上尾久村の馬捨場跡(荒川区東尾久)
もとは隅田川の川上50mほどの所にあったが、平成12年(2000)にスーパー堤防の建設にあたり、現在の祠や石造物がこの場所に移設された。かつて荒川沿いのこの辺りは秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑に使ったり牛馬の飼料にしたりする草の採取地のことである。大正時代まで秣場という地名でもあった。
明治の終わりの地図にはこの少し川下に人造肥料會社と書かれているがおそらく秣場と関係があるのだろう。この秣場の中に馬捨て場があった。大切な生活の力であった牛馬は死ぬとこの場所で解体され、革製品などになっていった。一方で庶民にとっては祈りの場所にもなっていったのである。
川上側に並ぶのは一番手前の燈籠、隣には小さな燈籠らしきもの、続いて扇型の手水鉢、墓石の聖観音が2基、不動明王、舟型の地蔵菩薩が2基と並んでいる。奥から二番目の舟型地蔵は墓石ながら享保14年(1729)3月の年紀がある。大きい方の聖観音像は元禄6年(1693)6月、小さい方の聖観音像は享保8年(1723)4月の造立である。
一方の川下側には、燈籠、となりに可愛い地蔵がペアで、そして舟型地蔵は正徳年間(1711~1716)、その横に新しい駒型の馬頭観音、そして元禄8年(1695)9月の舟型地蔵、丸彫の地蔵菩薩とならぶ。
新しめの駒型の馬頭観音には小さな地蔵と花が添えてあり、側面には昭和6年(1931)1月の年紀が刻まれている。施主名が関矢とあるが珍しい苗字である。調べてみると新潟県の関屋村に起源がある苗字らしい。
一番奥にある事前石の馬頭観世音はかなり大きなもので、裏側に回ると大正15年(1926)6月建之と書かれている。なかなか立派な馬頭観音だが、よほどかわいがっていた家畜だったのだろう。
川側の祠に納められているのが荒川区最古の庚申塔と、露払い太刀持ちの位置にある2基の馬頭観音である。手前右の舟型の馬頭観音は文字が見当たらず縁起がわからない。左の駒型の馬頭観音は天保12年(1841)のもの。そして後に立つ板碑型の石仏が寛永15年(1638)12月の庚申塔である。都内でも最も古い時代のものである。文字が読めないので資料から引用すると、中央には「奉供養庚申待三ヶ年成就所」とあり、下部に願主7人の銘がある。
場所 荒川区東尾久7丁目4
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