敷地にひっそりと庚申塔が立っている。高稲荷神社については「高稲荷と大蛇」の伝説がある。昔、高稲荷の下の石神井川の傍に大きな沼があり大蛇が住んでいた。ある若者がこの大蛇に引き込まれてしまい、その若者が有力者の篠一族の人で、彼を弔うために祀られたのが高稲荷だという話である。

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公園の川側の遊歩道の脇にあるのだが、この庚申塔は元は桜台5丁目31-2の小林家の脇にある消防ポンプ小屋の前に立っていたもの。2014年頃にその周辺が戸建数戸の再開発になり、ここに移設された。庚申塔横の説明板にも書かれているが、元の住所が間違っている。ただし、「この庚申塔は、かつて埼玉道から現在の新桜台駅あたりで分岐して北西に延び、石神井川の大橋を渡ってふじ大山道に至る旧道の辻に所在しました」とあるが、そこには現在五差路の石仏群があり、可能性としてはその向かいだろうか。大正時代の地図には該当する場所に石塔の印がある。そうだとするとのちに小林家に移されて、近年ここに移設されたということになる。

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上部の尖った駒型の庚申塔で、陽刻されているのは青面金剛像。三猿等は見られない。造立年は元禄2年(1689)2月で、右側には「奉造立庚申待成就所」とあり、下部には8人の願主名がある。立沢姓が2人、小泉姓が2人、小林姓が2人、あとは青木と宇佐見。このうちの小林家がこれを引き継いでいたのだろうか。

場所  練馬区早宮1丁目21-5

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2021年8月 8日 (日)

光傳寺の石仏(練馬区氷川台)

光傳寺は正式名を大明山無量院光傳寺(光伝寺)といい江戸時代初期の開山とされている。境内本堂脇には古い橋の親柱があり、当時の住職が氷川台駅の場所にある石神井川の木橋を石橋に造り変えたときの親柱が保存されており、地元でも重要な寺院だったようだ。山門をくぐり境内に入ると、境内の配置が変わっていた。

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山門内右側の塀沿いに5基の石仏石塔が並んでいる。一番手前が笠付角柱型の庚申塔で、造立年は宝永5年(1708)8月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。右側面には「奉造立庚申青面金剛二世安楽所  下練馬村」とある。両側面には多数の願主名が彫り込まれていた。左側の角柱は寛保元年(1741)3月造立の廻国供養塔。武刕豊嶋郡下練馬村の銘がある。

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その左側5基の中央は丸彫の地蔵菩薩立像で造立年等は何も書かれていない。隣りは大きな舟型の聖観音立像で、宝暦4年(1754)10月の造立。右側には「奉造立観世音菩薩」とある。一番左にあるのが舟型光背型の地蔵菩薩立像で、寛文10年(1670)6月の造立。

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本堂向かって左手には堂宇があり子育地蔵が祀られている。これも舟型の地蔵菩薩立像で、造立は寛政8年(1796)10月。「光明真言  下練馬村湿化味講中十六人」と書かれている。祈念碑が横にあり、「宿湿化味地先目白白子道田中道との交わる三角地の村有地に辰巳向きに建立以来170年余りの間地元の人々の信仰が厚かった。昭和36年(1961)5月の水路護岸工事で道路拡幅となり、西側水路脇に移したが、翌昭和37年(1962)10月に都の下水道工事の為、光伝寺に移設となった。」と書かれている。

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その先、墓所入口にあったのが3基の石仏。この3体の石仏は、江戸時代から白子道とそれに交差する今の北町に通じる村道の辻に安置されていた。それが昭和14年(1939)の区画整理において氷川台4丁目46-6の地の市川家敷地に移された。平成5年(1993)になり講中の合議でここ光伝寺に移すことになり現在に至るというのが経緯。左の地蔵は正徳3年(1713)4月造立で、「川流し地蔵」と呼ばれていたもの。基壇には「武刕豊嶋郡下練馬村」の銘がある。中央の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は宝永2年(1705)2月。下部に市川家を含む12人の銘がある。右は宝暦6年(1756)4月の大乗妙典供養塔。市川権兵衛の銘がある。

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墓所に入った所にあるのがこの舟型光背型の地蔵菩薩。これも前述の子育地蔵と同じく、光明真言とあり寛政8年(1796)5月の年紀、「武刕豊嶋郡下練馬村三軒在家 願主 …」とあるので、石神井川低地の高稲荷神社辺りの人々によるものだろう。

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とても気になったのがこの不思議な石仏。河童に似ている気もする。どうも資料によると不動明王像のようだ。資料では天明3年の造立となっている。上部が大きく補修されていて背中の文字が見えないが、どうやら「▢▢温地味  講中拾四人  天明5年(1785)10月」と書かれているようだ。最初の部分はおそらく地名で宿湿化味の意味ではないかと推測する。前湿化味の可能性もある。元は、石神井川正久保橋のたもとの精進場にあったものだという。

場所  練馬区氷川台3丁目24-4

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2021年8月 7日 (土)

荘厳寺の石仏(練馬区氷川台)

練馬区氷川台にある真言宗豊山派の寺院で正式名は医王山不動院荘厳寺(しょうごんじ)。開山は元亀年間(1570~1572)の頃とされる。現在は練馬のエセ円周道路のひとつに絡んでいるが(参考:平和台の民家の塀の地蔵)、荘厳寺があるがために不動産開発がやり切れず昔と今が不整合している状態が残っているようだ。もともとの荘厳寺のあたりの地名は前湿化味で、羽沢の森のある羽根木から石神井川を渡った左岸にあたる。

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荘厳寺は東からも西からも入れるが、山門は西側にあり、その手前の参道の両脇に背の高い地蔵が立っている。左側にある丸彫地蔵菩薩立像は正徳2年(1712)7月の造立。基壇正面には「為法界」と書かれ、右側面には「前湿化味村  宇佐見甚兵衛  法印宥厳代」とある。

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右側の地蔵も丸彫の地蔵菩薩立像。造立年は10年古く、元禄15年(1702)10月だが高さは左の方が10㎝程高い。基壇正面には「奉造立地蔵」とあり、左面には「為法界諸霊」と書かれている。

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山門手前の両脇にも石仏が並んでおり、左側には4基がある。一番左は笠付角柱型の大きな庚申塔。造立年は享保17年(1732)霜月(11月)。正面はかなり摩滅が進んでいるが、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。側面には「武刕豊嶋郡上練馬内  高松村講中四十三人」とある。右側の駒型っぽい板碑型の庚申塔は前年の享保16年(1731)11月の造立。上部に日月、下部に三猿が描かれているが、中央は「奉供養庚申待成就處」という文字。「武刕豊嶋郡下練馬村 前湿化味 講中三十二人」とある。

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その右には駒型の庚申塔。造立は宝暦5年(1755)7月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。左手にはショケラもぶら下がる。右側面には「奉造立青面金剛像一躯」とあり、左面には「武州豊嶋郡下練馬村 前湿化味 講中六人敬白」とある。これも前湿化味の人々によるものである。右側の丸彫の地蔵菩薩は半跏像。宝暦4年(1754)の造立で、施主は宇佐見庄兵衛と宇佐見甚平。

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山門手前右には六地蔵ともうひとつの地蔵が並んでいる。六地蔵はそれぞれ舟型で、右の4基が享保13年(1728)、左の2基が元禄15年(1702)。左端の地蔵菩薩立像は丸彫の延命地蔵で、寛保元年(1741)10月の造立。武刕豊嶋郡下練馬村の銘がある。

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山門をくぐると右手先にあるのが珍しい唐破風笠付角柱型の地蔵菩薩立像。光明真言供養塔で、明和3年(1766)10月の造立で、側面には「願主 常念  下練馬村講中十七人 世話役 武田氏」とある。その右の笠付角柱型の石仏は庚申塔で、もとは早宮1丁目44の駐車場脇の堂宇にあったものを移した。造立年は享保4年(1719)3月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。側面には「武刕豊嶋郡下練馬早淵村 講中二十人 」「奉造立庚申待供養成就為二世安樂 願主 加藤平兵衛」とある上に、「右 かわこへミち 六里余  左 たなしミち 三里」の道標が刻まれている。

場所  練馬区氷川台3丁目14-2

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2021年8月 6日 (金)

羽沢の森の庚申塔(練馬区羽沢)

練馬区羽沢(はざわ)の地名の由来は、昔、鶴が沢山飛んできて羽を落としたというものらしい。渋谷区にも羽沢があるが、そちらは鎌倉時代に源頼朝の飼っていた鶴が飛んできて卵を産みその雛が最初に羽ばたいたことが由来とされている。ただ歴史学的には、赤羽=赤埴土の説に準じて、羽は埴土(はにつち=粘土)が起源というのが主流になってきているので、ここもその可能性が高い。この辺りは縄文時代から人が生活していた地域だけに私もそうだろうと思う。

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現在この堂宇がある羽沢の森は、明治時代の地図を見ると羽根木とある。世田谷の羽根木と同じ字である。石神井川低地の農地を仕事場として、少しだけ高いこの辺りに屋敷を建てて生活をしていた農家が江戸時代から明治時代にかけて10軒程度集まっていたようだ。右の駒型の庚申塔は、明和4年(1767)9月の造立。青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、青面金剛の左手にはショケラがぶら下がる。邪鬼は正面向きの珍しい形、三猿の形も変わっている。側面には講中二十人 世話役 次郎兵衛 七兵衛とある。

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左の丸彫の地蔵立像は高さが155㎝ある。元文6年(1741)2月の造立。基壇には「為法界」とあり、側面には「下練馬前湿化味村 願主講中」そして左面には庶民の名前で8人の銘が刻まれている。前湿化味村というのは、桜台辺りの古い地名で宿湿化味(シカジマケミ・シクジッケミ)と呼ばれた低地のエリアの一部と思われる。(「五差路の石仏群」参照)

場所  練馬区羽沢3丁目30-1

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2021年8月 5日 (木)

毛呂の庚申塔(板橋区小茂根)

地下鉄有楽町線、副都心線に加えて西武有楽町線も通る小竹向原駅は地下駅である。現在は環七通りの武蔵野病院前までの都道441号線要町通りの延伸に向けて用地買収が進んでいる。駅から500m余り北にの環七を渡った先にある辻にブロック造りの堂宇があり、地蔵と庚申塔が祀られている。

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この辻は江戸時代からある道筋の辻で、江戸時代はアルファベットのKのような交差点になっていた。環七が戦後開通しこの辺りの茂呂町にも住宅が増えてくると耕地整理が進み、昔の辻の形は変わったが、今でもこの辻には石仏が祀られている。地名に関しては明治時代・大正時代の地図には毛呂と書かれているが、昭和に入ってからの地図には茂呂となっている。現在の住居表示の小茂根は小山町、茂呂町、根ノ上町の頭文字をとって昭和五輪の頃に町名変更されたもの。

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向かって右にあるのが丸彫の地蔵菩薩半跏像。明和5年(1768)春の造立とある。台石の正面には、「而自佛言世尊不慮  我當抜済六道衆生  若有重若我代受若 若不命者不取正覚」とあるが不勉強なので経典の一部かどうかなどは分からず。右側には桂林昌貞信女の戒名が刻まれているので若くして亡くなった身内の女性を慈しんで建てたものだろうか。

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左側にあるのは舟型光背型の庚申塔。造立年は元文2年(1737)2月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、右脇には「奉彫刻大青面金剛供養塔」と書かれ、下部には「武州豊嶋郡上板橋村  室講中六人」とある。「室」というのは音としてはムロなので、識字率の低かった江戸時代だからおそらくは「毛呂(茂呂)」を表しているのだろう。この道の北には石神井川の低地が広がっており、大正時代までは田んぼが広がっていたようだ。

場所  板橋区小茂根4丁目3-8

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2021年8月 4日 (水)

弁天通り商店街の庚申塔(練馬区練馬)

西武練馬駅から北に延びる弁天通り商店街、この通りは実は都道442号線で車の往来も激しい。商店街で車がひっきりなしに往来するなんてとんでもない商店街だと思いながら歩いていると、ミラーで左腕を当て逃げされてしまった。怪我はなかったので通報はしなかったが立派なひき逃げである。本来そんな通りとして放置している東京都公安委員会が異常なのだ。

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そんな弁天通りのある辻に竹垣があり庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔で、造立年は宝暦3年(1753)8月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛像は左手に大きなショケラをぶら下げている。上部には「奉建立大青面金剛尊所願成就祈処」と書かれている。この辺りの庚申塔にショケラがある率が高いのは当時の流行なのだろうか。

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庚申塔は高さが158㎝もある大きなもの。左側面には「武刕豊嶋郡下練馬村 講中拾四人 願主 池田平三良」とある。この通りが練馬弁天通りというのは、この庚申塔から西に入った所に以前豊島弁財天なる弁天様があったことに由来するのだが、近年住宅開発されてしまい弁天はここには無くなってしまった。この弁財天の場所はもともと川の暗渠沿いで狸が谷戸と呼ばれ、この弁財天の上から石神井川までの沢筋だった。果たして商店街の名前の由来であった弁財天はどこに行ってしまったのだろうか。

場所  練馬区練馬1丁目31-8

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2021年8月 3日 (火)

不動明王と敷石供養塔(練馬区早宮)

区の資料によると、江戸時代は下練馬村の早淵と宮ケ谷戸(みやがいと)といった。その二つの字の1字ずつをとって今の町名にした。淵は澪(みお)のことで、川の底が深く舟が通りやすいところをいう。石神井川の大橋辺りから高稲荷下にかけては、両岸がせり出し、川は瀬となって水の流れが早かった。その付近の左岸を昔から早淵前といっていた、とある。

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現在の大橋は都会の住宅地の水路に架かる何の変哲もない橋だが、石神井川沿いの遊歩道には不動明王像があり花で囲まれている。不動明王は大山の阿夫利神社の祭神で、ここに在るのは武蔵国から大山へ詣でる人々が石神井川のこの大川のほとりで禊(みそぎ)をしていたことに由来する。

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不動明王像は座像で、文政4年(1821)2月の造立。正面には「奉造立不動明王村人安全祈所」と書かれている。また右側面には「武州豊嶋郡下練馬村早淵念仏講中」とある。右脇にある黒っぽい石柱は寛政4年(1792)2月造立の鋪石供養塔。正面には「奉建立鋪石供養塔」とあり、左側面に八日講中、念仏講中とある。右側面には享和3年(1803)2月に「金三両一分寄進玄覚 宮ケ谷戸」とあるので、大橋周辺の敷石の整備を行ったのだろう。

場所 練馬区早宮3丁目21-12

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2021年8月 2日 (月)

下島家の地蔵尊(練馬区桜台)

横山家の庚申塔からさらに古道を北東の石神井川大橋に向かって進む。広徳寺の200mほど手前の路地にあるのが下島家、この塀の一部に堂宇が設置されており、その中に舟型の地蔵菩薩立像が祀られている。

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この新しい堂宇は2016年頃に新調されたもの。江戸時代からこうして地蔵菩薩を守ってきたことに嬉しさを感じる。堂宇の中には高さが156㎝程の地蔵菩薩、造立年は安永2年(1773)3月とある。地蔵尊の右には「得春離海信吉 俗名 竹之助」とあり、左には「施主 吉左衛門」と書かれている。ご先祖様が早くに他界した家族を祀ったものだろうか。

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単純に約250年前の地蔵菩薩だが、一世代30年とすると8~9世代に渡って護ってきたことになる。この辺りは明治時代以前は三軒在家とか南三軒在家という地名だった。とはいえこの古道筋には明治初期には何軒もの民家が既にあった。調べてみると三軒在家というのは、戦国時代の終わりにどこからか3人の郷士移り住んできたことに由来するようだ。その三軒は、市川、中村、島野の三氏だったというから下島家は入っていない。後に南北に分かれたという。

場所  練馬区桜台6丁目17-5

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2021年8月 1日 (日)

横山家の庚申塔(練馬区桜台)

五差路の庚申塔からさらに北東に石神井川の大橋に向かって伸びている古道の途中に、塀に堂宇を築いた民家がある。以前はアパートだったが地主さんが戸建に変えたようだ。きれいな塀があり、その角に2基の石仏が祀られている。向かって右が開国供養塔、左が庚申塔である。

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廻国供養塔は角柱型で、高さは126㎝程、享和2年(1802)2月の造立。正面中央には「奉納大乗妙典日本廻国供養塔」とある。そして左側面には「武州豊嶋郡下練馬村早淵」の地名があり、「横山行者 覚全」とあるので、これがこのお宅(横山家)のご先祖様だろうか。早淵の地名は、のちに宮ケ谷戸の地名を合わせて「早宮」とされた。

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左の庚申塔の彫りは見事である。上部に日月、中央に青面金剛像がありショケラをぶら下げている。残念ながらショケラの顔が欠損している。その下にはベートーヴェンのような髪型の邪鬼、立体的な三猿があり、その下にはふくよかな二鶏が陽刻されている。造立年は安永9年(1780)2月、正面脇に「奉待庚申供養塔」と書かれ、左側面に「江戸小日向水道町 石工 石屋勘助」と彫り師の銘があるのは珍しい。台石には、庚申講中拾八人 願主道玄」と書かれている。

場所  練馬区桜台5丁目39-7

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