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2022年2月28日 (月)

出世観音前の庚申堂(大田区久が原)

久が原の出世観音前という交差点だがここには出世観音はなく、工事現場の向こうに二重の塔のような仏閣がある。芥川賞直木賞選考会が開かれる築地の料亭「新喜楽」の初代女将が住んでいた場所で後に仏門に入った関係でここに仏閣を建てたが、戦災で焼け如意庵だけが残された。それを戦後地元では出世観音と呼んだという経緯である。女将は戦後野村證券に移譲し野村證券の寮が建ったが、近年住友不動産に売却されマンション計画が進んでいる。野村證券寮の時は地元有志が出世観音と庚申塚を残すよう嘆願し受入れられたが、今回はまだ協議となっておりどうなるか不安が残る。

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地元では庚申塚というがほぼ庚申堂。なかなか頑丈で立派なものである。地元有志が必死に守っている感じが工事の擁壁の曲がりからも感じられる。何とかして守ってもらいたいものである。

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堂宇内には2基の庚申塔が祀られている。右の板碑型庚申塔は元禄5年(1692)11月の造立。日月が陰刻されており、中央には「奉造立帝釈天王」、その下には8人の願主名がある。左の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は元禄13年(1700)12月。右脇に「奉造立帝釈天王 武刕久ヶ原村」とある。どちらの庚申塔にも三木姓があるが、近年の堂宇建替えの寄進にも多くの三木姓が見られた。

場所  大田区久が原2丁目7-30

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2022年2月27日 (日)

久が原三丁目庚申堂(大田区久が原)

大田区久が原は台地上にある住宅街。久が原の地名の由来は、くが(=陸)+はら(原)で、多摩川下流域の氾濫原に対して一段高くなった土地を意味する。第二京浜(国道1号線)、東海道新幹線(横須賀線)、東急池上線に囲まれたエリアで、地質学的には久が原台という多摩川左岸の最下流の台地になる。

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大正時代末から昭和初期に耕地整理が行われ碁盤目状の街並みになった地域の東を中世の東海道でもあった平間道(鵜木街道)が通っており、久が原三丁目の交差点角に堂宇がある。なかなかしっかりした堂宇で、中には駒型の庚申塔が二基祀られている。

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向かって右の庚申塔は、享保20年(1735)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、中嶋吉兵衛他願主名が7人銘刻まれている。左の大きい方は、元禄14年(1701)12月の造立で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。正面には「奉造立帝釈天王」の文字があり、「久ヶ原村」の銘がある。願主名は篠沢佐右衛門他7名の名前が刻まれている。篠沢姓以外には中嶋姓が3人ある。

場所  大田区久が原3丁目14-20

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2022年2月26日 (土)

入一観音入一地蔵(中央区入船)

東京都中央区には路傍の石仏はないと思っていたが、桜川公園の一角に入一観音菩薩・入一地蔵があるのを新大橋通をあるいていて見つけた。地下鉄日比谷線とJR総武本線の八丁堀駅のすぐ南側にある公園だが、首都高京橋JCTから亀島川の高橋までは昭和の東京五輪以前は掘割だった場所でこここそが有名な八丁堀である。

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必殺仕掛人シリーズにも出てきた八丁堀は江戸の警察でもあった町奉行所の与力同心の屋敷が連なっていたところ。南町奉行所、北町奉行所合わせて与力50人、同心250人ほどがここに住んでいた。江戸時代にはこの地蔵のある辺りに掘割を渡る中ノ橋という木橋が掛かっており、周辺は武家屋敷だったのでお侍さんが多数往来していたことだろう。

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堂内には左に聖観音立像、右に地蔵菩薩立像があり、中央には小さな地蔵が立っている。一見木造に見えたが、よく見るとどうも石造のようである。顔が黒いのは戦災によるものだろうか。入一というのは入船一丁目の略であるから、もしかしたらずっと時代の新しいものかもしれない。

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地蔵堂脇には虫歯祈祷石なるものが祀られている。奥歯をイメージさせる形の大きな石である。明治末期の新聞記事には、京橋区南八丁堀の路傍に周り三尺余り高さ二尺余りのあぶら石という自然石が古くよりあったと記録されており、以前は艶もあったが火災に遭って艶もなくなってしまったが、この石の下には男女の首が埋められている、という説を載せていたらしい。虫歯に御利益があるとされていたようだ。

場所  中央区入船1丁目1-26

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2022年2月25日 (金)

霜田踏切の地蔵尊(大田区東馬込)

近年首都圏の鉄道は乗り入れが複雑になってきた。馬込近辺を南北に走る横須賀線も湘南新宿ラインや相鉄線が混じって走る。始まりは昭和4年(1929)の貨物線品鶴線(ひんかくせん)の開通。戦後首都圏の人口増加に対応して、昭和55年(1980)に旅客化され横須賀線・総武線快速が走るようになったが、今もこの線は貨客併用である。

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頭上の高架線は東海道新幹線。その下を在来線が頻繁に通り過ぎる。少し土盛りされた線路は坂道で上り、道路幅よりもかなり狭い踏切を横切って向こう側で再び坂になる。坂道発進が難しい為、こういう踏切では昔はしばしば事故が起こったものである。この踏切は霜田踏切といい「No.4 4K459M」とあるが品川からの距離だろうか。霜田の地名は新旧地名には見当たらないが、踏切の西側に霜田児童公園がある。

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踏切脇に堂宇があり地蔵菩薩坐像が祀られている。造立年やその他情報はまったく分からない。香炉台に砲弾が使われている。地蔵の状態からして近年のものではないようだ。ただ線路がカーブしていて見通しがきかないのと土盛りで坂道アプローチだったために事故が多かったと聞くので、古い地蔵をここに移設したという可能性もありそうである。

場所  大田区東馬込2丁目1-8

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2022年2月24日 (木)

春日神社の庚申塔(練馬区春日町)

練馬区春日町の町名の由来はこの春日神社である。昭和7年(1932)に市郡合併で板橋区が成立し、それまで上練馬村の中ノ宮、海老ヶ谷戸、尾崎だった辺りが春日町となった。戦後昭和22年(1947)に板橋区から分かれて練馬区が設けられてからは練馬区春日町である。

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春日神社は鎌倉時代に藤原鎌足の末裔である工藤祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、大和の春日神社の祭神を勧請して創建したという。その後の練馬城(豊島園敷地)の城主豊島氏もここを守護神とした。豊島氏が没落したのち、豊島城に入った城主海老名左近はこの春日神社を居館の一部とした。かつての小字海老ヶ谷戸は海老名氏所縁である。

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本殿の西側に小さな祠と駒型の庚申塔が祀られている。庚申塔の造立年は宝永6年(1709)霜月(11月)。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿に線刻の二鶏が描かれている。尊像脇には「奉造立庚申供養二世安全祈所 敬白」とあり、「武刕豊嶋郡上練馬海老ヶ谷戸村結衆  四十八人 うち二十人女」と刻まれている。この庚申塔は昔は春日町5丁目20番地にあったらしい。高松ローンテニスクラブのやや北東の一画である。

場所  練馬区春日町3丁目2-10

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2022年2月23日 (水)

テニスコートの庚申塔(練馬区高松)

練馬区立練馬中学校の東隣に高松ローンテニスクラブがある。室内2面、屋外6面のテニスコートがある大きなスクールである。このテニスクラブの南東の辻の駐車場脇に屋根付きの庚申塔が立っている。

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この庚申塔はかなり古い時代のもので、板碑型の前面中央には三猿が陽刻されている。書かれている文字はほとんど読めないが、練馬区の資料によると造立年は寛文3年(1663)11月。下部には願主名が沢山刻まれている。

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最下部には蓮葉が描かれているが、その手前にある香炉台もなかなか年季が入っている。丸石の正面には「奉納」の文字が見える。植込みに説明板、裏側には江戸時代初期らしい荒々しい鑿の跡が見える。この庚申塔は元は北側の道路の辻に建てられていたというが、明治時代の地図をよく見るとテニスコートのある辺りに石碑の印がある。石神井川低地の田んぼから上がってきたところに立っていたのだろう。

場所  練馬区高松1丁目22-16

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2022年2月22日 (火)

宮田橋敷石供養塔と高松の庚申塔(練馬区高松)

石神井川の右岸(南側)が貫井で左岸(北側)が高松地区である。高松の地名の由来は高い松があったというシンプルな説があるが疑わしい。高松の一画に宮田橋敷石供養塔と庚申塔が祀られている辻がある。宮田橋と言っても石神井川は100mほど南東を流れている。しかし近年までこの地域では石神井川は二つの流れに分かれており、この交差点はその北側の流れに掛かる旧道の橋の場所にあたる。

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右の小さな角柱が宮田橋敷石供養塔でかなり剥離が進んでいる。文化4年(1807)9月に清戸道を利用する大勢の人々が寄進した敷石の完成記念と交通安全を祈願して建立された。昔この辺りは湿地帯で、農作物の運搬に難渋していた。供養塔には地元だけでなく埼玉県の村名も見られることから多くの清戸道利用者が協力したことがうかがえる。

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大きい方は唐破風笠付角柱型の庚申塔で、造立年は正徳5年(1715)。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている大きな庚申塔である。側面には「奉供養庚申二世安樂祈所」「武刕豊嶋郡上練馬高松村 施主廿六人 敬白」と刻まれている。この場所に移転して祀られたのは昭和44年(1969)で、それまでは塚のある庚申塚だったようだ。

場所  練馬区高松2丁目3-15

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2022年2月21日 (月)

路傍の小地蔵(練馬区向山)

都内では小さな地蔵がポツンと置かれているケースは殆ど見かけない。田舎の山道の路傍には石仏などがポツンとあるのは日常的なのだが、都会では自治体や寺社に守られていない野仏は消えてしまいがちである。

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練馬区向山の路地の丁字路にポツンとあったこの小地蔵、傍の電柱に「危険スピードおとせ」の看板があるので、ここで事故って亡くなったのかと思ったが、どうもそうではないらしい。地蔵の本体や台石を見たが紀年は書かれていない。

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台石の正面には「左 子権現」と「右 中野宮」の文字がある。左子権現は円光院の子ノ権現を示しているのだろう。中野宮が意味するものは分からない。側面には施主だろうか「林金太郎」の銘、裏には「法安道知信士」という戒名が刻まれている。台石に比べて地蔵が新しいのは、もともとあった地蔵の再建かもしれない。

場所  練馬区向山4丁目8-10

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2022年2月20日 (日)

円光院の石仏⓶(練馬区貫井)

円光院門前の石仏のうち山門よりも左側にも多くの石仏がある。手前には豊嶋霊場碑(明治41年)と子ノ権現碑(文化7年)が立っているが、その後ろには庚申塔や馬頭観音がいくつもある。

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山門よりにある2基のうち右の角柱型は巡礼供養塔で以前は山門の右にあったもの。造立年は安永7年(1778)9月で「奉造立西國秩父坂東百箇処順礼供養塔」とある。左の大きな唐破風笠付角柱型は庚申塔。造立年は元禄6年(1693)10月で右側面には「奉待庚申供養二世安樂祈」とある。正面は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左面には「武刕豊嶋郡上練馬之内 貫井村結衆三十人敬白」と刻まれている。

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左へ向くと櫛型角柱型の廻国供養塔と笠付角柱型の庚申塔がある。廻国供養塔は明和7年(1770)の造立。「奉納大乗妙典六十六部日本回国供養」の銘がある。右の笠付庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、宝永元年(1704)11月の造立。右側面には「奉造立庚申供養二世安樂所 武刕上練馬之内」とあり、右側面には「田嶌村施主十二人」と書かれている。この庚申塔は以前は貫井4丁目30の東高野山道にあるマンション脇の赤い電話ボックスの所にあったもの。田嶋村は貫井にあった集落だろうか。

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その奥には駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄だが、以前は上部欠損した状態だったのが修復されていた。右の奥の手に下げているのは珍しい形のショケラだろうか。造立年は元禄5年(1692)霜月(11月)で、これも赤い電話ボックスの所にあったものを移設した。尊像右には「奉造立庚申供養二世安樂所 武刕豊嶋郡」とあり、左には「上練馬内田嶋村」とある。隣りの角柱は大正14年(1925)1月造立の馬頭観世音で、側面には加藤作兵衛の願主名がある。奥野角柱型は廻国供養塔で享保11年(1726)造立。願主は長州豊浦郡浮石村行者古沢平右衛門とある。私の故郷に近い。

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道路側に回ると右端は石幢六面七観音像。文化8年(1811)10月の造立で、如意輪観音像の光背部分には光明真言供養塔とある。その下の竿部が六面の観音種子になっている。台石には旧来我等の祖先が使用し来る字田島の686の墓を円光院墓地へ移すという旨のことが記されている。台石の紀年は昭和5年春とあるので、墓の移動はそのときだろう。左の丸彫地蔵菩薩は頭光あり、しかし紀年は不明。

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その左隣の地蔵菩薩も同じく造立年不詳だが、その左の3基の角柱型の馬頭観世音には紀年が記されている。右の大きい馬頭観音が大正12年(1923)12月、中央が昭和14年(1939)、左端が昭和2年(1927)で本橋金四郎の願主名がある。

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山門内には石仏は少ないが手水鉢が文化5年(1808)のものを今も使用している。背面に「地内商人・上下練馬・蕪ヶ谷戸・中村・中荒井各講中」とある。

場所  練馬区貫井5丁目7-3

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2022年2月19日 (土)

円光院の石仏①(練馬区貫井)

円光院は南池山円光院貫井寺が正式名。真言宗の寺院で、天正13年(1585)に没した円長法師による建立とされる。昔は寺の南側に大きな池があったので南池山、地名から貫井寺となった。現在は寺の東側に貫井川緑道が残されているが、この流域は昔は田んぼで低地であったから池があっても不思議ではない。

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赤い山門の横にずらりと石仏が並んでいて壮観である。以前訪問した時とは若干並びが変わっていた。一番右端から見ていきたい。まずは大きな馬頭観世音菩薩。角柱型で造立年は明治34年(1901)11月。背面に書かれているのは「当山にて2月に牛馬参詣の護摩行が行われている。その牛馬への報恩に建立した」旨が書かれている。

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クロマツを挟んで左に並んでいるのが二石で造られた六地蔵。一石六地蔵よりも二石六地蔵の方が珍しいのではないかと思う。造立年は安永6年(1777)で講中十五人と刻まれている。

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更に山門側には六地蔵が並んでいる。すべて丸彫の地蔵菩薩像で、造立年代は享保14年(1729)~明和4年(1767)でそれぞれの大きさが微妙に異なっている。

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左端にひときわ背の高い丸彫の地蔵尊があるが、これは六地蔵ではなく単体の延命地蔵である。造立年は享保20年(1735)で台石には「奉造立地蔵尊像」とあり「願主常念」とある。上練馬之内貫井村の銘があり、とてもやさしい顔をしている。

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山門を挟んで左側には背の高い角柱型の石塔があり、「子ノ聖観世音」と刻まれている。側面には文化7年(1810)小春とあるので11月くらいだろうか。右の低い方の石柱は明治41年(1908)に建てられた豊嶋霊場碑である。子ノ聖観世音は寺を開いた時に傍らに祠を築いて子ノ聖大権現を勧請したことに由来する。この観世音は牛馬の観音としても人気で、この石塔は信者の商人たちの講中が奉納したものらしい。

門前にはこれら以外にも多くの石仏があるがそれは次に紹介したい。

場所  練馬区貫井5丁目7-3

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2022年2月18日 (金)

貫井の東高野山道道標(練馬区貫井)

目白通りの練馬二小前交差点に今も残されている貫井の東高野山道道標。明治時代までの小字はこの交差点を境に北が北貫井、南が本貫井であった。このあたりが貫井村の中心だったということだろう。現在は片側2車線の目白通りが南北を分断しているが、明治以前は円通院の門前に広がる集落で、この道を北へ進むと石神井川を渡る橋のたもとには水車があったようだ。

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道標の脇に説明板がある。「旧清戸道(所沢秩父道)から東高野山長命寺方面へと向かう旧道の分岐点に建立された道標二基」とあり、角柱型と自然石型の道標が残されている。左の角柱型の道標は寛政11年(1799)3月に再建されたもので、正面に「左 東高野山道」と彫られている。再建ということは先代の道標がここにあったということである。

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右側の大きな道標は同じく寛政11年(1799)4月に貫井村の関口藤助延義という人物が中心になり、都鄙講中(とひこうじゅう)により建立されたもの。なんでも講中になった江戸時代の庶民文化は興味深い。左側面には「左 高野山十八丁」、右側面には「右 所さハちゝぶ道」と刻まれている。

場所  練馬区貫井5丁目17-24

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2022年2月17日 (木)

地蔵堂北真教会の石仏(練馬区貫井)

目白通りから少しだけ北へ路地を入ったところにある地蔵堂北真教会。真言宗円光院の境外仏堂で、江戸時代からあった地蔵堂に戦後建てられたのが北真教会である。小さな門をくぐると左右に石仏が並んでいるが、左側は概ね北真教会が出来て以降のものようだ。

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門をくぐって右に6基の地蔵菩薩が並んでいる。六地蔵の意味合いがあるのかと思ったら、どうもそうではなさそうである。一番右は舟型光背型の小さな地蔵菩薩で、造立は延享3年(1746)1月。戒名があるので墓石だが、貫井村施主市平の銘がある。二番目は丸彫の地蔵で、造立年は文政2年(1819)1月。台石側面に「施主 遠州屋常四郎、同栄次郎、當村本橋吉蔵」の銘がある。

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以降もすべて丸彫の地蔵菩薩。三番目は享保19年(1734)5月の造立で並びの中では最も古いもの。「貫井村 施主妙栄」の銘がある。四番目は寛政3年(1791)10月、五番目は宝暦8年(1758)2月で貫井村の銘、左端は文化7年(1810)5月の造立で施主「本橋市良左エ門」の銘がある。これらは江戸時代からここに在った境外墓所の墓石だったものだと思われる。

場所  練馬区貫井5丁目22-5

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2022年2月16日 (水)

須賀神社の庚申塔(練馬区貫井)

東高野山道にはいくつもの石仏があって興味深い。目白通りに近づいた分岐点に赤い鳥居の須賀神社があるが、須賀神社の文字はどこにもない。三角地の小さな神社で、小さな祠がある。練馬区の神社の資料にもリストアップされていないので、郷の小さな祠扱いだろうか。

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鳥居の右側が東高野山道である。右へ進むと、須賀神社の境内の端に三角のスペースがあり、笠付角柱型の庚申塔が立っている。堂宇はない。造立年は元禄15年(1702)11月である。

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日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で左手に何か持っているがショケラではなさそう。右脇には「奉造立庚申像二世安樂祈所」「武刕豊嶋郡上練馬内貫井村」、左脇には「願主十二人謹言」とある。

場所  練馬区貫井4丁目40-3

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2022年2月15日 (火)

分れ道の庚申と地蔵(練馬区貫井)

東高野山道をさらに東へ進む。東高野山長命寺を目指す参詣者は反対向きのコースを行くのだが、私は西から来たので致し方ない。ゆるやかなカーブの先で南からの道が合流する分岐点に2基の地蔵菩薩と1基の庚申塔が祀られている。南の道も古い道で、千川上水を越えて下井草へ向かう道。

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この辺りの昔の地名は西貫井。この北には石神井川の低地があり水田が広がっていた。明治時代までは東高野道のこの辺りから石神井川の低地を見下ろすことが出来たと思われる。一番右は背の低い角柱で正面に地蔵菩薩が彫ってあるが、下半身は地埋まっているのか元々ないのか分からない。造立は明治30年(1897)5月で、「施主 米元新」また右面には「神田 世話人」とあるがこれが何の意味かは不明。

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中央の地蔵は丸彫の立像。紀年などは何も記されていない。左の庚申塔は角柱型で、日月は摩滅が酷くて有無が分からない。青面金剛の下には邪鬼と三猿が痕跡を残している。左側面には、寛政10年(1798)4月の造立年。「武刕豊嶋郡上練馬貫井村 庚申講中十八人 願主 篠惣五郎」とある。一方の右面には、「此より 右 東こうや道」とあり、長命寺への参詣道になっていた。

場所  練馬区貫井4丁目23-14

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2022年2月14日 (月)

南光院地蔵(練馬区富士見台)

東高野山道は複数あるが、谷原の庚申塔から馬頭観音を経て東に東高野山道を進むと南光院地蔵がある。立派なクロマツのある一角に地蔵堂の境内があり、堂宇の中には地蔵が2基祀られている。この東側のブロックはなんこう保育園、北側ブロックはなんこう幼稚園だが、南光院という寺院はない。

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いつ頃まであったのかは分からないが、資料によるとここには長命寺末寺の南光院があったらしい。大きな幼稚園と保育園が残っていて南光の名前を冠しているのにも由来がありそうだ。いつの時代かに廃寺になってしまったようだが、明治時代初期の地図にもないのでそれ以前だろう。

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右の舟型地蔵尊は貞享5年(1688)2月の造立。「武刕谷原村 同行27人」の銘がある。左の丸彫地蔵尊の造立年は不詳。基壇には「武刕豊嶋郡谷原村 為二世安樂 願主70人」とあり、脇には「右ハ 田中」「左ハ 石神井」とあるようなので、道標も兼ねていたのだろうか。堂宇の建替えが平成20年(2008)に行われており、奉納者名は大沢家、大野家、田中家である。丸彫地蔵の基壇側面には大沢某の名前が刻まれていた。

場所  練馬区富士見台4丁目5-14

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2022年2月13日 (日)

富士見台の馬頭観音(練馬区富士見台)

谷原の庚申塔からいったん北へ進みすぐに東に進路を取る。この辺りは旧小字を堀北という。三宝寺池の湧水と石神井川が合流して東流していたのが北流に流路を変えた台地上で、古代から豊かな土地だった。周辺は遺跡地帯で「堀北遺跡」という縄文時代~古墳時代の遺跡が埋蔵されている。地元では谷原の庚申塔からこの場所を東西に行く道を東高野道と呼ぶらしい。

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この東高野道の一画田中家(佐々木家)の塀の一部に堂宇が造られており、その中に立派な馬頭観世音菩薩が祀られている。舟型の馬頭観音は頭部に馬頭を抱き、尊像脇には「左 東高野山道」とある。側面には紀年が刻まれており造立年は天明6年(1786)5月である。左側面には講中宇25人の文字があるが、馬頭観音でこれだけの人数は珍しい。

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東高野道というのは、長命寺への道のことで長命寺の山号が東高野山ということに由来する。江戸時代は東の高野山として関東一帯から信者を集める人気の霊場だった。平成初期の練馬区の資料の写真からは塀が新しくなっていたが、堂宇の位置や面積などはまったく変わっていない。東高野道の道標でもあったのだろう。

場所  練馬区富士見台4丁目30-20

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2022年2月12日 (土)

谷原の庚申塔(練馬区富士見台)

西武池袋線の練馬高野台駅を回り込むように石神井川が南から北へ向きを変えて流れている。この辺りから北に向かって石神井川河畔の低地が広がり戦前までは水田が広がる農村地帯であった。西にある古刹長命寺から下ってきた道が富士見橋で石神井川を渡り東側の河岸段丘に上り詰めた丁字路に庚申塔がある。

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南向かいは擁壁の上が富士見台稲荷神社で須賀神社・御嶽神社が境内の末社。石神井川から上ってくるこの道は東高野山道という古道。庚申塔は立派な擬宝珠を維持した笠付角柱型の庚申塔で、造立年は宝永6年(1709)10月。この庚申塔が珍しいのは、正面には青面金剛像、右面には地蔵菩薩像、左面には阿弥陀如来像がそれぞれ陽刻されていることである。

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正面は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、「奉造立青面金剛現當二世祈所 願主 観照院」とあり、「武刕豊嶋郡谷原村 庚申講結衆22人」とも刻まれている。観照院というのはかつて長命寺の塔頭の一寺であった寺だが廃寺になってしまったという。この庚申塔の一画は坂口商店というタバコ屋さんのようだが、既に営業していなかった。末永く守られるよう祈りたい。

場所  練馬区富士見台4丁目36-1

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2022年2月11日 (金)

子育地蔵堂の庚申塔(墨田区東向島)

墨堤通りにある子育地蔵堂は2020年~2021年にかけて修復工事中。 堂宇の中の地蔵菩薩の尊顔はまだ拝んでいない。この地蔵菩薩、文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたもの。最初は村の子どもたちが御輿代わりにこの地蔵を担いでいたという。

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地蔵伝承としては、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件が発生。犯人は分からず、しかしこの地蔵が村の子どもの口を借りて犯人の名を告げた。そこで平作はこの地に地蔵を安置して供養するようになった。その後将軍徳川家斉が鷹狩りでこの地を訪れ、平作宅で休憩をした折にその由来を聞き、ここに御堂を建てた。するとご利益があるとたいそうな人気になったという。地蔵尊拝顔は宿題にするが、境内には沢山の石仏が集められている。

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墨堤通り側にあるのは笠付角柱型の庚申塔。正面に四行の文章が刻まれ「一徽善根‥‥以其十ケ年庚申奉待事乃依之五智‥‥一切衆生供二世成一時願也施主 敬白」と刻まれ側面に寛文3年(1663)7月の紀年がある。その近くには正面に大きく庚申塔と刻まれた自然石の庚申塔がある。こちらは万延元年(1860)7月の造立。「御手洗藤原正邦▢」の文字も見える。

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地蔵堂手前には駒型の庚申塔が3基並んでいる。右は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で三猿は台石にあるがほとんど土中に埋まっている。邪鬼は摩滅して輪郭が残るのみである。造立は元禄11年(1686)2月。中央の駒型庚申塔は日月、青面金剛像、三猿の図柄。三猿は摩滅して薄くなっている。造立は元禄7年(1694)1月。左の水道脇の駒型庚申塔は日月と青面金剛像しか確認できない。造立年は元禄3年(1690)2月である。

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銀杏の木の根元にある舟型の聖観音像も実は庚申塔で、左肩の脇に「奉供養庚申」と刻まれている。造立年は貞享3年(1686)3月で、「了心禅定門」という文字がある。禅定門は男子の戒名だがなぜ反対の肩に奉供養庚申とあるのかが気になる。

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その脇には角柱型の馬頭観世音菩薩があるが馬頭観世音以外の文字は分からない。この地蔵堂の前の道は墨堤の工事で土盛りされた明治44年(1911)以降地蔵坂と呼ばれた道だが、高低差と勾配は殆どない。その為私の坂道シリーズには含めていない。下町の低地の人々が墨堤の坂も坂名を付けて場所を認識したのは江戸の名残りのひとつだろう。

場所  墨田区東向島3丁目2-1

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2022年2月10日 (木)

白鬚神社の石仏(墨田区東向島)

墨堤通りは文字通り隅田川の堤を走る道路である。白鬚神社は墨堤通りの旧道に接している神社で、この辺りは江戸時代から墨堤が東に凹んでいた場所。地形としてきっちり残っているのが面白い。江戸時代も中期になると8代吉宗の頃に次々とこの堤に桜が植えられて花見の名所になっていった。

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境内の高さは墨堤とほぼ同じだが、下の道から行くと階段を上って境内入る形になる。白鬚神社の由緒は創建が天暦5年(951)と区内でも最古の部類で、慈恵大師が関東に下った際に近江国の白鬚大明神を勧請して祀ったと言われている。主祭神は猿田彦大神である。

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対の狛犬がうろこのような模様で珍しいが、この狛犬は山谷の料亭八百善(八百屋善四郎)と吉原の松葉屋半左衛門という氏子が文化12年(1815)に奉納したとされている。この狛犬は墨田区の登録文化財に指定されている。

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本殿向かって右手にはこじんまりとした富士塚がある。ただ富士塚としてはカウントされていないようで、こういう小さな富士塚は結構あちこちにある。ここの富士塚は山王向島講社という富士講で、明治初期から盛んになり、この富士塚は大正11年(1922)に築山された。小さな富士塚ではあるが江戸の下町の息吹が感じられる。

場所  墨田区東向島3丁目5-2

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2022年2月 9日 (水)

法泉寺の石仏(墨田区東向島)

明治通り(環状六号線)は白髭橋で隅田川を越える。墨堤通りを白髭橋東詰で過ぎると右に寺院があるが、明治通りから直接入ることはできず、路地に入ってから山門をくぐる。明らかに法泉寺が最初からあって明治通りが後から出来たことが明解である。

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山門の向こうに見える高層ビルはリバーサイド隅田。墨田と隅田の違いが気になった。もともと隅田川という川名は1965年以降の名称。江戸時代は大川、その後荒川などと呼ばれた。終戦後当用漢字が設定された時に「隅」の字はなかったというのも驚き。どうもこの当用漢字の指定が墨田と隅田の混在に一因しているらしい。政府は教育に関する失策を繰り返している感が否めない。当用漢字もそうだしゆとり教育もそうだし、現在に至ってもあちこちに現場現実を理解していないことが多いと痛感する。

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宝泉寺の創建は区内でも最も古く、葛西三郎清重が両親の供養のために創建とあるが、この人物は平安末期から鎌倉初期の人。頼朝に仕えていたので今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」に出てくるかもしれない。本堂脇にあるこの舟型地蔵菩薩は寛文2年(1662)2月の造立で、光背部分には上部に回向分、脇には多数の願主名が刻まれている。

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墓所入口に回り込むと丸彫の地蔵菩薩坐像がある。こちらは元禄6年(1693)6月の造立。周辺には江戸期の個人墓の墓石が多数残されており圧巻である。法泉寺の周辺は江戸時代は寺島村で、現在の墨田区墨田から曳舟辺りの地域である。

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明治通り側にある塀のあたりに行くと3基の庚申塔が並んでいる。左は上部が欠損して尊顔が穴になってしまっているが、地蔵菩薩立像の舟型光背型の庚申塔。造立年は寛文6年(1666)8月。欠損部分に日月、三猿脇に陰刻の二鶏がある。脇には「奉造立地蔵尊為二世安樂也」と書かれている。中央も舟型の上部が欠損しているが阿弥陀如来像の庚申塔。造立年は寛文11年(1671)9月。「奉待庚申供養衆」の文字がある。右は笠欠の角柱型庚申塔。主尊は阿弥陀如来坐像。造立年は延宝8年(1680)11月で、中央には「奉供養庚申二世安樂」の文字。台石には三猿が彫られている。

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庚申塔の近くには珍しい宇賀神弁財天の祠がある。造立は延宝9年(1682)6月。宇賀神は弁天と同神とされ、この神は人頭蛇身で顔は老人とされているが、この弁天像は頭上の鳥居の中にその人頭蛇身の宇賀神がいる。建立したのは寺島村の23名の女性と言われている。

場所  墨田区東向島3丁目8-1

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2022年2月 8日 (火)

下乃稲荷神社の庚申塔(墨田区墨田)

首塚地蔵尊のある正福寺前から南に向かって鎌倉街道を行く。この鎌倉街道沿いには西井堀という用水路が流れていたが、この少し西が墨堤と呼ばれるかつての隅田川の川岸だった。江戸時代は大川と呼ばれていた隅田川も度々氾濫し、この辺りはその時にできる池が沢山あった。

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200mほど行くと右手に小さな社の稲荷神社がある。下乃稲荷神社というのは江戸時代にはこの辺りには稲荷神社が2社あり、そのうちの下(の)稲荷神社という名前である。境内は相対的に広いが、稲荷神社の社の脇に2基の庚申塔が祀られている。

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右の笠付角柱型庚申塔は正面中央に「奉納庚申供養」とありその下に三猿が陰刻されている。造立年は享保7年(1722)9月。下隅田講中の銘がある。この笠が最初からのものかのちに変わったものかはわからないが、いささかバランスに欠ける気がした。左の笠付角柱型の庚申塔は享保9年(1724)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。右側面には「奉供養庚申」とあり、「下須田村講中」と記されているが、江戸時代の切絵図には隅田川河畔に須田村の文字がある。木母寺の南側で現在の東白髭公園の一帯で、江戸時代は堤外であった場所。調べてみると元禄時代は須田村という記述が多く、天保年間になると墨田村となっているらしい。その他には「住田」「州田」「角田」という記述の古文書古地図もあるようだ。

場所  墨田区墨田2丁目3-8

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2022年2月 7日 (月)

首塚地蔵尊(墨田区墨田)

正福寺の門前に首塚地蔵尊がある。管理は当然ながら正福寺が行っている。首塚というとどうしても大手町の将門の首塚を想起してしまうが、ここの首塚ははるかに庶民的である。

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中央には自然石のような光背を持つ地蔵尊があり、その後ろに沢山の石仏が並んでいる。説明碑によると「天保4年(1833)洪水の危険を防ぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。関係者は正福寺の16世住職に相談し、ここに合葬、碑を建てて首塚と呼んだと伝えられる」とある。地蔵はその時に建立されたものらしい。

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それ以来この首塚地蔵尊は首から上の病に御利益があると信じられ信奉されてきた。地蔵尊の後背の上部が欠損しているのは戦災によるものだろうか。都心部の石仏は第二次大戦の戦災で破壊されたり破損したものが極めて多い。明治初期の廃仏毀釈と戦災をくぐりぬけてきた石仏のみが今残っているのである。

場所  墨田区墨田2丁目6-20

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2022年2月 6日 (日)

正福寺の石仏(墨田区墨田)

正福寺は真言宗の寺院で慶長7年(1602)の創建。歴代住職のなかで江戸時代にいた伝雅和尚という人は無類の猫好きで数十匹の猫を飼っていたと伝えられるが、現在の境内に猫は見られなかった。当時は「ねこ寺」と呼ばれていたという。

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本堂の背後に養生シートの掛かった建物があるが都立白髭アパート・マンションが1㎞以上まるで堤防のように連なっている一部。江戸時代そこにあったのは広大な木母寺という寺院である。梅若伝説に因む寺院だが明治の廃仏毀釈で移転を余儀なくされ、隅田川河畔にわずかな境内で今に至っている。

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山門をくぐって間もなく右手に古い手水鉢がある。手前に三猿が陰刻されており明らかに庚申講中によるもの。造立年は寛文7年(1667)4月。「奉造立庚申供養二世安樂所」とあり、願主名が地名と共に多数刻まれている。この手水鉢は墨田区内でも最古のものだという。

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そのすぐ近くにあったのは舟型光背型の阿弥陀菩薩像。樹木の影が邪魔して見づらい写真しか撮れなかった。かなり大きなもので、造立年は万治4年(1661)とある。舟型部分には偈文(げもん)がびっしりと彫りこまれている。

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次に会ったのは分厚い板碑でかなり大きなもの。墨田区内の板碑で最も古いものだという。造立年は宝治2年(1248)3月で都内最古。鎌倉幕府の最盛期で北条執権政治、平家物語が書かれた時代である。越前に永平寺が創建されて間もない頃で、この四半世紀後に元寇が起こるという古い時代のもの。その脇には紀年不明の上部が折れた板碑もあるが、この大きな板碑は近くの御前栽畑(ごぜんさいばたけ)から江戸時代に発掘されたものとされている。

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本堂の左手に進むと無縁仏塔がある。その中に庚申地蔵が1基、舟型光背型で上部は欠損している。下部には三猿があるようだが、他の石碑が詰まっていて確認できない。尊像の顔の右に「▢主庚申供養二世安枠所」の文字が読め、左側に寛文10年(1670)8月の紀年が読める。

場所  墨田区墨田2丁目6-20

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2022年2月 5日 (土)

円徳寺の庚申塔(墨田区墨田)

円徳寺は東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅の北西にある曹洞宗の寺院。慶長18年(1613)の開山。江戸時代は墨田村だった地域である。江戸時代の切絵図にもたくさんの池が描かれているが、大正時代の地図を見ても沢山の池がある。それが昭和に入るとほとんどなくなっている。荒川が開削される以前は隅田川が大きく湾曲していた地域なので、度重なる氾濫によって池が多数出来たのだろうか。

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円徳寺の境内に入ると、まず参道脇に宝篋印塔がある。基壇に安政4年(1857)仲夏に再興とある。塔身部分の裏側を見ると文化8年(1811)2月の紀年がある。文化8年は第8世住職が願主で、安政4年は第14世。50年足らずの間に6代も変わったのかとつまらぬ関心を持った。

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円徳寺の主役ともいえるのがこの阿弥陀如来像の庚申塔である。舟型光背型で台石に三猿が陽刻されている。造立年は寛文12年(1672)11月と古く、尊像脇には「奉造立庚申待供養現當二世安樂所 敬白」と刻まれているほか、その下には27人の願主名が書かれていた。とても素晴らしい庚申阿弥陀蔵である。

場所  墨田区墨田5丁目42-17

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2022年2月 4日 (金)

多聞寺の石仏(墨田区墨田)

墨田区墨田にある真言宗多聞寺の創建年代は不詳だが、天徳年間(957~960)には存在したという記録がある。当時は隅田寺という名前だったらしい。当時の隅田川の流れがどうだったのか分からないが、明治時代あたりが墨田村だったころはまだ荒川はなく、墨堤通り沿いに鎌倉街道が通っていて、墨田村から堀切村を経て葛飾村に延びていた。

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本堂の手前に茅葺屋根の山門がある。都内では珍しい。墨田区の指定文化財になっており、寺伝では慶安2年(1649)に建立されたのち、享保3年(1718)に焼失。その後数十年の間に再建されたらしい。少なくとも200年以上は経っている貴重なものである。また多聞寺の裏手にはかつて渋沢栄一の起業の流れを汲む鐘ヶ淵紡績会社の工場があった。昭和時代に誰もが知っていたカネボウである。

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本堂手前には六地蔵座像がある。すべて座像というのは極めて珍しい。これらは7年ほどの間に墨田村の地蔵講中が建立したものである。右から、正徳3年(1713)2月、正徳4年(1714)8月、正徳3年(1713)8月、左半部は中央から、正徳2年(1712)2月、享保元年(1716)9月、享保3年(1718)10月の造立。これほどのクオリティで短期間に造立したということは財力があったのだろう。

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山門の方に戻ると庚申塔が多数並んでいる。一番本堂側(向かって左)は櫛型角柱型の庚申塔で、元禄15年(1701)7月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻され、青面金剛は二童子を従えて左手にショケラを持っている。その右にあるのは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は残念だが読み取れなかった。「奉願修庚申辰待連主諸願成就」「現世安穏」の文字と「九月」の文字は読めるが、年の部分が欠けている。

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その横には板碑型の庚申塔。三猿が大きく陽刻されている珍しいもの。上部には日月があり、造立年は延宝8年(1680)11月。「下谷」「奉庚申待」「御植木町」の文字がある。その右の角柱型の庚申塔は下部に三猿が陽刻されているのみで、その上には元禄10年(1697)2月の紀年と「奉造立庚申供養搆中偽安楽所」の文字がある。

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その横には小さな祠があり、そして舟型光背型の聖観音像。造立年は明和8年(1771)9月で、「奉供養観音講▢▢▢」とある。台石の文字もかなり摩滅が進んで読み取りにくい。右の舟型地蔵菩薩立像は台石に三猿が描かれていることから庚申塔であることがわかる。「奉造立地蔵尊庚申供養二世祈所」とあり、延宝8年(1680)9月の造立である。

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その先には堂宇があり左は新しい子育地蔵だが、右は上部が欠損しているものの貫禄のある舟型光背型の阿弥陀菩薩像。造立年は寛文4年(1664)9月と最も古いもの。これだけの名佛が集められているのは大したものだと思う。

場所  墨田区墨田5丁目31-13

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2022年2月 3日 (木)

清水民間信仰石塔(杉並区清水)

荻窪駅の北1.2㎞程、妙正寺川の源流である妙正寺公園の池に注いでいた細流の流れていたあたりに堂宇があり、2基の石塔が祀られている。妙正寺池が妙正寺川の源頭のようだが、地形は桃井の北部を西から東へ細流があったことを示している。本当の源頭は桃井原っぱ公園辺りではないだろうか。

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石塔の北側が水路跡になっており、妙正寺池から流れ出たばかりの妙正寺川に注いでいる。ここにあるのは庚申塔と巡礼供養塔だが、ここの古い地名を付けて沓掛の庚申塔とも呼ばれている。妙正寺の南側一帯が昭和の中頃まで沓掛と呼ばれていたエリアである。今の地名は清水だが、それはこの辺りに湧水が多かったことに由来する。ここの二基はもともとここから北西100mほどのNTTの北西角にあったものを昭和の初め頃の区画整理でここに移したようだ。

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右の笠付角柱型庚申塔は寛永5年(1708)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されているが、青面金剛が左手に持っているのはショケラかもしれない。側面には、「奉造立帝釈天王講中 井草村」「現當二世大願成就」の文字があり、9名ほどの願主名がある。左の角柱の文字塔には「奉供養 西國秩父坂東 卅四ヶ所為二世安樂也」とあり、「武州多磨郡井草村」の銘がある。造立年は安永10年(1781)3月と刻まれている。

場所  杉並区清水2丁目15-7

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2022年2月 2日 (水)

鹿浜虫切りの石仏(足立区鹿浜)

環状七号線の鹿浜橋の近くに実はけっこう有名な鹿浜虫切りという鍼灸院がある。足立区教育委員会の説明板によると、小宮家は、夜中に子供が急に泣き出したりする疳の虫(かんのむし)を抑える「鹿浜虫切り」として古くから知られている、とある。TVでも鹿浜が出るとたまに紹介される。古代から続くもので、夜泣き、ひきつけ、オネショ、チック症、小児喘息などに効くと言われている。

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門前の堂宇には2基の石仏が祀られている。このほかに小宮家には南北朝時代の板碑が2基保管されているそうだが表には出されてはいない。堂宇の中にある2基の石仏は庚申塔と六地蔵塔である。

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左の六地蔵塔は享保5年(1720)2月の造立。舟型光背型の面に六地蔵が陽刻されている。また「武州足立郡渕江領鹿浜村糀谷」の銘があり、糀屋ズシの講中によるものらしい。右の駒型の庚申塔の造立年は享保17年(1732)。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、尊像脇には「武州足立郡渕江領鹿浜村」「奉庚申供養」と書かれている。

場所  足立区鹿浜1丁目5-21

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2022年2月 1日 (火)

糀屋氷川神社の庚申塔(足立区鹿浜)

糀屋は足立区の最西端にある。大田区にも糀谷があるが屋の字が違うと思っていたら、昔は足立区の糀屋も糀谷と書いたらしい。江戸時代の小名は糀谷だが、明治大正時代の地図には糀屋とある。いつ頃変わったのかはわからない。

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糀屋氷川神社の創建年代は不明だが、江戸時代は小名糀谷の鎮守だったという。古内天祖神社の所でも書いた鹿浜の獅子舞は糀屋氷川神社が起源らしい。訪問時は境内の銀杏の葉っぱがまるで絨毯のように敷き詰められていて、銀杏を踏まないか不安になった。この銀杏の木のそばに一基の庚申塔がある。

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駒型の庚申塔で、文字の面の下に三猿が陽刻されている。上部には日月があり、その下には「奉供養庚申待現當安樂 結衆 敬白」と書かれている。造立年は元禄7年(1694)9月。脇には「武州下足立小泉  渕江之内鹿浜村」とある。

場所  足立区鹿浜2丁目18-20

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