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2021年9月30日 (木)

内山家の道祖神(江戸川区東瑞江)

江戸川区東瑞江2丁目の篠崎街道に大きな古いお屋敷があり、豪壮な門の前に堂宇がある。この堂宇に祀られているのが内山家の道祖神。もともと内山家は「どうろくじん」という屋号で、この道祖神を長い年月守り続けてこられたようである。どうろくじん=道祖神でこの辺りではどうろくじんと呼ばれていたという。

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造立年は不明。笠付の角柱で、正面には「奉再造道六神」と彫られている。ということはこれは初代ではないと考えるのが自然だろう。年紀が分からないのは惜しい。江戸川区の史料を調べてみたいと思う。

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堂宇の前の道は現在は篠崎街道だが、もともとは古道の市川道で、この道を境に北が下鎌田村、南が前野村であった。道祖神は塞ノ神の意味合いもあるので、街道に面して隣村に面する内山家が村境の神の担当として役割を果たしていたのかもしれない。

場所  江戸川区東瑞江2丁目4-29

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2021年9月29日 (水)

安養寺の庚申塔(江戸川区東瑞江)

江戸川区東瑞江の安養寺は浄土宗の寺院で永禄10年(1567)の開山。現在の住居表示では安養寺の西、旧鎌田川暗渠から東が東瑞江で西が江戸川3丁目だが、明治大正時代までは西が上今井で安養寺側が下鎌田という地名であった。現在の建物は比較的こじんまりとした寺院。

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山門を入り本堂前を右へ行くとすぐに庚申塔が目に入る。駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、尊像はショケラをぶら下げている。造立年は宝暦3年(1753)3月で、「奉造立青面金剛像所願成就子孫繁栄所」「願主及川氏」と記されている。その右に並ぶ角柱は南葛新四国八十八カ所之内 札所第貮拾九番 安養寺」と記された巡廻供養塔である。

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供養塔の造立は明治40年(1907)12月。江戸時代から明治にかけて大流行した札所巡りはより容易に回れるようにと新たに「写し霊場」というシステムがあちこちで始められた。この供養塔を建てたのは台石に大きく書かれている弘山講だが、この弘山講が始まったのが江戸時代の後期で、新四国八十八ヶ所は中川(江戸川)両岸沿いの寺院を廻ってご利益があるというもので、天保12年(1841)に始まったという。この石柱の南葛新四国八十八箇所は、明治43(1910)年、弘山講によって始められたらしいが、年紀はそれよりも古い。

場所  江戸川区東瑞江2丁目50-2

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2021年9月28日 (火)

金蔵寺の石仏(江戸川区江戸川)

江戸川区江戸川にある金蔵寺は浄土宗の寺院で、応永年間(1394~1428)に魁誉覚順和尚という僧が草庵を結んだのが始まりとされる。和尚は応永22年(1415)に没しているので、室町幕府の足利義満の時代あたりになる。しばらく草庵から小寺であったが、慶安5年(1652)に本堂が建立されて大きな寺になったという。

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寺の境内は広々としている。本堂の南東側に広い植込みがあり、その中にいくつもの石仏が祀られている。概ね墓石が多いようだが、ここでめだったのは摩滅が進んでとろけたようになっている舟形光背型の地蔵菩薩像が複数あることである。

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可能性としては、海に沈んでいたか塩を懸けられていたかだが、江戸川が近いので水中から引き揚げられた可能性が高いのではないだろうか。どれも文字は読めず、年紀などは不明だが、共通しているのは地蔵の光背の頭光がある点である。たまたまかもしれないが3基は何らかの関係があってもおかしくない。

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近くには板碑型の供養塔がある。左の供養塔は「南無阿弥陀仏」の六文字、造立年は慶長18年(1613)8月、右の供養塔も「南無阿弥陀仏」の六字名号で、造立は正保3年(1646)4月とある。江戸時代初期のものだが、寺の歴史からすれば十分新しい時代のものである。

場所  江戸川区江戸川3丁目23-4

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2021年9月27日 (月)

浄興寺の庚申塔(江戸川区江戸川)

浄光寺は江戸川区江戸川3丁目、江戸から明治時代の上今井村にある古刹。創建は文永3年(1266)の浄土宗寺院である。日蓮が現れ、元寇が起こる前の時代。ちなみに第1回目の原稿は文永の役(1274)というからその年号と同じである。

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それほど古い寺という印象がないのは幼稚園を併設しているからだろうか。境内は多くの樹木で覆われていて雰囲気は良い。山門をくぐると左手に墓所があり、その手前に無縁仏群がある。その中に1基の庚申塔があった。

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比較的小さめな板状駒型の庚申塔で、青面金剛像があるが三猿も日月も見られない。造立年は宝永3年(1706)10月で、尊像の右には「奉造立當良中興龍誉源達」とある。龍誉源達とは人名だろうか。その人が何を中興したのかも分からない不思議な庚申塔である。

場所  江戸川区江戸川3丁目22-5

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2021年9月26日 (日)

上今井香取神社の庚申塔(江戸川区江戸川)

江戸川区江戸川3丁目付近は江戸時代から明治時代にかけて上今井村という村域だった。香取神社は旧上今井村の総鎮守で、永禄7年(1564)の創建。香取神社の総本山は千葉県香取市の香取神宮で全国に約400社ある。江戸時代以前東京は湿地帯で千葉の方が開けていたので下総や常陸からのルート上にある江戸川区辺りの村々は香取神社を勧請したのだろう。

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香取神社の本殿の裏手には今井の富士塚がある。高さが2mほど、昭和5年(1930)の築山で、昭和49年(1974)に再建されているが、区の史料によると昭和以前は本沢藤右衛門宅の庭に富士塚があり、それを神社裏に移築した可能性が高いという。元の本沢家の富士塚がいつからあるのかは分からない。

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富士塚のさらに裏手には大型の駒型庚申塔が祀られている。造立年は寛延4年(1751)1月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が立体的に描かれ、主尊は左手に合掌したショケラを下げている。右側面には「青面金剛像」と書かれている。

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上今井南の庚申講についてはまだ存続しているのかもしれない。江戸時代から上今井村に組織されていた庚申講のひとつで、昭和後期でも数軒の講員が庚申の夜に当番の家(頭屋)に集まり、題目を唱え食事をして歓談したという。昭和時代は概ね19時ころに始まり、21時ころには解散していたが、昔は徹夜でやったらしい。

場所  江戸川区江戸川3丁目44-8

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2021年9月25日 (土)

上今井無名の地蔵堂(江戸川区江戸川)

誠心寺から上今井香取神社へ行く途中、路地の辻に地蔵堂を発見した。調べてみたが、どこにも情報がない。古い地図を確認すると、この辺りは旧江戸川の右岸に民家が集まった上今井という土地であった。上今井は明治時代は東京都南葛飾郡瑞穂村で、江戸時代からの上今井村、下鎌田村、当代島村、前野村、下今井村(一部)、二ノ江村(一部)が合併して瑞穂村となり、昭和7年(1932)に東京市江戸川区となった。

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堂宇の後ろには墓石が数基並び、堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩立像と丸彫の聖観音菩薩立像が祀られている。

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石仏をあちこち眺めてみたが、文字らしいものは前方からは確認できなかった。石の状態等から推察して江戸時代後期のものではないかと思われたが、何も資料がなく分からないので、今後の宿題となってしまった。江戸川区の文化財資料を調べてみたいと思う。

場所  江戸川区江戸川3丁目44-3

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2021年9月24日 (金)

誠心寺の庚申塔(江戸川区江戸川)

誠心寺(じょうしんじ)は新大橋通りの今井橋の北西にある。現在は新中川(中川放水路)が北からまっすぐに南下して、今井水門を経て旧江戸川に合流しているが、新中川は人口の川で1947年のカスリーン台風による被害から高度経済成長期に開削され1963年に完成した。今井橋は二本の川をまとめて越える。

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誠心寺は浄土宗の寺院で、天誉龍頭という僧が文明年間(1469~1487)にこの地に草庵を結び、慶長7年(1602)に行誉清教が一寺として創建したという。山門を入ると右手に本堂があり、正面に墓所があるが、墓所の手前に植込みがあり、そこに石仏が祀られている。

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無縁仏塔の前に並ぶ4基のうち間違いなく3基は庚申塔。不明なのは上の写真の向こう側の笠付角柱型の石塔で、造立年は寛政12年(1800)7月で庚申と大きく刻まれている。ただ寛政12年は十干十二支で庚申の年なので単純に年号を示しているというのが自然かもしれない。左側の笠付円柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれ、枠の外に二鶏が線刻されている。造立年は元禄10年(1697)11月で、右側面には「庚申一座之供養」とある。

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左の2基は板碑型の庚申塔。右の大きい方は、寛文8年(1668)9月の造立で、「天下和順日月清明風雨以時  突属不起国豊民安兵戈無用  今日結衆等庚申二座成就  為現當世二世所願圓満也」と書かれている。左の板碑型庚申塔は寛文13年(1673)8月の造立。中央に「庚申供養 敬日(白か)」とあり、脇には「神力演大光 普照無燈上  消除三垢冥 廣済衆厄難」と書かれている。どちらの庚申塔にも下部のの隙間に願主名が沢山刻まれている。

場所  江戸川区江戸川3丁目50-23

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2021年9月23日 (木)

蓮華寺の石仏(江戸川区江戸川)

蓮華寺も古川沿い、行徳道沿いの寺院で宗派は真言宗。昔ここに観音堂があり村人の信仰を集めていたが、永享10年(1438)に栄源法印という僧が不動明王を背負って遍歴したのちここに定住、村人が堂宇を建てて創建したという。室町幕府の足利義満が死んで応仁の乱の乱世に向かっていく時期だが、武士の歴史はたくさん残っているものの、こういう村人が僧のために堂宇を建てたみたいな一般民の歴史はなかなか残らない。それが残されるのが石仏石塔だったりするので面白い。

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蓮華寺の門前に駐車場があるが、本堂に向かって左が駐車場で、右には古い石塔石仏が並んでいる。寺の本尊は聖観音菩薩で僧行基の作であると説明板に書かれている。行基は飛鳥時代から奈良時代にかけての人物で、朝廷や他の仏教組織に反して行基集団を形成してすべての民に仏教を説き、救済や社会的支援を行った1300年前の日本のガンジーみたいな人と認識している。その行基の作品というのが全国に散らばっていて真偽のほどは分からない。しかし当時日本地図を作ったという仁和寺所蔵の「行基図」写本には興味がある。

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門前の石仏は、一番手前(写真右)の供養塔から。おそらく笠付角柱型だったと思う。正面に「四國第十一番藤井寺寫(徳島県吉野川市の藤井寺)」とあり、右面には「西国第十六番清水寺寫(京都の清水寺)」とある。造立年は寛政4年(1792)11月。写真中央は舟型光背型の聖観音菩薩像で、元禄4年(1691)6月の造立。これはどうも墓石のようだ。三番目は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像があり、主尊は左手にショケラを下げている。しかしそれより下には三猿など何もない。造立年は不詳で、特に文字も刻まれていない。

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庚申塔の左(写真右)だが、どうも大日如来のように見える。戒名が沢山刻まれているので墓石だと思うが、上部には「月山、湯殿山、羽黒山」とあり、その下に「善光寺、西國、坂東、秩父」の文字も読めるてんこ盛りの石仏だが造立年は不詳。隣りは舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は文化8年(1811)4月とある。これも墓石。一番左の舟型光背型の地蔵菩薩立像もまた墓石で、造立は宝暦8年(1758)2月である。墓石が多いが江戸時代中期から後期にかけて、門前の行徳道(行徳道は数本ありここはそのひとつ)は昔から行徳塩の輸送が盛んで、それだけに住民も比較的豊かな生活をしていたのだろう。

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一番本堂側にあるのは宝篋印塔。正面には「光明講結衆 」とあり、裏面には「海照山蓮華寺」の銘がある。造立年は元文3年(1738)3月と刻まれている。この辺りは江戸時代は古川より南が下今井村、寺のある北側は二ノ江村で、寺の西には八幡社、古川の対岸には香取神社があったが、昭和42年に合併して、古川の南側の二之江神社に統合された。

場所  江戸川区江戸川6丁目4-11

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2021年9月22日 (水)

真福寺の庚申塔(江戸川区江戸川)

真福寺は西光寺の東隣にある真言宗の寺院。創建は宝徳3年(1451)で古川沿いの行徳道に沿った寺院の中では最も江戸川に近い。山門前の参道に2基の庚申塔と堂宇に納められた地蔵菩薩がある。

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参道の山門に向かって左手にある石仏のうち、一番手前は駒型の庚申塔。駒型庚申塔としてはかなり大きい部類に入る。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が陽刻され、台石には三猿が彫られている。主尊の左手にはショケラがぶら下がっている。右側面に年紀があり、寛政12年(1800)4月と刻まれている。左側面には「猿田彦大神」と書かれ、その下に小さく「大正5年(1916)改建之」と書かれているので、もしかしたら本体は大正期で、台石が江戸時代かもしれない。

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右側の笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、台石には多くの願主名が刻まれている。左側面には「奉造立開眼供養導師 真福寺 結衆敬白」とある。右面には享保3年(1718)10月の造立年が刻まれている。

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その右隣りの堂宇に納められているのは舟型光背型の地蔵菩薩立像で、全体的に摩滅がかなり進んでいて文字は全く読めない。海に沈んでいたものか、あるいは西光寺の塩舐地蔵のように塩をかけて拝む風習があったのかは分からないが、不思議な石仏である。

場所  江戸川区江戸川4丁目23-8

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2021年9月21日 (火)

西光寺の塩舐地蔵(江戸川区江戸川)

江戸川区江戸川の西光寺の門前を少し西に行くと現れる小川は暗渠上に造られた古川跡の親水公園。昔は江戸川からこの通りの筋を古川という川が流れていた。現在もこの通りの名前は二之江古川通りと言われる。親水公園には江戸時代の道標となっていた丸い石がある。この石は西光寺のすぐ西脇にあった突留橋(つきとめばし)の東のたもとにあったもの。後に宇田川家長屋門(後述)のところに移され、さらに現在地に移設された。かつてはこの東西の街道は行徳道とよばれ、この道標は二之江の行徳道石造道標という。

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大きく「是ヨリ左リ行徳道」と書かれているようだ。この突留橋のところには南北にも川があり川の十字路になっていた。実はこの古川親水公園は1973年に設定された国内初の都市河川の再生による親水公園である。古くからこの道は人や船が往来した重要な街道だったようだ。

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西光寺は浄土宗の寺院で開山は天文元年(1532)。昔、この辺りが海岸の茅地であった頃、開拓の時に漂着していた仏像を掘り出して祀ったのが西光寺の始まりとされる。寺の北側一帯はその経緯から阿弥陀耕地とよばれた。門前の塀の堂宇にはとろけたような地蔵菩薩像があるが、これはその仏像ではない。

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舟型光背型のこの地蔵菩薩像は、江戸時代から古川を往来する舟人が塩をかけては必ずと言っていいほど拝んだという。その塩の浸食によってとろけ地蔵になってしまったのだと思われる。かなり溶けているので年紀などは読み取れない。尊像の右に「地蔵菩薩供養」という文字が見えるのみである。寺の向かいにある大きな庄屋門が気になった。調べてみるとこの長屋門は江戸川区の有形民俗文化財に指定されている「宇田川家長屋門」で江戸時代後期の建築らしい。

場所  江戸川区江戸川4丁目24-8

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2021年9月20日 (月)

あみ弁の青面金剛碑(江戸川区江戸川)

船宿あみ弁はそこそこ大手の船宿だろう。江戸時代から江戸前の舟遊びは江戸っ子の粋な遊びだった。それは今も続いているのだが、昨今のコロナ騒動で品川の舟清という船宿の屋形船で個人タクシー協業組合の宴会からクラスターが出たといううわさ話が出回り、船宿業界は壊滅的なダメージを受けた。それでも頑張っているのは船宿の持つ歴史にも一因があると思う。

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あみ弁も9代続く老舗の船宿。江戸屋形船組合の組合長をしているらしい。私も屋形船での宴会の経験があるが、あの粋さは何とも言えない。舟の中は無礼講という言葉が似合うし、街の酒場で飲むのとはまったく異なるものがある。コロナで緊急事態宣言が出ている間は多くの船宿が休んでいるが、頑張って復活してもらいたい。そんな江戸川のあみ弁の民宿玄関の室外機前に石塔がある。

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板石型というか自然石型というか、その正面に「青面金剛」と彫りこまれている。右側面には「右 行徳道」、左側面には「左 江戸道」と書かれている。年紀等は分からない。船宿の歴史からして、江戸時代からあったものだろうか。

場所  江戸川区江戸川4丁目20-8

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2021年9月19日 (日)

下今井稲荷神社の庚申塔(江戸川区江戸川)

江戸川区江戸川の新川河口の北にあるのが下今井稲荷神社。宝永4年(1707)に下今井香取神社の摂社として創建された。江戸時代から明治の初め頃までは観音寺の持ちだったというが現在周辺に観音寺はない。鳥居の向きが道路側ではなく隣接する民家向きになっている。この向きは江戸時代から変わっていないようだ。社殿脇に水神社が祀られていることから旧江戸川から舟で参拝したのかと思ったが、真相は不明。

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鳥居は天保3年(1832)の再建と書かれている。社殿はここから少し北にある熊野神社の神殿を移築したものらしい。熊野神社の辺りは江戸川が流れを曲げているところで、昔は流れによって深場になっていてきれいな水だったため、将軍家の茶の湯の水としても使われたという。今の江戸川からは想像もつかない。鳥居手前の水鉢は天保6年(1835)5月の奉納。

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その脇にあるのが角柱型の庚申塔で「猿田彦大神」と書かれている。台石には「講中」とあり、側面には文政11年(1828)霜月(11月)再建とあるので、もっと昔からここに猿田彦大神もしくは庚申塔があったのだろう。ちなみにこの辺りの江戸時代の地名は下今井村。南の新川から北の古川(現在は暗渠)までが村域であった。

場所  江戸川区江戸川5丁目28-2

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2021年9月18日 (土)

妙亀塚(台東区橋場)

台東区橋場にある妙亀塚は都の史跡に指定されている。一応公園なのだが、何となくパワースポット的な雰囲気が漂う場所。公園の中央には小高い塚があり、その頂上部には板碑を内蔵した祠が建っている。

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この妙亀塚には現代に伝わる伝説がある。かつて浅茅ヶ原と呼ばれたこの場所は原野で、近くを奥州街道が通っていた。ここは「梅若伝説」に由来する地のひとつである。「平安時代、吉田少尉惟房の子である梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州に連れていかれる途中病にかかり、この場所に捨てられ亡くなった。我が子を探してここまでやってきた母は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、剃髪して妙亀尼と称して庵を結んだ。」

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頂上にある祠に納められた板碑は、弘安11年(1288)5月のものであるが、梅若伝説との関連は不明。板碑には「孝子敬白」とあるが、梅若の母の名前は花子である。ちなみに梅若伝説のもうひとつのスポットとしては隅田川対岸の木母寺にある梅若塚がある。この妙亀塚と対岸の梅若塚の関係は、梅若を哀れに思った天台宗の僧がその地に塚を築いたのが由来で、それが梅若寺となり、改名して木母寺となったもの。

場所  台東区橋場1丁目28-2

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2021年9月17日 (金)

泪橋近くの馬頭観音(荒川区南千住)

『あしたのジョー』で知られる泪橋は現在は日光街道と明治通りの交差する大きな交差点である。かつてここを西から東に流れる思川という小川があり、そこに架かっていた橋が泪橋といった。泪橋と山谷地区とはおそらく無関係で、江戸時代この思川の先に小塚原刑場があり、南の鈴ヶ森と北の小塚原は磔、火焙り、獄門が行われた場所で、刑場に行くにはこの橋を渡った。罪人にとってはこの世の見納めであり、家族や身内にとっては今生の別れの場で、互いがこの橋の上で泪を流したことから付いた名前だという。

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泪橋のひとつ北の変則五差路の信号交差点を東に行くと間もなく自然石で造られた石碑が駐車場に隣接する建物の前にある。文字を見ると「馬頭観世音」と書かれている。

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調べてみたがこの馬頭観音についてはほとんど情報がない。台石には「古川、柴田、吉澤、竹内」という姓の名前が彫り込まれている。造立年も解らないので建立の由来も不明。この辺りは明治時代初期には湿地帯でほとんど人は住んでいなかったようで、明治30年(1897)に常磐炭田からの貨物を処理する駅としてできた駅が隅田川駅だったから、それ以降のものではないかと思う。

場所  荒川区南千住3丁目8-13

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2021年9月16日 (木)

東京ガス裏の石仏(荒川区南千住)

南千住の東の端、隅田川寄りに広大な東京ガスの工場群がある。戦前は千住瓦斯製造所と言われていた。北にある広い貨物駅「隅田川駅」は隅田川を利用した鉄道と水運の連絡地であった。しかし都内でもあまり知られていない貨物駅として健在で、物流の拠点となっている。そんな隅田川駅と山谷地区の間に東京ガスの工場敷地があり、その裏手にブロックとトタンで簡易的に造られた堂宇がある。

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10基ほどの石塔石仏が雑然と並べられているが、赤い地蔵さんの前掛けをしてある石仏も多く、誰かが世話をしていることがわかる。どれもほとんど摩滅あるいは欠損損壊状態でまともに形を留めているのは中央の大きな庚申塔だけである。

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山状角柱型の庚申塔は元禄4年(1691)の造立で、日月、「奉造立庚申供養▢」と刻まれた下に三猿が陽刻されている。左面には「是より…」とあり右面には「是より東 すみだ川渡道」とある。左面は下半分が読めない。その左にある角柱型の道標も右、左とあるがその後の文字が分からない。かろうじて左の下は「江(戸)」と読めそうだが。右側にあるもので上半分が折れて無くなった石柱は、延宝8年(1680)の年紀と仲春(2月)という文字が読めた。よくぞこの状態で維持されていると感心すると同時に、この場所を石仏の為にとどめてほしいと願う。

場所  荒川区南千住3丁目19-1

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2021年9月15日 (水)

石浜神社の庚申塔(荒川区南千住)

隅田川に架かる白髭橋の西岸にある石浜神社は古い神社である。創建は神亀元年(724)と1300年も前のこと、奈良時代の初期である。前年の養老7年(723)に三世一身の法が作られ、石浜神社の創建年に聖武天皇が即位したという時代。ちなみに『日本書紀』が成立したのが養老4年(720)である。奈良の東大寺が建てられるのは30年後になる。

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石浜神社がここに出来たのはこの場所が隅田川の自然堤防の微高地だったことと、その地形によって古代から武蔵国から下総国への街道が通っていたからである。鎌倉時代も鎌倉街道として重要なルートで、白髭橋辺りで渡し船を使い下総国に渡っていた。その時代は隅田川を渡った墨田区はもう下総国だったのである。

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本殿の手前の隅田川側に大きな富士塚がある。この富士塚は白髭富士ともよばれ、神社の表示では「富士遥拝所」とある。富士塚が築山されたのは宝暦8年(1758)だから都内の富士塚の中ではかなり古い部類になる。

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この富士塚には3基の庚申塔が立っている。まず右下にある駒型の庚申塔は貞享4年(1687)6月の造立。日月の下に「奉供養庚申」と書かれ、その下に三猿が陽刻されている。三猿の下には10人の願主名がある。

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富士塚の鳥居の向こう側にあるのがこの駒型庚申塔。造立年は貞享3年(1686)9月。日月の下に「奉待  御庚申 一周来処」と書かれており、その下に三猿が陽刻されている。これも三猿の下に9人の願主名がある。

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富士の頂上にあるのがこの角柱型の庚申塔で「猿田彦大神」と記されている。下部には松木氏、木村氏とある。造立年は元文3年(1738)5月。ここにある3基の庚申塔はすべて富士塚よりも古い。じつは石浜神社は江戸時代には現在地よりも北にあった。当時は神明社と呼ばれ、富士遥拝所は隅田川のほとりにあって、神明社と富士遥拝所の間には播磨姫路藩の大名屋敷(酒井雅楽頭)があった。現在の境内にあったのはもう一つの真先稲荷社であったが、神明社も稲荷社も神主は兼務だったようだ。

場所  荒川区南千住3丁目28-58

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2021年9月14日 (火)

お化け地蔵(台東区橋場)

この辺りは室町時代から禅宗の妙亀山総泉寺の境内地で、門前一帯にチガヤ(茅)が生い茂っていたのだろうか浅茅ヶ原と呼ばれていたという。江戸時代の隅田川には現在のような護岸はなく、浅草周辺は隅田川の自然堤防によって標高が高まり出来た陸地であった。そこに水辺の植物が生い茂るのはごく自然なことだっただろう。

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お化け地蔵がある松吟寺は写真右の平屋の民家のような建物で驚いた。もともとの総泉寺は昭和4年板橋区小豆沢に移転している。現在も広い寺院だが先ごろ訪問した折には境内の大改装が行われており、十分に拝観することが出来なかった。お化け地蔵の説明板によると明治40年刊の『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜燈あり、東畔に大地蔵安置す」ともあると書かれている。上の写真の左端の燈籠は寛政2年(1790)に造立されたものである。

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お化け地蔵はかなり傷んでいるが、享保6年(1721)の建立。関東大震災で真っ二つに折れたが、補修して現在に至る。横から見ると見事に胴の真ん中で折れており、後に支えの控壁(ひかえかべ)が付けられている。

場所  台東区橋場2丁目5-3

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2021年9月13日 (月)

保元寺の石仏(台東区橋場)

台東区橋場にある保元寺の創建はなんと奈良時代の宝亀元年(770)という。東京都内でも最も古い寺院のひとつだろう。この年に道鏡が下野国に配流されている。道鏡と言えば天皇家のごたごたにつけこんで女帝であった孝謙天皇(聖武天皇の娘)と男女の関係を持ち日本の皇統の危機を招いた歴史上の超問題人物である。そんな時代に創建されたことは凄いことだが、現在の保元寺は街中に溶け込んだこじんまりとした寺というのがまた面白い。

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境内にはさりげなく古いものが安置されている。ぽつんと置かれた五輪塔が鎌倉権大夫梶原景道(源頼朝の寵臣)の墓石で延久2年(1069)に建てられたがさすがに寛永年間(1624~1644)に再建されたものとあったり、下の写真の六文字「南無阿弥陀仏」の名号石碑は宝徳元年(1449)に保元寺が中興された時のものだったりする。

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保元寺が開かれた時代は未開の隅田川に面した自然堤防の上のこの場所は砂尾の石浜と呼ばれ、保元寺も石浜道場と呼ばれていた。300年近くが経ち平安時代の保元元年(1156)に後白河天皇の勅許を得て保元寺と改称した。江戸時代になって保元寺を法源寺と改名したものの、大正時代には元の保元寺に戻している。

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一方、この救苦(くぐ)地蔵は昭和50年(1975)造立と新しいもの。小堂の壁に経緯が書かれていた。「寺の檀家の芳子さんと正子さんという姉妹が相模湖に入水自殺をした。若い姉妹が心の病で生きる望みを失い自殺したことに住職も心を痛めた。姉の芳子さんが生前に貯めていたお金を遺族が寺の為にと寄進されたので、それを元手に住職はこの地蔵を建立し姉妹の供養を行うことにした。」とある。今の世も心の病に苦しむ人々は多数いる。地蔵を前にいろんなことを考えた。

場所  台東区橋場1丁目4-7

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2021年9月12日 (日)

宝蔵院の石仏(台東区清川)

台東区清川はかつての山谷地区の一画を含み、いわゆる通称ドヤ街(簡易宿泊施設)が多くあったところで、『あしたのジョー』の丹下ジムがあったという設定の泪橋がある。現在は静かな住宅街になっておりドヤ街は殆どない。宝蔵院はその清川の南の端にある真言宗の寺院で、創建年代は不詳だが浅草鳥越に創建し、明暦の大火で焼失して現在地に移転した。

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庚申塔を含む古い石仏は本堂への階段の脇に並んでいる。たまたま門が閉まっていたのでインターホンで拝観できないかお願いすると住職が快く承諾してくださった。階段脇には6基の石仏が並んでいた。

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一番本堂側(右側)は角柱型の庚申塔で、造立年は天保14年(1843)2月。上部が欠損しているものの、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されているのが良く分かる。青面金剛像は左手にショケラをぶら下げているが、このショケラは合掌する女性の姿をしている。その隣は上部が欠損した聖観音像で元禄2年(1689)10月の建立のようだが、これは墓石。その左の舟型光背型の如意輪観音像も墓石だが、造立年は文化8年(1811)8月と刻まれている。

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その左には首の取れてしまった地蔵座像。造立年等は全く分からない。そして隣の如意輪観音像は上部が欠損し、造立年の部分が読み取れない。「正月」という部分は残っているが、江戸時代中期だろうか。一番左にあるのが上半部が折れて無くなってしまった庚申塔。江戸時代のものではあるが年代は不詳。三猿が陽刻されているが、台石にも三猿が彫られており合わせて六猿。おそらく別の庚申塔の台石を組み合わせたものだろう。

場所  台東区清川1丁目3-5

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2021年9月11日 (土)

東禅寺銅造地蔵(台東区東浅草)

山谷堀跡の土手通りと浅草から南千住に延びる吉野通りに挟まれたエリアが東浅草という住居表示エリア。その北の地域にある曹洞宗東禅寺には大きな銅造地蔵座像が鎮座している。同名の寺院で有名なのは港区三田の東禅寺でそちらには三重塔もあれば江戸時代末期に英国公使館になり歴史のページに名を刻んだ寺院だが、こちらは下町にさりげなくある寺院という雰囲気。

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創建年は寛永元年(1624)と江戸時代初期。本堂は近代的な鉄筋コンクリート造だが、その前に鎮座する銅製の地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵のひとつであり、立派なものだ。石仏ではないが、ここでもあえて取り上げることにした。

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江戸六地蔵は、京都の六地蔵に倣い江戸の出入口6カ所に設置された地蔵。深川の池蔵坊正元発願の江戸六地蔵は、宝永3年(1706)に発願され元禄以降の豊かな江戸の経済を背景に多くの寄進者を得て、造立された。これまで紹介したのは、品川の品川寺にある宝永5年(1708)の地蔵、新宿の太宗寺の正徳2年(1712)の地蔵、があるが、深川の正元の江戸六地蔵以外にも東都歳時記による六地蔵もあり、そちらで紹介したのは道灌山の浄光寺の元禄4年(1691)の地蔵のみ。東都歳時記の六地蔵はこれ以外には千駄木の専念寺のものと二つしか残っていないが、深川の正元の江戸六地蔵は代仏を含めればそれぞれ現存している。

場所  台東区東浅草2丁目12-13

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2021年9月10日 (金)

瑞泉寺の石仏(台東区今戸)

台東区今戸にある瑞泉寺は浄土宗の寺院。関東大震災以前この辺りには多数の寺社があったが、ほとんどなくなってしまった。少し調べてみたが、関東大震災で倒壊して移転したのか、国や都(当時は東京市)が強制的に移転させたのかは分からなかった。瑞泉寺の創建年代は不詳ながら、江戸時代の初期と言われる。

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本堂は近代的な鉄筋コンクリート造りのようだが、その脇に庚申塔と聖観音像が祀られている。庚申塔は駒型で頂部が欠損している。その為日月が不明だが、月輪の一部が見える。中央には青面金剛像が邪鬼を踏み、その下には三猿が陽刻されている。青面金剛脇には二鶏も描かれている。造立年は元禄14年(1701)4月、右面には「奉庚申供養 當町講中」とあり、下部には16名の願主名が刻まれている。

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一方右の舟型光背型の聖観音像も見事な石仏だが、同やら墓石らしく多数の没年と戒名が刻まれている。元禄12年(1699)や天和元年(1681)の年紀があるので1700年代のものだろうか。

場所  台東区今戸2丁目17-3

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2021年9月 9日 (木)

慶養寺の石仏(台東区今戸)

待乳山聖天から北へ続く隅田川沿いの道は古道でかつては鎌倉街道であった道。江戸時代には吉原通いの旦那衆が舟を着けて上っていった山谷堀に架かっていた今戸橋跡を過ぎると間もなく二手に道は分かれる。その分岐点の前にあるのが曹洞宗寺院の慶養寺。このブロックには他に潮江院と本龍寺があり、北隣は今戸神社である。

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山門は真新しくきれいである。両脇には迫力のある仁王像が構えている。慶養寺の創建は寛永2年(1625)で、当時は浅草蔵前にあったが、その後(年不詳)現在地に移転してきた。山門をくぐると正面に本堂があり、左手に草木の庭がある。その庭の中に庚申塔と笠付角柱型の石塔がある。

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左の舟型光背型の庚申塔は正面金剛像と三猿のシンプルな図柄で、青面金剛像の頭には髑髏がある。主尊の脇には「造立供養」「諸願成弁」と書かれている。三猿の下には12名の願主名が刻まれている。造立年は延宝8年(1680)8月と古いものである。その右隣りには背の高い、笠付角柱型の石塔がある。摩滅がかなり進んでいて彫られていた文字は殆ど読めない。下部には地蔵菩薩坐像であろうか、影のように形が残っている。年代的には庚申塔と変わらないのではないだろうか。

場所  台東区今戸1丁目6-22

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2021年9月 8日 (水)

待乳山聖天の庚申塔(台東区浅草)

待乳山聖天(まつちやましょうてん)で知られている本龍院は浅草寺の子院で聖観音宗の寺院。浅草寺の北、隅田川沿いの小さな山の上に築かれた寺院で昔からの名所である。大根まつりが有名で1月に行われるが、日常のお参りにも社務所で大根を購入し奉納する。創建は極めて古く、推古3年(595)で、これだけ古い寺院は東京には珍しい。この丘は伝説によると6世紀松に突如隆起したという。しかし隅田川沿いに出来た自然堤防だったのではないかと思う。

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本堂の階段下には風情のある築地塀があり、その築地塀を背にして庚申塔群が並べられている。本龍院自体が貴重な文化財なのであまり取り上げられないが、この長さ25間(45m余り)の築地塀も江戸時代の秀作だと思う。

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左から、板碑型の庚申塔は寛文9年(1669)3月の造立。上部に日月、下部に三猿が描かれ、中央には六文字名号「南無阿弥陀佛」が刻まれている。三猿の下には11名の願主名が彫られている。隣りは右上が欠損しているがこれも板碑風の庚申塔。青面金剛像と三猿が陽刻されている。造立年は天和2年(1682)9月で、尊像の右に「庚申供養」とある。三猿の下には10名の願主名がある。その隣は聖観音像だが、刻まれた文字が風化でほとんど読めない。おそらく江戸時代初期のものだと思われる。

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その右に続くのは上部が欠損した舟型の聖観音像だが尊顔の左に「庚申供養」とあるので庚申塔。造立年は寛文12年(1672)3月で、尊像の足元脇には16名の願主名がある。隣りの小さな石仏はあちこちひどく欠損しているが、元禄13年(1700)造立の庚申塔。青面金剛像のみが判別できるが、他の像容は分からない。足元に左側の鶏が残っている。右から二番目はコンパクトな舟型の庚申塔。上部に欠損があるが、青面金剛像と三猿が彫られている。尊像上には日月の日の部分が残る。宝永元年(1704)4月の造立。一番右端はこれも上部欠損ながら文字塔で「奉庚申供養」という文字が見られる。おそらく駒型ではないだろうか。造立年は延宝7年(1679)5月。右下地面スレスレのところに鶏の上部が見えているようだ。

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境内には大根を描いた石板石碑があった。大根はどちらも二又大根で、それが絡まり合う春画風のもので、文政3年(1820)9月に奉納されたもの。この辺は江戸の粋を感じさせてくれる。

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境内にあったもので目を留めたものの一つにこの絵がある。織田一麿画で大正5年(1916)に描かれた「東京風景 六 待乳山から隅田川」という作品のコピー。大正初期はまだ多くの人が和装で、隅田川の川辺も樹木でいっぱいだったことがわかる。こんな時代の東京を見られるものなら見てみたいと思う。

場所  台東区浅草7丁目4-1

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2021年9月 7日 (火)

明和五子天庚申(江戸川区東葛西)

東葛西の旧長嶋村と旧桑川村の境を流れる長島川跡沿いに東へ進むとやがて旧江戸川の堤防にぶつかる。その少し手前の丁字路の角に1基の庚申塔がある。明治時代の地図を見ると、ここには長島川を渡る橋が架かっていた。その時代からここに在ったかどうかは分からないが、おそらく橋のたもとに立っていたのではないかと思う。

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駒型の庚申塔は見事な彫りで迫力がある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が美しい。尊像は左手にショケラをぶら下げている。右側面には「明和五子天」とあり、文字通り明和5年(1768)で左側面には10月と大きく書かれている。この庚申塔があるお宅は森田邸。台石にはびっしりと願主名が書かれているが苗字はない。

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この先東に進むと堤防があり、旧江戸川になるがなぜか川幅が狭く、屋形船が多数係留されている。この川の対岸は千葉県浦安市ではなく、江戸川区妙見島なのである。妙見島は江戸川の中州で、川の変化によって微妙に場所が動いてきたと言われる。実は東京23区にある人口の島は多いが、自然の島はここだけ。昭和50年代にコンクリート護岸で固められたが、それでもわずかにまだ動いているようだ。

場所  江戸川区東葛西3丁目4-13

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2021年9月 6日 (月)

正円寺の庚申塔(江戸川区東葛西)

かつての長島川の南側、旧長嶋村の東にある正円寺は創建年代不詳ながら、史料によると文明年間(1469~1486)には既に存在したという古刹。安政の大地震で屋根瓦が落ちたという記録があるようだが、現在の本堂は昭和39年(1964)の改築。

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周辺の小堂や手水舎はごく最近の再建らしくまだ木の色も真新しい。本堂向かって右手には古い百日紅(さるすべり)の巨古木があり、おそらく明治時代からあるものだろう。幹回りが1mを超える百日紅は初めて見た。本堂手前の手水舎と新しい堂宇の間には2基の庚申塔が祀られている。

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右の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、が陽刻され、台石には三猿が大きく彫られている。主尊の左手にはショケラがぶら下がる。側面にある造立年は弘化4年(1847)12月。「別當 正圓寺」の銘も記されている。左の背の高い笠付角柱型の庚申塔は古く、造立年は寛文3年(1663)8月。台石に三猿が陽刻されているが、本体には「奉造営庚申結衆二世安樂」と書かれた文字塔。

場所  江戸川区東葛西3丁目4-22

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2021年9月 5日 (日)

下今井香取神社の石仏(江戸川区東葛西)

称専寺の隣にあるのが下今井香取神社。江戸川区のこの辺りには香取神社が多い。香取神社は千葉県佐原市の香取に本宮のある神社だが、長島村の歴史を調べてみると、かつて長嶋氏という豪族が館城を築いており、長島湊という港があって国府の港として栄えていたという。1300年代後半には長島には香取神宮の河関があったとされ古くから交通の要衝だったようだ。それで香取神社が多いのではないかと思われる。

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この神社の前の長島川は南の長嶋村と北の桑川村の村境であったので、下今井香取神社は別名「境の宮」とも呼ばれる。本殿の左脇には供養塔が一基立っている。

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「信州善光寺三十三度供養塔」とあるので、その回数善光寺詣りをして記念に建てたものだろう。左には安永2年(1773)11月の年紀が刻まれ、右には「願主 下今井境の宮 休念」とある。香取神社なのに善光寺詣りとはさていかに。

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本殿の右手には水神社がある。鉄の囲いで囲まれているのは水神社の小さな祠と角柱型の庚申塔。この庚申塔は下部に各面一猿、計三猿が陽刻されたもので、正面には「香取大明神」とある。造立年は宝永4年(1707)2月と刻まれている。この神社の創建は説明板によると江戸時代中期とされるが、この庚申塔はその当時のものであろう。

場所  江戸川区東葛西1丁目45-8

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2021年9月 4日 (土)

称専寺の庚申石仏(江戸川区東葛西)

称専寺は永禄5年(1562)に創建された桑川村の古刹。浄土宗の寺院である。東京都の東の端らしくのどかな雰囲気のある境内。寺の門前の通りは昔、長島川が流れていた筋で、川の北側(称専寺側)に道が通っていた。寺の北東の江戸川傍に変則の交差点があるが、そのあたりで江戸川の水を取り桑川村、長嶋村、東宇喜田村の水田を潤していた。

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本堂に向かう右側に立派な舟型光背型の石仏が並んでいる。その向こう側の小堂には小さな弘法大師の座像が2基祀られており、それぞれ基壇には第拾番、第拾壱番と刻まれている。これは葛西大師回りという江戸川区の無形民俗文化財に指定されているもので江戸時代から伝わるこの地域の霊場巡りの一部。

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手前の2基の庚申石仏は、右が地蔵菩薩の庚申塔で女人講中によって造立されたもの。造立年は万治3年(1660)10月。「奉造立石像庚申一座立令成就供養所依之講衆等二世安楽無趣者也」と刻まれている。左の舟型光背型の石仏の主尊は阿弥陀如来でこれも庚申塔。こちらは男人講中によるもので、造立年は同じ万治3年(1660)、左肩部分が欠損しているが文字の残りから見てこれも10月のようである。こちらには「奉建立石像庚申之供養立之講衆等・・・」とある。男女に分かれてそれぞれ同時に石仏を建立するというのは珍しい。

場所  江戸川区東葛西1丁目38-23

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2021年9月 3日 (金)

桑川神社と庚申塔(江戸川区東葛西)

桑川神社はかつての桑川村の鎮守。創建年代は不詳だが、昔は第六天社と呼ばれていた。南の長嶋村の東禅寺が別当寺だった。第六天はあちこちにわずかに残るが小さな社が多く、近年消えていく第六天社も少なくない。第六天社は関東地方に多く、神仏習合の時代に第六天魔王を祀る神社として創建された。ちょっと謎の残る神社である。神社の入口近くに庚申塔を祀った堂宇がある。

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駒型の大きな庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が深い彫りで陽刻されている。主尊の左手には大きめのショケラが下がる。基壇の正面には「村講中」と大きく書かれ、脇には寛政5年(1793)2月の年紀がある。庚申塔の南側が桑川村と長嶋村の村境だが、元はどういう向きで立っていたのだろうか。

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桑川神社の奥、社殿脇にも大きな富士塚がある。この富士塚は新しいもので、昭和9年(1929)に山玉参拝講によって築山されている。高さは2mほど。東葛西には富士塚が多いように思う。これは江戸時代から明治時代にかけて、この辺りが比較的裕福な農村地帯だったからだろう。米作は農村を潤したに違いない。

場所  江戸川区東葛西1丁目23-19

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2021年9月 2日 (木)

東禅寺の石仏(江戸川区東葛西)

現在の江戸川区東葛西は江戸時代から明治時代にかけて、南の川沿いに東西に広がる東宇喜田、旧江戸川中洲の妙見島の西に南側の長嶋村、北側の桑川村というのが人々が住んでいた地域。ただ明治時代初期の地図を見ると東宇喜田村の南側(海側)も長嶋村となっていたりして詳細はどういう形になっていたのかよく分からない。ディズニーランド脇の舞浜大橋辺りまで江戸時代には耕地開発が進んでおり、見渡す限りの水田地帯だった。

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東禅寺の裏、北側の道路はかつての川筋(長島川)で、川を境に北は桑川村、南は長嶋村だったが、相互の往来は一つの村のようにあったのではないかと思うが、東禅寺の山門や本堂は長嶋村側が正面になっており、隣接する香取神社(茂呂神社)と合わせて長嶋村に帰属していたようだ。真言宗の寺院で創建は仁平2年(1152)の古刹。室町時代に中興された900年の歴史を持つ寺院である。山門を入ると右手に4基の石仏が並んでいる。

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右から、「徳大勢至菩薩」と書かれた供養塔で寛政6年(1794)11月の造立。「天下泰平五穀成就 講中増幅子孫長久」と刻まれている。その隣は駒型の庚申塔で、造立年は台石に刻まれており元文2年(1737)とある。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻され、尊像の左手には小さなショケラがぶら下がる。武刕葛西長嶋村の銘がある。左から二番目の丸彫地蔵尊も元文2年(1737)の造立で台石には「奉造立供養地蔵尊 東禅寺」とあり、庚申塔と同じく武刕葛西長嶋村とある。左端の舟型の聖観音像は延宝6年(1678)8月とこの中ではもっとも古いものだが、戒名などが刻まれているところから墓石だったのかもしれない。

場所  江戸川区東葛西2丁目29-21

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2021年9月 1日 (水)

香取神社と庚申塔(江戸川区東葛西)

長島香取神社はもとは茂呂神社と呼ばれていた。合わせて茂呂香取神社と呼ばれることもある。戦国時代あたりに自性院を開いた良範法印が創建したものと伝えられる。長嶋村の開村がその時代でそれが500年も経った今も続いているのは素晴らしいことだと思う。茂呂神社は長嶋村の鎮守で、下総の香取神社の勧請を元に香取神社とも呼ばれる。

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香取神社の鳥居の向かって右脇に大きな駒型の庚申塔がある。土地の形から推測して隣の吉野邸の一部である可能性もありそうだ。とても大きな庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が陽刻されている。主尊の左手にはショケラもある。台石正面には大きく「西講中」とあり、側面には天明6年(1786)春3月の年紀が刻まれている。

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神社に入り境内の奥、本殿の脇を入ると大きな富士塚がある。長島の富士塚と呼ばれる富士塚で、江戸川区内には意外に多くの富士塚が残っており、その中でも比較的大きなものである。当初明治41年(1908)に築山されたが、後の大正6年(1931)に再築されている。この富士塚は、旧長嶋村、桑川村の富士講の人々が築いてきたもので、高さは4mほど。碑には沢山の講中員名が刻まれており、明治時代にはすでにかなりの人口があったことを伺い知れる。

場所  江戸川区東葛西2丁目34-20

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