正式には練月山愛染院観音寺というが通称愛染院。真言宗寺院で、永享9年(1437)に現在の春日小学校付近に開山したというから石神井川に近い場所である。江戸時代の初期、寛永年間(1624~1644)に現在地に移転し、御朱印寺となり栄えた。明治になり廃仏毀釈の折、周辺の多くの寺院が廃寺となり、向山の成就院、高松の高松寺、上田柄の養福寺、中田柄の泉蔵院の4寺を廃して合併し、末寺として中村の南蔵院、貫井の円光院、当地の寿福寺、板橋区中台の延命寺が残された。

昭和55年(1980)11月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など諸堂伽藍が完成し、入仏落慶法要が盛大に挙行されたとあるが、山門はすでにかなり褪せていた。本堂に向かって左の塀沿いに石仏石塔が並んでいる。

まず最初に上の写真は延命地蔵。安永2年(1773)2月の造立で、台石正面には「奉造立地蔵菩薩」とあり、施主名があるが僧侶のようであるが、両心音菩提のために造立したとも書かれている。

右隣りには高さ3mを超える丸彫の地蔵座像がある。珍しいのは普通に腰掛けている姿であること。両膝を立て、右耳で人々の声を聴いているような仕草をしている。竿部には男女の戒名がそれぞれあるので名主レベルの人の建立だろうか。造立年は天保8年(1837)である。その先の明治25年(1892)の宝篋印塔の脇を左に曲がると墓所に向かうが、その右手にずらりと石仏が並んでいる。すべてを紹介するのは大変なので若干かいつまんでいる。

上の写真は手前の2基の石仏で、右側が笠付角柱型の庚申塔。造立年は寛保2年(1742)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、右側面には「奉供養庚申爲二世安樂 武州豊嶋郡上練馬之内 敬白」とあり、左面には年紀と「高松村講中三十二人」の銘がある。左の駒型庚申塔は、宝永6年(1709)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。右脇には「奉造立庚申石塔一基二世安樂祈所」とあり、左脇には「武刕上練馬之内高松村施主十二人」と記されている。

庚申塔の左は舟型光背型の聖観音菩薩像。造立年は寛文7年(1667)3月。右脇には「妙源菩提」とあるので、もとは墓石だったのだろうか。時代が遡るが保存状態は野ざらしにしてはかなり良い。

聖観音の左にはソーシャルディスタンスを取ったような並びで六地蔵が連なる。どれも元文4年(1739)10月の造立で、上練馬村の講中によって建てられたものである。

六地蔵の左にはさらに2基の丸彫の地蔵菩薩立像が立つ。どちらも延命地蔵で、右は元禄10年(1697)11月のもの。「奉造立地蔵菩薩 現當二世安樂所」とある。左は少し顔の大きな延命地蔵で、享保12年(1727)霜月(11月)の造立。「武刕豊嶋郡 上練馬邑上田柄村 願主 相原杢右衛門 四拾六人」とある。その左にも数基の地蔵があり概ね享保年間、あと聖観音も立っていた。

並びの左端には馬頭観世音と板碑がある。板碑は弥陀の種子があるが年代等は分からない。馬頭観音は高さが150㎝もある角柱型で、大正5年(1916)4月の造立である。

墓所側に回り込むとそこにも六地蔵が並んでいた。基壇の文字を読んでいくと明和5年(1768)10月の建立らしい。前述の六地蔵よりも20年弱のちに建立されたもの。「武刕豊嶋郡上練馬村」の銘が読み取れた。

その斜め向かいにあったのが地蔵のペアで、左が舟型光背型の地蔵菩薩、右が丸彫の地蔵菩薩である。丸彫の方は摩滅とゼニゴケで年号が読み取れないが12月というのは読めた。また「武刕上練馬村講中」という文字もある。左の舟型の方は、延宝9年(1681)9月のもので、右脇には「奉造立地蔵菩薩尊像 為二世安樂▢▢」とある。なかなか多数の石仏を拝んでいるといささか疲れた気がした。
場所 練馬区春日町4丁目17-1
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