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2021年8月 8日 (日)

光傳寺の石仏(練馬区氷川台)

光傳寺は正式名を大明山無量院光傳寺(光伝寺)といい江戸時代初期の開山とされている。境内本堂脇には古い橋の親柱があり、当時の住職が氷川台駅の場所にある石神井川の木橋を石橋に造り変えたときの親柱が保存されており、地元でも重要な寺院だったようだ。山門をくぐり境内に入ると、境内の配置が変わっていた。

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山門内右側の塀沿いに5基の石仏石塔が並んでいる。一番手前が笠付角柱型の庚申塔で、造立年は宝永5年(1708)8月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。右側面には「奉造立庚申青面金剛二世安楽所  下練馬村」とある。両側面には多数の願主名が彫り込まれていた。左側の角柱は寛保元年(1741)3月造立の廻国供養塔。武刕豊嶋郡下練馬村の銘がある。

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その左側5基の中央は丸彫の地蔵菩薩立像で造立年等は何も書かれていない。隣りは大きな舟型の聖観音立像で、宝暦4年(1754)10月の造立。右側には「奉造立観世音菩薩」とある。一番左にあるのが舟型光背型の地蔵菩薩立像で、寛文10年(1670)6月の造立。

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本堂向かって左手には堂宇があり子育地蔵が祀られている。これも舟型の地蔵菩薩立像で、造立は寛政8年(1796)10月。「光明真言  下練馬村湿化味講中十六人」と書かれている。祈念碑が横にあり、「宿湿化味地先目白白子道田中道との交わる三角地の村有地に辰巳向きに建立以来170年余りの間地元の人々の信仰が厚かった。昭和36年(1961)5月の水路護岸工事で道路拡幅となり、西側水路脇に移したが、翌昭和37年(1962)10月に都の下水道工事の為、光伝寺に移設となった。」と書かれている。

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その先、墓所入口にあったのが3基の石仏。この3体の石仏は、江戸時代から白子道とそれに交差する今の北町に通じる村道の辻に安置されていた。それが昭和14年(1939)の区画整理において氷川台4丁目46-6の地の市川家敷地に移された。平成5年(1993)になり講中の合議でここ光伝寺に移すことになり現在に至るというのが経緯。左の地蔵は正徳3年(1713)4月造立で、「川流し地蔵」と呼ばれていたもの。基壇には「武刕豊嶋郡下練馬村」の銘がある。中央の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は宝永2年(1705)2月。下部に市川家を含む12人の銘がある。右は宝暦6年(1756)4月の大乗妙典供養塔。市川権兵衛の銘がある。

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墓所に入った所にあるのがこの舟型光背型の地蔵菩薩。これも前述の子育地蔵と同じく、光明真言とあり寛政8年(1796)5月の年紀、「武刕豊嶋郡下練馬村三軒在家 願主 …」とあるので、石神井川低地の高稲荷神社辺りの人々によるものだろう。

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とても気になったのがこの不思議な石仏。河童に似ている気もする。どうも資料によると不動明王像のようだ。資料では天明3年の造立となっている。上部が大きく補修されていて背中の文字が見えないが、どうやら「▢▢温地味  講中拾四人  天明5年(1785)10月」と書かれているようだ。最初の部分はおそらく地名で宿湿化味の意味ではないかと推測する。前湿化味の可能性もある。元は、石神井川正久保橋のたもとの精進場にあったものだという。

場所  練馬区氷川台3丁目24-4

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