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2022年1月31日 (月)

古内天祖神社の庚申塔(足立区鹿浜)

古内というのはかつての鹿浜村の古内地区のことで、大正時代まではこの古内周辺には島、糀屋、堀之内、東などの小字地名があった。古内天祖神社の前を東西に走る道は鹿浜村の各地域を結ぶ重要な古道である。現在は天祖神社(=神明社)の前の通りということで神明通り商店会というローカル商店街を形成している。

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天祖神社の創建年代は不詳。かつては鹿浜村古内の鎮守であった、周辺の村落ごとに鎮守があり、糀屋氷川神社は糀屋の鎮守、島氷川神社は嶋の鎮守となっていた。また無形文化財の獅子舞があり、嶋氷川神社、糀屋氷川神社、古内神明社、東天神(北野神社)の順に毎年交代で奉納されるという。

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鳥居の手前西側に立派な堂宇があり大きな駒型庚申塔が祀られている。造立年は文化13年(1816)11月。江戸時代後期にしては石材の質も彫りの技術も高い。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻され、主尊は左手にショケラを下げている。台石には「古内講中 世話人勘蔵」と記されている。

場所  足立区鹿浜3丁目12-3

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2022年1月30日 (日)

宝蔵寺の石仏(足立区鹿浜)

宝蔵寺は真言宗の寺院で現在は鹿浜3丁目にあるが、創建は鹿浜村南部というからおそらくは環七以南の地域、現在の荒川の鹿浜橋あたりだったのだろう。創建年は弘安年間(1278~1288)だが度重なる水害と荒川水除堤(熊谷堤)の造成によって寛保2年(1742)に現在地に移転した。江戸時代は今の何倍もの寺域を持つ広い寺院だった。

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宝蔵寺には鹿浜村南部にあった頃に造られた正和元年(1312)の阿弥陀三尊種子板碑があるらしい。また庚申板碑もありそちらは天文10年(1541)の造立で鹿浜村ではその時代に既に庚申信仰が始まっていたようだ。

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山門前には三猿のみの江戸時代前期型の庚申塔がある。造立年は元禄4年(1691)9月で日月と三角ポジションの三猿が描かれている。書かれている文字は「奉供養庚申待立願  修練成就所」。三猿の下には願主名が彫りこまれているがほとんど土中にある。

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山門をくぐり、本堂の左手の墓所に向かう途中に六地蔵やその他地蔵が祀られている。上の写真の左の地蔵は六地蔵の左側にある地蔵座像。造立年は宝永5年(1708)7月。右の地蔵は六地蔵堂の右の隙間にあるもので正面には「奉造立地蔵尊」とあるが願主名が左右に刻まれ紀年は確認できなかった。

場所  足立区鹿浜3丁目20-5

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2022年1月29日 (土)

マクドナルドの庚申塔(足立区鹿浜)

マクドナルドのドライブスルー店舗の一画に庚申塔がある。この組み合わせは極めて稀で、地主さんがかなりしっかりした意志をお持ちでないと幸はならないだろう。昭和以降の話をすると、鹿浜のこの辺りは舎人ライナーが出来るまでは最寄り駅までが遠い地域で、一番近い大師駅(新井大師用の駅)でも2㎞以上、その他は3㎞以上で不便なところだったが、今は舎人ライナーの西新井大師西駅が1㎞程の所に出来た。

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写真の中央下に小さな堂宇がありその中に2基の石仏が祀られている。鹿浜四丁目交差点は自転車に子供を乗せた女性がひっきりなしに通る賑やかな住宅街の要である。庚申塔と戦後高度成長期のブランドのユニークなコラボが面白い。

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右にあるのが駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、かなり傷んでいる。造立年は享保19年(1734)12月。右側面には「奉造立青面金剛庚申橋供養尊」とあり、左側面には「武州渕江東叡山領鹿浜邑講中建」とあるので、鹿浜村は上野寛永寺の寺領だったのだろうか。

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左には角柱型の地蔵菩薩。 側面に紀年があり、享保19年(1734)3月とあり、隣の庚申塔とほぼ同じ時期。側面には「鹿浜村橋講中」「念仏講中 拾五人」とある。庚申塔にも橋講中とあったが、この辺りは昔、沢山の用水路が巡らされていた。100mほど東にあったのが中堰悪水落という用水路、200m西に在ったのが神領堀西堀という用水路。これらを代表に沢山の用水があり、それらには橋が架けられておりその通行の安全を祈願するものであろう。実際に私の生まれ育った故郷にもそんな用水路が沢山あり、落ちたことも何度かあったものである。

場所  足立区鹿浜4丁目29-6

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2022年1月28日 (金)

阿弥陀院の庚申塔(足立区鹿浜)

真言宗の阿弥陀院は甘露山安養寺という号。 創建は天明2年(1782)と伝えられる。こじんまりとした小寺だが、現在でも百万遍の行事が残っており、足立区の無形民俗文化財になっている。

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境内に入り、本堂手前を左に進むと、無縁仏や庚申塔が祀られている。阿弥陀院のある鹿浜四丁目交差点あたりは、江戸時代鹿浜村押部、領家村、堀之内村の村境に当たる部分で、鹿浜村押部の西の端にあたる。

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まず目に入ってくるのは板碑型の立派な石仏。中央には「奉造立庚申待 供養 結願安樂所」とあり、脇には「乃至法界平等利益」と刻まれており、造立年は万治4年(1661)2月とある。青面下半分に歯願主名がたくさん刻まれているが僧侶の名前らしきものもあったりする。願主は番誉という人らしい。その下には蓮華蓮葉が描かれている。

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その先にあるのは駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、邪鬼の表情が極めてユニークである。側面には安永元年(1772)11月の造立年と「庚申講中 十二人」という文字が刻まれている。個人的には駒型庚申塔の中でも秀逸なデザインだと思う。

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その脇には小さな馬頭観世音菩薩がある。かなり剥離が進んでおり、紀年は読み取れないが2月の文字があるようだ。このタイプの馬頭観音は明治時代から大正時代に多いが、上部の雨水による凹み等を考慮すると江戸時代の可能性も捨てきれない。

場所  足立区鹿浜7丁目19-7

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2022年1月27日 (木)

本応寺の石仏(足立区谷在家)

谷在家にある日蓮宗の本応寺は正応元年(1288)に創建。浅香藤九郎が開基と伝わるが、この武将は浅賀姓としても伝わり、もとは上州の武将で、戦いに敗れて現在の足立区谷在家に落ち延びたという。本応寺の北西に赤城神社があるがこれもまた浅香(浅賀)藤九郎による創建で、その旨は神社の黒御影石の石碑に記されていた。

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本応寺の山門は真新しくきれいで美しいものだった。この山門の手前に3基の石仏が並んでいる。一番右にあるのは舟型光背型の阿弥陀如来像。尊像脇に「念佛講中」の文字が読めるが、紀年等は摩滅が激しくてわからなかった。

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中央にある駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されたもので、元禄14年(1701)9月の造立である。尊像脇には「奉造立庚申尊像二世安樂祈所」「光明真言一万遍誦」と彫られている。庚申信仰と光明真言の組み合わせで、当時のマルチな民俗信仰の様子がうかがえる。左にあるのは地蔵か何かの台石で、本体が亡くなってしまったもの。「念仏講中」と書かれているので、おそらくは地蔵菩薩が載っていた可能性が高い。

場所  足立区谷在家2丁目19-7

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2022年1月26日 (水)

駐車場の庚申塔(足立区鹿浜)

舎人ライナーの谷在家駅から西へ400mほどの路地裏の未舗装の駐車場の一角にかなり傷んだトタン屋根の堂宇がある。その中に祀られているのは2基の庚申塔。こういう素朴な存在の仕方は郊外独特である。

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左の大きい方の駒型庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、宝暦12年(1762)11月の紀年が入っている。また、「庚申講中 拾四人」の文字や、「鹿浜村押部」の地名が刻まれている。押部というのはかつて鹿浜7丁目辺りにあった集落で、現在の鹿浜四丁目交差点の北東にある阿弥陀院、押部八幡神社から北西のエリア。八幡神社の名前にその地名が残っている。

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右の小さい方の駒型庚申塔も日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。ただ造立年は分からない。「これより六あミだ道」の文字が刻まれている。押部は江戸時代後期には鹿浜村字押部と鹿浜村の一部に含まれていたが、この庚申塔も江戸時代後期のものだろうか。

場所  足立区鹿浜8丁目17-10

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2022年1月25日 (火)

加賀町会会館石仏群(足立区加賀)

加賀は足立区の西の端にある地域で鹿浜とともに埼玉県川口市に接している。加賀町会会館は五色桜通りと東京女子医大通りの交差点近くにあるが、路地のさらに奥にあるためなかなか見つけにくい。しかし加賀町会会館の看板が出ているのでそれを探せば大丈夫である。

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看板に従って路地状地を入っていくと昭和の建物という雰囲気の木造の建物があり、訪問時は中から地区の人々の話す声が聞こえてきた。石仏を見ている間にも出入りがあり、地域活動が活発な印象である。会館手前の左に堂宇がありいくつもの石仏が祀られていた。

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いかにも古そうな石仏がこれだけまとまっているとちょっとわくわくする。後部左の大きな板碑型の石仏は庚申塔。造立年は万治元年(1658)霜月(11月)とある。とても珍しいのは板碑型青面中上部に三猿が陰刻されている点である。その下には「奉造立庚申供養之石塔為二世安樂也」と刻まれている。脇には願主8人銘、台石には蓮の華葉が描かれており初期の庚申塔である。

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後中央の石仏は丸彫の地蔵菩薩像だが、これは寛文4年(1664)9月に造立された地蔵・庚申講中による庚申地蔵。前裾に文字が刻まれており、願主名は8名ほどある。その右にある笠付角柱型の石塔は前面の文字がかなり激しく削られており造立年は読み取れないが11月という文字は確認できた。どうも供養塔のようだが墓石かもしれない。

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前面の3基は左端が舟型の聖観音菩薩像で造立は安永3年(1774)2月。像の右脇に「寒念仏供養」と書かれている。中央の駒型の庚申塔は残念ながら上部が欠損している。欠けた部分から日月があったと推定でき、その下には青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。造立年は明和8年(1771)12月。脇に刻まれた文字は「加賀村」「講中 六右衛門 伝衛門 外十四名」。右の角柱型は上部に地蔵座像と思われる尊像が描かれ、六十六部供養塔とある。造立は宝暦4年(1754)3月。「奉納大乗妙典六十六部廻国供養」「武刕下足立郡渕江領加賀村」の銘がある。

場所  足立区加賀2丁目6-6

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2022年1月24日 (月)

皿沼稲荷神社の庚申塔(足立区皿沼)

皿沼という地名、実は血沼と空目した。おどろおどろしい名前は興味深いと思ったら「点」がなかった。皿沼の地名の由来が気になった。どうも「さら」というのは新しいという意味のサラ(サラの洋服などという)に湿地帯のヌマを合わせた由来のようだ。昭和50年(1975)の住所改革までは加賀皿沼町という名だった。明治時代の地図を見ると加々という地名と皿沼という地名とその間に加々皿沼という地名がある。

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皿沼稲荷神社は明治時代の地図では皿沼地区にある。現在も皿沼の中心に存在する。明治時代はこの稲荷神社から東側に民家が集まっていたようだ。神社の西には中堰悪水落という用水路が流れていたが、この悪水落というのはあちこちにある用水路の名前のひとつで単純に飲めない用水路を言うようだ。周辺は農地として水路が張り巡らされていた。気になったのは神社の社殿と鳥居の向き。周辺民家に対して45度ほどズレた向きになっている。江戸時代からの村道を民家の方から来るとこの向きが良かったのかもしれない。

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本殿右手に小さな社と駒型の庚申塔が祀られている。駒型の庚申塔で、日月、三猿の間に「奉供養庚申待悉地成就」と書かれている。造立年は貞享5年(1688)9月とかなり古い部類のもの。脇には「汝等所行是菩薩道」「漸漸修覚悉当成仏」とある。江戸時代初期の村人はまっとうに真面目に暮らして他人にやさしくし続ければ幸せな後世があると信じていたのだろう。

場所  足立区皿沼3丁目15-10

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2022年1月23日 (日)

扇御嶽神社の庚申塔(足立区扇)

扇御嶽神社は吉祥院の山門近くにある小さな神社。吉祥院があるのは本木西町だが御嶽神社は扇に属している。昭和の中頃までは扇も本木の一部だったが、昭和49年(1974)に本木町の一部と北宮城町などが新たに扇という地名でまとめられた。扇はもともとあった地名ではない。どうりで扇と名前の付いた史跡がないわけである。

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御嶽神社の創建は寛永16年(1639)と意外に古い。この辺りは昔から本木村であった。現在の社殿は昭和63年(1988)に建立したもので、鉄筋コンクリート造りの倉庫の上に社殿が建てられている。庚申塔はこの社殿の右、屋上と呼ぶかベランダと呼ぶか迷う場所にある。

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左にあるのが水神(水天宮)の石碑、右が駒型の庚申塔である。かなり摩滅が進んでいるが、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれ、青面金剛はショケラを下げている。造立年は寛政5年(1793)2月。台石には「本木村 寺地」という銘がある。寺地というのは辺りの小字だろうか。

場所  足立区扇1丁目28-17

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2022年1月22日 (土)

吉祥院の石仏(足立区本木西町)

吉祥院は真言宗の寺院で淵江山吉祥院星谷寺という。前述の星谷地蔵堂の星谷はこの寺名から来ている。開山は室町時代と言われるが詳細は不明。江戸時代には勢力の大きな寺院で33の末寺を従えていた。山門は移設されたものだが、享保2年(1742)の建立で仁王像を備えた素晴らしいものである。

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山門手前に並んでいるのは左から、弘法大師碑で「弘法大師道吉祥院」と刻まれている。その横にある大きな笠付角柱型の庚申塔は、主尊を地蔵菩薩とし、唐破風の上の宝珠もきれいに残っている。造立年は延宝4年(1676)8月で、地蔵菩薩の下には三猿が描かれている。右側面には「庚申講之男女之敬白 皈命順礼秘密」とあり、左には「願以此功徳普及一切皆共成仏道我等与衆生」と刻まれている。

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その右にある舟型光背型の地蔵菩薩像は錫杖が中落ちしているが、とても古いもので造立は万治元年(1658)9月14日の年紀がある。地蔵の両脇には多数の願主名が刻まれているが、どれも苗字はない。小さい石柱は八十八ヶ所の八十番とあるので、荒綾八十八ヶ所の碑だろう。

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山門はくぐることはできないので、駐車場側から回り込んで本堂前へ進む。山門の真裏、本堂手前に4基の庚申塔が並んでいる。一番右にあるのは阿弥陀如来像の舟型光背型庚申塔。右脇に「奉供養庚申待二世安樂所」とあり、造立年は元禄2年(1689)8月と刻まれている。

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右から二番目は板碑型の庚申塔で、中央に大きく三猿が陽刻されている。これも古いもので、造立年は寛文5年(1665)10月。中央の三猿の下に「奉造立庚申供養処」とある。その脇には願主名が刻まれている。中左の駒型庚申塔はかなり摩滅が進んでいて紀年等は分からないが、像容を見つめると、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれていたことが推測できる。左端の駒型庚申塔は文字で「庚申供養仏」とある。下部には願主名がずらりと並んでいる。三猿は基壇にうっすらと残っている。造立年は表と裏にあり、表には元禄8年(1695)9月、裏には享保20年(1735)11月とあり、どちらが正しいのか分からないが、おそらく前面だろう。裏の中央には「石橋二ヶ所供養」とあるので、追加したのではないだろうか。

場所  足立区本木西町17-5

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2022年1月21日 (金)

馬頭観音堂(足立区扇)

星谷地蔵堂から吉祥院本堂へ向かう途中の路地脇にぽつんと堂宇があった。気になったので拝見させていただいた。しかし情報は皆無で現地の観察のみ。

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摩滅が進んでいて文字はほとんど読めないが、正面にかろうじて「馬頭観世音」の文字を読むことができる。右側面にも何か書かれているようだが、年紀だろうか。見え方としては大正元年と書かれているように見えた。堂宇内には「馬頭観音堂新築寄付者御芳名」として沢山の名前があった。昭和51年(1976)3月とあり、星谷地蔵堂でも見かけた榊千之助氏の名前も会計担当として記されていた。代表の小宮氏はこれまた星谷地蔵堂にもあった。

場所  足立区扇1丁目33-3

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2022年1月20日 (木)

吉祥院星谷地蔵堂(足立区扇)

吉祥院本堂の北西200mほどの路地裏にある星谷地蔵堂。訪問時には猫たちが地蔵堂の階段でのんびり昼寝をしていた。そんなのどかな景色が似合う場所である。石柱によると、平成3年(1991)9月に建て直されたらしく、庚申講講中 榊千之助という銘もあった。

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手前には新しい六地蔵が並んでいる。これも同じ時期に整備されたようだ。フェンス沿いに墓石が並んでいるが、地蔵堂に一番近いところにある屋根付簡易堂宇の下には2基の庚申塔が祀られていた。右の庚申塔は摩滅がひどく進んでいて文字も読めなければ彫りこまれているものの分からないが、この庚申塔は扇1丁目27-23の石井家門前にあったのを2009年頃移したもの。造立年は不明だが、日月、青面金剛、邪鬼、三猿が描かれていたようだ。

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左は駒型の庚申塔。ただし主尊は如意輪観音像という珍しいもの。足立区の資料には載っていなかった。上部には日月が陰刻され、主尊の下には三猿が陽刻されている。造立年は貞享元年(1684)9月。右には「以庚申講中功立之」とあり、左には「敬白帰命順礼秘密主  星谷」とあるので、この場所に元からあったものだろう。なぜ庚申塔として区の資料に記録されていないのかは分からない。

場所  足立区扇1丁目31-45

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2022年1月19日 (水)

善応寺の石仏(足立区興野)

足立区興野を南北に走る本木新道はその名とは違って古くからの道である。その為、生活幹線道路なのにカーブが多い。江戸時代は大師道といって西新井大師への参詣道で並行して本木堀という水路が通っていた。善応寺はこの大師道から少しだけ西に入ったところにある。

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真言宗の寺院で開山は古く貞治2年(1363)というから650年も前のこと。そんな古刹だが本堂は比較的新しく昭和40年(1965)に再建されている。また明治11年(1878)に同じく興野村にあった清光寺を合併した。

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山門脇の門前にあるのが駒型の庚申塔。ブロック造りの堂宇に収まっている。造立年は宝暦6年(1753)9月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。右側面には「武州足立郡渕江領興野村」の銘がある。左脇にある橋の支柱らしき石柱には、「興野邑世話人中」とある。これが本木堀に架かっていた橋の親柱かどうかは分からない。

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山門をくぐると左に同じような石柱に挟まれて石橋供養塔が立っている。文字が確認できなかったが、「慶応3年(1867)3月、興野村」という文字は読み取れた。本木堀の支流が寺の裏側を東西に、西側を南北に流れており、その流れに架かっていたものだろうか。

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参道右手には不揃いの六地蔵があった。右から、舟型地蔵菩薩で寛永11年(1634)9月の造立と極めて古いもの。二番目の一番背の高い丸彫地蔵は正徳3年(1713)3月の造立だが、三番目の地蔵は造立年が分からなかった。右から四番目の地蔵は享保7年(1722)12月で六十六部供養とある。五番目は享保3年(1718)11月で地蔵尊講中、一番左は享保3年(1718)11月の造立で念仏供養講中と書かれている。ちなみに右から2番目の背の高い地蔵には「庚申供養講」とあり区の資料では庚申塔として扱われている。

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本堂左手には沢山の石仏が並んでいるが、その中のひとつ写真の供養塔は阿弥陀と地蔵がならんだ珍しいもの。享保14年(1729)霜月(11月)の紀年がある。正面上部には日月が描かれ、二尊の下には「奉供養所」「天下泰平 国土安全」、右側面には「奉納廻国秩父…」と彫りこまれている。

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善応寺から歩いて4,5分の所に善能寺境外墓地がある。施錠されていて入ることができないが、祀られている地蔵を遠目に拝見した。左の地蔵は未確認だが、右の大きな地蔵菩薩像は享保19年(1734)2月の造立であった。この場所が明治時代に合併した清光寺のあった場所ではないかと思う。

場所  足立区興野2丁目20-5

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2022年1月18日 (火)

興野庚申堂(足立区興野)

足立区興野は古くは興野村という村だった。現在の興野は興野村の南半分だが、善応寺と興野神社を中心にした農村であった。興野地区の西寄りの三叉路に興野西庚申堂プチテラスというものがあり、わずかな広場に庚申堂がある。足立区は所々にプチテラスというのを設けているが、区には設置要綱もあり20㎡~300㎡の広場という設定のようだ。

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庚申堂の外側にも1基の石碑がある。これは自然石で造られたもので順礼供養塔。「月山湯殿山羽黒山 三所大権現 西國坂東秩父百番 諸国神社佛閣拝禮」とあり「奥野邑 内田儀左衛門」という銘がある。造立年は天保12年(1841)5月。奥野邑というのは興野村のことだが、江戸時代はもともと奥野村と言っていたのが後に興野村に変わったという説もある。

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庚申堂の中には3基の石仏石碑がある。左のシンプルな角柱型は供養塔。「奉読誦普門品一万巻供養塔」と正面に書かれている。普門品(ふもんぼん)というのは法華経の代表的なお経である。この供養塔の造立年は安永3年(1774)3月。

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中央の駒型庚申塔はその基壇にあるダイナミックな三猿が特徴的。正徳4年(1714)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。左側面には「奉納庚申爲二世安樂也」とあり、下部には13人の施主名がある。右の板碑型庚申塔は古いもので、寛文10年(1670)9月の造立。中央に三猿が大きく陽刻されているが、その上には「奉納庚申供養」という文字が刻まれている。台石には蓮の花葉が描かれており時代を感じさせるものである。

場所  足立区興野2丁目30-1

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2022年1月17日 (月)

吉祥院阿弥陀堂の石仏(足立区扇)

舎人ライナー高野駅の東北200mほどの路地にある吉祥院阿弥陀堂。吉祥院そのものは大きな寺院で、周辺に阿弥陀堂、不動堂、常念坊などの境外仏堂がある。阿弥陀堂は本堂から最も遠い境外仏堂で1㎞以上も離れている。道路際に看板があり、そこを入っていくと阿弥陀堂がある。

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阿弥陀堂の創建年代は不詳。江戸時代の切絵図を見てもこの辺りに寺院はない。地理的には阿弥陀堂の西が宮城村で、阿弥陀堂を含む東側が高野村である。山門をくぐるとすぐ右に2基の庚申塔と1基の供養塔がある。供養塔は基壇が六面で上部が円筒になっており、「成田山八代講社満願  新廻国八十八ヶ所  弘法大師巡拝」とある。造立年は不明。

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左の2基が庚申塔。中央は駒型で年不詳。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。脇には「持国天、増長天、広目天、多聞天」と刻まれている。この四つは四大王(しだいおう)と呼ばれる四神で、それぞれ東南西北を守っているとされる。左の角柱型の文字塔も庚申塔。造立は元文5年(1740)11月。下部には三猿が陰刻されている。正面には「奉供養青面金剛」と書かれている。また「庚申待講中 本木村」の文字が見え、施主名が6人刻まれている。

場所  足立区扇3丁目11-1

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2022年1月16日 (日)

恵明寺の石仏(足立区江北)

恵明寺(えみょうじ)の創建年代は不詳ながら、1650年頃(慶安年間)には既に大きな寺院だったという。また小台の七庚申の中で最も古い承応3年(1654)の板碑型庚申塔には「法王恵明寺」という文字がある。江戸時代には荒川はなく、小台七庚申があったのは荒川となった地域で、恵明寺の檀家エリアだったとしても違和感はない。

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また恵明寺は江戸六阿弥陀の第二番だが、元々は沼田・延命院という寺院が第二番であった。しかし延命院が廃寺となったため、阿弥陀如来が恵明寺に移されたたので第二番寺となった経緯がある。江戸時代の切絵図を見ると江北ジャンクションの真下、区立五色堤公園の辺りに阿弥陀堂があり別当恵明寺とある。荒川放水路の工事により阿弥陀堂も廃止され恵明寺に移ったもの。

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門前には2基の庚申塔と1基の地蔵が並んでいる。右は角柱型で日月の下に「庚申」、その下に大きく「青面金剛」と彫られている。造立年は文政8年(1825)6月で他に文字は見られない。中央は舟型光背型の庚申塔で、元禄5年(1692)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼が描かれているが三猿は見当たらない。尊像脇に「奉造立青面金剛 庚申」とある。左の小さい石仏は角柱型で上部に地蔵座像が陽刻されている。造立年は延宝8年(1680)。

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山門をくぐると立派な宝篋印塔が目に入ってくる。文化6年(1809)4月造立の宝篋印塔で、「武州足立郡沼田村 宮城山二十七世 開眼道師法印」とある。宮城山は恵明寺の山号である。

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向かいには子育地蔵堂があり、複数の地蔵菩薩がある。中央に大きな子育地蔵座像があり、台石には「子育安産地蔵尊」と刻まれている。年代は不明だがおそらく江戸時代であることは間違いないだろう。その右の丸彫の地蔵菩薩も年代は不詳だが、台石に「小伝馬貮町目 講中敬白 表門前通」とある。

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子育地蔵の裏手には板碑が無造作に置かれている。一般的に板碑は準秘仏扱いされて大切に保管されていることが多いが、このように境内に置かれているのは珍しい。ただし文字はほとんど読めない。恵明寺の創建年代からすると板碑の時代ほど古くないので、これは寺とは関係が薄いのかもしれない。

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墓所の入り口に気になる石仏があった。舟型光背型の聖観音菩薩なのだが、台石に三猿があるので庚申塔かもしれない。当然石仏と台石が元々は別物ということもあり得るのだが、サイズがほぼ合っている。聖観音像の造立年は寛文9年(1669)12月で、「宮城村 施主敬白」とあるが、庚申の文字はどこにもない。足立区の資料でも庚申塔には掲載されていない。

場所  足立区江北2丁目4-3

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2022年1月15日 (土)

路傍の順礼供養塔(足立区扇)

扇三嶋神社から西へ30mほど進んだ路地の角に石塔が祀られている。大きな角柱型の順礼供養塔と小さな簡易的な五輪塔が仮の堂宇のような屋根付きの場所にある。

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右の五輪塔風の石塔についてはまったくわからない。左の角柱型の石塔には、「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 為現當▢▢也」とあるので巡礼供養塔に間違いない。正面の左下には「右リ 六あみだ道」とある。その側面には「渕江領本木村太田 田中文衛門」と刻まれている。ちなみにこの塀の向こうのお屋敷はとても広い屋敷で400坪ほどあるが、表札に「田中」とあったので、この田中文衛門さんの御子孫だと思われる。

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右側面には「新四国八十八ヶ所 左リゑ▢▢」とあり、文政7年(1824)2月の紀年が刻まれていた。おそらくは田中氏が村を代表して建立したものだろう。足立区の六阿弥陀伝説は、北区の舟型神社の十二天塚の項で詳しく記載した。実際には8寺を廻る六阿弥陀巡りである。

場所  足立区扇2丁目8-19

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2022年1月14日 (金)

扇三嶋神社の石仏(足立区扇)

慶長年間(1596~1615)に小田原北条氏の家臣であった阿出川権左衛門知康が、本木村字太田一帯の開拓を進め、その時代に三嶋大明神を勧請して創建されたのが扇三嶋神社と伝えられる。江戸時代は太田と高野の鎮守であった。当時は太田と高野を合わせて約40軒ほどの民家があったというが江戸時代には増えていったようだ。

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三嶋神社はその名の通り静岡県三島市にある三嶋大社が本社。源頼朝が崇敬したことで大きくなった。全国的には400社ほどあるようだ。北海道から鹿児島まで意外に広い範囲にある。基本は大山祇命(オオヤマツミノミコト)を祀る。山森農産の守護神である。三嶋神社の玉垣の前に対の仁王像が立っている。

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傍にはいまでは珍しい電話ボックスがある。この仁王像2基は庚申講中によるもので、造立年は元禄10年(1697)11月、台石の文字はかなり消えかかっているので足立区の資料を参照した。書かれている文字は「庚申待成就 三嶋御宝前 本木太田村」とある。左が吽形、右が阿形である。

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鳥居をくぐると左手に真新しい御影石の石仏がある。牛頭天正宮と書かれたものと、馬頭観音と書かれたもの。紀年は書かれていないので分からないが昭和末期か平成のもののように思われる。

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境内奥に進むと水神碑が祀られていた。この場所で水神というのはちょっと不思議だったが、荒川放水路開削工事でここに移設したものらしい。その後再建されたのか、裏側には「昭和18年(1943)9月 本木6丁目6434番地より移転」と書かれている。旧番地の地図とにらめっこしたが6000番台の番地はない。やはり水没してしまった場所なのだろうか。

なお資料によると延宝6年(1678)の燈籠型庚申塔があるようだが、訪問時は見つけられなかった。いずれ再訪して確認したい。

場所  足立区扇2丁目9-3

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2022年1月13日 (木)

吉祥院地蔵堂の庚申塔(足立区扇)

新交通システム舎人ライナーが荒川の扇大橋を越えると足立区扇に入る。最初の駅が扇大橋。荒川は大正時代から昭和の初期にかけての大事業で開削された放水路なので、昔の街や道路をぶった切る形で流れる。しかし一歩路地を入るとそこには沢山の昔からの道が残っている。道は決して五番目ではなく、かつての農道をそのまま広げた様子で曲がりくねっている。そんな扇の一画に地蔵堂を囲んで吉祥院の境外墓地があり、その外塀に3基の庚申塔がある。

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左の小さな板碑型の庚申塔は貞享5年(1686)正月の造立。かなり摩滅しているが正面には「奉供養庚申待」の文字がある。下部には願主名が刻まれている。中央の板碑型庚申塔は上部がやや欠損、下部には蓮葉が陽刻されている。造立年は万治3年(1660)9月とさらに古い。中央には「奉造立庚申供養結衆諸願就二世安樂処攸」とあり、その下に線刻の三猿が彫られている。いかにも庚申講が広まる初期のものという感じである。

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右の板碑型庚申塔も頂部が欠損している。下部には蓮花が描かれている。造立年は明暦元年(1655)8月とさらに古いもの。中央には「奉供養庚申待三年二世悉地成就所」とある。この庚申塔も下部に沢山の願主名が刻まれているが、ほとんど苗字はない。塀の中の地蔵堂の創建年代は不詳だが、江戸時代の切絵図には「地蔵堂」と記されている。この辺りは本木村で少し西が宮城村、小台村との村境になっていた。太田という小字で江戸時代から民家が密集した地域であった。

場所  足立区扇2丁目3-6

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2022年1月12日 (水)

長原の庚申堂(大田区上池台)

東急池上線長原駅の改札口から20mほど左に歩くと、江戸時代以前からの古道に出る。西に進むと洗足坂上で中原街道にあたる。東に進むと大井を経て東海道に繋がっていた古道である。通称を中通りと呼んでいた。洗足坂上から長原駅をへて第二京浜までは江戸時代のままの直線路である。現在は環七通りで分断されているが、この古道(中通り)の北側が小山村、南側が上池上村であった。

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長原駅から100mほど東の丁字路の角に大興電設という会社のビルがあり、丁字路を入ったビルの裏側に庚申堂がある。この前の道も江戸時代からある道。この道を南に下って池上本門寺に向かうルートだった。その関係が庚申塔にも表れている。

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堂内の庚申塔は駒型で上部に日月、下部に三猿が陽刻されている。造立年は享保17年(1732)2月。中央には「南無妙法蓮華経 日摂」とあり、脇に「両山四十三世  池上邑」とある。三猿の上にあるのはデフォルメされた邪鬼だろうか。よくわからない。日摂は本門寺第46代住職で昭和56年(1981)に亡くなっている。両山というのはわからない。もちろん南無妙法蓮華経は日蓮宗の題目でありここに池上本門寺の影響が濃いことが分かる。

場所  大田区上池台1丁目43-6

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2022年1月11日 (火)

叶仏堂の石仏(大田区西糀谷)

京浜急行線は京急蒲田駅で羽田線を分岐する。その羽田線の最初の駅が糀谷駅。以前は京急線は地上を走っており、第一京浜(国道15号線)も環八通りも京急線の踏切で大渋滞を起こしていたものだ。今は高架化されて2階と3階で発車方向がまちまちで慣れないと混乱してしまう駅になった。糀谷駅も地上駅だったがきれいな高架の駅に変わった。その糀谷駅から北東へ10分ほど歩くと民家の間に叶仏堂(かなぶつどう)がある。

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堂宇の中に説明を彫りこんだ御影石がある。「この御堂には今より貮百九十年前祀られた石像がある。向かって右が大日如来で、左側は青面金剛即ち庚申である。昔から私達の先祖や先輩が代々建物を改めお祀りして来た。境内無縁仏は元禄時代より近所居住者の共同墓地で在ったが今は参詣する者もないので之を合祀して無縁碑を建て誰にでも御参りが出来るやうにした。茲に御協力下された方々を記して紀念とする。
(昭和43年5月)」とある。

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右の背の高い石仏が大日如来坐像かと思いよく見たがどうやら阿弥陀如来のようだ。造立年は延享元年(1744)5月、台石正面には「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とあり左右にそれぞれ「天下泰平 武州六郷領」「國土安穏 糀谷村念西」と書かれている。右側面には「三界万霊」と彫られている。写真中央は面白い形の庚申塔。元は駒型だろうか、戦災でかなり痛めつけられている。舟型の石の中央に塔型の陽刻があり、「南無青面金剛」の文字、脇には延宝6年(1678)9月の紀年と「六江領糀谷村」の銘。六江は六郷の誤字だろう。下部には三猿が陽刻されている。

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堂の外には一つに纏められた古い石仏(墓石)が山になっている。前の2基はともに墓石だが、左の舟型如意輪観音像は宝永6年(1709)6月のもの。左の舟型地蔵座像は正徳4年(1714)11月のものである。まだまだ東京にもこういう街の古い墓地跡は散見されるが、年々消えて行っているのも事実である。

場所  大田区西糀谷1丁目26-10

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2022年1月10日 (月)

山王大権現碑(世田谷区砧)

小田急成城学園前駅から南東へ数百m、千川沿いの崖っぷちに小祠がある。ここは仙川の流れが台地を削って出来た河岸段丘が川まで迫っている場所で、崖下の道の標高は32m、崖上の標高は41mと落差は9mもある。ここから100mほど下流に行くと、ゴジラやウルトラマンなどを生んだ東宝撮影所。

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小祠の中には笠付角柱型の石塔が1基祀られている。かなり摩滅が進んでいるが、正面には「南無妙法蓮華経  山王大権現」とあり、脇には「南無妙法如来、南無釈迦如来」とある。脇にある紀年を見ると、元禄15年(1702)8月の造立である。

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山王大権現というのは中世の神仏習合で生まれた天台宗の鎮守神らしい。比叡山(日枝山)の山岳信仰と神道、天台宗の融合によるもので、日吉権現とも言われる。山王社は明治の廃仏毀釈(神仏分離)で比叡山延暦寺から無理矢理分離させられ日吉大社に組み込まれた歴史がある。庶民は地神から仏教まで平らかに信仰しているのに、権力はつまらぬ争いを繰り返し続ける。それは文明が出来てから今まで、人間が進歩していない部分である。

場所  世田谷区砧8丁目32-7

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2022年1月 9日 (日)

大蔵水道橋脇の庚申塔(世田谷区砧)

東京には所々に水道道路と呼ばれる直線路がある。井の頭通りがその代表だが、杉並区と世田谷区を袈裟切りにするように走る荒玉水道道路もそのひとつ。荒玉水道は多摩川の水を中野区野方や板橋区大谷口へ供給する地下水道管で、その上を直線路が伸びている。正式には都道428号高円寺砧上水線という道路名。所々に杭があり大型車が通れないようになっている。

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荒玉水道道路が砧で仙川を越えるところで水道管も地表に姿を現しており、その袂に2基の石塔がある。囲いのない方は「石井」という文字が見えるが他は摩滅して読めない。石井姓はこの辺り大蔵の昔からの第一の姓で、大蔵は沢山の石井家がある。しかしこの石塔が何なのかは分からない。その右には車がぶつかっても大丈夫なほどの頑強な鉄柵に囲まれた石橋供養塔がある。

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正面には日月、その下に「奉石橋供養塔」とあり、下部には三猿があるが左の猿は欠損している。手前の路上コンクリートに1767年立之とあるが、この石塔は庚申塔であり明和4年(1767)3月に造立されたもの。願主は河野平四郎とあり石井ではない。各面にはおびただしい数の願主名が刻まれている。その中には庚申講中や念佛講中、散屋講中を含め関東近郊各地の村名とその願主名がある。年代からして水道橋とは無関係である。私の推測はもともと次太夫堀の橋に関わるものではないかと考えている。石工の名前が六郷の永井佐兵衛という人で、次太夫堀は狛江で引いた多摩川の水を六郷まで流していたから、この流域に関わる人々、そして次太夫堀沿いに走る筏道に関わる人々が参加したのではないかと。

場所  世田谷区砧7丁目1-21

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2022年1月 8日 (土)

山王清兵衛祠脇庚申塔(荒川区南千住)

JR南千住駅からまっすぐに北上する道があり600mほどで隅田川に突き当たり、そこには山王日枝神社がある。現在は荒川区南千住だが、江戸時代は山王社のある場所は橋場村、それより南は小塚原町、中村町、橋場村、三ノ輪村の入会地だった。入会地から橋場村になるところの辻からが日枝神社の参道であったから、現在角にあるドラッグストアの福太郎は参道脇にあたる。

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この角に古い祠がある。山王清兵衛祠と呼ばれている。この日枝神社はかつては旧中村町の鎮守で創建は庄和5年(1316)と古い。日枝神社の説明板にこの山王清兵衛のことが記されている。「この社の入り口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛と呼ばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨(いかり)をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。」

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この山王清兵衛祠の小さな境内の隅っこに板碑型の庚申塔がある。古いもので、造立年は寛文9年(1669)10月。中央には「南無阿弥陀佛」とあり、脇に「庚申講中」そして下部には三猿が陽刻されている。その下には願主7人銘がある。その手前には手水鉢があり、歌舞伎の成田屋らしき人名が刻まれている。市村、尾上、坂東、柳屋、成田屋、中村などで、もしかしたら当時の歌舞伎関係者の奉納かもしれない。

砂尾堤というのは、中世にこの辺りを支配していた砂尾長者と関係がありそうだ。当時の隅田川は氾濫を繰返す河川だったので、この辺りに堤が築かれていたとしても自然なことである。

場所  荒川区南千住7丁目23-10

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2022年1月 7日 (金)

誓願寺の石仏(荒川区南千住)

素盞雄神社の北にある誓願寺は浄土宗の寺院。相当な古刹で、平安時代末期の長保元年(999)に天台宗寺院として創建した。どういう時代かというと紫式部が源氏物語を書いていた時代である。江戸時代に入る頃、慶長元年に浄土宗に改宗している。日光街道の境内の間口は狭いが、これは江戸時代から変わらない。間口税が関係したのか、日光街道沿いの寺院はほどんどが江戸時代はウィスキーボトルタイプの地形をしている。

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参道を進むと竹の扉がありそれを開けて境内に入る。なんだか裏口から入るような感覚である。現在は清岸寺が隅田川の千住大橋に最も近い寺院だが、江戸時代は橋の手前に円蔵院という寺院があった。別当を務めていた熊野神社だけが現在はこじんまりと残されている。木戸を入ると美しい庭の先に本堂があるが、その手前の南側に石仏が並んでいる。

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立派な庚申塔が2基並んでいた。左側は駒型の庚申塔で造立年は延宝4年(1676)10月。日月、青面金剛像、二童子、二鶏、三猿がくっきりと陽刻されている。尊像左右に「庚申講中現當 為二世安樂」とあり、下部には多数の願主名がある。香炉には「庚申講中」とあるがその下の字は読めない。右の自然石庚申塔は基壇に三猿が彫りこまれている。正面には「青面金剛供養塔」とある。造立年は摩滅で読めないが資料によると享保10年(1725)5月のようである。

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その先には3基の立派な石仏がある。右は墓石だが延宝9年(1681)4月造立の舟型地蔵菩薩。中央はこれも墓石ではあるが、丸彫地蔵で安永5年(1776)5月のもの。左は丸彫の聖観音座像で寛延4年(1751)10月の造立、「奉納観世音菩薩 汐入村講中」とある。汐入村は現在の南千住の高層住宅地域の古い地名で、至る所に汐入の名前が残っている。

場所  荒川区南千住6丁目69-22

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2022年1月 6日 (木)

素盞雄神社の石仏(荒川区南千住)

日光街道沿いにはいろいろな名所がある。素盞雄神社もその一つ。隣接して荒川区立荒川ふるさと文化館もあり、これから千住大橋を渡るという場所だけに何百年もの間、多くの人々の安全への思いが土地にこもっている感覚があった。素盞雄神社の鳥居は東、南、西にそれぞれあり、これはとても珍しい事である。

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神社の開祖は黒珍という修験僧で平安時代延暦14年(795)4月に創建、この地にあった奇岩から現れた神が素盞雄大神(牛頭天王)と飛鳥大神であった。素盞雄大神の社殿を西向に造営し、飛鳥大神の社殿を南向きに造営したのが二つの方角の鳥居の起源である。東側の鳥居は日光街道が出来てからの入口にあたるからではないかと思ったが、実は江戸時代の日光街道はふるさと文化館と神社の間辺りで東に折れ、神社の境内を避けるようにしてすぐに北に向かっていた。しかし江戸時代の切絵図にも東からの入口があるので、自分の中では答えはない。

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富士塚の手前にあるこの土の中から盛り上がったような岩が瑞光石と呼ばれる奇岩である。江戸で最初に架けられた大橋「千住大橋」の架橋の際に、この石の根が隅田川まで伸びていて、それが硬くて橋脚が打ち込めなかったという伝承がある。もっとも関東平野は岩の少ない地域で、地中から大きな岩が出てくることは江戸の人々にとっては驚きだったのかもしれない。

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瑞光石の後ろはこのような富士塚になっている。小塚原富士と呼ばれており、瑞光石のある小塚の脇に元治元年(1864)富士塚を築き浅間神社を祀ったもの。富士塚というと意外に新しいものが多く、これも明治になるかならないかという近代の民間信仰の対象なのである。

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瑞光石の南側には玉垣を背に3基の庚申石仏が並んでいる。右の駒型の大きな角柱は上部に日月、その下に大きく「青面金剛塔」と彫り込まれた庚申塔で、造立は文化8年(1811)6月。右面には願主名が11人あり、その中に百目鬼清五郎という名前があり山形市の百目鬼温泉を思い出した。真ん中の聖観音像は寛文13年(1673)2月造立。光背に「念佛講供養 庚申講供養」とあり、念仏講と庚申講の共同による建立だと分かる。左の板碑型庚申塔は中央上部に如意輪観音を彫りこみ、上部に日月、下に三猿および二鶏が描かれている。造立は延宝6年(1678)10月とこれもまた古いものである。

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庚申塔の前にある手水鉢は寛政8年(1796)11月のもので勧化(かんげ)講中とあるが具体的にそれが庚申講なのかどうかは分からない。庚申塔の左側には宝篋印塔と溶けたような舟型光背型の地蔵菩薩が並んでいるが造立年などは分からない。なお、瑞光石の小塚が小塚原の地名の由来という説もあり、円通寺の塚とどっちが源義家の由来のものかは不明である。

場所  荒川区南千住6丁目60-1

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2022年1月 5日 (水)

南千住の庚申堂(荒川区南千住)

南千住から北千住へ日光街道(国道4号線)を北上する。円通寺を過ぎ、千住間道との交差点(南千住警察署入口)を過ぎた次の路地を西に入るとすぐに民家の軒先にある庚申堂がある。さすがに日光街道沿いなのでこの辺りは江戸時代から民家が集まっていた。江戸時代は街道沿いは下谷通新町という町で、この庚申堂から先は小塚原町という町名であった。もちろんこの辺りは当時は街道裏の田畑である。

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庚申堂は小さいながら立派な造りをしている。手前上部には欄間に日光東照宮のような猿が生き生きと彫り込まれており、職人技を感じさせる。堂内にある駒型の庚申塔は、造立年は不明。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、状態からかなり新しいものだと思われる。

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荒川区の資料によると、もともとは古い庚申塔があったようだ。「南千住六丁目猪鼻庄右衛門宅の入口に庚申塔があり、宝暦年間(1751~1764)に建立され、なくしたものが見つかるというご利益があった」と伝えられているが、その庚申塔の再建ではないかと思われる。この前の路地は昔から通称庚申通りと呼ばれている。

場所  荒川区南千住6丁目47-10

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2022年1月 4日 (火)

円通寺の石仏(足立区南千住)

南千住にある曹洞宗円通寺はかなりの古刹で、延暦10年(791)に坂上田村麻呂が開創したと伝えられる。源義家が奥州遠征の際に打ち取った48の首を埋めて塚を築いたので小塚原と呼ばれるようになったという説も有力。また明治維新の折、新政府軍に攻め込まれ上野公園で必死の抵抗をした彰義隊の墓や、当寺上野公園にあった鉄砲の弾で穴だらけになった黒門が移築されている。

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またこの黒門の脇には吉展ちゃん地蔵があり、東京オリンピックの前年(1963)に起こった凶悪な誘拐殺人事件で、私も小学校に上がるか上がらないかの時期で鮮明に記憶している。犯人は円通寺の墓地で吉展ちゃんを殺害したのである。私とほぼ同年代なので祈らざるを得なかった。

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吉展ちゃん地蔵の向かいには六地蔵他が祀られている。この六地蔵は江戸時代の中期、読める紀年からすると宝永6年(1709)、宝永8年(1711)、正徳5年(1715)、享保3年(1718)ともっとも華やかな江戸だった時期のものである。

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そこから本堂寄りにはフェンスがありその奥には石仏の山がある。この山が源義家による首塚という説もある。その石仏の山の上には4基の板碑が祀られていた。紀年等が分かるのは2基で、右から二番目の大きな板碑が永仁4年(1296)10月の造立、一番左の梵字が大きく書かれたのが嘉暦4年(1329)1月の造立で、鎌倉時代前期のものとして貴重である。

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石仏の山(首塚)の手前の両脇には燈籠が立っている。左の燈籠は六十六部供養の燈籠で、正徳3年(1713)4月の造立。竿部に陽刻されているのは地蔵菩薩。中央に「奉納大乗妙典六十六部」「四國西國秩父坂東」と刻まれている。右の燈籠の竿部には三猿が陽刻されており、造立年は正面からは見えないが宝永3年(1706)11月。どちらも日月が火袋の窓にあるようだ。

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円通寺の南側の塀沿いに小道があり、それを辿って裏に回ると円通寺の裏角のブロック塀に聖観音菩薩像が埋め込まれている。これはいささか驚いた。円通寺の裏には江戸時代から浄閑寺堀という用水路が流れていた。それを横切るように塀脇の通路が残されているのだが、実は明治時代の終わりまでこの円通寺の裏手は田んぼだったのである。

場所  荒川区南千住1丁目59-11

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2022年1月 3日 (月)

珠明院の石仏(足立区小台)

足立区小台にある寺院は珠明院のみ、隣接する宮城にあった地蔵院も廃寺になったのか本堂は解体され更地になり墓所が残るだけなので、この荒川と隅田川の間の島にはこの一寺のみということになる。珠明院は1500年代前半の創建の曹洞宗寺院で、豊嶋郡赤塚村松月院の末寺だったといい、ずいぶん遠い末寺だと言える。

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山門は手前が駐車場入口で奥の山門がおそらくは本当の山門。広々としていて気持ちのいい寺院である。奥の本堂前の山門をくぐると右手に堂宇があり、地蔵菩薩と庚申塔が祀られている。

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左の丸彫地蔵菩薩立像は宝永8年(1711)の造立で、宝永8年は4月に正徳に年号が変わっているので春先の建立だろう。台石には神田周辺の願主名がならんでいる。右の板碑型の庚申塔は正徳2年(1712)2月の造立。板碑型ながら日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。

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本堂前を左にいくと墓所でその入口近くにある2基の地蔵菩薩のうち右側が庚申地蔵。舟型地蔵菩薩の下部には三猿が陽刻されている。造立年は寛文12年(1672)9月と古いものである。尊像右に「庚申待供養」と刻まれている。左の舟型地蔵菩薩は元禄12年(1699)7月造立で、「六地蔵二番目武列沼戸講中」とあるが、沼戸は沼田のことだろうか。現在首都高速の江北ジャンクションのある辺りは荒川が出来る以前は下沼田という地域だったらしい。

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向かいにも沢山の石仏が並んでいるが、手前から二番目の駒型の石塔が庚申塔。造立年は享保15年(1730)で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「奉造立庚申供養塔」「講中本願主 小和泉九郎右衛門」とある。裏側には「竊惟設庚申講村邑八所水泥縣石橋渡諸人難者也」とあるがこれは水難を表しているのだろうか。右端の石仏は見た途端に笑ってしまった。というのも首から下は聖観音像で首から上は地蔵菩薩だったからで、そういう区別がつかない人が補修をしてしまったのか、はたまたわざとなのかは分からない。

場所  足立区小台2丁目42-16

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2022年1月 2日 (日)

小台の七庚申(足立区小台)

足立区小台は北に荒川が流れ、南には隅田川で川に挟まれた宮城、小台で形成される島のようなエリア。上流には同じような地形で新田がある。もともと大正時代以前は現在の隅田川の流程が荒川そのもので、小台は扇や江北と陸続きだった。大正時代になって東京を守るために荒川放水路が掘削され小台と宮城は足立区から地理的に外れてしまったが、もともと足立区の陸の一部だったのである。

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ここには極めて見事な庚申塔が7基祀られているが、もともとここに在ったものではない。大正時代の荒川放水路の掘削工事で水没することになってしまった旧小台本村、江北村あたりの庚申塔を沈めることを惜しんだ小台村の下川亀蔵氏が自宅の移転と共に周辺の庚申塔を集めてここに祀ったものである。

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右端は駒型で日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻されており、造立年は享保5年(1720)9月。「奉造立青面金剛講中」「為庚申供養」「武州下足立郡渕江領宮城村」の銘がある。二番目も駒型で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。正徳4年(1714)9月の造立で、「奉造立青面金剛像庚申供養」の銘と施主9名の名前がある。

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三番目も駒型、同様に日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が陽刻され、元禄15年(1702)8月の造立。「奉造立青面金剛像庚申供養」の銘と施主10名の名前が刻まれている。四番目は全体の中央だが、これもまた駒型で日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。造立年は元禄5年(1692)9月で、「奉造立青面金剛尊容庚申供養」の銘と9人の願主名。その隣の五番目は小さめの駒型で、これも日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。造立年は正徳3年(1713)9月で、これも下部に願主名が刻まれている。

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左から二番目も駒型で日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、下部に宮城村の銘、横に「奉造立庚申供養 講中敬白」とある。造立年は元文元年(1736)9月で7基の中では最も後に造られたもの。一番左はこれだけが板碑型の庚申塔で、下部には二猿が描かれている。中央には「奉造建正面金剛本尊一宇二世安樂所」とあり、脇には「逆修成就所 庚申供養一基」とある。造立は承応3年(1654)霜月(11月)とあり、この中では断トツに古いもの。

つくづく荒川の川床に埋まらずによかったと思う。

場所  足立区小台2丁目47-1

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2022年1月 1日 (土)

照善寺の石仏(大田区田園調布)

田園調布は大田区、しかし西に少し歩くとすぐに世田谷区になる。多摩川はかつてはひどい暴れ川で河岸段丘は田園調布に多くの急坂を強いている。その段丘の縁にあるのが照善寺。山門下には丸子川が流れているが、この流れは昔の川岸で、かつ次太夫堀として開鑿されたものでもある。丸子川を挟んだ向かいには民家の塀にも庚申塔がある。

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丸子川の橋を渡って石段を上ると照善寺の山門。田園調布には多くの谷戸があるが、八幡神社の西の谷戸と穴八幡下の谷戸の間の台地の縁を上っていく。境内に入るとそこからは平坦になっている。

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境内の左右に古い石燈籠が立っている。離れているので対という感じはしないのだが、この二つの燈籠は同じ時に造立されたもので、対の石燈籠。造立年は文政3年(1820)霜月(11月)で竿部にはどちらも観世音菩薩當村と書かれている。

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本堂脇の墓所入口に石仏が多数集められており、その中の一基が馬頭観音。舟型に三面六臂の馬頭観世音菩薩を陽刻、頭上に馬頭を持つので馬頭観音ということがわかる。施主名落合次郎兵衛とのみあり、年紀は不明だが明治ではなく江戸時代のものかと思われる。

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石仏群の左端のひときわ大きな2基の石仏はどちらも庚申講中によるものである。右の石仏の尊像は阿弥陀如来像。造立年は寛文12年(1672)12月で、尊像脇には「石佛造立旨趣者」「為庚申供養成就」そして講衆十人とある。左の石仏は地蔵菩薩立像で、こちらの造立年は寛文5年(1665)7月。尊像脇には「於當寺地蔵建立趣者」「為庚申講供養成就也」とある。下部には落合氏、長氏の願主名が残っている。

場所  大田区田園調布5丁目30-7

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