石浜神社の庚申塔(荒川区南千住)
隅田川に架かる白髭橋の西岸にある石浜神社は古い神社である。創建は神亀元年(724)と1300年も前のこと、奈良時代の初期である。前年の養老7年(723)に三世一身の法が作られ、石浜神社の創建年に聖武天皇が即位したという時代。ちなみに『日本書紀』が成立したのが養老4年(720)である。奈良の東大寺が建てられるのは30年後になる。
石浜神社がここに出来たのはこの場所が隅田川の自然堤防の微高地だったことと、その地形によって古代から武蔵国から下総国への街道が通っていたからである。鎌倉時代も鎌倉街道として重要なルートで、白髭橋辺りで渡し船を使い下総国に渡っていた。その時代は隅田川を渡った墨田区はもう下総国だったのである。
本殿の手前の隅田川側に大きな富士塚がある。この富士塚は白髭富士ともよばれ、神社の表示では「富士遥拝所」とある。富士塚が築山されたのは宝暦8年(1758)だから都内の富士塚の中ではかなり古い部類になる。
この富士塚には3基の庚申塔が立っている。まず右下にある駒型の庚申塔は貞享4年(1687)6月の造立。日月の下に「奉供養庚申」と書かれ、その下に三猿が陽刻されている。三猿の下には10人の願主名がある。
富士塚の鳥居の向こう側にあるのがこの駒型庚申塔。造立年は貞享3年(1686)9月。日月の下に「奉待 御庚申 一周来処」と書かれており、その下に三猿が陽刻されている。これも三猿の下に9人の願主名がある。
富士の頂上にあるのがこの角柱型の庚申塔で「猿田彦大神」と記されている。下部には松木氏、木村氏とある。造立年は元文3年(1738)5月。ここにある3基の庚申塔はすべて富士塚よりも古い。じつは石浜神社は江戸時代には現在地よりも北にあった。当時は神明社と呼ばれ、富士遥拝所は隅田川のほとりにあって、神明社と富士遥拝所の間には播磨姫路藩の大名屋敷(酒井雅楽頭)があった。現在の境内にあったのはもう一つの真先稲荷社であったが、神明社も稲荷社も神主は兼務だったようだ。
場所 荒川区南千住3丁目28-58
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