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2021年12月31日 (金)

山谷神明社の庚申塔(荒川区西尾久)

田端駅から小台橋に繋がる都道458号線の商店街途中に小さな神社がある。山谷の神明社(天祖神社)と呼ばれるこの神社はかつての上尾久村字山谷の人々に永年親しまれてきた小神社である。

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伝承では、明暦年代(1655~1658)に台風が襲い、その際に金物らしきものが当地に流れ着いた。ところがそれを粗末に扱った人が怪我をしたりしたのでこの地に神明社を建てたという。騒ぐと祟りがあるというので、祭りの際にも神楽やお囃子、御輿の類はでないらしい。この神明社の氏子は神明講と呼ばれて続いているそうである。

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小さな境内には2基の石仏が祀られている。右は庚申塔で三猿が残されているのでそうと分る。戦災で破壊されてしまったのを修復したが年紀などは不詳、細部からして江戸時代初期のもののようだ。左の石仏はこれも戦災で破壊されたものを修復した地蔵菩薩立像で、「奉納日本廻国…」とあるので廻国供養塔である。左側の文字の残りから宝永7年(1710)5月の造立のようである。

場所  荒川区西尾久1丁目21-16

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2021年12月30日 (木)

地蔵山墓地の石仏(荒川区西尾久)

都電荒川線の小台駅と宮ノ前駅の間、尾久警察署の真向かいにある地蔵山墓地の門柱には宝蔵院と書かれている。宝蔵院の本堂は北の方にある小台橋のたもとにあり、未訪問だが開山は寛永10年(1633)で、板碑を所蔵しているらしい。地蔵山墓地はその境外墓地で、本山門前の説明板にも地蔵山墓地の庚申塔の説明がある。

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門の正面には地蔵山のシンボルにしては小さめの堂宇に地蔵があるが、地蔵山の地蔵はこれではなく入って右にある建物の中に祀られている延命地蔵尊らしい。この正面の地蔵は庚申塔や庚申聖観音と共に門を入って左にあったのだが、正面に移動したようだ。

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延命地蔵のある建物の裏手に回ると大きな丸彫地蔵菩薩が無縁仏の中に立っている。この2m近い地蔵菩薩は庚申講中によるもので、資料によると「奉待塁年庚申擬供養起立地蔵菩薩」と書かれているようだ。台座には寛文10年(1670)孟冬(10月)の年紀があり数名の願主名が刻まれているらしい。

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地蔵菩薩の左後ろに板碑型の石塔が2基、万年塀に立てかけてあるが、この後ろの石塔が実は元禄9年(1696)霜月(11月)造立の庚申塔。右上が少し欠けて波打っているように見える。正面には「奉造立庚申待講中二世安樂処」とあり、武州豊嶋郡上尾久村の銘がある。下部には12人の願主名があり、三猿があるのだが見えない。文言は資料を参照した。

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入口の方に戻ると、かつてあった場所にそのまま残っている補修された板碑型の庚申塔がある。造立年は万治元年(1658)霜月(11月)と相当古いもの。「武州豊嶋郡上尾久村」と脇に刻まれ、下部には8人の願主名がある。

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少し道路側には欠損して破片のようになった3基の石仏がある。実は右の2基はひとつの庚申塔で、資料によると寛文9年(1669)霜月(11月)の造立。正面には「奉供養庚申待二世安樂所」とあったようだ。しかし戦災で破損したのを修復しきれなくなって上部が右側、下部が中央の石塔としてかろうじて残っている。左の石仏の欠損だらけで、これは延宝6年(1678)11月造立の聖観音像。これも実は庚申講中によるものだという。説明板によると風化によって破損したとあるが、もともと戦災で壊れたものを何とか補修していたものがもう持たなくなってしまったのだろうと思う。なかなか貴重な庚申石仏であり、この状態であっても保存されているのは素晴らしいと思う。

場所  荒川区西尾久2丁目25-21

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2021年12月29日 (水)

華蔵院薬師堂墓地の石仏(荒川区東尾久)

華蔵院の南約150mの所に華蔵院薬師堂墓地がある。明治時代の地図を見てもこの場所は墓地の印があるので、江戸時代から続く墓所なのだろう。この薬師堂墓地には本堂のある華蔵院よりも立派な六地蔵がある。

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2基の丸彫の地蔵菩薩の前に整列するように六地蔵が並び、右側には墓石の地蔵や観音が並ぶ。左の六地蔵の手前にある石柱は、大乗妙典六十六部供養塔。武刕豊嶋郡上尾久村 行者清右衛門入道信善と書かれているので、信心深い清右衛門さんが奉納したのだろう。

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六地蔵はなかなか見事なもの。一番左は庚申講中奉納の地蔵で、「奉造立六地蔵庚申講中為二世安楽也」「三屋同行七人」とある。造立年は宝永2年(1705)3月。二番目も宝永2年(1705)2月で「奉造立六地蔵為信栄清縁菩提也」「施主江川氏」、そして三番目も宝永2年(1705)2月の造立で、「奉造立地蔵為講中二世安樂也」とある。四番目は元禄16年(1703)7月の造立でこれも「奉造立地蔵為講中二世安樂也」とある。五番目も元禄16年(1703)8月のもので、「奉造立六地蔵為本立院妙感▢」「願主 森下氏」、一番右の地蔵は一番古く元禄15年(1702)霜月(11月)造立。元禄時代の豊かさを感じさせる六地蔵である。

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奥の丸彫地蔵菩薩は小さい方が享保7年(1722)5月、大きい方が明和4年(1767)8月の造立。左の台石には「為二世安樂 願主 清心」とあり、右の台石には「三界万霊 開眼供養導師法▢▢▢」とある。明るく開放的な墓所で、そこに立っていると何となく落ち着く場所であった。

場所  荒川区東尾久8丁目34-8

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2021年12月28日 (火)

華蔵院の石仏(荒川区東尾久)

華蔵院(けぞういん)は隅田川尾久橋の少し西にある真言宗の寺院。創立年代は不詳で、室町末期から江戸時代初期辺りの開山と言われる。江戸末期には寺子屋が開かれ、明治になってからは小学校を開くなど、教育現場になってきた歴史がある。

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立派な山門をくぐると正面には本堂があり、左手に墓所が広がっている。沢山の石仏石塔があり、大型の宝篋印塔や五輪塔なども複数あって壮観である。本堂手前には五輪塔を中心に、卵塔がならんでいるが、その卵塔と対を成すように左側に角柱が立っている。

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もとは地中深く埋まっていたのを引き出したのか下部が整えられていない。この角柱は庚申塔で、造立年は享保9年(1724)11月。正面には「奉庚申供養九橋講中二世安樂祈所」とある。九橋というのはいったい何だろうかと考える。横には「武州豊嶋郡上尾久村」とある。裏には「此地内永代田端村から▢▢より為請取此書印仕候もの也」とあるが九橋の意味は分からない。

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この手前には手水鉢があり「當村東講中」とある。どんな講中だろうか。向こう側には安永7年(1778)11月の年季が入っている。手水鉢もじっくり見ると面白い。

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近くにあったのは珍しいタイプの馬頭観音菩薩。 頭上にくっきりとした馬頭が載り、三面六臂の姿にやさしい顔。馬頭の馬の顔も笑っているように見える。年紀などは書かれていないのか消えてしまったのか分からない。

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こちらは同定できなかった石仏で、蓮花を持つ観音の様子なのだが18本の手がある。年紀も不明なら像の正体も私にはわからない。しかし不思議な魅力を醸し出している。

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その先には自然石の片面を磨いた馬頭観世音菩薩。正面部分の石色が違うのは色付けしてあるのだろうか。年紀は不明。墓石でない石仏が次から次へと見つかって楽しめる。

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本堂の右手に行ってみると、織部燈籠らしきものがあった。いわゆるキリシタン燈籠である。意外とキリシタン燈籠はあちこちで見つけることができる。寺院の燈籠にキリスト教の象徴を持ち込む日本文化の柔軟性が産んだもの。年紀等は刻まれていないが、江戸時代のものであることは間違いないだろう。

場所  荒川区東尾久8丁目46-2

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2021年12月27日 (月)

大林院の石仏(荒川区西尾久)

都電荒川線の宮ノ前駅の前には八幡神社がありそれで宮ノ前という駅名になっているのだが、この八幡神社の北側には大林院という寺院がある。曹洞宗の寺院で寛永20年(1643)に三田の功雲寺内に開山。現在の西尾久の場所には願勝寺があったが明治になって廃寺となり、その跡地に三田から移転してきたというちょっと変わった経緯である。

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三田の聖坂と国道1号線の間の斜面一帯は江戸時代数十の寺院が集まっており、功雲寺はその中でも最大の寺院で現在の都立三田中学校と普連土学園の敷地がすべて功雲寺だった。その中に大林院もあったわけである。一方の廃寺となった願勝寺は江戸時代八幡社の別当寺として江戸時代にあった八幡堀用水を挟んで広い境内を持っていたようだ。

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本堂手前には真新しい高王白衣観音があり、その前に地蔵と聖観音像がある。白衣観音は平成14年(2002)のピカピカのものだが、手前の舟型の地蔵菩薩立像は寛文11年(1671)6月の造立と古い。右の舟型の聖観音像も造立年は正徳2年(1712)1月と古いものだが、どちらも墓石と思われる。

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白衣観音の脇には時代物の石仏が多数並んでいる。上の写真の左端は享保7年(1712)1月造立の笠付角柱型庚申塔。日月、青面金剛像、2鶏、邪鬼、3猿が陽刻されており、右側には「奉造立庚申供養為現當也」とあり、左側には「武州豊嶋郡上尾久村」の銘がある。二番目の少し大きな笠付角柱型の庚申塔は正徳3年(1713)11月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、右側面の文字は同じく「奉造立庚申供養為現當也」、左側面の「武州豊嶋郡上尾久村」の銘も同じである。これらは願勝寺から受け継がれたものとされている。三番目は舟型聖観音像だがこれは六十六部供養塔、明和3年(1766)8月の造立。その右にも不動明王像、地蔵、さらに不動明王像と並んでいる。

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向かい側には黒っぽい石材の聖観音像で元禄3年(1690)8月の造立、右の白っぽい石材の如意輪観音像は宝永2年(1705)6月造立のもので、これらはどちらも墓石。江戸時代にはこういう素晴らしい墓石が沢山造られている。なお大林院には正和5年(1316)の板碑もあるようだが、訪問時は見つからなかった。

場所  荒川区西尾久3丁目9-5

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2021年12月26日 (日)

延命子育地蔵尊(荒川区西尾久)

下町の遊園地というと浅草花やしきが筆頭だが、あらかわ遊園も負けず劣らず年少の子どもたちが楽しめる場所らしい。今は改装の為休園中で令和4年春(2022年春)にリオープンするようだ。遊園地の開設は大正11年(1922)5月。船方のレンガ工場を廃止して荒川遊園が開園。戦災でひどくやられたが、昭和25年(1950)に再開園して人気を博した。

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遊園地から南へ下ったところに大きな地蔵堂がある。昔は石仏の一部が道路の西側にあったらしい。戦後になってこちら側(東側)に建て直されまとめられた。地蔵堂の中には沢山の石仏が納められていて驚く。

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向かって右の壁沿いにあるのは、供養塔と庚申塔。手前の黒っぽい石塔はもともとは笠付角柱型だったのが笠欠となっている。六十六部供養塔で、中央には「南無阿弥陀佛」とあるが年紀は左側面にあるのか手前から読み取ることはできない。中央の板碑型庚申塔は上部と側部が大きく欠損している。荒川区の史料では享保6年(1721)の造立で、中央には「奉供養庚申待 二世 安樂所」とある。一番向こうの板碑型庚申塔は集めの石柱。「奉供養庚申講中諸願成就攸」とありその横に「武州豊嶋郡上尾久村講中」とある。造立年は宝永7年(1710)である。

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奥の壁際の右h氏にある板碑型の石仏は宝永2年(1705)菊月(9月)とある。中央には「▢▢養日待講中念願成就攸」とあり、脇に「(武)州豊嶋郡上尾久村講中」と書かれている。

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その隣にあるひときわ大きな板碑型の石仏も日待塔である。中央には「奉供養日待講成就一結衆生現世安穏祈所」とある。その右には「武州豊嶋郡上尾久村」の銘、造立年は寛文9年(1669)11月と古いものである。これら日待塔2基はもともとは道路の西側にあったものらしい。

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正面に当たるところにある、上の写真では右側の地蔵が延命子育地蔵尊で、説明板によると造立年は寛永20年(1643)と江戸時代初期のものである。左側の阿弥陀如来像は時代が新しいもののようだが(台石には昭和50年7月とあるがこれは台石の再建年か)、何しろ堂内は暗くて中には入れないので焦点距離を眺めにしてブレないように撮るのが精一杯だった。

場所  荒川区西尾久6丁目32-4

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2021年12月25日 (土)

船方神社の十二天塚(北区堀船)

延命寺のすぐ東にある船方神社はとても古い神社で神亀2年(725)の創建とされる。元は帝釈天をはじめとする十二天社として信仰されてきたが、明治4年(1871)に船方神社という名前になった。もともと船方村の鎮守であった。江戸時代は鬱蒼とした森の中にあり、十二天の森(あるいは十二天社)と呼ばれていたらしい。

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昔、この地域を治めていた荘園領主豊嶋清光は子宝に恵まれず、熊野権現に祈願したところ一人の姫を授かった。成人して足利少輔に嫁いだが、姫は心無い仕打ちを受け入間川(中世の川名で江戸時代は荒川、昭和になって隅田川となった)に身を投げ、十二人の侍女もまた姫を後追いして入水したという件(くだり)が江戸六阿弥陀伝承にある。十二天はこの侍女たちと帝釈天などの神々を重ねて呼んだものである。密教ではこの事件を弔い塚を築いて鎮魂したという。

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本殿の奥には今でも鬱蒼としたエリアがあり、そこには大きな2基の自然石による石塔がある。左の塔には「村社船方神社祭神 日本武尊 大国主神 少彦名神 猿田彦神 鎮座」とある。右の石塔には「十二天塚」と大きく彫られている。

六阿弥陀信仰は江戸時代に隆盛し、今でも8寺を廻る江戸六阿弥陀がある。六阿弥陀なのに8寺とはと思うが、奈良時代の高僧行基が一晩で作ったという6体の阿弥陀仏のほかに余り木で1体の阿弥陀仏と1体の観音を造ったため、8体になった。その8寺は以下の通りである。

1. 西福寺(北区豊島)、2. 恵明寺(足立区江北)、3. 無量寺(北区西ヶ原)、4. 与楽寺(北区田端)、5. 常楽院(調布市西つつじヶ丘)、6. 常光寺(江東区亀戸)、7. 性応寺(足立区扇)、8.昌林寺(北区西ヶ原)。7が木余りの阿弥陀像で、8が木残の観音である。

場所  北区堀船4丁目13-28

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2021年12月24日 (金)

延命寺の石仏(北区堀船)

舩方山地蔵院延命寺は真言宗寺院で、応永年間(1394~1428)に小橋(北区西尾久6丁目)に創建した。延宝6年(1678)に十二天社(現在の船方神社)の別当となり現在地に移転した。小橋というのは現在のあらかわ遊園あたりで、今も地元には小橋町会という町内会が残っている。

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創建された応永年間は室町幕府全盛期で足利義満を継いで足利義持が将軍だった時代。南北朝時代が終わり天皇家が一本になったすぐ後の時代である。本堂に入ると左手に石仏が多数並んでいる。手前の真新しい石塔には、「西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番、観音霊場」と刻まれている。

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中央にある五輪塔を中心にその左にあるのが貞享3年(1686)霜月(11月)造立の聖観音像で、「奉供養念佛二世安樂也」とある。おそらくは念仏講によって建立されたものだろう。

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なかなか質の高い聖観音像だが、右側にある庚申塔もなかなかのものである。シンプルな駒型だが上部に大きな日月が陽刻され、下部には三猿が彫り込まれている。

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間の文字は「奉供養庚申講中當所安穏処」とあり、脇に正徳2年(1712)10月の年紀と、武刕豊嶋郡舟方村の銘がある。側面には願主名が8名ほど刻まれているが苗字はなく理左衛門、惣兵衛などの名前であった。

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庚申塔の右には、駒型の如意輪観音像。これは墓石で、宝暦3年(1753)12月と、宝暦12年(1762)10月の命日が見られる。右の舟型光背型の小柄な聖観音像も墓石で、こちらは正徳2年(1712)5月の年紀が入っていた。

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西の墓所の入口には立派な宝篋印塔が立っていた。造立年は享保11年(1726)6月。武刕豊嶋郡舩方村の銘がある。明治以前は舩=船で、私の知り合いにも船木さんだけでなく舩木さんもいて、長い間日本では特に深い区別なく使われて来たらしい。

場所  北区堀船4丁目10-12

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2021年12月23日 (木)

福性寺境内の石仏(北区堀船)

堀船という地名は梶原堀之内村と船方村(舩方村)の合併によって出来た地名であり、梶原は太田道灌の孫である梶原政景の邸及び墳墓があったことから来た地名である。梶原氏の屋敷があったのは現在の王子ポンプ所の辺りの隅田川河畔で、江戸時代中期の享保年間(1716~1736)まではそこに梶原塚という墳墓があって多くの石仏石塔が立っていたが、洪水によって崩れ流された。その後村人が修復をしていたが、やがて石仏石塔は福性寺へ移されたという。

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エキゾチックな八角堂の乗った本堂が特徴の福正寺には多くの石仏石塔があり、その中の一部しか紹介できない。山門をくぐると正面にこの本堂があり、その為左のひときわ高いのが舟型光背型の聖観音立像。これは梶原を領地にしていた水野家(愛宕地蔵尊にも登場)の水野藤右衛門の長男信定の墓石で、造立年は延宝8年(1680)8月と刻まれている。

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とても大きな聖観音菩薩で彫りの質も極めて高い。水野家は鷹匠でもあったようで、旗本の中でも有力者だったと思われる。寺の情報では水野家の菩提寺は本駒込の吉祥寺(武蔵野市吉祥寺のもとになった寺院)だが、この寺に埋葬された理由は分からない。

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本堂向かって右には涅槃像があるがこれは新しい。その手前には梶原塚から移設されたという石仏や宝篋印塔があり、その中にひときわ目立つ素晴らしい庚申塔がある。この一帯を梶原塚と呼んでいるようだ。舟型光背型の庚申塔は、日月、三面の青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されており、おそらくショケラを持ってたであろう左手部分は欠損している。造立年は享保3年(1718)12月で、造立後まもなく洪水にあったのだろうか。尊像右には「奉供養庚申爲二世安樂也」とあり、基壇には「豊嶋 梶原堀之内村 願主 拾四人 巣鴨村 ▢▢」とある。

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山門迄戻ると、山門脇に六面幢地蔵があり、その脇にある3基の石仏が存在感を醸し出している。六面幢は明治30年(1897)3月の造立で、願主久保田林造、大工(石工)吉五郎の銘がある。明治期の石仏は廃仏毀釈のためか質の悪いものが多いがこれは立派なものである。

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六面幢の左にあるのは舟型光背型の地蔵菩薩立像で、天和2年(1682)9月の造立。尊像右には「奉供養庚申二世安樂処也法主敬白」とあり、左の年紀の下には「武刕豊嶋郡梶原堀内村」の銘がある。

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六面幢の右側には前後2基の石仏がある。手前の舟型光背型の地蔵菩薩立像は元禄10年(1697)2月の造立。右上に「奉造立地蔵尊庚申供養祈所講中」とあり、左の年紀の下には「結衆敬白十四人」と刻まれている。後ろに並ぶようにくっついている舟型光背型の聖観音菩薩立像もまた庚申塔で、「奉造立庚申待講中二世安樂所敬白」と書かれている。造立年は元禄元年(1688)10月と古いもの。「堀之内村十三人」という願主も刻まれている。

場所  北区堀船3丁目10-16

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2021年12月22日 (水)

福性寺門前の石仏(北区堀船)

福性寺は北区堀船にある真言宗の寺院。寛永2年(1625)の創建で、本堂上に建つ昭和39年(1964)建立の八角堂が何処かエキゾチックな雰囲気を醸し出している。山門よりずっと手前に門柱が立っておりその脇向かって左に複数の石仏が祀られている。向かって右側は白山神社でこちらは福性寺よりもかなり古いようだ。

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堀船の地名は、江戸時代に合った堀之内村と船方村が昭和7年(1932)に合併してできた。それ以前のこの地は梶原堀之内村とよばれ、室町時代に太田道灌の孫である梶原政景が現在のポンプ所の辺りに屋敷を構えその屋敷堀の内にあった土地なので堀之内と名付けられたという。白山堀など堀に関する地名も残っている。門柱の左脇には、新しい石仏と古い石仏が混じっている。

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中央の屋根付堂宇の中にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像で、これが延命地蔵尊と呼ばれるもの。後ろに「お賽銭はインド・チベット・スリランカの子ども達の奨学金になります」とあるのは、福性寺が30年来続けている仏教徒海外奨学資金のことである。丸彫の地蔵には文字が見当たらず造立年などは分からない。

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堂宇の左側には2基の古い石仏が並んでいる。右側の舟型光背型の地蔵菩薩立像は明和7年(1770)1月の造立。尊像左に書かれている文字は「六あミだ 左一番目道」と読めるが、どの道を指示しているのかは分からない。左側の白っぽい板碑型の石仏は庚申塔である。おそらくゼニゴケをきれいにしようとしてこんな風になってしまったのだろうと思う。古いもので造立は寛文3年(1663)10月。「奉造立石塔壹基信心 施主現世安穏後生善處故也」と書かれている。

場所  北区堀船3丁目11-3

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2021年12月21日 (火)

愛宕地蔵尊(北区堀船)

都電荒川線の堀船駅から北へ福性寺を訪ねようと商店街を歩いていると商店街の中程に地蔵堂があるのに気づいた。「愛宕地蔵尊」ののぼり旗が立てられている。商店街は「堀船銀座通り」という。全国には〇〇銀座という通りが300以上あると言われているが、東京にも100ヶ所近い〇〇銀座があり、ここもそのひとつである。

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なかなか立派な地蔵堂で花や供え物も多いので地元の人々の信仰も厚いのだろう。祀られている地蔵菩薩は舟型光背型の地蔵。年紀などの文字は痕跡はあるもののほとんど消えてしまって読むことはできなかった。

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説明書きによると、江戸時代にこの地を領有していた水野家の大名屋敷が本郷にあり、その屋敷内から当地に住んでいた小泉家が勧請したものと伝えられる。眼病平癒と防火の祈願仏としてご利益があり信仰されてきたという。縁日などでは福性寺が執り行っているらしい。

場所  北区堀船3丁目33-3

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2021年12月20日 (月)

栄町延命地蔵尊(北区栄町)

JR王子駅とJR西日暮里駅の間、京浜東北線および新幹線と東北本線(高崎線)は300mほど離れて走っている。二つの線路の間にあるのが栄町の一部と上中里および東田端である。この鉄道に囲まれた島の住民は数少ないルートで鉄道を越える。もっとも王子駅寄りの栄町エリアでは京浜東北線を越えて飛鳥山に至る跨線歩道橋と東北本線を地下で潜る広町地下通路のみである。

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広町地下通路を北の明治通り側に出たところに栄町延命地蔵尊がある。中心となる地蔵尊は鋳造で昭和55年(1980)5月に開眼供養が行われている。そういう場所なので鉄道を渡ろうとして轢死した人が多かったため、その犠牲者の霊を慰め供養する目的だと書かれている。右側の屋根下にも2基の石仏(地蔵)があるが年紀は不明。延命地蔵としては新しいものだが、街の歴史と日本の発展の間の犠牲者の冥福を祈るばかりである。

場所  北区栄町21-2

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2021年12月19日 (日)

池袋六ツ又子育地蔵尊(豊島区東池袋)

池袋の六ツ又と言えば首都高速と明治通りが3階建ての立体交差になっている六ツ又陸橋だが、その近くにある帝京平成大学の前に立派な堂宇があり、そこに六ツ又子育地蔵尊が祀られている。

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この場所は大学が土地を購入して建設される以前は区立時習(じしゅう)小学校があった場所である。当時は小学校の脇に地蔵堂があったようだ。現在の地蔵は新しいもので昭和31年(1956)の再建。しかし平成15年(2003)に時習小学校が閉校する以前の状態を私は知らない。地蔵堂傍にある紀念碑には世耕弘一氏が尽力した様子がうかがえる。世耕弘一氏は現在の世耕衆議院議員の祖父にあたる。

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再建された地蔵の後ろに古い地蔵がほぼくっついて残されているようだが、年紀などを読み取ることはできない。この六ツ又地蔵は巣鴨真性寺の六地蔵の分身と言われ、江戸時代の絵図にも描かれているという。おそらく200年以上は確実だろう。江戸時代以前は明治通りのこの辺りの筋は鎌倉街道で、江戸時代になってからも川越街道と中山道を結ぶ街道であった。

場所  豊島区東池袋2丁目51-4

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2021年12月18日 (土)

上尾久村の馬捨場跡(荒川区東尾久)

もとは隅田川の川上50mほどの所にあったが、平成12年(2000)にスーパー堤防の建設にあたり、現在の祠や石造物がこの場所に移設された。かつて荒川沿いのこの辺りは秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑に使ったり牛馬の飼料にしたりする草の採取地のことである。大正時代まで秣場という地名でもあった。

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明治の終わりの地図にはこの少し川下に人造肥料會社と書かれているがおそらく秣場と関係があるのだろう。この秣場の中に馬捨て場があった。大切な生活の力であった牛馬は死ぬとこの場所で解体され、革製品などになっていった。一方で庶民にとっては祈りの場所にもなっていったのである。

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川上側に並ぶのは一番手前の燈籠、隣には小さな燈籠らしきもの、続いて扇型の手水鉢、墓石の聖観音が2基、不動明王、舟型の地蔵菩薩が2基と並んでいる。奥から二番目の舟型地蔵は墓石ながら享保14年(1729)3月の年紀がある。大きい方の聖観音像は元禄6年(1693)6月、小さい方の聖観音像は享保8年(1723)4月の造立である。

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一方の川下側には、燈籠、となりに可愛い地蔵がペアで、そして舟型地蔵は正徳年間(1711~1716)、その横に新しい駒型の馬頭観音、そして元禄8年(1695)9月の舟型地蔵、丸彫の地蔵菩薩とならぶ。

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新しめの駒型の馬頭観音には小さな地蔵と花が添えてあり、側面には昭和6年(1931)1月の年紀が刻まれている。施主名が関矢とあるが珍しい苗字である。調べてみると新潟県の関屋村に起源がある苗字らしい。

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一番奥にある事前石の馬頭観世音はかなり大きなもので、裏側に回ると大正15年(1926)6月建之と書かれている。なかなか立派な馬頭観音だが、よほどかわいがっていた家畜だったのだろう。

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川側の祠に納められているのが荒川区最古の庚申塔と、露払い太刀持ちの位置にある2基の馬頭観音である。手前右の舟型の馬頭観音は文字が見当たらず縁起がわからない。左の駒型の馬頭観音は天保12年(1841)のもの。そして後に立つ板碑型の石仏が寛永15年(1638)12月の庚申塔である。都内でも最も古い時代のものである。文字が読めないので資料から引用すると、中央には「奉供養庚申待三ヶ年成就所」とあり、下部に願主7人の銘がある。

場所  荒川区東尾久7丁目4

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2021年12月17日 (金)

天照寺の猿田彦大神(荒川区東尾久)

萩原健一と水谷豊の大ヒットドラマ『傷だらけの天使』でショーケンの部屋にあったのは「天照大神」の掛軸で、それを見た水谷豊が「てん・てる・だい・じん」と読んだのでお茶の間で爆笑した。昭和の楽しい想い出である。勿論天照大神は「あまてらすおおみかみ」である。下尾久石尊のすぐ近くにその名を冠した天照寺がある。しかしこの寺を見つけるのは至難の業である。

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この路地の突き当りにある白い壁の民家が天照寺である。どこにも天照寺という扁額などはない。しかし玄関の引き戸の手前の足元に一基の石塔がある。自然石に「猿田彦大神」「地付龍神」と彫り込まれている。

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裏面には昭和30年(1955)1月の年紀と清水周吉の名前がある。足立区の発行した庚申塔の資料がなかったら気づいてはいない。資料に書かれているのは、「知人からもらったものという。移入元は不明」とある。上部の欠損からして戦火はくぐっているだろうと思い、区の資料の写真を見ると上まであり、玄関に立てかけてある。やはり昭和30年のものに違いない。

場所  荒川区東尾久6丁目22-15

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2021年12月16日 (木)

下尾久石尊(荒川区東尾久)

大門通りの西には石門通りという名の古い道がある。江戸時代はこの通り沿いに用水路が流れていた。この水路は下尾久村と上尾久村の村境でもあった。石門通りの由来は分からないが、南の端の都電荒川線脇の通りへの入口の両脇に石門があり「石門通り商工会」と書かれている。北の端の北豊嶋中学校とセブンイレブンの間にもずっと大きな「石門通り商工会」と書かれた対の石門があったが2015年頃に撤去された。

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この石門通り、明治時代はまだ用水路だけで、通りはもっと大門通りよりを走っていた。その途中にあるのが下尾久石尊である。元々は阿遮院持ちの地蔵堂で、文字通り石神を祀る社だった。堂内には不動明王像などもあるが、主尊は両側の白い大きな岩である。

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暦應年間(1338~1342)、頻発する地震に村人が不思議に思ってこの場所にやってくると、地面から2尺余りにょきっと大きな岩が出現していた。異形な石が生えていたという風に語っている。これを石神と崇め、祈るようになったのが下尾久石尊の始まりらしい。この石神を祀る講中は出世講と呼び、現在も続いていると書かれている。

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堂宇の左には板碑型の庚申塔がある。残念ながらゴミ捨て場のネットが無造作に置かれていて不遜であった。庚申塔は上部に日月が刻まれ、「奉供養庚申講為二世安楽也」と書かれている。下部には願主12人の銘がある。造立年は元禄11年(1698)11月。しかし庚申塔がゴミ置き場になっているのは悲しい。

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堂宇の右手にはひときわ大きな供養塔が立っている。上部に日月が陽刻されているが、湯殿山、月山、羽黒山の三社供養塔とある。造立年は明治14年(1881)7月。基壇には「講中」と大きく書かれ、当村講中、上尾久村、下尾久村、町屋村、三河嶌の銘がある。下尾久石尊に集まるその他の石仏石塔は、石尊そのものへの信仰が深いからだろうと思われる。

場所  荒川区東尾久6丁目31-2

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2021年12月15日 (水)

大門通りの子育地蔵尊(荒川区東尾久)

都電東尾久三丁目駅からくねくねと曲がりながら北に向かう通りを大門通りという。途中に大門湯という銭湯がある。そのまま北に進むと新しい尾久の原防災通りに出てやがて大門小学校に至る。都電荒川線は大正時代からあり、関東大震災以前からの電停名は下尾久であった。昔、この辺りの地域を大門村と呼んでいたらしい。

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大門湯と防災通りの間に数坪の境内をもつ子育地蔵堂がある。玉垣には昭和10年(1935)9月という年紀と「阿遮院地蔵講一同」という文字が彫り込まれている。阿遮院は尾久三丁目駅の南にある真言宗の寺院で尾久では最古の寺院と伝えられる。現在は都電で地域が区切られているように見えるが、昔は一体で大門村だったのだろう。

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堂内には丸彫の地蔵立像と舟型の小さな地蔵があった。造立年は不明だが、堂内の板書には大正13年(1924)7月、石神子育地蔵尊とあった。しかし江戸時代の切絵図を見るとここには既に地蔵堂が存在しており、ずっと古いものではないかと思われる。

場所  荒川区東尾久6丁目12-25

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2021年12月14日 (火)

満光寺の石仏(荒川区東尾久)

都電荒川線町屋二丁目駅と東尾久三丁目駅の間にある満光寺は、江戸時代の初期に天台宗から浄土宗に改宗し、かつ上野からこの地に移転してきた。創建は室町時代と言われ、もとは上野二葉村にあったという。二葉村は二葉郷広沢村ともいい、現在の上野駅の近くだったが、寛永寺が大伽藍を築くにあたり追い出されたようだ。二葉村はその後坂本村(坂本町)となったがそれは比叡山を真似て東叡山寛永寺を築いた折に比叡山の坂本を模して坂本村としたという経緯。

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山門は派手な造りで、その左脇の塀に築かれているのが二葉地蔵尊。これはおそらく上野二葉村時代に由来するものだろうと覗いてみたが、最近の造立らしく子育地蔵の座像が2体あるだけであった。

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山門をくぐり、左に回り込むと数体の石仏が並んでいる。右の端にあったのが舟型光背型の地蔵菩薩立像。ただこの地蔵は庚申講中によるもので、光背には日月が刻されている。「奉造立地蔵菩薩庚申供養為講中二世安楽也」と書かれており、造立年は正徳3年(1713)10月。首の部分が斜めに折れた痕跡があるが補修してある。

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隣の板碑型の石仏も庚申塔である。古寺時代のもので造立年は承応3年(1654)2月8日。旧暦の2月8日は現代の正月だから年始に建てられたもの。中央には「奉待庚申三箇年二世安楽處」と書かれており、願主14人の名前が刻まれている。

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その隣には丸彫の地蔵菩薩立像がある。左腕の袖には寛延元年(1748)10月の造立年があり、施主名正本某の名がある。本寺院の創建に至っては開基を上野二葉村の名主二葉和泉守としている。二葉家ゆかりの寺院でもあるようだ。上記石仏の他に6基の室町時代の板碑もあるらしいが開示はされていなかった。

場所  荒川区東尾久3丁目2-4

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2021年12月13日 (月)

慈眼寺の石仏(荒川区町屋)

慈眼寺は真言宗の寺院。創建は慶長3年(1598)で現在は慈眼寺ビルとも呼べそうな立派なビルになっている。寺の説明板では別名朝日薬師とよばれ、もともとこの地には朝日薬師があり、眼病や妊産婦の乳の出がよくなることに御利益があると村人の崇敬を集めていたようだ。いっぽう慈眼寺はもとは100mあまり北にあり、現在の町屋第二児童公園あたりだったという。朝日薬師である薬師如来像は寺院の本尊として今も信奉されている。

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それが江戸時代にこの朝日薬師の地に移転したらしい。寺の角には2基の石塔が立っている。左は剥離が激しくて文字が読み取れないが、どちらも弘法大師碑のようだ。剥離している左の方が明治33年(1900)4月の造立で、右はうっすらと「文化」の文字が見えるので江戸時代の文化年間(1804~1818)のものではないだろうか。

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境内に入り本堂前に進むと立派な宝篋印塔があり、その傍に馬頭観音がある。自然石を削って作ったものらしく正面に「馬頭観世音」と書かれ、脇に昭和3年(1928)3月の年紀が刻まれている。

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その後ろにも自然石を削ったようなもう一基の馬頭観音がある。これも「馬頭観世音」と刻まれているが年紀はなくいつのものかは不明である。「馬」と「頭」の間で折れて補修されているが戦災によるものだろう。なお寺の説明板には「境内には寛文3年(1663)銘および延宝6年(1678)の如意輪観音を刻した石塔ほか、多数の石造物がある」と書かれていたが見つからなかった。

場所  荒川区町屋2丁目20-12

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2021年12月12日 (日)

一本松の庚申塔(荒川区町屋)

荒川区町屋と足立区千住の間の隅田川の蛇行は江戸時代からほぼ変わっていない。この逆S字型の川の流れの両岸は見渡す限りの田んぼだった。賑わう現在の町屋駅周辺も隅田川沿いもすべてが田圃である、そんな中でこの町屋の一本松のある場所の意味を考える必要がある。

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都道尾竹橋通りから旧道らしい曲がりの分岐道に入ると広場と公衆トイレがあり、その一角に笹に囲まれて一本松の植えられたグリーンスポットなる植込みがある。昔から町屋の一本松と呼ばれた4坪ほどの丸い小丘を成す庚申塚がここにあった。ここに一本松と庚申塚があるのは、この場所が江戸時代は三河島村との村境であったためである。残念ながら先代の松は空襲で焼けて枯死したという。現在の松が何代目なのかは分からない。

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松の根元に一基の板碑型庚申塔が立っている。造立年は寛文8年(1668)9月とかなり古いもの。正面には「奉造立庚申供養一基二世安楽所」とあり、願主7人の銘がある。これより南西が町屋村原、北東から東が三河島村荒木田でその塞ノ神だったのだろう。この小さな植込みは一本松グリーンスポットという名称で平成6年に整備されたとある。

場所  荒川区町屋1丁目9-3

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2021年12月11日 (土)

原稲荷の庚申塔(荒川区町屋)

地下鉄千代田線町屋駅のすぐ北の路地奥にある原稲荷神社は創建年は不詳ながら、天正18年(1590)徳川家康の江戸入府に伴って三河国の百姓が町屋に移ってきた時に創建されたという言い伝えがある。通称は町屋稲荷とも呼ばれる。東京都神社名鑑による原稲荷神社の由緒には正保4年(1647)の庚申塔および明暦3年(1657)の庚申塔があると書かれているらしいが、後者はない。

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社殿の右側を奥に進むと板碑型の庚申塔が立っている。これが正保4年(1647)2月造立の庚申塔である。中央には「奉造立庚申」とあり、その下には線刻で阿弥陀三尊像が描かれている。

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阿弥陀像左側には「待供養為現當安楽也」と刻まれている。また下部には同じく線刻で二猿が描かれており、お互い向き合っている。写真を拡大してみて頂ければと思う。

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この庚申塔は町屋村4組8名の夫婦によって建立されたもので、中世に多く作られた板碑の形式をとりながら江戸時代の庚申塔への移行の途中段階にあるものとして極めて珍しい。説明柱によると「阿弥陀三尊来迎図像庚申塔」という名前で文化財登録されているようだ。ちなみに原稲荷の原というのはこの辺りの江戸時代の地名である。500mほど西の慈眼寺周辺には江戸時代から多くの民家があったが、現在の町屋駅の北西側は田畑の広がる原であったからだろうか。

場所  荒川区町屋2丁目8-7

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2021年12月10日 (金)

巣鴨庚申堂(豊島区巣鴨)

巣鴨地蔵通りは文字通り高岩寺のとげぬき地蔵に由来する通り名であるが、もともとはこの通りは五街道のひとつ中山道である。江戸から出る時、江戸に入る時、身支度を整える目的で立寄る宿場的な街があり、東海道であれば品川宿、甲州街道は追分新宿、奥州街道(日光街道)は千住、そして中山道は板橋宿だった。巣鴨の位置は第一宿の板橋と日本橋の中間で旅の人も江戸の人も気軽に行けただろう。

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巣鴨地蔵通りの北の端は都電庚申塚駅の手前の猿田彦大神を祀る巣鴨庚申堂である。小さなお堂だがひっきりなしに参詣者が訪れる。入口脇には庚申塔造立五百年とあるが、由来は古い庚申塔にある。かつて祀られていたのは文亀2年(1502)銘で2mを超える庚申塔で、明暦の大火で当たりが焼け野原になった時に新たに造られた石塔(庚申塔)を現在は祀っているようだ。

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庚申堂は道路よりも1mほど高くなっており、ここが塚であったことが想像できる。階段脇には三猿の基壇に乗った御幣猿の像が対で並んでいる。基壇の裏を見ると、昭和62年(1987)2月に浅草の水野氏が奉納したものらしい。明暦3年(1653)の庚申塔は奥の堂宇の中に祀られているが、扉が閉ざされており拝見できない。

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資料によると堂内にあるのは、明暦3年(1657)3月造立の板碑型の庚申塔で、「奉造立石塔一基庚申現當二世攸」とあるようだ。正面には20人の願主名が刻まれている。由来碑に江戸時代の紀行文『遊歴雑記』が引用されている。

「武州豊嶋郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なり。よしず囲いの茶店あり、団子茶屋と称す。(中略)文亀2年に塔を建立、高さ八尺なり。然るに明暦3年正月、世に言う振袖火事の大火起こり、江戸市中九分通りを焼き払う。(中略)たまたま当庚申堂塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり。故に村中相議し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀2年の碑を塚の下に埋めたり(後略)」

場所  豊島区巣鴨4丁目35-2

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2021年12月 9日 (木)

大日堂の石仏(豊島区西巣鴨)

巣鴨大日堂は春海和尚がかつて仕えた徳川秀忠夫妻の没後に夫妻の弔いの布施で豊嶋郡巣鴨村のこの地を買い、石造大日如来坐像を安置する為に承応2年(1653)に大日堂を建立した。今は住宅密集地域だが、当時は巣鴨新田とも呼ばれる地でほとんど人は住んでいなかったようだ。

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写真右の八角堂の中にはレプリカの大日如来坐像が祀られている。というのも本来の大日如来坐像は昭和20年(1945)の空襲によって大きく欠損した為、のちに頭部と両腕は補修されたがその本体は地元の大日坊奉賛会で大切に管理されているらしい。

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レプリカの説明では僧侶春海が徳川秀忠夫妻(台徳院:秀忠、崇源院:夫人徳子)の菩提を祀って大日如来坐像を建立したことが書かれている。本物を見てみたいが、このレプリカでも致し方あるまい。

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大日堂の手前を左に進むと、植込みの中に板碑型の大きな庚申塔が立っている。造立年は明暦2年(1656)3月。「奉修庚申待第三迴座現當二世安楽所」と中央に書かれている。願主名は12名刻まれている。下部には妙美な蓮花が陽刻されている。

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その先にもう一つ堂宇があり、その手前に立つのがこの供養塔。上部は戦災で欠損したのだろうかかなり傷んでいる上に、正面には黒いペンキで心無いいたずら書きがある。延宝3年(1675)10月に造立されたもので、「権大僧都法師」とあるのは春海和尚を偲んでのことだろうか。

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その後ろの堂宇には無縁仏等が集められており、その中のひとつ板碑型の石塔の前にアクリル板が立ててあった。「権大僧都春海上人大覚位」とあり、造立年は明暦3年(1657)2月のようだ。アクリル板には「大日堂を建立したと伝えられる人の石碑」とある。尋ねる人はほとんどいないし藪蚊に襲われるような場所だが、なかなか興味深い大日堂である。

場所  豊島区西巣鴨2丁目15-8

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2021年12月 8日 (水)

盛雲寺の石仏(豊島区西巣鴨)

都電新庚申塚駅と西ヶ原四丁目の間、線路の北西側には寺院が集まっている。アルファベットのUを描くように七寺が並ぶ。地図上では右上から良感寺、清厳寺、善養寺、妙行寺、盛雲寺、西方寺、正法院。三番目の善養寺は先日ご紹介した。この地に越してきた年順では、西方寺(明治24年浅草聖天町より)、正法院(明治38年下谷より)、妙行寺(明治40年四谷鮫河橋南町より)、盛雲寺(明治41年下谷より)、善養寺(明治45年下谷より)、良感寺(大正3年下谷より)、清厳寺(大正11年小日向より)。下谷が多いがあちこちからである。

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本堂の前には2基の立派な舟型の石仏がある。右は地蔵菩薩で百日講によるものらしい。左も地蔵菩薩だが「一切聖霊生極楽國」とある。基壇に年紀の彫られたような痕跡があるが読み取れなかった。クオリティが高いので江戸時代前半のものではないだろうか。

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本堂の裏手に回り込むと、墓所の本堂側に古い板碑型の庚申塔が祀られている。上部に日月、下部には三猿が描かれているが、中央の文字は「奉修庚申待祈願成就也」、造立年は貞享4年(1687)初冬とあるので10月か11月あたりだろうか。しかし何故この地区にこんなに寺が集まったのかは分からず、調べているとここには明治時代後期浄土宗大学という学校があり、明治40年に宗教大学と改名。大正15年には天台宗大学、豊山大学と合併して大正大学となり、現在の練馬区石神井に移転したことが分かった。この辺りはやはり宗教がらみが多い。

場所  豊島区西巣鴨4丁目8-40

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2021年12月 7日 (火)

善養寺の石仏(豊島区西巣鴨)

西巣鴨にある善養寺は天長年間(824~833)に慈覚大師が上野の山に創立した天台宗の寺院というのが寺伝。真偽は分からないが、江戸時代寛文年間(1661~1672)に下谷坂本(後の下谷善養寺町)に移転、境内が鉄道の用地になるということで明治45年(1912)に現在の地に移った。当時の地番が北豊嶋郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚347番地。

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本堂の前の植込みに古そうな庚申塔がある。目立つのは下部の陰刻された三猿。上部には日月があるが、中央は文字で「奉待受庚申供養所願成就攸」と書かれている。願主は51名とかなり多い。造立年は延宝8年(1680)9月とかなり古い部類である。塔型は迷ったが、しいて言えば駒型に近い。

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寺院の説明板に境内には寛永6年(1629)の燈籠があると書かれていたが、境内には燈籠が3基ありどれがそれなのかわからなかった。上の塀沿いの対になったものは古そうだが、同時期の寛永寺の石燈籠に近いデザインは1基のみのほうである。もっと細かく観察すべきだった。

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また墓所入口辺りにある宝篋印塔も立派で、造立年は天明8年(1788)5月とある。江戸時代は東叡山寛永寺の末寺であったが、明治45年までの場所は上野駅から鶯谷駅に向かうカーブの鉄道が走っている線路内にあたり、現在は東北・上越・信越・北陸新幹線、東北本線、常磐線、高崎線、上野東京ライン、山手線、京浜東北線とほぼフルスペック。江戸時代の切絵図には善養寺が描かれている。

場所  豊島区西巣鴨4丁目8-25

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2021年12月 6日 (月)

滝野川庚申塔(北区滝野川)

都電西ヶ原四丁目電停から北へ100mほど進むと分岐する路地の角に2基の石仏が祀られている。向かって左側が駒型の庚申塔、右が舟型光背型の聖観音像である。石仏前の道は昔は王子道といわれた道で、この道筋には反射炉分水という用水路が流れていた。この反射炉分水は大正時代まであったようだ。元治元年(1864)に江戸幕府が大砲を鋳造する為に千川上水を巣鴨で分水、しかし幕府が倒れたことで用水路は出来たが反射炉は使われなかった。

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庚申塔の造立年は元文5年(1720)12月。日月は痕跡のみ残り、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。下部には願主8人銘があり、縁には「是より右王子道」「是より左弁天道」とある。側面には「武州豊嶋郡滝野川村 江府狛込石工 宇兵衛」とあるが、狛込は駒込の誤字だろう。風化の為かなり読めなくなっており資料を参考にした。

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右の舟型光背型の聖観音立像は文字を読む限り戒名が複数あり墓石のようである。一説には安永年間(1772~1781)のものという情報もあったが、左隅に享保4年(1719)8月の年紀が読み取れた。この辺りは江戸時代は滝野川村。実際にこの東側にかすかな谷があり、そこから王子の石神井川に注いでいた滝野川という川があった。北区立滝野川第三小学校の北側をくねくねと曲がった小道があるがそれが滝野川の痕跡である。

場所  北区滝野川1丁目77-11

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2021年12月 5日 (日)

白泉寺の庚申塔(豊島区巣鴨)

巣鴨の北西、中山道でもあった白山通りの東に分岐する朝日通りという道がある。とはいえ本来の中山道は巣鴨地蔵通りであり、現在の白山通りはそのバイパス。関東大震災の後に区画整理され市電が走るようになり開通した道である。朝日通りは明治末期に近辺に白泉寺や本妙寺が移転してきてから通された道。

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白泉寺は慶長16年(1611)に静岡県遠州田中に創建。江戸時代に浅草に移転し、明治44年(1911)にこの地に移転してきた曹洞宗の寺院である。遠州田中は現在の静岡県藤枝市。円形廓(くるわ)であった田中城が有名である。築城は武田信玄。それを落とした徳川家康が拠点としていた。江戸に越してからは浅草北清島町(浅草新寺町ともいい現在の稲荷町駅付近)にあり、明治末に巣鴨に移った。

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境内の稲荷神社の前に小柄な庚申塔が祀られている。猿の彫り方が古い時代を感じさせる。像形は舟型と言っていいだろうか、上部には日月があり、その下に「奉祈庚申供養延命所」と書かれている。造立年も大きく書かれ、万治元年(1658)4月とある。高さは43㎝と小さい。

場所  豊島区巣鴨5丁目32-5

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2021年12月 4日 (土)

本妙寺の石仏(豊島区巣鴨)

江戸の大火といえば、明暦3年(1657)の明暦の大火、明和9年(1772)の目黒行人坂の大火、文化3年(1806)の文化の大火を三大大火というがそれ以外にも大火事は数知れず。その中でも明暦の大火は江戸城を焼き尽くし、10万人以上の死者を出したことで史上最大級の火災であった。明暦の大火はまず1月18日に当時本郷丸山にあった本妙寺から出火(とされているが真偽不明)、翌日には小石川伝通院前と麹町からも火が起こった。この時の主役と言い伝えられているのがこの本妙寺である。

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本妙寺は山門に「徳栄山」とあるように徳川家の繁栄を祈願した寺院で、元亀2年(1571)に駿府浜松に創建、徳川の引越しに追従して天正18年(1590)に江戸清水御門内に移転、その後幾度か引越し本郷に落ち着いたところで明暦の大火となった。しかし特にお咎めを受けたということもなく、実は老中阿部家の屋敷が出火元だったのを罪を被ったとかいろいろな説がある。巣鴨のこの地に越してきたのは明治44年(1911)とさほど昔ではない。

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本堂裏手には明暦の大火の供養塔がある。写真の右側の板碑型の供養塔である。中央に「妙法蓮華経」、右に「一葉所感焼死群類(焦)」、左には明暦の大火があった明暦3年正月18日、19日とある。その隣の釈迦如来坐像も明暦の大火の供養塔らしい。左の無縫塔(卵塔)は安政の大地震の供養塔である。

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墓所へ赴くと遠山金四郎景元(遠山左衛門尉景元)の墓(五輪塔)で、没年は安政2年(1855)2月だから日米和親条約よりも後で意外に近代に近い。安政の大地震が起こったのはその年(1855)の10月である。この後井伊直弼が大老となり、安政の大獄が起こるが、時代は開国への道を進むのである。右の自然石はそれよりも前の天保13年(1842)のもののようだ。ちょっと混乱しているのは左の五輪塔の下に3段の基壇があるのだが、そこに嘉永7年(1854)12月建之とある。没年よりも2ヶ月前のものということになり、辻褄が合わない。

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その先には剣豪千葉周作の墓もあった。北辰一刀流の開祖で千葉道場の主である。千葉周作の没年も安政2年(1855)と同じだが12月なので、10月の安政の大地震は体験していることになる。本妙寺は日蓮宗の寺院なので民間信仰の石仏はほとんど見かけなかったが、面白いものがいくつもあって楽しめた。

場所  豊島区巣鴨5丁目35-6

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2021年12月 3日 (金)

染井墓地十二地蔵碑(豊島区駒込)

駒込から染井通りを進み墓地に入るところの分岐の頂部に大きな舟型光背型の十二地蔵碑がある。とても大きなものなので、霊園に向かう人ならば必ずといっていいほどその存在に気づくだろう。

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高さは1.7mほどはあるだろう。三吉朋十氏の『武蔵野の地蔵尊』にも載っており、「江戸中期のころのものと推定されるが、文字がないので造立の由来を知ることができない」と書かれている。大きな石仏の全面の上部に六地蔵、下部にも六地蔵が並んでいる。

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上段の地蔵の上に描かれているのは桜の花びらのようである。染井の桜は江戸時代から名所であったので、ここ一面に桜の花を描いたのだろう。下段の地蔵の背景にも桜が描かれている。六地蔵碑は時折みかけるが、十二地蔵碑はまず見かけない。三吉氏の著書には「一石に十二の地蔵尊を掘りつけた例は埼玉県幸手町のうち神明内(しめち)というところの路傍に一面三体、四面十二地蔵尊を浮彫した一碑がある」とある。

場所  豊島区駒込7丁目3-2

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2021年12月 2日 (木)

西福寺の石仏(豊島区駒込)

駒込駅の北西、巣鴨駅の北にある染井霊園はソメイヨシノ発祥の地。江戸時代から植木職人が多数集まり、切絵図を見ると染井通り沿いに植木屋がずらりと並んでいる。この江戸時代の染井通りはそのまま現在の染井通りと同じで何百年も変わっていない道筋。染井通りの南西側は三重県伊勢津藩の藤堂家32万石の下屋敷があり、武家も町民も混じり合って歩いている姿を想像できる。

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西福寺は染井通りから北へ下る染井坂の坂上にある真言宗の寺院、西ヶ原無量寺の末寺だが、江戸時代は津藩藤堂家の祈願所であり、染井の植木職人たちの菩提寺でもあった。江戸時代には明暦(1655~1658)、天明(1781~1789)、嘉永(1848~1854)年間の3度火災で焼失している。

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境内にある無縁仏の一画に舟型光背型の大きな六地蔵碑がある。高さは1.6mほどあり、造立年は明暦元年(1655)11月。「某造立六地蔵尊容為二世安楽也」と書かれ、北豊嶋之郡染井村、施主10人銘が刻まれている。練馬区錦町の金乗院にこれとよく似た六地蔵碑がある。三吉朋十氏もほぼ同じ造立年で同じ石工によるものだろうとしている。

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無縁仏塔周りの石仏はほぼ墓石だが、六地蔵碑の左後ろにある舟型の聖観音菩薩像は供養塔である。造立年は元文3年(1738)2月で、「奉納大乗妙典 六十六部供養塔」とあり、「天下和順 日月清明乃至法界平等利益」と書かれている。江戸時代の西福寺はずっと広い境内を持ち、染井坂の下には谷戸川(藍染川)が流れ、川の向こうには日光御成道が通る尾根が見えたことだろう。

場所  豊島区駒込6丁目11-4

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2021年12月 1日 (水)

松原家の馬頭観音(練馬区春日町)

現在の住居表示は練馬区春日町二丁目、大正時代までの地名は中之宮、現在の環八通り、昔のふじ大山道の少し北にあるこの場所は、昭和の東京オリンピックの頃までは練馬の里とも呼べる風景であった。広がる田畑の中に、松島のように屋敷森が点在していた。富山の農村平野部の風景がそのまま60年前にはここに在ったのである。

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現在は区画整理がなされた住宅地だが、練馬区の史料によると30年ほど前まではこの辺りも住宅が「点在」する程度で、梅林があり、その角にこの馬頭観音が立っていたという。

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角柱型の石塔で、正面には「馬頭観世音菩薩」と彫られている。側面には大正4年(1915)3月の年紀が刻まれている。年紀の横には「松原福太郎」の施主名がある。この場所にある松原家のご先祖であろう。

場所  練馬区春日町2丁目30-2

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