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2021年10月31日 (日)

中井谷熊野神社庚申塔(大田区南馬込)

南馬込4丁目は東の臼田坂の尾根道(旧田無街道)、南の桜並木の内川暗渠筋に挟まれた台地と谷の地形である。小沢によって刻み込まれた小さな谷が沢山あり、尾根筋に反して歩くと上り坂下り坂の繰り返しになる。中井谷熊野神社は谷筋を下る鐙坂(あぶみざか)の東の尾根の突端に位置する。創建年代は不詳ながら、江戸時代には馬込村小名井谷の鎮守だったとされる。台地の縁であることは境内が数mの高さの石垣の上にあることからもわかる。

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本殿に向かって境内の右隅を見ると小祠と桜の古樹に挟まれて駒型の庚申塔が祀られている。板状駒型の庚申塔には、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が陽刻されており、造立年は享保5年(1720)11月とある。尊像脇には「奉庚申供養石碑」と刻まれ、下部には「武刕荏原郡馬込村中井」の銘がある。

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三猿の下には他に願主11名の名が刻まれ「同行中敬白」と締められている。苗字は北村姓4、加藤姓2、鈴木姓2など。台地下の内川はもともと苗川、一川などと呼ばれていた荏原台からの小流だが流れ下る先は海苔の養殖が盛んだった大森海岸。現在では東海道本線から下流が開渠となっておりそれより上流は暗渠化され道路になっている。

場所  大田区南馬込4丁目13-24

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2021年10月30日 (土)

お茶あがれ地蔵(豊島区上池袋)

東武東上線の北池袋駅の北側の踏切は危険な踏切である。東上線プラス埼京線の踏切でお年寄りは渡り切れないことがある。その為に地下道が設けられているがお年寄りに階段は厳しい。こういう場所ほど早く何とかしてもらいたいものである。踏切警手の廃止が進んで久しいが、場所によっては踏切警手を置く責任を鉄道会社や自治体は負うべきだと思う。

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その踏切から100m余り東へ行くと交番の手前にコンクリート製の堂宇があり地蔵菩薩と庚申塔が祀られている。説明板があり「お茶あがれ地蔵」と書かれている。地蔵菩薩は丸彫の地蔵立像で、江戸時代に結婚を阻まれたまま病死した女性の供養のために建立されたもの。女性が幽霊になって「お茶あがれ~」と出てきたので供養したという経緯らしい。造立年は分からない。

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地蔵の右下にあるシンプルな笠付角柱型の石塔は庚申塔である。造立年は宝永元年(1704)5月。正面には「奉供養庚申石塔息災祈所」と書かれている。複雑な像形のお茶あがれ地蔵に比べて極めてシンプルなデザインに最初は地蔵の説明柱かと思ったくらいである。

場所  豊島区上池袋3丁目47-5

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2021年10月29日 (金)

池袋本町公園庚申塔(豊島区池袋本町)

池袋駅から北へ約1.5㎞の街中にある広い池袋本町公園は「池袋本町プレーパーク」という、子供たちが焚火をしたり、木登りをしたり、穴を掘ったり、泥んこになって遊べる良き公園になっている。もちろん管理されたうえで行われている。そんな公園の北西の角にポツンと大きな角柱型の庚申塔が立っている。

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こういう角柱型のデザインはありそうでない珍しいものである。正面中程に三猿が陽刻され、左右の側面にはそれぞれ一鶏が陽刻されている。造立年は寛文2年(1662)春2月彼岸中日と古いものである。石仏の日付をいう時の月は旧暦の月だから現在の暦よりも1ヶ月強前になる。現代暦でいうところの3月20日頃である。三猿の上には「奉供養庚申待三歳一座所」左右には「説種々性欲所宜聞法」「随種々心行開観照門」と刻まれている。そのっ下には願主名が12名ほど書かれていた。

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この場所が公園になったのはそんなに古い話ではない。開園は昭和53年(1978)である。ではこの庚申塔はそれ以前はどこにあったかというのが気になった。豊島区発刊の「文化財を探る 第六集」(昭和55年発刊)では池袋本町1-25とある。公園の西側エリアにあった生花市場の入口に立っていたらしい。その後の写真を見ると公園に移設されてからはもう少し道路寄りにあったが、園内でも移設されたようだ。正面に書かれている「三歳一座」は庚申講中に関する言葉で、3年間に18度の庚申待を行うことを「一座」という。まだまだ庚申講中が浸透する前の珍しい文言である。

豊島区池袋本町1丁目27-1

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2021年10月28日 (木)

重林寺の石仏(豊島区池袋本町)

重林寺は国道254号線(現川越街道)に面し、頭上を首都高速池袋線が走る交通賑やかなところにあるが、この道が出来たのは昭和に入った頃で、大正時代まではのどかな農村地帯であった。それ以前はさらに田舎で池袋村の外れであった。真言宗の寺院で、創建年代は不詳ながら江戸時代初期にはあったと言われる。

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山門をくぐり左に回り込むと背の高い七面幢がある。塀の外からも上部が見えているが、この七面幢は享和3年(1803)10月の造立で、七面にそれぞれ聖観音や勢至菩薩、如意輪観音などが彫られた芸術性に優れたもの。「當寺中興第十世 法印快音造立之 飛鳥山石工 伊藤廣重」とある。この七面幢は西国、坂東、秩父、四国の札所巡礼供養塔として造立された。

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本堂の左手には太子堂が並び、本堂との間を進むと墓所手前の右手に無縁仏塔、左手に子育地蔵などが並んでいる。江戸時代のものと思われる石仏石塔は多数あるが、子育地蔵の列にある2基の舟型光背型の地蔵菩薩立像がなかなか見事な石仏である。

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右の舟型地蔵は天明7年(1787)12月の造立、左の舟型地蔵は前年天明6年(1786)12月の造立である。水子地蔵の脇に立っているが、どちらも墓石ではない可能性もある。「重林寺・・中興開山法印・・」とあるので江戸時代中期に寺を再興した僧に対する供養目的の地蔵菩薩かもしれない。

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大師堂の脇に戻って道路わきの塀沿いにある石仏を拝観する。一番手前にあるのがかなりすり減った笠付角柱型の庚申塔。造立年は享保元年(1716)で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。尊像右には「奉信孝庚申天子」とあり、右側面には「是よりミなみ高田むら」、左側面には「是よりきた板はしむら」とあるようだ。右側の板碑型の石塔は中央に「南無阿弥陀仏」と大きく書かれた念仏講による供養塔。万治元年(1658)12月の造立でこの寺の中では極めて古い時期のものである。

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その先にある笠付角柱型の庚申塔は、享保2年(1717)10月の造立。台石に三猿が刻まれている。正面には「奉造立庚申宝塔」と書かれていた。左右には願主名があり、施主は佐久間孫太郎の銘がある。境内には寺の創建よりも古い、天文24年(1555)の板碑があり、中央には「奉庚申待供養逆修」とあると資料にはあるが、探し方が悪く見つからなかった。再訪時に確認したい。

場所  豊島区池袋本町2丁目3-3

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2021年10月27日 (水)

南町庚申尊(板橋区南町)

現在は南町という何の味もない町名だが、江戸時代は中丸村という農村だった。もともと谷端川の左岸の傾斜地だったが、関東大震災後に開発が進み人口が急増した。高度成長期に入った頃、広い材木工場になったが、昭和38年(1963)に斜面を削って広い平地に変え、ハタスポーツプラザが誕生。プールや当時大流行したボウリング場など様々な施設が作られたが、スーパーマーケットのマルエツが2020年に閉店したのを最後に再開発が始まった。

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敷地の南の角に以前からあったのが南町庚申尊という庚申塔の堂宇で、工事が始まってもこの一角はそのまま残されていてホッとした。中丸村などの地名の痕跡は少ないが、山手通りのバス停の名前が「南町庚申通り」という名で残っている。あとは工事敷地の北の端の交差点で山手通りと交差する通りが「中丸通り」といい、南町庚申通りの北のバス停は中丸町という。

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堂宇に祀られている庚申塔は立派な笠付角柱型。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛の頭には蛇がとぐろを巻いている。造立は宝永5年(1708)10月。「奉造立供養青面金剛尊像庚申講中 二世安楽祈所」と記されている。

場所  板橋区南町22

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2021年10月26日 (火)

上篠崎柳島の庚申塔河原道石造道標(江戸川区上篠崎)

上篠崎柳島の庚申塔河原道石造道標 江戸川区の東部に鹿骨(ししぼね)街道という道がある。現在はかなりまっすぐに変わったが、古道としての鹿骨街道は江戸川河畔からくねくねと曲がりながら千葉街道に達していた。名前の由来は、奈良の春日大社の創建との関係がある。栄華を極めた藤原氏は香取神社と鹿嶋神社の神を春日大社に勧請した際に、神の使いである鹿を1年かけて多数奈良に運んだときの通り道だったと言い伝えられている。

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鹿骨街道脇にはかつて用水路が通っていた、その用水路と鹿骨街道がこの場所で急に北に曲がっていたのだが、用水路は暗渠として残ったのである。この前のバス停が新皆面橋(しんかいめんばし)という名前。庚申塔は「上篠崎柳島の庚申塔河原道石造道標」という長い名前で江戸川区の文化財に指定されている。

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駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。正面下部には「右 かわら道 講中」とあり、左面には文化13年(1815)6月の年紀がある。右には「左 江戸道」とある。方向からすると昔とは逆向きに置いてあることになる。手前の地面に埋められているコンクリート版には「帝釈天構子 御用観音前」と書かれているが何を意味するかは不明。この辺りは1960年代までは民家もほどんどない田んぼの中だったが今では住宅密集地になっている。

場所  江戸川区上篠崎3丁目13-17

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2021年10月25日 (月)

弥陀堂跡の石仏(江戸川区上篠崎)

篠崎街道にある上本郷の庚申塔の路地を入り最初の角を右折すると墓所がある。阿弥陀堂(弥陀堂)と呼ばれている墓地で、無量寺の境外堂跡である。説明板があり「区内の民謡の中に『弥陀堂の和尚』という歌があり、これによると江戸時代に篠崎村の阿弥陀堂に一人の和尚がいて、木魚を横に抱えて謡い踊りながら、人々を教導した」とある。

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鉄扉を入るとその先のコンクリート製の屋根の下に石仏石塔が祀られていた。一番左には自然石でこの阿弥陀堂の改修の由緒のようなことが書かれているが昭和46年(1971)に改修がなされたらしい。ただ明治時代の地図を見ても寺の印はないので、無住になったのはそれ以前の可能性が高い。

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その横にある大型の舟型光背型の地蔵尊は上部が折れたのを補修してある。この地蔵は庚申講中によるもので、寛文5年(1665)8月の造立。高さは163㎝ほどある。沢山の文字が刻まれているが、「青面庚申之結衆▢善根」「庚申講結衆」というような文字が読める。時代が古いだけに素晴らしい彫りである。その右の舟型光背型の聖観音像も古く延宝7年(1679)5月の造立。「為日還法師菩提」とあるので僧侶の供養に造られたものだろうか。

場所  江戸川区上篠崎2丁目21

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2021年10月24日 (日)

上本郷の庚申塔(江戸川区上篠崎)

篠崎街道沿いには古い地名を残したバス停がある。京葉道路のすぐ北にあるバス停は「中図師」、鹿骨街道の出合の北にあるのが「上本郷」というバス停。都内各地にもバス停と小学校名は歴史上の地名を付けたものが多く、西新宿の「十二社」などはその典型である。

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上本郷のバス停の100mほど北の角に1基の庚申塔がある。塀を少し凹ませて祀られているが、かなり広いこの民家は石井家のお宅で、代々続く家のようである。

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駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の描かれたもので、造立年は文化2年(1805)11月と記されている。尊像の左手には形はややはっきりしないがショケラを下げている。左側面には「石井氏」の願主名もあり、庚申塔のあるお宅のご先祖様が建立されたもので間違いないだろう。

場所  江戸川区上篠崎2丁目24-13

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2021年10月23日 (土)

東光寺浄苑の庚申塔(江戸川区篠崎町)

江戸川区篠崎町に東西に延びる本郷用水跡の本郷用水親水緑道の少し北に墓苑がある。入口に「篠崎東光寺浄苑」とあり寺そのものはない。東光寺跡らしいが周辺に東光寺が存在しないので廃寺だろうと古い地図を見ていると、300mほど北に寺のマークがある。現在の住居表示では篠崎町1丁目37番にあたる。1900年以降の地図にはないので明治の前期には廃寺になったのだろう。現在の墓苑からその寺の位置まで、当時は民家もほとんどなかったようだから、広い境内の一部が残ったということだろうか。

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墓苑は整備されておりとてもきれいである。墓地の中程に無縁仏塔が一塊になっており、その中に庚申塔と思われる石塔が見いだせる。

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西側には大日如来の梵字がありその下に「庚申▢…」とあるが下部は見えない。裏に回ってみると「宝暦14年(1764)」という文字がかろうじて確認できる。塔型は山状角型で、下部に三猿があるかないかなどは全く分からない。この辺りは昔上篠崎本郷と呼ばれた地域で、本郷用水の名前の由来の地名である。篠崎街道の前身である河原道はこの辺りをくねりながら南北に走っており、西側はひろい水田地帯だった。

場所  江戸川区篠崎町1丁目41-24

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2021年10月22日 (金)

河原渡場道の庚申塔(江戸川区篠崎町)

京葉道路が江戸川を渡る江戸川大橋のたもとに子馬に乗れるポニーランドがある。その篠崎ポニーランドの建物の前にあるのが河原渡場道の庚申塔石造道標(江戸川区の説明板にはこう書いてあった)。路地の奥は江戸川区こども未来館・こども図書館がある。

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文政8年(1825)10月造立の駒型庚申塔で、日月と三猿の間に「青面金剛」の大きな文字。下部正面には「此方 江戸道」とあり、側面は摩滅して読めないが、説明板によるとそれぞれ「此方 下かま田新川道」「此 かわら渡シ場道」と書かれている。

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元は現在の場所よりも10mほど東にあったらしいので、ちょうど江戸川の土手の下あたりかと思われる。河原道という古道は複数あって、とうぜん川は洪水ごとに流れを変えるのでそうなるわけだが、時代が下るにつれて網の目のように沢山の河原道ができたという。江戸時代に河原の渡しがあったのはずっと南の下篠崎町辺りで、明治時代の地図には中州という地名があり渡し船が対岸の本行徳との間にあった。昔は篠崎街道辺りまで民家はなかったので、おそらく洪水の度に篠崎街道辺りまで川幅が動いたのだろう。

場所  江戸川区篠崎町3丁目12-17

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2021年10月21日 (木)

無量寺の石仏(江戸川区篠崎町)

真言宗の金龍山無量寺は平安時代の開山という古い寺院。明治17年(1884)に篠崎の弥陀堂を合併している。弥陀堂以外にも境外仏堂として観音堂と六斎堂があった。今はもうどれもなくなってしまったが、篠崎村の中心的な寺院だったことが分かる。

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山門をくぐると正面に本堂、左手に観世音堂がある。観世音堂の脇から墓所に向かう道があるが、その途中にいくつかの石仏が並んでいる。

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墓石の聖観音菩薩の先にあるのが、この舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は万治元年(1658)12月。下の方には無量寺とあるので、江戸時代初期から境内にあったのだろうか。

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その先の墓所入口に立っているのがこの笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、二童子、邪鬼、三猿の図柄で青面金剛は左手にショケラを下げる。右側面には、「奉造立庚申像 金龍山無量寺」の銘がある。左側面には年紀があり、造立年は享保9年(1724)2月である。

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本堂側に向かうと堂宇があり中に3基の石仏が祀られている。どれも摩滅というかとろけ気味で文字は全く読めない。一番右は笠付角柱型の庚申塔で、青面金剛像と三猿が見て取れるが、造立年等は全く分からない。中央の丸彫地蔵菩薩像もとろけ気味だが、見事に幽霊のように見えるのは左の舟型光背型の聖観音菩薩立像である。この堂宇は上部に「善龍寺(中寺)門前石仏」とあるがその名の寺院はかなり遠くまで行ってもないので何かの間違いだろう。あるは3つの境外堂のどれかをそう呼んでいたという可能性があるかどうか、わからない。

場所  江戸川区篠崎町3丁目5-15

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2021年10月20日 (水)

篠崎町の庚申塔(江戸川区篠崎町)

六斎地蔵尊からさらに北東へ350mほど行くと変形五差路の角に庚申塔が祀られている。堂宇はないが摩滅はそれほどしていない。石材が良いのだろうか。この辺の摩滅の違いがどうして起こるのかはよくわからない。この五差路はもともとは篠崎街道を横切るように流れていた篠田堀の水路が暗渠化されて五差路になったもの。

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庚申塔は駒型でブロック塀に囲まれている。日月、青面金剛像、二邪鬼、二童子、三猿という珍しい図柄で、青面金剛の左手にはショケラがぶら下がっている。右側面には、「奉供養庚申講中  武刕葛西下篠崎村」と刻まれている。左側面には年紀が記され、享保9年(1724)2月の造立と書かれている。

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この庚申塔の向かいに以前は下篠崎町会会館があったらしい。ということは旧六斎堂もこの庚申塔の辺りにあったということになり、ここの篠田堀と篠崎街道の辻は村の中心のひとつだったということだろう。この辺りの旧小字は前図師といい北に行くと中図師といった。町境会館では前図師、中図師、その先の下図師の講中が集まり講を開いたという。毎月4日が地蔵講、21日が大師講だったらしい。庚申講はまた別の形で行われていたのだろう。

場所  江戸川区篠崎町4丁目33-15

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2021年10月19日 (火)

六斎地蔵尊と庚申(江戸川区下篠崎町)

篠崎街道を北東に進むと南篠崎町から篠崎町に入る。今は空き地もないくらい建物が建ち並ぶ街だが、人口が急増したのは東京オリンピック以降である。それまでは田んぼの広がる地域だった。

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比較的大きな交差点の一角に稲荷と一緒に庚申塔が祀られていたのだが、訪問時には消えてしまっていた。まだ痕跡はしっかりと残っている。通りかかった車椅子のおばあさんと介護士らしき女性が話していた。「ここにお稲荷さんがあったんだけどねぇ」と。私もつい「そうですよね、前はありましたよね。」と話したが、仕方がないのでこの先の六斎地蔵尊に向かうことにした。

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すると六斎地蔵尊の一画に稲荷と並んでいた庚申地蔵があったのである。工事で稲荷神社が撤去された時に庚申地蔵はここに移されたわけだ。造立年は宝永6年(1709)8月。舟型光背型の尊像の右には「奉造立庚申供養」とある。

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家主ともいえる六斎地蔵尊は天和2年(1682)8月の造立で古いものである。無量寺の別院である旧六斎堂の御本尊だったらしい。昭和40年(1965)11月に、旧六斎堂からこの場所に移設されたと書かれている。旧六斎堂は下篠崎町会会館の隣にあったとあるが、それがどこかは別別述する。地蔵には「為三界万霊六道四生一切含識成仏也」と書かれており、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)のどの状態でも救いを与えるというのが六斎なのだろう。

場所  江戸川区下篠崎町9-13

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2021年10月18日 (月)

西光寺観音寺墓地の庚申(江戸川区南篠崎町)

街中の旗状地の奥にこじんまりとした墓地がある。こういう墓地はたまに見かけるが、通常かつて寺で現在は廃村になったとか、単独寺院の第二墓地というケースが殆どで、このように二つの寺院の共同墓地というのは珍しい。

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西光寺はここからすぐ南にある真言宗西光寺だが、この辺りに観音寺というお寺はない。ただ『新編武蔵風土記稿』には江戸時代ここが上鎌田村だった時代に観音寺という寺がまさにこのあたりにあったという。年不詳ながら廃寺となり、西光寺に吸収されたと考えるのが自然だろう。

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庚申塔は墓地に入って左隅にいくつかの石塔と一緒に置かれている。ここはおそらく観音寺時代の石仏石塔だろう。日月、青面金剛像、三猿の図柄でゼニゴケが汚れて張り付いている。尊像の右には「奉造立庚申」、左には正徳3年(1713)4月の年紀が刻まれている。

場所  江戸川区南篠崎町1丁目10

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2021年10月17日 (日)

西光寺の石仏(江戸川区南篠崎町)

篠崎街道沿いにある真言宗の西光寺の創建は永正2年(1505)で当時ここは上鎌田村。同じ江戸川区江戸川(下今井村)にも西光寺があるがあちらは浄土宗寺院で、南篠崎町(上鎌田村)の西光寺は真言宗である。二つの西光寺の距離は3㎞足らずなので、間にあった上今井村あたりでは「どっちの西光寺だ?」なんて会話もあったかもしれない。

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篠崎街道から参道が本堂に向かっているが、入るとすぐに右に3基の石仏が並んでいる。なかなか素晴らしい彫りの石仏で、左端は笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は宝暦9年(1759)11月、「當村講中」と右側面に大きく書かれている。左側面には「奉造立青面金剛一体」とあった。

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中央の大きな舟型光背型の地蔵菩薩立像は地蔵尊の右に「庚申之功徳」とあることから庚申塔であると言われる。造立年は万治3年(1660)と古いものだが、石材の質もよく彫りも素晴らしい。その右の小さい方の舟型光背型の地蔵菩薩像は墓石らしい。「前項法師菩提也 施主▢▢」とあり、造立年は寛文6年(1666)9月である。

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本堂前にあるのが江戸川区の指定有形文化財になっている石造線刻地蔵菩薩立像碑。ガラスケースに収まっているので、好天の日にはこのように反射の嵐でうまく写真を撮れない。陽刻浮彫の手法で彫られた地蔵菩薩像で天明年間(1781~1788)の作だと言われる。

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本堂手前の参道の左に気になる石仏が並んでいた。左が阿弥陀佛、右が大日如来である。とても大きなもので、裏にまわって墓所側から背中の文字を読んでみた。阿弥陀石仏は寛文元年(1661)10月の造立。大日如来像も同じく寛文元年(1661)の造立だが、月が書かれていない。おそらくは同じ時期に同じ石工が建立したものだろう。

場所  江戸川区南篠崎町1丁目1-24

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2021年10月16日 (土)

上鎌田の庚申塔(江戸川区南篠崎町)

篠崎街道を東北に歩いていくと、上鎌田バス停の少し西の辻に1基の庚申塔が立っている。この辺りは明治から昭和前期にかけてはまだ農業地帯で用水路の役割を果たす小河川が縦横に走っていた。この近くにも柴又街道と並行するように東井堀という小流が流れており、その東岸には西光寺がある。西岸の辻が高井家でその角にあるのがこの庚申塔である。東井堀は現在では人工水路を持つ遊歩道になっている。

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この庚申塔は道標も兼ねているので「上鎌田の庚申塔行徳堂石造道標」という名前が付いている。大きな角柱型の庚申塔で正面には「青面金剛」と書かれ、台石には大きめの三猿が彫り込まれている。造立年は文政9年(1826)4月で「初鬼宿日」とある。鬼という文字をググると何ページにもわたり『鬼滅の刃』の情報が並んでしまい真相がわからないが、鬼宿日(きしゅくにち)というのは昔から縁起がいい日とされており、鬼が宿にこもっていて出てこないので安全とされる。

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鬼宿日は28日周期なので、なぜ4月が「初鬼宿日」なのかははなはだ疑問だが、昔の土地の暦ではその日が初鬼宿日だったのだろうか。塔の側面には、「右 ぎゃうとくミち」とあり、篠崎街道が行徳の塩を江戸に運ぶ重要な街道であったことが分かる。

場所  江戸川区南篠崎町2丁目46-13

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2021年10月15日 (金)

不動院の庚申塔(江戸川区江戸川)

江戸川区江戸川というのが現在の住居表示だが非常に分かりにくい。放水路である新中川が合流するのが今井水門でそのすぐ東の合流前の旧江戸川を渡るのが新大橋通りの今井橋。ここから先は千葉県である。しかしこれより上流にはずっと橋がなく、本流の江戸川まで行かないとない。今井橋や今井水門の今井というのはこの旧江戸川右岸の古くからの地名で、下流に下今井、上流が上今井といった。さらに上流に行くと槙島、そして前野という小字になる。

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現在は江戸川一丁目だが昔の地名でいう前野の河岸にある寺院が川向山不動院大滝寺。元亀元年(1570)の創建と伝えられる。河岸の道路から境内に入るとすぐに大きな笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は元文2年(1737)8月で、「前野邑講中」の文字がある。右側面には「奉造立庚申像、大龍山不動院」と書かれているので、造立の時からここに在るようだ。

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そのすぐ近くにはいくつもの舟型光背型の石像が並べられている。上の写真はその一部だが、左右はおそらく聖観音立像だろう。中央はかなりとろけているが錫杖っぽいかたちが地蔵菩薩立像であると思われる。このとろけかたはよほどの雨ざらしか、水中から引き揚げられた可能性がありそうだ。文字が全く読めないので、造立年等は全く分からない。

場所  江戸川区江戸川1丁目28-33

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2021年10月14日 (木)

蓮根観音堂の石仏(板橋区蓮根)

都営西台駅の駅前のダイエー西台店、その南の高島通の向かいにあるのが蓮根観音堂。この観音堂でいう観音は牛馬を守護する馬頭観音を指す。もともとは「田の観音」と呼ばれ、元禄11年(1698)に建てられた馬頭観音で野ざらしだったが、多くの人々が参詣して賑わったという。

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現在はこんな立派な堂宇に守られているが、馬頭観音でこれだけの堂宇に入っているものは極めて珍しい。明治時代の地図を見ると辺り一面見渡す限り田圃であり、ほぼ100m感覚で南北に田んぼ道が通っていた。東西に延びる用水路がちょうどこの辺りで田んぼ道と交差するように流れていて、地形図には石塔のマークが記されている。

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祀られている元禄11年(1698)2月に開基貞閑大法師によって創立された137㎝の馬頭観音。この堂宇を守っているのは蓮花寺と書かれていた。かつては多くの農家が縁日になると飼育している牛馬を連れて参詣に訪れたという。

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堂内の主尊馬頭観音の脇に3基の石仏がある。左に2基、右に1基。左のお点前の角柱型も馬頭観世音菩薩。元々は蓮根3-26の中村家にあったものらしい。一度、新河岸川のほとりにあるというこの馬頭観音を探して歩いたことがあるが見つからず、この観音堂でようやく出会えた。造立年は文政3年(1820)6月である。後ろの舟型地蔵菩薩は上部が補修してあるが、本体には元禄14年(1701)5月の年紀と正徳元年(1711)12月の年紀があり、どっちかは分からない。右の舟型地蔵菩薩の造立年は不詳。おそらく墓石だろうと思う。

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観音堂の門兵のように立っている2基の庚申塔の内、奥側にあるのは笠付角柱型の庚申塔。造立年は嘉永6年(1853)2月で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。道標を兼ねており、右面には「東 中台道 板橋道」、左面には「西 大山ねりま、北 戸田渡しバ 道」とある。台石には根原講中とあり多くの願主名が刻まれている。

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道路側には角柱型の豪快な庚申塔が立つ。正面には大きく「庚申塔」と彫られ、側面にも大きく「文化五戊辰年」とあり反対側にも日付が彫られている。文化5年(1808)2月の造立である。台石正面には三猿が彫り込まれ、願主名が多数刻まれている。川口姓が5名、江口姓、本橋姓が2名ほか計13人の名があった。

場所  板橋区蓮根2丁目28-21

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2021年10月13日 (水)

蓮根氷川神社の石仏(板橋区蓮根)

蓮根にある氷川神社は慶長年間(1596~1615)の創建で、当初蓮沼村前沼にあった丸池の沼畔に鎮座していた。現在の志村橋あたりというから、国道17号線(昔の中山道)が新河岸川を渡る橋の辺り。明治時代以前は新河岸川はイコール隅田川&荒川で、蓮根辺りでは流程が蛇行しており洪水の度に流れを変えていた。江戸時代の切絵図を見ると、中山道沿いに氷川社がある。当時はそこに新河岸川はなく、浮間舟渡のほうに湾曲していた。

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明治になってから、1900年に当時の上蓮沼村と根葉村が合併して蓮根となるとその新しい村の鎮守になったが、大正13年(1924)の荒川改修工事で新河岸川も新たに開鑿されて、従来の場所が川になったので現在地に移転してきたという経緯らしい。 この鳥居は寛政4年(1792)2月の建立とあるので、従来の場所から移設されたものだろう。「東叡山御領武州豊嶋郡 蓮沼村 根原 根葉村」と刻まれている。

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境内には大きな富士塚があると思って祠をみると富士塚ではなく御嶽塚であった。御嶽塚はこの辺りで昔盛んだった奥多摩の御嶽神社を模している。「おんたけ」ではなく「みたけ」と読む。この築山の上り口に岩をくり抜いたような不動明王像がある。岩の脇に黒御影石の説明板のようなものがあり、明治24年(1891)4月の造立とある。「先達 内田保太郎、志村 大野房次郎」とありその子孫が昭和32年に補修をした記録になっている。すぐ後ろにある祠は正徳2年(1712)11月の年紀があるので、江戸時代から綿々と御岳信仰のシンボルとして祀られて来たのだろう。

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神社の鳥居の前の志村坂下通りにいったん戻り、境内の角を見ると小堂が立つ一画がある。この小堂には駒型の不動明王像が納められている。上部には日月が刻され、「武刕豊嶋郡東叡山御領」とある。造立年は宝暦8年(1758)11月である。ちょっと普通の不動明王とは異なる塔様で最初は庚申塔かと思った。

場所  板橋区蓮根2丁目6-1

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2021年10月12日 (火)

善長寺の石仏(板橋区西台)

首都高速5号池袋線の南側は西台の台地に向かって標高を上げていく地形で、新道の坂とりげつ坂が平行して上っていく。善長寺はとりげつ坂の坂下にある。善長寺は曹洞宗の寺院で延宝年間(1673~1680)に創建されたとされるが、もっと前からあったという説もある。平屋の落ち着いた寺院である。

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山門を入ると正面に本堂があり、その左側に石仏が並んでいる。一番手前にあるのは六地蔵。どうやら寄せ集めっぽく、造立年が様々。右端は墓石らしく明和4年(1767)~安永5年(1776)の命日が刻まれているが、二番目は「田端講中 奉建立地蔵大菩薩」とあり、堀下郷の念仏講中によるもの。田端というの現在の大東文化大学あたりの小字。堀下郷はその東隣りの小字で西台中学校辺りの古い地名。

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三番目は再び墓石で安永4~5年頃。四番目は講中の地蔵らしく造立年は安永5年(1776)11月で「武刕豊嶋郡西臺村堀下郷」の銘がある。左から2番目は「田端念仏講中」とあり、左端はどうやら墓石。明和5年(1768)の年紀と堀下の地名がある。十数年のスパンの中には納まっているが、タイプが似ているので石工は同じかもしれない。

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その先にあるのは角柱型の地蔵菩薩坐像で、宝暦2年(1752)のもの。「東 戸田わたし道、南 祢りま道、北 徳丸吹あげ道」と道標が刻まれている。中春彼岸日とあるので旧暦では2月。その左は隅丸角柱型の庚申塔。造立年は不明。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が彫られているがかなり摩滅が進んでいる。側面には「西 ねりま道、東 江戸道」と道標が刻まれている。

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右は丸彫の聖観音菩薩像。ただ何も文字がなく造立年もわからない。左の丸彫の地蔵菩薩像は宝永7年(1710)2月の造立。武州豊嶋郡西臺堀下村 講中▢▢とある。台石には文字がびっしりとあるが意味は不明。

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その先にあるのは笠付角柱型の供養塔。造立年は元禄12年(1699)とあるが何の供養塔なのかは文字が摩滅していてよく分からない。左側は駒型の庚申塔。造立年は正徳6年(1716)1月。「奉造立庚申供養塔二世安楽処」「武州豊嶋郡西臺郷堀下村」と刻まれている。日月、青面金剛像、三猿の比較的シンプルな図柄である。


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一番奥にあるのは丸彫の地蔵菩薩坐像で、造立は弘化3年(1846)仲春とあるので2月。武州豊嶋郡西台邑善長禅寺とある。じっくり文字を読もうとしたら藪蚊の大群が押し寄せてきたので、細かくは読み取れなかった。

場所  板橋区西台2丁目18-1

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2021年10月11日 (月)

蓮華寺の石仏(板橋区蓮根)

蓮根の蓮華寺は首都高速道路5号池袋線の真下にある真言宗の寺院。創建年は不詳で、最初は荒川河畔にあったが、度重なる荒川の氾濫によって江戸時代中期に現在地に移転したと言われる。当時の地名は武州豊嶋郡志村庄蓮根村といった。蓮根の地名は、明治33年(1900)に大字上蓮沼と根葉(ねっぱ)が合併し、一字ずつを取って蓮根としたもの。

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本堂の左に入ると墓所の一段下に石仏が並んでいる。一番手前にあるのが写真の駒型庚申塔で造立年は延享2年(1745)12月。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「武刕豊嶋郡根葉邑」と刻まれている。

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その右隣りは庚申六地蔵のうちの3体で、どれも造立年は明和2年(1765)11月と思われる。左端の地蔵菩薩の横には「一切精霊三界満霊村中念佛講」「庚申講中 四人、七人志」とある。中央の地蔵菩薩の脇には「庚申講中 十五人」とあり、右端の地蔵菩薩の脇の文字は欠損していて読み取れないが下部に「精霊」の文字が見て取れる。

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2基の丸彫地蔵を飛ばした奥には残りの3体が並んでいる。左端の地蔵尊の脇には「庚申講中十五人」とあり、中央の地蔵には「為先祖代々精霊菩提」「施主 川口宇衛門  中村勘七」と書かれていてこれは庚申かどうか不明。右端は、「庚申講中十八人」と彫られている。

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左の六地蔵片割れの脇にある背の高い丸彫地蔵立像は正徳4年(1715)2月の造立。 「敷石衆十人」とあるので敷石を奉納した記念だろうか。台石正面には「寒佛衆九人 念仏講中 奉加村中」とあるので、村の念仏講中が寒念仏を唱えて敷石を奉納までしたその記念に建立したと思われる。

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右側の丸彫地蔵菩薩立像は年代は分からない。延命地蔵と呼ばれているようだが、台石にはうっすらと文字が残っているが解読はできなかった。

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右側の六地蔵の3体の横には大きな笠付角柱型の庚申塔が立っている。造立年は延宝2年(1674)2月。庚申塔には青面金剛像と三猿だけのシンプルな図柄で、「奉納庚申供養成就所也 同行廿七人」「武刕豊嶋郡根葉邑本願集」とある。本願集の「集」は「衆」か「修」の誤字だろう。

場所  板橋区蓮根1丁目10-15

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2021年10月10日 (日)

早船家の馬頭観音(板橋区蓮根)

首都高速5号池袋線の高架が頭上を覆い、多くの車が走る都道長後赤塚線が環八通りに出合う環八高速下の交差点から100m余り戸田橋寄りの角にある民家の塀の一部が凹んでいてそこに石仏が祀られている。

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塀の格子をわざわざ凹ませて守っているのは、珍しい笠付角柱型の馬頭観世音菩薩。造立年は嘉永6年(1853)3月である。高速道路の対岸にあるのは都立志村学園というハンディキャップを持つ子供のための高校で台地の上にある。その台地に上る坂道が伝兵衛坂。この志村学園は台地の縁にあり、その台地の下に台地の崖線に沿って道があって、そこから蓮根の集落に入る分岐がこの馬頭観音のある場所である。

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馬頭観音の右側面には「北 戸田わたし」とあり、左側面には「東 なかたい江戸、西 とくまる道」とある。当然ながら東は中台から江戸へ、西は徳丸に至る。台石の正面には「根原講中」とあるが、この辺りでは根原と呼ばれる葦や萱の生い茂る低湿地の原野が広がっており、そこに居を構えた人々の集まりだったのだろう。志村ノ原で刈り取った葦などの草刈り場であり、牛馬の飼料となる秣(まぐさ)を収穫していたようだ。台石には願主名も刻まれているがなぜかこのお宅の名前である早船家の名前がない。

場所  板橋区蓮根1丁目9-17

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2021年10月 9日 (土)

延命寺の石仏(2)(板橋区中台)

延命寺の墓所に向かう道の谷側にはさらに沢山の石仏が並んでいる。地形的には蓮根川の支流の沢は延命寺の東側の小流と南側の小流を合わせて東流しており、この出合を見下ろす位置になるので、石仏の参道から見ると墓地は数m高く、道から本堂への参道は数m低い。なかなか面白いつくりである。

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本堂から上ると一番手前にあるのが延宝3年(1675)10月の舟型光背型の地蔵菩薩。「奉造立地蔵菩薩念仏講供養  結衆14人」とある。隣りの大きな笠付角柱型の石仏は供養塔のようだ。肝心の文字は剥離して読めないが、おそらくこれも念仏供養関連のもの。下部に武列中臺村とある。その右の丸彫の地蔵菩薩像は寛文3年(1663)10月の造立で台石には「奉建立地蔵尊為二世安楽也  願主 飯田氏」とある。飯田姓は延命寺の石仏には多くみられるので、当時の名家だろう。

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その先には珍しい形の3地蔵2基の六地蔵菩薩がある。造立年は天保2年(1831)2月、この願主も飯田氏である。右脇にあるゼニゴケがびっしりとついた石塔は角柱型の馬頭観世音菩薩で、造立年は天保14年81843)3月。右側面には「西 練馬ふじ大山道」、左側面は「岩渕川口道」、裏面は「南 板橋道」とあり道標を兼ねている。

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その次は六地蔵なのに七地蔵ある六地蔵。中央の地蔵は台石の文字も読めず不詳だが、その他の地蔵は右から、顧天賀地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、左半分は右から、金剛幢地蔵、放光主地蔵、金剛願地蔵と書かれている。

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六地蔵の先には3基の庚申塔が並ぶ。左は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。正面には「奉造立青面金剛二世安楽諸願成就所」「武刕豊嶋郡中臺村」とある。側面には蓮華が陽刻される。中央の駒型庚申塔は、享保20年(1735)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、尊像脇に「ねりまへ十八丁 これより左へ」とあり、台石には「中台村 かふ中 十五人」とある。右の駒型庚申塔は、宝暦3年(1753)12月の造立で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿のデザイン。「中臺村講中」とあり、右面には「此方 ねっぱミち」、左面には「此方 富士道」とある。ねっぱ道とは何だろうか。願主名は久保家と飯田家の名前が並んでいる。

場所  板橋区中台3丁目22-8

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2021年10月 8日 (金)

延命寺の石仏(1)(板橋区中台)

板橋区中台にある延命寺は真言宗の寺院。中台村の本村の中央に位置しており北の低地から松山の坂を登りきると延命寺に至っていた。蓮根川の支流の沢が削った谷あいに臨む傾斜地にある。板橋区には志村延命寺と中台延命寺が近接しているがどちらも真言宗豊山派。中台の延命寺は永正年間(1504~1520)にこの地に創建された観音堂を江戸時代になってから一寺としたものと伝えられる。参道を進むと本堂だが、そこから180度ターンすると墓所入口でその前に石仏が並んでいる。

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墓所は一段高い台地上にあり、その斜面側に並んでいるのがこの3基の庚申塔。右から天和3年(1683)9月造立の笠付角柱型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、側面と尊像下に蓮華と蓮葉が描かれている優雅なもの。枠には「奉造立青面金剛一結之衆中二世安楽所」とあり、左には「中臺村庚申講衆」と書かれている。中央は同じく笠付角柱型で、貞享5年(1688)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で武刕豊嶋郡中臺村の銘がある。左は、享保2年(1717)2月造立の笠付角柱型、擬宝珠も残っている。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、地名はない。

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庚申塔の後ろには高さ2.9mある宝篋印塔が立つが、これも庚申講中がらみである。造立年は享保17年(1732)10月で「万人講中」とあるがその下に「庚申講中六人」と刻まれている。側面には「武刕豊嶋郡中臺村  雙林山延命寺」とある。

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宝篋印塔の脇にある丸彫の地蔵立像だが、これは新しいもの。年紀等は刻まれていない。正面には「為故堀本孝子菩薩」とあり、亡くなったその方の菩提を弔うもののようだ。

場所  板橋区中台3丁目22-18

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2021年10月 7日 (木)

中台の子安地蔵(板橋区中台)

中台の地名の由来は志村城から見て、前野原と西台の中間に見える台地ということで中台となったというのが定説。中台の東南には前野川が流れて谷を形成していた。この谷から中台の台地に上るのが閻魔坂。この閻魔坂を横切り志村城方面に繋がる道の台地上の辻に石仏が祀られている。この道はかつては富士大山詣での人々が往来していた村街道。その為か、ここの石仏は道標を兼ねている。

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一番右の屋根付の場所は子安地蔵。丸彫の地蔵尊で臼をわざと被せたかのような笠を載せている。別名「笠懸地蔵」とも呼ばれ、造立年は天明4年(1784)とある。講中はなんと94人とかなりの大所帯。台石脇には「右 練馬道五町」「左 下板橋道」とある。

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地蔵の左に並ぶのが、駒型の馬頭観世音菩薩。珍しいのはひざ元に二童子を従えている点で、もしかしたら大山詣での人々向けに不動尊の二童子を模して造られたものだろうか。造立年は寛政2年(1800)11月。右側面には「祢りま道 大山道」、左側面には「左 江戸道」とある。また「東叡山御領武刕豊嶋郡中臺村」とあるが中台村はかつて上野寛永寺の領地だったのだろうか。

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一番左は駒型の庚申塔である。造立年は嘉永5年(1852)2月。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、尊像は左手にショケラを下げている。右側面には「西 ふじ大山練馬道」、左側面には「南 いたばし前野道」と刻まれている。三猿は本体ではなく台石の正面に陽刻されている。この辻の道筋は江戸時代から変わっていない。ここにある石仏たちは200年以上もの間、通り過ぎる人々に拝まれてきたのだろう。

場所  板橋区中台1丁目48-11

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2021年10月 6日 (水)

かみなか庚申塔(板橋区若木)

東武東上線の北側を東西に走る富士見街道、その三差路に庚申塔がある。東から来ると二又は南側(左側)が富士見街道の続きで前述の三叉の馬頭観音に至る。北側(右側)の道は西台徳丸方面への古道である。富士見街道というのは現在の通り名で、かつては練馬小路とか練馬大山道と呼ばれていた。

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ここの大山道は中山道板橋宿(仲宿)の石神井川にかかる板橋の先から西に分かれ、ここを通って三叉馬頭観音の先で川越街道に出合う古道で、北からの富士大山詣での人々も合流して江戸時代は賑やかな道だったという。堂宇内には角柱型(頂平型)の庚申塔が祀られている。

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庚申塔の造立年は享和4年(1804)2月。「新田前、中台村講中 拾人」と正面に記されている。新田前というのは現在の若木一丁目あたりで、中台村は富士見街道の北側の村、南側は上板橋村である。右側面には「右 にしたい とくまる」、左側面には「左 ねりま 大山みち」とある。

場所  板橋区若木1丁目7-1

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2021年10月 5日 (火)

三叉の馬頭観音(板橋区上板橋/練馬区北町)

板橋区と練馬区の区境は都立城北中央公園の北の角から北西に延びており、前述の旧川越街道の上板橋の庚申塔の辻を経て、この馬頭観音を通り東武東上線に至る筋になる。この区境は現代のものだが、江戸時代の上板橋村と下練馬村の村境もこの筋で、この境の道筋は江戸時代から変わっていない。そんな村境が東武東上線に至る手前にこの三叉がある。とはいえここは実際には江戸時代から四辻で、なぜ三叉と呼ばれるのかは不思議である。

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道路の交差点の真ん中に1坪ほどの堂宇があり、よく車が突っ込まないものだと感心する。しかし石で囲まれたここに突っ込んだら車は大破してしまうだろう。上の写真の堂宇より右が板橋区で左が練馬区になる。堂宇の中には2基の馬頭観音が祀られている。

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堂宇内の馬頭観音はどちらもかなり摩滅していて左側に至ってはほどんど原形が分からない。資料によると、左の角柱型馬頭観音には「右 いたばし道」「左 戸田道」と側面に書かれているようだ。右の馬頭観音の方は左に比べればかなり像形が残る。造立年は文化12年(1815)で、これは堂宇の表にも記されている。正面には「武蔵国」、右面には「右 王子道 願主 内田氏」、左面には「左 戸田渡みち」と書かれている。

場所  板橋区上板橋2丁目55-4 / 練馬区北町1丁目45-10

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2021年10月 4日 (月)

上板橋の庚申塔(板橋区上板橋)

国道254号線はかつての川越街道沿いの新道で、部分的に旧街道が分岐している。都心から西へ進むと、上板橋一丁目で旧街道は北に分かれ、長くて緩やかなガッカラ坂を経て900mほどで商店街も店舗がまばらになり、南側の路傍に庚申塔が立っている。まさに路傍の庚申そのものである。

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ここは昔からの辻だが、現在これより東は上板橋駅の勢圏、これより西は東武練馬駅の勢圏という感じである。昔はどうかというと、江戸時代はこの辻が上板橋村と下練馬村の村境であった。その境に祀られた塞ノ神の庚申塔と思われるが、左面には年紀の傍に「豊嶋郡上板橋頓 栗原講中」とあるので、下練馬村側から悪いものが入ってこないようにという庚申塔なのだろうか。

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駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、中央が中折れして補修した痕跡がある。造立年は元文4年(1739)2月で、尊像右には「奉彫刻大青面金剛供養塔」と記されている。栗原講中の栗原は上板橋子育地蔵にもあった地名である。上板橋村の中に旧村として栗原村があったようだ。子育地蔵二体はもともと石神井川の栗原堰の一本橋(現在の桜川一丁目の広い公園あたり)にあったと言われるので、上板橋村の勢圏は石神井川以北全体だったのではないだろうか。おそらく円明院を中心とした一帯に願主の多くがいたのだろう。

場所  板橋区上板橋2丁目18-9

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2021年10月 3日 (日)

豊田神社と富士講と石仏(江戸川区東瑞江)

豊田神社は江戸川区東瑞江にある神社で創建年代は不詳、その昔下鎌田村には香取社、神明社、山王社があり、長寿院が別当寺となっていたという。明治初年の廃仏毀釈の頃長寿院が廃寺となり、そこに豊田神社が遷座した。その時に他の神社も合祀したようだ。

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豊田神社の境内には古い樹木が複数あり「豊田神社の社叢(しゃそう)」として保護されている。その中でも上の写真のケヤキは見事な巨樹で江戸川区の天然記念物に指定されている。樹齢は200年と言われ、幹径150㎝(幹回り5m)、樹高は23mという巨樹である。昔はこの御神木の傍に池があったらしいが現在は痕跡もない。

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社殿左手には3mほどの高さの富士塚があり、「下鎌田の富士塚」と呼ばれている。200年以上の歴史を持つ富士講「下鎌田割菱八行講」によって大正5年(1916)に築造された。江戸川区には富士塚が多い。12区内の富士塚はおよそ120ほどだが、1割が江戸川区にある。

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神社の境内から隣の公園に向かうと境内の一画に不動堂があり、お堂の前にいくつかの石仏(石塔)が祀られている。いちばん左にぽつんとある角柱はどこかで見たことがあると思ったら、安養寺にあったものとそっくりである。「南葛新四国八十八ヶ所 札所第31番」とあるが、この31番は明治初期に廃寺になったという長寿院。しかし南葛新四国八十八ヶ所を開いた東京弘山講では豊田神社をそのまま札所にしてしまったようである。石塔に刻まれた年号が、明治43年(1910)12月で廃寺から40年も後の造立だけにいささか混乱した。

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その先にあるのが3基の石塔と地蔵堂。一番左の石塔は摩滅してほとんど文字が読めないが敷石供養塔のようである。真ん中は馬頭観世音菩薩で安永3年(1774)9月の年紀が入っている。右の背の高い駒型の石仏はほぼ剥離してしまっており全くの不詳である。ちなみに地蔵堂の地蔵は見た感じそれほど古くはない様子だが、前掛けをめくってみたものの読み取れなかった。それでも江戸時代後期くらいに遡るかもしれない。

場所  江戸川区東瑞江1丁目18-1

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2021年10月 2日 (土)

地蔵堂前の庚申塔(江戸川区東瑞江)

観音庚申塔を祀る地蔵堂の門前に3基の庚申塔が並んでいる。それぞれ駒型で、右の1基が大きく、左の2基はやや小さいがそれでも駒型庚申塔の中では大型である。右の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼が見事に彫り込まれており、台石に三猿が刻まれている。尊像は左手にショケラをぶら下げている。

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庚申塔の造立年は文化元年(1804)7月。右側面の年紀の下に「石工 明石幸助」とある。庚申塔の左にある手水鉢には「地蔵尊水鉢」と書かれ、建立は享保9年(1724)7月。施主及川と刻まれている。地蔵堂の隣には交番があり、いたずらをすることは到底できないからかどうかは知らないが、どの庚申塔も保存状態が極めて良い。

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2基の庚申塔の左にはおまわりさんの自転車がある。右のちょっと大きめの庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、左手にはショケラを下げている。尊像右側には「奉納青面金剛童子庚申講中」とあるが童子はない。造立は延享5年(1748)2月である。左側の庚申塔は、日月、青面金剛像、二童子、二邪鬼、そして台石に三猿という珍しい図柄。これも左手にショケラがある。造立年は天保10年(1839)正月とある。3基とも石工の腕は相当なものだと感じられた。

場所  江戸川区東瑞江2丁目17-12

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2021年10月 1日 (金)

地蔵堂内の観音庚申塔(江戸川区東瑞江)

篠崎街道の小松川警察署東瑞江交番の隣に地蔵堂が建っている。地蔵堂の前には3基の大型の庚申塔があるが、これについては別述したい。扉は施錠されているが格子窓から中を覗き込むと中にも3基の石仏が祀られていた。

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右側にあるのが江戸川区の登録有形文化財の観音庚申塔。碑面いっぱいに、34体の観音像が七段に並んで刻み込まれている珍しいもので、最上部が4体の立像、二段目が5体の座像、三段目が5体の立像、四段目が座像5体、五段目立像5体、六段目座像5体、七段目立像5体となっており、最下部には三猿がある。三猿の脇には脇侍の童子が向かい合う。左側面に「享保5年10月6日」の年紀。享保5年(1720)に秩父三十四ヶ所を拝巡した下鎌田村念仏講中35人によって造立されたもので、主尊は通常一体のみだが、これは極めて珍しい像容。

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中央は舟型光背型の地蔵菩薩立像。尊像の左側に年紀があるのだが花で読めなかった。左にある舟型光背型の如意輪観音座像は尊像の右に「奉納観世音菩薩」とあり、左側に寛保2年(1742)11月と刻まれている。

場所  江戸川区東瑞江2丁目17-12

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